唯一ゴールの瞬間を迎えたトリノオリンピック
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1956年コルチナ・ダンぺッツォ オリンピック男子回転銀メダル 猪谷千春
―― アルペンスキー日本代表として冬季オリンピックに4回出場されていますが、やはり最も印象深いのが2006年トリノオリンピック(イタリア)でのスラローム(回転)のレースです。1本目はトップと0.07秒差での3位でしたから、報道陣も1956年コルチナ・ダンペッツォオリンピック銀メダリスト・猪谷千春さん以来のメダル獲得を大いに期待していました。実際ご本人としては、1本目を滑り終えて、感触はいかがでしたか?
2006年トリノオリンピックは、自分にとってもとても思い入れ深いオリンピックでした。というのも、4年に一度のオリンピックではいつも出場しているワールドカップと同じような環境ではないことが多いんです。しかし、トリノ大会ではそれまでのワールドカップで何度も滑っていたお馴染みのコースで、同じクオリティが担保されていましたから、僕はそのコースに照準を合わせて臨みました。
2003年に左ひざの靭帯断裂という大ケガをして、そこから一段ずつ階段を上っていくようにして迎えたトリノオリンピックでした。当時の成績は日本代表のなかで2番目、「ケガから復帰した元エース」という立場にあったのですが、何ひとつ邪念がない状態で、ただただオリンピックというステージに立ってレースができるという喜びしかありませんでした。
トリノオリンピックの雪質は「ドライスノー」と言って、少しスキー板にひっかかるために、コースアウトする選手も少なくありません。でも、僕はそういう雪の状態のほうが好きなタイプでしたし、当時帯同してくれていたガスパー(スロベニア人のサービスマン。スキー板のチューンナップやワックスがけを行う職人)と相談しながら行ったスキー板のエッジの調整もすごくうまくいっていました。だからタイムがどう出るかは別として、自分としてはベストの状態でレースに臨むことができました。実際1本目を滑ったところ、逆転の可能性を考えるとトップとは0.5秒以内にしておきたいと思っていたのに0.07秒とほとんど差がない状態でしたので、自分としても最高の滑りができたという感じでした。
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2006年トリノオリンピック男子回転4位
―― 決勝の2本目を待つ間は、どんな精神状態だったのでしょうか?
アルペンでは1本目が終わって、2本目が始まるまでに2時間ほど時間が空くのですが、控室で待っている時は不安と意気込みとが入り混じった気持ちになって緊張してくるんです。もちろんレース本番では緊張感はある程度大事ですが、2時間も前から緊張していては疲れてしまいます。それで、僕はいつも待ち時間には読書をして頭を競技から切り離すようにしていました。高い集中力を生み出す緊張感は本番にとっておいて、気持ちをリラックスさせるようにしていたんです。トリノ大会の時も、いつもと同じように控室では読書をして過ごしていました。
―― 2本目のレースでは、スタート直後にスキーブーツのバックルが外れるという不運がありました。あの時は、どのような思いだったのでしょうか?
2本目を滑ることができるのは、1本目での上位30人で、順番としては1本目のタイムが遅い選手から滑っていきます。
僕は30人中27番目のスタートでしたので、どんどん選手がいなくなっていく様子はよく覚えています。いよいよ自分の番になってスタートラインに立った時、「8割の力で滑れば勝てる」という気持ちでいました。
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2006年トリノオリンピック男子回転4位
実際スタートも慌てることなくゆっくりと出たのですが、9ターン目の時に、何か異常を感じた結果、ゴール後にバックルが外れていたことがわかったんです。「これは攻めるパーツを減らして滑らないとコースアウトしてしまう」と思ったので、とにかくしっかりとコントロールしながら滑ることに集中しました。突然のアクシデントではありましたが、冷静な判断をして状況に応じた戦略を選んでゴールまで滑りましたので、何かミスをしたということもなく、自分としてはしっかりと滑れたレースでした。ただ残念ながらタイムとしては0.03秒差で4位とメダル獲得には至りませんでした。
―― 数あるレースのなかでも、トリノオリンピックは2本ともにベストな滑りだったということでしょうか?
