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「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。

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日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。

2020年東京オリンピック・パラリンピック競技大会
第106回
人間形成と社会貢献のツールとなるスポーツに

山下 泰裕

日本を代表する世界的な柔道家として知られる山下泰裕氏。全日本選手権に9年連続優勝し、世界選手権は 95kg級および無差別級あわせて4度の世界一に輝きました。また、1984年ロサンゼルスオリンピックでは 2 回戦で右足を負傷しながらも勝ち進み、金メダルを獲得。多くの日本国民に感動をもたらしました。同年にはアマチュアスポーツ界初めてとなる国民栄誉賞を受賞。

翌1985年に現役を引退後は、母校の東海大学で指導する傍ら、1996年アトランタオリンピック、2000年シドニーオリンピック柔道男子日本代表監督を務めるなど、日本柔道界の発展に寄与。また、JOC(日本オリンピック委員会)選手強化本部長、常務理事などを歴任し、2019年からは会長を務めています。

東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会副会長も務めた山下氏に、コロナ禍での開催の意義や今後のスポーツ界の展望についてうかがいました。

聞き手/佐野慎輔  文/斉藤寿子  写真/フォート・キシモト 取材日/2021年10月8日

国民やアスリートの気持ちを表していた閉会式の"ARIGATO"
※"ARIGATO":東京2020オリンピック大会、パラリンピック大会の閉会式で電光掲示板に映し出された言葉

―― 2021年に開催された東京オリンピック・パラリンピックは、新型コロナウイルス感染症のパンデミックという厳しい状況の中での大会でした。「中止」や「延期」の声も根強くあったなか、無事に終えた今、振り返ってみていかがでしたか。

新型コロナウイルス感染拡大の影響を受け、2020年3月24日に東京オリンピック・パラリンピックの1年延期が決定して以来、私はずっと「無事に東京オリンピック・パラリンピックの開会式を迎えた際には、きっと感動で涙が止まらないだろうな」と思っていました。ところが、実際は違いました。というのも無観客開催でしたから、「開催できて良かった」と思うと同時に、心のどこかで虚しい、寂しい気持ちがありました。それは東京オリンピックが始まり、東京パラリンピックが終わるまで、ずっと続きました。

 
1984年ロサンゼルスオリンピック柔道無差別級金メダル

1984年ロサンゼルスオリンピック柔道無差別級金メダル

―― 山下会長ご自身、1984年ロサンゼルスオリンピックではあふれんばかりの観客が詰めかけた会場で金メダルに輝きました。そしてその山下会長の勇姿を見て、後輩や子どもたちが憧れ、後に続いたわけです。そうした本来あるべき姿が、今回の東京オリンピック・パラリンピックでは見ることができなかったのは、非常に残念でした。

今回は、新型コロナウイルス感染症の収束の見通しが立っていない中での開催でしたので、無観客以外の方法はなかったと思います。もし私見を述べさせてもらえるのであれば、せめてパラリンピックだけでも安全を十分に確認した上で学校連携観戦プログラムを完全な形で実施し、子どもたちにパラリンピックの会場に足を運んでもらいたかったなとは思いましたが……。とはいえ、大会全体については無観客以外の方法はなかった。ただ頭では理解できても、やはり心のどこかで虚しさや寂しさを感じずにはいられなかったというのが、私の偽らざる気持ちでした。

本来は、東京オリンピック・パラリンピックは、世界中の多くの人たちに日本人や日本の文化に触れていただき、日本に魅力や親しみを感じていただける絶好のチャンスでもありました。また、日本人にとっても多種多様な世界を知ることができる絶好のチャンスになるはずでした。全国の地方自治体が「ホストタウン」として登録し、各国・地域のオリンピック・パラリンピック競技団体の事前キャンプを行う目的もそうでした。単に選手たちのトレーニングのサポートだけでなく、事前キャンプで訪れる海外選手と、その地域の人たちが交流できる場を準備していたんです。

そうしたお互いに触れ合える、知り合える絶好の機会を逃してしまいました。さらに、2011年の東日本大震災から復興した姿を世界の人たちに見ていただき、支援していただいた感謝の気持ちを表すという点においても、本来はもっとできたはずなんです。それ以外にも、東京オリンピック・パラリンピックの開催に向けて準備をしてきたにもかかわらず、やり遂げることができなかったことがたくさんあります。そうしたことを考えますと、どうしても「開催できて良かった」というだけでないなと感じてしまいます。

その一方で、東京オリンピック・パラリンピックを開催したことについて、世界からは感謝されていることに関しては、本当に良かったと思っています。来日した海外のアスリートや関係者にとっては行動範囲が限られるなど制限も多く、非常に窮屈な思いをされたと思います。気分転換をすることもままならず、もしかしたら競技においても十分な調整ができなかったかもしれません。そうした状態について、私がお詫びの言葉を申し上げると、IOC(国際オリンピック委員会)のトーマス・バッハ会長をはじめ、海外の関係者はみんな口をそろえて「山下さん、何をおっしゃいますか。このような厳しい状況の中で、日本が開催に尽力してくれたことについて、私たちは感謝の気持ちしかありません。だからそんなことを思う必要は全くありませんよ」と言ってくれました。

