忘れてはいけない“教わる”姿勢
札幌オリンピック70m級ジャンプで銅メダルを獲得した青地清二氏(1972年)
――最初の勤務地である旭川放送局の後は、札幌、名古屋、大阪、東京で勤務されましたが、いずれもスポーツの実況をされていたんですか?
札幌放送局の時は、スポーツアナウンサーとしてはまだ半人前でした。それでもアイスホッケー、フィギュアスケート、スピードスケート、スキーマラソンの取材や実況を経験しました。ジャンプの取材で毎週、大倉山や宮の森に出かけて、実況も一度だけでしたが担当させてもらいました。解説が札幌オリンピック銅メダルの青地清二さんで、ガチガチに緊張しながら放送したのを憶えています。
そのあと名古屋に転勤してやっとスポーツの要員としてカウントされたのだと思います。名古屋には大相撲もあれば中日ドラゴンズもありましたから。アナウンサーになって9年目ですね。以降は、ずっとスポーツ中心です。
――名古屋放送局時代は、スキージャンプなど冬季競技の実況はされていたのでしょうか?
ほとんどしていません。
名古屋は、当時のナゴヤ球場に通いながらプロ野球の取材と放送のやり方を学んだ時期です。星野仙一さんが最初に監督に就任したころです。あと大阪にも頻繁に出張して駅伝やマラソンのスタッフにも入れてもらえるようになりました。そして、大阪に転勤して迎えた1988年のカルガリー大会で、初めて実況要員としてオリンピックに行かせてもらいました。
――ご自身がスポーツの実況アナウンサーとして自信を持てるようになったのは、何かきっかけはありましたか?
自信はなかなか持てませんね。40歳過ぎたくらいから「なんとかなるだろう」とは思えるようになりましたが。だって、今に至っても「完璧にやれた」とか「100%できた」という放送はありませんから。
生放送は言い直しができない一発勝負で、あれだけ早く複雑に動くスポーツを数時間も見続けて集中力を切らさずにコメントして、すべてが適切だったなんて難しいですよね。どこかに、ああ言えば良かったとか、あの動きに触れるべきだったとか、あのエピソードをもっと詳しく言いたかったとか…どうしても悔いが残ってしまいます。
不思議なことに、あとから録画を見返すと、むしろ「うまくやれた」と思った時ほど失敗が見つかります。言葉の選び方、表現、タイミング、解説者への質問など、嫌なところがいっぱい出てきます。逆に表現に悩んだり、言葉に苦しんだ時の放送のほうが、すっきり聞けたりするんですね。
私はあまり自信を持ちすぎるよりも、自信を持つことに慎重であっていいと思っています。自信を持ちすぎると思い込みに陥りやすくなります。思い込みが強くて独りよがりの実況ほど聞きづらいものはありませんから。
カルガリーオリンピックに派遣されたNHKアナ。左から3人目が羽佐間氏。右が本人(1988年)
――アナウンサーの方はただ当日実況をすればいいというわけではなく、その前の準備も大変だと思います。
アナウンサーでただ一人、野球殿堂入りを果たしている志村正順さん(元NHKアナウンサー。昭和の時代に大相撲やプロ野球などスポーツ実況中継を担当)は「100試合見て、1試合しゃべりなさい」と言っていたそうです。それだけ多くの試合を見てやっと、選手の動きの意味、チームの特徴、試合の流れが見えてくるのだと思います。
要はスポーツを見る目を磨くというのが実況者の一番の準備だということだと思いますが、選手への取材や資料、特にデータ類の整理は欠かせない準備です。
日常のデータ整理として、例えばプロ野球担当のアナウンサーが毎日やっているのが「帳付け」と呼ばれる作業です。
前日に行われたプロ野球の全6試合の記録を、今ならインターネット上の結果画面を見ながら、選手ごとに、何打数何安打、ホームラン何号…というようにノートに書き写していくのです。これが1試合に15分かかるとして、6試合で1時間半くらい、ダラダラとやっているとすぐに2時間以上はかかってしまいます。
私も、プロ野球中継をやり始めたころからNHKを退職するまで30年以上続けました。海外出張の時も、家族で温泉に行く時もこのノート持参です。雨で全試合が中止になった翌朝は「帳付け」がありませんので、安心してゆっくり寝ていました。
こうした「帳付け」以外にも対戦成績やら選手プロフィールなどの資料を用意するわけですが、実際の放送でどれだけ使われるかというとせいぜい2~3割だと思います。あとはボツ。無駄になってしまいますがしょうがないですね。スポーツは筋書きのないドラマだと言われますが、想定外の事態に備えるためにもたくさんの資料を準備するしかないんです。
カルガリーオリンピック、オーバル放送席。左が本人(1988年)
――もちろん自分でも準備をしていきますが、ラジオの実況中継を聴いて「なるほど、そういうことだったのか」と気づかされることも多々ありました。特に新聞記者にとっては早版の締め切り時間がありますので、その場で情報を知れるというのはとてもありがたいことでした。
私たちも、実況した翌日の新聞の見出しや談話というのは、とても気になりました。自分がしゃべっていたことと合致していれば「あれで良かったんだ」と安堵しますし、「そんなことがあったのか。それは知らなかった」と反省することもありました。
――解説者もそれぞれ性格や意見が違いますので、聞き方や質問の内容を変えたりするなどご苦労もあったのではないでしょうか?
