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「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。

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日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。

冬季オリンピック・パラリンピック
第120回
環境問題と密接な関わりをもつ冬季スポーツ界の現状と展望

皆川 賢太郎

 長きにわたり日本アルペンスキー界のエースとして君臨した皆川賢太郎さん。冬季オリンピックには、1998年長野オリンピックを皮切りに4大会連続で出場しました。なかでも2006年トリノオリンピックでは、男子回転で1本目に3位につけるすばらしい滑りを見せ、アルペンでは史上2人目となる日本人メダリスト誕生の期待が寄せられました。決勝の2本目ではわずか0.03秒差で4位と表彰台にはあと一歩届きませんでしたが、日本アルペンスキー界における歴史的快挙のひとつとして、今も語り草となっています。

 また現役時代からビジネスマンとしての顔を持つことでも知られていました。現役引退後も幅広くご活躍する皆川さんに、冬季スポーツ界の現状と展望を伺います。

聞き手/佐野慎輔 文/斎藤寿子 写真/フォート・キシモト、皆川賢太郎 取材日/2022年9月29日

唯一ゴールの瞬間を迎えたトリノオリンピック

1956年コルチナ・ダンぺッツォ オリンピック男子回転銀メダル 猪谷千春

1956年コルチナ・ダンぺッツォ オリンピック男子回転銀メダル 猪谷千春

―― アルペンスキー日本代表として冬季オリンピックに4回出場されていますが、やはり最も印象深いのが2006年トリノオリンピック(イタリア)でのスラローム(回転)のレースです。1本目はトップと0.07秒差での3位でしたから、報道陣も1956年コルチナ・ダンペッツォオリンピック銀メダリスト・猪谷千春さん以来のメダル獲得を大いに期待していました。実際ご本人としては、1本目を滑り終えて、感触はいかがでしたか?

2006年トリノオリンピックは、自分にとってもとても思い入れ深いオリンピックでした。というのも、4年に一度のオリンピックではいつも出場しているワールドカップと同じような環境ではないことが多いんです。しかし、トリノ大会ではそれまでのワールドカップで何度も滑っていたお馴染みのコースで、同じクオリティが担保されていましたから、僕はそのコースに照準を合わせて臨みました。

2003年に左ひざの靭帯断裂という大ケガをして、そこから一段ずつ階段を上っていくようにして迎えたトリノオリンピックでした。当時の成績は日本代表のなかで2番目、「ケガから復帰した元エース」という立場にあったのですが、何ひとつ邪念がない状態で、ただただオリンピックというステージに立ってレースができるという喜びしかありませんでした。

トリノオリンピックの雪質は「ドライスノー」と言って、少しスキー板にひっかかるために、コースアウトする選手も少なくありません。でも、僕はそういう雪の状態のほうが好きなタイプでしたし、当時帯同してくれていたガスパー(スロベニア人のサービスマン。スキー板のチューンナップやワックスがけを行う職人)と相談しながら行ったスキー板のエッジの調整もすごくうまくいっていました。だからタイムがどう出るかは別として、自分としてはベストの状態でレースに臨むことができました。実際1本目を滑ったところ、逆転の可能性を考えるとトップとは0.5秒以内にしておきたいと思っていたのに0.07秒とほとんど差がない状態でしたので、自分としても最高の滑りができたという感じでした。

2006年トリノオリンピック男子回転4位

2006年トリノオリンピック男子回転4位

―― 決勝の2本目を待つ間は、どんな精神状態だったのでしょうか?

アルペンでは1本目が終わって、2本目が始まるまでに2時間ほど時間が空くのですが、控室で待っている時は不安と意気込みとが入り混じった気持ちになって緊張してくるんです。もちろんレース本番では緊張感はある程度大事ですが、2時間も前から緊張していては疲れてしまいます。それで、僕はいつも待ち時間には読書をして頭を競技から切り離すようにしていました。高い集中力を生み出す緊張感は本番にとっておいて、気持ちをリラックスさせるようにしていたんです。トリノ大会の時も、いつもと同じように控室では読書をして過ごしていました。

―― 2本目のレースでは、スタート直後にスキーブーツのバックルが外れるという不運がありました。あの時は、どのような思いだったのでしょうか?

2本目を滑ることができるのは、1本目での上位30人で、順番としては1本目のタイムが遅い選手から滑っていきます。
僕は30人中27番目のスタートでしたので、どんどん選手がいなくなっていく様子はよく覚えています。いよいよ自分の番になってスタートラインに立った時、「8割の力で滑れば勝てる」という気持ちでいました。

2006年トリノオリンピック男子回転4位

2006年トリノオリンピック男子回転4位

実際スタートも慌てることなくゆっくりと出たのですが、9ターン目の時に、何か異常を感じた結果、ゴール後にバックルが外れていたことがわかったんです。「これは攻めるパーツを減らして滑らないとコースアウトしてしまう」と思ったので、とにかくしっかりとコントロールしながら滑ることに集中しました。突然のアクシデントではありましたが、冷静な判断をして状況に応じた戦略を選んでゴールまで滑りましたので、何かミスをしたということもなく、自分としてはしっかりと滑れたレースでした。ただ残念ながらタイムとしては0.03秒差で4位とメダル獲得には至りませんでした。

―― 数あるレースのなかでも、トリノオリンピックは2本ともにベストな滑りだったということでしょうか?

実はオリンピックには4回出場していますが、唯一ゴールまで滑り切れたのがトリノオリンピックでした。そういう意味でも、自分自身が納得した滑りができたレースでした。

さまざまな人との縁に支えられた競技人生

左:3歳。スキーを始めたころ 右:4歳。スキーに親しむ

左:3歳。スキーを始めたころ 右:4歳。スキーに親しむ

―― 3歳からスキーを始められたそうですが、それはお父さまの影響が大きかったと伺っています。

私の父親は競輪選手だったのですが、獲得した賞金で雪山にペンションを建てることが夢でした。実際に苗場スキー場(新潟)の近くにペンションを建てまして、僕はそこで生まれ育ったので、冬になれば玄関を開けると、すぐそこには銀世界が広がっているという環境でした。だからわりと早いうちから「オリンピック選手になりたい」という夢を抱いてスキーをしていましたが、実際にオリンピックがどれほどのものなのかということは知りませんでした。特に裕福な家庭だったわけでもありませんので、本当のエリートがどういう道を歩んでいくかということもよくわかっていなかったんです。

堤義明氏(1992年)

堤義明氏(1992年)

