Search
国際情報
International information

「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。

知る学ぶ
Knowledge

日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。

冬季オリンピック・パラリンピック
第118回
努力の先にあった気づきが原動力となった競技人生

新田 佳浩

 3歳の時の事故で左腕を切断しましたが、抜群の運動能力で子どもの時からスポーツ万能だった新田佳浩選手。4歳からスキーを始め、小学3年生から始めたクロスカントリースキーでは中学2年生で岡山県代表として全国大会に出場するなど、早くから頭角を現しました。

 パラノルディックスキー指導の先駆者のひとりである荒井秀樹監督からスカウトされたのを機に、冬季パラリンピックをめざした新田選手は、1998年長野から2022年北京(中国)まで7大会連続で出場し、あわせて5個のメダル(金3、銀1、銅1)を獲得しました。パラノルディックスキー界をけん引してきた新田選手に、パラリンピックでの戦いを振り返っていただくとともに、日本のパラスポーツ、パラアスリートの現状などを伺いました。

聞き手/佐野 慎輔  文/斎藤 寿子  写真/フォート・キシモト、新田佳浩  取材日/2022年11月1日

 

北京で後輩に渡した金メダルのバトン

―― 新田さんにとって7回目のパラリンピックとなった2022年北京パラリンピックは、いかがでしたか?

北京大会はこれまでの6大会とはまったく違いました。“ループ”という名の新型コロナウイルス感染症対策が取られており、空港、大会会場、選手村しか足を踏み入れることができず、まったく外に出ることができませんでした。また、毎日PCR検査が行われました。通常のオリンピック・パラリンピックでは選手村の外に、日本はサポートハウス*1)を設置していて、トレーニングやケア、食事などさまざまなサポートが受けられますが、北京大会ではありませんでした。その代わりに選手村のなかにサポートスタッフを派遣してもらって、部屋の一角を使って対応していただく形でした。人数も制限されていて、どこもスタッフが少なかったので、これまでのパラリンピックでは僕たち選手は競技のことだけを考えれば良かったのですが、今回はそうはいきませんでした。北京大会では人工降雪機を使ってコースをつくっていて、風も強かったので、きれいに整備されていない部分があったり、日向と日陰では雪質が変わっていることもあったので、ほかの選手と一緒に滑りながら、この時間だったらここを滑ったほうが良いというようなコース戦略を僕自身が指示したりしていました。実は、北京大会を終えたら現役を引退しようと考えていました。帰国して、空港近くのホテルで3日間の隔離期間を過ごしたのですが、その時にほかの選手から「新田さんに辞められたら困ります」と言われたんです。選手ではない形での携わり方を模索していたのですが、選手だから携われることもあるんだろうなと思い直しました。北京大会の期間中にアドバイスをするという経験もしたなかで、まだパラリンピックの経験が少ない選手にとっては頼れる存在であるのかなと思いました。長くパラリンピックに出場してきたからこその役割があるように感じたので、もう少し現役でいようと決めました。

*1)サポートハウス:日本代表選手団のベストパフォーマンスを引き出すための支援施設。オリンピックでは2012年ロンドン大会<イギリス>で初めて設置され、冬季大会では2014年ソチ大会<ロシア>から。パラリンピックは2016年リオデジャネイロ大会<ブラジル>から導入された

2022年北京パラリンピック

2022年北京パラリンピック

―― 現在はどのようなシーズンを送っていらっしゃるのでしょうか?

2022年の北京大会までは自分自身が選手として結果を出すことが一番優先でしたが、現在は現役を続けつつ後輩の育成にも携わっています。選手にはそれぞれ異なるバックグラウンドがありますので、自分がやってきたことがほかの選手にとって正しいわけではないと考えています。今は自分自身の体を使いながら、自分の結果を出すところから少し離れて、どうすれば後輩たちが試合に向けて心身ともに仕上げていけるのか、というところを学ぶ気持ちでシーズンを過ごしています。

―― 現役選手として新田さんご自身がお手本となるというのは後輩の選手たちにとっては本当に心強いですね。

ひとつの指標となれるのはとても嬉しいことだと思っていますが、滑り方ひとつとってもその時代時代にトレンドがあるので、それに自分がフィットしているかどうかは非常に難しさがあります。僕自身が若い選手に過去の経験を伝えるなかで、自分とは考え方が違っていたりして、逆にそれが僕にとってのヒントになることもあったりするので、今はいろいろと学んでいる最中です。

―― 2022年北京大会では、新田さんを目標としてきた川除大輝選手がクロスカントリー男子20kmクラシカルで金メダルに輝きました。後輩の活躍は、新田さんの目にはどのように映りましたか?

4年前の2018年平昌大会(韓国)では、僕が2010年バンクーバー大会(カナダ)以来となる金メダルをクロスカントリー男子10kmクラシカルで獲得し、そして今回の北京大会では川除くんが金メダルに輝いたので、とても良いバトンパスができたように思いました。川除くんはずっと僕を見ながら「どうやったら追い抜けるのか」を考えてきたのだと思いますが、これからは彼が日本のエースとなって引っ張る立場として、彼の下の世代があとを追いかけていくような存在になってくれるのが理想です。それこそ札幌が招致をめざしている2030年の冬季パラリンピックの時には、川除くんは29歳と最も脂が乗っている時期でしょうから、日本のエースとして活躍してくれるはずです。その時に彼に続く2番手、3番手の若い選手が出てくるには、今のうちに発掘して強化していかないといけません。

“美しい者は強い”の名言を体現したフォーム

3歳のころ

3歳のころ

―― 新田さんご自身の人間形成という部分では、核となっているのはやはりご両親ですか?

