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「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。

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日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。

冬季オリンピック・パラリンピック
第113回
スポーツは幸せな人生を送るためのツール

岡崎 朋美

1994年リレハンメル大会から2010年バンクーバー大会まで、冬季オリンピックでは日本女子として史上初の5大会連続出場を果たし、パワフルなスケーティングと“朋美スマイル”で全国のファンを魅了し続けた岡崎朋美さん。1998年長野大会ではスピードスケート女子 500mで銅メダルを獲得しました。出産後も競技を続け、現在は、マスターズ大会で世界記録を樹立するなどアスリートとしてご活躍しています。

またその傍ら、「北海道・札幌2030オリンピック・パラリンピックプロモーション委員会」の委員として招致活動にも尽力されています。幅広い活動を続けられている岡崎さんに、女性アスリートの環境整備やオリンピック・パラリンピックのあり方など多岐にわたって伺いました。

聞き手/佐野 慎輔  文/斎藤 寿子  写真/フォート・キシモト、岡崎 朋美 取材日/2022年8月23日

 

“七五三”両親らご家族と(前列中央)

“七五三”両親らご家族と(前列中央)

ライバル出現をきっかけに始めたスピードスケート

―― まずは原点として、スピードスケートとの出会いについて伺います。

私は知床半島の付け根にある北海道斜里郡清里町というとても寒いところで生まれました。小学校では冬の体育の授業はスキーではなくスケートでした。父兄の方が校庭の雪を固めて水をまき、スケートリンクにしてくれたんです。現在は温暖化の影響で一晩では凍らないのですが、当時は-25℃になることも普通にありましたので、一夜にして凍り、翌日の授業にはスケートができました。フィギュアスケートやショートトラックのスケート靴は持っていなかったのですが、スピードスケートの靴はみんな持っていて、小学校の時からスピードスケートをする環境がありました。

私はスポーツが得意で、どんな競技も総なめ状態でした。1番になると赤いリボンをもらえて、2番になるとピンクのリボンだったのですが、私はいつも赤いリボンをもらうのが自慢でした。ところが、ある時、女の子が転校してきて、その子は私よりもスポーツ万能でした。それ以来、私はピンクのリボンばかりになってしまいました。ただ、その子が転校してくるまではいつも男の子を相手に競い合っていたので、女の子のライバルができたのは自分にとって喜びでもありました。女の子同士で競い合えることが「楽しい!」「面白い!」と思えたんです。それで、いつも一緒に遊ぶ仲になりました。 彼女は冬のシーズンになると、スピードスケートをやっていて、聞いたらスポーツ少年団に入っていると言うんです。それで両親に「ミホちゃんと一緒にいたいから、私も少年団に入りたい」とお願いをして、入団しました。それが小学校3年生の時でした。

ところが、陸上みたいに走ればゴールできるものだとばかり思っていたら、スケートはそうはいきません。スケートは、跳ねるような滑りだと、ぜんぜん前に進んでくれません。氷の上を滑らせなければいけないわけですが、当時はその技術がまったくなかったので、できない自分がふがいなかったですね。「負けたくない」という気持ちはあるものの、ちゃんと技術を習得しないと勝負さえもできなかったし、その前にやることがいっぱいあって大変でした。勝負に負けて悔しいのではなく、できない自分に悔しいという気持ちからスケート人生が始まりました。

小学生時代、地元の大会で1位に

小学生時代、地元の大会で1位に(写真中央)

―― もともと負けず嫌いな性格だったようですね。

3人兄弟の末っ子だったものですから、自由に育ててもらってはいました。ただどうしても姉と兄に負けたくないという気持ちもあって、そういうところから負けず嫌いという部分があったように思います。

―― 「ミホちゃん」というライバルが出現したことがきっかけで、スピードスケートにのめり込んでいかれたわけだ。

はい。ただ、ミホちゃんは小さい時から高いレベルでスピードスケートをやってきていた子でしたので、小学生のうちは絶対に追いつけないだろうなと思っていました。私が通っていたスポーツ少年団にはコーチはいなくて、熱心な父兄のみなさんが教えてくれていました。スピードスケートへの熱量がすごくあって指導は厳しかったのですが、休日には焼き肉パーティーなど私たち子どもが楽しめるような催しものを開いてくれたりと、とてもいい環境でやらせてもらいました。

中学生時代の地区大会で。少年団のメンバーと(後列右から二人目)

中学生時代の地区大会で。少年団のメンバーと(後列右から二人目)

―― もともと清里町はスピードスケートが盛んな町だったのですか?

現在スピードスケート日本代表チームのヘッドコーチをしている糸川敏彦さんも、同年代で同じ清里町内でスピードスケートをやっていて、小さい町ですが、これまでにオリンピック選手が4人出ています。4人ともに清里町内の光岳スピードスケート少年団で子どもの時から一緒に練習をしてきた仲間です。大人になってからはそれぞれ違う企業に所属して、同時期のオリンピックに出場したので、スピードスケートへの熱量が高い町だと思います。

―― 小学校を卒業して、中学校に入学してからは、部活動か少年団かでスピードスケートを続けられたのですか?

小学校の時の延長で、スピードスケートは少年団でやっていました。中学校ではスケート部がなかったので陸上部に所属し、夏は陸上部員として活動し、冬になると陸上部に籍を置いたまま、スピードスケートをやるという感じでした。私の町ではそれが普通だったのです。

転機となった長田監督との偶然の出会い

高校1年で出場したインターハイ・リレーで3位入賞。チームメンバーと(右端)

高校1年で出場したインターハイ・リレーで3位入賞。チームメンバーと(右端)

―― 高校はスピードスケートの名門校、釧路星園高校に進学されました。この時にはもう、オリンピック出場を目指されていたのですか?

オリンピックを意識するというよりは、自立したいなという気持ちの方が強かった時期です。年齢が離れている姉と兄はすでに就職をしていましたので、私も実家から外に出たいなという気持ちがあり、少し遠い高校を選ぼうと思ったのです。ただ片道2時間くらいで戻って来れるような距離だったら私も両親も安心かなと考えました。スピードスケートを続けるなら帯広市や苫小牧市という選択もあったのですが、釧路市が一番いいかなと思って、両親にお願いをして星園高校に推薦入学しました。

 

―― 高校3年間は、親元を離れて下宿生活をしながら学業とスピードスケートに打ち込む生活ですが、まだ10代で、ご苦労もあったのではないでしょうか。

女の子ということで危ない目にあわにようにと周囲も気を配ってくださいました。下宿は星園高校のOGの方のご自宅を改築したところに、地方から来た私も含めて4人が居候という形で住んでいたので、とても安心できる生活環境でした。下宿先のおじさん、おばさんも、娘さんがスピードスケートをしていたということもあって、競技にもとても理解があったのです。3年間はいろいろな出来事があって大変でしたが、それでも楽しかったですね。とはいえ1年目は下宿生活にも慣れていなかったですし、下宿先のおじさんとおばさんも、最初は少し怖く感じてしまって、「実家にいた方が良かったかな」と思ったこともありました。ただ時間が経つにつれて、おじさんとおばさんの厳しさは愛情なんだということがわかるようになっていきましたね。本当に私たちのことをいつも心配して見守ってくれていて、感謝しかありません。

