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冬季オリンピック・パラリンピック
第117回
気概と誇りを持って飛び続けた 競技人生に悔いなし

西方 仁也

 中学時代からスキージャンプの全国トップ選手として活躍し、原田雅彦さんら同世代と切磋琢磨して世界へと羽ばたいた西方仁也さん。オリンピックには1994年リレハンメル大会に出場し、男子団体で銀メダルを獲得しました。

 

 ケガで出遅れたことで出場が叶わなかった1998年長野大会は悔しさを胸にしまい込み、テストジャンパーとして臨みました。悪天候のために中断を余儀なくされたジャンプ団体の決勝、西方さんたちテストジャンパー25人全員が猛吹雪の中でのジャンプを成功させ、試合続行が決定。4位からの大逆転勝利で金メダルに輝いた日本ジャンプ陣の陰の功労者として今も語り草となっています。そんな西方さんの競技人生を振り返るとともに、長野大会でのドラマの真実を語っていただきました。

 

聞き手/佐野慎輔 文/斎藤寿子 写真/フォート・キシモト、西方仁也 取材日/2022年12月22日

スキーヤーにとって最高の環境があった故郷

野沢温泉シャンツェトレーニングセンター
ノーマルヒル(左)、ミディアムヒル(中)、ミニヒル(右)

野沢温泉シャンツェトレーニングセンター ノーマルヒル(左)、ミディアムヒル(中)、ミニヒル(右)

―― 西方さんの出身地である長野県野沢温泉村はスキーが盛んな地域で、西方さんや河野孝典*1)さんなど、数多くのすばらしいスキー選手を輩出しています。西方さんも幼少時代からスキーが生活の一部だったのでしょうか?

河野とは遠戚という間柄なのですが、野沢温泉村で生まれ育った私たちにとっては「スキーしかなかった」と言ったほうが正しいかもしれません。ふだんは閑散としている村が、冬になって雪が積もるとスキー客が訪れて賑わいを見せます。そうしたなかで私たちも冬になると、学校でも自宅でもスキーをするのが普通でした。時々、都会から来られたスキー客の方からその時の流行りものを教えてもらったりして、さまざまな情報を得ていました。スキーを通じていろいろな情報を得るなかで都会への憧れを強く持つようになり、高校生くらいになると「いつかどうにかして東京に行きたい」という気持ちになりました。その思いが強まったきっかけが、中学3年生の時に全国中学校体育大会(以下、全中)で優勝したことでした。北海道などほかの地域にも強い選手がいることを知って大きな刺激を受けたんです。最初は兄の影響でスキーを始めたので、中学校まではなんとなくでやっていたのですが、高校への進学を考える際にスキーを続けるか否かを真剣に考えて、「やっぱり自分はスキーで東京の大学に行きたい」と思い、高校から本腰を入れてやるようになりました。そうしたところ、改めてスキーの魅力を感じ、ますます熱が入りました。その高校時代には全日本ジュニア代表に選ばれて北海道での合宿に参加した時に、同学年の原田雅彦*2)たちと一緒に練習をしました。原田とは高校2年生の時にノルディックスキージュニア世界選手権に一緒に出場しました。今振り返ると、そのあたりから世界を意識するようになったと思います。

―― 野沢温泉村には村営のリフトがあるスキー場があり、スキーをするには最高の場所で生まれ育ちましたね。

当時の野沢温泉村は経済的にも恵まれていたので、私たちが子どものころはとても良い環境にありました。毎年安定的に豊富な量の雪が降り積もっていたので、スキー選手は何不自由なく練習することができました。また指導者も、私が高校時代に小野学*3)さんがいらっしゃって、私たち高校生を一から指導してくださいました。高校卒業後、私たちがそれぞれ東京の強豪大学に進学することができたのも、小野さんの存在が大きかったと思います。

*1)河野孝典:元スキーノルディック複合日本代表。1992年アルベールビル、1994年リレハンメルと2大会連続で冬季オリンピックに出場し、リレハンメルでは個人で銀メダルを獲得、団体での連覇にも大きく貢献した

*2)原田雅彦:元スキージャンプ日本代表。オリンピックには1992年アルベールビルから2006年トリノまで5大会連続で出場。1994年リレハンメル大会では団体銀メダル、1998年長野大会では団体金メダル、個人ラージヒル銅メダルを獲得。2022年北京大会では日本選手団総監督を務め、現在は雪印メグミルクスキー部総監督および全日本スキー連盟副会長

*3)小野学:長野県出身の元ジャンプ選手。現役引退後、全日本スキー連盟ノルディックスキーナショナルチームのジャンプコーチ、ヘッドコーチを歴任し、日本ジャンプ陣の黄金期を築いた。北野建設スキー部監督時代にはノルディック複合の荻原健司やフリースタイルモーグルの上村愛子などの育成にも携わった

兄俊也(左)、本人(右)

兄俊也(左)、本人(右)

―― お兄さんの俊也さんの影響を受けてノルディックスキーを始めたということですが、ジャンプ1本に絞ったのはいつごろだったのでしょうか?

物心ついた時にすでに兄はスキーをやっていましたので、そのお下がりをもらって自分もスキーを始めました。小学4年生からスキージャンプを始めたのですが、はじめのころはケガばかりしていたんです。でも兄から転び方を教えてもらってからはケガをしなくなり、そこから徐々に上達していきました。指導してもらっていた野沢温泉スキークラブは小学生までだったので、中学校ではスキー部に入りました。そのスキー部ではジャンプとノルディック複合(ジャンプとクロスカントリーの両種目による成績で順位を争うスキー競技)の両方をやるのが普通でした。高校のスキー部も基本的にはどちらもやるのですが、高校1年生の冬の合宿で午前にジャンプを練習し、午後にはクロスカントリーの練習をする予定だったのが、小野コーチに「西方は午後もそのままジャンプの練習をしなさい」と言われました。おそらく中学3年生の時の全中の成績が、ジャンプは優勝、複合は4位だったので、ジャンプ選手として育てようと思ったのかもしれません。いずれにしても、それをきっかけにして私は複合から離れて、ジャンプ1本の選手になりました。

 

―― 私も実際に野沢シャンツェ(ミディアムヒルジャンプトレーニングセンター)に行ってジャンプ台を見たことがありますが、あの高さから飛ぶのは、子どものころは怖かったのではないでしょうか。

シャンツェは私が初めて飛んだジャンプ台で、そこでジャンプ選手として育ったのですが、見た目からしてすごく大きいんですよね。ですので、全日本ジュニアの合宿で北海道に行った時に、札幌の大倉山ジャンプ競技場を見ても、「いつも飛んでいる野沢よりも少し大きいくらいかな」と思えたんです。ところが見るのとやるのとでは大違いで、実際に飛んでみたら「こんな怖いところはない」と驚いたのを覚えています。