僕は3歳の時に祖父が運転するコンバインで左腕を切断する不慮の事故に遭ったのですが、両親が息子にケガをさせてしまったことに対してどう思ったかということが、僕がその後生きていくうえでとても重要なポイントだったように思います。母親は失われてしまったものをいくら嘆いても仕方ないと。それよりもケガをしたあとの人生のほうが長いのだから、左腕を切断した息子を過保護に育てるのではなく、自分が生きていくために何をしなければいけないのかを考えられる人に育ってほしいと思ったそうです。父親も本当は、ケガをさせた祖父母、父親からすれば両親を責めたい気持ちはあったかもしれません。でもそれをぐっとこらえて、僕が退院して自宅に帰ってきた時に、まず僕に言ったのは「佳浩、おじいちゃんとおばあちゃんを責めるんじゃないよ。ケガをしたのは自分の責任なのだから、そこだけはちゃんとわかっておきなさい」ということでした。もう40年近く前のことになりますが、その時の父親の言葉はとても強く印象に残っており、今も脳裏に焼き付いています。

両親は僕がケガをした時に、これからどのように育てていけばいいか、家族でどのように進んでいこうかということをきちんと話し合ってくれたのだと思います。そういう両親に育ててもらったからこそ、僕も今、自分の息子たちに対して同じように、自分がやったことは自分で責任を持てる人になってほしいと思っていますし、そのために何をしなければいけないかを考えられる人になってほしいと思います。

3歳のころ 妹と

3歳のころ 妹と

それと、自分がそうだったように、子どもには夢を持ってほしいなと思っています。今、長男は陸上競技をやっていて、箱根駅伝で走りたいという夢を持っていて、それを僕にも語ってくれます。一方、次男は「サラリーマンでいい」と言うので、「どうしてサラリーマンになりたいの?」と聞いたら「別に」と(笑)もちろんサラリーマンになるのもいいし、ほかに何か好きなことがあるんだったら、夢を持ってがんばってほしいなと思います。次男は生き物が好きで、先日も僕に「お父さん、穴子と鰻の違いって知ってる?」とクイズを出してきました。もしかしたらそういった生き物に関わる道に進むことがあるかもしれないなと思いながら、楽しそうに話しているのを聞いていました。

 
小学生のころ

小学生のころ

―― 新田さんの場合は、その夢がクロスカントリースキーの選手だったということですね。

スキーを始めるきっかけは、子どものころの環境にありました。僕が通った小学校では年に3回、1日スキー教室に参加するというのが学校行事としてありました。それで小学校に入学するまでにスキーができないとまずいだろうということで、父親がスキー板を買ってきてくれて、スキー場に行ったのが最初でした。だから小学校に上がるころにはほかの子よりも滑ることができていました。でも、父親はもっと上手に滑れるようにしてあげたいと思っていたようです。偶然、小学校で教えてくれていた先生が、もともとクロスカントリーをやっていた方でした。私は当時アルペンスキーをやっていましたが、先生にアルペンスキー板の3分の1の細さのクロスカントリーのスキー板にバランスよく乗れる感覚を養えば、もっとアルペンスキーも上達する、と言われて、クロスカントリースキーを始めました。だから本当はアルペンスキーをやるためにクロスカントリースキーを始めたはずだったのですが、いつの間にかクロスカントリースキーのほうに進んでいました。クロスカントリースキーのコースは平たんではなく上り下りがそれぞれ3分の1ずつあるので、小学生の時にスキー板をはいて雪上の上り坂を走り続けるのは本当に辛くて、途中でちょっと歩いてしまうこともありました。でも、そうすると結果として秒差で負けてしまうこともあって「あの時、自分が歩いてしまったからだ」と反省しました。誰かのせいではなくて自分自身に負けて歩いてしまったからなんだということを感じた時に、どうすれば自分に負けずに勝てるのだろうかということを考えるようになりました。それで実際にがんばってみたら、少しずつ結果を出せるようになっていき、そこに喜びを見出せたのが、クロスカントリースキーを続けた要因でした。

 
小学生のころ

小学生のころ

―― クロスカントリースキーの魅力とは、どういったところに感じていますか?

僕の場合は競技の魅力というよりも、子どものころはレースで勝つことに喜びを見出していました。勝てば嬉しいですし、負ければ悔しい、その繰り返しのなかで、競技を続けていたように思います。ただ年齢を重ねていくにつれて、健常者とフィジカル面で大きな差を感じました。「同じことをしていても勝てない」と思ったので、「自分の強みってどこにあるのだろう。ストロングポイントを伸ばしていこう」と考えながら取り組み、オリンピック選手の映像を見て、練習の時にはその選手をイメージしながら走っていました。

 
中学生時代

中学生時代

―― 1928年アムステルダム大会(オランダ)で日本人初の金メダリストとなった陸上競技・三段跳びの織田幹雄さんが「美しい者は強い」という名言を残されていますが、新田さんはそれをまさに体現されていらっしゃいます。

ぎこちない動きをしていると、それだけロスが生まれてしまうので、ぎこちなさをいかになくせるかがタイムを伸ばす方法のひとつだと思います。極端に言えば、動物に近い動きや体づくりをめざしています。例えば、アメンボは何か自分の身に起こった時に、どうしてあれだけ素早い対応ができるのだろうか、その動作のメカニズムはどうなっているのだろうかとか、あるいは馬は草食動物で肉を食べていないはずなのに、なぜあれだけ筋骨隆々で無駄のない体なのだろうかなどといろいろ思いをめぐらせました。動物は人間が考えているよりも先のことを自然とできているのではないかと考えていくと、何か自分に取り入れられるものはないかなと思うようになっていったんです。実はいろいろなところにヒントがあって、正解のない世界で、それをどれだけキャッチして自分に落とし込み、理想としている感覚に近づけるかが大事なのだと思いました。