高校生時代の下宿仲間4人(左から二人目)

高校生時代の下宿仲間4人(左から二人目)

―― スピードスケートで強くなるためには体重を増やさなければいけないからと、下宿先では大量のご飯をすすめられていたそうですね。

もう本当にすごい量のご飯を食べました(笑)。しかも正座だったので、なかなか大変でした。でも、私たちのことを考えてのことだったので、すごくありがたいことだったなと思います。ただ、高校生の時期は、食べたら食べただけ実になって体重は増えていくので、「どうやって落としたらいいのだろう」と悩んでいたら、おじさんから「朝早く起きて、走ってこい!」と言われたりして(笑)。「そうか、走ればいいのか」と思いながら、早朝に走っていました。

―― 高校時代の成績はどうでしたか?

3年生の時のインターハイで4位が最高でした。当時は島崎京子さん(1992年アルベールビルオリンピック、1998年長野オリンピックと2大会連続で出場)をはじめ、同級生には強い選手が4,5人いましたし、1学年上にも1人強い先輩がいましたので、なかなかそこに割り込んでトップに立つというのは大変でした。

実は星園高校が女子高だったことを入学してから気づいたのですが、ライバル選手がいる白樺学園高校や駒澤大学附属苫小牧高校は共学で、当然男子選手がいるので「男子の力も借りて強化できるので、共学を選べば良かったかな」と羨ましく思ったこともありました。それでも女子高でも強い選手は強いわけですから、自分も置かれた環境で頑張っていくしかないなと思っていました。でも、3年生の時はもっとレベルの高いトレーニング技術があれば、自分はもっと強くなれるのではないだろうかという気持ちがあったことも事実です。実は、ちょうどその時に富士急行からオファーがあったのです。その1年前、私が2年生の時の全日本スプリントスピードスケート選手権大会に橋本聖子さん(オリンピックには冬季大会4回、夏季大会3回出場し、1992年アルベールビル大会ではスピードスケート1500mで銅メダル。東京2020オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会会長を務め、現在は参議院議員)率いる富士急行スケート部の関係者の方々がいらっしゃったことがありました。私はまだ大会出場資格がなかったので、出場選手たちの練習後、一般開放された夜の時間帯に滑っていたのですが、そこで富士急行の長田照正監督が私を見つけてくださったのが(飛躍する)きっかけでした。その時、長田監督との偶然の出会いがなければ、私は高校卒業後、スピードスケートを続けていなかったかもしれません。

高校2年の夏合宿(左)

高校2年の夏合宿(左)

―― 高校時代は何を目標にされていたのでしょうか?

正直、明確な目標はありませんでした。それこそオリンピックなんて雲の上というか、自分には関係のない世界だと思っていました。オリンピックで聖子さんが倒れ込む姿を「すごいな~。」と思いながらテレビで見ていただけで、自分ごとではありませんでした。それが、高校2年生の時に聖子さんと出会って、スピードスケートに対する思いが変わったのです。全日本スプリントスピードスケート選手権で初めてお話をさせていただいたのですが、自分が何を言ったのか全く覚えていないくらい舞い上がっていました。聖子さんからいろいろ質問されたのですが、後から聞いたらとんでもないことを答えていたみたいです(笑)。「自己ベストはいくつ?」と聞かれたのに、とんでもない速さのタイムを言ったみたいで…。それで聖子さんが長田監督に「岡崎はすごいタイムを叩き出しているみたいですね」と話したら、監督は「そんなはずない!」と言っていたそうです(笑)。それほど舞い上がってしまうくらいに聖子さんは私にとっては雲の上の存在でした。芸能人と同じような感覚でテレビの中の人、という感じでしたので、初めて実物を見た時は、「あれ、意外と小さいんだな~。」とびっくりしました。「こんな小さな体のどこからあんなすごいパワーが出るんだろう」と不思議に思ったのを覚えています。実際に滑っているのを見ると、動き自体がパワフルで、普通はスケート靴で氷上を削りながら滑るとスピードが落ちるのですが、聖子さんはそんなことお構いなしという感じで削りながら豪快に前に進んでいく感じでした。しかも、スピードが最後まで落ちないので、強靭なスタミナにも驚きました。

意識を変えたアルベールビルオリンピック

富士急行スケート部

富士急行スケート部

―― オリンピックを目指すようになったのは、高校卒業後、実業団の富士急行に就職されてからだったんですね。

当時、富士急行には聖子さんのほかに日本のトップ選手が2,3人いらっしゃったので、その方たちの後ろについていく感じでしたが、先輩方の目標のレベルがとても高かったので、私自身の意識も変わっていきました。「先輩たちができて、自分にできないはずはない」「なんとか高いレベルの目標に届くように」と思って練習に励みました。もともとオリンピックを目指すようなレベルの選手ではなかったので、入社当初は「岡崎はきっと1年で音を上げて北海道に戻るに違いない」という声が、私の耳にも届いていました。でも、私は大学に行ったつもりで、とにかく4年間は頑張ろうと思っていましたし、それでも芽が出なければ北海道に帰ろうと考えていたんです。そうしたら入社3年目でワールドカップに行けるくらいの選手になれたので、そこで「この先もまだ頑張れるかな」と思うことができました。

長田監督とトレーニングに励む

長田監督とトレーニングに励む

―― 長田監督は、どのような指導者でしたか?

休む時は休む、やる時はやるといった、「ON」と「OFF」がはっきりしていました。よく「オレについてくれば、メダルが取れるぞ」と堂々とおっしゃっていて、私は内心「本当に?」と思いながら突っ込むのを我慢していたのですが、そういうことを言えるくらい指導に自信を持たれていたので、選手としては安心して取り組むことができました。もし練習メニューとかに疑問があれば、質問するときちんと説明もしてくれました。それと、選手に肩の力を抜く隙間を用意してくれており、全部が全部完璧でなくても、やる時にしっかりとやりさえすればいいというのがあったので、選手としては本当に気持ちが楽でした。

また、長田監督は男性の指導者でしたので、女性のアスリートを指導するのは大変なところもあったと思いますが、結構女性の選手の気持ちを理解してくださっていました。おそらく聖子さんという先輩がいたというのが大きかったように思います。ただ、聖子さんは監督が「休め」と言っても休まないような選手だったので、監督はよく「あいつは、オレの言うことをよう聞かん」とぼやいていらっしゃいました(笑)。長距離もやっていらっしゃった聖子さんとは違って、私はスプリント専門ということもあり、一つ一つのメニューがきついので、ちゃんと休まないとスプリント能力が失われ次のメニューができなくなるのです。それでは本末転倒なので、自分では休むことも大事にしていました。

