「トリプルアクセル」にこだわり続けた理由
2004年ジュニアグランプリファイナルで優勝
―― 衝撃とともに全国に「浅田真央」という名前が知れ渡ったのは、浅田さんが14歳で出場した2004年のジュニアグランプリファイナルで、女子のジュニアでは世界で初、史上最年少でトリプルアクセルを成功させた時でした。その後「トリプルアクセル」は浅田さんの代名詞ともなりますが、いつからトリプルアクセルを意識していたのでしょうか?
子どもの時からみどりさんが私にとって大きな憧れであり目標とする存在でした。しかも同じ名古屋出身で同じ山田満知子*2)先生に師事していましたので、みどりさんが守ってきたトリプルアクセルを受け継ぐのは私だと思っていましたし、みどりさんからのバトンを受け継ぎたいという気持ちで練習していました。練習で初めて成功したのが13歳の時で、それから試合でもプログラムに組み入れるようになりました。14歳の時にジュニアの試合で成功させた時「伊藤みどりさん以来だ」ということを言っていただくようになってからは、さらにみどりさんから受け継いだトリプルアクセルを世界に届けたいという気持ちが強くなりました。
―― 翌シーズンにはシニアデビューを果たし、グランプリファイナル*3)では初出場で初優勝に輝きました。取材をしていた私たち報道陣も「とんでもない天才が現れた」と驚愕したことを今でも鮮明に覚えています。
当時はまだ中学生だったので、わかっていたのはシニアの大会ということだけで、あとはどういうものなのかよくわからずに出ていました。グランプリシリーズとグランプリファイナルの意味もまったく理解できていなかったんです。ただ年上のお姉さんたちと一緒に大好きなフィギュアスケートを滑れて嬉しいな、自分はどこまでやれるのか楽しみだなとしか思っていませんでした。何も知らなかったからこそ、まったくプレッシャーを感じずに演技できたのが良かったのだと思います。
山田満知子コーチ(右)と
*2)山田満知子:日本フィギュアスケート界随一の名コーチ。伊藤みどり、浅田真央、村上佳菜子、宇野昌磨など多くの世界トップスケーターを育てたことで知られる
*3)グランプリシリーズ/グランプリファイナル:グランプリ(GP)シリーズはISU(国際スケート連盟)が承認するフィギュアスケートのシリーズ戦。前年度の成績などにより出場資格を得る。アメリカ、カナダ、中国、フランス、ロシア、日本で6大会が開催される。GPシリーズの成績上位6名のみがGPファイナルに出場できる。上述の6大会とGPファイナルを合わせた総称がGPシリーズ。
―― 周囲からのプレッシャーを感じるようになったのは、その後のことだったのでしょうか?
自分自身に対するプレッシャーが一番大きかったように思います。すべてをかけてやっていたので、「失敗したらどうしよう」という怖さが、だんだんと出てくるようになりました。思うようにできないことも増えて悩むこともあって、10代の終わりころからは試合に出ることが怖くなったこともありました。
―― そうした怖さを感じながらも、トリプルアクセルにこだわり続けたのは、それだけ浅田さんにとってはご自身の滑りを象徴する重要なものだったということでしょうか?
私自身の気持ちを強くしてくれるものでもありましたし、誰もやっていないことに挑戦したいという気持ちが強くて、それが自分の強みだと思っていました。だからどんなことがあってもトリプルアクセルにチャレンジし続けていました。そんな私のことを中学生のころから見続けてくれた方々が多くいらしゃって、その方たちと一緒に乗り越えてきたように思います。その象徴が「トリプルアクセル」だったのだと思います。
「銀メダル」の価値を感じたバンクーバー大会
2005年グランプリファイナルで優勝
―― 2005年グランプリファイナルの優勝で、翌2006年のトリノ大会への期待も膨らみましたが、ISUが定めた年齢制限の規程(オリンピック前年の6月30日までに15歳)により87日足りず、代表資格を得られませんでした。当時はどんなふうに思っていたのでしょうか?
小学生の時から「トリノ大会には出られない」ということを知っていましたので、最初から私自身は2010年バンクーバー大会をめざしていました。確かにトリノ大会の前シーズンは調子自体も良く好成績を挙げていて、ルール改正が議論に上がっていることも知っていましたので「出られたらラッキーだな」とは思っていましたが、ルールはルールなので仕方ないという気持ちでいました。それに今考えると、当時14歳でトリノ大会に出て金メダルを獲っていたら、満足してやめていたかもしれません。ここまでフィギュアスケートを続けていたかどうかはわからなかったなと思うと、やっぱりあれはあれで良かったのだと思います。
―― トリノ大会では、荒川静香さんが日本人で初めて金メダルに輝きました。テレビで見ていて、どんなふうに感じていましたか?