パラリンピックでの敗戦で沸き上がった挑戦の気持ち

荒井秀樹氏(右)。左が本人

荒井秀樹氏(右)。左が本人

―― 新田さんがパラリンピックをめざすきっかけとなったのが、荒井秀樹*2) さんの存在でしたね。

僕が中学2年生の時に、岐阜県の鈴蘭高原で開催された全国中学校スキー大会(全中)に岡山県代表として出場しました。確かゼッケンは6番で早い段階でスタートしたこともあって、当時長野オリンピック・パラリンピックの技術委員長を務めていた和田光三さんが僕をすぐに見つけたそうなんです。それで翌年(1996年)2月に和田さんと荒井さんがスウェーデンで開催された障害者スキーの世界大会に視察に行った際、和田さんが「そういえば、全中で片手でスタートしていた選手がいたな」と話したことがきっかけで、荒井さんが僕に連絡をくれたのが最初でした。

荒井秀樹氏(後ろ)と

荒井秀樹氏(後ろ)と

当時、僕はオリンピックのことはもちろん知っていましたが、パラリンピックのことはまったく知りませんでした。荒井さんから「障害者スポーツの最高峰の大会なんだよ」と言われても、ピンときませんでしたし、何より自分はそれまでずっと健常者の大会に出ていたので、自分ごとのようには考えられませんでした。
それでも荒井さんが「広い世界を見てみるのもいいんじゃないかな」とおっしゃって、映像を見せてくれたんです。そしたらストック1本で滑っているようにはとても思えないほどダイナミックに滑るトーマス・エールスナー選手(ドイツ)が映っていて、「この選手に会ったら、自分が知らなかった世界に出合えるんじゃないかな」と思ったんです。当時、障害がある自分に対して、どうしても前向きになれないこともあったんですが、そんな自分が変われるかもしれないと思い、パラリンピックをめざそうという気持ちになりました。一方で父親からはパラリンピックをめざすのもいいけれど、今まで通り健常者の大会に出ることも続けてほしいと言われたので、高校まではどちらの大会にも出場していましたね。

*2)荒井秀樹:日本で初めてパラスポーツの実業団チームを立ち上げ、日本パラリンピックスキーチーム監督、日立ソリューションズ「チームAURORA」監督を歴任。現在は北海道エネルギースキー部監督

 
1998年長野パラリンピック

1998年長野パラリンピック

―― 2年後の1998年長野大会に出場し、パラリンピック初出場ながらクロスカントリー男子5kmクラシカル、20kmクラシカル、10kmフリーの3種目で8位入賞されました。ご自身としては、納得のいく結果ではなかったそうですね。

長野パラリンピックはどのレースもゴール直後は「全力を出し切り、がんばったな」と思うことができました。そして、あのあと、両親からケガをした時のことを改めて聞かされたんです。それまで家族のなかでは僕がケガをした時のことはタブー視されていて、ほとんど話題にあがったことはありませんでした。レース終了後にメディアのインタビューに僕が答えた記事を両親が読み、祖父の思いを伝えようと思ったそうです。祖父が「自分の腕を切って、孫に付けてほしい」と言ってくれていたこと、思い詰めた祖父が死んでしまうのではないかと家族みんなが心配していたことなど、両親がきちんと話してくれました。その話を聞いて、みんなが僕のことを心配しながらも応援してくれているんだなと気づいて、家族に、特に祖父にメダルをかけてあげたいと思うようになりました。それがパラリンピックに1回出場しただけで、あるいは8位入賞で満足するんではなく、もっと努力しなければと思う原動力になりました。それ以降はメダルを獲るためにどれだけ自分のパフォーマンスを高められるかということにフォーカスしていきました。

 

―― 筑波大学時代は、スキー部がなくて陸上競技部で練習をしていたそうですね。

陸上競技部に所属していたわけではありませんが、一緒にトレーニングをしていました。そのなかで長距離を指導しているコーチに、パラリンピックでメダルを獲るような海外のトップ選手の映像を見ていただいて、僕に何が足りないかを一緒に考えてもらい、練習メニューをアドバイスしていただいたりしていました。そのおかげで、ひと回り体が大きくなりました。

―― 大学3年生だった2002年に2度目のパラリンピック、ソルトレークシティ大会(アメリカ)に出場されました。

少なくともメダル圏内にはいるだろうと自信を持って臨んだ大会でした。クロスカントリー男子5kmクラシカルのレースでは、3.5kmの段階でコースの脇からコーチが「トップだぞ」と声をかけてくれ、秒差で5人くらい後ろにいることも聞いていましたが、残り1kmはほとんど下りだったこともあって「そんなに大きくタイム差が広がったり縮まったりすることはないだろうから、このままトップでいけるんじゃないか」と心のどこかで思っていました。結局ゴールした時には4位。レース後にインタビューを受けた時に感じたのは、もちろん僕自身にも大会にかける4年間の思いというのはありましたが、海外選手と比べると思いが足りていなかったんじゃないかなと気づかされました。それと自分がどれだけ努力をしても、最後の詰めを誤ってしまうとダメなんだということも身にしみて感じました。どうしようもないもやもやした気持ちで、その日の夜はなかなか寝付けませんでした。

結局、そのあとに金メダルのトーマス選手がドーピングで陽性ということが判明し、順位が繰り上がって僕が銅メダルということになったのですが、初めてパラリンピックでメダルを獲得した喜びよりも、やはり油断して逆転された悔しさのほうが大きかったです。またメダルとは言っても、当時は金メダルをめざしていたので、たまたま繰り上がっての銅メダルではまったく納得はできませんでした。どちらかというと結果は悪くても長野大会の時のほうが苦しいなかで歩きそうになりながらもがんばって滑り切ったという達成感がありました。ソルトレークシティ大会はそういう達成感もなかったので、「完璧な選手になりたい」という気持ちが強く芽生えました。それで大学卒業後も競技を続けたいと思い、1年後にアディダス ジャパンに入社しました。

