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「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。

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日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。

2. パラリンピックの第一歩『先駆者の壮大な夢、いまここに』

【パラリンピックの歴史を知る】

2017.02.10

リオデジャネイロパラリンピックの感動と興奮は、まだそこかしこに余韻を残している。2016年9月のリオ大会には159カ国・地域と難民選手団の4316人が参加し、22競技、528種目で熱戦が繰り広げられた。障害者スポーツを大きく発展させる原動力となり、いまやその迫力で多くの人々を引きつける存在ともなりつつあるパラリンピック。この盛況を見るにつけ、あらためて思わずにはいられないのは、およそ70年前に印された第一歩のこと、そして未踏のフィールドに種をまいた一人の人物のことだ。

1948年7月29日、英国ロンドン郊外にあるストークマンデビル病院の一角で、その競技会はひっそりと行われた。16人の車いす選手が参加してアーチェリーをやったのである。この第1回ストークマンデビル競技大会が原点となって、のちのパラリンピックへと発展していく。わずか16人の参加ではあったが、これが発展へと続く道の扉を押し開いたのだ。

競技会を企画し、開催を実現させたのがルードウィヒ・グットマン博士であるのはよく知られている。1899年にドイツで生まれたユダヤ人で、神経外科医となって対麻痺ついまひ両下肢麻痺りょうかしまひ)の治療、研究にあたっていたが、ナチスの台頭で英国に逃れた。第二次大戦の戦闘による多くの戦傷者のため、ストークマンデビル病院に脊髄損傷せきずいそんしょうセンターが開設され、その長を任されたのが1944年。そこで、脊髄損傷患者に対してさまざまな面から包括的に治療を行って目覚ましい成果を挙げるうち、きわめて有効な方法のひとつとして着目したのがスポーツだった。

「パラリンピックの父」とよばれるルードウィヒ・グットマン博士

「パラリンピックの父」とよばれるルードウィヒ・グットマン博士

スポーツと医療の結びつきは古くからあったようだ。紀元前にそうしたことが行われていた記録も残っているという。ことに19世紀に入ると、ヨーロッパでは医療体操の研究などが盛んに行われ、治療や訓練に活用する動きが進んでいったとされる。一方、治療目的だけでなく、障害のある人々が積極的にスポーツを実践するようにもなり、障害者のスポーツクラブや競技団体も誕生していった。そうした流れの中、戦争という不幸な歴史をも背景として、一人の医師による画期的な試みが産声を上げたのである。

少しでも機能を回復させるため、また失ったものではなく残った機能をできる限り生かすために、スポーツがもたらす効果は非常に大きい。そう確信したグットマン博士はパンチボール、ロープクライミングをはじめ、車いすのポロやアーチェリー、卓球などのスポーツを治療や訓練に積極的に取り入れ、車いす生活となった患者たちの社会復帰を進めていった。その一環として競技会開催を思い立ち、1948年夏の記念すべき第1回が実現したのだ。なんともささやかな第一歩、だがグットマン博士はその将来をしっかり見据えていたと思われる。

1948年は長い戦争の時代をはさんで12年ぶりにオリンピックが復活し、戦後初のロンドン大会が開かれた年。7月29日は、その開会式当日だった。さほど遠くないロンドンのスタジアムの様子をグットマン博士は思い浮かべていたことだろう。自ら構想した競技会はまだ始まったばかり。だが、ここから障害者のスポーツを大きく羽ばたかせていきたい。この小さな競技会も、将来は、いま同時に開かれたオリンピックのように大きな存在へと育ってほしい。先駆者はそんな壮大な夢を抱きつつ、この日程を決めたのではないか。

何より大きかったのは、このストークマンデビル競技大会を毎年続けたことだろう。第1回は16人だった参加者は60人、110人と少しずつ増えていき、種目も広がった。5回目となった1952年はオランダ選手が参加して、ここから国際ストークマンデビル競技大会となった。年を追うごとに、さらに多くの国から選手が集まるようになり、大会は次のステップへと進むことになる。

初めて英国以外で開かれたのは1960年。このローマ大会は、同地で行われた第17回夏季オリンピックが閉幕して6日後に開かれ、23の国から400人が参加。アーチェリー、陸上、ダーチェリー(アーチェリーとダーツの的を組み合わせたような競技)、スヌーカー(ビリヤードに似た競技)、水泳、卓球、車いすフェンシング、車いすバスケットボールの8競技、57種目が8日間にわたって実施された。これが、国際パラリンピック委員会(IPC)が設立されてのち、第1回パラリンピックとして認定された大会だ。

