報道とは乖離があったリレハンメルでの団体銀メダル
リレハンメルオリンピックジャンプ団体で銀メダルを獲得した日本。左から岡部孝信氏、原田雅彦氏、葛西紀明氏、本人
世界選手権で優勝した原田雅彦氏(1993年)
―― ちょうど西方さんが雪印に入社したころに、「V字ジャンプ」*7)が登場しました。西方さんはいつV字に…。
入社1年目の夏からV字ジャンプを練習するようになりました。私より4年先に入社していた原田は、その年の秋にV字ジャンプを完全に習得して飛距離がグンと伸び、そのままシーズンに入って好成績を残しました。それが1992年アルベールビル大会への出場へとつながったのだと思います。いずれにしても、世界中の選手にとってV字スタイルの登場は大きな衝撃で、いち早くものにした選手が好成績を残していました。
*7)V字ジャンプ:スキー板の先端を開きV字のようにして飛ぶスタイル。元祖はスウェーデンのヤン・ボークレブ選手が始め1990年シーズンから世界に広まった
―― オリンピックを意識するようになったのは…。
社会人2年目の1992-93シーズンに初めて世界選手権に出場しましたが、その大会のノーマルヒルで優勝したのが原田でした。僕は7位でしたが、その時に思ったんです。「待てよ、同じ日本人の原田がトップで、オレが7位ってことは、世界と日本との差はそれほどないんじゃないか?だったらもしかしたら次のオリンピック(1994年リレハンメル大会)の時には、日本勢がもっと上になれているかもしれない」と。それがきっかけで、オリンピックが明確な目標となっていきました。
入社1年目の国内大会で初優勝。中央が本人(1992年)
実は社会人1年目の時も、翌年(1992年)2月のアルベールビル大会の候補として名前が挙がっていました。でも、当時は国内で4番目くらいの位置にいたので、自分としてはオリンピックではなく、とにかく国内の大会で優勝をして名をあげたいという気持ちのほうが強かったんです。
その年、国内トップ4、5人が不在だった時の国内戦は、同じ雪印所属の齋藤浩哉*8)と私の2人が常に1、2位を争う結果でした。それが自信をもたらしてくれ、「よし、次は世界だ」という気持ちで臨んだのが、翌年の世界選手権でした。そこでようやくオリンピックが見えて、1994年リレハンメル大会をめざすようになりました。
*8)齋藤浩哉:1998年長野大会での団体金メダルのメンバー
1994年リレハンメルオリンピック
―― 実際にリレハンメル大会の日本代表に決まった時の思いはいかがでしたか?
代表選手が正式発表された時は、嬉しさというよりも、「良かった」とほっとした気持ちのほうが大きかったです。
―― そのリレハンメル大会では、個人ではノーマルヒル、ラージヒルいずれも8位入賞し、団体では銀メダル獲得に貢献されました。
実は個人のほうは、ノーマルヒルもラージヒルも2本目は失敗でした。1本目でまずまずの順位でしたから、「2本目は普通に飛べばいい」と思っていたのですが、オリンピックという特別な舞台は平常心を保つことができず、やはり少し力が入ったんでしょうね。周りで「あいつが何メートル飛べば、メダルに届くかもしれない」とか「この風だったら、ああだこうだ」というようなことを言っているのが耳に入ってきて、余計なことを考えてはいけないのはわかっているのに、どうしても計算してしまいました。
「勝負だ」と肩に力が入った状態で臨んだところ失敗のジャンプに終わりました。
一方、団体戦の時は勝負への強い気持ちはありましたが、とても冷静でいられました。1本目はK点*9)を越えるジャンプをと思っていたら、ちょっとタイミングが悪くて118mしかいかなかったのですが、2本目は風も良かったので、「よし、ここで先頭の自分が一発やってやろう」という気持ちで飛んだところ、135mの大ジャンプとなりました。