―― 社会人となり、生活も練習方法も変わったと思います。ご自身の競技への取り組みも、次のトリノ大会をめざして変わったのではないでしょうか。

スキーには年間の総合ランキングがあります。クロスカントリーにはクラシカルとフリーという2種類の走法があり、そのなかで距離もいろいろありますが、それぞれポイントがついていて、その合計で年間総合ランキングのナンバーワンをめざします。常に表彰台に上がるようなレベルをめざさなければいけないのですが、どうしてもフリーの成績がふるわなくて、総合ランキングは2位、3位が続いていました。ただ次の2006年トリノ大会(イタリア)では僕が得意とするクラシカルのほうが種目は多いということもわかっていましたので、そのクラシカルの種目のなかで金メダルが獲れるだろうと思っていました。ところが、2005年のトリノ大会のプレ大会では、自分ではそれほど悪いタイムではないだろうと思って走っていても、平らな部分が多いコースということもあって、両側のバランスが取り辛いという障害の関係上、どうしても海外の選手にはかなわなかったんです。それでトリノ大会までの1年間で、どれだけ平らな道での走力を上げることができるかを重点課題に置いてトレーニングを積み重ねて、自分としては手応えを感じながら本番に臨みました。

2006年トリノパラリンピック

2006年トリノパラリンピック

―― トリノ大会では20㎞クラシカルの5位が最高でした。

いざレース当日ウォーミングアップをしていた時に、海外選手に対して「勝てないかもしれない」と一瞬思ってしまったんです。それで「少しでもタイムを縮めなければ」という気持ちが、逆に無駄な動きだったり心のブレにつながってしまいました。自分が最も自信のあったクロスカントリー男子10kmクラシカルでは序盤の1km過ぎで転倒し、右手で持っていたストックで脇腹を強打してしまいました。痛みをこらえて最後まで走り切りましたが、13位に終わりました。もしトリノで金メダルを獲っていれば、そこで納得して、おそらく現役を引退していたと思います。でも、メダルを獲れないばかりか、前回のソルトレークシティ大会から順位も落としてしまったので、そこで辞めるわけにはいかないなと思いました。それまでは技術的な部分を磨くことにフォーカスしていましたが、海外選手を見ていると技術よりも、とにかくパワーで押しきるという滑りをしていて、フィジカルの部分での差を埋め切れていなかったのかもしれないという反省もありました。そこで、もう一度金メダルを狙うチャレンジをするのであれば、環境や自分自身の考え方など、さまざまなものを変えていかなければいけないだろうと考え、日立ソリューションズに転職し、トレーニング方法も見直しました。

家族をつなぎあわせた初の金メダル

日立ソリューションズ「AURORA」部員(右端が本人)

日立ソリューションズ「AURORA」部員(右端が本人)

―― 日立ソリューションズでは、同社のスキーチーム「AURORA」に入り、再び荒井さんに師事するようになりましたね。

大学卒業後、一度荒井さんの元を離れて、自分ひとりでどれだけやれるかということに挑戦したのですが、やはり個人よりもチームとしての活動のほうにメリットがあるんじゃないかと思って「AURORA」に入りました。4年後の2010年バンクーバー大会をめざすにあたって、まず何に取り組みたいかとなった時、僕自身はトリノ大会で直面したパワー不足の面を改善したいと考えました。現在はオリンピックだけでなくパラリンピックの選手もJISS(国立スポーツ科学センター)でトレーニングすることができますが、当時は使うことができなかったので、大森(東京都大田区)にあるジムに通いました。そこで元JISSのスタッフだった方に師事して、ウエートトレーニングに励みました。週に5回くらいウエートトレーニングをやっていましたが、最初は筋肉痛で歩くのも辛かったです。このままやったら、かえって今まで技術にフォーカスしてきてつくり上げてきたフォームが崩れてしまうのではないか、と不安になったこともありましたが、徐々にやっていくうちにフィジカルの部分での強みも感じられるようになっていきました。

―― トリノ大会後、日立ソリューションズの先輩である小林(旧姓)深雪*3)さんから何か言葉を贈られたそうですね。

僕が日立ソリューションズに入社した時に、小林さんからは「私は今シーズン(2006-07)で引退するから」という話がありました。小林さんは世界のトップレベルで活躍されていました。僕はまだ思うような成績が出せていませんでした。シーズン終わりのほうの大会で優勝することができたこともあって、シーズンが終わって小林さんがチームみんなの前で挨拶をした時に「私がいなくなっても、新田くんが引っ張って行ってくれると思います」と言っていただきました。

*3)小林深雪:現・井口深雪。視覚障害の部でバイアスロンとクロスカントリーの日本代表としてパラリンピックに3大会出場。1998年長野大会では女子バイアスロン女子7.5kmで金メダルに輝き、2006年トリノ大会では12.5kmで金メダル、7.5kmでは銀メダルを獲得した

夫人(中央)、長男(左)と

夫人(中央)、長男(左)と

―― バンクーバー大会をめざすなかで、ご結婚もされました。決断の決め手となったのはどのようなことでしたか?

2008年に結婚をしましたが、実は荒井さんからは「こんな大事な時期に大丈夫か?」と心配をしていただきました。でも僕にとっては食事面でサポートしてもらえること、家族を持って支えてもらえることのほうが重要なので、という話をし、結婚に至りました。それまでずっとあった「祖父のために」という気持ちに加えて、「新しい家族のために」という気持ちが加わり、より一層モチベーションが高まりました。

 
2010年バンクーバーパラリンピック

2010年バンクーバーパラリンピック

――心技体すべてがそろったなかで、2010年バンクーバー大会に臨んだということになりますね。

特にトリノ大会で課題だったフィジカル面では、例えば1分間にできる腹筋回数は、最初は65回くらいだったのが、そのうちに70回後半とか、オリンピック選手にも負けない回数をこなせるようになったんです。そうしたことが自信となり、「この部分では海外選手にも絶対に負けていない」という自分のストロングポイントを見出せたことがとても大きかったです。不安がなくなり「これだけやったんだから」と自信を持てたことが、パフォーマンスにもプラスに働いたと思います。実際、調子もすごく良く、気持ちの部分でも余裕がありました。