実はオリンピックには4回出場していますが、唯一ゴールまで滑り切れたのがトリノオリンピックでした。そういう意味でも、自分自身が納得した滑りができたレースでした。
さまざまな人との縁に支えられた競技人生
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左:3歳。スキーを始めたころ 右:4歳。スキーに親しむ
―― 3歳からスキーを始められたそうですが、それはお父さまの影響が大きかったと伺っています。
私の父親は競輪選手だったのですが、獲得した賞金で雪山にペンションを建てることが夢でした。実際に苗場スキー場(新潟)の近くにペンションを建てまして、僕はそこで生まれ育ったので、冬になれば玄関を開けると、すぐそこには銀世界が広がっているという環境でした。だからわりと早いうちから「オリンピック選手になりたい」という夢を抱いてスキーをしていましたが、実際にオリンピックがどれほどのものなのかということは知りませんでした。特に裕福な家庭だったわけでもありませんので、本当のエリートがどういう道を歩んでいくかということもよくわかっていなかったんです。
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堤義明氏(1992年)
―― 小学生の時に、堤義明さんにお会いしたことがあったそうですね。
ペンションのある苗場スキー場に、堤さんもよく来られていましたし、父からも堤さんのことは「とても偉い人だよ」と聞かされていました。堤さんが苗場スキー場に来られた時はいつも周りにはお付きの方が大勢いらっしゃっていたので、僕たち子どもからすると「神様」のような存在だったんです。だからとても近づくことなんてできなかったのですが、僕が小学校高学年の時に、苗場スキー場のパトロールの方が堤さんに「将来オリンピックをめざしてがんばっている子どもがいます」と僕のことを紹介してくれたことがありまして、それがきっかけで何度かお話させていただきました。
その後、中学3年生になって僕が日本代表チームに入った時、全日本スキー連盟主催の「感謝の夕べ」というパーティーで久しぶりに堤さんにお会いしたんです。堤さんも覚えてくださっていて「苗場のあんちゃんじゃないか。がんばって日本代表にまで上がってきたんだな」と声をかけてくださいました。それ以降は、僕のことをとても気にかけてくださいました。
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小学生時代
―― 中学生の時は部活動ではバスケットボール部に入り、その練習が終わるとすぐにスキーの練習と二足の草鞋を履く生活をされていたそうですね。一日24時間では足りなかったのではないでしょうか?
正直、中学校時代は、部活動が終わって校門を出る際、これから遊びに行こうと楽しそうにしている友だちの姿を見て「いいな」と思ったりしたこともありました。でもそういう彼らに背を向けてスキーの練習に行くということを自分に課していました。「同じ1時間でも、彼らとは違う時間を過ごすことによって、自分はオリンピックに近づけるんだ」と自分に言い聞かせながら羨ましさに耐えて練習に行くという毎日を過ごしていました。
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家族と(左が本人、左から2人目が父)
―― 努力することを大切に考えられたのは、やはりお父さまの影響が大きかったのでしょうか?
そうだと思います。父は競輪選手としてはS級(競輪選手にはレベルによって大きく分けて「S級」と「A級」の2つの階級があり、S級が一流選手の証)にぎりぎり入るくらいで、自分で自分のことを「三流選手」と言っていました。喫煙、飲酒、パチンコすべてやる人だったので、僕には「絶対に自分のような選手にはなるな」と反面教師のように言っていました。そんな父がいつも言っていたのは「ずるい選択をするな」ということでした。おそらく一度ずるい選択をしてしまうと、それに引きずられて気持ちまでダメになってしまうから気を付けなさい、ということを言いたかったのだと思います。というのも、父親自身が現役時代を振り返った時に「あの時、ああすればよかった、こうすればよかった」という後悔が少なからずあったと思うんですね。そういう実体験を踏まえて、僕には「自分がさぼった同じ時間、必ず努力している人がいるんだよ」と言っていたのですが、今考えると、そういう父の言葉はすごく大きかったなと思います。
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中学1年生
―― 実際、中学3年生で日本代表候補に入るわけですが、飛躍したきっかけは何かあったのでしょうか?