「私もいつかこの舞台に出るぞ」とか「私が出たら、こんなふうに滑りたいな」とかイメージしながら見ていました。
2010年バンクーバーオリンピック
女子シングルで銀メダルを獲得
―― 4年後の2010年バンクーバー大会では、初めてのオリンピックで銀メダルを獲得されました。
いろいろな方から「オリンピックはほかの大会とはまったく違う特別なものだよ」というふうに聞いていたのですが、正直「何が特別なんだろう?」と不思議に思っていました。でも、現地入りして会場に入ったとたんに「何かが違う」と思いました。これまで出場した大会より規模も大きいですし、会場の照明も明るかったり、もう雰囲気自体がそれまでのどの大会とも違っていて「やっぱりオリンピックって特別な舞台なんだな」と思いました。
―― 怖さもあったのでしょうか?
バンクーバーの時は怖さはあまり感じませんでした。ただ緊張はすごくしました。5歳でフィギュアスケートを始めて、小学5年生の時に1998年長野大会を見て「オリンピックに出たい」という憧れを抱いてずっとやってきたなか、「ついにこの時が来たんだな」と思うと、高揚したのを覚えています。
―― その緊張のなかで、女子ではオリンピック史上初めてトリプルアクセルを成功させました。
トリプルアクセルをショートプログラム、フリーあわせて3回決めるというのは、当時の私にとって最大限の攻めの構成でしたので、それをすべて成功させることができたのはとても嬉しかったです。
―― 成功した要素のすべてのGOE(出来栄え点)、演技構成点が自己ベストでした。ただフリーでは後半の3回転フリップが回転不足、また3回転トゥループが1回転となってしまったのが本当に残念でした。
緊張からズレが生じてしまったのだと思います。それでもメダルを獲ることができて、良かったです。最高のプレゼントでした。もちろん子どものころからオリンピックでの金メダルをめざしていたので、銀メダルとなった時は悔しい気持ちがありました。でも、表彰式でメダルを受け取った時に、スタンドから「おめでとう」「良かったよ」「ありがとう」というような声がたくさん聞こえたんです。それで「ああ、銀メダルでもいいんだな」と思うことができました。表彰式のあとに母に銀メダルをかけてあげた時も「ありがとう。嬉しいよ」と言ってもらえたんです。銀メダルにもちゃんと意味があると思いましたし、とにかく自分は全力で努力してきたので、悔いはなかったです。
2010年バンクーバーオリンピック女子シングルで金メダルのキム・ヨナ(右)と銀メダルの本人
―― 同い年で良きライバルだったキム・ヨナさん(韓国)は金メダルに輝きました。彼女とは比較されることも多かったと思いますが、それについてはどんなふうに感じていたのでしょうか?
キム・ヨナ選手とは13歳の時にジュニアの国際大会で初めて会った時から「この選手とはずっとライバルとして、共にフィギュアスケート界を引っ張っていく間柄になるんだろうな」と思っていました。実際とてもいいライバル関係にあって、彼女ががんばっているから私もがんばろうと思えるような存在でした。そのような存在に出会えたことは奇跡だと思いますし、キム・ヨナ選手との出会いは私の競技人生において特別なことでした。今は連絡を取り合っているわけではありませんが、いつかまた会う機会があったら嬉しいなと思います。
2010年世界選手権女子シングル金メダルの本人(中央)と銀メダルのキム・ヨナ(左)
―― バンクーバー大会から1カ月後の世界選手権では、浅田さんが金、キム・ヨナさんが銀と逆の結果となりました。バンクーバーの雪辱を果たしたいというお気持ちは強かったのでしょうか?
とても強くありました。オリンピックの悔しさはオリンピックでしか晴らせないという気持ちはありましたが、それでも世界選手権はオリンピックに次ぐ舞台ですし、まずはここでバンクーバーでの悔しさを晴らして金メダルを獲りたいという気持ちがありました。だから優勝した時は嬉しかったです。
姉からの言葉に再燃した闘争心
姉の舞(左)と
―― 2度目のオリンピックとなった2014年ソチ大会は、「今度こそ金メダルを」という強い気持ちで臨まれたと思いますが、ショートプログラムでミスが続いて16位と出遅れ、その結果メダルを逃すという残念な結果となりました。
ショートプログラムは自分の競技人生のなかで一番と言ってもいいくらい悔しい試合で、演技を終えた時には「もう終わった」と思いました。
―― どう気持ちを立て直したのでしょうか?