―― 小学生の時に、堤義明さんにお会いしたことがあったそうですね。

ペンションのある苗場スキー場に、堤さんもよく来られていましたし、父からも堤さんのことは「とても偉い人だよ」と聞かされていました。堤さんが苗場スキー場に来られた時はいつも周りにはお付きの方が大勢いらっしゃっていたので、僕たち子どもからすると「神様」のような存在だったんです。だからとても近づくことなんてできなかったのですが、僕が小学校高学年の時に、苗場スキー場のパトロールの方が堤さんに「将来オリンピックをめざしてがんばっている子どもがいます」と僕のことを紹介してくれたことがありまして、それがきっかけで何度かお話させていただきました。

その後、中学3年生になって僕が日本代表チームに入った時、全日本スキー連盟主催の「感謝の夕べ」というパーティーで久しぶりに堤さんにお会いしたんです。堤さんも覚えてくださっていて「苗場のあんちゃんじゃないか。がんばって日本代表にまで上がってきたんだな」と声をかけてくださいました。それ以降は、僕のことをとても気にかけてくださいました。

小学生時代

小学生時代

―― 中学生の時は部活動ではバスケットボール部に入り、その練習が終わるとすぐにスキーの練習と二足の草鞋を履く生活をされていたそうですね。一日24時間では足りなかったのではないでしょうか?

正直、中学校時代は、部活動が終わって校門を出る際、これから遊びに行こうと楽しそうにしている友だちの姿を見て「いいな」と思ったりしたこともありました。でもそういう彼らに背を向けてスキーの練習に行くということを自分に課していました。「同じ1時間でも、彼らとは違う時間を過ごすことによって、自分はオリンピックに近づけるんだ」と自分に言い聞かせながら羨ましさに耐えて練習に行くという毎日を過ごしていました。

家族と(左が本人、左から2人目が父)

家族と(左が本人、左から2人目が父)

―― 努力することを大切に考えられたのは、やはりお父さまの影響が大きかったのでしょうか?

そうだと思います。父は競輪選手としてはS級(競輪選手にはレベルによって大きく分けて「S級」と「A級」の2つの階級があり、S級が一流選手の証)にぎりぎり入るくらいで、自分で自分のことを「三流選手」と言っていました。喫煙、飲酒、パチンコすべてやる人だったので、僕には「絶対に自分のような選手にはなるな」と反面教師のように言っていました。そんな父がいつも言っていたのは「ずるい選択をするな」ということでした。おそらく一度ずるい選択をしてしまうと、それに引きずられて気持ちまでダメになってしまうから気を付けなさい、ということを言いたかったのだと思います。というのも、父親自身が現役時代を振り返った時に「あの時、ああすればよかった、こうすればよかった」という後悔が少なからずあったと思うんですね。そういう実体験を踏まえて、僕には「自分がさぼった同じ時間、必ず努力している人がいるんだよ」と言っていたのですが、今考えると、そういう父の言葉はすごく大きかったなと思います。

中学1年生

中学1年生

―― 実際、中学3年生で日本代表候補に入るわけですが、飛躍したきっかけは何かあったのでしょうか?

苗場スキー場には、1972年札幌オリンピックでアルペン日本代表だった柏木正義さんが指導されていたスキー少年団がありました。僕も小学生の時からその少年団に入って柏木さんの指導を受けていました。そんななか、僕にとって大きな転機となったのが、中学1年生の時でした。盛田英夫さん(ソニー創業者の盛田昭夫氏の長男で、盛田アセットマネジメント代表取締役会長などを歴任した実業家)が、1993年に新潟県妙高市に「新井リゾート」というスキー場をオープンしたのですが、その前段階としてスキーヤーを育成するための財団とともにクラブチームを創設されたんです。僕が中学1年生の時にそのクラブチームのセレクションがあったのですが、年齢的に受けることができませんでした。ところが偶然、同級生の家が宿屋を営んでおり、その同級生の父親から前走をやってみないかと誘われたんです。「ぜひ、やりたいです」とお引き受けして、翌日に前走として滑ったのですが、その時にたまたま僕の滑りを見たクラブチームの外国人コーチが「前走の子が一番良かった」と言ってくれて、セレクションの対象ではなかったのですが、クラブチームに入れていただきました。海外遠征にも行けるようになり、日本代表へと上りつめる大きな転機となったことは間違いありません。

2009年 結婚記者会見

2009年 結婚記者会見

―― 出会いと言えば、2009年には当時フリースタイルスキー・モーグル日本代表として活躍されていた上村愛子*1)さんとご結婚されました。オリンピアン同士のビッグカップルとして注目されましたが、愛子さんとはどのようにして出会われたのでしょうか?

彼女も僕も、1998年長野オリンピックがお互いのオリンピックデビューというくらい、同じ時代に競技をしていましたので、オリンピックの記者会見や練習会場などではよく顔を合わせていました。親しくなったきっかけは、僕が2010年バンクーバーオリンピックを前にしてケガをした時に、彼女に質問をしたことでした。というのも、彼女を含めてモーグルの選手は特にケガをしているわけでもないのに、「年内のワールドカップを欠場」というようなニュースが流れることがあって、ケガで大会に出たくても出られない僕としてはどういう考えがあってのことなのかなと不思議で仕方ありませんでした。それでたまたま彼女と会った時に、ちょっと聞いてみたんです。2人でよくコミュニケーションをとるようになったのは、それからでしたね。

*1)上村愛子:オリンピックには1998年長野から5大会連続で出場し、すべてにおいて入賞。07-08シーズンにはワールドカップで日本人初の年間総合優勝を果たした

1998年長野オリンピック女子モーグル上村愛子氏

1998年長野オリンピック女子モーグル上村愛子氏

―― ともにトップアスリートとして活躍されていて、夫婦として一緒にオリンピックに出場するというのは、やはりお互いに良い刺激をもらっていたという感じだったのでしょうか?

アスリート同士で切磋琢磨するというよりは、持っている哲学が共鳴し合うことが心地良かったという感じでした。ほかの人に言っても理解してもらえなかったり、単に「すごいね」で終わってしまうことでも、お互いが当事者同士であるために深い部分で理解し合うことができたんです。それが僕にとっては大きな支えとなっていました。もちろん僕の妻ではありますが、あくまでも上村愛子は上村愛子。それぞれが独立した関係性でいたいと思っていますが、僕にとって彼女は最も近しく最もわかり合えるパートナーであることは間違いありません。

―― 皆川さんは現役時代から苗場スキー場の店舗を経営するなど、ビジネスマンとしての顔もお持ちでした。競技とビジネスとの二足の草鞋を履く選手は日本では稀だと思いますが、どのようなことがきっかけだったのでしょうか?