高校2年生の世界ジュニア選手権
本人(左)、原田雅彦氏(右)

高校2年生の世界ジュニア選手権 本人(左)、原田雅彦氏(右)

―― 子どものころから周りには数多くの優秀な選手がいたと思いますが、なかでも同学年の原田さんとは子どものころから良きライバル関係にありましたね。

中学時代はまだ原田は私のことを特に意識してはいなかったと思います。ただ原田は1年生の時から全中で優勝していたので、私は「同い年ですごい選手がいる」と思っていました。

3年生の時には、僕が全中で優勝しましたが、ジュニア世界選手権に出場していた原田が不在だったんです。それでもずっとトップ10は北海道勢が占めていたなか、長野県出身の僕が割り込んで、しかも優勝したので大きな注目はしていただきました。いずれにしても、中学、高校時代は原田をはじめ北海道の選手は別格でした。

 

怖さを上回った「誰よりも一番遠くへ」のライバル心

1972年札幌オリンピック「日の丸飛行隊」左から金野昭次氏、笠谷幸生氏、青地清二氏

1972年札幌オリンピック「日の丸飛行隊」左から金野昭次氏、笠谷幸生氏、青地清二氏

―― 地元の高校卒業後、明治大学を進学先に選んだ理由は何だったのでしょうか?

兄が進学していたということもありましたし、せっかく東京の大学に行くなら笠谷幸生*4)さんや青地清二*5)さんの出身大学でやりたいと思ったんです。また2学年上には三ケ田礼一*6)さんもいましたので、明治大学への気持ちが強くありました。

1992年アルベールビルオリンピック ノルディック複団体金メダルの三ヶ田礼一氏

1992年アルベールビルオリンピック ノルディック複団体金メダルの三ヶ田礼一氏

*4) 笠谷幸生:1972年札幌オリンピックでは70m級ジャンプで冬季オリンピック日本人初の金メダリストとなり、銀メダルの金野昭次、銅メダルの青地清二と表彰台を独占し、「日の丸飛行隊」と呼ばれた

*5)青地清二:1972年札幌オリンピック70m級ジャンプ銅メダリスト

*6) 三ヶ田礼一:1992年アルベールビル大会ノルディック複合団体金メダルのメンバー

全日本学生スキー選手権に出場した明大スキー部。4年生の時キャプテンを務める。前列右から2番目が本人(1991年)

全日本学生スキー選手権に出場した明大スキー部。4年生の時キャプテンを務める。前列右から2番目が本人(1991年)

―― 明治大学での練習は、高校までのものとは何か違いがあったのでしょうか?

高校までの練習というのは、指導者が一から十までメニューを決めて、選手はその通りにやるという感じでした。一方、大学では練習はひとりでした。自分でメニューを考えてやるのですが、私の場合は合宿所に入っていて、1~2年生の時は掃除や先輩のご飯をつくったりしなければいけなかったので、それだけで一日があっという間に終わり、最低限の状態をキープするぐらいの練習しかできませんでした。だからその時代の成績はふるわず、国内の大会でもシニアのなかでトップ10に入るか入らないかくらいで、「練習を積まないと、ここまで飛べなくなるんだ」とがっかりしました。現在の明大スキー部は当時と違い、合宿所も2013年に新しくなり食事の面も給食センターの方が栄養のバランスを考えた食事をつくってくれます。またトレーニングは大学の施設やウエイトルームも使用でき計画的な体づくりができるようになっています。

現在の明治大学スキー部合宿所

現在の明治大学スキー部合宿所

 
原田氏とのジャンプのシミュレーション練習

原田氏とのジャンプのシミュレーション練習

―― 大学卒業後はすでに高校から原田さんが入っていた名門の雪印乳業スキー部に入りました。雪印での練習はどうだったのでしょうか?

今考えるととても画期的だったなと思います。雪印では入社当初から専門のトレーナーが何曜日にどんなトレーニングをするのか、1週間の練習メニューをつくってくれていました。季節ごとにも考えられていて、春から夏にやる練習があり、シーズン直前の9、10月には追い込みのメニューをやってシーズンインという流れができていました。

―― 雪印に入ったことが飛躍の大きな要因だったのでしょうか?

そうですね。原田もそうだったと思います。高校卒業後、私よりも4年先に雪印に入社していましたが、私が入ったその年に日本代表入りしているんです。ですから入社当初は、原田とはすっかり差が開いてしまったなと感じていました。体力的には1年で追いつくことができましたが、技術的な部分でも早く追いつきたいと思いながら練習に励んでいました。

―― スキージャンプというのは恐怖心の中での自分自身との戦いでもあるように思いますが。

私自身も小学4年生の時にジャンプ台の上に立って、怖くて飛べずに泣きながらジャンプ台を下りてきたこともありました。最初は20mの高さのジャンプ台から始まって、40m、ノーマルヒル(85~109m)、ラージヒル(110~184m)と徐々に高さが上がっていったのですが、やっぱり常に怖さを感じました。それを克服するのに一番大きかったのは、ライバルである同学年の存在でした。「同い年のあいつが飛んでいるんだから自分も負けてられない」という気持ちが恐怖心に打ち勝つ最大の要因になっていました。

また世界を転戦するようになっても、初めて飛ぶジャンプ台というのは怖さがありました。だから私は原田など、すでに飛んだことのある選手に「これって日本だったらどこのジャンプ台に似ている?」ということを聞くようにしていました。そうすると「あそこのジャンプ台のような感じで飛べばいいんだな」とイメージを持てるので怖さが半減したんです。またリフトで上がっていく際にはほかの選手がジャンプしているのを横目で見ながら、自分が持っているイメージと照らし合わせるようにしていました。1本飛べば、そのジャンプ台でのイメージははっきりしますので、2本目からは恐怖心よりも、どう修正をしてこのジャンプ台での自分のジャンプを完成させていくかということに考えが集中できました。

入社1年目のV字ジャンプで大倉山を制する(1992年)

入社1年目のV字ジャンプで大倉山を制する(1992年)

―― ジャンプもクロスカントリーもノルディックスキー(ノルディックは「北欧」の意。北欧が発祥あるいは発展したジャンプ、クロスカントリー、複合の3競技を指す)の練習はほかのどの競技と比べても過酷だと聞きます。そんな厳しい練習を積み重ねなければいけないうえに、なぜ恐怖心とも戦わなければいけないジャンプという競技を続けようと思ったんですか?