解説者の方のバックグラウンドはさまざまです。種目やポジションのスペシャリストであったり、指導者としての実績を残されたり、高い競技力のなかで厳しい勝負の世界を生きてこられた稀な経験をお持ちの方だったりと。そして、皆さん一家言お持ちで、個性的な方たちです。私は、解説者はそのスポーツを教えてくれる「師匠」であり、放送を一緒につくり上げる「共演者」だと思ってきました。
まず大事なのは「教わる姿勢」だと思っています。素直に教わるんだ、という気持ちを持ち続ければ必ず解説者は教えてくれます。だって彼らは「教える」ために放送席にいるのですから。ここで注意しなければいけないのが思い込みや予断です。思い込みや予断でする質問が一番、嫌われます。解説者の教えてやろうという意欲をそいでしまいます。教わる姿勢で話を聞けば「発見」があります。「あっ、そうか!」「えっ、違うの!」と。知らなかったことを知ることは驚きです。驚くと心が弾みます。だんだんそれが重なって感動につながっていくんです。
だから「発見」の多い放送は面白いのです。「ああ、今日もいろいろなことを教わった」とアナウンサーが思うような実況は、きっと視聴者の方も耳を傾けてくれただろうと思います。解説者といえば、鶴岡一人*3)さんや川上哲治*4)さんという大監督と放送をご一緒させていただいた経験は私の宝です。初めての時鶴岡さんから「あんた、給料いくらもろとんかい?どうせ、安いんやろ」と聞かれて戸惑ってしまいました。あとでわかるんですが、これは、「お前は、まだ給料も安い若造だから失敗はあたりまえだ。ワシに任せて何でも聞いてこい!」という意味の鶴岡さん流の励ましなんですね。“親分”と慕われた鶴岡さんの懐の大きさを感じました。川上さんは放送中に何を話すのか、事前にしっかり確認される方でした。「今日のゲームは、これとこれを言いたい。このことは必ず聞いてください」とか。ところが、そんな堅物のイメージの強い川上さんに「工藤くんの実況は面白くないんだなあ。1時間に1回くらい私を笑わせてみなさい」と言われたことがありました。えっ、あの“哲のカーテン”の川上さんをどう笑わせるの?とほとほと困りましたが、これもつまりは、もっと視野を広げて、ゆとりを持ちなさいという川上さんの教えだったと思っています。
川上さんの笑い声って、「わっはっはっは」と豪快でしたね。声が大きくて。放送が終わるとよく笑われましたが、放送中はなかなか笑っていただけませんでした。
*3)鶴岡一人:現役時代は南海<現・福岡ソフトバンクホークスの前身>でプロ1年目に本塁打王、その後初代MVPに輝くなど活躍。監督としても南海の黄金時代を築き、史上最多の1773勝を記録した名将
*4)川上哲治:高校卒業後に巨人に入団し、本塁打王、首位打者に輝くなど活躍。また“赤バット”の異名で人気を博した。監督として巨人を9シーズン連続で日本一に導くなど知将としても知られる
感動を共有する
――工藤さんが初めて冬季オリンピックの実況を務めたのは、1988年カルガリー大会(カナダ)でしたね。
羽佐間正雄*5)さんをリーダーに、朝妻基祐アナ、杉林昇アナ、山本浩アナ、そして私の5人。羽佐間さんと朝妻さん以外は初めてのオリンピック。しかも5人のうち3人が北海道勤務経験者というそれまでにないメンバー構成でした。衛星放送(BS)の試験放送が始まり、スポーツ放送の転換点が近づいていることを感じるオリンピックでした。
私が主に担当したのはスピードスケート。解説の鈴木正樹*6)さんと連日、カルガリー大学構内にできたばかりの高速リンク「オリンピックオーバル」に通いました。まず目を見張ったのが施設のすばらしさ。なにせ当時とすればオリンピック初の屋内リンクです。明るく綺麗で暖かい。こんなところでスケートが見られるんだとまず感心。そして大会が始まれば、連日の世界新記録の量産にただただ興奮するばかりでした。
