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「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。

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日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。

2020年東京オリンピック・パラリンピック競技大会
第107回
東京オリンピック・パラリンピックで証明されたスポーツによる社会貢献

室伏 広治

長年、世界を代表するハンマー投げ選手として活躍された室伏広治氏。オリンピックには2000年シドニー、2004年アテネ、2008年北京、2012年ロンドンと4大会連続で出場し、アテネでは金メダル、ロンドンでは銅メダルを獲得しました。

また、日本選手権では前人未踏の20連覇を達成するなどの功績を残しています。2014年には東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会のスポーツ局長兼スポーツディレクターに就任。競技運営の責任者として大会準備に奔走されました。2020年10月にスポーツ庁長官に就任され、現在は日本スポーツ界のリーダー役をお務めになっています。その室伏氏に東京オリンピック・パラリンピックのレガシー、そして今後の日本スポーツ界についてうかがいました。

聞き手/佐野慎輔  文/斉藤寿子  写真 / フォート・キシモト、室伏 広治、スポーツ庁 取材日/2021年11月18日

日本スポーツ界の重要なターニングポイントに

―― 2014年から組織委員会のスポーツ局長兼スポーツディレクターを務め、2020年10月からはスポーツ庁長官としてご尽力された東京オリンピック・パラリンピックにはどのような感慨を持たれていらっしゃるでしょう。

東京オリンピック・パラリンピックは、新型コロナウイルス感染拡大の影響を受け、歴史上初めて1年延期となり開催された大会でした。開会式を迎えるまで、選手たちは「本当に開催されるのだろうか」という不安が拭えなかったと思います。また、大会を運営する側も「コロナ禍の中でどのようにすれば、安心・安全に開催することができるだろうか」という大きな課題を抱えながら準備を進めてきました。特に最初は、新型コロナウイルスがどういう特徴のあるものなのかが不明確で、対応の仕方を考えるにも困難を極めたと思います。そういう中で国民の皆さまのご協力のもと、無事に大会を開催することができ、安堵の気持ちが一番強かったです。

東京2020オリンピック閉会式

東京2020オリンピック閉会式

―― 最も印象に残っているシーンはどのようなものでしたか?

どれも素晴らしいものばかりでしたので、選ぶことはできません。オリンピックでもパラリンピックでも、アスリートが全力を尽くしている姿に感動しましたし、「スポーツっていいな」と改めて感じることがたくさんありました。

―― 東京オリンピック・パラリンピックで遺されたレガシーをどのようにお考えですか。

オリンピック・パラリンピックが一体となり、ダイバーシティ(多様性)の推進が図られた大会として開催されたこと。また、アスリートがコロナ禍という大変な状況も乗り越えられるということを示してくれて、それに勇気と感動をもらえたこと。それらすべてがレガシーであり、日本がスポーツ文化を成熟させていくうえで、非常に大きなターニングポイントとなった大会だったのではないかと思います。

難しい調整が求められた競技スケジュール

―― 室伏長官は、スポーツディレクターに就任されて以降、約7年間、東京オリンピック・パラリンピックの開催準備にあたってこられました。東京大会にとっては重要な局面の連続であったと思います。

東京オリンピック・パラリンピックは、歴史上大きな転換期を迎えた中で行われた大会だったと思います。IOC(国際オリンピック委員会)の総会でも、史上初のジェンダー・バランスのとれた大会にするということで、参加するアスリートや種目の男女の比率を等しくするなど、さまざまな施策が発表されました。そうした変遷の時期に、競技運営の責任者として深く関わることができたのはとても光栄なことでした。

スポーツディレクターとして会議に臨む

スポーツディレクターとして会議に臨む

―― IOCがさまざまな施策を図る中、各競技のIF(国際競技連盟)や各国のNF(国内競技連盟)からの要求も多くあったと思います。その全てを納得する形にもっていく舵取りにはご苦労されたのではないでしょうか。

スポーツディレクターとして最も時間を費やした交渉の相手は、海外においてはIFでした。まず、どのIFにとっても、4年に一度しかないオリンピック・パラリンピックは、その競技の生き残りをかけた闘いの場でもあります。いかに多くのチケットを売り、集客できるかは非常に重要で、だからこそ自分たちの競技をうまくプロモートする必要があります。そのために、数多くの観客の座席数が欲しいなどという要求等が、たくさん来ました。

しかし、組織委員会としては予算も含めてリソースが限られた中で大会を運営しなければなりませんので、当然、すべての要求を受け入れるわけにはいきません。そのため、IF同士の奪い合いになったりもしたのですが、競技運営の責任者としては、まず第一にアスリートが競技をするうえで本当に必要なものは何かを見極めること。そしてそれを、IFにご理解いただくために、粘り強く交渉していくことが求められました。その中で必要とあらば、交渉先のIFの国にまで出向いて、交渉したり、説明をしたりして、理解していただくこともありました。やはりメールや電話よりも、直接顔を合わせてお話する方が、こちらの誠意も伝わると思いましたので、丁寧に進めていきました。苦労も多かったことは確かですが、とても貴重な経験になったと思っています。