会社でアルベールビルオリンピックを応援に行く(右から富士急行専務、橋本聖子、先輩、本人)(1992年)

会社でアルベールビルオリンピックを応援に行く(右から富士急行専務、橋本聖子、先輩、本人)(1992年)

―― 入社したのが1990年。その2年後の1992年にはアルベールビルオリンピック(フランス)が控えていましたが、岡崎さんが見据えていたのは、その後の1994年リレハンメル、(ノルウェー)、1998年長野オリンピックだったのでしょうか。

入社1、2年目はまだオリンピックを目指す枠にも入れていないような選手でしたので、アルベールビルを目指すという感じではありませんでした。オリンピックを現実的な目標として意識するようになったのは、1992年11月に真駒内選抜の500mで初優勝し、その翌週に出場したW杯軽井沢大会で初めて世界の舞台に立った時でしたので、アルベールビル大会の後のことでした。アルベールビルには、同じ富士急行に所属していた長距離の先輩と会社の専務と3人で聖子さんとほか先輩2名の応援に行きました。

その時に初めてオリンピックの会場を目の当たりにして、「すごいところだなぁ~。」と感銘を受けました。スピードスケート日本代表には富士急行の先輩である聖子さんのほかに、短距離では島崎さん、長距離では上原三枝さん(1992年アルベールビル、1998年長野大会連続出場)、男子の方では井上純一さん(1992年アルベールビル大会500m銅メダリスト)など、同学年の選手が出場していたので、本当に羨ましい気持ちでした。みんなが世界の舞台で活躍しているのに、自分は応援席にいるということが、悔しかったのです。しかし気持ちを切り替え「みんなが行けたんだから、自分もあの舞台に行けるはずだ!」と思って、さらにオリンピックへの意識が強くなりました。色々な意味で多くのことを学ばせてもらいましたし、自分がオリンピックの舞台に上がれるまでに成長するためには何が必要か、ということも考えさせられたので、現地に行って良かったなと思いました。

アルベールビルオリンピック、女子1500mで銅メダルを獲得した橋本聖子(1992年)

アルベールビルオリンピック、女子1500m で銅メダルを獲得した橋本聖子(1992年)

―― それまで同じ年に行われていた夏と冬のオリンピックの時期を国際オリンピック委員会(IOC)がスポンサーの負担を考えてずらし、アルベールビル大会の2年後の1994年にリレハンメル大会が開催されました。4年待たずして2年後にチャンスが巡ってきたというのは、成長著しかった岡崎さんにとっては非常にタイミングが良かったのではないでしょうか。

本当にそう思います。それと、聖子さんがリレハンメルオリンピックで冬の大会は最後になる感じだったので、どうしても一緒に同じオリンピックに行きたいと思っていた私にとっては最後のチャンスでもありました。結果的にリレハンメルでは、私が500mに出場することが決定したために、オールラウンダーだった聖子さんは500mには出場できなくなりました。それについてはすごく罪悪感があって「すみません」と思いながらも、どうしても聖子さんと一緒にオリンピックに出たかったので、「やった!これで一緒に行ける!」という嬉しい気持ちもありつつ複雑な感じでしたが、やっぱり一緒に行くことができて嬉しかったというのが一番でした。

リレハンメル大会でオリンピック初出場を果たした岡崎(1994年)

リレハンメル大会でオリンピック初出場を果たした岡崎朋美(1994年)

―― リレハンメル大会では、14位とメダル争いに食い込むことができませんでしたが、初めてのオリンピック出場で何かつかんだものもあったのではないでしょうか?

私としては自己ベスト(40秒55)を大舞台で出せたというのは大きかったですね。また島崎さんも10位でしたので、高校時代はまったく手が届かなかったけれど、ようやく少し近づけたなと思え、やってきたことの自信にも繋がりました。正直、出場するまでは「これが最初で最後のオリンピックかもしれないな。でも、まぁ1回でも出られればいいや」という気持ちだったのですが、次の4年後のオリンピックが長野で開催されることもあって、帰国する時には「次も絶対に出なければ」と思っていました。それも「500mだけではなく、1000mにも出たい」と高い目標を持つようになっていました。

―― 長野大会までの4年間は、大変な日々だったでしょう?

大変でしたが、自分の体がどんどん進化していてできなかったこともできるようになっていったので、夏のトレーニングの成果が、冬の滑りに出るんじゃないかなと楽しみに思いながらトレーニングをしていました。辛いトレーニングをやるにしても、ずっと100%の状態で追い込むと体も悲鳴をあげてしまいますので、緩めるところは緩めて、うまく体を使いこなせるように、1年1年進化していきました。そういうふうに自分の体が変化していくのが、楽しかったですね。もちろん疲労がたまってしまうこともあったので、そんな時は長田監督に「今日はちょっと疲れているみたいなので、休んでもいいですか?」と言うと、「いいよ、今日は休め」と言ってくれました。

明暗が分かれたスラップスケートの導入

岡崎 朋美氏(当日のインタビュー風景)

岡崎 朋美氏(当日のインタビュー風景)

―― もう長野大会の目標は、メダルだけだったのですか?

メダル獲得を目標にしていました。W杯で優勝もしていましたので、長野オリンピックの2年前には、島崎さんと清水宏保さん(1998年長野大会500mで金メダル、1000mで銅メダルを獲得。2002年ソルトレークシティ大会500mで銀メダルを獲得)と私の3人はメダル候補ということで代表選手に内定していました。ところが、長野オリンピック1年前の1997年に、オランダのバイキング社が開発した「スラップスケート」という新しいスケート靴が登場したのです。それまでのスピードスケート靴はブレード(刃)が靴底に固定されていたものが、スラップスケートはかかとの部分のブレードが離れるようになっていて、バネで戻る仕組みになっているのです。それから残りの1年は、フィジカルを鍛えることよりも、「スラップスケート」という新種の道具を使いこなすことに神経をすりへらしました。

リレハンメルオリンピック男子500mで銅メダルを獲得した堀井学(1994年)

リレハンメルオリンピック男子500mで銅メダルを獲得した堀井学(1994年)

―― スラップスケートを使いこなすのに、最も難しかった点は?