こうした流れを力として、欧州を中心に障害者スポーツ振興の気運はさらに高まっていく。各国関係者が集まって国際身体障害者スポーツ協会が設立され、脊髄損傷による車いす選手だけでなく、切断などその他の選手たちも含んだ大会も開かれるようになった。1963年にはオーストリア・リンツで第1回国際身体障害者スポーツ大会が開催され、日本を含む14カ国が参加している。まだまだ地域も限られ、規模も小さい段階ではあったが、こうして、着実な歩みが重ねられていったというわけだ。

ストークマンデビル大会はその中心として続いていき、4年に一度、すなわちオリンピックの年にはその開催国で開かれるようになった(1968年のイスラエル、1980年のオランダは例外)。ローマに続いて、それがのちにパラリンピック大会として認定されることになる。しだいに規模を広げていった大会が、また新たな形へと進化したのは1976年のトロント。それまで脊髄損傷だけだった参加に切断と視覚障害が加わったのだ。1980年のオランダ・アーネムでは脳性マヒも入って、すべての障害者のための大会へと発展していく。

そしてIPCが設立(1989年)され、パラリンピックが正式名称となり、IOCとの協力関係も確立し、オリンピック開催都市で引き続き開かれることとなって、パラリンピックは現在の形に至った。16人でひっそり始まった大会が、世界中の国から4000人以上が集まるスポーツの祭典に成長した。ロンドンオリンピックの開幕に合わせて大会を開いた先駆者の壮大な夢は、まさしく現実のものとなったのである。

1960年第1回パラリンピック競技大会ローマ大会(第9回国際ストークマンデビル競技大会)の頃に使用されていたエンブレム

1960年第1回パラリンピック競技大会ローマ大会(第9回国際ストークマンデビル競技大会)の頃に使用されていたエンブレム

ところで、パラリンピックという言葉がいつ、どんな形で誕生したのかは、あまり明確になっていないようだ。対麻痺者を意味するParaplegia(パラプレジア)とオリンピックが合わさってつくられており、1964年東京大会の報告書には「日本ではじめてうち出された愛称」とあるが、詳細は記されていない。いずれにしろ、これは実に素晴らしい命名だった。のちに、パラはParallel(パラレル/平行する、もうひとつの)という意味づけがなされたが、この語呂のよい言葉がなければ、障害者スポーツの祭典がこれほど一般に親しまれることはなかったろう。最初に思いついた人物は、障害者スポーツのみならず世界のスポーツ界にきわめて大きな貢献をしたというわけだ。

グットマン博士は1980年、80歳で死去した。パラリンピックを思いつき、実行に移し、大きく育て上げたこの人物は、まさしく「パラリンピックの父」だった。

「障害者にとって、スポーツは最も自然な治療訓練であり、また在来の療法を補足して、より以上の効果をあげ得るものである」
「スポーツの目的は、障害者とそのまわりの人々とを結びつけることである。つまり、障害者を社会に再融和または融和させることである」
「(脊髄損傷者のスポーツ活動は)最も深刻な障害のひとつを、人間の心と精神の力が克服できるということを事実として証明したものであり、また人体のはかり知れない再適合の力を示したものである」

著書に残る言葉の数々は、先駆者の強い思いを鮮烈に伝えており、かつ、それがいまも古びていないことをも示している。「失われたものを数えるな。残っているものを最大限に生かせ」という励ましは、いまもすべての障害者の胸にたたまれている。

(参考文献)

  • 「身体障害者スポーツ」 中村裕、佐々木忠重 南江堂 1964年
  • 「身体障害者とスポーツ」 中川一彦 日本体育社 1976年
  • 「太陽の仲間たちよ」 中村裕 講談社 1975年
  • 「パラリンピックへの招待 挑戦するアスリートたち」 中村太郎 岩波書店 2002年
  • 「中村裕伝」 中村裕伝刊行委員会 1988年
  • 「身体障害者のスポーツ」 ルードウィヒ・グットマン 市川宣恭監訳 医歯薬出版 1983年
スポーツ歴史の検証
  • 佐藤 次郎 スポーツジャーナリスト

    1950年横浜生まれ。中日新聞社に入社し、同東京本社(東京新聞)の社会部、特別報道部をへて運動部勤務。夏冬6 回のオリンピック、5 回の世界陸上選手権大会を現地取材。運動部長、編集委員兼論説委員を歴任。退社後はスポーツライター、ジャーナリストとして活動。日本オリンピック・アカデミー(JOA)正会員。ミズノ・スポーツライター賞、JRA馬事文化賞を受賞。著書に「東京五輪1964」(文春新書)「砂の王 メイセイオペラ」(新潮社)「義足ランナー 義肢装具士の奇跡の挑戦」(東京書籍)「オリンピックの輝き ここにしかない物語」(東京書籍)「1964年の東京パラリンピック」(紀伊国屋書店出版部)など。