Search
国際情報
International information

「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。

知る学ぶ
Knowledge

日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。

冬季オリンピック・パラリンピック
第121回
オリンピックとパラリンピックの垣根のない世界

倉田 秀道

 母校・早稲田大学スキー部の復活に尽力した指導者として知られる倉田秀道さん。同大学では最長となる15年間にわたって監督を務め、5年目の2007年には40年ぶりにインカレ優勝に導きました。その後も9年連続で優勝を遂げた早大スキー部は、数多くのオリンピック選手を輩出。北京2022オリンピックでは教え子9選手が出場、とりわけ、渡部暁斗選手らノルディック複合団体銅メダルの4選手は全員が倉田さんの教え子です。

 また、倉田さんは同部への入部を強く希望したパラアルペンスキーヤーの村岡桃佳選手の受け入れにも大きく携わり、同選手の躍進を支えた指導者でもあります。現在は川内優輝選手をはじめオリンピック・パラリンピック選手のマネジメント、パラスポーツの支援に注力し、持続可能なサポート事業を行っている倉田さん。あいおいニッセイ同和損保でスポーツ事業の責任者として推進しているパラスポーツ関連の事業展開などについてお話を伺いました。

聞き手/佐野慎輔 文/斎藤寿子 写真/フォート・キシモト、倉田秀道 取材日/2022年11月16日

入学当初から際立っていた渡部暁斗の“考える力”

―― 倉田さんは千葉県のご出身ですが、どのようにスキーと関わられたのでしょうか?

幼少時代は実家の近所にできた「セントラルスイミングクラブ」に通いながら、少年野球チームにも入っていました。母親の故郷である新潟県に行く機会がよくありましたので、小学生になってからはスキーも楽しんでいました。野球とスキーが楽しくて仕方なかったものですから、スイミングクラブは小学校低学年で辞めてしまいました。それこそ冬休みは新潟にずっと滞在して、スキーをやっているような子どもでした。

―― 本格的にスキーと関わられるのは、大学に入ってからになりますか?

もともとアルペンをやっていましたが、本格的にという意味では大学に入学してからといったほうが適切かもしれません。その後、ノルディックスキーに携わるようになりました。高校は早稲田実業に進学しましたが、スキー部がなかったので、ほかの部活をしながら大学生らと一緒に練習をさせてもらっていました。もちろん、当時から早稲田大学(以下、早大)に進学しようと思っていました。

倉田 秀道氏(当日のインタビュー風景)

倉田 秀道氏(当日のインタビュー風景)

―― 当時の早稲田のスキー部はどんな感じでしたか?

4年生はほとんどがナショナルチームに選考されている強い選手がそろっている、いわゆる日本代表レベルで全日本学生選手権でも優勝していました。その後、強い1年生も入学してスキー部の歴史と伝統を継承してきましたが、私が上級生になっても少数精鋭の状況は変わらず、スキー部全体として、当時はそれほど強かったわけではありませんでした。監督さんが練習に来られるのは月に一度程度、日々の練習は学生だけで行っていました。今にして思えば、学生だけでまわしていた部活動でしたので、学生の意識は高かったと思います。
当時は、東京・東伏見に、硬式野球部以外の体育各部の寮(合宿所)が集中していて、先輩・仲間とのコミュニケーションは部をまたいで広く交流がありました。

―― 大学卒業後は、大東京火災海上保険(現・あいおいニッセイ同和損害保険)に入社されましたが、スキーは続けていらっしゃったのですか?

大学卒業後は普通にサラリーマンになって大学での経験を生かしながらビジネスの世界でがんばろうと思っていましたので、スキーは大学で区切りました。社会人になってから、再びスキー部に深く携わることになるとはその時は思ってもいませんでした。

河野孝典氏

河野孝典氏

―― 入社後、10年経ってから母校の早大スキー部からコーチとして声がかかったのには、どのようなきっかけがあったのでしょうか?

在学中からスキー部の先輩方にはお世話になっていましたので、卒業後もOB会の活動に携わっていました。ある時、当時の監督さんから突然「手伝ってもらえないか」というお話をいただきました。1年ほど考える時間をいただいたのですが、平日は無理だけど土日だけならできるかなと、恩返しのつもりで引き受けることにしました。ただ「コーチで」という肩書だったのですが、そんな大それた指導はできませんので、「ちょっと見るくらいなら」ということでスタートしました。平日は毎日夜中まで仕事をして、土日はスキー部の練習を見に行く、という生活。体は疲れましたが、まだ年齢的には30代前半と若かったですし、それまで仕事しかしていないような生活を送っていたこともあり、大学に行って選手と対峙するのはとても新鮮で、今振り返るとリフレッシュになっていたように思います。

荻原健司氏(左)、次晴氏(右)

荻原健司氏(左)、次晴氏(右)

―― 早稲田のOBには河野孝典*1)、荻原健司*2)・次晴*3)兄弟もいましたが、彼らはどんな選手だったか印象はありますか?

孝典は、生真面目な性格で一生懸命に練習していたという印象があります。世界を見据えて貪欲でしたね。荻原兄弟は、今では健司と次晴の見分けがつきますが、最初見た時は見分けがつかないくらいそっくりでした(笑)。
どちらかというと、健司のほうが練習熱心だったような気がします。孝典よりは少し身体的にセンスがあったように記憶しています。健司も次晴どちらも“新人類”というにふさわしい性格で、新しい時代の到来を感じさせる選手でした。

*1)河野孝典:現・全日本スキー連盟競技本部長、元ノルディックスキー複合日本代表。オリンピックには1992年アルベールビル<フランス>、1994年リレハンメル<ノルウェー>と2大会連続で出場し、団体金メダルに輝いた。リレハンメル大会では日本人初となる個人銀メダルを獲得した

*2)荻原健司:現・長野市長、元ノルディックスキー複合日本代表。オリンピックにはアルベールビル、リレハンメル、1998年長野、2002年ソルトレークシティ<アメリカ>と4大会連続で出場。アルベールビル、リレハンメルでは複合団体で金メダルを獲得した

*3)荻原次晴:健司氏の双子の弟で、ノルディックスキー複合で長野大会に出場。現在はタレント、スポーツキャスター、コメンテーターとして活躍

 2007年インカレで40年ぶりに優勝し胴上げされる

2007年インカレで40年ぶりに優勝し胴上げされる

―― 2000年代後半には、渡部兄弟*4)が早大スキー部に入ってきました。

私が早大スキー部の監督に就任したのが2003年、その後、会社から出向という形で、フルタイムで指導をすることになりました。暁斗はその時代に入学してきました。私が監督として指導している間、多くの選手がオリンピックに出場しましたが、そのなかでも突出した才能を持っていたのが暁斗でした。彼はすでに高校2年生の時に2006年トリノ大会に出場していましたし、その前から注目されていました。私も毎年、中学3年生くらいから高校2年生までの各選手の情報をリスト化していましたので、早くから暁斗のことも注目し、「この選手、すごいな」と思っていました。体は細身でしたが、ジャンプもまずまずの距離を飛んでいましたし、なによりクロスカントリーでは粘り強い走りを見せていました。「この選手は強くなる」と思っていたので、絶対にスカウトしようと考えていました。高校生ですでにオリンピアンになっていたので、大学はもちろん企業からも声がかかっていて、スカウト合戦が激しかったことを覚えています。あのレベルの選手になると、大学に入って練習時間を授業で潰すのはなによりいないという考えも出てきますので、もしかしたら社会人に行ってしまうのではないかなという危惧もありました。いろいろなところから話があったようで、本人としても悩んでいたのか、なかなか答えを出さずにいたのです。そんななかで暁斗のお母さんのお父さん、つまり彼のおじいさんが早大出身だという情報をキャッチして、まずはお母さんに話をして、さらに暁斗が通っていた白馬高校(長野)にも赴き、外堀を埋める形で「ぜひ早稲田に!」と半ば強引に引き込んできました。