―― 新型コロナウイルス感染症の防止対策として、アスリートは選手村と競技会場以外は原則として外出ができないなど制限が多く、また無観客という異例の状態での大会だったにもかかわらず、アスリートたちが素晴らしいパフォーマンスを見せてくれました。そのアスリートたちから「感謝」の言葉が聞かれ、東京オリンピック・パラリンピックの閉会式では、最後に「ARIGATO」という文字が電光掲示板に映し出されました。逆にアスリートたちに対して感謝の思いをもたれた方もたくさんいらっしゃったと思います。感謝はまた大会開催に尽力した方々たちに向けた言葉でもありました。

東京パラリンピックの閉会式では、IPC(国際パラリンピック委員会)のアンドリュー・パーソンズ会長が、日本語で「ありがとう東京!ありがとうジャパン!」と言ってくれましたが、海外の人たちの気持ちはその言葉に集約されていたように思います。思えば、東京オリンピック・パラリンピックの開幕前は、「本当に開催できるのか」「こんな時に開催していいのか」という疑問の声や反対の意見がたくさんありました。また、開催することによって新型コロナウイルス感染症が拡大するのでないかという不安もありました。そうした中、安心・安全な大会を開催できたことについて、海外からは高く評価していただいています。また(共同通信のアンケート調査では)開催後、日本人の約7割の人が、「開催して良かった」としています。オリンピック・パラリンピックの歴史的見地からしても、東京大会は非常に意義のある大会として語り継がれていくと思います。また私が嬉しかったのは、試合で成績を上げる上げないにかかわらず、選手たちがインタビューで必ずと言っていいほど、まず最初に開催してくれことについての感謝の気持ちを述べていたことでした。選手たちもコロナ禍で「果たして練習なんかしていていいのだろうか」とうしろめたさを感じていたでしょうし、他国の選手たちの動向がわからない中での不安もあったと思います。そうした苦しい状況の中で、自分がスポーツをする意味や価値を自分自身に問う日々を過ごしてきたからこそ、インタビューではまず最初に感謝の言葉が出てきたのではないかと思います。

 
2020年東京オリンピック閉会式

2020年東京オリンピック閉会式

―― 山下会長は、2017年からJOC選手強化本部長を務めるなど選手たちと直接触れ合う機会も多く、オリンピックの意義やスポーツ選手としての価値について話をしたこともあったかと思います。その山下会長だからこそ、余計に東京オリンピック・パラリンピックでの選手たちの活躍は素晴らしかったという思いが強かったのではないでしょうか。

よくこの厳しい状況の中で頑張ってトレーニングをして、本番では素晴らしいパフォーマンスを見せてくれたなと思います。開催まで苦労も多かったでしょうし、自問自答を繰り返す日々だったことでしょう。そうした中で、選手たちは人間的に大きく成長してくれたんだな、ということを感じた大会でもありました。また、こうしたアスリートたちの活躍が、組織委員会の人たちにとっても、大きなエネルギーとなったようで嬉しかったですね。

東京オリンピック後、ある組織委員会の人にこう言われました。「山下さん、日本の選手たちが活躍してくれて、私たちは本当に報われました」と。東京オリンピックが開幕するまで、組織委員会への世間やマスコミからの風当たりは非常に厳しかったですからね。「組織委員会で働いています」と堂々と言うことさえ憚れました。そんな中でも寝る間も惜しんで開催実現に向けて奔走されてきたわけです。そんな人たちが、東京オリンピック・パラリンピックの日本選手団の活躍によって、本当に明るい表情をされていたのが印象的でした。ボランティアの方々も本当によく頑張ってくれました。ほとんど誰とも触れ合うことなく、猛暑の中を立って案内役をしてくれた人だっていました。そんなふうに大変な思いをしながらも、真摯に対応し、マスクの下からのぞかせてくれた笑顔に、海外のアスリートたちが「日本のホスピタリティに救われた」と言ってくれました。そんなふうに大変な思いをしたボランティアの人たちの約8割が、嬉しいことに「チャンスがあったら、またやりたい」とアンケートで答えてくれているんです。

コロナ禍で浮彫となった「スポーツ成熟度」の低さ
※スポーツ成熟度:成熟度とはものごとの成長や完成の度合いのこと。スポーツで言えば、競技結果だけでなく、精神的な成長、長寿社会の実現、世界平和などスポーツの果す幅広い役割が理解されていれば成熟度が高いことになる。

―― 開催する前は、東京オリンピック・パラリンピックについて世間からは非常に厳しい目を向けられていました。新型コロナウイルスという未知の敵と闘いながら命を守らなければいけないわけですから、それは当然だったと思いますし、山下会長も一人の国民としてそうした不安な気持ちは理解されていたと思います。東京オリンピック・パラリンピック開催を推進する立場との狭間にいた山下会長もまた、苦しい思いがあったのではないでしょうか。