―― アスリートのパフォーマンスを第一に考えての交渉では、ご自身がアスリート時代に経験してきたことが生かされた事も多々あったと思います。

交渉相手としても、私が元アスリートであるからこそ、説明にも耳を傾けてくれた部分もあったかと思います。ただ、私が元アスリートということとは無関係に容赦なく要求してくるIFがほとんどでした。

大会1年前(延期前)に来日したIOCバッハ会長(2019年7月)

大会1年前(延期前)に来日したIOCバッハ会長(2019年7月)

―― 準備を進めていく中で、思い描いていた東京オリンピック・パラリンピックの姿があったと思います。実現できたこともあれば、コロナ禍ということもあって理想通りとはいかなかったこともあったと思いますが、いかがでしたか。

コロナ禍になる前の2019年の夏、本来なら東京オリンピック・パラリンピックの開催1年前だった頃、IOCのトーマス・バッハ会長が視察に来日されました。その際「これほど準備ができた大会は見たことがない」と言われたほど、しっかりと準備が進められていたんです。ところが、その後にコロナ禍となり、開催自体が危ぶまれたわけですが、日本だったからこそ延期という前例のない事態にも対応することができたのだと思います。

競技スケジュールに関しては、そっくりのそのまま1年ずらすだけで済みましたが、スポンサーなどとの契約を延長したり、新たにコロナ対策も図らなければならなくなりましたので、過去にはない厳しい状況に置かれていました。それでも無事に開催することができましたし、今回の知見が今後さまざまな大会やイベントに生かされていくという点でも非常に良い経験になったと思います。

―― コロナ禍で準備をするにあたって、どんなところに腐心されたのでしょうか。

例えば競技スケジュールを決めるにあたって、開催国の日本としては大勢の人に見てもらわなければ自国で開催する意味も半減してしまいますので「この時間にこの競技をやりたい」という主張があるわけです。しかし、アメリカを筆頭に世界各国に東京オリンピック・パラリンピックの放送権を持つテレビ局がありますので、いくら開催国とはいえ、日本の意見がそのまま通るものではなく、調整が必要でした。各国のテレビ局と直接交渉するのは、OBS(オリンピック放送サービス:IOCの傘下にある組織で、オリンピック・パラリンピックのホストブロードキャスター。組織委員会、IOC、放送権をもったテレビ局と協力しながら、テレビ・ラジオ番組の制作を監督している)ですので、私たち組織委員会はOBSを通してテレビ局と調整していったわけですが、いずれにしてもその国のスター選手の競技を、自国のゴールデンタイムに放送したいのはどこのテレビ局も同じで、その中で良い方法を最後まで模索していくという作業が続きました。
また、競技会場によっては「この時間帯では、試合が終わった時には終電に間に合わない」という問題もありましたので、こうした点も踏まえて調整が必要とされました。しかも、競技期間はこれまでと同じ日数の中、オリンピックは過去最多の33競技339種目が実施され11,092人の選手が参加、パラリンピックは22競技539種目で過去最多の4403人の選手が参加しました。これをさまざまな条件をクリアさせたうえで、各国のテレビ局にもある程度納得していただかなければいけませんでしたので、競技スケジュールの調整は一筋縄ではいきませんでした。もちろん私一人の力ではなく、組織の力でやり遂げられたことでした。その結果、オリンピックもパラリンピックも、毎日のようにメダリストが誕生するといった、日本にとってもバランスの良い競技スケジュールをたてることができました。

スポーツディレクターを務めた小谷実可子さん

スポーツディレクターを務めた小谷実可子さん

―― 確かに、日本にとっては毎日、話題に事欠かない日程となっていました。その意味では開催国の利点となったわけですが、反面、コロナ対策には苦労されました。

私がスポーツ庁長官に就任するにあたって、2020年10月1日から組織委員会のスポーツディレクターを務めていただいた小谷実可子さんは、新型コロナウイルス感染症の対策において非常にご苦労されたと思います。新型コロナウイルス感染症が世界中に蔓延し、パンデミックとなった中、当時は「本当に東京オリンピック・パラリンピックが開催されるのだろうか」あるいは「この状況で東京オリンピック・パラリンピックを開催していいのか」という不安が広がっていました。そうした中、「安心・安全な大会」の開催実施に向けて、奔走していらっしゃいましたので、無事に開催することができて本当に良かったと思います。

新しい時代の楽しみ方が生まれた大会に

無観客の柔道会場

無観客の柔道会場

―― 東京オリンピック・パラリンピックは原則として無観客で行われました。元アスリートである室伏長官から見て、パフォーマンスに大きな影響はあったと考えられますか。

何千、何万人もの観客席を持つスタジアムやアリーナで競技をする一番の意義は、観客にパフォーマンスを見てもらうということだと思います。また会場の雰囲気というのも、観客と一体となって作り上げていくものです。そう考えると、やはりアスリートにとって観客がいるのといないのとでは、意味合いが違ったと思います。

 

―― 現役時代、観客からの声援や拍手が力になったと感じられていましたか?