遠くまで飛べた時の嬉しさはもちろんですし、飛ぶ瞬間に体が宙に浮く感覚があるのですが、それが何とも言えないものなんです。その感覚を初めて味わったのは、中学生で野沢温泉スキー場のジャンプ台を初めて飛んだ時だったのですが、フワッと体が浮く、その何とも言えない感覚に、着地した後は両足の震えが止まりませんでした。そして最終的には、やはり「誰よりも遠くに飛びたい」という気持ちが競技を続けた最大の理由でした。

本来ジャンプ競技というのは飛距離だけでなく、着地する際にきれいにテレマーク(両腕を水平に開き、両足のスキーを前後にずらして膝を曲げて腰を落とした姿勢)を決めないとスコアが伸びません。でもそんなことは二の次で、とにかく一番にあったのは遠くに飛ぶことでした。だから社会人になった当初は、大会でわずか50センチでも遠くに飛ぶことができたら、順位に関係なく「よし、自分が一番だった!」と喜んでいました。でも、ある時言われたことがあったんです。「一番遠くに飛びながら、なんで2位や3位なんだ?それはテレマークが決まっていないからだろ?それじゃ勝ったとは言えないし、結果を残すことが仕事の社会人としてやっていけないよ」と。それを言われた時に頭をガツンと殴られたような気がして、それからは飛距離ではなく勝つことをめざして飛ぶようになりました。

―― 誰よりも遠くに飛びたいという思いや、勝負へのこだわりの強さは、どこからくるものでしょうか?

実はスキー以外のことでは一番になりたいと思うことはまったくないんです。子どものころも運動会で一番速く走って一等賞を獲りたいとか、なにか勝負ごとに執着することはありませんでした。練習で走っていたので長距離は結構得意なほうだったのですが、それでも自分のベストが出せればいいという感じでした。ところが、なぜかジャンプに関してだけは子どものころから「自分が一番遠くまで飛びたい」という負けん気の強さが出ていました。それほどジャンプは私にとって特別なものだったのだと思いますし、自分自身を最も表現するものであったのかもしれません。

報道とは乖離があったリレハンメルでの団体銀メダル

リレハンメルオリンピックジャンプ団体で銀メダルを獲得した日本。左から岡部孝信氏、原田雅彦氏、葛西紀明氏、本人

リレハンメルオリンピックジャンプ団体で銀メダルを獲得した日本。左から岡部孝信氏、原田雅彦氏、葛西紀明氏、本人

世界選手権で優勝した
原田雅彦氏(1993年)

世界選手権で優勝した原田雅彦氏(1993年)

―― ちょうど西方さんが雪印に入社したころに、「V字ジャンプ」*7)が登場しました。西方さんはいつV字に…。

入社1年目の夏からV字ジャンプを練習するようになりました。私より4年先に入社していた原田は、その年の秋にV字ジャンプを完全に習得して飛距離がグンと伸び、そのままシーズンに入って好成績を残しました。それが1992年アルベールビル大会への出場へとつながったのだと思います。いずれにしても、世界中の選手にとってV字スタイルの登場は大きな衝撃で、いち早くものにした選手が好成績を残していました。

*7)V字ジャンプ:スキー板の先端を開きV字のようにして飛ぶスタイル。元祖はスウェーデンのヤン・ボークレブ選手が始め1990年シーズンから世界に広まった

―― オリンピックを意識するようになったのは…。

社会人2年目の1992-93シーズンに初めて世界選手権に出場しましたが、その大会のノーマルヒルで優勝したのが原田でした。僕は7位でしたが、その時に思ったんです。「待てよ、同じ日本人の原田がトップで、オレが7位ってことは、世界と日本との差はそれほどないんじゃないか?だったらもしかしたら次のオリンピック(1994年リレハンメル大会)の時には、日本勢がもっと上になれているかもしれない」と。それがきっかけで、オリンピックが明確な目標となっていきました。

 
入社1年目の国内大会で初優勝。中央が本人
(1992年)

入社1年目の国内大会で初優勝。中央が本人(1992年)

実は社会人1年目の時も、翌年(1992年)2月のアルベールビル大会の候補として名前が挙がっていました。でも、当時は国内で4番目くらいの位置にいたので、自分としてはオリンピックではなく、とにかく国内の大会で優勝をして名をあげたいという気持ちのほうが強かったんです。
その年、国内トップ4、5人が不在だった時の国内戦は、同じ雪印所属の齋藤浩哉*8)と私の2人が常に1、2位を争う結果でした。それが自信をもたらしてくれ、「よし、次は世界だ」という気持ちで臨んだのが、翌年の世界選手権でした。そこでようやくオリンピックが見えて、1994年リレハンメル大会をめざすようになりました。

*8)齋藤浩哉:1998年長野大会での団体金メダルのメンバー

 
1994年リレハンメルオリンピック

1994年リレハンメルオリンピック

―― 実際にリレハンメル大会の日本代表に決まった時の思いはいかがでしたか?

代表選手が正式発表された時は、嬉しさというよりも、「良かった」とほっとした気持ちのほうが大きかったです。

―― そのリレハンメル大会では、個人ではノーマルヒル、ラージヒルいずれも8位入賞し、団体では銀メダル獲得に貢献されました。

実は個人のほうは、ノーマルヒルもラージヒルも2本目は失敗でした。1本目でまずまずの順位でしたから、「2本目は普通に飛べばいい」と思っていたのですが、オリンピックという特別な舞台は平常心を保つことができず、やはり少し力が入ったんでしょうね。周りで「あいつが何メートル飛べば、メダルに届くかもしれない」とか「この風だったら、ああだこうだ」というようなことを言っているのが耳に入ってきて、余計なことを考えてはいけないのはわかっているのに、どうしても計算してしまいました。

「勝負だ」と肩に力が入った状態で臨んだところ失敗のジャンプに終わりました。
一方、団体戦の時は勝負への強い気持ちはありましたが、とても冷静でいられました。1本目はK点*9)を越えるジャンプをと思っていたら、ちょっとタイミングが悪くて118mしかいかなかったのですが、2本目は風も良かったので、「よし、ここで先頭の自分が一発やってやろう」という気持ちで飛んだところ、135mの大ジャンプとなりました。

*9)K点:ドイツ語の「Konstruktionspunkt」の頭文字をとったもので、飛行可能な距離が何メートルの設計かを示す建築基準点。以前はドイツ語の「KritischerPunkt」の頭文字をとり、「これ以上飛ぶと危険」という極限点を意味していた

1994年リレハンメルオリンピック後の野沢温泉パレード。
河野孝典氏(左)、本人(右)

1994年リレハンメルオリンピック後の野沢温泉パレード。河野孝典氏(左)、本人(右)

―― ひとり目の西方さんの大ジャンプが、その後に続いた日本選手に勢いをもたらしました。2人目の岡部孝信*10)さんも133mの大ジャンプをし、3人目の葛西紀明*11)さんも120mと無難にまとめ、日本は最後の原田さんを残して、2位ドイツに55ポイント差をつけてトップに立っていました。

