“七五三”両親らご家族と(前列中央)
ライバル出現をきっかけに始めたスピードスケート
―― まずは原点として、スピードスケートとの出会いについて伺います。
私は知床半島の付け根にある北海道斜里郡清里町というとても寒いところで生まれました。小学校では冬の体育の授業はスキーではなくスケートでした。父兄の方が校庭の雪を固めて水をまき、スケートリンクにしてくれたんです。現在は温暖化の影響で一晩では凍らないのですが、当時は-25℃になることも普通にありましたので、一夜にして凍り、翌日の授業にはスケートができました。フィギュアスケートやショートトラックのスケート靴は持っていなかったのですが、スピードスケートの靴はみんな持っていて、小学校の時からスピードスケートをする環境がありました。
私はスポーツが得意で、どんな競技も総なめ状態でした。1番になると赤いリボンをもらえて、2番になるとピンクのリボンだったのですが、私はいつも赤いリボンをもらうのが自慢でした。ところが、ある時、女の子が転校してきて、その子は私よりもスポーツ万能でした。それ以来、私はピンクのリボンばかりになってしまいました。ただ、その子が転校してくるまではいつも男の子を相手に競い合っていたので、女の子のライバルができたのは自分にとって喜びでもありました。女の子同士で競い合えることが「楽しい!」「面白い!」と思えたんです。それで、いつも一緒に遊ぶ仲になりました。
彼女は冬のシーズンになると、スピードスケートをやっていて、聞いたらスポーツ少年団に入っていると言うんです。それで両親に「ミホちゃんと一緒にいたいから、私も少年団に入りたい」とお願いをして、入団しました。それが小学校3年生の時でした。
ところが、陸上みたいに走ればゴールできるものだとばかり思っていたら、スケートはそうはいきません。スケートは、跳ねるような滑りだと、ぜんぜん前に進んでくれません。氷の上を滑らせなければいけないわけですが、当時はその技術がまったくなかったので、できない自分がふがいなかったですね。「負けたくない」という気持ちはあるものの、ちゃんと技術を習得しないと勝負さえもできなかったし、その前にやることがいっぱいあって大変でした。勝負に負けて悔しいのではなく、できない自分に悔しいという気持ちからスケート人生が始まりました。
小学生時代、地元の大会で1位に(写真中央)
―― もともと負けず嫌いな性格だったようですね。
3人兄弟の末っ子だったものですから、自由に育ててもらってはいました。ただどうしても姉と兄に負けたくないという気持ちもあって、そういうところから負けず嫌いという部分があったように思います。
―― 「ミホちゃん」というライバルが出現したことがきっかけで、スピードスケートにのめり込んでいかれたわけだ。
はい。ただ、ミホちゃんは小さい時から高いレベルでスピードスケートをやってきていた子でしたので、小学生のうちは絶対に追いつけないだろうなと思っていました。私が通っていたスポーツ少年団にはコーチはいなくて、熱心な父兄のみなさんが教えてくれていました。スピードスケートへの熱量がすごくあって指導は厳しかったのですが、休日には焼き肉パーティーなど私たち子どもが楽しめるような催しものを開いてくれたりと、とてもいい環境でやらせてもらいました。
中学生時代の地区大会で。少年団のメンバーと(後列右から二人目)
―― もともと清里町はスピードスケートが盛んな町だったのですか?
現在スピードスケート日本代表チームのヘッドコーチをしている糸川敏彦さんも、同年代で同じ清里町内でスピードスケートをやっていて、小さい町ですが、これまでにオリンピック選手が4人出ています。4人ともに清里町内の光岳スピードスケート少年団で子どもの時から一緒に練習をしてきた仲間です。大人になってからはそれぞれ違う企業に所属して、同時期のオリンピックに出場したので、スピードスケートへの熱量が高い町だと思います。
―― 小学校を卒業して、中学校に入学してからは、部活動か少年団かでスピードスケートを続けられたのですか?