それまではパラリンピックの直前となると「結果を出さなければいけない」と自分のことばかりでいっぱいいっぱいになっていましたが、バンクーバー大会の事前合宿ではほかの選手を見ていて「こうしたほうがいいんじゃないかな」とアドバイスをしたりしていました。それだけ周りを見られる心のゆとりがあったのだと思います。本当にすべての面で「よし、これで勝負できる」という万全の状態で大会に臨めたことが、バンクーバー大会で金メダルを獲れた最大の要因だったと思います。日本を出発する時に妻から手紙をもらいました。それを最初のレースの前日に読んだんです。「これまでの集大成、お世話になった人たちのためにがんばろうね」と書かれてありました。それまでの自分を振り返ることができて、翌日それを思い出したらレースが始まる前に涙が出てきましたが、「これまでやってきたことはすべて今日のためだったのだから、金メダルというよりも自分のベストなパフォーマンスをしっかりと出そう。そうすれば自ずと結果は出る」と割り切った気持ちになれたことも大きかったです。

2010年バンクーバーパラリンピック

2010年バンクーバーパラリンピック

―― そのバンクーバー大会では、クロスカントリーで男子10kmクラシカルと、1kmスプリントで2冠に輝きました。悲願の金メダルをおじいさんにかけてあげられた時はどんな気持ちでしたか?

その前年の12月に祖母が亡くなりました。僕は遠征中でノルウェーにいましたが、妻から連絡が来て、初めて吐血して入院していたということを知りました。パラリンピック直前の僕には競技に集中してほしいと思って知らせなかったそうです。だから亡くなったなんてとても信じられませんでした。すぐに帰りたかったのですが、それも叶わず、ようやく四十九日の時に実家に帰省することができました。元気だったころ、祖父母はしょっちゅう喧嘩をしていました。僕は「もしかしたら2人は仲が悪いのかな」と思ったこともあったのですが、祖母が亡くなって、祖父が縁側でひとり寂しそうにしている姿を見た時に、「そうではなかったんだな」と気づきました。その時の祖父の背中があまりにも寂しそうで「このまま祖父もいなくなってしまうんじゃないか」と不安な気持ちになりました。祖母がいなくなったこともそうですし、なんだかこれまでずっとつながっていた自分の家族の形が崩れてしまうんじゃないかと。それを防ぐためにも、僕が金メダルを獲って、祖父に喜んでもらい、家族をまたひとつにつなげたいと思いました。実際に金メダルを獲って、それを祖父にかけることができて本当に良かったと思いました。ひとつ目の金メダルを獲った時に姉から、祖父も喜んでいるし、祖母も天国で喜んでいると思うよ、という連絡をもらいました。その時に「ああ、なんとか間に合った」と安堵の気持ちになりました。

―― バンクーバー大会で悲願の金メダルを獲得し、おじいさんにかけてあげる目標を達成しました。そこで現役を引退するという考えはありましたか?

正直、そこで辞めてもいいかなと思っていました。ただ、小林さんが僕にバトンをつないでくれたように、僕も後輩にバトンをつないでからという気持ちはありました。当時、日立ソリューションズには僕のほかに3人しかいなかったんです。日立ソリューションズのスキー部「AURORA」は、障害があっても環境さえ整えば世界でメダルを獲れる選手を育てることができることを世間に広く発信していくことと、パラスポーツを普及させていく2つの側面を担う、日本においてはリーダー的存在です。そう考えると、常にメダリストを輩出することも重要で、そうした選手の発掘・育成を継続した形で行っていくということが会社の方針としてありましたので、金メダルを獲ったから辞めるのではなく、継続していってほしいと会社から事前に言われていました。ですから、どういう形にしろ、続けていこうと考えていました。

2014年ソチパラリンピック

2014年ソチパラリンピック

―― 2014年ソチ大会ではメダルを逃すという残念な結果でしたが、2018年平昌大会では、クロスカントリー10kmクラシカルで金メダル、1.5kmクラシカルスプリントで銀メダルと、見事に返り咲きを果たしましたね。

祖父が2012年に亡くなって、どこに目標を置いていいのかわからないまま臨んだのが2014年ソチ大会でした。ただ帰国した時に長男が手づくりの金メダルを持って成田空港に迎えに来てくれたんです。ちょうどその時、長男は僕がケガをした時と同じ3歳だったのもあって、自分が競技をしている姿を見て子どもが何かを感じてくれていたのかなと思いました。それで「また4年間がんばって、メダルをめざすチャレンジをしてみようかな」という気持ちになりました。ちょうど同じタイミングでパラリンピックが厚生労働省からスポーツ庁に移管したことを機に、JISSのサポートを受けられるようになったことも大きかったです。

平昌大会の時は37歳でしたが、その年齢でもう一度世界の頂点に返り咲くことができたのは、JISSで取り入れた科学的根拠に基づいたトレーニングのおかげでした。開幕1週間前までは、倒れ込んでこのまま終わりたいと思うくらいに苦しい低酸素トレーニングをしていました。毎回「もう二度とやりたくない」と逃げ出したくなるのですが、それでも続けていくと効果が実感できました。冬季競技は11月ごろからシーズンが始まって3月までの長丁場の戦いのなか、ずっと好調をキープすることはとても難しいんです。特にクロスカントリースキーのように長距離の競技の場合はどうしても筋力が落ちてしまう。そうすると、それまで挙げられていた重さの9割ほどのバーベルしか挙げられなかったりして、夏までに蓄えていたはずの筋量をキープできていないということを感じていました。でも、平昌大会の前年からはJISSでの指導で、それまでとは違う刺激を与えるようなトレーニングメニューを取り入れたところ、その年のシーズンはとても調子が良かったんです。だから同じようにすれば、平昌でも調子をキープしたまま臨むことができることがわかっていました。それは、とても大きかったです。

日立ソリューションズ平昌パラリンピック壮行会(2018年1月)

日立ソリューションズ平昌パラリンピック壮行会(2018年1月)

―― また入社当初から「AURORA」の活動を日立ソリューションズが会社を挙げて手厚くサポートされていたことも結果を出すうえでは大きかったのではないでしょうか?