また、アイスホッケー会場のNHLカルガリー・フレームスの本拠地サドルドームでも、シートの座りやすさ見やすさに驚きましたが、ウィンタースポーツを楽しむ環境のカナダと日本の差の大きさを至るところで痛感しました。
カルガリーオリンピック、スピードスケート男子500mで銅メダルを獲得した黒岩彰氏(1988年)
スピードスケートの注目はもちろん500mの黒岩彰*7)さんです。前回のサラエボ大会で期待されながら降雪によるレース遅延の不運もあってメダルを逃した黒岩さんがメダルを獲れるかどうかでした。タラレバは禁物ですが、サラエボがカルガリーのような屋内リンクだったら…と思ってしまいます。当時500mのレースは1回のみの一発勝負。30数秒ですべてが決まります。そのスタートの緊張感は今まで体験したことのない世界でした。黒岩さんは4組アウトスタートとサラエボの時と同じ。同走は東ドイツのウーベ・イェンス・マイ。ピストルが鳴ったあと、自分でどうしゃべったかの記憶はほとんどありません。最初からマイがスーッと先行したんです。黒岩さんも懸命に追うんですが届かない。マイはそのままもの凄いスピードで滑って、世界新記録でフィニッシュ。後ろから黒岩さんがフィニッシュしました。
黒岩さんがリードされた時点で、私の頭のなかは整理がつかなくなっていました。フィニッシュの瞬間は、黒岩負けた!マイは世界新!それでも黒岩メダルか!メダルの色は!…いろんなことが順不同に駆け巡ります。結局、黒岩さんは3位で銅メダルを獲得。それがわかった私は、そこでホッとした気持ちになったことを記憶しています。
今聞くと、自分が恥ずかしくなるくらい緊張してぎこちない実況でしたが、うまく喋れなくて落ち込んでいた私に、羽佐間さんが言葉かけてくださいました。
黒岩選手とは別の組で滑ったセルゲイ・フォキチェフ(ソ連)という有力選手がいたのですが、彼が第2カーブで少し膨らんでしまったんです。羽佐間さんはそれを私が実況で伝えていたことに触れて「あれを言えただけで、もうお前は立派な実況アナウンサーだ」と仰ってくださいました。過大な褒め言葉と感じながらもこれほどありがたく身にしみた言葉はありませんでした。
オリンピックのような大舞台での実況アナウンスの出来不出来はそのアナウンサーの一生を左右します。大きな間違いがあれば二度とそのアナウンサーはその放送席に座ることができないかもしれません。ですから実況アナウンサーも、選手の何分の1に過ぎないかもしれませんが、大きなプレッシャーを感じながらオリンピックには臨みます。
羽佐間正雄さんの一言のおかげで、私はその後の十数回のオリンピックを経験できたのだと思っています。
*5)羽佐間正雄:元NHKアナウンサー。ゴルフをはじめ、プロ野球、サッカー、陸上競技、スキーなど幅広くカバーし、オリンピックの実況は11大会で務めた
*6)鈴木正樹:グルノーブル、札幌、インスブルック、オリンピック3大会スピードスケート短距離の日本代表。所属は王子製紙(当時)
*7)黒岩彰:元スピードスケート日本代表。1988年カルガリー大会では500mで銅メダルを獲得。現役引退後はプロ野球の西武ライオンズの広報課長、球団代表などを歴任。2008年には富士急行スケート部監督に就任。現在は日本スケート連盟スピードスケート強化部副部長、日本オリンピック委員会のアシスタントナショナルコーチを務め、2014年ソチ大会<ロシア>、2018年平昌大会<韓国>、2022年北京大会<中国>に帯同した
アルベールビルオリンピックノルディック複合団体で金メ
ダルを獲得した荻原健司氏のV字ジャンプ(1992年)
――工藤さんはジャンプの実況も多かったと思いますが、思い出に残っている大会はありますか?