*4)渡部兄弟:兄の暁斗はオリンピックでは2014年ソチ、2018年平昌と2大会連続で個人ノーマルヒルで銀メダル、2022年北京大会では個人ラージヒル、団体で銅メダルを獲得したノルディックスキー複合界のエース。3歳下の弟の善斗もソチ、平昌、北京と3大会連続でオリンピックに出場し、北京での団体銅メダルのメンバー

―― 暁斗選手は大学3年の時、2010年1月のワールドカップ(オーストリア・ゼーフェルト)で3位に入り、初めて個人での表彰台に上がりました。同年2月には2度目のオリンピック、バンクーバー大会(カナダ)に出場。個人ラージヒルで日本勢最高の9位となるなど、期待通りの活躍をされました。これもひとえに倉田さんのご指導の賜物だったと思います。

私が早大スキー部の監督を務めている間、延べ29人の選手がオリンピックに出場しており、暁斗もそのうちのひとりだったのですが、入学当初からほかの選手とは違うなという感覚がありました。私とコーチで相談をして練習メニューを考えて、学生に提示していたのですが、暁斗はそれをそのままやらずに自分流の練習に変えてやっていましたし、全体練習後もひそかに個人練習をしていました。孝典(河野)も真面目でストイックな選手でしたが、彼とは少し異なるストイックさが暁斗にはありました。会話ひとつとっても、暁斗にはクレバーさを感じました。

―― 河野さんにはストイックさがあり、荻原健司さんにはもちろん努力もあったと思いますが、ある種の“天才肌”という印象がありました。その両方を兼ね備えているのが、暁斗選手ですね。

そうかもしれないですね。一方、その3人に共通していたのが、チャレンジ精神でした。健司はV字ジャンプが台頭した時に、日本人ではいち早く取り入れたというくらい、選手にとって怖いであろう変化にも果敢にチャレンジするような選手でした。一方、孝典も大学在外中にノルウェーの強豪選手の家にホームステイをして、最先端のトレーニングを学ぶなどしていました。そして暁斗もまた、チャレンジ精神では彼らにひけをとっていません。今でこそ競技スポーツとなっているスラックライン*5)ですが、当時は知る人も少なかったと思います。それを暁斗は情報を取り入れて、「こういう練習もしたいです」と言ってきたんです。そういうことは日常茶飯事でした。私はいつも「自分で考えられる選手になってほしい」と学生に言っていましたが、暁斗は入学当初から自分で考えられる選手でした。換言すると、「練習を考える天才」ですね。

*5)スラックライン:「ウェビング」と呼ばれる細いベルト状のラインの上でバランスをとって歩いたり飛んだりしながら綱わたりするスポーツ

早大スキー部インカレ集合写真(前列中央)

早大スキー部インカレ集合写真(前列中央)

―― 暁斗選手が入った2007年には、早大スキー部はインカレ(インターカレッジの略。全日本学生選手権大会)で40年ぶりに優勝しました。当時は会社からの出向という形で、フルタイムで早大スキー部の指導をされていましたが、これはどういう経緯からだったのでしょうか?

出向というと勤務先から、別の企業に移って働くのが通例で、そもそも大学などビジネスとは直接的に関連のないところに行くというのは前例がないことでした。ただ早大では、競争部の駅伝部門をはじめ、野球部、ラグビー部、サッカー部では、以前から監督が企業から出向してフルタイムで指導するということが行われていました。それら特別強化部にスキー部とテニス部が加わったのを機に、大学からの要請を受け、私も出向してフルタイム監督となりました。当初は当社の社長も「金融機関から大学に出向というのは、ちょっと考えにくいよな」と言っていました。そこに早大の体育会担当理事・副総長が社長に会いに来られて、私をスキー部に出向させてフルタイムで指導できるようにしてほしい、と直訴されたのです。おそらく当時は社内では大ごとになっていたと思います。副総長がお帰りになられた直後に、私に内線で連絡が来て、「すぐに社長室に来るように」と言われました。社長から「今、こういう話があったが、知っていたか?」と聞かれたのですが、私は聞かされておらず寝耳に水でした。「副総長のことは存じ上げていますが、その話はまったく知りません」と答えたら「そうか」と。社長室を出てすぐに、私は副総長に電話をかけたところ「あとで言おうと思っていたのだけど、ごめんなさいね」と言われました(笑)結果、当社から早稲田大学に出向することになりました。企業から大学への出向は、当時は他業界での前例はあるものの、金融機関としては稀なケースで、ラグビーの宿澤広朗さんが住友銀行(現・三井住友銀行)から出向で日本代表や早大ラグビー部の監督を務めたことがありましたが、それ以来だと思います。

インカレにて(左)

インカレにて(左)

―― 最終的に出向が決定し、2006年からフルタイムで指導されたわけですが、長く勤められましたね。指導者としてかなり勉強もされたようですね。

監督としては早大スキー部では最長の15年間でした。仕事をしながらの指導では選手に対峙する時間が限られましたし、やりたいことがやりきれずジレンマを感じる時もありましたので、地に足をつけて選手に向き合うことができたと思います。部の「見える化」、選手との会話増加、リーダーシップとフォロワーシップ・マネジメントの検証、夏季合宿改善、海外トレーニング拠点設置、合宿所リフォーム、(村岡)桃佳選手の入学など、いろいろと着手しました。教員(客員教授)の身分で出向したので、授業の担当、卒論指導、学部・大学院でのゲスト講師など学生教育にも従事しながら、スキー部の選手指導を担っていました。指導者として自らも学びました。コーチ・助監督の時代には日本スポーツ協会公認コーチ資格を取得、クロスカントリースキー指導員・検定員の資格などを取得しました。そのことから、海外遠征、ユニバーシアードはじめ国際大会のコーチとして海外での活動にもつながったと思います。

早大大学院で共に学んだ桑田真澄氏(右)と

早大大学院で共に学んだ桑田真澄氏(右)と

その後、早大大学院スポーツ科学研究科ではスポーツビジネスを、早大コーチング研究所ではトップコーチングを研究し、現在に至るまで調査・研究活動を継続しています。大学院は、スポーツ科学研究科で、桑田真澄さん(野球)、朝日健太郎さん(バレー)、杉山芙紗子さん(杉山愛さんのお母さま)、山下大悟さん(ラグビー)らスポーツ界の方々と同じ研究室で学びました。最近では伊達公子さん(テニス)、五郎丸歩さん(ラグビー)らが学ばれています。あらゆるジャンルの皆さんとの交流により学びの輪が広がり、今でも貴重なコミュニティとして大事にしています。