苗場スキー場には、1972年札幌オリンピックでアルペン日本代表だった柏木正義さんが指導されていたスキー少年団がありました。僕も小学生の時からその少年団に入って柏木さんの指導を受けていました。そんななか、僕にとって大きな転機となったのが、中学1年生の時でした。盛田英夫さん(ソニー創業者の盛田昭夫氏の長男で、盛田アセットマネジメント代表取締役会長などを歴任した実業家)が、1993年に新潟県妙高市に「新井リゾート」というスキー場をオープンしたのですが、その前段階としてスキーヤーを育成するための財団とともにクラブチームを創設されたんです。僕が中学1年生の時にそのクラブチームのセレクションがあったのですが、年齢的に受けることができませんでした。ところが偶然、同級生の家が宿屋を営んでおり、その同級生の父親から前走をやってみないかと誘われたんです。「ぜひ、やりたいです」とお引き受けして、翌日に前走として滑ったのですが、その時にたまたま僕の滑りを見たクラブチームの外国人コーチが「前走の子が一番良かった」と言ってくれて、セレクションの対象ではなかったのですが、クラブチームに入れていただきました。海外遠征にも行けるようになり、日本代表へと上りつめる大きな転機となったことは間違いありません。
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2009年 結婚記者会見
―― 出会いと言えば、2009年には当時フリースタイルスキー・モーグル日本代表として活躍されていた上村愛子*1)さんとご結婚されました。オリンピアン同士のビッグカップルとして注目されましたが、愛子さんとはどのようにして出会われたのでしょうか?
彼女も僕も、1998年長野オリンピックがお互いのオリンピックデビューというくらい、同じ時代に競技をしていましたので、オリンピックの記者会見や練習会場などではよく顔を合わせていました。親しくなったきっかけは、僕が2010年バンクーバーオリンピックを前にしてケガをした時に、彼女に質問をしたことでした。というのも、彼女を含めてモーグルの選手は特にケガをしているわけでもないのに、「年内のワールドカップを欠場」というようなニュースが流れることがあって、ケガで大会に出たくても出られない僕としてはどういう考えがあってのことなのかなと不思議で仕方ありませんでした。それでたまたま彼女と会った時に、ちょっと聞いてみたんです。2人でよくコミュニケーションをとるようになったのは、それからでしたね。
*1)上村愛子:オリンピックには1998年長野から5大会連続で出場し、すべてにおいて入賞。07-08シーズンにはワールドカップで日本人初の年間総合優勝を果たした
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1998年長野オリンピック女子モーグル上村愛子氏
―― ともにトップアスリートとして活躍されていて、夫婦として一緒にオリンピックに出場するというのは、やはりお互いに良い刺激をもらっていたという感じだったのでしょうか?
アスリート同士で切磋琢磨するというよりは、持っている哲学が共鳴し合うことが心地良かったという感じでした。ほかの人に言っても理解してもらえなかったり、単に「すごいね」で終わってしまうことでも、お互いが当事者同士であるために深い部分で理解し合うことができたんです。それが僕にとっては大きな支えとなっていました。もちろん僕の妻ではありますが、あくまでも上村愛子は上村愛子。それぞれが独立した関係性でいたいと思っていますが、僕にとって彼女は最も近しく最もわかり合えるパートナーであることは間違いありません。
―― 皆川さんは現役時代から苗場スキー場の店舗を経営するなど、ビジネスマンとしての顔もお持ちでした。競技とビジネスとの二足の草鞋を履く選手は日本では稀だと思いますが、どのようなことがきっかけだったのでしょうか?