観客が直接的にアスリートのパフォーマンスに関わるというよりも、例えばアスリートの最高のパフォーマンスを引き出す要素の一つとして、オリンピックやパラリンピックが持つ独特の会場の雰囲気があると思います。その雰囲気を作り出すためには、アスリートはアスリートのパートがあり、観客には観客のパートがあるんです。それが合わさって、あのような緊張感と高揚感のある会場の雰囲気が作られていくので、やはりアスリートのパフォーマンスには、観客が非常に重要な要素の一つだということが言えるのではないでしょうか。

―― そういう意味では、無観客で開催されなければならなくなった東京オリンピック・パラリンピックは、とても残念でした。

ただ、テレビやインターネットを通して見てくださった方がたくさんいらっしゃいました。もちろん競技会場に足を運んで生で見るのが一番ですが、好きな時に好きな競技を見ることができるテレビやインターネットというツールは、今の時代に合っていますし、これはこれで新しいオリンピック・パラリンピックの楽しみ方だったと思います。おそらくこれからは、こうした楽しみ方がさらに成熟していくのだと思いますので、東京オリンピック・パラリンピックはそのスタートとしても、大きな意味があった大会になったのではないでしょうか。

大会期間中にオーストラリアのスポーツ大臣と会談(2021年7月)

大会期間中にオーストラリアのスポーツ大臣と会談(2021年7月)

―― 東京オリンピック・パラリンピックでは、大会開催前も開催期間中も、選手に対するSNSでの誹謗中傷が多く、大きな問題となりました。インターネットが普及した社会においては避けられない問題だと思いますが、スポーツ庁としてはどのようにお考えでしょうか。

SNSの問題はスポーツ界に限らず、一般社会においても非常に大きな問題になっていますので、関係省庁とも連携を図り、法整備も含めて被害が大きくならないように政府全体で取り組んでいくことが重要かと思います。一方、アスリート自身もSNSとうまく付き合っていかなければいけないと思いますので、専門家からの指導を受ける機会も必要だと考えています。

―― 共同通信の開催後の世論調査によると、オリンピックは62.9%、パラリンピックは69.8%の人が、「開催して良かった」と評価しています。また、2021年12月に公表されたNHKの世論調査によれば、1年延期をして2021年7月から東京オリンピック・パラリンピックが開催されたことについて、「開催して良かった」と答えた人は52%でした。こうした高い評価を得られた要因の一つとして、無観客でもテレビやインターネットで多くの試合が見られたことが挙げられるのではないでしょうか。

おっしゃる通りだと思います。コロナ禍で在宅の方がたくさんいらっしゃったこともあったかもしれませんが、いずれにしても全国にわたって大勢の方に東京オリンピック・パラリンピックを見ていただけたことは本当に良かったです。

東京オリンピック・パラリンピックの真の成功とは

世界陸上ドーハ大会のマラソン(2019年9月)

世界陸上ドーハ大会のマラソン(2019年9月)

―― 東京オリンピック・パラリンピックは、開幕前からさまざまな問題が浮上し、紆余曲折を経ての開催でした。その一つが東京オリンピックのマラソン・競歩の会場の札幌への移転がありました。
東京オリンピックが予定通り2020年に開催されていれば、開幕まで9カ月に迫った時点での突然の会場変更でしたが、これはどういういきさつがあったのでしょうか。

2019年ドーハ世界陸上競技選手権大会におけるマラソンや競歩では高温多湿の競技環境により、棄権する選手、体調を崩す選手が多数でてしまいました。


そのため、ドーハと同じ高温多湿である夏の東京でのマラソンや競歩を実施することへの懸念が高まり、熱中症などのことを踏まえて札幌に競技会場を移すという提案が出されたというふうに伺っています。IOCとしては準備の段階で、アスリートのコンディションのことを一番に考えて、でき得る限りの策を講じたのだと思います。

―― ただ実際に対応しなければならない開催国に対し有無も言わせず、IOCの鶴の一声ですべてが決まってしまうという現在の体制では、自国開催の負担があまりにも大きいように思います。そのあたりも踏まえて、オリンピック・パラリンピックの将来的なあり方についてどのように思われますか。