オリンピックでのジャンプの実況は1992年のアルベールビル大会から1998年長野大会まで3大会連続で担当しました。この期間は日本ジャンプ陣の黄金期です。ご存じのように、それは「V字」というジャンプスタイルの革新から始まりました。
Ⅴ字ジャンプが衝撃的にオリンピックに登場したのが1992年アルベールビル大会です。ここでは日本ジャンプ陣はメダルにまでは届きませんでしたが、Ⅴ字の威力を見せつけたのは三ヶ田礼一さん、河野孝典さん、荻原健司さんのノルディック複合陣でした。前半ジャンプでリードして後半クロスカントリーで逃げきるという勝ちパターンで見事な金メダルでした。
アルベールビルオリンピックでの放送風景(1992年)
次が、1994年リレハンメル大会。ほぼ全員がⅤ字ジャンプをやるようになって“三強”と言われていたイェンス・バイスフロク(ドイツ)、アンドレアス・ゴルトベルガー(オーストリア)、エスペン・ブレーデセン(ノルウェー)が圧倒的に強かったシーズンです。しかし、層の厚さから見れば日本ジャンプ陣は世界のトップにいたと思います。ですから一番の狙い目は団体の金メダルでした。
団体戦の1回目が終わって日本は首位。2回目の3人目までに2位のドイツを大きく引き離し、ほぼ金メダルを手中にしていた状況で、最後の4人目が原田雅彦*8)さんです。
そこで私は「普通に飛べば金メダル!」と言葉を発して、飛び出した瞬間、「高く出た!」と叫びます。ところが、そう見えたのは原田さんの踏み切るタイミングが早すぎたから。早すぎて上体がたった姿を「高く出た」と見誤ってしまったのです。結果は距離が伸びない失敗ジャンプ。日本は銀メダルに終わりました。
失敗して頭を抱えてうずくまる原田さんにチームメイトの岡部孝信*9)さんが近づいて声をかけ、起こしてあげたんですね。それをそのままお伝えしたのですが、岡部さんに救ってもらったというような思いでした。
*8)原田雅彦:元スキージャンプ日本代表。オリンピックには1992年アルベールビルから2006年トリノまで5大会連続で出場。1994年リレハンメル大会では団体銀メダル、1998年長野大会では団体金メダル、ラージヒル個人で銅メダルを獲得。2022年北京大会では日本選手団総監督を務め、現在は雪印メグミルクスキー部総監督および全日本スキー連盟副会長
*9)岡部孝信:元スキージャンプ日本代表。団体では1994年リレハンメル大会で銀メダル、1998年長野大会で金メダルと2大会連続でのメダル獲得に貢献。2006年トリノ大会団体6位、2010年バンクーバー大会選手団主将だったが試合出場なし。現・雪印メグミルクスキー部監督
――あの時、私もミックスゾーンにいて優勝原稿だけが頭にあり、日本との時差で締め切り時間ギリギリで、どうしようと焦ったことを覚えています。ただ、選手たちはメダルが獲れたことを素直に喜んでいたとあとから聞きました。
優勝あるいは2位や3位だった時のコメントは誰もが思いつきます。ところが、予想が外れて下位に沈んだ時は何を言えばいいのか言葉を失いそうになります。
実況する私が言葉を失いそうになったあの時、岡部さんが凍った空気を和らげてくれたのでやっと話すことができました。
ソチオリンピックジャンプ台にて(2014年)
――そういう意味では、2014年ソチ大会の時の女子ジャンプで金メダル候補の高梨沙羅選手が4位とメダルを逃した時の工藤さんのインタビューはすばらしかったと思います。「これからもみんなが沙羅さんのことを応援すると思います」「よくがんばりましたね」と高梨選手の気持ちに寄り添っていらっしゃった。こういう時には取り繕う余計な言葉は不要で、シンプルな言葉のほうがより感情移入できるんだなということを勉強しました。