とにかく新型コロナウイルス感染症の収束の見通しが立たず、先が読みづらかったというのが、何よりも大きな問題でした。ですから東京オリンピック・パラリンピックの開催にあたっては、IOC、組織委員会、日本政府、東京都、JOC、JPC(日本パラリンピック委員会)、さらにはWHO(世界保健機関)も含めて議論を重ね、さまざまなケースを考慮しながらの対策が練られていました。当然、そこではフルに観客を入れたケースも、無観客のケースも想定に入っていたんです。しかし、いくら対策を練ったところで、全く先が読めない中では、口では「安心・安全」と言いながらも、具体的に目に見える形でそれを国民の皆さんに提示することが非常に難しかった。ですから国民の皆さんが、自分たちの命や生活を無視して、強引に東京オリンピック・パラリンピックの開催を推し進めようとしているのではないかと疑心暗鬼になったのは無理もなかったと思います。私たちとしては、これまでの海外での事例を検証したうえで、日本国民を犠牲にすることなく開催できると考えていました。それでも具体的なことを示すことができず、国民の皆さんを不安にさせてしまったことは、私自身、大きな反省点でもあり、悔いが残っている点です。

山下 泰裕氏(当日のインタビュー風景)

山下 泰裕氏(当日のインタビュー風景)

―― コロナ禍でもなお、東京オリンピック・パラリンピックを開催する意義が問われていた中で、組織委員会や政府ばかりが矢面に立ち、開催国のトップ組織であるJOCの顔は、国民からはなかなか見えていなかったように思います。

私は、JOCの最大の役割は、日本代表選手たちが東京オリンピックに向けてしっかりとやるべきことをやり遂げ、本番では自分らしく生き生きと輝き、最高のパフォーマンスを発揮できる環境を、組織委員会や各NF(国内競技連盟)などと連携を図りながら整えることだと思っていました。そしてIOCのバッハ会長からも、口を開くたびに言われていたのは「開催国である日本の活躍なくして成功はありませんよ」ということでしたから、開幕前に掲げた「金メダル30個」という目標に向かって、東京オリンピックで選手たちが生き生きと輝くための準備を着々と進めることに注力していたんです。

ですから、日本国民の皆さんに対してJOC会長の私が表舞台に立って目立つ必要は全くなかったと思っています。ただ、東京オリンピック・パラリンピックを開催する意義について、「オリンピズム」(スポーツを通じて調和のとれた人間を育成し、異なる文化を理解するとともに相互理解を深めることによって、平和な社会の創造に寄与するというオリンピックに求められる思想)をもっと国民に説明する努力は必要だったと反省しています。

柔道ルネッサンスの活動。中国・青島での少年指導

柔道ルネッサンスの活動。中国・青島での少年指導

コロナ禍で、日本ではスポーツは「不要不急」の一つだと言われました。これは、欧米とは全く真逆の考え方です。欧米では、コロナ禍での重要事項は「十分な感染予防対策をとること」と「心身の健康を自ら守る」ことだと言われています。つまり、自らの心と体の健康を守るために、コロナ禍でスポーツはより一層重要視されたわけです。スポーツをすることは人間の権利であり、自分らしく生きることであると同時に、心と体を健康に保つために不可欠なことなんです。日本ではスポーツというと競技スポーツのことだと考えられる傾向にあり、有事の時には「不要不急」になってしまう。しかし、本来はそうではなく、スポーツは人々の健康を保つためのツールです。
また、スポーツは人と人とを結ぶ非常に有効なツールでもあります。ですからパンデミックによって社会が分断されつつある今、スポーツを通じて、あるいはオリンピック・パラリンピックを通じて、世界の人々をつなげる。こうした勝ち負けだけではない、メダル数だけではないオリンピック・パラリンピックの意義を、今後はもっと広く伝えなければいけません。たとえ国や政府が、オリンピック・パラリンピックをボイコットしようとしても、国民の方から「我々や子どもたちからスポーツの権利を奪ってはならない」と声をあげ、開催を後押ししてもらえるくらいに理解を深めていきたい。今回のコロナ禍ではそういう状況にならなかったのは、日本スポーツ界の努力不足だと反省しています。その理由の一つには、日本だけではなくアジアや旧ソ連の国々が、いまだに結果ばかりを重視していて、欧米のような「スポーツ成熟国」とはなっていないことが挙げられます。今回の東京オリンピック・パラリンピックで日本はメダルの総数では第3位になりましたが、スポーツが子どもから大人まで人々の生活にとって不可欠な存在であるかどうかという「スポーツ成熟度」で見ると、まだまだ下位の方にあります。日本柔道界では、2001年に講道館と全日本柔道連盟(以下、全柔連)との合同プロジェクトとして「柔道ルネッサンス運動」を立ち上げました。勝利至上主義に偏り過ぎてしまった日本柔道界を見直し、嘉納治五郎先生が目指した柔道本来の「柔道を通した人間教育」という原点に立ち返ろうというものです。今後はこれをさらに推し進め、ゆくゆくは柔道界に限らず、日本スポーツ界全体にいきわたらせることが私の使命であると考えています。

※スポーツ成熟国:明確な基準はないが、スポーツが文化として定着しているかどうかなどが一つの基準となる。

若い世代が企画・提案した「JOC Vision 2064」の価値

山下泰裕氏と握手を交わす松前重義氏(中央)

山下泰裕氏と握手を交わす松前重義氏(中央)