オリンピック・パラリンピックは、長い歴史を紡いできた中で、IOCも伝統的な部分ばかりを追うことなく、常に「現代にあった形」をいろいろと模索してきたと思います。というのも、例えばサッカーには4年に一度ワールドカップというオリンピックにも並ぶ世界的人気を誇る国際大会があります。また、テニスやゴルフは毎年4大大会が開催されていますし、陸上や水泳なども2年に一度、世界選手権が行われるなど、各競技で「世界最高峰の大会」があります。そうした中、オリンピック・パラリンピック独自の価値を、IOCも明確にする必要があります。
今回の東京オリンピック・パラリンピックでは、オリンピックとパラリンピックを一体化し、ダイバーシティの推進を図ることで、誰もがスポーツを楽しめると示すことができました。世界が今、求めている社会問題の解決にも貢献した部分は決して小さくはなかったと思います。

ナショナルトレーニングセンターイーストの全景

ナショナルトレーニングセンターイーストの全景

―― さまざまな意味合いから、東京オリンピック・パラリンピックは、今後のオリンピック・パラリンピックの指針となるように思いますが、やはりパラリンピックの存在意義がとりわけ大きかったといってもいいでしょう。まさに「パラリンピックの成功なくして、オリンピックの成功なし」だったのではないでしょうか。

スポーツ庁では、オリンピック・パラリンピック一体での選手強化を図ってきました。その一つとして、2019年には東京都北区のハイパフォーマンススポーツセンターに、オリンピック競技・パラリンピック競技の一体的な拠点として「ナショナルトレーニングセンターイースト」を拡充整備し、これにより、オリンピック選手とパラリンピック選手が同じ場所でトレーニングに励むことができるようになりました。そうした中で、お互いに刺激をし合った部分もあったかと思います。
スポーツ界でこうしたインクルーシブな取り組みができることを示したことで、一般社会でも同じような現象が生まれてくると、東京大会のレガシーの一つと言えるのではないでしょうか。スポーツ庁としても取り組んできたオリ・パラ一体の理念が、東京オリンピック・パラリンピックを契機として、広く社会に浸透していくことが望まれます。

スポーツ庁として取り組むべき「情報の平等化」

スポーツ庁長官として初登庁(2020年10月)

スポーツ庁長官として初登庁(2020年10月)

―― 2020年10月1日付で、2代目のスポーツ庁長官に就任されましたが、打診はいつ頃あったのでしょうか。

ほとんど直前のタイミングでした。私は組織委員会の方で約7年にわたって東京オリンピック・パラリンピックの競技運営の責任者を務めていましたので、当然最後までまっとうするつもりでいました。新型コロナウイルス感染拡大で東京オリンピック・パラリンピックが1年延期となったことを受け、翌年の開催を見届ける心づもりでいたんです。ですので、スポーツ庁長官就任の話をいただいた時は非常に驚きもありました。

ただ、5年間にわたってしっかりと基礎を築かれた初代スポーツ庁長官の鈴木大地氏には足りませんが、少しでもお役に立てるのであればということでお引き受けいたしました。

室伏重信氏(1984年ロサンゼルスオリンピック)

室伏重信氏(1984年ロサンゼルスオリンピック)

―― 所信表明では、「感動してもらえるスポーツ界を目指したい」という言葉がありました。その原点は、室伏長官ご自身が初めて父上の出場された1984年のロサンゼルス大会をご覧になった事にあると聞いたような記憶があるのですが…。

オリンピックの一番最初の記憶は、日本人選手にとって「幻のオリンピック」となった1980年モスクワオリンピック(1979年12月にソビエト連邦<現ロシア>のアフガニスタンへの軍事侵攻に抗議するため、当時ソ連と冷戦状態が続いていたアメリカがモスクワオリンピックへのボイコットを提唱。日本も不参加を決定し、日本選手団の派遣を中止した大会)のテレビ中継を見た記憶があります。

ただ強く印象に残っているのは、やはり父親(室伏重信。日本のハンマー投げの第一人者で日本選手権10連覇、アジア大会5連覇などの偉業を成し遂げた。オリンピックには4大会に出場し、1972年ミュンヘンオリンピックでは8位入賞)の姿を現地のスタジアムで生で見た1984年のロサンゼルスオリンピックですね。子どもながらに感動しまして、「いつか出てみたいな」と思いました。それが現在の原点になっているところは少なからずあると思います。

誰でも楽しめるボッチャ(2020年東京オリンピック)

誰でも楽しめるボッチャ(2020年東京オリンピック)

―― そうした経験をされて、自らアスリートして活躍され、いまスポーツ行政の中心であるスポーツ庁長官として、今後どのような取り組みをされていくおつもりでしょうか。例えばスポーツ庁が中心となった「インクルーシブな取り組み」などはいかがですか。