ビジネスをすることになったきっかけは、実は堤さんでした。今思い返すと、20代だったそのころの僕は生意気だったと思います。というのも当時はスキー産業が巨大だったこともあって、特にアルペンスキーヤーはそれほど名が知られていなくても多少なりとも収入がありました。僕も10代のころから収入を得ていて、23歳のころには年収5000万円くらいのプレーヤーになっていました。それで少し僕が調子に乗っていると感じたのだと思います。

ある日、堤さんが僕を苗場スキー場のフードコートに連れて行ったんです。そこでフードコートの責任者の方に堤さんが僕を指してこうおっしゃいました。「彼はスキーヤーなんだけども、スキーばかりしていると頭が悪くなってしまうから、彼に1店舗やらせてもらえないか」と。それが僕のビジネス経営のスタートでした。でも、店舗をいただいたはいいものの、何をすればいいのか最初はまったくわからなくて悩んでいました。

ちょうどその時に、日高正博さん(国内最大級の野外音楽イベント「フジロックフェスティバル」の創始者)が苗場スキー場に来られていたんです。日高さんの常宿が僕の父のペンションだったことから親交があったので、日高さんに堤さんに言われた店舗経営の話を相談したところ「じゃあ、今回のイベントで店舗スペースをひとつやるから、ちょっとやってみろよ」と言われたんです。3日ほどのイベントだったのですが、初めてやってみて「飲食業ってこんなにも大変なビジネスなんだ」とわかりました。それを終えて本格的に堤さんからいただいた店舗経営を始めることになったのですが、最初は右も左もわからない状態でした。当時はまだ22歳でバリバリの現役アスリートでしたから、日々のトレーニングや海外遠征もありましたし、遠征で店舗を不在にすることも多かったので、人から言われるがままにやるしかなく、なかなかうまくいかなかったりして苦労も多かったですね。ただやっていくうちに知識や知恵が付いて、どうすればいいかがわかるようになり、とても貴重な経験になりました。

冬季産業再生機構の活動

冬季産業再生機構の活動

―― 現在は、2021年6月に設立した「冬季産業再生機構」の代表理事を務められていますが、ここではどのようなことを目的とした活動をされているのでしょうか?

2015年に全日本スキー連盟常務理事に就任し、2017年からは競技本部長と、2020年に退任するまで5年間、連盟の役員を務めさせていただきました。その初期のころから言っていたことのひとつとして、雪という自然のなかで活動する僕たちが環境保護に努めなければいけないということでした。地球温暖化や気候変動が叫ばれているなか、これからの時代は雪資源保全を含めた環境問題について、選手自らが積極的に行っていかなければいけない時代だろうと。それを本格的にやりたいと思って、冬季産業再生機構を設立しました。

また、以前はスキー場や観光施設におけるリフトやロープウェイなどの基幹設備の数といったデータが掲載された白書がありました。しかし今はそれがなくなってしまい、僕が全日本スキー連盟の役員をしている時には、当時会長だった北野貴裕さん(北野建設代表取締役会長兼社長および長野県スキー連盟会長。2015~2020年には全日本スキー連盟会長を務めた)に「連盟でスキー白書を出すべきです」というお話もさせていただいたのですが、なかなか実現には至りませんでした。やはり現状を知るデータというのは必要だと思いますので、ゆくゆくは冬季産業再生機構で白書も出したいと思っています。また、冬季スポーツ産業界は一つひとつが小さい中小企業ばかりですので、みんなで束になる場が必要だろうと。そういうことも担える組織になればと思って立ち上げました。

冬季産業再生機構の活動

冬季産業再生機構の活動

冬季産業再生機構では「SAVE THE SNOW」プロジェクトの第一弾として、四季の豊かさや雪の美しさを次世代に訴求することを目的とした絵本プロジェクトを進めてきました。妻の愛子が現役時代に毎年練習日誌を書いていたのですが、そこに小さなキャラクターが登場するんです。それがとても愛子自身に似ているので、そのキャラクターを「雪が大好きなあいこちゃん」という主人公にした絵本が、11月9日に小学館から出版されました。絵本の後ろには雪が本当に降らなくなってしまうのか、という検証データも載せていますので、小学生にも現状を知ってもらいたいと思っています。その絵本を活用して、2022年12月16、17日に岩手県安比高原リゾートでコンサートを行います。総合演出に松任谷正隆さんを迎え、絵本のキャラクター「あいこちゃん」をモチーフにした世界観をお届けします。

また松任谷由美さん、平原綾香さんをゲストに迎えてセッションを行い、冬の始まりを楽しみながら、雪資源の重大さを一緒に考える機会にできたらと思っています。よく「大事だということはわかっているけれども、何をしたらいいかわからない」という選手がいるのですが、僕からすれば、現役アスリートの発信力は大きくて、広範囲に声を届けることができる、それだけですごいことだと思うんです。そういう問題があるということを発信するだけでも十分な活動になるのではないかと思っています。1億2000万人という人口からすれば、今のスキー場の数は多すぎると思います。ですからこれまでのようにスキー場を増やすのではなく、しっかりと整理をして淘汰し、適正化させていくということが重要になってくると思っています。冬季産業再生機構はそうした声をあげる場所にもしたいと思っています。

2022年4月25日には、JOC(日本オリンピック委員会)のアスリート委員会との共催で環境問題を題材にして議論する場として「SAVE THE SNOW∼be active∼」というプロジェクトを立ち上げました。JOCアスリート委員会メンバーと環境問題の専門家を交えて活発な意見交換を行っているのですが、一緒に雪資源の重要性を発信する語り部になってもらえたらと思っています。

冬季産業再生機構の活動

冬季産業再生機構の活動

―― 地球温暖化の影響で以前のように冬に雪が降らなくなり、世界でもオープンできるスキー場はだんだんと高地に限られてきました。そのため、これから冬季オリンピックを開催する場合も人工雪に頼らざるを得ない状況になっていくことが懸念されていますが、選手としては人工雪というのはいかがでしょうか?

まさに2022年に開催された北京オリンピックではまったく雪が降らない場所で行われ、100%人工雪での開催となりました。実はアルペンスキーの選手にとっては、すごく目が細かくて硬い人工雪はありがたいんです。ただほかの競技に関しては、硬すぎて体に負担が大きく、滑りにくいと思います。

―― そう考えますと、やはり自然の雪が降る環境は非常に大切だと思います。スポーツ界が地球温暖化やCO2削減などの問題をもっと真剣に考えていかなければいけないのではないでしょうか?