ドイツの最後のイェンス・バイスフロクが2本目に135.5mまで飛距離を伸ばしましたが、スコアは141.4点と144点だった私のほうが上回っていましたので、「これはいけるだろう」と思いながら、下でみんなのジャンプを見守っていました。岡部も葛西もいい感じで飛んでくれましたので、あとは原田にすべてを託すという感じでした。105mを飛べば金メダル決定ということで、1本目には118.6mを飛んでいましたから普通に飛んでくれれば大丈夫だろうと。まさかここで大きな失敗をするなんてことはないだろうと思っていたのですが……。

 

*10)岡部孝信:団体では1994年リレハンメルで銀、1998年長野大会で金と2大会連続でのメダル獲得に貢献

*11)葛西紀明:16歳から日本代表として活躍し、オリンピックには1992年アルベールビルから2018年平昌まで8大会連続で出場。2016-17シーズンには44歳9カ月でワールドカップを制し、最年長優勝記録を更新。50歳となった現在も現役を続けるレジェンドで所属の土屋ホームでは監督を兼任

失敗ジャンプだった原田氏に駆け寄り声をかける団体メンバー。左が本人

失敗ジャンプだった原田氏に駆け寄り声をかける団体メンバー。左が本人

―― 結果的に原田さんが大失速をして97.5mしか飛距離を伸ばすことができませんでした。金メダルを逃した瞬間というのは、どんなお気持ちでしたか?

確かに金メダルではなかったことは残念だったのですが、私としては銀メダルでほっとした感情のほうが大きかったんです。原田がジャンプを失敗して「メダルを逃したら、これはやばいぞ」と思いながら電光掲示板を見たら、日本が2番目だったので「あ、2位か。それなら良かった」と。というのも、日本勢としての目標はあくまでも「メダル獲得」でしたので、それが達成できて良かったという気持ちしかありませんでした。だからしゃがみこんで頭を抱えた原田に対しても「大丈夫だよ。メダルを獲ったんだから、ぜんぜん問題ない。次の長野で金メダル狙おうよ」という気持ちで迎えていました。ただ原田は、厳しい報道がありましたから、帰国後の対応は大変だったと思います。私たち選手としては競技で失敗することは常ですし、勝つこともあれば負けることもあるのがスポーツ。その世界でやってきている人間としては、ひとつの結果としてとらえていたに過ぎず、原田を責める気持ちは全くなかったですし、全員がそうだったと思います。

―― 初めてのオリンピックにはどんな印象をもたれました?

特別な舞台であることは確かでしたが、怖さを感じることはありませんでした。「オリンピックってこういうところなんだな。よし、じゃあ次、2回目のオリンピックでは同じ失敗はしないぞ」と思って帰国しました。

日本に金メダルをもたらしたテストジャンパーの誇り

長野オリンピックに向けたトレーニング

長野オリンピックに向けたトレーニング

―― 次のオリンピック開催地は、地元の長野ということがすでに決まっていたので、リレハンメル大会後はすぐに長野大会に向かっていったという感じだったのでしょうか?

はい、すぐに長野大会に気持ちが切り替わっていました。調子も良かったので、1年1年順調にシーズンを過ごしていました。ところが長野大会の前年、1997年の夏に腰を痛めてしまったんです。原因はオーバーストレッチで、ある部位の可動域が広くなっていて、そこに大きな負荷がかかったことで炎症を起こしていたための痛みでした。結果的には負荷をかけないようにしていれば治ったのですが、最初はそういう診断が下されず、なかなか治らなかったんです。それでだましだましやり続けてしまって、8月の海外遠征を途中で帰国しました。それで以前お世話になった先生に診てもらったところ、そこで初めてオーバーストレッチが原因の炎症だということが判明しました。先生のおっしゃった通り、負荷をかけないようにしていたら治ったのですが、結局3カ月を要し、シーズンインにはなんとか間に合いましたが、成績はふるいませんでした。だから「もう自分はオリンピックはないな」と覚悟していたんです。たとえ出られたとしてもオリンピックで勝てるようなパフォーマンスを出せるかといったら、「今の自分には無理だな」と思っていました。

テストジャンパーの集合写真。前列右が本人(1998年)

テストジャンパーの集合写真。前列右が本人(1998年)

―― 日本代表として長野大会への出場は叶いませんでしたが、テストジャンパーとしての依頼を受けました。その時のお気持ちはどうでしたか?

私個人ではなく、雪印のスキー部に依頼があり、そこに私もメンバーに入りましたが、正直何か強い思い入れがあったということはありませんでした。「練習できるからいいかな」くらいの気持ちで考えていました。オリンピックに出られないからといって、気持ちを腐らせていたということはなくて、ふだん通りに練習を続けていました。テストジャンパー25人のメンバー全員で現地入りしたのは、開幕3日前くらいだったと記憶しています。テストジャンパーのなかには高校生もいましたので、社会人である自分が腐った気持ちでやっていてはいけないなと思いながら、現地入り後も黙々と練習を続けたという感じでした。ただ開幕して日本人選手の活躍を目にするたびに自分と比較して「オレはぜんぜん光り輝いていないな」と、少し沈んだ気持ちになったこともありました。同じテストジャンパーでも高校生たちは純粋に日本人選手の活躍を喜んでいましたが、オリンピアンでありメダリストでもある自分がいる場所はここではないという気持ちも正直あって複雑でした。

―― テストジャンパーとはいえ、しっかりと飛ぶためのモチベーションが必要だったと思いますが、どのようにして気持ちを高めたのでしょうか?

オリンピックだからというよりも、オリンピックのあとにも大会が控えていましたので、それに向けての準備という気持ちで、いつでも飛べる状態をつくるようにしていました。それにいざ飛ぶとなったら、それがテストジャンプだったとしても、「誰よりも遠くに飛んでみせる。見てろよ」という気概がありました。

―― そうしたなかで2月17日、ジャンプ団体の決勝の日を迎えました。その日の朝、原田さんが西方さんを訪ねてきたそうですね。

テストジャンパーの控室にみんなといたら、突然原田が入ってきたんです。高校生なんかはびっくりしていましたよ。私が「どうした?」って聞いたら「アンダーシャツ、貸してくれない?」と言うんです。でも私が持っていたのはLサイズで、原田は私よりも一回り体が小さいので「無理だよ」と言ったんです。ところがたまたま私が着ていたのが小さいサイズのものだったので、原田が「今着ているのでいいよ」と言うものだから、「これでいいなら」と言って脱いで渡しました。その時は「オレのアンダーシャツなんか借りてどうするんだろう?」と思っていたのですが、競技が始まって1本目の時にエレベーターから降りてくる原田の襟をみたら、私のアンダーシャツを身に付けているのが見えて「ええ!?」と驚きました。
でもその時に初めて原田の気持ちを知って、嬉しかったですね。ただ、実際に原田が飛ぶ順番になった時にはライバル心が出てきまして、「あまり遠くに飛ぶなよ」と内心思っていました。原田が大ジャンプして日本が金メダルを獲ったら、自分が出たリレハンメル大会での銀メダルを超されてしまいますので、メダルは獲らせてあげたいけど、金じゃなくて銀か銅であってほしいなと思っていたのが正直な気持ちでした。そしたら原田が大失速して79.5mという信じられない記録に終わったので、「ヤバイ、オレの念が通じすぎてしまったかも」と少し慌てた気持ちになりました。

