パラリンピックでの敗戦で沸き上がった挑戦の気持ち
荒井秀樹氏(右)。左が本人
―― 新田さんがパラリンピックをめざすきっかけとなったのが、荒井秀樹*2) さんの存在でしたね。
僕が中学2年生の時に、岐阜県の鈴蘭高原で開催された全国中学校スキー大会(全中)に岡山県代表として出場しました。確かゼッケンは6番で早い段階でスタートしたこともあって、当時長野オリンピック・パラリンピックの技術委員長を務めていた和田光三さんが僕をすぐに見つけたそうなんです。それで翌年(1996年)2月に和田さんと荒井さんがスウェーデンで開催された障害者スキーの世界大会に視察に行った際、和田さんが「そういえば、全中で片手でスタートしていた選手がいたな」と話したことがきっかけで、荒井さんが僕に連絡をくれたのが最初でした。
荒井秀樹氏(後ろ)と
当時、僕はオリンピックのことはもちろん知っていましたが、パラリンピックのことはまったく知りませんでした。荒井さんから「障害者スポーツの最高峰の大会なんだよ」と言われても、ピンときませんでしたし、何より自分はそれまでずっと健常者の大会に出ていたので、自分ごとのようには考えられませんでした。
それでも荒井さんが「広い世界を見てみるのもいいんじゃないかな」とおっしゃって、映像を見せてくれたんです。そしたらストック1本で滑っているようにはとても思えないほどダイナミックに滑るトーマス・エールスナー選手(ドイツ)が映っていて、「この選手に会ったら、自分が知らなかった世界に出合えるんじゃないかな」と思ったんです。当時、障害がある自分に対して、どうしても前向きになれないこともあったんですが、そんな自分が変われるかもしれないと思い、パラリンピックをめざそうという気持ちになりました。一方で父親からはパラリンピックをめざすのもいいけれど、今まで通り健常者の大会に出ることも続けてほしいと言われたので、高校まではどちらの大会にも出場していましたね。
*2)荒井秀樹:日本で初めてパラスポーツの実業団チームを立ち上げ、日本パラリンピックスキーチーム監督、日立ソリューションズ「チームAURORA」監督を歴任。現在は北海道エネルギースキー部監督
1998年長野パラリンピック
―― 2年後の1998年長野大会に出場し、パラリンピック初出場ながらクロスカントリー男子5kmクラシカル、20kmクラシカル、10kmフリーの3種目で8位入賞されました。ご自身としては、納得のいく結果ではなかったそうですね。
長野パラリンピックはどのレースもゴール直後は「全力を出し切り、がんばったな」と思うことができました。そして、あのあと、両親からケガをした時のことを改めて聞かされたんです。それまで家族のなかでは僕がケガをした時のことはタブー視されていて、ほとんど話題にあがったことはありませんでした。レース終了後にメディアのインタビューに僕が答えた記事を両親が読み、祖父の思いを伝えようと思ったそうです。祖父が「自分の腕を切って、孫に付けてほしい」と言ってくれていたこと、思い詰めた祖父が死んでしまうのではないかと家族みんなが心配していたことなど、両親がきちんと話してくれました。その話を聞いて、みんなが僕のことを心配しながらも応援してくれているんだなと気づいて、家族に、特に祖父にメダルをかけてあげたいと思うようになりました。それがパラリンピックに1回出場しただけで、あるいは8位入賞で満足するんではなく、もっと努力しなければと思う原動力になりました。それ以降はメダルを獲るためにどれだけ自分のパフォーマンスを高められるかということにフォーカスしていきました。
―― 筑波大学時代は、スキー部がなくて陸上競技部で練習をしていたそうですね。
陸上競技部に所属していたわけではありませんが、一緒にトレーニングをしていました。そのなかで長距離を指導しているコーチに、パラリンピックでメダルを獲るような海外のトップ選手の映像を見ていただいて、僕に何が足りないかを一緒に考えてもらい、練習メニューをアドバイスしていただいたりしていました。そのおかげで、ひと回り体が大きくなりました。
―― 大学3年生だった2002年に2度目のパラリンピック、ソルトレークシティ大会(アメリカ)に出場されました。
少なくともメダル圏内にはいるだろうと自信を持って臨んだ大会でした。クロスカントリー男子5kmクラシカルのレースでは、3.5kmの段階でコースの脇からコーチが「トップだぞ」と声をかけてくれ、秒差で5人くらい後ろにいることも聞いていましたが、残り1kmはほとんど下りだったこともあって「そんなに大きくタイム差が広がったり縮まったりすることはないだろうから、このままトップでいけるんじゃないか」と心のどこかで思っていました。結局ゴールした時には4位。レース後にインタビューを受けた時に感じたのは、もちろん僕自身にも大会にかける4年間の思いというのはありましたが、海外選手と比べると思いが足りていなかったんじゃないかなと気づかされました。それと自分がどれだけ努力をしても、最後の詰めを誤ってしまうとダメなんだということも身にしみて感じました。どうしようもないもやもやした気持ちで、その日の夜はなかなか寝付けませんでした。
結局、そのあとに金メダルのトーマス選手がドーピングで陽性ということが判明し、順位が繰り上がって僕が銅メダルということになったのですが、初めてパラリンピックでメダルを獲得した喜びよりも、やはり油断して逆転された悔しさのほうが大きかったです。またメダルとは言っても、当時は金メダルをめざしていたので、たまたま繰り上がっての銅メダルではまったく納得はできませんでした。どちらかというと結果は悪くても長野大会の時のほうが苦しいなかで歩きそうになりながらもがんばって滑り切ったという達成感がありました。ソルトレークシティ大会はそういう達成感もなかったので、「完璧な選手になりたい」という気持ちが強く芽生えました。それで大学卒業後も競技を続けたいと思い、1年後にアディダス ジャパンに入社しました。