―― 「柔道を通した人間教育」という点では、山下会長にとっては母校でもある東海大学の創設者、松前重義先生の存在がベースにあるのではないでしょうか。

松前先生は同じ熊本県出身で、私の祖父とは同い年ですが、柔道をこよなく愛していらっしゃった方でした。私のことも孫のようにかわいがってくださいまして、いろいろな経験を積ませてくれました。松前先生も「柔道の技術は教えていないが、山下という一人の人間を育てたのは自分だ」と考えられていたと思います。

 

松前先生が亡くなる前、私は入院先の病院にお見舞いに行ったのですが、その時に先生はこう言われたんです。「山下くん、私は今まで君のことを一生懸命に応援してきた。なぜ応援してきたか、わかるか?」と。私は心の中で「柔道を頑張ってほしかったからじゃないかな」とは思いましたが、「それだけじゃないかもしれない」と思って、なかなか答えられずにいたんです。
そしたら先生は「もちろん、柔道で勝ってほしいと思っていた。しかし、それだけじゃないぞ。君には柔道を通して世界との友好親善を深めてほしい。そして、君にはスポーツを通して、世界平和に貢献できる人間になってほしい。私は、そういう思いで君を応援してきたんだ」と言われました。それが、先生からの最後の言葉でした。
当時の私にとっては、非常に重い言葉でした。もちろん、柔道を通して世界と友好親善を深めるということに関しては当然のことと認識していましたが、世界平和ともなると、30代の私にとっては「自分に何ができるんだろう」と頭を悩ませるものでした。ゆくゆく理解していくわけですが、答えは松前先生の訓えにありました。

 
プーチンロシア大統領と山下氏

プーチンロシア大統領と山下氏

―― 世界平和への貢献という面では、「日露賢人会議」への参画など広くウイングを広げられています。柔道をきっかけに多くの人々と出会い、また柔道を見つめ直す活動にもつながっていますね。

私が2004年から2007年まで国際柔道連盟の教育・コーチング理事として活動していくなかで、トヨタ自動車の奥田碩会長(当時)との出会いがありました。2003年に小泉純一郎首相(当時)と、ロシアのプーチン・ウラジーミル大統領が首脳会談を開いた際に、「日露賢人会議」 の開催が決定し、2004年4月に開かれました。その会議に日本経済団体連合会会長を務めていた奥田さんも出席されていたんです。奥田さんも柔道家ですから、その場ですぐに打ち解けまして、その後、交流が始まりました。

 

その奥田さんから、ある時こう言われたことがありました。「山下さん、あなたは本当に素晴らしいことをされていますね。でも、あなたの時間も限られているわけですから、組織をつくられたらどうですか?広く浅く、多くの人に協力してもらえれば、あなたが限られたエネルギーと時間を、資金集めにではなく、良いことをすることに使えるはずです。そのためなら私の名前をいくら使ってもらってもかまいませんよ」と。

奥田碩氏と山下泰裕氏の共著の表紙

奥田碩氏と山下泰裕氏の共著の表紙

それで2006年に立ち上げたのが、「日本の心、柔道を世界へ伝える」という理念のもと、国際貢献活動をする特定非営利活動法人(NPO)「柔道教育ソリダリティー」でした。自分でNPOを立ち上げるなんてことは思ってもいませんでしたが、今振り返ると、これも松前先生の訓えによって、ちゃんと扉が開かれていたような気がします。ただ、残念ながら「柔道教育ソリダリティー」は、2019年3月末で解散しました。実は、最後の2年間は私にとっても大きな重荷となっていたんです。というのも、2017年にはJOC常務理事、全柔連会長に就任しましたので、来る東京オリンピック・パラリンピックで結果を出さなければいけないという重圧が一気にのしかかっていたんです。そうすると、私の体は一つしかありませんので、東京オリンピック・パラリンピックの方の比重が高くなり、「柔道教育ソリダリティー」の方では何もできていない状態でした。「山下泰裕」という名前のもとに皆さんが資金を提供してくださっていたにもかかわらず、自分自身が何も役割を果たしていないということに、ひどく悩んでいました。周囲は「あなたが多忙を極めているのは、みんなわかっていて協力してくれているのだから、そんなことを気にする必要はないですよ」と言ってくれました。とはいえ、やはり私自身がやるからこそ、それに共感をしてくださって支援しようとしてくださった方々はたくさんいらっしゃったと思うんです。なのに、そこに全く関わることができないというのは、本当に申し訳ない気持ちでした。それで責務を全うできないのならと、閉めることにしたんです。

そうしたところ、解散が決まった後、井上康生(同じ東海大学出身の柔道家。2000年シドニーオリンピック柔道100キロ級金メダリスト。2013年には国際柔道連盟の殿堂入りを果たした。2012年ロンドンオリンピック後、全日本男子柔道監督に就任。2021年9月に代表監督を退任し、現在は全柔連強化委員会副委員長を務める)がこう言ってきてくれたんです。「山下先生、2019年3月をもってNPO法人を閉めるとうかがいました。私が先生の志を受け継ぎ、自分の後援会での活動を継承する形でNPO法人を立ち上げようと思っていますが、いかがでしょうか」と。その時は、嬉しくて涙が出ました。現在は井上康生が理事長を務めるNPO法人「JUDOs」で、柔道を通じた国際交流、支援活動が行われています。