とても大きかったですし、それなくしてはパラリンピックでの活躍はなかったと思います。「AURORA」には後援会があり、任意で入会してくれている社員が、国内大会はもちろん、いつもパラリンピックの現地にまで応援に駆けつけてくれるんです。それが本当に力になったし、モチベーションになりました。会社の新人研修の時には毎年、「AURORA」の紹介をしていただけるので、新入社員にも興味を持っていただいて、現在は約4000人の社員の方が入会してくれています。チームの応援ももちろんですが、さまざまな地域に同僚と一緒に出掛け、食事をするといった交流の場としても社員の方たちには魅力のようで、応援してもらうという一方通行だけではなく、お互いにとってとても良い形ができているなと思っています。また、会員の皆さんからの会費は、選手の用具代の一部に充てられることもあり、社員の方の応援してくれる気持ちが込められたお金で購入されたものだと思うと、選手もよりがんばれるというところがあるんです。

体制も制度も変革が必要な冬季競技の現状

日立ソリューションズ平昌パラリンピック壮行会(2018年1月)

日立ソリューションズ平昌パラリンピック壮行会(2018年1月)

―― 地元開催となった東京2020パラリンピックは、1998年長野大会を経験された新田さんにとってはどのようなことを感じられた大会だったでしょうか?

2013年に東京2020オリンピック・パラリンピックの開催が決定して以降、学校教育のなかでパラアスリートが学校を訪問して講演をしたり、子どもたちが競技を体験したりする機会があったことで、パラリンピックが言葉だけでなく深く浸透されていったように思います。なかでも東京2020大会で杉村英孝選手が個人で金メダル、団体でも銅メダルを獲得したボッチャは、渋谷区の区役所にボッチャコート2面が常設されて無料で利用することができるなど、簡単に楽しむことができるパラスポーツとしてすっかり定着したなという印象があります。

―― 東京2020大会や2022年北京大会(中国)では、原則として無観客のなかで競技が行われました。実際に北京では無観客のなかでのレースはいかがでしたか?

当然、観客がいてくれたほうが選手の励みになりますが、無観客でもオンラインで観戦してもらえたり、SNSで声援を届けてもらえたりと、応援のツールが増えたことはコロナ禍での開催だったからこその産物だったように思います。

―― 2030年の招致をめざす札幌でのオリンピック・パラリンピック開催については、いかがでしょうか?

競技人口が減少傾向にある冬季競技をアピールする大きなきっかけになると思います。また、地域活性化という視点からすれば、メリットは札幌だけに限りません。東京2020大会ではコロナ禍で残念ながら原則としてできませんでしたが、全国の市町村が海外の選手団をホストとなって迎えて、練習環境を提供するだけでなく、子どもたちや地域の方たちとの交流することも、地域活性化のひとつの起爆剤になると思います。

2014年ソチパラリンピック

2014年ソチパラリンピック

―― パラリンピックは今後、どうあるべきだと思いますか?

まず最初によく言われるのは各選手の障害の程度が「わかりにくい」ということ。その部分での理解を深めることが、パラリンピックの普及において大前提になるのかなと思います。そのうえでオリンピックと同じひとつの大会として組み込まれていくのが、正しい方向であるように思います。ただ最初からオリンピックと同じにするとなるとハードルは高いと思いますので、まずはオリンピックの公開競技からスタートしてもいいのかなと考えます。そうしたなかで、まずは見てもらうことでスポーツとして認識してもらい、徐々に溶け込んでいくようなやり方がいいのかなと思います。

―― 東京2020大会を機に、ひと昔前に比べると日本でもパラスポーツの認知が高まり、パラアスリートの育成・強化の環境も少しずつオリンピックに近づいてきていると思います。とはいえ、裾野を広げることはとても難しい。そういった点からも、今後のパラスポーツについては、どのようにお考えでしょうか?

まだ今の段階では同じ競技でも、オリンピックとパラリンピックは別々の組織となっているところがほとんどですが、一部では同じ競技としてひとつの組織を形成している団体もあります。例えばトライアスロンは、日本トライアスロン連合のなかに、トライアスロンとパラトライアスロンがあって、大会も一緒に開催されています。そのような動きが、今後はさらに活発になっていくのではないでしょうか。実はパラスキーにおいても、IPC(国際パラリンピック委員会)ではなく、オリンピック同様にFIS(国際スキー連盟)の基準を取り入れる傾向があると聞いています。こうした動きからも、将来的にはスキーも同じ大会で開催されるようになっていくのではないかと思います。10年以上前になりますが、ノルウェーでは健常者と障害者の大会が、ひとつの大会として同じ会場で行われたことがありました。3歳刻みでジュニアの部があって、23歳以上はシニアの部となっていましたが、そのなかにパラの部もあったんです。パラリンピックをめざす子どもたちが、オリンピックに出るような選手のパフォーマンスを間近に見られる機会があるっていいな、とその時に思いました。そうすると、障害の有無に関係なく、子どもたちのスポーツがしたいという気持ちが高まるんじゃないかなと。それが競技人口を増やす礎にもなるような気がします。

―― 今後の日本スポーツ界のあり方については、どのようにお考えでしょうか?