―― 社会人となり、生活も練習方法も変わったと思います。ご自身の競技への取り組みも、次のトリノ大会をめざして変わったのではないでしょうか。
スキーには年間の総合ランキングがあります。クロスカントリーにはクラシカルとフリーという2種類の走法があり、そのなかで距離もいろいろありますが、それぞれポイントがついていて、その合計で年間総合ランキングのナンバーワンをめざします。常に表彰台に上がるようなレベルをめざさなければいけないのですが、どうしてもフリーの成績がふるわなくて、総合ランキングは2位、3位が続いていました。ただ次の2006年トリノ大会(イタリア)では僕が得意とするクラシカルのほうが種目は多いということもわかっていましたので、そのクラシカルの種目のなかで金メダルが獲れるだろうと思っていました。ところが、2005年のトリノ大会のプレ大会では、自分ではそれほど悪いタイムではないだろうと思って走っていても、平らな部分が多いコースということもあって、両側のバランスが取り辛いという障害の関係上、どうしても海外の選手にはかなわなかったんです。それでトリノ大会までの1年間で、どれだけ平らな道での走力を上げることができるかを重点課題に置いてトレーニングを積み重ねて、自分としては手応えを感じながら本番に臨みました。
2006年トリノパラリンピック
―― トリノ大会では20㎞クラシカルの5位が最高でした。
いざレース当日ウォーミングアップをしていた時に、海外選手に対して「勝てないかもしれない」と一瞬思ってしまったんです。それで「少しでもタイムを縮めなければ」という気持ちが、逆に無駄な動きだったり心のブレにつながってしまいました。自分が最も自信のあったクロスカントリー男子10kmクラシカルでは序盤の1km過ぎで転倒し、右手で持っていたストックで脇腹を強打してしまいました。痛みをこらえて最後まで走り切りましたが、13位に終わりました。もしトリノで金メダルを獲っていれば、そこで納得して、おそらく現役を引退していたと思います。でも、メダルを獲れないばかりか、前回のソルトレークシティ大会から順位も落としてしまったので、そこで辞めるわけにはいかないなと思いました。それまでは技術的な部分を磨くことにフォーカスしていましたが、海外選手を見ていると技術よりも、とにかくパワーで押しきるという滑りをしていて、フィジカルの部分での差を埋め切れていなかったのかもしれないという反省もありました。そこで、もう一度金メダルを狙うチャレンジをするのであれば、環境や自分自身の考え方など、さまざまなものを変えていかなければいけないだろうと考え、日立ソリューションズに転職し、トレーニング方法も見直しました。
家族をつなぎあわせた初の金メダル
日立ソリューションズ「AURORA」部員(右端が本人)
―― 日立ソリューションズでは、同社のスキーチーム「AURORA」に入り、再び荒井さんに師事するようになりましたね。
大学卒業後、一度荒井さんの元を離れて、自分ひとりでどれだけやれるかということに挑戦したのですが、やはり個人よりもチームとしての活動のほうにメリットがあるんじゃないかと思って「AURORA」に入りました。4年後の2010年バンクーバー大会をめざすにあたって、まず何に取り組みたいかとなった時、僕自身はトリノ大会で直面したパワー不足の面を改善したいと考えました。現在はオリンピックだけでなくパラリンピックの選手もJISS(国立スポーツ科学センター)でトレーニングすることができますが、当時は使うことができなかったので、大森(東京都大田区)にあるジムに通いました。そこで元JISSのスタッフだった方に師事して、ウエートトレーニングに励みました。週に5回くらいウエートトレーニングをやっていましたが、最初は筋肉痛で歩くのも辛かったです。このままやったら、かえって今まで技術にフォーカスしてきてつくり上げてきたフォームが崩れてしまうのではないか、と不安になったこともありましたが、徐々にやっていくうちにフィジカルの部分での強みも感じられるようになっていきました。
―― トリノ大会後、日立ソリューションズの先輩である小林(旧姓)深雪*3)さんから何か言葉を贈られたそうですね。
僕が日立ソリューションズに入社した時に、小林さんからは「私は今シーズン(2006-07)で引退するから」という話がありました。小林さんは世界のトップレベルで活躍されていました。僕はまだ思うような成績が出せていませんでした。シーズン終わりのほうの大会で優勝することができたこともあって、シーズンが終わって小林さんがチームみんなの前で挨拶をした時に「私がいなくなっても、新田くんが引っ張って行ってくれると思います」と言っていただきました。
*3)小林深雪:現・井口深雪。視覚障害の部でバイアスロンとクロスカントリーの日本代表としてパラリンピックに3大会出場。1998年長野大会では女子バイアスロン女子7.5kmで金メダルに輝き、2006年トリノ大会では12.5kmで金メダル、7.5kmでは銀メダルを獲得した
夫人(中央)、長男(左)と
―― バンクーバー大会をめざすなかで、ご結婚もされました。決断の決め手となったのはどのようなことでしたか?