※日露賢人会議:2003年に当時の小泉政権とロシア側が合意した日ロ行動計画に基づき、北方領土問題の解決に向けた環境整備を図るなど大所高所から日露の融和を図りつつ意見を交わすことを目的として設立された会議。座長は、日本側は森元首相、ロシア側はルシコフ・モスクワ市長が務めた。2007年からは日露フォーラムに合流された。

―― 一方、JOCでは2021年8月に「JOC Vision 2064」を策定しました。これはスポーツを通じて心身を向上させ、異なる文化や国籍を超えて人々がつながりあうことで、平和でより良い世界をつくる、という「オリンピズム」の思想を広げ、1964年東京オリンピックの開催からちょうど100年後の2064年に向けて実現しようというものですが、山下会長の強い意向が働いたのでしょうか。

実はこれは、JOCの事務局の若い世代が原案をつくったもので、私はそこに大きな価値があると思っています。私は2019年6月27日にJOC会長に就任しましたが、JOC事務局の全スタッフの前で就任あいさつをした際、こう言いました。「JOCの中心は、プロパーとして働く皆さんです。その皆さんが、どこに行っても誰の前でも"私はJOCで働いています!"と胸を張って堂々と大きな声で言える組織にしたいと思っています。と同時に、理事会で決まったことをやるのではなく、プロパーである皆さんが中心となって、企画・立案していくというような組織にしたいと思っています。そして近い将来、私はJOCの事務局を本部にしたいと考えています」と。実際翌年には、まだ東京オリンピック・パラリンピックの1年延期が決定する前ですが、「東京オリンピック・パラリンピックを間近で見た子どもたちが社会を動かす大人になった時には、スポーツが社会に大きく影響を与えるものにしたい。そのために今、何ができるかを考えてほしい」ということで、意欲のある若い世代に任せたところ、1年以上の議論の末にあがってきた原案が「JOC Vision 2064」でした。これをまずはJOC事務局の執行部で議論し、そこで承認された後にJOCの常務理事会でも議論しました。実はすでに2021年6月には形になっていたのですが、すぐに東京オリンピックでしたので、同年8月18日の発表になりました。ですから、「JOC Vision 2064」は決して会長である私だけの思いではなく、若い世代の思いであり、またさまざまな人たちから承認されたものなんです。特に若い世代が、スポーツやJOCのあるべき姿はどういうものなのか、その実現のためにやるべきことは何なのかを、多くの時間をかけて真剣に考えてたどり着いたものだからこそ、これは非常に価値のあるものだと思っています。

※本部:事務的な処理を中心行う事務局に対し、計画の立案、実施など、目的の達成に向かって積極敵に任務を遂行する組織のこと。

身近で見てきたバッハ会長と森前会長の真の姿

森喜朗前組織会長(左)と山下氏

森喜朗前組織会長(左)と山下氏

―― 山下会長は大学や全柔連、JOCなど、常に組織のトップとしてご活躍されてきました。理想とするリーダー像は、どんな方なのでしょうか。

今回の東京オリンピック・パラリンピック開催にあたって尽力された、前組織委員会会長の森喜朗氏とIOCのバッハ会長のお二人には、非常に敬意を抱いています。お二人は世間からの風当たりは非常に強かったですが、身近で見てきた私からすれば、第一に己を見ることはなく、多くの人々のことを優先にして物事を考えられている方たちです。私などは、お二人にはまだまだ遠く及びません。

 

それこそ森前会長は、招致活動の時から自らの命を削りながら東京オリンピック・パラリンピックの開催に向けてご尽力されていました。もちろん、女性蔑視ともとられかねない発言は、許されるものではありませんでした。しかし、森前会長が自らを犠牲にしてきた姿を見てきた私としては、今も尊敬の念を抱いています。
また、バッハ会長は、考えられないくらいタイトなスケジュールで動いています。そして、どんなに忙しくても現場に足を運び、直接アスリートと触れ合う時間を大事にしているんです。昨年11月に東京オリンピック・パラリンピックの選手村と新国立競技場の視察に来日した際も、非常にタイトなスケジュールでした。ところが、それでも日本の選手たちと直接意見交換をする場を設けたいと言ってくださいました。私が体を心配して「スケジュール的に厳しいのではないでしょうか」と申し上げたところ、バッハ会長は「いやいや若い選手たちと触れ合うと、逆に私がエネルギーをもらえるんだよ。だから疲れなんて感じていないから、心配しないでください」と言われました。今回の東京オリンピック開幕直前に行われた各国選手団団長の会議にも出席されたのですが、会議後には出発時間までに20~30分あるからと言って、選手村の食堂に行かれたんです。食堂の前で選手たちに声をかけては、直接アスリートの意見や思いを聞かれていました。また気遣いの人でもあって、今回の東京オリンピック・パラリンピックでは、会場に到着後、最初に必ずボランティアの方々に労いの言葉をかけられていました。それこそバッハ会長にお付きのボランティアの方は、会長の優しさに、最後は感激のあまり涙を流していたくらいでした。