スポーツ庁として重要なことは、スポーツによって偏りがないようにしていくことだと考えています。オリンピック競技、パラリンピック競技だけがスポーツではありません。私自身がまだ詳しく知り得ていないスポーツがまだまだたくさんあります。そうした中で、スポーツ庁としては「情報の平等化」を図り、オリンピック競技、パラリンピック競技に関わらず、すべてのスポーツの情報を平等に行き渡らせる必要があると思います。それこそ、東京オリンピックで初めて正式競技に採用されたアーバンスポーツ(スケートボードやスポーツクライミングなどの都市型スポーツ)や、ボッチャ、ゴールボールといったオリンピックにはないパラリンピック独自の競技などは、東京オリンピック・パラリンピックで初めて知った、見たという人も少なくなかったと思います。こうしたことも踏まえて、スポーツ庁としては、あらゆるスポーツの情報が行き渡るようにしていく取り組みをしていきたいと考えています。


1964東京オリンピックの聖火台磨き(右端が室伏氏)

1964東京オリンピックの聖火台磨き(右端が室伏氏)

―― 東京オリンピック・パラリンピックに向けて、オリンピック・パラリンピック教育も進められてきましたが、今後はどのようにして継続していくことになるのでしょうか。

これは、まさに「第3期スポーツ基本計画」(2022年度から5年間の国のスポーツ施策に関する指針)の話になりますが、もちろん東京オリンピック・パラリンピックで終わりではなく、引き続き国の施策として取り組んでいきます。これまで行ってきたオリパラ教育をどのように今後行っていくか、「第3期スポーツ基本計画」の審議会で議論を重ねているところです。

 

―― 組織委員会では、スポーツを通じて誰もがいきいきと活躍できる共生社会の実現に向けた活動「東京2020D&Iアクション」(「多様性」を意味する「Diversity」と「包括・包含」を意味する「Inclusion」)を推進してきました。活動の母体となって取り組んできた組織委員会が解散した後は、どこが引き継ぐのでしょうか。

これは、どこか一つの組織がというよりも、スポーツ庁を含め、JSC(日本スポーツ振興センター)、JSPO(日本スポーツ協会)、JOC(日本オリンピック委員会)、JPC(日本パラリンピック委員会)など、スポーツ界全体で継承していくことになるのだと思います。

ジェンダー・バランスのとれた社会の実現を目指して

室伏広治氏(当日のインタビュー風景)

室伏広治氏(当日のインタビュー風景)

―― 東京オリンピック・パラリンピックは、「多様性と調和」を基本コンセプトとし、女性の参加率がオリンピックは過去最高の約49%、パラリンピックにおいても約40%と、史上初めてジェンダー・バランスにも踏み込むなど、画期的な大会でした。一方で日本社会はというと、まだまだ女性の社会的地位については後れをとっています。
例えば、女性の働きやすさにおいて、日本はOECD(経済協力開発機構)に加盟する主要国29カ国中、ワースト2位の28位です。また、世界経済フォーラムが2021年3月に公表した「ジェンダー・ギャップ指数2021」を見ると、日本は156カ国中120位と、先進国の中で最低レベル、アジア諸国においても韓国や中国、ASEAN諸国よりも低い結果となっています。こうした現状を変える突破口として、ジェンダー・バランスを考慮した東京2020大会を開催したスポーツ界のありようが問われています。

東京オリンピック・パラリンピックでは、競技参加の面で言えば、男女の比率はほぼ同じでした。これは本当に素晴らしいことで、IOCをはじめ、各競技のIF、各国のNFの協力があって成し遂げられたことでした。一方、これは今後スポーツ庁でも取り組んでいくべきものとして認識していますが、コーチやトレーナーなどアスリートを支える人材においてはまだまだ男性社会です。競技をする人だけでなく、それを支える人においても、女性がもっと増えるべきだと思っています。また、スポーツ団体ガバナンスコードにおいても、決定の場で女性がもっと活躍できる環境が求められていますので、スポーツ庁としてもしっかりと取り組んでいきたいと考えています。

―― スポーツ庁では、スポーツの価値をより一層高めていくために、2018年12月に「スポーツ・インテグリティの確保に向けたアクションプラン」においてスポーツ団体が適切な組織運営を行うための原則・規範としての「スポーツ団体ガバナンスコード」を策定しました。それをきっかけにして、少しはスポーツ団体も変わってきていると思いますが、その動きは競技によってばらつきがあるような気がします。

確かに、そういう部分は否めないと思います。日本スポーツ界としてこれ以上後れを取るわけにはいきませんので、なぜ旧態依然のままなのか、なぜスポーツ団体ガバナンスコードが適合しないのか、その原因を分析し、不足していることについてはスポーツ庁が支援していかなければいけないと考えています。女性参加においても、ただ女性の人数を増やせばいいということではなく、決定権を持つリーダーにも女性がなれるような環境づくりをしていきたいと思っています。

―― そもそも日本では、欧米と比べると、社会人がスポーツをする環境が整っていません。そういう部分では、女性がスポーツ界で活躍するためには、例えばオフィスに託児所を設けるなどという環境整備を進めることも必要となります。