本当にそう思います。僕自身、小学生の時に見ていた地元の雪渓が何mも下がっていることを目の当たりにしていますので、このままでは大変なことになるということを痛感しています。とはいえ、人ひとりがやれることはとても小さいですし、そう多くはありません。また今から対策を講じても、成果が出るのはかなり先になります。ですから実感がなかなか湧いてこないことが多々あると思います。だからこそ、やはり目に見えるもので伝えることが重要になります。そういう意味では雪というものは目に見える形でわかりますので、非常に伝わりやすいのではないかと思い、冬季産業再生機構では「雪資源」をメインテーマとしています。

2019年クラスノヤルスク・ユニバーシアード冬季大会日本選手団団長を務める

2019年クラスノヤルスク・ユニバーシアード冬季大会日本選手団団長を務める

―― 競技力以外にも、環境問題について真剣に考え、雪資源を残すためにどうすべきか、ということについても、若い世代のアスリートに伝えていくことが重要ですね。

本来はそれが一番やりたいことで、これから僕がやるべきど真ん中にあると思っています。全日本スキー連盟の競技本部長を務めていた時には、シーズンの初めに全競技選手を集めてすべてをあらいざらい伝えるようにしていました。

なぜそういうふうにしていたかと言いますと、強い選手は立場的にものを言えたり、いろいろと考えられるのですが、まだ実績のない選手は余裕がないので自分の競技のことでいっぱいになってしまって、社会や子どもたちに対する問題意識を持つということは難しいんですね。それでも何度も海外に遠征に行って、日本とは違う環境を見ているというのは、それ自体が希少価値だと思いますし、そういう価値ある選手たちにゆくゆくは連盟の役員になって日本スキー界をリードしていってもらいたいと思っているんです。そのためにも、まだ実績がない選手にもいろいろな話をして、何でも言えるような環境をつくることで、どの選手も知らないことがないようにしたいと思って活動してきました。今僕がやっていることを見ている若い世代の選手たちが「いつかは自分も」と思ってくれて、その選手たちをまた後輩が見て育つ、そんなサイクルができたらいいなと思っています。

札幌オリンピックの招致が環境問題解決の糸口に

東京2020オリンピック開会式

東京2020オリンピック開会式

―― コロナ禍で開催された東京2020オリンピック・パラリンピックは、皆川さんの目にはどのように映っていたのでしょうか?

僕は開催していただいたことで、100点満点だったように思います。開催しないとなれば、努力し続けてきたアスリートたちはどういうことになってしまうのかということは、元当事者としては理解していましたので、どのような形であれ、開催したということが何より大事だったと思います。アスリートの思いをしっかりと受け止めてくれたことに敬意を表したいと思いました。

―― さまざまな問題、不祥事もありましたが、コロナ禍においても見事に開催したことを、日本人はもっと誇りに感じ、その意義を日本スポーツ界はもっと発信していくことが重要ではないでしょうか。

その通りだと思います。4年前にJOCの中長期計画を立てる際、一からJOCの価値とは何だろうかという議論からスタートしました。その当時はメダル獲得がオリンピックの最重要価値であることが大前提でしたが、メダル獲得以外の部分での価値の創出や国民の皆さんにお伝えできるものがあること、それだけスポーツは奥深いことをもう少し知っていただきたいなと思います。

―― 今後のオリンピック・パラリンピックのあり方については、どのようなお考えでしょうか?

これまでのように一都市での開催から、今後は競技や種目によって複数の地域にまたがって開催される分散型の形が進んでいくのだと思いますが、僕はこのやり方はとてもいいと思っています。ひと昔前までは商業的側面ばかりが目的のようになっていましたが、東京2020大会では「多様性と調和」を掲げていたように、さまざまなテーマを持った大会へと移行していく、今は転換期にあると思います。ただ、どの開催地においても必ず考えなければいけないのが、開催後の競技会場の有効活用です。「言うは易く行うは難し」ではありますが、やはり招致の時から開催後のことも想定してグラウンドデザインを描く必要があるかと思います。もちろんどの開催地もそんなことは百も承知でデザインも描いているのでしょうが、現実とのズレが大きく、なかなかうまくいっていないのかなという気もしています。

「SNOW JAPAN」記者会見(2021年)

東京2020オリンピック開会式

―― オリンピック・パラリンピック後の跡地の有効活用についてはIOC(国際オリンピック委員会)もその必要性を十分に理解していて、ファンドの形での運営など、いろいろと模索しています。IOCは時代に則して少しずつありようを変えようと努めている印象がありますが、一方JOCはいかがでしょうか?

僕はJOCがやはり日本スポーツ界の統一した思想をまとめる役割を担うべき組織だと思っています。もちろんNF(国内競技連盟)ごとに方針や戦略はありますが、「TEAM JAPAN」という名のもとにやることが非常に重要だということは、僕が全日本スキー連盟にいた時に実感したことでもありました。2018年平昌大会の時に13あるスキー競技では「SNOW JAPAN」とネーミングしたのもその狙いで、すべて同じひとつのチームであると印象付けをしたいと思ってのことでした。実際に連日トップでメディアに取り上げられたのはジャンプの高梨沙羅選手だったのですが、「ジャンプの高梨選手」ではなく「SNOW JAPANの高梨選手」という印象付けをしたところ、「高梨選手だけではなく、SNOW JAPAN全体を応援しよう」ということにつながり、マーケティング収入は4割増しとなりました。こうしたやり方が日本スポーツ界においても必要で、その指揮を執るのがJOCだと思います。

北海道・札幌2030オリンピック・パラリンピック・プロモーション委員会(2022年)

北海道・札幌2030オリンピック・パラリンピック・プロモーション委員会(2022年)

―― 札幌市が2030年冬季オリンピック・パラリンピックの招致をめざしています。不祥事などもあって気運は盛り上がっていません。どのようにお考えですか?

僕は開催について賛成ですし、絶対にやるべきだと考えています。もちろん僕自身が冬季スポーツであるアルペンスキーヤーであり、今力を入れているリゾート再生や観光産業にもつながることだからです。現在、地球温暖化が進み、世界中の山で雪が降らなくなっているなか、日本海からの偏西風が日本列島の中央にそびえたつ山脈にあたって空気が冷たくなり雪が降るという日本のような国はそうはありません。そんな日本に雪が降らなくなったとしたら、世界から雪が消えるということを意味しているのではないでしょうか。雪資源の豊かな日本が、冬季オリンピック・パラリンピックに手をあげることは、地球温暖化や気候変動の問題解決への手がかりにもなります。環境問題、雪資源を前面に押し出すことができれば、札幌での冬季オリンピック・パラリンピック開催は、非常に意義があると思います。