*9)K点:ドイツ語の「Konstruktionspunkt」の頭文字をとったもので、飛行可能な距離が何メートルの設計かを示す建築基準点。以前はドイツ語の「KritischerPunkt」の頭文字をとり、「これ以上飛ぶと危険」という極限点を意味していた
1994年リレハンメルオリンピック後の野沢温泉パレード。河野孝典氏(左)、本人(右)
―― ひとり目の西方さんの大ジャンプが、その後に続いた日本選手に勢いをもたらしました。2人目の岡部孝信*10)さんも133mの大ジャンプをし、3人目の葛西紀明*11)さんも120mと無難にまとめ、日本は最後の原田さんを残して、2位ドイツに55ポイント差をつけてトップに立っていました。
ドイツの最後のイェンス・バイスフロクが2本目に135.5mまで飛距離を伸ばしましたが、スコアは141.4点と144点だった私のほうが上回っていましたので、「これはいけるだろう」と思いながら、下でみんなのジャンプを見守っていました。岡部も葛西もいい感じで飛んでくれましたので、あとは原田にすべてを託すという感じでした。105mを飛べば金メダル決定ということで、1本目には118.6mを飛んでいましたから普通に飛んでくれれば大丈夫だろうと。まさかここで大きな失敗をするなんてことはないだろうと思っていたのですが……。
*10)岡部孝信:団体では1994年リレハンメルで銀、1998年長野大会で金と2大会連続でのメダル獲得に貢献
*11)葛西紀明:16歳から日本代表として活躍し、オリンピックには1992年アルベールビルから2018年平昌まで8大会連続で出場。2016-17シーズンには44歳9カ月でワールドカップを制し、最年長優勝記録を更新。50歳となった現在も現役を続けるレジェンドで所属の土屋ホームでは監督を兼任
失敗ジャンプだった原田氏に駆け寄り声をかける団体メンバー。左が本人
―― 結果的に原田さんが大失速をして97.5mしか飛距離を伸ばすことができませんでした。金メダルを逃した瞬間というのは、どんなお気持ちでしたか?
確かに金メダルではなかったことは残念だったのですが、私としては銀メダルでほっとした感情のほうが大きかったんです。原田がジャンプを失敗して「メダルを逃したら、これはやばいぞ」と思いながら電光掲示板を見たら、日本が2番目だったので「あ、2位か。それなら良かった」と。というのも、日本勢としての目標はあくまでも「メダル獲得」でしたので、それが達成できて良かったという気持ちしかありませんでした。だからしゃがみこんで頭を抱えた原田に対しても「大丈夫だよ。メダルを獲ったんだから、ぜんぜん問題ない。次の長野で金メダル狙おうよ」という気持ちで迎えていました。ただ原田は、厳しい報道がありましたから、帰国後の対応は大変だったと思います。私たち選手としては競技で失敗することは常ですし、勝つこともあれば負けることもあるのがスポーツ。その世界でやってきている人間としては、ひとつの結果としてとらえていたに過ぎず、原田を責める気持ちは全くなかったですし、全員がそうだったと思います。
―― 初めてのオリンピックにはどんな印象をもたれました?
特別な舞台であることは確かでしたが、怖さを感じることはありませんでした。「オリンピックってこういうところなんだな。よし、じゃあ次、2回目のオリンピックでは同じ失敗はしないぞ」と思って帰国しました。
日本に金メダルをもたらしたテストジャンパーの誇り
長野オリンピックに向けたトレーニング
―― 次のオリンピック開催地は、地元の長野ということがすでに決まっていたので、リレハンメル大会後はすぐに長野大会に向かっていったという感じだったのでしょうか?