東京大会の開催決定を機に本格的に舵を切ったパラスポーツ支援

―― 2013年の東京2020オリンピック・パラリンピック競技大会の開催決定を機に、あいおいニッセイ同和損害保険社は2014年にJPSA(日本パラスポーツ協会)のオフィシャルパートナーとなり、2015年からは同社でアスリート雇用がスタートしました。早大スキー部の指導をしながら、当時からパラスポーツ事業のリーダー役を務めていたのが倉田さんでした。もともと御社では、2006年に日本車いすバスケットボール連盟(以下JWBF)とオフィシャルスポンサー契約を締結し、男女の日本代表チームの遠征強化や国際大会への出場をサポートするなど、早くからパラスポーツを支援されましたね。

私は早稲田大学にいましたので直接携わったわけではありませんが、当時、当社はあいおい損害保険という時代で、グループ企業であるトヨタ自動車、アイシン電機などが強豪のバスケットボールチームを有していました。その関係で「あいおいさんも、バスケットボールに携わってはどうですか」という話があったらしいのです。社内で検討したところ、車いすバスケットボールの存在を知り、そのサポートをするのはどうかということで話がまとまり、2006年にJWBFとオフィシャルスポンサー契約を締結したようです。当時はパラスポーツのスポンサー企業はほとんどなかった時代-東京2020パラリンピックで車いすバスケットボール代表チームの指揮を執った及川晋平さんや現在男子日本代表ヘッドコーチの京谷和幸さんが現役選手の時代-で、「初めてあいおい損害保険の企業ロゴがついた代表ユニフォームを着た時は、本当に嬉しかった」と今でもおっしゃってくださいます。

京谷和幸氏

京谷和幸氏

―― それが始まりで、貴社でスポーツチームをつくることになり、その中核として倉田さんに白羽の矢が立ったのですね。

私が早稲田大学に出向している間、2~3カ月に一度、近況報告のために社長や人事担当役員と会っていたのですが、ある日、社長から「今度いつ来る?ちょっと話があるから社長室に来てくれ」と連絡を受けました。それが2013年秋、東京2020オリンピック・パラリンピックの開催が決定した直後でした。社長から、「東京大会はいわば国家事業だから、当社として何ができるか検討したい。ちょっと考えてくれないか」という話がありました。いろいろな角度からアプローチして検討をすすめました。当社ではスポーツに関わる取り組みは白地で、唯一、協賛として車いすバスケットボールに関わっていました。そこで車いすバスケットボールの協賛から、パラスポーツの支援につなげる、というシナリオを策定しました。JWBFにヒアリングしたところ、車いすバスケットボール選手の実に7割ほどが自動車事故で車いす生活を余儀なくされたことがわかりました。損保会社として交通安全や事故軽減に寄与している当社として、自動車事故で車いす生活を余儀なくされた方への自立支援につながると共に、なにより当社との親和性があるという背景もありました。取り組みにしっかりと意味を持たせることができたわけです。社長から快諾をもらい、さらに社内でスポーツチームの部署を組成することになりました。

左:大日方邦子氏 右:新田佳浩氏

左:大日方邦子氏 右:新田佳浩氏

―― 倉田さんご自身が、パラスポーツと直接関わりを持たれたのはいつごろだったのでしょうか?

もともと早大スキー部の監督をしていたころから、スキー仲間として大日方邦子*6)さんや、荒井秀樹*7)さんとは知り合いでした。また、私はU23世代のユニバーシアード選手指導や全日本ナショナルチームのスタッフも担っていたので、代表の海外遠征に帯同することもあり、その時にパラスキーのナショナルチームと接点もありました。ですので、大日方さんや荒井さんから話を聞いたり、遠征でパラ選手の練習をなんとなく見ていたりはしていたので、パラスポーツのことはある程度知っていました。さらに、新田佳浩*8)選手とも大きな接点がありました。新田選手には強烈な思い出があります。彼から早大スキー部の合宿に混ぜてほしいと電話をもらい、3年間ほど早稲田の合宿に参加してもらいました。早稲田の選手と寝食を共にしながら切磋琢磨して競技力向上の指導をした時期があります。今にして思えば、オリンピック・パラリンピック選手が一緒に合宿練習を行ったという大きなトピックスだったと思います。個人的に最も影響を受けたのは村岡桃佳選手との出会いです。

*6)大日方邦子:1994年リレハンメルから2010年バンクーバーまで5大会連続でパラリンピックに出場し、あわせて9個のメダル<金2、銀3、銅5>を獲得した。現在は電通グループフェロー、あいおいニッセイ同和損害保険社外取締役

*7)荒井秀樹:日本で初めてパラスポーツの実業団チームを立ち上げ、日本パラリンピックスキーチーム監督、日立ソリューションズ「チームAURORA」監督を歴任。現在は北海道エネルギースキー部監督

*8)新田佳浩:パラノルディックスキー選手。1998年長野から2022年北京まで7大会連続してパラリンピックに出場し、金3、銀1、銅1、計5個のメダルを獲得。パラスポーツ界のレジェンド

村岡桃佳の存在によってスキー部に起こった化学反応

村岡桃佳選手(右)、早大入学時

村岡桃佳選手(右)、早大入学時

―― 村岡桃佳選手*9)との出会いも大きかったのではないでしょうか?

桃佳選手との出会いは、まさに大きな出来事でした。桃佳選手と対峙したこと自体が、私にとってはパラスポーツに対しての学びであり、さまざまな気づきでもありました。その経験値が、会社に戻った時に生かされたと思います。
スキー部100年の歴史のなかでも大変革となりましたし、早稲田大学にとっても多様性を考える大きな転換の機会となったはずです。

*9)村岡桃佳:パラアルペンと車いす陸上の二刀流で活躍するパラアスリート。特にパラアルペンでは2014年ソチ、2018年平昌、2022年北京と3大会連続でパラリンピックに出場し、平昌では出場した全5種目でメダルを獲得、北京では3つの金メダルに輝いた。車いす陸上では、東京2020大会に出場し、100mで6位入賞

2014年ソチパラリンピック、村岡桃佳選手

2014年ソチパラリンピック、村岡桃佳選手

―― パラアスリートの村岡選手が早大スキー部に入部したのは、それまで前例になかった大きな出来事だったと思います。ある意味、早大スキー部の歴史を変えたと言っていいと思いますが、どういういきさつがあったのでしょうか?