―― 近年、スポーツの世界でも「SDGs(Sustainable Development Goals:持続可能な開発目標)」という言葉がよく聞かれます。2015年の国連サミットで採択された「持続可能な開発のための2030アジェンダ」には2030年までに世界を変えるために達成すべき17の目標を掲げています。SDGs*2)の節目の年でもある2030年に、環境保全、雪資源の重要性を前面に押し出した冬季大会が札幌で開催されれば、これまでとは違ったオリンピック・パラリンピックの開催意義を示すことにもなるわけですね。

オリンピック・パラリンピックの存在意義が問われるなか、興行的側面ばかりが取り上げられがちですが、このオリンピック・パラリンピックのムーブメントには本来はもっと大きな側面があります。スポーツを通して国・地域を超えて互いを理解し合い、平和を構築する、そして地球環境を考えるという本質です。興行イベントとして巨大化してしまった現状について、私たちスポーツ界の人間も決して良いことだとは思ってはいないですし、そういう側面でしか見てもらえない現状をとても残念に思っています。だからこそ、札幌に冬季オリンピック・パラリンピックを誘致して本来あるべき姿を見せたいなと。そういう意味で絶対にやるべきことだと僕は思っていて、札幌への招致を100%支持しています。

*2)SDGs:持続可能な開発目標。2015年9月25日に国連総会で採択された、持続可能な開発のための17の国際目標

日本スポーツ界の統一したブランディングの必要性

―― 日本スポーツ界の発信力が重要になりますが、現状をどう感じられていますか?

僕自身はもっといろいろ発信していくべきだと思いますし、発信したいと思っています。ただそのツールがまだ確立されていないという現状があります。これまでオールドメディアを活用して発信してきたので、そこからまだ移行できていないんです。また日本スポーツ界全体としてのブランディングができていないという問題もあります。興行のプロスポーツか、アマチュアスポーツかの二通りで、すべてを縦割りで成立してしまっていますが、JOCが「TEAM JAPAN」と言っているように、本来は日本スポーツ界全体として統一されたブランディングが確立されるべきです。

2022年北京オリンピック・日本選手団(TEAM JAPAN)結団式で挨拶する山下JOC会長

2022年北京オリンピック・日本選手団(TEAM JAPAN)結団式で挨拶する山下JOC会長

―― スポーツの一つひとつの団体や組織は脆弱な部分もありますので、ひとつにまとまって何かできるといいですね。

本来はその方向に進むべきだと思います。NFに紐づく団体が全国にありますが、地方では個人の自宅に事務所を構えているような小さな団体もあります。国民体育大会などが開催される場合は、地元に精通した方たちに力を発揮していただけるというプラスの面もありますが、組織としての力という部分では脆弱さを拭えません。だからこそ、日本スポーツ界全体がひとつになってやっていくほうが、大きな力 を発揮できるのではないかと思います。

JOC/NF合同アスリート委員会で発言する太田雄貴氏(2022年)

JOC/NF合同アスリート委員会で発言する太田雄貴氏(2022年)

―― そうした方向に強く推し進めていく存在として、皆川さんの世代の方たちがキーマンとなるのではないでしょうか。

そうですね。現在ではJOCの理事にも若い世代がメンバーに入るようになりまして、そのひとりが太田雄貴*3)さんです。彼のすごいところはさまざまな人たちを巻き込んでいくこと。選手に対しても、日本代表だけではなく、男女を問わず、まんべんなく声をかけるんです。

それは太田さんの考えているビジョンや狙いを全体に浸透させていこうとする言動だと思いますが、それによってJOCの中でも少しずつ発信力を高めていっています。僕たちの間では、太田さんを筆頭に、JOCの選手強化を担っている井上康生さん、体操の水鳥寿思さんなどに期待しています。太田さんたちが、日本スポーツ界をけん引していくという自覚を持っていただいていることが、支える僕たちとしては嬉しいですよ。

*3)太田雄貴:元フェンシング日本代表。2008年北京大会ではフルーレ個人で日本人初の銀メダルを獲得。2012年ロンドン大会ではフルーレ団体で銀メダルを獲得した。国際フェンシング連盟副会長、日本フェンシング協会会長を歴任し、2021年には日本人で初めてIOC選手委員会選挙で当選。2022年にはJOCの理事に就任

パラスポーツ界レジェンドの新田佳浩氏

パラスポーツ界レジェンドの新田佳浩氏

――「日本スポーツ界」という意味では、パラスポーツも大事な柱です。パラスポーツとはどのように関係性を築いていくべきだと思いますか?

僕はNFや施設を一本化すべきだと思っています。脆弱な組織をいくつも構えるよりも、しっかりとした基盤のある事務所をひとつ構えて、施設もパラスポーツでも使用できるものを全国でひとつ、もしくは東西でひとつずつ構えたほうが適正だと思います。それは各競技にも言えることで、例えば体操競技とフェンシングでそれぞれメイン会場を持つというのは非常に大変です。両方の競技が使用可能な施設をつくればいいのです。誰もが必要と感じていますが、現状では遅々として進んでいません。もちろん僕ひとりで何かできるわけではないですが、いつか取り組みたいと思っていることのひとつではあります。というのも、スポーツの持つ力は本当に大きいと思うんです。子どものころからひとつのことを極めるために努力をしてきたアスリートには、その経験から創出された哲学がひとりひとりにあって、しっかりとした考えを持っている人が本当に多いのです。そうしたアスリートが現役を終えたあと、社会で活躍することは日本の発展にとってもすばらしいことだと思います。そのためにも日本スポーツ界がさらに発展していける状態にしていかなければいけないと考えています。

環境の違いから生まれるヨーロッパとの競技力の差

―― 冬季スポーツにおける日本の競技環境については、いかがでしょうか?

スキーの13種目のなかでいわゆる「伝統種目」と言われているのが、アルペン、ジャンプ、クロスカントリー、ノルディック複合になります。いずれもヨーロッパでは産業として発展していて、アマチュア選手でも賞金が出るようなレースがたくさん開催されています。そうしたフィールドがあるのは日本人選手にとってもとても良いことだと思っています。その一方で日本国内に目を向けると、伝統種目として継承してきた歴史とデータが蓄積されてきているはずなのに、それが生かされていないという現実があります。そのために世界をめざそうとする若い選手たちは、世界に到達するために非常に時間を要し、遠回りせざるを得ません。