右:開催がかかった2本目のテストジャンプ。悪天候中123mを飛んだ(1998年)

左:「誰よりも遠くへ」という気持ちでテストジャンプに臨む(1998年)
右:開催がかかった2本目のテストジャンプ。悪天候中123mを飛んだ(1998年)

―― 当日の天候は非常に悪くて、朝から激しく雪が降っていました。1本目が終わった後は吹雪となり、2本目は第1グループの8人が飛んだ後に中断。あまりの猛吹雪に、そのまま打ち切りも十分に考えられました。

私も「もうこれは無理だな」と7割方打ち切りだろうと思っていました。そしたら齋藤がテストジャンパーの控室に来て「西方さん、どうですかねえ」と聞いてきたんです。私は「無理でしょう。これだけ降っていたら競技にならないよ」と答えました。そしたら齋藤が「そうですよね。でも、ここで終わるわけにはいかないんです」とポツリと言ったんです。1本目を終えて日本は4位でしたから、打ち切りとなればメダルを逃してしまうわけですからね。それで私も「確かにそうだよな。打ち切りはダメだよな」と言ったんです。それ以上は話さずに齋藤は控室を出て行ったのですが、その時に「2本目ができたら、日本はおそらく勝つだろうな」という予感がありました。それほど日本選手たちのレベルは高かったですからね。だから私も「そうだよな。自国開催で日本がメダルなしに終わるのはダメだよな。なんとかメダルだけは獲らせてあげたいな」という気持ちが強くわいてきました。

原田選手のジャンプを見つめるテストジャンパーと複合の代表選手。中央が本人(1998年)

原田選手のジャンプを見つめるテストジャンパーと複合の代表選手。中央が本人(1998年)

―― 1本目を終えて4位だった日本はどうしても2本目を再開したかった一方、上位3カ国の競技委員は打ち切りを主張していました。協議の結果、テストジャンパーのジャンプ結果で判断することとなったわけですが、西方さんたちテストジャンパーにはどのようにして伝えられたのでしょうか?

テストジャンパー主任の正木啓三*12)さんが控室に来られて、「テストジャンパーを飛ばすことになったから用意してください」と言われたんです。会場に設置された気象庁の移動気象観測車からの情報によれば、あと15~20分すれば雲が通過して天候が良くなるからということだったようです。それですぐに用意をはじめました。飛ぶ順は高校生からだったのですが、私と桜井仁さん(1994年リレハンメル大会日本代表、出場なし)、同じ雪印所属の後輩だった伊藤直人くんは最後に飛ぶように指名されていたので待っていたら、それまで順調にみんな飛んでいたのに、私たち3人を残して「待った」がかかったんです。それで私たち3人は「いやいやこのままの流れでいかないとダメですよ」と言って、すぐに再開してもらって飛びました。私は桜井さんの次に飛んだのですが、123メートルでした。「まぁ、やることはやったな」と思っていたら、「試合を再開します」というアナウンスが聞こえてきたんです。「よし、(2本目に)つながった!」と自分たちの役目をしっかりと果たしたぞ、という達成感がありました。

*12)正木啓三:元複合の選手で雪印乳業に所属してコーチも務めた。現在、札幌スキー連盟専務理事兼競技本部長

ジャンプ団体で金メダルを獲得した日本。
左から原田雅彦氏、岡部孝信氏、齋藤浩哉氏、船木和喜氏

ジャンプ団体で金メダルを獲得した日本。左から原田雅彦氏、岡部孝信氏、齋藤浩哉氏、船木和喜氏

―― 結果的に日本が金メダルを獲得したわけですが、どんなお気持ちでしたか?

原田には半分冗談で「金メダルを獲りやがって!」と言いながら「おめでとう!」と伝えましたが、本当に良かったなと思いました。試合が終わって記者会見のあと、夕方ごろに岡部と齋藤がテストジャンパーの宿舎にまで来てくれて、金メダルを見せてくれたんです。高校生たちも大はしゃぎで、みんなで喜び合いました。翌日の朝には、テストジャンパー25人全員でジャンプ台の前で集合写真を撮ったのですが、その時もみんな「やったぞ」と晴れ晴れとした表情をしていました。「金メダルは自分たちがつないだからこそだったんだ」と誇らしい気持ちだったんだと思います。

 
DVD化された『ヒノマルソウル~舞台裏の英雄たち~』

DVD化された『ヒノマルソウル~舞台裏の英雄たち~』 Blu-rayDVD発売中 発売元:TBS 販売元:TCエンタテインメント ©2021映画『ヒノマルソウル』制作委員会

―― テストジャンパーの存在の大きさというのは、長野オリンピックの秘話として記事になったり、ドキュメンタリー番組がテレビで放送されるなどしました。そして2021年には『ヒノマルソウル~舞台裏の英雄たち~』という映画が公開されました。西方さんが主人公として描かれたわけですが、映画化の話はどのように聞かされましたか?

エピソードとしてドラマ的要素があったので、テストジャンパーのことは記事などで取り上げられることは予想していました。でも、まさか映画化されるとは思っていなかったので、最初に話があった時はとても驚きました。とにかくご協力できることはしようと、当時の話もたくさんしましたし、また雪印スキー部の合宿にも映画スタッフに来ていただいたりしました。台本があがって読ませていただいた時は、「とてもうまくまとめていただいているな」と思いました。ところが、手直しした台本を見たら、唯一の女性としてテストジャンパーを務めた、当時高校生だった葛西(現・吉泉)賀子さんのことがすっかり抜けてしまっていたんです。それで「当時は女子ジャンプはオリンピック競技にないなかで、自分はオリンピックに出ているつもりでテストジャンパーを務めた、という賀子さんの話はとても心打つものですので、ぜひ入れてください」とお願いをして、元に戻していただきました。実際に映画を見ても、やっぱり賀子さんを入れていただいてすごく良かったと思いました。いずれにしても映画化までしていただき、本当に光栄でした。

 
引退式で、原田雅彦氏から花束を受け取る(2001年)

引退式で、原田雅彦氏から花束を受け取る(2001年)

―― 長野大会から3年後の2001年に現役を引退されました。どのような決断でしたか?