小学校の時の延長で、スピードスケートは少年団でやっていました。中学校ではスケート部がなかったので陸上部に所属し、夏は陸上部員として活動し、冬になると陸上部に籍を置いたまま、スピードスケートをやるという感じでした。私の町ではそれが普通だったのです。
転機となった長田監督との偶然の出会い
高校1年で出場したインターハイ・リレーで3位入賞。チームメンバーと(右端)
―― 高校はスピードスケートの名門校、釧路星園高校に進学されました。この時にはもう、オリンピック出場を目指されていたのですか?
オリンピックを意識するというよりは、自立したいなという気持ちの方が強かった時期です。年齢が離れている姉と兄はすでに就職をしていましたので、私も実家から外に出たいなという気持ちがあり、少し遠い高校を選ぼうと思ったのです。ただ片道2時間くらいで戻って来れるような距離だったら私も両親も安心かなと考えました。スピードスケートを続けるなら帯広市や苫小牧市という選択もあったのですが、釧路市が一番いいかなと思って、両親にお願いをして星園高校に推薦入学しました。
―― 高校3年間は、親元を離れて下宿生活をしながら学業とスピードスケートに打ち込む生活ですが、まだ10代で、ご苦労もあったのではないでしょうか。
女の子ということで危ない目にあわにようにと周囲も気を配ってくださいました。下宿は星園高校のOGの方のご自宅を改築したところに、地方から来た私も含めて4人が居候という形で住んでいたので、とても安心できる生活環境でした。下宿先のおじさん、おばさんも、娘さんがスピードスケートをしていたということもあって、競技にもとても理解があったのです。3年間はいろいろな出来事があって大変でしたが、それでも楽しかったですね。とはいえ1年目は下宿生活にも慣れていなかったですし、下宿先のおじさんとおばさんも、最初は少し怖く感じてしまって、「実家にいた方が良かったかな」と思ったこともありました。ただ時間が経つにつれて、おじさんとおばさんの厳しさは愛情なんだということがわかるようになっていきましたね。本当に私たちのことをいつも心配して見守ってくれていて、感謝しかありません。
高校生時代の下宿仲間4人(左から二人目)
―― スピードスケートで強くなるためには体重を増やさなければいけないからと、下宿先では大量のご飯をすすめられていたそうですね。
もう本当にすごい量のご飯を食べました(笑)。しかも正座だったので、なかなか大変でした。でも、私たちのことを考えてのことだったので、すごくありがたいことだったなと思います。ただ、高校生の時期は、食べたら食べただけ実になって体重は増えていくので、「どうやって落としたらいいのだろう」と悩んでいたら、おじさんから「朝早く起きて、走ってこい!」と言われたりして(笑)。「そうか、走ればいいのか」と思いながら、早朝に走っていました。
―― 高校時代の成績はどうでしたか?
3年生の時のインターハイで4位が最高でした。当時は島崎京子さん(1992年アルベールビルオリンピック、1998年長野オリンピックと2大会連続で出場)をはじめ、同級生には強い選手が4,5人いましたし、1学年上にも1人強い先輩がいましたので、なかなかそこに割り込んでトップに立つというのは大変でした。
実は星園高校が女子高だったことを入学してから気づいたのですが、ライバル選手がいる白樺学園高校や駒澤大学附属苫小牧高校は共学で、当然男子選手がいるので「男子の力も借りて強化できるので、共学を選べば良かったかな」と羨ましく思ったこともありました。それでも女子高でも強い選手は強いわけですから、自分も置かれた環境で頑張っていくしかないなと思っていました。でも、3年生の時はもっとレベルの高いトレーニング技術があれば、自分はもっと強くなれるのではないだろうかという気持ちがあったことも事実です。実は、ちょうどその時に富士急行からオファーがあったのです。その1年前、私が2年生の時の全日本スプリントスピードスケート選手権大会に橋本聖子さん(オリンピックには冬季大会4回、夏季大会3回出場し、1992年アルベールビル大会ではスピードスケート1500mで銅メダル。東京2020オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会会長を務め、現在は参議院議員)率いる富士急行スケート部の関係者の方々がいらっしゃったことがありました。私はまだ大会出場資格がなかったので、出場選手たちの練習後、一般開放された夜の時間帯に滑っていたのですが、そこで富士急行の長田照正監督が私を見つけてくださったのが(飛躍する)きっかけでした。その時、長田監督との偶然の出会いがなければ、私は高校卒業後、スピードスケートを続けていなかったかもしれません。
高校2年の夏合宿(左)
―― 高校時代は何を目標にされていたのでしょうか?