2022年北京オリンピックノルディック複合個人ラージヒルで銅メダルを獲得した渡部暁斗選手

2022年北京オリンピックノルディック複合個人ラージヒルで銅メダルを獲得した渡部暁斗選手

例えばノルディック複合の渡部暁斗*4)選手がオリンピックで3大会連続のメダルを獲得しましたが、同じような世界トップクラスの海外の選手はスタッフが20名もいるような体制で活動しているなか、日本では渡部選手クラスでもスタッフは7、8人の体制なんです。渡部選手の絶え間ない努力やアスリートとしての資質の高さ、スタッフを含めて全員の士気が高かったからこそ、あそこまでの成績を残せたのだと思いますが、まだまだ世界で活躍する選手を育てる環境には至っていないというのが日本の現状です。僕が全日本スキー連盟の役員を務めていた時には、まずその環境を国内で整えることが重要だと考えていました。そこで欠かせないと考えていたのが、5G(高速大容量、高信頼・低遅延通信、多数同時接続を可能とした第5世代移動通信システム)の拡大です。というのも野外スポーツのレース会場は仮設で建てられるのですが、例えばアルペンスキーはスタートからゴールまで2㎞ほどあって、自衛隊がスタート地点まで登ってケーブルを引いているんです。そのコストが莫大で、大会を開催するたびに数億円もかかります。放映権もそれほど売れないなかで、それだけ大きなコストがかかるというのは悩ましい問題です。それが5Gの拡大によってコスト削減となれば、アルペンだけでなく、野外スポーツ全体の大会のレベルが上がり、集客や注目度の高さにもつながっていくのではないかと思っています。またスキーのライバルというと、隣で滑っているスノーボードだという見方が往々にしてあるかと思いますが、僕はそうは思っていません。同じ雪山でやる野外スポーツが一体となってライバル視すべきは、バスケットボールなど同じ冬に開催されるスポーツ。早くそのレベルにまでもっていくという気概も必要だと思っています。

*4)渡部暁斗:2014年ソチ、18年平昌と2大会連続で個人ノーマルヒル・銀メダル。2022年北京大会では個人ラージヒルで銅メダルを獲得

―― アルペンスキーでヨーロッパ勢が強い最大の要因はどこにあるのでしょうか?

日本でアルペンスキーのコースをつくる場合、たいていは大きな起伏はすべて削って平らにし、安全性を重視します。一方、ヨーロッパでは自然にできた起伏をそのままコースに生かすというやり方をしています。そのために、起伏のないきれいに整備されたコースを滑るのは日本人はとても得意ですが、あらゆる起伏や天候を前にするとヨーロッパとの差が生まれてしまいます。また、滑降(ダウンヒル)では5㎞前後滑り降りるのですが、その環境が日本には皆無に等しく、強化するには海外に行かなければいけないというハードルがあります。そのために僕が全日本スキー連盟の競技本部長をしている時は、強化費を国内で強化が可能な技術系(回転、大回転)の種目に絞るという決断をしました。周囲からはブーイングがありましたが、実際に自分自身が滑降をやっていたからこそ、そうせざるを得ない現状を強く感じていました。集中と選択をしないと、現状のままではオールラウンダーの選手を日本で育てるということは難しいんです。実際、日本でも滑降のコースをつくることは技術的には可能です。極端に言えば、水をまいて凍らせて、フィギュアスケートのリンクのような状態をつくれば十分にできるんです。しかし、そんな硬い雪質のコースは、とても一般のスキーヤーは滑ることができません。ヨーロッパでは一般のスキーヤーが滑らないという前提でアスリート専用コースがつくられているのでいいのですが、日本では2、3時間をアスリートのトレーニングに貸したあとには、同じコースをそのまま一般に開放しますので、一般のスキーヤーが使用できないコースをつくることができないんです。そうしたさまざまな環境面の違いが、ヨーロッパ勢と日本とにはあるというのが現状です。

―― そうした現状のなか、アルペンスキーで世界トップの選手を日本で育てるには、どんなことが重要となるのでしょうか?

基本的にアルペンスキーヤーが上達するためには、野球で言う「千本ノック」のように多くのターン数をこなすことが非常に重要なのですが、日本人選手はそのターン数も不足しています。そこで菅平高原パインビークスキー場(長野県)にNTC(ナショナルトレーニングセンター)競技別強化拠点を設けたのですが、あの小さなスキー場でも一日30本滑れば、十分にターンの練習をすることができます。それを子どものころから積み重ねていった場合、海外選手を上回ることができ、それが必ず技術の向上につながっていきます。そのあとは、海外を転戦しながら強化していけばいいわけですが、まずはターン数をこなせる「製造工場」が日本国内にも必要だということで菅平に拠点を設けました。今後はそれを十分に生かしてもらいたいと思っています。

2022年北京オリンピック男子ハーフパイプで金メダルを獲得した平野歩夢選手

2022年北京オリンピック男子ハーフパイプで金メダルを獲得した平野歩夢選手

―― 世界を相手に戦える選手を育てるには、アルペン以外にも冬季競技の強化拠点は必要ではないでしょうか。

おっしゃる通りです。例えば、スノーボード・ハーフパイプでは、平野歩夢*5)選手が個人的な練習拠点としていた青森スプリング・スキーリゾートを強化拠点にしたいと思い、歩夢くんにお願いをしたところ「日本のためになるなら、ぜひお願いします」と快諾をしてくれました。当時、そこはアメリカ人の投資家が購入していたので、彼と交渉をして引き続き投資をしていただくのと同時に、国からの補助金も付けてハーフパイプの強化拠点としました。またスキーとスノーボードのスロープスタイルやビッグエアの競技においては、東北クエスト(宮城県)に夏でも練習できる拠点を設けました。まだ強化策としてブレークしてはいませんが、これから成果が出てくると期待しています。

*5)平野歩夢:スノーボード・ハーフパイプで2014年ソチ、2018年平昌と2大会連続で銀メダル。2022年北京大会で悲願の金メダルに輝いた。東京2020大会にはスケートボード日本代表として出場した

現役時代から社会意識が求められる時代

―― 皆川さんご自身は現役引退後も幅広い活動で活躍されていますが、アスリートがセカンドキャリアを考えるうえで重要なことは何でしょうか?

日本では選手は競技に集中することが良いこととされている風潮があるので、現役中は競技以外のことはしなくていいという考えが往々にしてあるかと思いますが、僕自身はそうは思っていません。たとえ一日の練習が二部制だったとしても、その間には必ず休憩時間があるわけです。そうした時間に何をやるかというと、たいていの選手はゲームをしたり、動画を見たりしていると思うのですが、結局はそうした競技以外の時間をどう有効活用するかなのだと思います。もちろん体を休めることは絶対に必要ですが、体を休めながら脳だけを働かせることはできます。僕の場合は、前述したようにたまたま店舗経営というビジネスをさていただく機会をいただいていましたので、競技以外の時間に経営のことを勉強したり資料づくりをしたりしていました。周囲からはよく「休まなくて大丈夫ですか」と言われましたが、僕にしたら働いているのは脳だけなので、体は十分に休ませていました。だから数時間後に再び練習に戻っても、問題なくトレーニングをすることができました。そういうふうに時間の使い方次第で、ほかに知識を増やすということは、現役中にも十分に可能だと思います。もちろん雑誌を読んだりインターネットを見たりしてもいいと思うんです。それだって十分に知識を増やすことになります。結局は同じ時間を過ごすなら、何か目的を持って行動することが大切だということです。

―― 皆川さんご自身は、スキー以外にも中学生の時にはバスケットボール部に所属していましたが、早い時期からひとつの競技を徹底してやるよりも、子どものころにはさまざまなスポーツを経験させたほうがいいでしょうか?