かかとからブレードが離れるので、すべての動きのタイミングが狂ってくるのです。まだ自分の滑りが完成されていない若い選手たちは逆に順応性があって、すぐに使いこなせるようになっていたのですが、当時私は26歳とアスリートとしてはベテランの域に達しつつありましたし、同じ500m、1000mの堀井学さん(現在、衆議院議員。1994年リレハンメル大会500mで銅メダルを獲得)もそうでしたが、それまでの靴でW杯で優勝していた私たちにとっては、スラップスケートが本当にいいのかどうかはちょっと疑問なところもありました。「道具でそこまで変わってしまうの?」と。それで堀井さんははじめ、「オレはこれまで履いてきたノーマルのスケート靴でオリンピックを戦う!」と言って、スラップスケートを履かなかったのですが、結局長野オリンピック直前になって「やっぱりスラップでないと勝てない」と判断をし、替える決断をしました。でも、ちょっと遅かったですね。500mは13位、1000mは17位という結果でした。

 

一方、私の方は「ぐちゃぐちゃ悩んでいる暇はない!とにかくメダルを取らなくちゃいけないんだから!」と思っていましたし、スラップスケートで好記録を出していた海外選手を目の当たりにしていましたので、割とすぐに変える決断ができました。海外のショップを廻って、部品を持ち帰り、日本のメーカーに持っていきました。「同じようなものを作れますか?」とお願いをして作ってもらいました。通常は冬のシーズンが終わって春になった時に陸上トレーニングを始めるのですが、スラップスケートで練習するために1年中400mのスケートリンクが使用できる場所を探しました。ミルウォーキー(米国)に条件に合うところがあるとわかり、会社に了解してもらい、富士急行のスケート部は急遽ミルウォーキーに飛んで、スラップスケートに慣れるための氷上合宿を行いました。フィジカルについては、それまでの3年間でしっかりと鍛え上げていましたので、それほど心配することはないと考えていました。あとはスラップスケートを履いての滑りの技術を身に付ければと考え、そこに重点を置いてトレーニングをしていました。

長野オリンピック女子500mで銅メダルを獲得した岡崎朋美(1998年)

長野オリンピック女子500mで銅メダルを獲得した岡崎朋美(1998年)

―― スラップスケートでいける、と手応えをつかんだのはいつ頃だったのでしょうか。

長野オリンピックのレース2週間前、選手村に入村してからでした。長野のリンクの環境がとても良かったのも、結果を出せた要因だったように思います。アイスマンの方もちゃんとスラップスケートで滑りやすいようにと考えてリンクを作ってくださったのだと思いますし、いつも以上にライトアップされていて明るかったのも、パフォーマンスを発揮するには非常にいい状態でした。入村して初めて会場で練習した際、一歩目を踏み出した瞬間にグッと体が前にもっていかれる感じがあり、初めて「あっ!いける」と思いました。しかも私の感覚と、練習を見ていた長田監督の感覚がしっかりとマッチングしていて、監督から「今日はいいな」と言われたのです。私も「自分でもいいと思います」と答えました。レース感を取り戻すために本番の1週間前にタイムトライアルを行ったのですが、その時も「これはいける」と思いました。本当は金メダルが一番欲しかったのですが、世界記録を2秒ほど更新していたカトリオナ・ルメイ・ドーン(カナダ)がいましたので、彼女に勝つのは至難の業でした。長野入りしてからも彼女の調子がどんどん上がっていましたので、何かアクシデントがない限りは厳しいかなというのは覚悟していました。それでもメダルは3つあります。なんとか3位以内というのは死守したいなと思っていました。

長野オリンピック男子500mで日本のスケート史上初の金メダルを獲得した清水宏保(1998年)

長野オリンピック男子500mで日本のスケート史上初の金メダルを獲得した清水宏保(1998年)

―― 岡崎さんの前に清水選手が金メダルを獲得しましたが、それは刺激になりましたか?

男女でメダルが取れれば、地元開催のオリンピックがもっと盛り上がるだろうなと思ったので、ここで女子の私が逃すわけにはいかないと考えていました。ただプレッシャーは少なかったですね。私も願っていることなので、緊張して筋肉が硬直してしまい、体が動かなくて後悔するようなレースに絶対したくないと思っていましたし、緊張しないようにイメージトレーニングをしてきた成果だったと思います。何かアクシデントがあって自分のいつものサイクルではなくなったとしても開き直るよう臨機応変の対応が出来るようにしていました。なので、大会が始まってからもいい緊張感はありましたが、プレッシャーに押しつぶされることはありませんでした。それは会社員の方も同じだと思うんです。プレゼンの直前になって、あれこれじたばたしても仕方ないですよね。それよりも事前にしっかりと準備することが大切であるのと同じで、私もレース当日にはもう出来上がっている状態で会場入りするため日々トレーニングに励んでいました。あとはいい雰囲気でレースに臨むだけだと思っていたので、オリンピックを自分の手のひらで転がす、じゃないですけど、レースを楽しもうと思っていました。当時は「オリンピックを楽しむ」と日本代表選手が口にしたら、怒られた時代なので実際には言いませんでしたが、リラックスしながらレースに臨みました。

実際、会場も満員でアスリートとしては最高の環境で、銅メダルを取れたのも、観客の皆さんの大声援や大歓声のおかげだと心から感謝いたします。それと、組み合わせも良かったかなと。1日目は同じ組で滑るカナダの選手が、それほど速いタイムの持ち主ではなかったですし、最終組だったので「見せ場かな?」といい方向に考えられました。「私、もっているかもしれない!」と思えたのもリラックスできた要因でした。1日目が終わり、そこで3位に入っていたのでメダル圏内にいたことも大きかったのかと。

アルベールビル、長野オリンピックに出場した島崎京子(1998年長野大会)

アルベールビル、長野オリンピック に出場した島崎京子(1998年長野大会)

2日目はなるべく日本人との対決は避けたいと思っていましたが、島崎さんと同組になってしまいました。それもあまり悪いようには考えずに「私と島ちゃんは運命なんだな」と思うようにしていました。メディアの皆さんは「どちらがメダルを取るのか?」といった具合に報道していたと思いますが、私としては「どちらかではなくて、2人ともメダルを取って、もっとオリンピックを盛り上げるんだ!」という意識で臨みました。私がアウトで、島崎さんがインでのスタート。バックストレートで追う形になるというのは、私にとってはとてもいい展開だったのです。追わせてもらって、あと最後は2人でゴールに勢いよく突っ込む、というイメージを抱いていたのですが、島崎さんのスラップスケートの音が弱々しく聞こえてきたので、自分のことを考えなくちゃいけないのに、「島ちゃん、ついてきて!」と思いながら滑っていました。結果的に私は1日目と同じタイムでゴールしたので、その時自分が持っていたものは全て出し切れたかなと思いました。ただ後でビデオを確認したら、最後のカーブは膝が高くロスが生まれていたなと、銅メダルは取れたものの、反省しきりでした。今も講演であの時のレースの映像を使用していますが、何度見ても「下手だな」と思います。

―― そういう意味では、銅メダルを獲得した喜びはありつつも、さらに技術を習得すればもと上にいける、という気持ちが次へのモチベーションになったということですね。

おっしゃる通りです。長野オリンピックでメダルは獲得しましたが、まだスラップスケートも習得しきれてはいなかったので、そこで辞めるという選択肢はありませんでした。あともう4年やって、完璧に近いスケーティング技術を習得して次のオリンピックに臨みたいと思っていました。

後進に残したかった出産後の現役復帰の道

ソルトレークシティオリンピック500mで6位入賞を果たした岡崎朋美(2002年)