正直、明確な目標はありませんでした。それこそオリンピックなんて雲の上というか、自分には関係のない世界だと思っていました。オリンピックで聖子さんが倒れ込む姿を「すごいな~。」と思いながらテレビで見ていただけで、自分ごとではありませんでした。それが、高校2年生の時に聖子さんと出会って、スピードスケートに対する思いが変わったのです。全日本スプリントスピードスケート選手権で初めてお話をさせていただいたのですが、自分が何を言ったのか全く覚えていないくらい舞い上がっていました。聖子さんからいろいろ質問されたのですが、後から聞いたらとんでもないことを答えていたみたいです(笑)。「自己ベストはいくつ?」と聞かれたのに、とんでもない速さのタイムを言ったみたいで…。それで聖子さんが長田監督に「岡崎はすごいタイムを叩き出しているみたいですね」と話したら、監督は「そんなはずない!」と言っていたそうです(笑)。それほど舞い上がってしまうくらいに聖子さんは私にとっては雲の上の存在でした。芸能人と同じような感覚でテレビの中の人、という感じでしたので、初めて実物を見た時は、「あれ、意外と小さいんだな~。」とびっくりしました。「こんな小さな体のどこからあんなすごいパワーが出るんだろう」と不思議に思ったのを覚えています。実際に滑っているのを見ると、動き自体がパワフルで、普通はスケート靴で氷上を削りながら滑るとスピードが落ちるのですが、聖子さんはそんなことお構いなしという感じで削りながら豪快に前に進んでいく感じでした。しかも、スピードが最後まで落ちないので、強靭なスタミナにも驚きました。
意識を変えたアルベールビルオリンピック
富士急行スケート部
―― オリンピックを目指すようになったのは、高校卒業後、実業団の富士急行に就職されてからだったんですね。
当時、富士急行には聖子さんのほかに日本のトップ選手が2,3人いらっしゃったので、その方たちの後ろについていく感じでしたが、先輩方の目標のレベルがとても高かったので、私自身の意識も変わっていきました。「先輩たちができて、自分にできないはずはない」「なんとか高いレベルの目標に届くように」と思って練習に励みました。もともとオリンピックを目指すようなレベルの選手ではなかったので、入社当初は「岡崎はきっと1年で音を上げて北海道に戻るに違いない」という声が、私の耳にも届いていました。でも、私は大学に行ったつもりで、とにかく4年間は頑張ろうと思っていましたし、それでも芽が出なければ北海道に帰ろうと考えていたんです。そうしたら入社3年目でワールドカップに行けるくらいの選手になれたので、そこで「この先もまだ頑張れるかな」と思うことができました。
長田監督とトレーニングに励む
―― 長田監督は、どのような指導者でしたか?