はい、すぐに長野大会に気持ちが切り替わっていました。調子も良かったので、1年1年順調にシーズンを過ごしていました。ところが長野大会の前年、1997年の夏に腰を痛めてしまったんです。原因はオーバーストレッチで、ある部位の可動域が広くなっていて、そこに大きな負荷がかかったことで炎症を起こしていたための痛みでした。結果的には負荷をかけないようにしていれば治ったのですが、最初はそういう診断が下されず、なかなか治らなかったんです。それでだましだましやり続けてしまって、8月の海外遠征を途中で帰国しました。それで以前お世話になった先生に診てもらったところ、そこで初めてオーバーストレッチが原因の炎症だということが判明しました。先生のおっしゃった通り、負荷をかけないようにしていたら治ったのですが、結局3カ月を要し、シーズンインにはなんとか間に合いましたが、成績はふるいませんでした。だから「もう自分はオリンピックはないな」と覚悟していたんです。たとえ出られたとしてもオリンピックで勝てるようなパフォーマンスを出せるかといったら、「今の自分には無理だな」と思っていました。
テストジャンパーの集合写真。前列右が本人(1998年)
―― 日本代表として長野大会への出場は叶いませんでしたが、テストジャンパーとしての依頼を受けました。その時のお気持ちはどうでしたか?
私個人ではなく、雪印のスキー部に依頼があり、そこに私もメンバーに入りましたが、正直何か強い思い入れがあったということはありませんでした。「練習できるからいいかな」くらいの気持ちで考えていました。オリンピックに出られないからといって、気持ちを腐らせていたということはなくて、ふだん通りに練習を続けていました。テストジャンパー25人のメンバー全員で現地入りしたのは、開幕3日前くらいだったと記憶しています。テストジャンパーのなかには高校生もいましたので、社会人である自分が腐った気持ちでやっていてはいけないなと思いながら、現地入り後も黙々と練習を続けたという感じでした。ただ開幕して日本人選手の活躍を目にするたびに自分と比較して「オレはぜんぜん光り輝いていないな」と、少し沈んだ気持ちになったこともありました。同じテストジャンパーでも高校生たちは純粋に日本人選手の活躍を喜んでいましたが、オリンピアンでありメダリストでもある自分がいる場所はここではないという気持ちも正直あって複雑でした。
―― テストジャンパーとはいえ、しっかりと飛ぶためのモチベーションが必要だったと思いますが、どのようにして気持ちを高めたのでしょうか?
オリンピックだからというよりも、オリンピックのあとにも大会が控えていましたので、それに向けての準備という気持ちで、いつでも飛べる状態をつくるようにしていました。それにいざ飛ぶとなったら、それがテストジャンプだったとしても、「誰よりも遠くに飛んでみせる。見てろよ」という気概がありました。
―― そうしたなかで2月17日、ジャンプ団体の決勝の日を迎えました。その日の朝、原田さんが西方さんを訪ねてきたそうですね。
テストジャンパーの控室にみんなといたら、突然原田が入ってきたんです。高校生なんかはびっくりしていましたよ。私が「どうした?」って聞いたら「アンダーシャツ、貸してくれない?」と言うんです。でも私が持っていたのはLサイズで、原田は私よりも一回り体が小さいので「無理だよ」と言ったんです。ところがたまたま私が着ていたのが小さいサイズのものだったので、原田が「今着ているのでいいよ」と言うものだから、「これでいいなら」と言って脱いで渡しました。その時は「オレのアンダーシャツなんか借りてどうするんだろう?」と思っていたのですが、競技が始まって1本目の時にエレベーターから降りてくる原田の襟をみたら、私のアンダーシャツを身に付けているのが見えて「ええ!?」と驚きました。
でもその時に初めて原田の気持ちを知って、嬉しかったですね。ただ、実際に原田が飛ぶ順番になった時にはライバル心が出てきまして、「あまり遠くに飛ぶなよ」と内心思っていました。原田が大ジャンプして日本が金メダルを獲ったら、自分が出たリレハンメル大会での銀メダルを超されてしまいますので、メダルは獲らせてあげたいけど、金じゃなくて銀か銅であってほしいなと思っていたのが正直な気持ちでした。そしたら原田が大失速して79.5mという信じられない記録に終わったので、「ヤバイ、オレの念が通じすぎてしまったかも」と少し慌てた気持ちになりました。