桃佳選手は高校2年生の時に、2014年ソチパラリンピック大会に出場しているのですが、そのころに桃佳選手の親御さんから電話をいただいたのが最初でした。「村岡と申しますが、うちの娘がパラリンピックに出場することが決まりました。高校卒業後は、早稲田大学スキー部に入りたいと言っていて、一度お会いできないでしょうか」というようなお話でした。正直、私は桃佳選手のことはまったく知らなかったのですが、パラリンピック終了後にスキー部の寮に来てもらって話をしました。桃佳選手から「早稲田大学に入学したい、スキー部に入りたい!」と熱く語りかけられたのですが、パラアスリートを指導した経験がない私は、その時に「ちょっと待てよ」とブレーキを踏んでしまいました。パラのコーチ経験者もいないので、指導するとすれば私になるのだろうと思い、スキー部への入部についてはお断りするニュアンスのことを申し上げました。ただ、同じスキー選手なので大学入学のサポートはできると考え、その後も何度か話をしたり、キャンパスを案内したりということをしていました。

早大スキー部集合、前が村岡桃佳選手(大隈講堂前にて)

早大スキー部集合、前が村岡桃佳選手(大隈講堂前にて)

―― 変化はいつごろだったんでしょう?

その年のゴールデンウィークにスキー部恒例の野沢温泉合宿(長野)を組みました。暁斗も含めてノルディックチームの残雪でのクロスカントリートレーニングです。合宿中、パラアルペンスキーチームも合宿に来ていて、ゴンドラでばったり桃佳選手に遭遇したのです。結局、1週間近く同じ場所で合宿をしていたので、桃佳選手といろいろと会話をする機会となりました。「先日大学のキャンパスを見て、ますます早稲田に行きたくなりました」と、何度となく熱く伝えてきました。ある日、旅館の部屋でひとりになった時に、ふと「桃佳選手が言っていることは、私が選手スカウトで話をしている高校生たちと何ら変わらない。それなのに、その芽を不用意に潰してはいけない」と思いました。それで桃佳選手には、ぜひ早大を受験してもらって、合格した暁には、希望通りスキー部に入ってもらおうと思いました。

ただ、実際に一緒に生活したり練習するので、ほかの学生がどう思うかが最も大事だろうと考えました。そこで合宿後のミーティングの場で、次年度入学の候補選手のなかに桃佳選手のことも加えて話をしました。高校生選手の情報共有と部員の意見を聞く場で、部員たちはそれぞれ意見を述べていましたが、桃佳選手のことになると誰も何も語りませんでした。シーンと静まり返ってしまったので「1週間考えてから、みんなの意見をまとめてキャプテンが私に伝えにきてくれ」と言って、その場を解散しました。その1週間後、キャプテンからの報告で、「みんな、入部してもいいと思うと言っています」と言うのです。ミーティングの場ではシーンとなったので、みんなネガティブに考えているものだとばかり思っていましたが、そうではなかったのです。聞けば、アルペン選手のなかには、菅平高原などで合宿をする際、パラアルペンチームの桃佳選手と一緒に練習していた学生もいたようです。それで「どうやって一緒に練習したの?」と聞いたところ、パラのアルペンも、一般のアルペンとルールが一緒だと言うのです。恥ずかしい話ですが、実はそれまで私はパラとはルールが異なるとばかり思っていたので、そこで初めて同じルールであることを知りました。結局、私なんかよりも学生たちのほうがよっぽど理解していたようです。桃佳選手の練習姿勢も高く評価していて、「ちょっと人見知りだけど、すごく真面目に練習していたし、うちのスキー部に入っても人間性も問題ないと思います」ということだったので、桃佳選手を受け入れることが決定しました。桃佳選手の入学後の学内の環境を整備してもらうため、当時の学部長はじめ大学側に対しても、入学を想定して、施設、学バス、授業配慮など課題と思われる点の改善を要請し、折衝するなど、学内を奔走し走り回ったことが思い出されます。

―― ただ、パラアスリートを初めて受け入れるためには、例えば寮を車いすユーザー仕様にするなど大変だったのではないでしょうか?

どうやら部員たちは、桃佳選手は寮ではなく別のところで生活をするのだろうとばかり思っていたようです。私としては入学、入部が決まった時点で、扱いはほかの部員と同じと考えていましたので、当然寮で生活してもらうつもりでいました。本人は少し緊張気味でしたが「はい、わかりました」と寮での生活をすぐに了解したのですが、ご両親が「本当に大丈夫ですか?」と心配されていました。「寮も車いすでも生活できるようにしますし、ほかの学生に対してもきちんと教育をします。なにより分け隔てなく接したいです」と言って、見守っていただくことをお願いしました。すぐに寮の工事が始まりまして、本人にも入学前から何度か足を運んでもらい、バリアフリーの状況、日常の導線、万一の場合の避難導線なども確認しながらバリアフリー化のリフォームを進めていきました。また、共生社会に関する基礎知識を共有するため、桃佳選手が入寮する前にこまめにミーティングを開き、パラスキーのこと、共生社会・ダイバーシティのことなどを伝えましたし、学生同士による話し合いの場も設けました。

―― 実際に村岡選手が入部して、早大スキー部には化学変化が起こったのでしょうか?

実は、最初は、ネガティブな化学変化でした。寮で日常生活を送るなかで、いろいろな問題が出てきたのです。例えば、遠征から帰ってきたメンバーが大きなバッグをそのまま廊下に置きっぱなしにすることがありました。そうすると、桃佳選手は車いすで通れなくて「これ、片付けて」というようなことがしょっちゅうありました。逆に、桃佳選手が手の届くところに置いていたものを、邪魔だからと棚の上に置いてしまって、桃佳選手が届かないというようなこともあって、お互いに不満が募っていってしまいました。できるだけ学生同士で解決してほしいと思っていたので、私は見守るスタンスでいたのですが、だんだんと解消されて、半年経ったころにはすっかり軋轢がなくなっていました。双方がお互いのことを自然と配慮できるようになっていったようです。

もうひとつ、課題だったのは、私も含めてですが、健常者側が障害のある人たちに対して、無意識のうちに上からものを言ってしまうことでした。「アンコンシャスバイアス」ですね。例えば「何かあったら手伝ってあげるよ」「ひとりではできないよ」などの言葉。言った側は親切な気持ちで良かれと思って言ったことなのですが、言われた側としてはあまり気持ちが良くない場合がありますよね。そういうことが、よくあったのですが、桃佳選手がパラアルペンスキー界で日本代表として世界で活躍するのを目の当たりしていくうちに、部員たちも桃佳選手のことを競技者として見るようになり、リスペクトするようになっていきました。さらには、ほかの部員が靭帯断裂などの大ケガをした時には、桃佳選手のほうが「そんなに落ち込んでても、何も変わらないよ。リハビリがんばろう」と励ましたり、アドバイスを送ったりしていました。そのようにして、桃佳選手の存在によって学生たちのなかにもいい化学変化が起こっていて、スキー部という小さいコミュニティのなかで、しっかりと共生社会が実現していました。実を言いますと、当初はOBのなかには障害のある桃佳選手をスキー部に入れることに反対の意見も少なくなかったのです。私は説明・説得・理解のため、各地のOB会を訪問し、最後は、監督権限の範囲内のことなので任せてほしいと伝え歩きました。結果的に彼女を受け入れたことは正解でした。

持続可能なパラスポーツ支援に必要な“自分ごと”