おっしゃる通りで、性別や障がいの有無に関係なく、誰もがスポーツに参加できるようにするためには環境を整えていかないと、なかなか実現しません。スポーツ庁の調査では、全世代において、女性のスポーツ実施率は男性と比べて低いという状況がありますので、その部分を重点的に取り組んでいかなければいけないと思っています。

―― また、スポーツの実施率を高めるためにも、環境と同じくらいに重要なのが指導者です。どの競技でも指導者不足が言われていますが、この点についてはどのような取り組みが必要となるでしょうか。

優秀な選手を育てるには、やはり良い指導者が必要ですので、指導者の育成は喫緊の課題だと考えています。現在、日本スポーツ協会を中心に、さまざまな資格制度をつくって指導者を育成する体制を整えているところです。指導内容についてもアップデートしていくべきところはどんどん刷新していって、老若男女、障がいの有無にかかわらず、さまざまな人を指導できるような人材を育成していくことが重要だと思っています。

―― そのほか地域スポーツの振興や、スポーツ産業の発展など、スポーツ庁が取り組むべき課題は山積していますが、まずはどの部分を優先にしていこうと考えていらっしゃるのでしょうか。

東京オリンピック・パラリンピックの体験が、さまざまな取り組みの主軸となるのだと思います。教育、産業、健康等の分野において、一つ一つ、着実に、取り組みを積み重ねていきたいと思っています。

スポーツが文化として成熟していく社会へ

横浜市立山内中学校を視察

横浜市立山内中学校を視察

―― 学校の部活動においては、少子化や教員の負担が増え、従来通りの活動を維持するのが難しくなってきています。その解決策として、2023年度からは休日の部活動を段階的に地域に移行することができるようにしようということで議論が進められていますよね。

部活動を従来通りに学校の先生にお任せするということでは、休日もなく、大きな負担を感じている先生もいます。もちろん、生きがいとして部活動に情熱を注いでいる先生もいらっしゃると思いますので、決してどちらがいい悪いという話ではありません。要はそれぞれに応じてやりくりをしていくべきなのですが、現状のままでは学校の先生の負担があまりにも大きい。

 

加えて、少子化の進展に伴い、単一の学校では特定の競技の運動部を設けることができないなど、将来にわたって子供たちのスポーツをする機会を確保することが難しい状況です。そこで、子供たちにとって望ましいスポーツ環境と教師が本来の職務に専念できる環境の実現を目指し、その第一歩として、中学校の部活動においては、2023年度から、休日の部活動を段階的に学校から地域に移行することとしています。
ただ、子供たちのスポーツ活動のあり方としては、中学校年代と高校年代とでは分けて考えていく必要があります。というのも、早い段階で一つの競技に絞るのではなく、いろいろな競技を経験することはとても大事です。ですから、中学校年代においてはあまり専門性を高めない方がいいように思います。それこそスポーツだけでなく、文化系の活動をするのもいいのではないでしょうか。現状では、中学校年代ですでに専門化しすぎてしまう傾向がありますので、そこは気を付けていく必要があるように思います。

―― そこではやはり、「スポーツパーソンシップ」の重要性を広げていっていただきたいと思うのですが。

※スポーツパーソンシップ:スポーツのルールを遵守してゲーム(競技)を行っていくうえでの根本的な姿勢。スポーツをすること自体を楽しみとし、公正なプレーを尊重し、相手の選手に対する尊敬や賞賛、同じスポーツ競技をする仲間としての意識をもって行われる活動。

スポーツ界では、アスリートはドーピング検査を受けます。そうした厳しい検査をパスしたうえで、ようやく大会に出場することができるわけです。これほど厳しいルールがしかれたジャンルは他にはありません。ですからアスリートは、クリーンな状況で行われていることを誇りに思っていいと思います。もちろんそれは、ルールとして求められているからということもありますが、一番の理由はスポーツを守るためにあります。そのことをアスリートがきちんと理解するために教育が必要ですが、選手は誰の話を一番聞くかというと、やはり身近なコーチなんですね。指導者は競技力向上だけでなく、スポーツの真髄をきちんと踏まえたうえでの指導をしていかないと、見ている側も応援したいという気持ちもわきませんし、面白くなくなってしまいます。それではスポーツが衰退してしまいかねません。

室伏広治氏(当日のインタビュー風景)

室伏広治氏(当日のインタビュー風景)

―― スポーツには「する」「見る」「支える」という3つの要素があるわけですが、「支える」 という部分において、東京2020大会で多くの人材が育成されたように思います。彼ら、彼女たちを活用していく必要がありますね。