雪印のスキー部は実業団ですので、「やめなさい」と言われるまでは続けることができるのですが、当時はたまたま若い選手が入社する予定がなかったのでスキー部の枠を空ける必要もなく、長野大会後も3年間は続けることができました。2001年に「そろそろ」と言われた時には、自分でもそうかなと思っていましたので、そのシーズン限りで引退することにしました。引退の話が出たのは1月だったのですが、ほとんどの選手は引退が決まると練習もそこそこに手を抜くことが多かったりするのですが、私はそういうふうにはしたくないなと思い、最後までいつも通りしっかりと練習をしました。そのおかげで最後のシーズンもいくつか国内大会で優勝することができたので良かったなと思っています。引退した時は、何の後悔も未練もありませんでした。「すべてやり切った」と思えたので、今度は仕事のほうで会社に恩返ししたいと思いました。

―― 20年以上にわたった競技人生はどんなものだったでしょうか?

小学4年生からジャンプを始めましたが、中学校では全中で優勝し、高校からはワールドカップに出場するなどして世界で戦うようになりました。そしてずっと夢だった東京の大学に進学したことも大きかったですね。社会人になってからは世界選手権やオリンピックに出場してメダリストにまでなれました。1998年長野大会では地元開催のオリンピックに出場できず悔しい思いはしましたが、それでもテストジャンパーとしてメディアに出たりと日の目を見ました。映画化にまでなるという幸運にも恵まれて、振り返ると、とても幸せな競技人生だったなと思います。

 
会社での業務風景(2023年)

会社での業務風景(2023年)

―― 引退後、会社ではどのような仕事をされてこられたのでしょう?

まずは営業のほうで自社商品の販売を12年間やりましたが、初めはプレゼンの際に「日本代表としてスキージャンプをやっていました」と言うと、「そんなんで商品は売れないよ」と言われてしまって「そうなんだ……」とショックを受けたこともありました。いろいろと勉強になった12年間でしたが、とにかくスキーでの実績はまったく関係ないんだということを思い知らされましたね。
ただ、社内ではたとえ結果を出せなかったとしても、努力をしたり、最後までやろうとする姿勢というのはスポーツ選手はずっとやってきたことなので、そういう部分ではとても高く評価していただきました。「完璧にはできなくても、言ったことはしっかりとやってくれる」というように言ってくださる方が多くて、ほかの社員の刺激になると。そういう点で本社や地方の支店でも元スキー部の社員は非常に重宝されています。

混乱ではなく公平性をもたらすべきルール

北京オリンピックのジャンプ混合団体での高梨沙羅選手のジャンプ

北京オリンピックのジャンプ混合団体での高梨沙羅選手のジャンプ

――スキージャンプ界の現状については、どのように感じられていますか?

2022年北京大会では個人ノーマルヒルで金メダル、ラージヒルで銀メダルを獲得した小林陵侑選手や、世界の女子ジャンプ界をけん引する高梨沙羅選手などが活躍し、日本ジャンプ界は活気づいていると思います。その要因のひとつには、BMI*13)が正常化したことによって、日本人の体形に非常に有利になっているのではないかと思います。BMIは2004-05シーズンから導入されたもので、当初は最も長い板を履くためのBMIは20.5とされていて、それ以下の場合は数値が低ければ低いほどスキー板の長さが短くなるとされました。2011-12シーズンにBMIの基準値が20.5から21にまで引き上げられたことで、身長が低かったり、少しふっくらとした体形でも、スキー板とのバランスが良くなっているのではないかなと。これは正確な情報ではないのではっきりとしたことは言えないのですが、ここ近年での日本人の活躍を見ていると、そうなのかなと。男子はもうひとりくらい台頭してくると、団体戦でも勝てるようになるのではないかなと思います。

*13)BMI:体重を身長の二乗で割った体格指数のことで、スキー板の長さの基準となる。国際スキー連盟が設けたBMIの値を使用している。

―― 西方さんは、原田さんたちと比べてひとり身長が高かったですね。

ほとんどが170cm前半くらいの身長の選手が多かったと思いますが、私は182cmありましたので、確かにひとりだけ飛びぬけて高かったんです。当時は身長が高ければ高いほど長いスキー板を履くことができたので有利とされました。空中で空気を受ける面積が大きいほど揚力を得て落下速度が遅くなり、飛距離が伸びるからです。さらに私の場合は、体重を軽くすることによって、より飛距離を伸ばすように努めていました。

―― BMIの導入は、どんな影響をもたらしたのでしょうか?

以前は体重をコントロールすることで飛距離を伸ばそうとした選手のなかには、過度な減量をするケースが増えていました。私もふだんの食事はやや少なめにする程度でしたが、大会になると試合前のウォーミングアップでサウナスーツを着込んで走り込み、体重を2、3kg落としてから本番に臨むというようにしていました。海外では私以上に過度な減量をする選手も多く、拒食症など健康への害が懸念されるようになっていたんです。そこで2004-05シーズンにBMIが導入され、その数値が基準より小さければ、履ける板の長さが制限されるようになりました。そのためできるだけ長いスキー板を使うためには、BMIの数値に見合うだけの体重が必要となりますが、選手としては少しでも体重を軽くして揚力を上げたいので、ぎりぎりの体重をキープしているんです。だからこそ体重のコントロールは難しく、2006年トリノ大会で原田に起きた悲劇は、その典型でした。原田も体重管理を徹底していたと思いますが、使用していたスキー板の長さに対して体重がわずか200g不足していたために失格となりました。

―― 2022年北京大会の混合団体戦では、高梨選手がスーツの太腿回りが規定より2cm大きいとして失格となりました。公平性を保つためのルールでありながら、少しわかりにくさがあり、混乱も生じているような気がします。

私自身も関係者からいろいろと聞いたのですが、結局はスーツとヌード(着衣を付けない状態)のサイズが違うというところが問題となっていると。それほどヌードのサイズに厳格に近いものを求めるのであれば、もっとスーツを薄くして伸縮性を高めない限りは、これからも失格者は出るように思います。北京大会後のワールドカップでも沙羅選手はまた失格になっていましたよね。抜き打ち検査が重要だというのは理解できますが、北京大会では混合団体で沙羅選手だけでなく強豪国の女子選手が軒並み失格になったりしていて、そんなことを繰り返していては見ているほうもつまらなくて見てくれなくなってしまいます。しかも詳しい説明もないままというのは、決して良くないと思います。体調などによって体重や体格はすぐに変わってしまうものですので、そうした部分も理解したうえで、明確なルール説明が必要だと思います。

―― IT技術の革新が目覚ましいこの時代、ジャンプの練習やトレーニングでもデジタル化は進んでいるでしょうか?