山脇康氏

山脇康氏

―― 2014年に立ちあがったスポーツチームの経緯について教えてください。

2014年4月から当社内にスポーツチームが立ち上がることとなり、私が責任者として早大スキー部の指導と兼務する形で着任しました。前述した通り、車いすバスケットボールへのサポートから拡大するというシナリオは描いたものの、実際の「DO」の部分はこれからという状況でしたので、正直何をどうすればいいのか、アクションプランは何もありませんでした。それで大日方さんはじめパラスポーツ関係者や、JOC(日本オリンピック委員会)、中央競技団体あるいはナショナルチーム関係、スポーツ人脈をたどりいろいろと話を聞き、情報収集しました。その過程で、JPC(日本パラリンピック委員会)という組織があることがわかりました。当時JPC委員長の山脇康さん(現・日本財団パラスポーツサポートセンター会長)および日本パラスポーツ協会(以下、JPSA)の方を紹介いただき、お目にかかりました。「当社ではパラスポーツを応援する事業を展開していきたいと思っているのですが、どのようなことをしたらいいでしょうか」とざっくばらんに伺いました。すると「まずは、ぜひ大会に来てほしい、ご自身の目で現状を見てもらえたらありがたい」と。そこで直近の大会に足を運んだところ、JPSAの皆さんがおっしゃっていた通り、観客席はほぼ空席状態でした。「これが、日本のパラスポーツの現状なのだな」とわかり、まずは社員に大会で応援してもらうところから始めようと考えました。加えて山脇さんから「JPSAのスポンサーになっていただけませんか」というお話もありました。金額的にもいけそうだったので、その場で「わかりました」と私の独断でお返事をしてしまいました。

ジャンプ選手採用、櫻井梨子選手

ジャンプ選手採用、櫻井梨子選手

―― 即断即決ですね。

というのも、当社は、スポーツに関しては、いわば白地でしたので、取り組みをするための土台をつくりたいと考えていたので、JPSAへのスポンサードは最初からありだと判断していました。自分たちがやろうとしていることにしっかりと結びつくものですし、スポンサーという形であれば社内でも「パラスポーツを応援している」ということが形としてわかりやすく、浸透しやすいだろうと思えたのです。私の意見に、社長も理解を示してくれ、稟議もスムーズに通り、早々にJPSAとスポンサー締結をしました。その後、7月に初めてゴールボールの大会を応援しに行くことになったのですが、驚いたことに100人ほどの社員が来てくれました。ほかの観客はほとんどいなくて、当社の応援団だけがスタンドを独占するような状態でした。試合の合間には、体験会もあって、まるで弊社の社員のために開かれているような感じだったのですが、初めてのパラスポーツ観戦は社員にとってもインパクトの強いものになったようでした。アンケートを実施したところ、「とても良かったので、こういう事業をこれからも続けてほしい」というようなことを書いてくれた社員が多くいました。

その時に「スローガンをつくろう」と思い立ち、“観て感じて考える”というスローガンを掲げました。まずは実際に見てもらわないとわからないですし、見れば何か感じてもらうことができます。そして、損保会社の社員として自分ごとに置き換えて考えてみよう、というような思いが込められています。このスローガンは現在に至るまで継続されています。以降、当社のスポーツ支援の柱として大会応援を位置づけています。

競泳選手採用、牧野紘子選手

競泳選手採用、牧野紘子選手

―― 社内の雰囲気も変わって、2015年からは、他社に先駆けてパラアスリートの採用を推進し、現在は所属アスリート21人のうち13人がパラアスリートです。

パラアスリートの採用については、2014年にスポーツチームが組成される前から考えていました。スポーツを応援するなかで、最も大切なのは現場であり、選手だということはスポーツ界にいた人間としてわかっていたので、社内に選手がいないことには本当のパラスポーツの支援にはならないだろうと感じていました。2014年秋に人事部に、アスリート雇用の制度設計を依頼しました。その大きなきっかけとなったのは、会場に足を運んでパラスポーツを応援するというプロジェクトを進めていくなかで、あることを感じたことにありました。最初は初めて見る光景に、どの社員も「すごい!」と驚いた様子で夢中になるのですが、長時間見ていると、そのうち飽きがきてしまうのです。というのも、パラスポーツの場合、クラブチーム戦で、チームにも選手にもまったく関わりがないために、勝敗に関わる感情がまったく湧いてこない、応援の対象が不在、ということでした。そうした社員の姿を見ていて、「やっぱり所属選手がいなければ。選手が真ん中にいることが大事だ」とあらためて感じました。アスリート雇用はパラアスリートから開始しましたが、現在では、オリンピック・パラリンピック垣根なく採用しています。当社では、オリンピック・パラリンピック一緒にアスリート研修会を開催したり、選手間のコミュニケーションの場づくりを行っています。選手の相互交流も選手の成長に大きな意味を持つと思っています。

社員の大会応援風景

社員の大会応援風景

―― スポーツチームが立ち上がって、今年でちょうど10年目になります。フィードバックしながら推し進められてきたと思いますが、社内ではどのような変化があったのでしょうか?

会社事業であればすべて数値化されています。選手であれば成績などで数値化できます。スポーツ領域の事業に対して評価するうえでの数値化というのは難しいため、スタート時から続けてきた社内アンケートを用いて社員の意識がどう変わってきたかを“見える化”しよう、それをKPI指標にしようと考えました。アンケートはいくつかの設問に対して、5段階で選んでもらい、最後は自由に感想や意見が書けるようなフリースペースをつくっています。初期のころは、単に「すごい」とか「初めて見ました」というような漠然としたコメントが多かったのですが、2018年ごろになると「今度は家族を連れて見に行きたい」「こういう体験の場を、全国展開していくべき」「応援にとどまらず、運営にも携わりたい」「選手を一緒に支えたい」というような、自分ごとに置き換えたコメントが増えてきました。そこで、JPSAにお願いをして、大会時に企業ボランティアの枠をつくっていただき、今では当社の社員は応援とボランティアの両方で大会に携わるようになりました。2017年に創設したのが「パラアスリートスカラシップ制度」(2022年度まで)です。昨今では桃佳選手のように大学に進学をして競技を続けるというパラアスリートが増えてきているので、将来を嘱望された選手を経済的な面からサポートする給付奨学金制度をつくりました。

講演風景

講演風景

2018年には、日本財団ボランティアサポートセンターと連携し、スポーツボランティアの魅力や楽しみ方を学べる基礎プログラム「スポーツボランティア研修会」を共催し、弊社の全国にある主要拠点9カ所で、希望の社員を対象に研修を行いました。さらに、全国の自治体と連携して、所属アスリートを派遣、講演会や小中学校での体験会を行うということも積極的に行っています。自治体や各都道府県の教育委員会から多くお声がけいただいており、地域密着型の支店を全国に持つ当社の強みでもあると考えています。これは選手にとって、社会での活動の場となり、能力開発にもつながり、デュアルキャリアの視点からも、将来を見据えたセカンドキャリアの視点からも、とても良い経験になるだろうと思います。選手たちも競技の合間に積極的に活動してくれています。自治体にとっても、選手にとっても、当社にとってもプラスとなり、しかもそれぞれ役割分担していますので、負担が軽減されて無理なく実行できます。持続可能な事業として展開されていて、2021年度には全国141カ所で講演会、体験会、小学校オリンピック・パラリンピック教育授業が行われるほどになっています。選手のセカンドキャリアのデザインを考えることも重要だと思っています。