左:「誰よりも遠くへ」という気持ちでテストジャンプに臨む(1998年)
右:開催がかかった2本目のテストジャンプ。悪天候中123mを飛んだ(1998年)
―― 当日の天候は非常に悪くて、朝から激しく雪が降っていました。1本目が終わった後は吹雪となり、2本目は第1グループの8人が飛んだ後に中断。あまりの猛吹雪に、そのまま打ち切りも十分に考えられました。
私も「もうこれは無理だな」と7割方打ち切りだろうと思っていました。そしたら齋藤がテストジャンパーの控室に来て「西方さん、どうですかねえ」と聞いてきたんです。私は「無理でしょう。これだけ降っていたら競技にならないよ」と答えました。そしたら齋藤が「そうですよね。でも、ここで終わるわけにはいかないんです」とポツリと言ったんです。1本目を終えて日本は4位でしたから、打ち切りとなればメダルを逃してしまうわけですからね。それで私も「確かにそうだよな。打ち切りはダメだよな」と言ったんです。それ以上は話さずに齋藤は控室を出て行ったのですが、その時に「2本目ができたら、日本はおそらく勝つだろうな」という予感がありました。それほど日本選手たちのレベルは高かったですからね。だから私も「そうだよな。自国開催で日本がメダルなしに終わるのはダメだよな。なんとかメダルだけは獲らせてあげたいな」という気持ちが強くわいてきました。
原田選手のジャンプを見つめるテストジャンパーと複合の代表選手。中央が本人(1998年)
―― 1本目を終えて4位だった日本はどうしても2本目を再開したかった一方、上位3カ国の競技委員は打ち切りを主張していました。協議の結果、テストジャンパーのジャンプ結果で判断することとなったわけですが、西方さんたちテストジャンパーにはどのようにして伝えられたのでしょうか?
テストジャンパー主任の正木啓三*12)さんが控室に来られて、「テストジャンパーを飛ばすことになったから用意してください」と言われたんです。会場に設置された気象庁の移動気象観測車からの情報によれば、あと15~20分すれば雲が通過して天候が良くなるからということだったようです。それですぐに用意をはじめました。飛ぶ順は高校生からだったのですが、私と桜井仁さん(1994年リレハンメル大会日本代表、出場なし)、同じ雪印所属の後輩だった伊藤直人くんは最後に飛ぶように指名されていたので待っていたら、それまで順調にみんな飛んでいたのに、私たち3人を残して「待った」がかかったんです。それで私たち3人は「いやいやこのままの流れでいかないとダメですよ」と言って、すぐに再開してもらって飛びました。私は桜井さんの次に飛んだのですが、123メートルでした。「まぁ、やることはやったな」と思っていたら、「試合を再開します」というアナウンスが聞こえてきたんです。「よし、(2本目に)つながった!」と自分たちの役目をしっかりと果たしたぞ、という達成感がありました。
*12)正木啓三:元複合の選手で雪印乳業に所属してコーチも務めた。現在、札幌スキー連盟専務理事兼競技本部長
ジャンプ団体で金メダルを獲得した日本。左から原田雅彦氏、岡部孝信氏、齋藤浩哉氏、船木和喜氏
―― 結果的に日本が金メダルを獲得したわけですが、どんなお気持ちでしたか?
原田には半分冗談で「金メダルを獲りやがって!」と言いながら「おめでとう!」と伝えましたが、本当に良かったなと思いました。試合が終わって記者会見のあと、夕方ごろに岡部と齋藤がテストジャンパーの宿舎にまで来てくれて、金メダルを見せてくれたんです。高校生たちも大はしゃぎで、みんなで喜び合いました。翌日の朝には、テストジャンパー25人全員でジャンプ台の前で集合写真を撮ったのですが、その時もみんな「やったぞ」と晴れ晴れとした表情をしていました。「金メダルは自分たちがつないだからこそだったんだ」と誇らしい気持ちだったんだと思います。
DVD化された『ヒノマルソウル~舞台裏の英雄たち~』
Blu-rayDVD発売中 発売元:TBS 販売元:TCエンタテインメント ©2021映画『ヒノマルソウル』制作委員会
―― テストジャンパーの存在の大きさというのは、長野オリンピックの秘話として記事になったり、ドキュメンタリー番組がテレビで放送されるなどしました。そして2021年には『ヒノマルソウル~舞台裏の英雄たち~』という映画が公開されました。西方さんが主人公として描かれたわけですが、映画化の話はどのように聞かされましたか?