ジャンプという競技においては、デジタル化できそうで意外とできないものなんです。というのも、ジャンプは未だ正解がない世界なので、結局は選手個々のセンスや感覚という部分が大きい。優秀な選手の真似をしたところで、センスや感覚、体形が違えば、同じように飛ぶことはできませんし、自分の良いところを消してしまうことにもなりかねません。自分の軸をぶらさずに、理想とする選手の真似をするのではなく近づけさせるというのが、一番の近道と言えるかもしれません。実は原田も一度、自分のジャンプを失いかけて大きく崩れたことがありました。原田はもともとバンッと高い角度で飛び出していく稀なスタイルなのですが、私など多くの選手と同じように助走の姿勢のままスーッと流れるように飛んでいくスタイルに変えようとしたことがありました。でもまったく飛距離が出なくなってしまって、1年でやめました。すると元に戻した途端に調子が上がっていったんです。それほど人によって全く違うので、なかなかデジタル化することは難しいですね。

スポーツの発展に不可欠な国、自治体、民間企業の協力体制

―― 残念ながらスキージャンプの競技人口は減少傾向にあります。後進を育てていくためには、どのような解決方法が考えられるでしょうか?

子どもたちの競技人口を増やすこともそうですし、いざ子どもたちがジャンプに興味を持ってくれても、きちんとした指導者がいなければ意味がありません。指導者のスキルをキープするためにどういうシステムがいいのか、私自身もいろいろと考えたのですが、例えば各自治体の教育委員会に専門のコーチやスタッフを雇用していただき、地域の子どもたちや選手を指導する、あるいは企業、団体からもコーチやスタッフを派遣していただけるようなサポート体制を構築することもできるのではないかと思います。ただそうした体制を築くうえでは、これは行政など国へのお願いになりますが、スポーツ選手の育成・強化において企業の負担を減らすことも重要だと思います。スポーツ選手やチームを持っている企業への税制上の優遇措置がなければ、経済的な面からすると経費がかかるだけでほとんどメリットがありません。このままでは企業スポーツが衰退の一途をたどり、ひいては日本スポーツ界の衰退ともなりかねません。企業スポーツが安定した基盤を築いていれば、中学校、高校、大学、企業というステップアップの道を選手たちに用意することができ、優秀なアスリートを育成することになるのではないかと思います。

高校生にオリンピックの参加者や観客が同じように感動できるオリンピックの意義を話す(1994年)

高校生にオリンピックの参加者や観客が同じように感動できるオリンピックの意義を話す(1994年)

―― 自治体と企業との連携は、超高齢化社会を迎えた日本にとっても大きなメリットになると思います。例えばスキージャンプのコーチやスタッフは、ジャンプ選手への育成・強化というだけでなく、健康増進といった観点から地域の人たちに運動やケアについての知識を提供することも考えられるのではないでしょうか?

東京2020オリンピック・パラリンピックを開催するにあたって、雪印メグミルクでは「スポーツと食育」をテーマにした活動を行いました。例えば小学校を訪問して、雪印メグミルクスキー部が走り幅跳びなど基礎的な身体能力を示し、「じゃあ、こういう強い体をつくるためには何が必要なのか?」というところに落とし込んで「好き嫌いなく、バランスよく食べましょう」という食育につなげるプログラムを行いました。食育に限らず、スポーツから派生する分野はたくさんあると思います。

2020東京オリンピックでも多くの ボランティアが活躍した(2021年)

2020東京オリンピックでも多くのボランティアが活躍した(2021年)

―― 札幌市が2030年オリンピック・パラリンピックの招致をめざしていますが、東京2020大会でのさまざまな問題が浮上するなかで、オリンピック・パラリンピックの存在価値が問われています。2022年12月20日には、札幌市とJOC(日本オリンピック委員会)が、大会への不信感を払拭することが先決として、いったん招致に関する活動を休止することを発表しました。国民の支持を得るのはとても厳しい状況ですが、西方さんはどのようにお考えでしょうか?

個人的には札幌オリンピック・パラリンピックを開催してほしいというのが正直な気持ちです。一番は子どもたちになかなかできない経験をさせてあげたいなと。また出場する選手だけでなく、観客として「見る」ことだったり、ボランティアとして「支える」ことだったりと、いろいろな形で関わることができますし、子どもたちにも冬季競技や選手に触れ合う良い機会になるのではないかと思います。私自身、長野大会の時にも「ぜひボランティアとして参加してください。とても良い経験ができると思います」とすすめていました。なぜかというと、自分自身がオリンピックに選手として出た時に、たくさんのボランティアさんと関わり、その方たちにとってどれだけ貴重な体験なのかということを感じていたからなんです。ですから、ぜひ札幌大会を招致して、たくさんの人にオリンピック・パラリンピックに参加していただきたいなと思います。またパラリンピックに関しては、東京2020大会を見て、そのレベルの高さに圧倒されました。オリンピックと同じ価値のあるスポーツの祭典として開催することは非常に大きな意義があると思います。パラアスリートにも自信をもたらすでしょうし、そのパフォーマンスを見た人たちの活力にもなる。札幌大会でも、ぜひすばらしいオリンピック・パラリンピックを見たいなと思います。

―― 最後に、次の世代に継承していきたいことを教えてください。

良い部分でもあり悪い部分でもあるかもしれませんが、私は礼儀正しさや我慢強さなど、日本人ならではの精神を忘れてほしくないなと思っています。実際に世界で活躍している日本人選手は、ゴミがあれば拾ったり、どんな時も相手を敬うなど、非常にすばらしい姿を見せてくれています。私の近しい人で言えば、やはり原田はすばらしいお手本。どんな結果の時も、また記者からどんなに意地悪な質問をされても、原田はまったく態度が変わらない。「そうですよね」とうまくかわしながら、いつも通り笑顔で対応するんです。スキルだけではなく、そういう人間性においても先輩たちをお手本にしてほしいなと思います。

  • 西方 仁也氏 略歴
  • 世相

1912
明治45

ストックホルムオリンピック開催(夏季)
日本から金栗四三氏が男子マラソン、三島弥彦氏が男子100m、200mに初参加

1916
大正5

第一次世界大戦でオリンピック中止

1920
大正9

アントワープオリンピック開催(夏季)
熊谷一弥氏、テニスのシングルスで銀メダル、熊谷一弥氏、柏尾誠一郎氏、テニスのダブルスで 銀メダルを獲得

1924
大正13
パリオリンピック開催(夏季)
織田幹雄氏、男子三段跳で全競技を通じて日本人初の入賞となる6位となる
内藤克俊氏、レスリングで銅メダル獲得
1928
昭和3
アムステルダムオリンピック開催(夏季)
日本女子初参加
織田幹雄氏、男子三段跳で全競技を通じて日本人初の金メダルを獲得
人見絹枝氏、女子800mで全競技を通じて日本人女子初の銀メダルを獲得
サンモリッツオリンピック開催(冬季)
1932
昭和7
ロサンゼルスオリンピック開催(夏季)
南部忠平氏、男子三段跳で世界新記録を樹立し、金メダル獲得
レークプラシッドオリンピック開催(冬季)
1936
昭和11
ベルリンオリンピック開催(夏季)
田島直人氏、男子三段跳で世界新記録を樹立し、金メダル獲得
織田幹雄氏、南部忠平氏に続く日本人選手の同種目3連覇となる
ガルミッシュ・パルテンキルヘンオリンピック開催(冬季)