ビジネスをすることになったきっかけは、実は堤さんでした。今思い返すと、20代だったそのころの僕は生意気だったと思います。というのも当時はスキー産業が巨大だったこともあって、特にアルペンスキーヤーはそれほど名が知られていなくても多少なりとも収入がありました。僕も10代のころから収入を得ていて、23歳のころには年収5000万円くらいのプレーヤーになっていました。それで少し僕が調子に乗っていると感じたのだと思います。
ある日、堤さんが僕を苗場スキー場のフードコートに連れて行ったんです。そこでフードコートの責任者の方に堤さんが僕を指してこうおっしゃいました。「彼はスキーヤーなんだけども、スキーばかりしていると頭が悪くなってしまうから、彼に1店舗やらせてもらえないか」と。それが僕のビジネス経営のスタートでした。でも、店舗をいただいたはいいものの、何をすればいいのか最初はまったくわからなくて悩んでいました。
ちょうどその時に、日高正博さん(国内最大級の野外音楽イベント「フジロックフェスティバル」の創始者)が苗場スキー場に来られていたんです。日高さんの常宿が僕の父のペンションだったことから親交があったので、日高さんに堤さんに言われた店舗経営の話を相談したところ「じゃあ、今回のイベントで店舗スペースをひとつやるから、ちょっとやってみろよ」と言われたんです。3日ほどのイベントだったのですが、初めてやってみて「飲食業ってこんなにも大変なビジネスなんだ」とわかりました。それを終えて本格的に堤さんからいただいた店舗経営を始めることになったのですが、最初は右も左もわからない状態でした。当時はまだ22歳でバリバリの現役アスリートでしたから、日々のトレーニングや海外遠征もありましたし、遠征で店舗を不在にすることも多かったので、人から言われるがままにやるしかなく、なかなかうまくいかなかったりして苦労も多かったですね。ただやっていくうちに知識や知恵が付いて、どうすればいいかがわかるようになり、とても貴重な経験になりました。
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冬季産業再生機構の活動
―― 現在は、2021年6月に設立した「冬季産業再生機構」の代表理事を務められていますが、ここではどのようなことを目的とした活動をされているのでしょうか?
2015年に全日本スキー連盟常務理事に就任し、2017年からは競技本部長と、2020年に退任するまで5年間、連盟の役員を務めさせていただきました。その初期のころから言っていたことのひとつとして、雪という自然のなかで活動する僕たちが環境保護に努めなければいけないということでした。地球温暖化や気候変動が叫ばれているなか、これからの時代は雪資源保全を含めた環境問題について、選手自らが積極的に行っていかなければいけない時代だろうと。それを本格的にやりたいと思って、冬季産業再生機構を設立しました。
また、以前はスキー場や観光施設におけるリフトやロープウェイなどの基幹設備の数といったデータが掲載された白書がありました。しかし今はそれがなくなってしまい、僕が全日本スキー連盟の役員をしている時には、当時会長だった北野貴裕さん(北野建設代表取締役会長兼社長および長野県スキー連盟会長。2015~2020年には全日本スキー連盟会長を務めた)に「連盟でスキー白書を出すべきです」というお話もさせていただいたのですが、なかなか実現には至りませんでした。やはり現状を知るデータというのは必要だと思いますので、ゆくゆくは冬季産業再生機構で白書も出したいと思っています。また、冬季スポーツ産業界は一つひとつが小さい中小企業ばかりですので、みんなで束になる場が必要だろうと。そういうことも担える組織になればと思って立ち上げました。
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冬季産業再生機構の活動
冬季産業再生機構では「SAVE THE SNOW」プロジェクトの第一弾として、四季の豊かさや雪の美しさを次世代に訴求することを目的とした絵本プロジェクトを進めてきました。妻の愛子が現役時代に毎年練習日誌を書いていたのですが、そこに小さなキャラクターが登場するんです。それがとても愛子自身に似ているので、そのキャラクターを「雪が大好きなあいこちゃん」という主人公にした絵本が、11月9日に小学館から出版されました。絵本の後ろには雪が本当に降らなくなってしまうのか、という検証データも載せていますので、小学生にも現状を知ってもらいたいと思っています。その絵本を活用して、2022年12月16、17日に岩手県安比高原リゾートでコンサートを行います。総合演出に松任谷正隆さんを迎え、絵本のキャラクター「あいこちゃん」をモチーフにした世界観をお届けします。