ソルトレークシティオリンピック500mで6位入賞を果たした岡崎朋美(2002年)

―― 2002年ソルトレークシティ大会(米国)では、500mで6位入賞とメダルには届きませんでした。本来の実力を発揮できていれば、もっといい成績を収められていたのでは、と思ったのですが…

オリンピックの2年前にヘルニアが発症してしまったので、手術を受けて、そこから復帰レース。ソルトレイクのリンクは高速リンクでしたので、正直もったいなかったと思います。でも、ヘルニアの痛みがあるままでは練習はとても無理だったので、とにかく一日でも早く復帰できるようにと、すぐに手術していただくように当時のナショナルチームドクターだった先生にお願いをしました。実は最初、長田監督は手術を受けることに対して首を縦に振らなかったんです。というのも、ヘルニアで手術をして復活したアスリートがいなかったのです。監督はすごく悩んでいらっしゃったのですが、私はそれこそ「明日、手術できませんか?」というくらい、すぐにでも手術してもらいたいという思いでした。そうじゃないと、オリンピックまで2年もなく、間に合わないと思ったのです。

結果的になんとか間に合って、腰もそれほど痛くない状態でソルトレークシティオリンピックに出場することができました。自分の中では「なんとかいけるかな」とは思っていましたが、実際は3位以内に入るにはタイム差が開いていたので、ちょっと難しいなという思いがありました。それでも日本人トップの6位入賞(当時、日本記録更新)という結果でしたので、今持っている自分のベストはだしきれたのかな?という気持ちでした。

トリノオリンピックで日本選手団の主将を務めた岡崎朋美(左)右は遅塚研一団長(2006年)

トリノオリンピックで日本選手団の主将を務めた岡崎朋美(左)右は遅塚研一団長(2006年)

―― 4回目の2006年トリノ大会(イタリア)の時は、どういう状態でしたか?

ヘルニアの手術からも6年が経過していましたので、「ここでもう一度メダルを」と考えていました。トリノオリンピックまでの4年間、W杯でも好成績を収めていましたので、「いけるな」と手応えを感じていました。でも、残念ながらメダルまであと一歩の4位で終わってしまいました。2本目のレースでは、足が動かず、うまくスピードに乗ることができなかったんです。長田監督が「オレのせいだ」とおっしゃっていたのですが、どうやら何か願掛けしていたものが崩れたか解けたか何かしたみたいで、いつもは冷静な監督が、レース前にそわそわしていらしたんです。急にリンクからいなくなったりして「どうしたんだろう?」と思っていたのですが、やはり近くでソワソワされると連動しちゃいすね。私も一度会場の外で深呼吸したりリフレッシュしましたが時間は待ってくれず。悔しい事に0.05秒の差でメダルを逃してしましました。当時のジンクスで『主将になるとメダルが取れない』と言うのを思い出し、私はトリノ五輪の主将を務めていて現実になってしまった?覆すことが出来なかった悔しさで泣くに泣けませんでした。

―― トリノ大会後も競技を続けようと思った一番の理由は何だったのでしょう?

ベテラン選手は周囲から肩を叩かれて引退ということってよくあると思うのですが、私の場合は逆に「やれるところまでやり尽くしなさい」と言ってもらえていました。応援してくださる方々も「辞めてしまうのは寂しいです」と言ってくださっていましたし、メディアの方からも「もう辞めるんでしょ?」ではなくて「まだ続けるんでしょ?」と言われることが多かったんです。自分でも「辞めるのはいつでも辞められるけど、まだそういう気持ちになっていないし、辞めないでいいかな?」と。それに私が頑張っているのを見て、同世代の人たちから「元気をもらえます」とか「私も頑張っています」と言っていただくと、「私も更に、もっと頑張ろう」と思うことができました。年齢がいってしんどいというよりも、逆にやりがいを感じていましたし、楽しみながら競技を続けていました。

左からバンクーバーオリンピック日本選手団長橋本聖子、本人、主将岡部信彦(2010年)

バンクーバーオリンピック日本選手団長橋本聖子、旗手岡崎朋美、主将岡部信彦(左から)(2010年)

―― 2007年にご結婚された後、2010年バンクーバー大会では冬季大会の日本女子史上最年長の38歳、そして最多となる5大会連続での出場を果たされ、同じ年の12月に出産された後も、現役続行を選択されました。

男性アスリートは結婚して、子どもを持っても、競技を続けることができますが、女性は結婚したり出産したら引退するというのが、当時は一般的でした。そういう慣習を変えていきたいと思いましたし、スケート界では誰もやっている人がいなかったので、実際にやってみたらどうなるのか?とチャレンジしてみようと思いました。もちろん大変なのはわかっていましたし、実際に大変だったのですが、やり方次第でどうにでもなるのかな?と頭で考えて悩むよりも、実際にやってみたら?という思いでした。出産した後、割とすぐにトレーニングに復帰できたのですが、それでも体を戻すのが本当に大変でした。驚くことに母乳で育てたら、結構すぐに体が絞れたんです。ところが、その分、栄養がすごく取られるのか、筋力はトレーニングしても、以前のようにはつきませんでした。年齢もあったと思いますが、出産したことによってホルモンのバランスが異なってきたというのもあったのだと思います。とにかくこの体でやっていくしかなかったので、できることをするという感じでした。でも、2013年12月のソチオリンピック(ロシア)選考会のレースでは、スタートの反応はまずまずだったと思いますが、俊敏な動きができず、特に後半の伸びがなくスピードに乗れないままゴール。終わってしまいました。とにかく復帰してから選考会までの時間が足りなかったですね。あと1年あれば、もしかしたらソチに行けたかもしれないなと思います。というのも以前は毎日していた早朝の練習も、子育てがあるのでできなかったですし。当時は夫とは離れて暮らしていましたので、「誰かに見てもらったら?」と言われたのですが、私としては子育てと競技を両立したいという気持ちが強く、そのためのチャレンジなので、極力自分で子供の面倒を見るようにしていました。保育園には通わせてはいましたが、それでも熱を出して呼び出されることも結構多かったんです。私は練習中、携帯を見ないので、長田監督の携帯番号を保育園に伝え、お熱が出たら監督に迎えに行ってもらったこともありました。監督にも感謝しきれないほどお世話になりました!

最後のオリンピックとなった2010年バンクーバー大会では開会式で旗手を務めた(写真中央)(2010年)

最後のオリンピックとなった2010年バンクーバー大会では開会式で旗手を務めた。(写真中央)(2010年)

―― 海外では出産後も、競技を続ける女性アスリートは多いと思いますが、欧米と比べると日本は環境が整っていないと感じられましたか?