1940
昭和15
第二次世界大戦でオリンピック中止

1944
昭和19
第二次世界大戦でオリンピック中止

  • 1945第二次世界大戦が終戦
  • 1947日本国憲法が施行
1948
昭和23
ロンドンオリンピック開催(夏季)*日本は敗戦により不参加
サンモリッツオリンピック開催(冬季)

  • 1950朝鮮戦争が勃発
  • 1951日米安全保障条約を締結
1952
昭和27
ヘルシンキオリンピック開催(夏季)
オスロオリンピック開催(冬季)

  • 1955日本の高度経済成長の開始
1956
昭和31
メルボルンオリンピック開催(夏季)
コルチナ・ダンペッツォオリンピック開催(冬季)
猪谷千春氏、スキー回転で銀メダル獲得(冬季大会で日本人初のメダリストとなる)

1959
昭和34
1964年東京オリンピック開催決定

1960
昭和35
ローマオリンピック開催(夏季)
スコーバレーオリンピック開催(冬季)

ローマで第9回国際ストーク・マンデビル競技大会が開催
(のちに、第1回パラリンピックとして位置づけられる)

1964
昭和39
東京オリンピック・パラリンピック開催(夏季)
円谷幸吉氏、男子マラソンで銅メダル獲得
インスブルックオリンピック開催(冬季)

  • 1964東海道新幹線が開業
1968
昭和43
メキシコオリンピック開催(夏季)
テルアビブパラリンピック開催(夏季)
グルノーブルオリンピック開催(冬季)

  • 1968西方 仁也氏、長野県に生まれる
1969
昭和44
日本陸上競技連盟の青木半治理事長が、日本体育協会の専務理事、日本オリンピック委員会(JOC)の委員長に就任

  • 1969アポロ11号が人類初の月面有人着陸
1972
昭和47
ミュンヘンオリンピック開催(夏季)
ハイデルベルクパラリンピック開催(夏季)
札幌オリンピック開催(冬季)

  • 1973オイルショックが始まる
1976
昭和51
モントリオールオリンピック開催(夏季)
トロントパラリンピック開催(夏季)
インスブルックオリンピック開催(冬季)
 
  • 1976ロッキード事件が表面化
1978
昭和53
8カ国陸上(アメリカ・ソ連・西ドイツ・イギリス・フランス・イタリア・ポーランド・日本)開催  
 
  • 1978日中平和友好条約を調印
1980
昭和55
モスクワオリンピック開催(夏季)、日本はボイコット
アーネムパラリンピック開催(夏季)
レークプラシッドオリンピック開催(冬季)
ヤイロパラリンピック開催(冬季) 冬季大会への日本人初参加

  • 1982東北、上越新幹線が開業
1984
昭和59
ロサンゼルスオリンピック開催(夏季)
ニューヨーク/ストーク・マンデビルパラリンピック開催(夏季)
サラエボオリンピック開催(冬季)
インスブルックパラリンピック開催(冬季)

1988
昭和63
ソウルオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
鈴木大地 競泳金メダル獲得
カルガリーオリンピック開催(冬季)
インスブルックパラリンピック開催(冬季)

  • 1990西方 仁也氏、明治大学経営学部を卒業し、雪印乳業株式会社(現・雪印メグミルク株式会社)へ入社
1992
平成4
バルセロナオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
有森裕子氏、女子マラソンにて日本女子陸上選手64年ぶりの銀メダル獲得
アルベールビルオリンピック開催(冬季)
ティーユ/アルベールビルパラリンピック開催(冬季)

  • 1992西方 仁也氏、世界選手権ファールン大会ノーマルヒルで7位、ラージヒルで58位

1994
平成6
リレハンメルオリンピック・パラリンピック開催(冬季)

  • 1994 西方 仁也氏、リレハンメルオリンピックでノーマルヒル 8位、ラージヒル 8位、団体ラージヒルで銀メダルを獲得
    西方 仁也氏、明治大学特別功労賞を受賞
  • 1995 西方 仁也氏、世界選手権サンダーベイ大会 団体ラージヒルで銅メダルを獲得
    西方 仁也氏、エンゲルベルグワールドカップ ラージヒル 2位
    西方 仁也氏、全日本選手権でノーマルヒル 1位、ラージヒル1位
  • 1995阪神・淡路大震災が発生
1996
平成8
アトランタオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
有森裕子氏、女子マラソンにて銅メダル獲得

  • 1997西方 仁也氏、全日本選手権でノーマルヒル 1位、ラージヒル2位
  • 1997香港が中国に返還される
1998
平成10
長野オリンピック・パラリンピック開催(冬季)

  • 1998西方 仁也氏、長野オリンピック テストジャンパーとして参加
2000
平成12
シドニーオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
高橋尚子氏、女子マラソンにて金メダル獲得

  • 2001西方 仁也氏、現役を引退
2002
平成14
ソルトレークシティオリンピック・パラリンピック開催(冬季)

2004
平成16
アテネオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
野口みずき氏、女子マラソンにて金メダル獲得

2006
平成18
トリノオリンピック・パラリンピック開催(冬季)

2007
平成19
第1回東京マラソン開催

2008
平成20
北京オリンピック・パラリンピック開催(夏季)
男子4×100mリレーで日本(塚原直貴氏、末續慎吾氏、高平慎士氏、朝原宣治氏)が3位となり、男子トラック種目初のオリンピック銅メダル獲得

  • 2008リーマンショックが起こる
2010
平成22
バンクーバーオリンピック・パラリンピック開催(冬季)

  • 2011東日本大震災が発生
2012
平成24
ロンドンオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
2020年に東京オリンピック・パラリンピック開催決定

2013
平成25
2020年に東京オリンピック・パラリンピック開催決定

2014
平成26
ソチオリンピック・パラリンピック開催(冬季)

2016
平成28
リオデジャネイロオリンピック・パラリンピック開催(夏季)

2018
平成30
平昌オリンピック・パラリンピック開催(冬季)

2020
令和2
新型コロナウイルス感染症の世界的流行により、東京オリンピック・パラリンピックの開催が2021年に延期
2021
令和3
東京オリンピック・パラリンピック開催(夏季)

2022
令和4
北京オリンピック・パラリンピック開催(冬季)