 
トーマス・バッハIOC会長(左)と山下氏

トーマス・バッハIOC会長(左)と山下氏

―― 今後は、日本スポーツ界をけん引するリーダーや、技術指導に限らず、選手たちの人間形成に携わる指導者の育成も重要な課題の一つとなっています。

正直に申し上げますと、私と同世代よりも上の世代の方たちの多くは、将来を見据えてというところにまでは目を向けられていなかった方も多かったと思います。しかし、私よりも若い世代の人たちは違います。そういうところにも、ちゃんと目を向けていますので、今後は課題解決に向けて少しずつ進んでいくはずです。指導者の重要性は、世界に目を向けても明らかです。功績を挙げたアスリートの多くが、すばらしい指導者たちの支援を受けています。

 

そして、それを今度は自分が、次の世代や子どもたち、あるいは障がいがあるなどの社会的に弱い立場の人たちの支えになろうという意識を持っています。そういうなかで、どのスポーツ界でも今は日本人選手がどんどん海外に進出する時代になりましたので、海外のアスリートから大きく影響を受け、「スポーツ選手としての責務」というものを考え、そして素早く実行に移すという日本人選手たちが増えてきています。ですから、私たちの世代は先頭に立つというよりは、若い人たちがやろうとしていることを実行できるように、ちょっと手を差しのべる、あるいは後ろから支えてあげるということが重要だと思います。あとは若い世代に任せて大丈夫です。

共生社会実現に向けたスポーツとアスリートのあり方

オリンピック・パラリンピック同時に発表された日本代表選手団公式服装

オリンピック・パラリンピック同時に発表された日本代表選手団公式服装

―― 今回、オリンピックとパラリンピックが一体化して開催されたことは今後の日本のスポーツ界を考えるにつけても重要なことだと思います。

私は、JOCの選手強化本部長時代から「オリンピックで得た知識や経験は、少なからずパラリンピックにも役立つのだから」ということをことあるごとにJOCの事務局のスタッフに言っていました。JOCに関連した講演会やイベントには、パラリンピックの選手や関係者をお招きしたり、JOCが得た情報をJPCにも共有したりしていたんです。しかし、しばらくして私の方から言うのはやめました。なぜなら、事務局側が率先してパラリンピックと一体化させようと動いてくれるようになったからです。

今回の東京オリンピック・パラリンピックでは初めて、開会式で日本選手団が着用する公式服装についても、JOCが決めたものをJPCが採用するのではなく、JOCとJPCとで一緒に話し合いましょう、ということを事務局が提案してくれたんです。それで、実は最初のデザインは赤のブレザーに、白っぽいクリーム色のパンツとスカートでした。しかし、パラリンピックの選手の中には車いすユーザーがいて、その人たちは下が白だと汚れやすいということを聞いたんです。それで全員一致で「それでは、上をクリーム色、下を赤色にしましょう」ということになりました。これからはJOCも、オリンピックのことだけを考えるのではなく、また、スポーツ界の発展だけを考えるのではなく、自分たちがスポーツを通してどのように社会に貢献できるのか考える、そういう組織を目指していきたいと思っています。

―― アメリカでは2019年6月に、世界で初めてオリンピックとパラリンピックの組織を一体化させたUSOPC(アメリカオリンピック・パラリンピック委員会)を立ち上げました。日本も、JOCを本部とするならば、オリンピック・パラリンピックを一体化させた組織を発足させるというのはいかがでしょうか。

私は、急いでJOCとJPCを合併するようなことはしなくてよいと考えています。これまで全く別の組織として活動していて、あまり交流もありませんでした。しかし、それが今は少しずつ交流が図られてきたわけですので、こうした連携を図って協力関係をさらに深めていくことの方が重要だと思います。これはJOCとJSPO(日本スポーツ協会)も同じです。これからはさまざまな組織が協力していくことは重要になりますが、急な合併は弊害が出てきます。お互いに協力し合えるところは協力し合って、もっと親密な関係になったなかで自然と「では、一緒になりましょうか」という話であれば合併も良いと思いますが、無理をして急ぐ必要はありません。

山下 泰裕氏(当日のインタビュー風景)

山下 泰裕氏(当日のインタビュー風景)

―― 今回の東京オリンピック・パラリンピックを開催したことによって、どんなレガシーが残ったとお思いですか。

2013年9月7日に東京オリンピック・パラリンピック開催が決定した当時、私はJOCの理事でしたが、その時から「この50年に一度の国家プロジェクトを、たった一発の打ち上げ花火にしてはいけない」というふうに思っていました。もちろん花火は華やかで美しい。私も大好きです。しかし、打ち上げた後には跡形もなく消えてしまうということではいけないと。社会や世界に貢献できる何かを残せる大会にしなければいけない、と考えていました。

 

そうした中、さまざまなプロジェクトが進められてきましたが、新型コロナウイルス感染拡大という予想もしなかった事態に陥ったことで、実現できなかったことがたくさんありました。それでも一つ言えるのは「あらゆる差別のない社会をつくる」という点においては、東京オリンピック・パラリンピック開催が大きなきっかけとなったことは間違いありません。JOCとしても、これから確実に大きく踏み出していく素地ができました。JOCは今、もっと女性が輝くことができ、障がいの有無に関係なくすべての人に開かれた日本スポーツ界の実現に向けて舵を切り、進み始めています。もちろんJOCが変わるだけでは何もなりません。JSPOやNF、地方自治体のスポーツ団体も、変わっていかなければいけません。日本社会が目指す「共生社会」を、スポーツ界が率先して実行に移していく。そんな日本スポーツ界にしていきたいと思います。