ショートプログラムをすべて終えたのが夜の12時くらいで、翌日は朝8時くらいに練習の時間が割り当てられていました。その短い時間では、まったく気持ちを切り替えることができなくて、練習をしながら「私はこのまま終わってしまうのかな」と思っていました。練習後も「自分はこれまで何をやってきたんだろう」と落ち込んでいたら、突然姉から電話が来たんです。
テレビで私が練習している姿を見て、顔色も悪いし、調子もあまりにも悪く見えたそうで心配をして電話をかけてくれたんです。でも姉の「楽しんでやったらいいんだよ」という言葉に、私はつい「楽しめるわけないじゃん!」と怒りをぶつけてしまいました。ただ、それがかえって良かったのだと思います。それまでどうしようもなく苦しくて、辛くて、悲しくて仕方なかった気持ちが、姉の言葉によって怒りに変わったことで、闘争心が生まれて私のなかのスイッチが入ったんです。「もうダメだ」から「このまま負けたくない」と思えたことで、攻めの気持ちになれた。それがほぼノーミスというフリーでの演技につながったのだと思います。でも、ほかの誰でもない姉だったからこそ怒りをぶつけられたのだと思うので、あのタイミングで電話をかけてきてくれて本当に感謝しています。
―― フリーでの演技中は、何を考えていましたか?
リンクに立つ前はとても緊張していました。でも、とにかく自分はやれることはすべてやってきたのだから、転んでもいいから思い切り滑ろうという気持ちでリンクに上がりました。滑っている最中は無我夢中で、頭で考えるよりも体が自然に動いていたという感じでした。ただ、自分の力だけではなく、たくさんの人に支えられてこの演技ができているんだなというふうに思っていました。
2014年ソチオリンピック、フリー演技の終了後、感極まって涙をこぼした
―― 演技が終わった瞬間、大粒の涙を流されていました。あの涙に、多くの人たちが感動したのですが、どのような感情が沸き上がってきていたのでしょうか?
やり切ったという達成感というよりも、とにかく練習してきたことを出せた、そしてすべてが終わったんだ、とほっとした気持ちでした。ようやく緊張から解放されるというのが一番大きかったです。
―― 会場中から歓声と拍手が送られていましたが、どのように受け止めていましたか?
本当に嬉しかったです。大勢の人がスタンディングオベーションしてくれているのが見えて、「良かった」と思いました。
―― ソチ大会後の記者会見で去就について訊かれた際には「ハーフハーフ」と答えられました。当時の正直な気持ちとしてはどうだったのでしょうか?
ソチ大会のあと、すぐに世界選手権が控えていましたので、そこまではやることは決めていました。ただその後どうするかは、本当に悩んでいました。特に大きなケガをしているわけではなく、体はまだまだ滑れる状態でしたが、正直これ以上プレッシャーを背負うようなことはしたくないという気持ちがありました。それでも中途半端でやめるのは違うなと思ったので、とにかくできるところまでやってみようと思い、2016年のシーズンまで大会に出場し続けました。
2017年5月の引退記者会見
―― 2017年5月に現役引退を表明されましたが、決断した理由は何だったのでしょうか?
2017年3月の全日本選手権前に、競技者としては心身ともに限界が来ているというふうに感じましたので、全日本選手権を最後に引退しようと決めました。
―― 真央さんはいつも明るくふるまっていらっしゃったけれど、スケートをやめたいとは思わなかったのでしょうか?
2014年のソチオリンピックのあと、「スケートはもう続けられないかもしれない」と落ち込んで、ずっと自宅にこもっていた時期もありました。でも、今考えると、それは決して悪いことではなかったように思います。あの時、立ち止まったからこそ、また続けられたと思いますし、今があるんだろうなと。それにスケートはとても大好きでしたが、それだけが自分の人生のすべてとは思っていませんでした。本当に辛かったらやめてもいいと思っていたんです。それでもやっぱり「滑りたい」と思えたので、またリンクに戻っていきました。辛いな苦しいなと思った時に立ち止まるというのは決して悪いことではないと思います。それでまたもう一度がんばってみよう、と思えたら、その時はまた立ち上がればいいのかなと。自分の気持ちに素直に正直になることが一番大事なのだと思います。
―― ふだんは何をしている時が一番リラックスできる時間なのでしょうか?
ツアーがある現在は、月曜日から金曜日まで練習があり、土日に公演があるのですが、公演後の2日間は休養に当てています。その時は外には一歩も出ずに、家のなかにこもっています。アイスショーで体力を使い果たすので、翌週のアイスショーに向けて、愛犬に癒されたりしながら、とにかく体を休ませることを優先しています。
―― 将来は田舎暮らしをしたいそうですね。
現役引退後、自然のなかの宿に泊ったり、有機野菜のレストランに行ったりして、そこでパワーをもらってすごく元気になれたんです。それから自然のなかで暮らしたいという気持ちが強くなり、田舎暮らしに憧れるようになりました。