競技を引退する選手が出た場合、セカンドキャリアとして2つの道をつくっています。ひとつは私たち一般の社員と同じように、「契約社員」「地域型社員」「全域型社員」のようにスタンダードにキャリアアップしていく道です。もうひとつは社内の仕事に限らず、アスリートとして培ってきた経験を生かした仕事もできるような道です。後者を取る選手が多いのですが、途中で業務の仕方やキャリアの道筋を変更するなど柔軟な対応を考えています。このように、社内には大きな変化が表れています。保険会社においては、スポーツが企業収益に直接結びつくことはありませんが、間接的に経営に貢献していると考えています。大きくは、当社のスポーツ支援が社会的意義を持ちつつあることです。社内的には、所属アスリートががんばる姿を見て、応援することによる効果が挙げられます。社内の一体感の醸成・職場チーム力の醸成・社員のモチベーション醸成など、良い方向の意識改革につながってきていることが挙げられます。パラスポーツを通じたダイバーシティへの理解促進も図られてきています。これは、社員アンケートからもみてとれます。

―― 御社のような取り組みはまだ特別だろうと思いますが、パラスポーツがさらに発展していくためには、今後はどのようなことが必要だとお感じですか?

支援となると、どうしても企業側の一方通行の視点からになるケースが散見され、選手から遠いところで考えられがちなのです。一番大事なのはいかに選手のために、選手に近いところで支援できるか、その発想をさらに広げていく必要があると思います。企業だけでDOするのではなく、もっと現場にいる選手を巻き込んで、一緒につくっていくべきではないかなと。そして最も大事なのは、継続すること。そうでなければ、いくらたくさんの火を灯しても、それぞれが一瞬で消えてしまってはあとに何も残りません。また、よくパラスポーツを通じて「共生社会」や「ダイバーシティ」を学ぶというようなことが言われていますが、当社ではオリンピックとパラリンピックは共通したスポーツの祭典で、その2つの間には壁がないということを伝えたいと考えています。スポーツを通じてマネジメントやマーケティングのことが学べるのと同じように、共生社会やダイバーシティを学ぶというイメージ。ロールモデルとして見せることが、アスリートの役割のひとつではないでしょうか。アスリートのそのような姿を通じて、社会に反映されるべきものがあると思います。個人の意識変革、企業内での効果、地域での効果、その集合体が社会におけるスポーツの価値に通じていくものと思います。スポーツの価値はひとつではありません。「勝利」という価値以上に、「プロセス」による価値に多くの原石がちりばめられているので、原石がダイヤに変わる過程にある価値をそれぞれの立場・ステージで「価値」と考えればよいと思います。まずは、スポーツが「文化」であることをさらに定着させたいですね。多様性社会が当たり前であることを、スポーツを通じて知る、学ぶ。スキーで言えば、フィンランドやロシア、オーストリア、ノルウェーなどではオリンピックとパラリンピックのスキー競技団体が一本化されて、健常者のスキー大会が開催されている会場に、パラスキーの大会もどんどん誘致されていきます。オリンピック委員会とパラリンピック委員会も融合されています。そのため海外に行くと、オリンピアンとパラリンピアンが一緒にいて当たり前になっている環境があります。一方、日本では組織自体が分かれていて、大会を開催するにも別々に開催することが当たり前になっています。組織自体が一本化する方向で変革されると、自ずとパラスポーツへの認識も大きく変化するように思います。

倉田 秀道氏(当日のインタビュー風景)

倉田 秀道氏(当日のインタビュー風景)

―― 倉田さんは、スポーツの価値についてはどんなふうにお考えでしょうか?

競技スポーツにおいて、まず重要なのは勝つことです。なぜなら、アスリートは何のために過酷なトレーニングをしているかというと、純粋に「勝つため」だからです。自分が立てた目標を達成する、どこにステージを置くかは選手それぞれに異なりますが、その「自己実現」が、競技スポーツにおいては「勝つこと」にほかなりません。ただし、それがすべてではなく最終的には勝つために費やしてきたプロセスを人生に生かすこと。これがスポーツの価値であり、その姿をロールモデルとして見せることが、アスリートの役割のひとつではないでしょうか。

アスリートのそのような姿を通じて、社会に反映されるべきものがあると思います。個人の意識変革、企業内での効果、地域での効果、その集合体が社会におけるスポーツの価値に通じていくものと思います。スポーツの価値はひとつではありません。「勝利」という価値以上に、「プロセス」による価値に多くの原石がちりばめられているので、原石がダイヤに変わる過程にある価値をそれぞれの立場・ステージで「価値」と考えればよいと思います。まずは、スポーツが「文化」であることをさらに定着させたいですね。

地域に根差すことがレガシー継承のカギに

―― コロナ禍で行われた東京2020大会は、倉田さんの目にはどのように映ったのでしょうか?

改めてスポーツは文化だなと感じました。オリンピック選手がパラリンピックのことを語る場面も多々ありましたし、パラリンピックの開催についても開会式から閉会式まで人々に訴えるものがあったと思います。それは言葉にすると「共生社会」というひと言に尽きるかもしれませんが、人々の間に壁はないことに対して理解が深まり、その意味での文化が垣間見えた大会だったように思います。ただ、共生社会の基盤が築かれたと結論づけるのは時期尚早かなと思います。基盤は人々の心や意識にありますので、ハード面でさえ基盤がまだ整っていないなかで、人々にはまだいきわたっていないように思います。もちろん数値化すれば、かつてよりはあらゆる指標が向上しているとは思いますが、ほかのパラスポーツ先進国と比べればまだまだ。それこそ「共生社会」と言っているうちは、当たり前になっていないということです。まだ基盤づくりの真っただ中であろうと言えます。

―― 東京2020大会のレガシーをどう残していくかが問われていることについては、いかがでしょうか?

まず、レガシーとして何を残すのか、残す意義をしっかりと考え、伝えることが大事だと思います。ハード面のレガシーは目に見えてわかりやすいかもしれませんが、真のレガシー創造とは、ソフト面(意識)であろうと思います。そして、レガシーを継承していく担い手は、国ではなく、私は地域だと考えています。さらに言えば地域の若い世代です。自治体に予算配分や助成をしたり、制度の大きな枠組みをつくるということは国の役割ですが、最終的に人々と一緒になって現場でまわしていくのは地域です。つまり、レガシーを継承していくには「地域」が大事なキーワードで、どれだけ地域に根差すことができ、地域で紡ぐことができるか、活用しながら残すことができるかがポイントになるのではないでしょうか。

左:1972年札幌オリンピックでフィギュアスケートと閉会式が行われた真駒内屋内競技場 右:1972年札幌オリンピックでジャンプ競技が開催された大倉山シャンツェ

左:1972年札幌オリンピックでフィギュアスケートと閉会式が行われた真駒内屋内競技場 右:1972年札幌オリンピックでジャンプ競技が開催された大倉山シャンツェ

―― 札幌が2030年冬季オリンピック・パラリンピックの招致をめざしていることについては、どのように感じられていますか?