現在では日本スケート連盟がナショナルチームを管轄する形ですが、当時は選手が所属する企業や大学それぞれが活動していて、組織自体がばらばらでした。何かお願いするにも私の場合は所属企業しかなかったのですが、富士急行は協力的だったので非常に助かりました。それでも限度はありますので、十分な環境を整えるのはなかなか難しい面がありました。一方、海外では国レベルでの組織があるので、そこから支援金が出たり、女性アスリートが復帰するためのプログラムも確立されていたので、手厚いサポートを受けられるのは羨ましいとは思いました。

ご家族と(2010年)

ご家族と(2010年)

―― これからの女性アスリートのための環境づくりをしていくというのも、お子さんを持つ女性アスリートの先輩である岡崎さんの役割でもあるのではないでしょうか。

現在は練習場所に託児所が作られたりしていますし、それこそ夏季競技の女性アスリートにとっては、託児所があるナショナルトレーニングセンターで練習できるというのはいいですね。一方、冬季競技はアルペンスキー、ノルディックスキー、フィギュアスケート、スピードスケート、アイスホッケー、カーリングと、練習場所がどうしても各競技ごとに違うので、冬季の女性アスリートはまだまだ大変な面があるように思います。各練習場所がある地域に託児所やサポートセンターをつくってもらうとか、あるいは見てもらえる人を最低でも帯同していただくということがあればいいなと思います。

冬季大会に不可欠な自然との深いかかわり

東京2020オリンピック開会式で挨拶する橋本聖子組織委会長(2021年)

東京2020オリンピック開会式で挨拶する橋本聖子組織委会長(2021年)

―― 昨年開催された東京2020オリンピック・パラリンピックについては、どのような印象を持たれましたか?

新型コロナウイルスの感染状況を考えると、致し方なかったとは思いますが、やはり無観客だったことは、アスリートにとっては残念だっただろうなと思いました。せっかく東京での開催だったので、多くの方に見て肌で感じてもらいたかったなというのが一番にありました。ただ、どんなことがあってもやらないという選択はないとは思っていました。それこそ聖子さんが東京2020オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会の会長に就任した時、「必ず開催する方向にもっていってくれるだろうな」と安心しました。無観客でも、選手たちが頑張って活躍してくれたおかげで、非常に盛り上がりましたしね。開幕前はオリンピック・パラリンピックに対して否定する声もたくさんありましたが、いざ開催してみると、選手たちの熱量が画面からも伝わってきて、感動した人たちはたくさんいたと思います。改めてスポーツの力を感じた大会でもあったと思いますが、そういうものは開催しなければ伝わってはきませんので、開催して本当に良かったと思います。まだコロナの状況は収束していないものの、スポーツは止めてはいけないな、と改めて思いました。

―― 東京2020大会でも問題となりましたが、頑張っている選手たちへのSNSでの誹謗・中傷というのは、どのように感じられていますか?

それは絶対に良くないことで、SNS上で削除できるものはどんどん削除していってほしいと思いますが、選手も発信はしても、パフォーマンスに影響が出てしまう大会期間中はコメントは見ないということも必要かなと思います。気になる人はつい見ちゃうとは思うのですが、私も現役時代は新聞やテレビの報道は一切見ないようにしていました。私については誹謗・中傷といったことはほとんどなかったのですが(知らないだけかな?笑)それでも大会期間中はレースに集中したかったので、外部からの情報は自分でシャットアウトしていました。結果を残すためには、そういうことも必要かなと思います。いくら誹謗・中傷はダメですよ、と言っても、言いたい人は言うわけですから、選手も気にしないようにする方法を見つけた方がいいと思いますし、もし言われても私は「そんなに私のことが気になるなら、どうぞ言ってください」くらいに思っていました。それくらいどんと構えてほしいなと思います。逆に「そんなに私のことが大好きなんですね!ありがとうございます」と思っていた方が、相手も攻撃する気が失せてしまうと思うんです。とにかく気にしないのが一番!と選手たちには言ってあげたいですね。それができないのなら、もう一切見ないようにする。それしかないと思います。

札幌オリンピックの招致活動に参加(右から三人目)(2022年)

札幌オリンピックの招致活動に参加 (右から三人目)(2022年)

―― 選手たちが自衛するということですね。話を変えまして、現在、岡崎さんは2030年の札幌オリンピック・パラリンピック招致のために設立した「北海道・札幌2030オリンピック・パラリンピックプロモーション委員会」の委員をされています。冬季大会を日本で開催する意義とは何でしょうか。

一つは、北海道を元気にしたいということがあります。1972年に札幌オリンピックが開催されて、ちょうど50年が経ったわけですが、当時オリンピックのために開発された街も老朽化しているのが現状です。そんななか、今新しい時代に入ってきて、スポーツ施設はパラリンピック競技の選手も利用できることが当然となりつつあるなど、「共生社会」が大きなテーマとなっています。また、高齢化が進む中、雪国ならではの問題もあります。札幌オリンピック・パラリンピック開催を機に、多種多様な人たちが過ごしやすい街づくりをすることで、いろいろな面でプラスになると思います。
また、北海道は自然豊かな地域ですので、それもアピールしたいと考えています。競技会場にしても環境保全を考えて、なるべく自然を壊さず、改築、改善するにしても今ある施設を利用します。そのため札幌オリンピック・パラリンピックとは言っても、実際に札幌市で行われるのは開閉会式やスキーのアルペンとジャンプのみ。そのほかは札幌市以外で行われます。例えば、スケートは帯広市になりますし、北海道に施設がないそり競技(ボブスレー、リュージュ、スケルトン)は長野市で行います。これからのオリンピック・パラリンピックは、IOCが方針転換したように、一つの都市にこだわらなくてもいいと思いますので、その一つの形を見せることもできるのではないかと思っています。

―― いろいろな事のあった東京2020大会の影響で、札幌オリンピック・パラリンピック招致への熱が冷めているのではという思いがあります。国民の支持については、どのように感じられていますか。

まだまだ多くの人に支持されているとは言えない状態ですが、それは致し方ないように思います。反対する方たちのお気持ちもわかりますので。だからこそ、どうしたら一人でも多くの方に理解していただけるのか、これから議論していかなければいけないと思っています。私自身も、お会いした方には開催意義やレガシーをお話したり、プロモーション委員会のホームページやさまざまな活動をご紹介したりして、理解を深めていただけるように努めています。まだ招致していること自体を知らない方も多いので、これからもっと広くアピールしていかなければいけないと思っています。

―― アピールするという意味でも、夏季大会にはない、冬季大会ならではの魅力や楽しみ方を教えてください。

冬季は屋外競技も多いので、天候に左右されることが非常に多いのが特徴です。それは大変なことでもありますが、それこそが醍醐味でもあるかと思います。スポーツの魅力だけでなく、自然の厳しさというものを感じられるのも冬季ならではないかなと。屋内競技も含めて言えるのは、厳しい寒さの中で鍛えてきたパフォーマンスを発揮する、その過酷な戦いを見ていただくというのも、感動を呼ぶ一つの要因になっているように思います。

北京オリンピックで行われたスノーボードのスロープスタイル(2022年)

北京オリンピックで行われたスノーボードのスロープスタイル(2022年)

―― 今後のオリンピック・パラリンピックのあり方については、どのようにお考えでしょうか。

夏季に比べると、冬季は競技数が少ないので、もっと増やしてもらえたらなという希望はあります。スノーボードも1998年長野オリンピックの時にはハーフパイプと大回転のみだったのが、今ではスロープスタイルやスノーボードクロスとさまざまな新種目が採用されていますので、ほかの競技でも種目を増やしたり、あるいは雪合戦も世界大会があったりしますので、採用してもいいように思います。

 
北京オリンピックで活躍したボランティア(2022年)

北京オリンピックで活躍したボランティア(2022年)

―― 東京2020大会ではボランティアの活動が非常に高く評価されましたが、スポーツボランティアのあり方についてはいかがでしょうか?