正直言って、私もあの時は「何を聞けばいいのだろう」と動揺していました。そういう想定外の状況になった時に大切なのは、いい意味で開き直れるかどうかだと思います。開き直ってやるべきことは基本に戻ることだと思います。おっしゃるように基本はいつもシンプルでやり慣れた手順ですから、動揺している時にこそ頼りになるんですよね。ですからあのインタビューでは特別なことは聞いていません。今日の自分のジャンプの出来は?ワールドカップとオリンピックの違いは?…など。
ただ、インタビューの最後に「がんばりましたね」という私の言葉が、皆さんからは「良かったです」と言っていただくことが多いのですが、アナウンサーとしてそれが正しかったのかどうかはわかりません。私情と言えば私情ですから。高梨選手の言葉や様子に触れて自然と出た言葉でした。開き直れた自分が素直に向かい合った結果でした。
長野オリンピック個人ラージヒルで銅メダルを獲得した原田雅彦氏(1998年)
――そうした意味では、1998年長野大会ラージヒル個人で原田選手が個人では初めてのメダル(銅)を獲得しました。あの時、工藤さんはK点越えの大ジャンプをした原田さんに「立て、立て、立て、立ってくれ!」と叫ばれました。あれもすばらしい名言でした。
実況の前にはいろんな言葉を準備しますが、あれは準備した言葉ではありませんでした。
その前のノーマルヒル個人で原田さんは1回目でトップに立ちながら、2回目に失敗をして5位入賞に終わってしまいました。その4日後のラージヒル個人でした。
「今度こそは」という思いで私も放送席に座っていましたから、2回目をスタートする時には「因縁の2回目」とコメント。これは準備していた言葉です。ところが飛んだら、あの大ジャンプです。すぐに、「立てるかどうかわからないほど危ない大ジャンプだ」ということはわかりました。それで無我夢中で「立て、立て、立て、立ってくれ!」と、とっさに出でしまったのです。原田さんが着地した瞬間、疑いもなく「これでメダルは確実」と思いました。でも、あとでスコアを確認すると、4位とはわずか0.1ポイント差の銅メダル。ですから、皆さんに期待させるような言葉を投げかけておきながら、原田さんが僅差でメダルを逃した可能性も十分にあったわけですが、なんとかメダル圏内に入って本当に良かったです。
――団体戦では4年前のリレハンメル大会で、あと一歩のところで逃した金メダルを獲得。1本目を終えて4位からの大逆転というドラマでしたが、工藤さんはインタビュアーとしてフィニッシュ地点にいらしていたんですね。
日本が金メダルを獲った団体戦の時はインタビュー担当で、ブレーキングトラックのなかにいました。そこから見上げても、スタートはおろかカンテ(踏み切り台)も見えない状況でした。「よく2本できたな。金メダルは奇跡だった」と現場にいた誰もがふり返ると思います。
1回目が終わった時点では原田さんが大失速で日本は4位で続行は難しい状況。そのまま終われば日本のメダルはありませんでした。
私も放送席に駆け上がって解説の八木弘和*10)さんと「これは無理かもしれませんね」「厳しいかもしれない」という言葉を交わしていました。そんななかでテストジャンパーの皆さんはよく飛びましたよね。
2回目が始まると岡部孝信、齋藤浩哉と大ジャンプを見せて次々と私のいるブレーキングトラックに降りてきました。まだ、インタビューはできません。そして、原田さんも超特大のジャンプで着地。場内がもの凄い歓声に包まれます。
スキーを外して船木和喜選手を待つ原田さんにマイクを持って近づくと「ふなき~ふなき~」と、唸るように泣きながらスタートを見上げます。そして、船木のジャンプで金メダルが確定。本当に筋書きのない感動的なドラマでした。
*10)八木弘和:元スキージャンプ日本代表。1980年レークプラシッド<アメリカ>70m級で銀メダル。現役引退後は全日本スキー連盟のジャンプ・ヘッドコーチを務めるなど指導者や解説者として活躍