 
中学・高校時代の恩師白石礼介先生

中学・高校時代の恩師白石礼介先生

―― 今後、後世に残したいことは何でしょうか。

多くの国民が、心身ともに生き生きと健康でいられる社会。お互いを思いやり、支え合い、人とのつながりを感じることのできる社会。ちょっとした失敗や挫折が大きな傷になるのではなく、そこから何度でも立ち上がることのできる環境の中で、大きな夢や目標を持って人生を歩むことができる社会。こういう社会の実現に向けて、スポーツやアスリートが貢献できるようにしたいと思っています。私見を述べさせていただければ、JOC会長としても、オリンピックで勝った負けた、メダルを何個獲得した、ということ以上に重要なことだと考えています。

熊本の中学、高校時代の恩師である白石礼介先生が、私たちに繰り返し言われたのは「道場と日常生活、道場と人生は、つながっている。だからみんなが道場で重んじていることを、日常生活や人生でも大事にしなさい。そうすれば、この中からたとえ一人も柔道のチャンピオンが出なくても、人生の勝利者にはみんながなれるんだよ。道場ではしっかりとできている挨拶を、学校や家でも同じようにできていますか?道場では失敗してもみんな協力し合って本当に努力しているよね。それは、人生でも同じなんだよ」ということでした。だから私自身も、選手たちには「スポーツを頑張ることは大事だけれど、むしろそれ以外のところで努力することこそ、スポーツをする者として大事だよ」ということを伝えてきました。そういう意識をもった選手たちが増え、社会に貢献していってくれることを何よりも願わずにはいられません。もちろん、2024年パリオリンピックに向けても妥協はしません。今回の東京オリンピック・パラリンピックに負けないくらい、選手たちが自分らしく生き生きとした姿でパフォーマンスを発揮し、世界の人々にたくさんの感動と勇気を感じてもらえることを願っています。

  • 山下 泰裕氏 略歴
  • 世相

1912
明治45

ストックホルムオリンピック開催(夏季)
日本から金栗四三氏が男子マラソン、三島弥彦氏が男子100m、200mに初参加

1916
大正5

第一次世界大戦でオリンピック中止

1920
大正9

アントワープオリンピック開催(夏季)
熊谷一弥氏、テニスのシングルスで銀メダル、熊谷一弥氏、柏尾誠一郎氏、テニスのダブルスで 銀メダルを獲得

1924
大正13
パリオリンピック開催(夏季)
織田幹雄氏、男子三段跳で全競技を通じて日本人初の入賞となる6位となる
内藤克俊氏、レスリングで銅メダル獲得
1928
昭和3
アムステルダムオリンピック開催(夏季)
日本女子初参加
織田幹雄氏、男子三段跳で全競技を通じて日本人初の金メダルを獲得
人見絹枝氏、女子800mで全競技を通じて日本人女子初の銀メダルを獲得
サンモリッツオリンピック開催(冬季)
1932
昭和7
ロサンゼルスオリンピック開催(夏季)
南部忠平氏、男子三段跳で世界新記録を樹立し、金メダル獲得
レークプラシッドオリンピック開催(冬季)
1936
昭和11
ベルリンオリンピック開催(夏季)
田島直人氏、男子三段跳で世界新記録を樹立し、金メダル獲得
織田幹雄氏、南部忠平氏に続く日本人選手の同種目3連覇となる
ガルミッシュ・パルテンキルヘンオリンピック開催(冬季)

1940
昭和15
第二次世界大戦でオリンピック中止

1944
昭和19
第二次世界大戦でオリンピック中止

  • 1945第二次世界大戦が終戦
  • 1947日本国憲法が施行
1948
昭和23
ロンドンオリンピック開催(夏季)*日本は敗戦により不参加
サンモリッツオリンピック開催(冬季)

  • 1950朝鮮戦争が勃発
  • 1951日米安全保障条約を締結
1952
昭和27
ヘルシンキオリンピック開催(夏季)
オスロオリンピック開催(冬季)

  • 1955日本の高度経済成長の開始
1956
昭和31
メルボルンオリンピック開催(夏季)
コルチナ・ダンペッツォオリンピック開催(冬季)
猪谷千春氏、スキー回転で銀メダル獲得(冬季大会で日本人初のメダリストとなる)

  • 1957山下 泰裕氏、熊本県に生まれる
1959
昭和34
1964年東京オリンピック開催決定

1960
昭和35
ローマオリンピック開催(夏季)
スコーバレーオリンピック開催(冬季)

ローマで第9回国際ストーク・マンデビル競技大会が開催
(のちに、第1回パラリンピックとして位置づけられる)

1964
昭和39
東京オリンピック・パラリンピック開催(夏季)
円谷幸吉氏、男子マラソンで銅メダル獲得
インスブルックオリンピック開催(冬季)

  • 1964東海道新幹線が開業
1968
昭和43
メキシコオリンピック開催(夏季)
テルアビブパラリンピック開催(夏季)
グルノーブルオリンピック開催(冬季)