日本で子どもたちがスポーツに携わるとなると、未だに多くの場合、学校の部活動に入らなければいけません。通学する学校にない競技はできませんし、冬季競技はしたいと思っても、やれる環境がなかなかないというのが現状だと思います。そのような点では、地域スポーツの普及拡大が必須であるように思います。また、日本ではどうしても子どもの時からひとつの競技だけをやることが良しとされることが多いと思いますが、海外の選手を見ていると、子どもの時はいろいろなスポーツをして、そのなかで自分に合っているもの、自分が本当にやりたいと思ったものを成長していくに従って取捨選択できたほうが、競技を絞った時にもいろいろな引き出しが持てるのではないかなと感じます。僕自身、子どもの時は春から秋まではソフトボールをやっていましたし、小学校の児童数も少なかったこともあって、陸上や水泳の大会にも参加していました。また、秋にはバスケットボールやサッカーもやりましたし、そのうえで冬になったらスキーをやっていたので、スキーだけではなく“投げる”“蹴る”という基本的な動作も自然とできていて、それも間接的にはスキーでバランスを取る時に生かされているように思います。

―― 冬季競技のパラアスリートの現状は、どのようなものでしょうか?

冬季競技と言いますと、どうしても冬のシーズンの間だけが活動期間だと思われがちですが、実は年間を通じて活動していることをもっと知っていただきたいなと思います。また、ジュニアの子どもたちの受け入れ先については、まだまだ足りていないように感じます。大学までは親のサポートで競技を続けることができる選手が多いのですが、大学卒業後の受け入れ先がなかなか見つからないという選手が多いのが現状です。現在のパラノルディックスキーの強化・育成制度では、能力が高くてパラリンピックをめざせるような段階にあったとしても、最低でも3年間待たないとトップの強化指定選手にはなれないんです。そうするとアスリート雇用をしている企業にもアピールすることができません。ですので、例えば基準を数値化して、それを超える能力がある選手は、段階を踏まなくても、どんどん海外に行かせて経験を積ませるような、育成と強化が交わる制度が必要だと思います。

―― 最後に、新田さんご自身が次世代に残したいもの、伝えたいこととは何でしょうか?

僕は人生のピークがいつ来るかわからないということを常に思っていますが、子どもでも今体育が得意な子がオリンピックの選手になれるかというと実はそうではなくて、その後にピークが来てトップへとのぼりつめる選手もたくさんいると思います。大事なのは、自分が一生懸命にがんばってきたことが必ず人生の糧になるし、夢の実現に近づくということ。そして、そのがんばりは必ず誰かが見てくれているということだと思うんです。自分が今できる最大限のことをやることによって、夢の扉は広がっていきます。ピークが来る時期は人それぞれなので、誰かと比べて恥ずかしいなどと思って諦めずに、目標に向かってとにかく一生懸命にがんばってほしいなと思います。

  • 新田 佳浩氏 略歴
  • 世相

1912
明治45

ストックホルムオリンピック開催(夏季)
日本から金栗四三氏が男子マラソン、三島弥彦氏が男子100m、200mに初参加

1916
大正5

第一次世界大戦でオリンピック中止

1920
大正9

アントワープオリンピック開催(夏季)
熊谷一弥氏、テニスのシングルスで銀メダル、熊谷一弥氏、柏尾誠一郎氏、テニスのダブルスで 銀メダルを獲得

1924
大正13
パリオリンピック開催(夏季)
織田幹雄氏、男子三段跳で全競技を通じて日本人初の入賞となる6位となる
内藤克俊氏、レスリングで銅メダル獲得
1928
昭和3
アムステルダムオリンピック開催(夏季)
日本女子初参加
織田幹雄氏、男子三段跳で全競技を通じて日本人初の金メダルを獲得
人見絹枝氏、女子800mで全競技を通じて日本人女子初の銀メダルを獲得
サンモリッツオリンピック開催(冬季)
1932
昭和7
ロサンゼルスオリンピック開催(夏季)
南部忠平氏、男子三段跳で世界新記録を樹立し、金メダル獲得
レークプラシッドオリンピック開催(冬季)
1936
昭和11
ベルリンオリンピック開催(夏季)
田島直人氏、男子三段跳で世界新記録を樹立し、金メダル獲得
織田幹雄氏、南部忠平氏に続く日本人選手の同種目3連覇となる
ガルミッシュ・パルテンキルヘンオリンピック開催(冬季)

1940
昭和15
第二次世界大戦でオリンピック中止

1944
昭和19
第二次世界大戦でオリンピック中止

  • 1945第二次世界大戦が終戦
  • 1947日本国憲法が施行
1948
昭和23
ロンドンオリンピック開催(夏季)*日本は敗戦により不参加
サンモリッツオリンピック開催(冬季)

  • 1950朝鮮戦争が勃発
  • 1951日米安全保障条約を締結
1952
昭和27
ヘルシンキオリンピック開催(夏季)
オスロオリンピック開催(冬季)

  • 1955日本の高度経済成長の開始
1956
昭和31
メルボルンオリンピック開催(夏季)
コルチナ・ダンペッツォオリンピック開催(冬季)
猪谷千春氏、スキー回転で銀メダル獲得(冬季大会で日本人初のメダリストとなる)

1959
昭和34
1964年東京オリンピック開催決定

1960
昭和35
ローマオリンピック開催(夏季)
スコーバレーオリンピック開催(冬季)

ローマで第9回国際ストーク・マンデビル競技大会が開催
(のちに、第1回パラリンピックとして位置づけられる)

1964
昭和39
東京オリンピック・パラリンピック開催(夏季)
円谷幸吉氏、男子マラソンで銅メダル獲得
インスブルックオリンピック開催(冬季)

  • 1964東海道新幹線が開業
1968
昭和43
メキシコオリンピック開催(夏季)
テルアビブパラリンピック開催(夏季)
グルノーブルオリンピック開催(冬季)