解決しなければならない課題が山積していることは事実ですが、オリンピック・パラリンピックの開催自体には大きな意味がありますので個人的には賛成です。
ただ、まずは「アスリート・ファースト」として選手のために行われる大会であってほしいと思っています。また、前回の1972年札幌大会では、大倉山ジャンプ競技場やフィギュアスケートで使用された真駒内屋内競技場など、ハード面はすでにありますので、それを使用することがレガシーのひとつだと思います。また、1972年札幌大会の招致に伴って前年の1971年には札幌市営地下鉄が開業し、札幌市の発展にもつながりました。そうした1972年の時に残されたレガシーを再認識する場でもあるように思います。そして、当時は開催されなかったパラリンピックが初めて札幌で行われるわけですので、ダイバーシティという考えが人々の心に訴求されていくチャンスでもあると思います。つまり、昔のハード面でのレガシーを再認識しつつ、新たにソフト面でのレガシーを創出していく、そんな大会になると非常に大きな意義があるように思います。

北海道オール・オリンピアンズの活動告知

北海道オール・オリンピアンズの活動告知

―― 札幌の招致も含め、今後、日本スポーツ界が発展していくために、企業はどのような関わり方が理想でしょうか?

当社では、2021年から「北海道オール・オリンピアンズ」という、北海道出身者のオリンピアン、パラリンピアンをメンバーとする団体と包括連携協定を締結しました。そのメンバーの方々と当社の社員とで事業を考案して、札幌市内の学校で授業を行ったり、子どもたちや年輩の方を対象としたウォーキングイベントを開催するなどしています。当社札幌支店も運営に入っていますが、そこが中心となるのではなく、あくまでも北海道オール・オリンピアンズの組織が中心となって動いています。そこに札幌市などの自治体なども一緒になってやっていくこと。このように、企業が参画しながら、スポーツ界がハンドルを持つという形になると、継続的な事業展開が可能となるように思います。いずれにしても、企業も継続して動くことが求められます。また、企業には、アスリートを支えること、競技団体を支えること、地域と連携することなど関わり方・アプローチが無数にあるように思います。関わり方のレベル感がありますが、各社の身の丈に合った取り組みをスモールスタートで具現化を図ることが望まれます。小さな取り組みも、企業数が増加していくと大きなムーブメントにつながり、地域に反映されていくことになります。

2022北京オリンピック・ノルディック複合団体で銅メダルを獲得した日本チーム(全員が教え子)

2022北京オリンピック・ノルディック複合団体で銅メダルを獲得した日本チーム(全員が教え子)

―― 倉田さんが深く携わられたスキー界の現状と、今後の発展のための課題とはどんなことでしょうか?

スキーに限った話ではなくスポーツ界全体に言えることだと思いますが、指導者が不足している、真の指導者育成が脆弱、という現状があります。とりわけ、パラスポーツ界はその課題が顕在化しています。私見ですが、3つの課題があると考えています。ひとつは、指導者育成。各競技団体だけではなく、JPC、JPSAとも連携をして、指導者の育成をしていく必要があると思います。そして指導者の質を上げることも大事です。これはオリンピックでも言えることですが、日本にはまだまだ人間教育ができる指導者が少ないように感じています。そして、もうひとつは指導者が指導に専念できる環境をつくること。日本では仕事をしながら片手間で指導をするということがまかり通ってしまっているので、ある一定の期間だけでも指導に専念しながら生活もできるというような制度、仕組みをつくっていく必要があると思います。そうすると、指導者の担い手が変わっていくはずです。諸外国では、指導者が経済的に窮することのないようコーチ制度が構築されています。競技力や技術の差もさることながら、コーチがコーチの仕事に集中できる、仕組みの差が結果として選手の競技力への影響も大きいものとなると考えています。2つめは、選手への負担増。中央競技団体における強化体制・マーケティング脆弱性の改善。もうひとつ、スキー界では、世界選手権やワールドカップの日本代表に選出された選手であっても自己負担を強いられるケースが散見されます。中央競技団体におけるスポンサー離れ、マーケティング力脆弱性などがその要因なのでしょうが、アスリートのための競技団体の機能が薄れつつあるように感じます。パラスポーツの世界でも同様のケースが、顕在化しています。同じ競技の日本代表でも、身体と知的で選手の自己負担額が異なるなど、いわば格差が発生しています。3つめは、強化+スポーツ文化のムーブメントの考え方。これは、レガシー創造にもつながります。強くなること=「強化」、ファンづくり・楽しみ=「普及」、支援・マーケティング=「市場」、この3つがバランスよく融合されることが中央競技団体における理想的な運営です。このことは、スポーツビジネス領域の学術的にも示されています。今こそ、この3つの課題をに向けて一歩前進すべき時期だと思います。

2022北京パラリンピック・アルペンスキーで金3、銀1を獲得した村岡桃佳選手

2022北京パラリンピック・アルペンスキーで金3、銀1を獲得した村岡桃佳選手

―― 最後に、倉田さんが次世代に残したい、伝えたいものとは何でしょうか?

昔は際立っていましたが、今現在は失われつつあるもの、例えば「根性」、「気合」、「粘り強さ」。私たちが若いころは「水分とるな」といったことが横行していましたが(笑)、昨今ではあまり耳にしない言葉です。子どもたちには何らかの形で知る機会をもってもらいたいと思います。というのも、現代はともすると楽しければやるけれど、そうでなければやらない、という風潮にあるのかなと。それはそれでよいと思うのですが、最後の大事なことを伝える必要があると思うのです。楽しみながら身体を動かして、やり続けること、そのためには目標を持つことの大事さを、今の時代だからこそ改めて伝えたいです。 アスリートの究極のがんばりの裏側には、「根性」「気合」「負けたくない気持ち」があるはずです。目標に向かってがんばり続けることを伝えながら、その裏側にあるものが求められると思っています。そして次代を担う若者・子どもたちには、障害があってなくても、みんな同じということ、お互いをリスペクトし合うこと、一緒にがんばることを、スポーツを通じて理解してもらって、そして、友だちをたくさんつくってほしいと思います。