エピソードとしてドラマ的要素があったので、テストジャンパーのことは記事などで取り上げられることは予想していました。でも、まさか映画化されるとは思っていなかったので、最初に話があった時はとても驚きました。とにかくご協力できることはしようと、当時の話もたくさんしましたし、また雪印スキー部の合宿にも映画スタッフに来ていただいたりしました。台本があがって読ませていただいた時は、「とてもうまくまとめていただいているな」と思いました。ところが、手直しした台本を見たら、唯一の女性としてテストジャンパーを務めた、当時高校生だった葛西(現・吉泉)賀子さんのことがすっかり抜けてしまっていたんです。それで「当時は女子ジャンプはオリンピック競技にないなかで、自分はオリンピックに出ているつもりでテストジャンパーを務めた、という賀子さんの話はとても心打つものですので、ぜひ入れてください」とお願いをして、元に戻していただきました。実際に映画を見ても、やっぱり賀子さんを入れていただいてすごく良かったと思いました。いずれにしても映画化までしていただき、本当に光栄でした。
引退式で、原田雅彦氏から花束を受け取る(2001年)
―― 長野大会から3年後の2001年に現役を引退されました。どのような決断でしたか?
雪印のスキー部は実業団ですので、「やめなさい」と言われるまでは続けることができるのですが、当時はたまたま若い選手が入社する予定がなかったのでスキー部の枠を空ける必要もなく、長野大会後も3年間は続けることができました。2001年に「そろそろ」と言われた時には、自分でもそうかなと思っていましたので、そのシーズン限りで引退することにしました。引退の話が出たのは1月だったのですが、ほとんどの選手は引退が決まると練習もそこそこに手を抜くことが多かったりするのですが、私はそういうふうにはしたくないなと思い、最後までいつも通りしっかりと練習をしました。そのおかげで最後のシーズンもいくつか国内大会で優勝することができたので良かったなと思っています。引退した時は、何の後悔も未練もありませんでした。「すべてやり切った」と思えたので、今度は仕事のほうで会社に恩返ししたいと思いました。
―― 20年以上にわたった競技人生はどんなものだったでしょうか?
小学4年生からジャンプを始めましたが、中学校では全中で優勝し、高校からはワールドカップに出場するなどして世界で戦うようになりました。そしてずっと夢だった東京の大学に進学したことも大きかったですね。社会人になってからは世界選手権やオリンピックに出場してメダリストにまでなれました。1998年長野大会では地元開催のオリンピックに出場できず悔しい思いはしましたが、それでもテストジャンパーとしてメディアに出たりと日の目を見ました。映画化にまでなるという幸運にも恵まれて、振り返ると、とても幸せな競技人生だったなと思います。
会社での業務風景(2023年)
―― 引退後、会社ではどのような仕事をされてこられたのでしょう?
まずは営業のほうで自社商品の販売を12年間やりましたが、初めはプレゼンの際に「日本代表としてスキージャンプをやっていました」と言うと、「そんなんで商品は売れないよ」と言われてしまって「そうなんだ……」とショックを受けたこともありました。いろいろと勉強になった12年間でしたが、とにかくスキーでの実績はまったく関係ないんだということを思い知らされましたね。
ただ、社内ではたとえ結果を出せなかったとしても、努力をしたり、最後までやろうとする姿勢というのはスポーツ選手はずっとやってきたことなので、そういう部分ではとても高く評価していただきました。「完璧にはできなくても、言ったことはしっかりとやってくれる」というように言ってくださる方が多くて、ほかの社員の刺激になると。そういう点で本社や地方の支店でも元スキー部の社員は非常に重宝されています。