東京オリンピック・パラリンピックは、まさに「支える人」が注目された大会でもあったと思います。コーチやトレーナー、パラリンピック競技においては伴走者などアスリートのパフォーマンスに直接関わる人たちもそうですし、ボランティアの皆さんにもスポットがあたりました。
私たち運営側としても、こうした支える方たちなくしては東京オリンピック・パラリンピックの成功はなかった、と確信しています。そういう人たちが、今後さらにスポーツ界が盛り上がっていく支えになっていただきたいと願っています。

―― さまざまなスポーツ団体がある中で、日本スポーツ界が発展するためには、どのようにして連携を図っていくことが必要だとお考えでしょうか。

国、スポーツ団体、自治体などが、方向を同じくして取り組んでいくことが重要だと思います。また、スポーツ科学という点においては大学などの教育機関の研究も不可欠ですので、官民学がそろって、国民がスポーツを通じて豊かな人生を送ることができるように、積極的にスポーツ活動に参加してもらえる仕組みづくりをどう作っていくかを考えていかなければいけないと思います。

―― スポーツが文化として日本に根付いていくためには、どんなことが必要になりますか。

「する」「見る」「支える」のすべてが成熟化していくことだと思います。スポーツには西洋から入ってきたものが多いのですが、私の専門であるハンマー投げにおいても本場のヨーロッパの大会に行きますと、観客が会場を盛り上げたり、アスリートの気持ちを奮い立たせるような応援の仕方を熟知していらっしゃるんですね。それだけそのスポーツが国民から親しまれ、愛されているということだと思います。そういうことが「文化」として根付く要素になりますので、東京オリンピック・パラリンピックがそのきっかけになるといいなと思っています。

―― 最後に室伏長官の今後の目標を教えてください。

東京オリンピック・パラリンピックではメンタルヘルスの問題が取り上げられましたが、コロナ禍での大会一年延期によって心と体がバラバラとなってしまったことが一つの大きな原因です。やはり人間は心と体が一体であることが健康な状態。スポーツをするということは本来、心と体が一体となって行われることですので、心身ともに健康な状態にするためには最適です。そのスポーツが日常生活の一部として取り入れられるような社会にしていきたいと思っています。

  • 室伏 広治氏 略歴
  • 世相

1912
明治45

ストックホルムオリンピック開催(夏季)
日本から金栗四三氏が男子マラソン、三島弥彦氏が男子100m、200mに初参加

1916
大正5

第一次世界大戦でオリンピック中止

1920
大正9

アントワープオリンピック開催(夏季)
熊谷一弥氏、テニスのシングルスで銀メダル、熊谷一弥氏、柏尾誠一郎氏、テニスのダブルスで 銀メダルを獲得

1924
大正13
パリオリンピック開催(夏季)
織田幹雄氏、男子三段跳で全競技を通じて日本人初の入賞となる6位となる
内藤克俊氏、レスリングで銅メダル獲得
1928
昭和3
アムステルダムオリンピック開催(夏季)
日本女子初参加
織田幹雄氏、男子三段跳で全競技を通じて日本人初の金メダルを獲得
人見絹枝氏、女子800mで全競技を通じて日本人女子初の銀メダルを獲得
サンモリッツオリンピック開催(冬季)
1932
昭和7
ロサンゼルスオリンピック開催(夏季)
南部忠平氏、男子三段跳で世界新記録を樹立し、金メダル獲得
レークプラシッドオリンピック開催(冬季)
1936
昭和11
ベルリンオリンピック開催(夏季)
田島直人氏、男子三段跳で世界新記録を樹立し、金メダル獲得
織田幹雄氏、南部忠平氏に続く日本人選手の同種目3連覇となる
ガルミッシュ・パルテンキルヘンオリンピック開催(冬季)

1940
昭和15
第二次世界大戦でオリンピック中止

1944
昭和19
第二次世界大戦でオリンピック中止

  • 1945第二次世界大戦が終戦
  • 1947日本国憲法が施行
1948
昭和23
ロンドンオリンピック開催(夏季)*日本は敗戦により不参加
サンモリッツオリンピック開催(冬季)

  • 1950朝鮮戦争が勃発
  • 1951日米安全保障条約を締結
1952
昭和27
ヘルシンキオリンピック開催(夏季)
オスロオリンピック開催(冬季)

  • 1955日本の高度経済成長の開始
1956
昭和31
メルボルンオリンピック開催(夏季)
コルチナ・ダンペッツォオリンピック開催(冬季)
猪谷千春氏、スキー回転で銀メダル獲得(冬季大会で日本人初のメダリストとなる)

1959
昭和34
1964年東京オリンピック開催決定

1960
昭和35
ローマオリンピック開催(夏季)
スコーバレーオリンピック開催(冬季)

ローマで第9回国際ストーク・マンデビル競技大会が開催
(のちに、第1回パラリンピックとして位置づけられる)

1964
昭和39
東京オリンピック・パラリンピック開催(夏季)
円谷幸吉氏、男子マラソンで銅メダル獲得
インスブルックオリンピック開催(冬季)