本当にボランティアの皆さんには頭が上がらないです。運営のサポートだけでなく、アスリートに元気を与えてくれる存在でもありますから、非常にありがたいなと思います。それこそボランティアの方がいなければ、スポーツ大会を開催することはできません。それだけ重要な役割を担ってくださっているわけですから、何かの形でもう少しボランティアの皆さんにお礼ができたらいいのになと考えています。例えば、アスリートとの交流の場があれば、ボランティアの皆さんも喜んでくださると思いますし、そういう触れ合う時間を設けてもいいんじゃないかななどと。とにかくこれからもボランティアは不可欠ですので、ぜひお力をお貸しいただけたらなと思います。

命ある限り続けたいチャレンジ

岡崎 朋美氏(当日のインタビュー風景)

岡崎 朋美氏(当日のインタビュー風景)

―― 岡崎さんは現在、マスターズ大会に出場されていますが、生涯現役を目指されているということなのでしょうか、健康寿命の延伸を考えられて、とか…。

体が壊れない限りは体を動かし続けたいと思っています。長く続けるには、体が痛くならないように鍛えなければいけません。そうすると60歳、70歳になって、またその年齢に合った体の動かし方やトレーニングの仕方があると思いますので、自分で考えながらやるのも楽しいかなと思っています。

―― 岡崎さんにはチャレンジャーとしてのイメージがありますが、これから新しく挑戦したいと思っていることはありますか?

先日「SEA TO SUMMIT」という環境スポーツイベントに参加しました。海でカヌーを漕いで、自転車で山のふもとまで走って、最後は徒歩で山頂に登るというものなのですが、勝敗にこだわるのではなく、自然を満喫できて楽しかったです。実際はすべての種目がとてもきついのですが、参加してみて「こういうスポーツの形っていいな」と思いました。年齢も関係なくて、8歳の子どもも参加していましたし、車いすの方もお一人いて、カヌーや山登りはできなかったかもしれませんが、自転車は参加していたんです。無理なく1種目だけでもOKというのもいいなと思いました。そんなふうに、スポーツイベントに自分自身が参加して、皆さんに少しでも健康のために体を動かすことの大事さを伝えていけたらなと思っています。

―― そうしたチャレンジする気持ちというのは、どこからわいてくるのでしょうか?

「岡崎朋美」として生まれて、命がある限り「岡崎朋美」でいたいなという気持ちあるからでしょうかね。命あるもの必ず終わりが来ます。今生きている間にチャンスが来た時に、それをスルーするよりも、チャンスをいただけているということに感謝して、チャレンジしたいなと。チャレンジした結果、ダメならダメで、また次を頑張ればいいのかな?と。とにかく一度きりの人生楽しまなければ損だと思うので、力尽きるその時までチャレンジし続けていられたら一番幸せなのかなと思います。

ファン交流会で挨拶する岡崎朋美(写真中央)

ファン交流会で挨拶する岡崎朋美(写真中央)

―― そうした岡崎さんにとってスポーツ、スピードスケートの魅力とは何でしょうか。

スポーツは人間にとって必要不可欠だと思います。それこそ気持ちが落ちることもあると思いますが、そんな時にこそスポーツをしたり見たりすると、気持ちが前向きになることってあると思うんです。私自身を振り返ると、スピードスケートという競技で「岡崎朋美」という名前を皆さんに知っていただくことができ、人としてアスリートとして想像以上に成長できたのもスピードスケートと出会えたからだと思います。田舎で生まれ育って小さな世界しか知らなかった私が、広い世界を知ることで視野を広げられましたし、さまざまな方たちとの出会いにも感謝しています。心からスピードスケートをやって良かったなと思っています。

―― 最後に、次世代の子どもたち、アスリートに何を伝え、何を残したいと思いますか?

現代社会では、勉強しなければならないことが多く子どもたちは大変だとは思いますが、学業とスポーツを両立していってほしいなと思います。それこそ頭の回転を良くするためにスポーツをするというのも、一つの手法だと思うんです。逆にスポーツも頭を使わなければ上達はしませんので、意外と勉強とスポーツってつながっているんですよね。もちろんうまくいかないこともあると思います。そういう時こそ踏ん張って、諦めずに前に進んで行ってほしいです。きっとたくさん考えた末、大事な何かを得られるはずですから。そのためには親御さんや周りの大人たちの力も必要だと思いますので、お子さんたちをしっかりとサポートしていただきたいと思います。それと子どもの時は、一つの競技に絞るのではなくて、いろいろなスポーツを経験してほしいですね。上達するために習う必要はなくて、遊びでもいいから経験してほしいなと思います。以前、大学生が「失敗したくない」と言うのを耳にしたことがあるのですが、私は完璧を求めなくてもいいと思うんです。失敗したら、何で失敗したのかを考えて学んでいけばいい。「失敗は成功の素」ですから、失敗したらしただけ成功に近づいていると思えば、失敗が怖くなくなるのではないかなと思います。まずは興味を持ってチャレンジあるのみ!沢山の学びの経験を積んで自分の財産にして下さい!応援しています。

  • 岡崎 朋美氏 略歴
  • 世相

1912
明治45

ストックホルムオリンピック開催(夏季)
日本から金栗四三氏が男子マラソン、三島弥彦氏が男子100m、200mに初参加

1916
大正5

第一次世界大戦でオリンピック中止

1920
大正9

アントワープオリンピック開催(夏季)
熊谷一弥氏、テニスのシングルスで銀メダル、熊谷一弥氏、柏尾誠一郎氏、テニスのダブルスで 銀メダルを獲得

1924
大正13
パリオリンピック開催(夏季)
織田幹雄氏、男子三段跳で全競技を通じて日本人初の入賞となる6位となる
内藤克俊氏、レスリングで銅メダル獲得
1928
昭和3
アムステルダムオリンピック開催(夏季)
日本女子初参加
織田幹雄氏、男子三段跳で全競技を通じて日本人初の金メダルを獲得
人見絹枝氏、女子800mで全競技を通じて日本人女子初の銀メダルを獲得
サンモリッツオリンピック開催(冬季)
1932
昭和7
ロサンゼルスオリンピック開催(夏季)
南部忠平氏、男子三段跳で世界新記録を樹立し、金メダル獲得
レークプラシッドオリンピック開催(冬季)
1936
昭和11
ベルリンオリンピック開催(夏季)
田島直人氏、男子三段跳で世界新記録を樹立し、金メダル獲得
織田幹雄氏、南部忠平氏に続く日本人選手の同種目3連覇となる
ガルミッシュ・パルテンキルヘンオリンピック開催(冬季)