僕は自分自身のことを振り返っても、いろいろなスポーツを経験することは非常に大事だと思っています。もともと僕は球技が好きだったので、バスケットボールも楽しんでやっていたのですが、今思うと自分の体を動かしながら、ボールなど意思のないものを自分の意思でコントロールして操り、さらに相手をかわすという、3つの動きをするわけですから、体だけでなく脳が鍛えられたんじゃないかなと。そんなふうにして、いろいろなスポーツをすることによって、さまざまな部分が鍛えられるのはとてもいいことだと思います。ただ、ひとつのことを極めようと思えば、やはり「千本ノック」のように、同じことを繰り返すという練習は不可欠ですので、どちらも重要なのではないかと思います。

スキーに親しむ最近の皆川賢太郎氏

スキーに親しむ最近の皆川賢太郎氏

―― 日本は超高齢化社会を迎え、健康寿命の重要性が叫ばれています。スポーツと深く関わる問題でもあり、健康寿命の重要性についてアスリートがインフルエンサーになることが一番効果も生まれやすいと思いますが、アスリートへの意識づけは、どうしていくべきでしょうか?

結論を先に述べさせていただきますと、僕はJOCがやるべきものだと思っています。というのも、JOCの最も重要な役割として各NFでがんばった選手をオリンピックに派遣するということがあって、それに伴って国からの補助金を分配するわけですが、成績以外にも選手に求めることはたくさんあります。しかし、これまではJOCからNFに資料を渡しても、実際に選手には届いていないということが多々ありました。私は現在、JOCの選手強化中長期戦略プロジェクトサービスマネージャー兼データ&テクノロジーワーキンググループリーダーを務めていますが、その役職に基づいて、JOCの事務局の方や井上康生さん、水鳥寿思さんなどにご意見をいただきながら、デジタルネットワークの改修を進めています。JOCがJOCのネットワークの人たちをデジタル管理することで、選手個人とNFの両方を管理することができるので、選手登録も含めて、選手がダイレクトにJOCとのつながりを持てるようになります。そうすれば、スポーツ政策についても、JOCから直接選手たちに届けられるようになるのではと思っています。

皆川賢太郎氏(当日のインタビュー風景)

皆川賢太郎氏(当日のインタビュー風景)

―― 10年後、20年後の展望については、いかがでしょうか?

あまりにも範囲を広げてしまうと実現性が低くなってしまうので、僕自身は「雪資源」に絞ってやらせていただいているのですが、現役時代から競技とビジネスをやってきた自分としては、スポーツ産業で活躍する人材が必要だと思っていて、そのモデルケースを雪産業からつくって、それを各業界にも広げていけたらいいなと考えています。

そして、もうひとつは先ほど申し上げたJOCのデジタル管理によって、選手に直接重要なことを届けられるようにすること。少なくとも5年以内には、日本代表選手、強化指定選手、その関係者のネットワークにおいてはJOCが管理できるようなシステムを構築したいと考えています。そうした基盤を整えておくと、ビジネス団体や財団の方たちとの提携もスムーズに行うことができるようになりますので、まずはそれまでが今自分に与えられた仕事だと思ってがんばっているところです。そうしたことの成果として、10年後には日本スポーツ界に何か大きな風が吹く時代になっているといいなと思っています。

―― 最後に、次世代に残したいものとは何でしょうか?

ズバリ「雪」です。もちろんスポーツ界にもさまざまなアンテナを張っていますが、ただ雪がないと、僕たちが歩んできた歴史を振り返ることもできなくなってしまいますし、今一生懸命に世界をめざしてがんばっている選手たちの存在自体が消えてしまいます。それは絶対に守って後世に残したいと思っています。もうひとつは、スポーツが社会的に欠かせない存在として、より確立させられたらいいなと思います。本来スポーツはそういうものだと思うのですが、なかなかそうならない現実があるので、もう空気くらい当たり前のように社会に必要なものであるという認識が広がってほしいと思います。

  • 皆川 賢太郎氏 略歴
  • 世相

1912
明治45

ストックホルムオリンピック開催(夏季)
日本から金栗四三氏が男子マラソン、三島弥彦氏が男子100m、200mに初参加

1916
大正5

第一次世界大戦でオリンピック中止

1920
大正9

アントワープオリンピック開催(夏季)
熊谷一弥氏、テニスのシングルスで銀メダル、熊谷一弥氏、柏尾誠一郎氏、テニスのダブルスで 銀メダルを獲得

1924
大正13
パリオリンピック開催(夏季)
織田幹雄氏、男子三段跳で全競技を通じて日本人初の入賞となる6位となる
内藤克俊氏、レスリングで銅メダル獲得
1928
昭和3
アムステルダムオリンピック開催(夏季)
日本女子初参加
織田幹雄氏、男子三段跳で全競技を通じて日本人初の金メダルを獲得
人見絹枝氏、女子800mで全競技を通じて日本人女子初の銀メダルを獲得
サンモリッツオリンピック開催(冬季)
1932
昭和7
ロサンゼルスオリンピック開催(夏季)
南部忠平氏、男子三段跳で世界新記録を樹立し、金メダル獲得
レークプラシッドオリンピック開催(冬季)
1936
昭和11
ベルリンオリンピック開催(夏季)
田島直人氏、男子三段跳で世界新記録を樹立し、金メダル獲得
織田幹雄氏、南部忠平氏に続く日本人選手の同種目3連覇となる
ガルミッシュ・パルテンキルヘンオリンピック開催(冬季)

1940
昭和15
第二次世界大戦でオリンピック中止

1944
昭和19
第二次世界大戦でオリンピック中止

  • 1945第二次世界大戦が終戦
  • 1947日本国憲法が施行
1948
昭和23
ロンドンオリンピック開催(夏季)*日本は敗戦により不参加
サンモリッツオリンピック開催(冬季)

  • 1950朝鮮戦争が勃発
  • 1951日米安全保障条約を締結
1952
昭和27
ヘルシンキオリンピック開催(夏季)
オスロオリンピック開催(冬季)