  • 1964東海道新幹線が開業
1968
昭和43
メキシコオリンピック開催(夏季)
テルアビブパラリンピック開催(夏季)
グルノーブルオリンピック開催(冬季)

1969
昭和44
日本陸上競技連盟の青木半治理事長が、日本体育協会の専務理事、日本オリンピック委員会(JOC)の委員長に就任

  • 1969アポロ11号が人類初の月面有人着陸
1972
昭和47
ミュンヘンオリンピック開催(夏季)
ハイデルベルクパラリンピック開催(夏季)
札幌オリンピック開催(冬季)

  • 1974室伏 広治氏、静岡県に生まれる
  • 1973オイルショックが始まる
1976
昭和51
モントリオールオリンピック開催(夏季)
トロントパラリンピック開催(夏季)
インスブルックオリンピック開催(冬季)
 
  • 1976ロッキード事件が表面化
1978
昭和53
8カ国陸上(アメリカ・ソ連・西ドイツ・イギリス・フランス・イタリア・ポーランド・日本)開催  
 
  • 1978日中平和友好条約を調印
1980
昭和55
モスクワオリンピック開催(夏季)、日本はボイコット
アーネムパラリンピック開催(夏季)
レークプラシッドオリンピック開催(冬季)
ヤイロパラリンピック開催(冬季) 冬季大会への日本人初参加

  • 1982東北、上越新幹線が開業
1984
昭和59
ロサンゼルスオリンピック開催(夏季)
ニューヨーク/ストーク・マンデビルパラリンピック開催(夏季)
サラエボオリンピック開催(冬季)
インスブルックパラリンピック開催(冬季)

1988
昭和63
ソウルオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
鈴木大地 競泳金メダル獲得
カルガリーオリンピック開催(冬季)
インスブルックパラリンピック開催(冬季)

1992
平成4
バルセロナオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
有森裕子氏、女子マラソンにて日本女子陸上選手64年ぶりの銀メダル獲得
アルベールビルオリンピック開催(冬季)
ティーユ/アルベールビルパラリンピック開催(冬季)

1994
平成6
リレハンメルオリンピック・パラリンピック開催(冬季)

  • 1995阪神・淡路大震災が発生
1996
平成8
アトランタオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
有森裕子氏、女子マラソンにて銅メダル獲得

  • 1997室伏広治氏、ミズノ株式会社に入社
  • 1997香港が中国に返還される
1998
平成10
長野オリンピック・パラリンピック開催(冬季)

  • 1998室伏 広治氏、バンコック・アジア大会にて金メダル獲得。大会新記録を樹立
2000
平成12
シドニーオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
高橋尚子氏、女子マラソンにて金メダル獲得

  • 2000室伏広治氏、シドニーオリンピック出場
  • 2001室伏広治氏、第8回エドモントン世界選手権大会にて銀メダル獲得
2002
平成14
ソルトレークシティオリンピック・パラリンピック開催(冬季)

  • 2002室伏 広治氏、釜山・アジア大会にて金メダル獲得。大会新記録を樹立
2004
平成16
アテネオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
野口みずき氏、女子マラソンにて金メダル獲得

  • 2004室伏広治氏、アテネオリンピックにて初の金メダル獲得
2006
平成18
トリノオリンピック・パラリンピック開催(冬季)

2007
平成19
第1回東京マラソン開催

2008
平成20
北京オリンピック・パラリンピック開催(夏季)
男子4×100mリレーで日本(塚原直貴氏、末續慎吾氏、高平慎士氏、朝原宣治氏)が3位となり、男子トラック種目初のオリンピック銅メダル獲得

  • 2008室伏広治氏、北京オリンピック出場
  • 2008リーマンショックが起こる
2010
平成22
バンクーバーオリンピック・パラリンピック開催(冬季)

  • 2011東日本大震災が発生
2012
平成24
ロンドンオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
2020年に東京オリンピック・パラリンピック開催決定

  • 2012室伏広治氏、ロンドンオリンピックにて銅メダル獲得
2013
平成25
2020年に東京オリンピック・パラリンピック開催決定

2014
平成26
ソチオリンピック・パラリンピック開催(冬季)

  • 2014室伏 広治氏、日本陸上選手権大会にて前人未到の20連覇を達成
2016
平成28
リオデジャネイロオリンピック・パラリンピック開催(夏季)

  • 2016室伏広治氏、東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会 スポーツ局長兼スポーツディレクターに就任
2018
平成30
平昌オリンピック・パラリンピック開催(冬季)

2020
令和2
新型コロナウイルス感染症の世界的流行により、東京オリンピック・パラリンピックの開催が2021年に延期

  • 2020室伏広治氏、スポーツ庁長官に就任
    室伏広治氏、東京医科歯科大学特命教授に就任
2021
令和3
東京オリンピック・パラリンピック開催(夏季)