1940
昭和15
第二次世界大戦でオリンピック中止

1944
昭和19
第二次世界大戦でオリンピック中止

  • 1945第二次世界大戦が終戦
  • 1947日本国憲法が施行
1948
昭和23
ロンドンオリンピック開催(夏季)*日本は敗戦により不参加
サンモリッツオリンピック開催(冬季)

  • 1950朝鮮戦争が勃発
  • 1951日米安全保障条約を締結
1952
昭和27
ヘルシンキオリンピック開催(夏季)
オスロオリンピック開催(冬季)

  • 1955日本の高度経済成長の開始
1956
昭和31
メルボルンオリンピック開催(夏季)
コルチナ・ダンペッツォオリンピック開催(冬季)
猪谷千春氏、スキー回転で銀メダル獲得(冬季大会で日本人初のメダリストとなる)

1959
昭和34
1964年東京オリンピック開催決定

1960
昭和35
ローマオリンピック開催(夏季)
スコーバレーオリンピック開催(冬季)

ローマで第9回国際ストーク・マンデビル競技大会が開催
(のちに、第1回パラリンピックとして位置づけられる)

1964
昭和39
東京オリンピック・パラリンピック開催(夏季)
円谷幸吉氏、男子マラソンで銅メダル獲得
インスブルックオリンピック開催(冬季)

  • 1964東海道新幹線が開業
1968
昭和43
メキシコオリンピック開催(夏季)
テルアビブパラリンピック開催(夏季)
グルノーブルオリンピック開催(冬季)

1969
昭和44
日本陸上競技連盟の青木半治理事長が、日本体育協会の専務理事、日本オリンピック委員会(JOC)の委員長に就任

  • 1969アポロ11号が人類初の月面有人着陸
  • 1971岡崎 朋美氏、北海道に生まれる
1972
昭和47
ミュンヘンオリンピック開催(夏季)
ハイデルベルクパラリンピック開催(夏季)
札幌オリンピック開催(冬季)

  • 1973オイルショックが始まる
1976
昭和51
モントリオールオリンピック開催(夏季)
トロントパラリンピック開催(夏季)
インスブルックオリンピック開催(冬季)
 
  • 1976ロッキード事件が表面化
1978
昭和53
8カ国陸上(アメリカ・ソ連・西ドイツ・イギリス・フランス・イタリア・ポーランド・日本)開催  
 
  • 1978日中平和友好条約を調印
1980
昭和55
モスクワオリンピック開催(夏季)、日本はボイコット
アーネムパラリンピック開催(夏季)
レークプラシッドオリンピック開催(冬季)
ヤイロパラリンピック開催(冬季) 冬季大会への日本人初参加

  • 1982東北、上越新幹線が開業
1984
昭和59
ロサンゼルスオリンピック開催(夏季)
ニューヨーク/ストーク・マンデビルパラリンピック開催(夏季)
サラエボオリンピック開催(冬季)
インスブルックパラリンピック開催(冬季)

1988
昭和63
ソウルオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
鈴木大地 競泳金メダル獲得
カルガリーオリンピック開催(冬季)
インスブルックパラリンピック開催(冬季)

  • 1990岡崎 朋美氏、高校生時代に富士急行株式会社スピードスケート部からスカウトされ 富士急行株式会社に入社
1992
平成4
バルセロナオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
有森裕子氏、女子マラソンにて日本女子陸上選手64年ぶりの銀メダル獲得
アルベールビルオリンピック開催(冬季)
ティーユ/アルベールビルパラリンピック開催(冬季)

1994
平成6
リレハンメルオリンピック・パラリンピック開催(冬季)

  • 1994岡崎 朋美氏、リレハンメルオリンピックに出場
  • 1995阪神・淡路大震災が発生
1996
平成8
アトランタオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
有森裕子氏、女子マラソンにて銅メダル獲得

  • 1997香港が中国に返還される
1998
平成10
長野オリンピック・パラリンピック開催(冬季)

  • 1998岡崎 朋美氏、長野オリンピックスピードスケート500mで銅メダル獲得。
    1000mで7位入賞
2000
平成12
シドニーオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
高橋尚子氏、女子マラソンにて金メダル獲得

2002
平成14
ソルトレークシティオリンピック・パラリンピック開催(冬季)

  • 2002岡崎 朋美氏、ソルトレークシティオリンピックスピードスケート500mで6位入賞
2004
平成16
アテネオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
野口みずき氏、女子マラソンにて金メダル獲得

  • 2005岡崎 朋美氏、スピードスケート500mで通算7度目となる日本新記録を達成
2006
平成18
トリノオリンピック・パラリンピック開催(冬季)

  • 2006岡崎 朋美氏、トリノオリンピックで日本選手団の主将を務め、スピードスケート500mで4位入賞
2007
平成19
第1回東京マラソン開催

2008
平成20
北京オリンピック・パラリンピック開催(夏季)
男子4×100mリレーで日本(塚原直貴氏、末續慎吾氏、高平慎士氏、朝原宣治氏)が3位となり、男子トラック種目初のオリンピック銅メダル獲得

  • 2008リーマンショックが起こる
2010
平成22
バンクーバーオリンピック・パラリンピック開催(冬季)

  • 2010岡崎 朋美氏、バンクーバーオリンピックに出場。
    日本人女子選手初となる冬季オリンピック5大会連続出場を果たす
  • 2011東日本大震災が発生
2012
平成24
ロンドンオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
2020年に東京オリンピック・パラリンピック開催決定

2013
平成25
2020年に東京オリンピック・パラリンピック開催決定

  • 2013岡崎 朋美氏、現役を引退
2014
平成26
ソチオリンピック・パラリンピック開催(冬季)

  • 2015岡崎 朋美氏、富士急行行株式会社を退社
2016
平成28
リオデジャネイロオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
2018
平成30
平昌オリンピック・パラリンピック開催(冬季)

2020
令和2
新型コロナウイルス感染症の世界的流行により、東京オリンピック・パラリンピックの開催が2021年に延期

  • 2020岡崎 朋美氏、第12回マスターズ国際スプリントゲームズに出場。
    500m(45歳~50歳部門)で世界新記録を達成、金メダルを獲得
2021
令和3
東京オリンピック・パラリンピック開催(夏季)

  • 2021岡崎 朋美氏、東京2020大会の聖火リレーランナー(山梨県)を務める
  • 2022岡崎 朋美氏、北海道・札幌2030オリンピック・パラリンピックプロモーション委員会の委員に就任