また松任谷由美さん、平原綾香さんをゲストに迎えてセッションを行い、冬の始まりを楽しみながら、雪資源の重大さを一緒に考える機会にできたらと思っています。よく「大事だということはわかっているけれども、何をしたらいいかわからない」という選手がいるのですが、僕からすれば、現役アスリートの発信力は大きくて、広範囲に声を届けることができる、それだけですごいことだと思うんです。そういう問題があるということを発信するだけでも十分な活動になるのではないかと思っています。1億2000万人という人口からすれば、今のスキー場の数は多すぎると思います。ですからこれまでのようにスキー場を増やすのではなく、しっかりと整理をして淘汰し、適正化させていくということが重要になってくると思っています。冬季産業再生機構はそうした声をあげる場所にもしたいと思っています。
2022年4月25日には、JOC(日本オリンピック委員会)のアスリート委員会との共催で環境問題を題材にして議論する場として「SAVE THE SNOW∼be active∼」というプロジェクトを立ち上げました。JOCアスリート委員会メンバーと環境問題の専門家を交えて活発な意見交換を行っているのですが、一緒に雪資源の重要性を発信する語り部になってもらえたらと思っています。
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冬季産業再生機構の活動
―― 地球温暖化の影響で以前のように冬に雪が降らなくなり、世界でもオープンできるスキー場はだんだんと高地に限られてきました。そのため、これから冬季オリンピックを開催する場合も人工雪に頼らざるを得ない状況になっていくことが懸念されていますが、選手としては人工雪というのはいかがでしょうか?
まさに2022年に開催された北京オリンピックではまったく雪が降らない場所で行われ、100%人工雪での開催となりました。実はアルペンスキーの選手にとっては、すごく目が細かくて硬い人工雪はありがたいんです。ただほかの競技に関しては、硬すぎて体に負担が大きく、滑りにくいと思います。
―― そう考えますと、やはり自然の雪が降る環境は非常に大切だと思います。スポーツ界が地球温暖化やCO2削減などの問題をもっと真剣に考えていかなければいけないのではないでしょうか?
本当にそう思います。僕自身、小学生の時に見ていた地元の雪渓が何mも下がっていることを目の当たりにしていますので、このままでは大変なことになるということを痛感しています。とはいえ、人ひとりがやれることはとても小さいですし、そう多くはありません。また今から対策を講じても、成果が出るのはかなり先になります。ですから実感がなかなか湧いてこないことが多々あると思います。だからこそ、やはり目に見えるもので伝えることが重要になります。そういう意味では雪というものは目に見える形でわかりますので、非常に伝わりやすいのではないかと思い、冬季産業再生機構では「雪資源」をメインテーマとしています。
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2019年クラスノヤルスク・ユニバーシアード冬季大会日本選手団団長を務める
―― 競技力以外にも、環境問題について真剣に考え、雪資源を残すためにどうすべきか、ということについても、若い世代のアスリートに伝えていくことが重要ですね。
本来はそれが一番やりたいことで、これから僕がやるべきど真ん中にあると思っています。全日本スキー連盟の競技本部長を務めていた時には、シーズンの初めに全競技選手を集めてすべてをあらいざらい伝えるようにしていました。
なぜそういうふうにしていたかと言いますと、強い選手は立場的にものを言えたり、いろいろと考えられるのですが、まだ実績のない選手は余裕がないので自分の競技のことでいっぱいになってしまって、社会や子どもたちに対する問題意識を持つということは難しいんですね。それでも何度も海外に遠征に行って、日本とは違う環境を見ているというのは、それ自体が希少価値だと思いますし、そういう価値ある選手たちにゆくゆくは連盟の役員になって日本スキー界をリードしていってもらいたいと思っているんです。そのためにも、まだ実績がない選手にもいろいろな話をして、何でも言えるような環境をつくることで、どの選手も知らないことがないようにしたいと思って活動してきました。今僕がやっていることを見ている若い世代の選手たちが「いつかは自分も」と思ってくれて、その選手たちをまた後輩が見て育つ、そんなサイクルができたらいいなと思っています。