休む時は休む、やる時はやるといった、「ON」と「OFF」がはっきりしていました。よく「オレについてくれば、メダルが取れるぞ」と堂々とおっしゃっていて、私は内心「本当に?」と思いながら突っ込むのを我慢していたのですが、そういうことを言えるくらい指導に自信を持たれていたので、選手としては安心して取り組むことができました。もし練習メニューとかに疑問があれば、質問するときちんと説明もしてくれました。それと、選手に肩の力を抜く隙間を用意してくれており、全部が全部完璧でなくても、やる時にしっかりとやりさえすればいいというのがあったので、選手としては本当に気持ちが楽でした。
また、長田監督は男性の指導者でしたので、女性のアスリートを指導するのは大変なところもあったと思いますが、結構女性の選手の気持ちを理解してくださっていました。おそらく聖子さんという先輩がいたというのが大きかったように思います。ただ、聖子さんは監督が「休め」と言っても休まないような選手だったので、監督はよく「あいつは、オレの言うことをよう聞かん」とぼやいていらっしゃいました(笑)。長距離もやっていらっしゃった聖子さんとは違って、私はスプリント専門ということもあり、一つ一つのメニューがきついので、ちゃんと休まないとスプリント能力が失われ次のメニューができなくなるのです。それでは本末転倒なので、自分では休むことも大事にしていました。
会社でアルベールビルオリンピックを応援に行く(右から富士急行専務、橋本聖子、先輩、本人)(1992年)
―― 入社したのが1990年。その2年後の1992年にはアルベールビルオリンピック(フランス)が控えていましたが、岡崎さんが見据えていたのは、その後の1994年リレハンメル、(ノルウェー)、1998年長野オリンピックだったのでしょうか。
入社1、2年目はまだオリンピックを目指す枠にも入れていないような選手でしたので、アルベールビルを目指すという感じではありませんでした。オリンピックを現実的な目標として意識するようになったのは、1992年11月に真駒内選抜の500mで初優勝し、その翌週に出場したW杯軽井沢大会で初めて世界の舞台に立った時でしたので、アルベールビル大会の後のことでした。アルベールビルには、同じ富士急行に所属していた長距離の先輩と会社の専務と3人で聖子さんとほか先輩2名の応援に行きました。
その時に初めてオリンピックの会場を目の当たりにして、「すごいところだなぁ~。」と感銘を受けました。スピードスケート日本代表には富士急行の先輩である聖子さんのほかに、短距離では島崎さん、長距離では上原三枝さん(1992年アルベールビル、1998年長野大会連続出場)、男子の方では井上純一さん(1992年アルベールビル大会500m銅メダリスト)など、同学年の選手が出場していたので、本当に羨ましい気持ちでした。みんなが世界の舞台で活躍しているのに、自分は応援席にいるということが、悔しかったのです。しかし気持ちを切り替え「みんなが行けたんだから、自分もあの舞台に行けるはずだ!」と思って、さらにオリンピックへの意識が強くなりました。色々な意味で多くのことを学ばせてもらいましたし、自分がオリンピックの舞台に上がれるまでに成長するためには何が必要か、ということも考えさせられたので、現地に行って良かったなと思いました。
アルベールビルオリンピック、女子1500m
で銅メダルを獲得した橋本聖子(1992年)
―― それまで同じ年に行われていた夏と冬のオリンピックの時期を国際オリンピック委員会(IOC)がスポンサーの負担を考えてずらし、アルベールビル大会の2年後の1994年にリレハンメル大会が開催されました。4年待たずして2年後にチャンスが巡ってきたというのは、成長著しかった岡崎さんにとっては非常にタイミングが良かったのではないでしょうか。
本当にそう思います。それと、聖子さんがリレハンメルオリンピックで冬の大会は最後になる感じだったので、どうしても一緒に同じオリンピックに行きたいと思っていた私にとっては最後のチャンスでもありました。結果的にリレハンメルでは、私が500mに出場することが決定したために、オールラウンダーだった聖子さんは500mには出場できなくなりました。それについてはすごく罪悪感があって「すみません」と思いながらも、どうしても聖子さんと一緒にオリンピックに出たかったので、「やった!これで一緒に行ける!」という嬉しい気持ちもありつつ複雑な感じでしたが、やっぱり一緒に行くことができて嬉しかったというのが一番でした。