1969
昭和44
日本陸上競技連盟の青木半治理事長が、日本体育協会の専務理事、日本オリンピック委員会(JOC)の委員長に就任

  • 1969アポロ11号が人類初の月面有人着陸
1972
昭和47
ミュンヘンオリンピック開催(夏季)
ハイデルベルクパラリンピック開催(夏季)
札幌オリンピック開催(冬季)

  • 1973オイルショックが始まる
1976
昭和51
モントリオールオリンピック開催(夏季)
トロントパラリンピック開催(夏季)
インスブルックオリンピック開催(冬季)
 
  • 1976ロッキード事件が表面化
1978
昭和53
8カ国陸上(アメリカ・ソ連・西ドイツ・イギリス・フランス・イタリア・ポーランド・日本)開催  
 
  • 1978日中平和友好条約を調印
1980
昭和55
モスクワオリンピック開催(夏季)、日本はボイコット
アーネムパラリンピック開催(夏季)
レークプラシッドオリンピック開催(冬季)
ヤイロパラリンピック開催(冬季) 冬季大会への日本人初参加

  • 1980新田 佳浩氏、岡山県に生まれる
  • 1982東北、上越新幹線が開業
1984
昭和59
ロサンゼルスオリンピック開催(夏季)
ニューヨーク/ストーク・マンデビルパラリンピック開催(夏季)
サラエボオリンピック開催(冬季)
インスブルックパラリンピック開催(冬季)

1988
昭和63
ソウルオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
鈴木大地 競泳金メダル獲得
カルガリーオリンピック開催(冬季)
インスブルックパラリンピック開催(冬季)

1992
平成4
バルセロナオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
有森裕子氏、女子マラソンにて日本女子陸上選手64年ぶりの銀メダル獲得
アルベールビルオリンピック開催(冬季)
ティーユ/アルベールビルパラリンピック開催(冬季)
1994
平成6
リレハンメルオリンピック・パラリンピック開催(冬季)

  • 1995阪神・淡路大震災が発生
1996
平成8
アトランタオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
有森裕子氏、女子マラソンにて銅メダル獲得

  • 1997香港が中国に返還される
1998
平成10
長野オリンピック・パラリンピック開催(冬季)

  • 1998新田 佳浩氏、長野パラリンピック クロスカントリースキー5㎞クラシカルで8位、10㎞フリーで8位、20㎞クラシカルで8位
  • 1999新田 佳浩氏、岡山県立林野高等学校からパラリンピック選手初のスポーツ推薦にて筑波大学体育専門学群へ進学
2000
平成12
シドニーオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
高橋尚子氏、女子マラソンにて金メダル獲得

2002
平成14
ソルトレークシティオリンピック・パラリンピック開催(冬季)

  • 2002新田 佳浩氏、ソルトレークシティパラリンピック クロスカントリースキー5㎞クラシカルで銅メダルを獲得、バイアスロン7.5㎞個人で20位
  • 2003新田 佳浩氏、アディダス ジャパン株式会社へ入社
    新田 佳浩氏、世界選手権にてクロスカントリースキー10㎞クラシカルで金メダルを獲得
2004
平成16
アテネオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
野口みずき氏、女子マラソンにて金メダル獲得

  • 2005新田 佳浩氏、世界選手権にてクロスカントリースキー20㎞クラシカルで銀メダルを獲得
2006
平成18
トリノオリンピック・パラリンピック開催(冬季)

  • 2006新田 佳浩氏、トリノパラリンピックで日本選手団の旗手を務める。
    クロスカントリースキー5㎞立位で20位、10㎞クラシカル立位で13位、20㎞クラシカル立位で5位。
    新田 佳浩氏、株式会社日立ソリューションズへ入社
2007
平成19
第1回東京マラソン開催

  • 2007新田 佳浩氏、ワールドカップカナダ大会でクロスカントリースキー20㎞クラシカル優勝
2008
平成20
北京オリンピック・パラリンピック開催(夏季)
男子4×100mリレーで日本(塚原直貴氏、末續慎吾氏、高平慎士氏、朝原宣治氏)が3位となり、男子トラック種目初のオリンピック銅メダル獲得

  • 2008リーマンショックが起こる
2010
平成22
バンクーバーオリンピック・パラリンピック開催(冬季)

  • 2010新田 佳浩氏、バンクーバーパラリンピックで日本選手団の主将を務める。
    クロスカントリースキー10㎞クラシカル立位で金メダル、1㎞スプリント立位で金メダルを獲得、バイアスロン3㎞パシュート立位で10位
  • 2011東日本大震災が発生
2012
平成24
ロンドンオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
2020年に東京オリンピック・パラリンピック開催決定

  • 2012新田 佳浩氏、ワールドカップアメリカ大会クロスカントリースキー20㎞ロングクラシカルで優勝
2013
平成25
2020年に東京オリンピック・パラリンピック開催決定

2014
平成26
ソチオリンピック・パラリンピック開催(冬季)

  • 2014新田 佳浩氏、ソチパラリンピック クロスカントリースキー20㎞クラシカル立位で4位、10㎞立位フリーで17位、4×2.5㎞ミックスリレーで7位
2016
平成28
リオデジャネイロオリンピック・パラリンピック開催(夏季)

2018
平成30
平昌オリンピック・パラリンピック開催(冬季)

  • 2018新田 佳浩氏、平昌パラリンピック クロスカントリースキー10㎞クラシカル立位で金メダル、1.5㎞クラシカルスプリント立位で銀メダルを獲得、4×2.5㎞ミックスリレーで4位
2020
令和2
新型コロナウイルス感染症の世界的流行により、東京オリンピック・パラリンピックの開催が2021年に延期
2021
令和3
東京オリンピック・パラリンピック開催(夏季)

2022
令和4
北京オリンピック・パラリンピック開催(冬季)

  • 2022新田 佳浩氏、北京パラリンピック クロスカントリースキー20㎞クラシカル立位で7位、1.3㎞スプリントフリーで8位、4×2.5㎞オープンリレーで7位