2008年に結婚をしましたが、実は荒井さんからは「こんな大事な時期に大丈夫か?」と心配をしていただきました。でも僕にとっては食事面でサポートしてもらえること、家族を持って支えてもらえることのほうが重要なので、という話をし、結婚に至りました。それまでずっとあった「祖父のために」という気持ちに加えて、「新しい家族のために」という気持ちが加わり、より一層モチベーションが高まりました。
2010年バンクーバーパラリンピック
――心技体すべてがそろったなかで、2010年バンクーバー大会に臨んだということになりますね。
特にトリノ大会で課題だったフィジカル面では、例えば1分間にできる腹筋回数は、最初は65回くらいだったのが、そのうちに70回後半とか、オリンピック選手にも負けない回数をこなせるようになったんです。そうしたことが自信となり、「この部分では海外選手にも絶対に負けていない」という自分のストロングポイントを見出せたことがとても大きかったです。不安がなくなり「これだけやったんだから」と自信を持てたことが、パフォーマンスにもプラスに働いたと思います。実際、調子もすごく良く、気持ちの部分でも余裕がありました。
それまではパラリンピックの直前となると「結果を出さなければいけない」と自分のことばかりでいっぱいいっぱいになっていましたが、バンクーバー大会の事前合宿ではほかの選手を見ていて「こうしたほうがいいんじゃないかな」とアドバイスをしたりしていました。それだけ周りを見られる心のゆとりがあったのだと思います。本当にすべての面で「よし、これで勝負できる」という万全の状態で大会に臨めたことが、バンクーバー大会で金メダルを獲れた最大の要因だったと思います。日本を出発する時に妻から手紙をもらいました。それを最初のレースの前日に読んだんです。「これまでの集大成、お世話になった人たちのためにがんばろうね」と書かれてありました。それまでの自分を振り返ることができて、翌日それを思い出したらレースが始まる前に涙が出てきましたが、「これまでやってきたことはすべて今日のためだったのだから、金メダルというよりも自分のベストなパフォーマンスをしっかりと出そう。そうすれば自ずと結果は出る」と割り切った気持ちになれたことも大きかったです。
2010年バンクーバーパラリンピック
―― そのバンクーバー大会では、クロスカントリーで男子10kmクラシカルと、1kmスプリントで2冠に輝きました。悲願の金メダルをおじいさんにかけてあげられた時はどんな気持ちでしたか?
その前年の12月に祖母が亡くなりました。僕は遠征中でノルウェーにいましたが、妻から連絡が来て、初めて吐血して入院していたということを知りました。パラリンピック直前の僕には競技に集中してほしいと思って知らせなかったそうです。だから亡くなったなんてとても信じられませんでした。すぐに帰りたかったのですが、それも叶わず、ようやく四十九日の時に実家に帰省することができました。元気だったころ、祖父母はしょっちゅう喧嘩をしていました。僕は「もしかしたら2人は仲が悪いのかな」と思ったこともあったのですが、祖母が亡くなって、祖父が縁側でひとり寂しそうにしている姿を見た時に、「そうではなかったんだな」と気づきました。その時の祖父の背中があまりにも寂しそうで「このまま祖父もいなくなってしまうんじゃないか」と不安な気持ちになりました。祖母がいなくなったこともそうですし、なんだかこれまでずっとつながっていた自分の家族の形が崩れてしまうんじゃないかと。それを防ぐためにも、僕が金メダルを獲って、祖父に喜んでもらい、家族をまたひとつにつなげたいと思いました。実際に金メダルを獲って、それを祖父にかけることができて本当に良かったと思いました。ひとつ目の金メダルを獲った時に姉から、祖父も喜んでいるし、祖母も天国で喜んでいると思うよ、という連絡をもらいました。その時に「ああ、なんとか間に合った」と安堵の気持ちになりました。
―― バンクーバー大会で悲願の金メダルを獲得し、おじいさんにかけてあげる目標を達成しました。そこで現役を引退するという考えはありましたか?