  • 倉田 秀道氏 略歴
  • 世相

1912
明治45

ストックホルムオリンピック開催(夏季)
日本から金栗四三氏が男子マラソン、三島弥彦氏が男子100m、200mに初参加

1916
大正5

第一次世界大戦でオリンピック中止

1920
大正9

アントワープオリンピック開催(夏季)
熊谷一弥氏、テニスのシングルスで銀メダル、熊谷一弥氏、柏尾誠一郎氏、テニスのダブルスで 銀メダルを獲得

1924
大正13
パリオリンピック開催(夏季)
織田幹雄氏、男子三段跳で全競技を通じて日本人初の入賞となる6位となる
内藤克俊氏、レスリングで銅メダル獲得
1928
昭和3
アムステルダムオリンピック開催(夏季)
日本女子初参加
織田幹雄氏、男子三段跳で全競技を通じて日本人初の金メダルを獲得
人見絹枝氏、女子800mで全競技を通じて日本人女子初の銀メダルを獲得
サンモリッツオリンピック開催(冬季)
1932
昭和7
ロサンゼルスオリンピック開催(夏季)
南部忠平氏、男子三段跳で世界新記録を樹立し、金メダル獲得
レークプラシッドオリンピック開催(冬季)
1936
昭和11
ベルリンオリンピック開催(夏季)
田島直人氏、男子三段跳で世界新記録を樹立し、金メダル獲得
織田幹雄氏、南部忠平氏に続く日本人選手の同種目3連覇となる
ガルミッシュ・パルテンキルヘンオリンピック開催(冬季)

1940
昭和15
第二次世界大戦でオリンピック中止

1944
昭和19
第二次世界大戦でオリンピック中止

  • 1945第二次世界大戦が終戦
  • 1947日本国憲法が施行
1948
昭和23
ロンドンオリンピック開催(夏季)*日本は敗戦により不参加
サンモリッツオリンピック開催(冬季)

  • 1950朝鮮戦争が勃発
  • 1951日米安全保障条約を締結
1952
昭和27
ヘルシンキオリンピック開催(夏季)
オスロオリンピック開催(冬季)

  • 1955日本の高度経済成長の開始
1956
昭和31
メルボルンオリンピック開催(夏季)
コルチナ・ダンペッツォオリンピック開催(冬季)
猪谷千春氏、スキー回転で銀メダル獲得(冬季大会で日本人初のメダリストとなる)

1959
昭和34
1964年東京オリンピック開催決定

1960
昭和35
ローマオリンピック開催(夏季)
スコーバレーオリンピック開催(冬季)

ローマで第9回国際ストーク・マンデビル競技大会が開催
(のちに、第1回パラリンピックとして位置づけられる)

  • 1961倉田 秀道氏、千葉県に生まれる
1964
昭和39
東京オリンピック・パラリンピック開催(夏季)
円谷幸吉氏、男子マラソンで銅メダル獲得
インスブルックオリンピック開催(冬季)

  • 1964東海道新幹線が開業
1968
昭和43
メキシコオリンピック開催(夏季)
テルアビブパラリンピック開催(夏季)
グルノーブルオリンピック開催(冬季)

1969
昭和44
日本陸上競技連盟の青木半治理事長が、日本体育協会の専務理事、日本オリンピック委員会(JOC)の委員長に就任

  • 1969アポロ11号が人類初の月面有人着陸
1972
昭和47
ミュンヘンオリンピック開催(夏季)
ハイデルベルクパラリンピック開催(夏季)
札幌オリンピック開催(冬季)

  • 1973オイルショックが始まる
1976
昭和51
モントリオールオリンピック開催(夏季)
トロントパラリンピック開催(夏季)
インスブルックオリンピック開催(冬季)
 
  • 1976ロッキード事件が表面化
1978
昭和53
8カ国陸上(アメリカ・ソ連・西ドイツ・イギリス・フランス・イタリア・ポーランド・日本)開催  
 
  • 1978日中平和友好条約を調印
1980
昭和55
モスクワオリンピック開催(夏季)、日本はボイコット
アーネムパラリンピック開催(夏季)
レークプラシッドオリンピック開催(冬季)
ヤイロパラリンピック開催(冬季) 冬季大会への日本人初参加

  • 1982東北、上越新幹線が開業
1984
昭和59
ロサンゼルスオリンピック開催(夏季)
ニューヨーク/ストーク・マンデビルパラリンピック開催(夏季)
サラエボオリンピック開催(冬季)
インスブルックパラリンピック開催(冬季)

  • 1984倉田 秀道氏、早稲田大学院スポーツ科学研究修士課程を修了し、大東京火災海上保険株式会社(現・あいおいニッセイ同和損害保険株式会社)へ入社
1988
昭和63
ソウルオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
鈴木大地 競泳金メダル獲得
カルガリーオリンピック開催(冬季)
インスブルックパラリンピック開催(冬季)

1992
平成4
バルセロナオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
有森裕子氏、女子マラソンにて日本女子陸上選手64年ぶりの銀メダル獲得
アルベールビルオリンピック開催(冬季)
ティーユ/アルベールビルパラリンピック開催(冬季)
1994
平成6
リレハンメルオリンピック・パラリンピック開催(冬季)

  • 1995阪神・淡路大震災が発生
1996
平成8
アトランタオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
有森裕子氏、女子マラソンにて銅メダル獲得

  • 1996倉田 秀道氏、早稲田大学スキー部コーチに就任
  • 1997香港が中国に返還される
1998
平成10
長野オリンピック・パラリンピック開催(冬季)

  • 1999倉田 秀道氏、早稲田大学スキー部助監督に就任
2000
平成12
シドニーオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
高橋尚子氏、女子マラソンにて金メダル獲得

2002
平成14
ソルトレークシティオリンピック・パラリンピック開催(冬季)

  • 2003倉田 秀道氏、早稲田大学スキー部監督に就任
2004
平成16
アテネオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
野口みずき氏、女子マラソンにて金メダル獲得

2006
平成18
トリノオリンピック・パラリンピック開催(冬季)

  • 2006倉田 秀道氏、あいおいニッセイ同和損害保険株式会社より出向で早稲田大学スキー部フルタイム監督に就任
2007
平成19
第1回東京マラソン開催

  • 2007倉田 秀道氏、第80回全日本学生スキー選手権大会で40年ぶりに早稲田大学を優勝に導く。以降、男女合わせて早稲田大学が9年連続優勝
2008
平成20
北京オリンピック・パラリンピック開催(夏季)
男子4×100mリレーで日本(塚原直貴氏、末續慎吾氏、高平慎士氏、朝原宣治氏)が3位となり、男子トラック種目初のオリンピック銅メダル獲得

  • 2008リーマンショックが起こる
2010
平成22
バンクーバーオリンピック・パラリンピック開催(冬季)

  • 2011東日本大震災が発生
2012
平成24
ロンドンオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
2020年に東京オリンピック・パラリンピック開催決定

2013
平成25
2020年に東京オリンピック・パラリンピック開催決定

2014
平成26
ソチオリンピック・パラリンピック開催(冬季)

  • 2014倉田 秀道氏、ソチオリンピックで複数の日本代表選手を指導(渡部暁斗ほか)
2016
平成28
リオデジャネイロオリンピック・パラリンピック開催(夏季)

  • 2016倉田 秀道氏、早稲田大学スキー部監督を任期満了で退任
2018
平成30
平昌オリンピック・パラリンピック開催(冬季)

2020
令和2
新型コロナウイルス感染症の世界的流行により、東京オリンピック・パラリンピックの開催が2021年に延期
2021
令和3
東京オリンピック・パラリンピック開催(夏季)

2022
令和4
北京オリンピック・パラリンピック開催(冬季)