  • 1955日本の高度経済成長の開始
1956
昭和31
メルボルンオリンピック開催(夏季)
コルチナ・ダンペッツォオリンピック開催(冬季)
猪谷千春氏、スキー回転で銀メダル獲得(冬季大会で日本人初のメダリストとなる)

1959
昭和34
1964年東京オリンピック開催決定

1960
昭和35
ローマオリンピック開催(夏季)
スコーバレーオリンピック開催(冬季)

ローマで第9回国際ストーク・マンデビル競技大会が開催
(のちに、第1回パラリンピックとして位置づけられる)

1964
昭和39
東京オリンピック・パラリンピック開催(夏季)
円谷幸吉氏、男子マラソンで銅メダル獲得
インスブルックオリンピック開催(冬季)

  • 1964東海道新幹線が開業
1968
昭和43
メキシコオリンピック開催(夏季)
テルアビブパラリンピック開催(夏季)
グルノーブルオリンピック開催(冬季)

1969
昭和44
日本陸上競技連盟の青木半治理事長が、日本体育協会の専務理事、日本オリンピック委員会(JOC)の委員長に就任

  • 1969アポロ11号が人類初の月面有人着陸
1972
昭和47
ミュンヘンオリンピック開催(夏季)
ハイデルベルクパラリンピック開催(夏季)
札幌オリンピック開催(冬季)

  • 1973オイルショックが始まる
1976
昭和51
モントリオールオリンピック開催(夏季)
トロントパラリンピック開催(夏季)
インスブルックオリンピック開催(冬季)
 
  • 1976ロッキード事件が表面化
  • 1977皆川 賢太郎氏、新潟県に生まれる
1978
昭和53
8カ国陸上(アメリカ・ソ連・西ドイツ・イギリス・フランス・イタリア・ポーランド・日本)開催  
 
  • 1978日中平和友好条約を調印
1980
昭和55
モスクワオリンピック開催(夏季)、日本はボイコット
アーネムパラリンピック開催(夏季)
レークプラシッドオリンピック開催(冬季)
ヤイロパラリンピック開催(冬季) 冬季大会への日本人初参加

  • 1982東北、上越新幹線が開業
1984
昭和59
ロサンゼルスオリンピック開催(夏季)
ニューヨーク/ストーク・マンデビルパラリンピック開催(夏季)
サラエボオリンピック開催(冬季)
インスブルックパラリンピック開催(冬季)

1988
昭和63
ソウルオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
鈴木大地 競泳金メダル獲得
カルガリーオリンピック開催(冬季)
インスブルックパラリンピック開催(冬季)

1992
平成4
バルセロナオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
有森裕子氏、女子マラソンにて日本女子陸上選手64年ぶりの銀メダル獲得
アルベールビルオリンピック開催(冬季)
ティーユ/アルベールビルパラリンピック開催(冬季)
1994
平成6
リレハンメルオリンピック・パラリンピック開催(冬季)

  • 1995阪神・淡路大震災が発生
1996
平成8
アトランタオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
有森裕子氏、女子マラソンにて銅メダル獲得

  • 1997香港が中国に返還される
1998
平成10
長野オリンピック・パラリンピック開催(冬季)

  • 1998皆川 賢太郎氏、長野オリンピック スキー・アルペン出場
2000
平成12
シドニーオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
高橋尚子氏、女子マラソンにて金メダル獲得

  • 2000皆川 賢太郎氏、アルペンスキー・ワールドカップで総合18位
    皆川 賢太郎氏、アルペンスキー世界選手権で10位
2002
平成14
ソルトレークシティオリンピック・パラリンピック開催(冬季)

  • 2002皆川 賢太郎氏、ソルトレークシティオリンピック スキー・アルペン出場
2004
平成16
アテネオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
野口みずき氏、女子マラソンにて金メダル獲得

  • 2004皆川 賢太郎氏、アルペンスキー・ワールドカップで7位入賞
  • 2005皆川 賢太郎氏、アルペンスキー・ワールドカップ第5戦4位入賞、第7戦6位入賞、第10戦7位入賞、総合で10位となり、第一シードに復帰
2006
平成18
トリノオリンピック・パラリンピック開催(冬季)

  • 2006皆川 賢太郎氏、トリノオリンピック スキー・アルペンで4位入賞
    皆川 賢太郎氏、アルペンスキー・ワールドカップ第1戦13位
2007
平成19
第1回東京マラソン開催

2008
平成20
北京オリンピック・パラリンピック開催(夏季)
男子4×100mリレーで日本(塚原直貴氏、末續慎吾氏、高平慎士氏、朝原宣治氏)が3位となり、男子トラック種目初のオリンピック銅メダル獲得

  • 2008皆川 賢太郎氏、コンチネンタルカップ優勝
  • 2008リーマンショックが起こる
  • 2009皆川 賢太郎氏、全日本スキー選手権大会アルペンで優勝
2010
平成22
バンクーバーオリンピック・パラリンピック開催(冬季)

  • 2010皆川 賢太郎氏、バンクーバーオリンピック スキー・アルペン出場
  • 2011皆川 賢太郎氏、Far East Cupアスペン第3戦優勝
  • 2011東日本大震災が発生
2012
平成24
ロンドンオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
2020年に東京オリンピック・パラリンピック開催決定

  • 2012皆川 賢太郎氏、Far East Cupアスペン年間総合優勝
2013
平成25
2020年に東京オリンピック・パラリンピック開催決定

2014
平成26
ソチオリンピック・パラリンピック開催(冬季)

  • 2014皆川 賢太郎氏、現役を引退
  • 2015皆川 賢太郎氏、全日本スキー連盟常務理事に就任
2016
平成28
リオデジャネイロオリンピック・パラリンピック開催(夏季)

  • 2016皆川 賢太郎氏、アスペンスキー・ワールドカップ2016実行委員会副委員長に就任
  • 2017皆川 賢太郎氏、全日本スキー連盟競技本部長に就任
    皆川 賢太郎氏、日本オリンピック委員会選手強化常任委員に就任
2018
平成30
平昌オリンピック・パラリンピック開催(冬季)

  • 2018皆川 賢太郎氏、アスペンスキー・ワールドカップ2020実行委員会副委員長に就任
  • 2019皆川 賢太郎氏、ユニバーシアード冬季大会日本選手団団長に就任
2020
令和2
新型コロナウイルス感染症の世界的流行により、東京オリンピック・パラリンピックの開催が2021年に延期
2021
令和3
東京オリンピック・パラリンピック開催(夏季)

  • 2021皆川 賢太郎氏、冬季産業再生機構会長に就任
2022
令和4
北京オリンピック・パラリンピック開催(冬季)