正直、そこで辞めてもいいかなと思っていました。ただ、小林さんが僕にバトンをつないでくれたように、僕も後輩にバトンをつないでからという気持ちはありました。当時、日立ソリューションズには僕のほかに3人しかいなかったんです。日立ソリューションズのスキー部「AURORA」は、障害があっても環境さえ整えば世界でメダルを獲れる選手を育てることができることを世間に広く発信していくことと、パラスポーツを普及させていく2つの側面を担う、日本においてはリーダー的存在です。そう考えると、常にメダリストを輩出することも重要で、そうした選手の発掘・育成を継続した形で行っていくということが会社の方針としてありましたので、金メダルを獲ったから辞めるのではなく、継続していってほしいと会社から事前に言われていました。ですから、どういう形にしろ、続けていこうと考えていました。
2014年ソチパラリンピック
―― 2014年ソチ大会ではメダルを逃すという残念な結果でしたが、2018年平昌大会では、クロスカントリー10kmクラシカルで金メダル、1.5kmクラシカルスプリントで銀メダルと、見事に返り咲きを果たしましたね。
祖父が2012年に亡くなって、どこに目標を置いていいのかわからないまま臨んだのが2014年ソチ大会でした。ただ帰国した時に長男が手づくりの金メダルを持って成田空港に迎えに来てくれたんです。ちょうどその時、長男は僕がケガをした時と同じ3歳だったのもあって、自分が競技をしている姿を見て子どもが何かを感じてくれていたのかなと思いました。それで「また4年間がんばって、メダルをめざすチャレンジをしてみようかな」という気持ちになりました。ちょうど同じタイミングでパラリンピックが厚生労働省からスポーツ庁に移管したことを機に、JISSのサポートを受けられるようになったことも大きかったです。
平昌大会の時は37歳でしたが、その年齢でもう一度世界の頂点に返り咲くことができたのは、JISSで取り入れた科学的根拠に基づいたトレーニングのおかげでした。開幕1週間前までは、倒れ込んでこのまま終わりたいと思うくらいに苦しい低酸素トレーニングをしていました。毎回「もう二度とやりたくない」と逃げ出したくなるのですが、それでも続けていくと効果が実感できました。冬季競技は11月ごろからシーズンが始まって3月までの長丁場の戦いのなか、ずっと好調をキープすることはとても難しいんです。特にクロスカントリースキーのように長距離の競技の場合はどうしても筋力が落ちてしまう。そうすると、それまで挙げられていた重さの9割ほどのバーベルしか挙げられなかったりして、夏までに蓄えていたはずの筋量をキープできていないということを感じていました。でも、平昌大会の前年からはJISSでの指導で、それまでとは違う刺激を与えるようなトレーニングメニューを取り入れたところ、その年のシーズンはとても調子が良かったんです。だから同じようにすれば、平昌でも調子をキープしたまま臨むことができることがわかっていました。それは、とても大きかったです。
日立ソリューションズ平昌パラリンピック壮行会(2018年1月)
―― また入社当初から「AURORA」の活動を日立ソリューションズが会社を挙げて手厚くサポートされていたことも結果を出すうえでは大きかったのではないでしょうか?
とても大きかったですし、それなくしてはパラリンピックでの活躍はなかったと思います。「AURORA」には後援会があり、任意で入会してくれている社員が、国内大会はもちろん、いつもパラリンピックの現地にまで応援に駆けつけてくれるんです。それが本当に力になったし、モチベーションになりました。会社の新人研修の時には毎年、「AURORA」の紹介をしていただけるので、新入社員にも興味を持っていただいて、現在は約4000人の社員の方が入会してくれています。チームの応援ももちろんですが、さまざまな地域に同僚と一緒に出掛け、食事をするといった交流の場としても社員の方たちには魅力のようで、応援してもらうという一方通行だけではなく、お互いにとってとても良い形ができているなと思っています。また、会員の皆さんからの会費は、選手の用具代の一部に充てられることもあり、社員の方の応援してくれる気持ちが込められたお金で購入されたものだと思うと、選手もよりがんばれるというところがあるんです。