1969
昭和44
日本陸上競技連盟の青木半治理事長が、日本体育協会の専務理事、日本オリンピック委員会(JOC)の委員長に就任

  • 1969アポロ11号が人類初の月面有人着陸
1972
昭和47
ミュンヘンオリンピック開催(夏季)
ハイデルベルクパラリンピック開催(夏季)
札幌オリンピック開催(冬季)

  • 1973オイルショックが始まる
1976
昭和51
モントリオールオリンピック開催(夏季)
トロントパラリンピック開催(夏季)
インスブルックオリンピック開催(冬季)
 
  • 1976ロッキード事件が表面化
  • 1977山下 泰裕氏、全日本選手権初優勝(以後9年連続)
1978
昭和53
8カ国陸上(アメリカ・ソ連・西ドイツ・イギリス・フランス・イタリア・ポーランド・日本)開催  
 
  • 1978日中平和友好条約を調印
  • 1979山下 泰裕氏、柔道世界選手権男子95㎏超級優勝
1980
昭和55
モスクワオリンピック開催(夏季)、日本はボイコット
アーネムパラリンピック開催(夏季)
レークプラシッドオリンピック開催(冬季)
ヤイロパラリンピック開催(冬季) 冬季大会への日本人初参加

  • 1982東北、上越新幹線が開業
1984
昭和59
ロサンゼルスオリンピック開催(夏季)
ニューヨーク/ストーク・マンデビルパラリンピック開催(夏季)
サラエボオリンピック開催(冬季)
インスブルックパラリンピック開催(冬季)

  • 1984山下 泰裕氏、ロサンゼルスオリンピック無差別優勝
    山下 泰裕氏、国民栄誉賞受賞
1988
昭和63
ソウルオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
鈴木大地 競泳金メダル獲得
カルガリーオリンピック開催(冬季)
インスブルックパラリンピック開催(冬季)

1992
平成4
バルセロナオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
有森裕子氏、女子マラソンにて日本女子陸上選手64年ぶりの銀メダル獲得
アルベールビルオリンピック開催(冬季)
ティーユ/アルベールビルパラリンピック開催(冬季)

1994
平成6
リレハンメルオリンピック・パラリンピック開催(冬季)

  • 1995阪神・淡路大震災が発生
1996
平成8
アトランタオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
有森裕子氏、女子マラソンにて銅メダル獲得

  • 1996山下 泰裕氏、全日本柔道連盟理事に就任
    山下 泰裕氏、アトランタオリンピック柔道競技監督に就任
  • 1997香港が中国に返還される
1998
平成10
長野オリンピック・パラリンピック開催(冬季)

2000
平成12
シドニーオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
高橋尚子氏、女子マラソンにて金メダル獲得

2002
平成14
ソルトレークシティオリンピック・パラリンピック開催(冬季)

2004
平成16
アテネオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
野口みずき氏、女子マラソンにて金メダル獲得

  • 2004山下 泰裕氏、全日本柔道連盟強化副委員長に就任
2006
平成18
トリノオリンピック・パラリンピック開催(冬季)

2007
平成19
第1回東京マラソン開催

  • 2007山下 泰裕氏、紫綬褒章授章
2008
平成20
北京オリンピック・パラリンピック開催(夏季)
男子4×100mリレーで日本(塚原直貴氏、末續慎吾氏、高平慎士氏、朝原宣治氏)が3位となり、男子トラック種目初のオリンピック銅メダル獲得

  • 2008リーマンショックが起こる
2010
平成22
バンクーバーオリンピック・パラリンピック開催(冬季)

  • 2011山下 泰裕氏、東海大学副学長に就任
  • 2011東日本大震災が発生
2012
平成24
ロンドンオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
2020年に東京オリンピック・パラリンピック開催決定

2013
平成25
2020年に東京オリンピック・パラリンピック開催決定

  • 2013山下 泰裕氏、日本オリンピック委員会理事に就任
    山下 泰裕氏、日本オリンピック委員会アントラージュ専門部会長に就任
    山下 泰裕氏、全日本柔道連盟 副会長に就任
2014
平成26
ソチオリンピック・パラリンピック開催(冬季)

  • 2015山下 泰裕氏、日本オリンピック委員会選手強化本部 副本部長に就任
    山下 泰裕氏、国際柔道連盟理事に就任
    山下 泰裕氏、全日本柔道連盟強化委員長理事に就任
2016
平成28
リオデジャネイロオリンピック・パラリンピック開催(夏季)

  • 2017山下 泰裕氏、日本オリンピック委員会常務理事、選手強化本部長に就任
    山下 泰裕氏、全日本柔道連盟会長に就任
2018
平成30
平昌オリンピック・パラリンピック開催(冬季)

  • 2019山下 泰裕氏、日本オリンピック委員会会長に就任
    山下 泰裕氏、東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会副会長に就任
    山下 泰裕氏、国際オリンピック委員会理事に就任
2020
令和2
新型コロナウイルス感染症の世界的流行により、東京オリンピック・パラリンピックの開催が2021年に延期

2021
令和3
東京オリンピック・パラリンピック開催(夏季)