セバスチャン・コー氏(右)と
―― ただ、その聖火リレーに対しても「逆に密をつくって感染を拡大させているのではないか」「復興五輪は言葉だけではないか」というような批判の声も多かったと思います。
聖火リレーを行うにあたっても、当然ソーシャルディスタンスをとって、列は重ならないように 1m以上間隔を空けるなど、各都道府県の方々が感染防止のルールを徹底してくれていました。警備にあたった警察や、サポートしてくれたボランティアの方々など、非常に大きなご負担をかけましたが、なんとか聖火を途切れさせないようにとご尽力をいただきました。おかげさまで一度も途切れることなく、予定通り東京オリンピック開幕の当日、7月23日に東京都庁の都民広場でのゴールを迎えることができました。
もちろん聖火リレーへのご批判があったことも承知しております。ただ、東京オリンピック・パラリンピックを終えた後、お礼のご挨拶に岩手県、宮城県、福島県の被災地三県を訪れたところ、特に競技が実施されなかった岩手県の方々が聖火リレーについて「自分たちのところでもやっていただいて、本当に良かった」と熱い思いを語ってくださり、本当に嬉しかったです。セバスチャン・コー氏(国際陸上競技連盟会長)が 2012年ロンドンオリンピック・パラリンピック組織委員会会長を務めていた際の経験談として語っていたのですが、どの都市の組織委員会も通る 5つの段階があるということです。1つ目は招致が成功して、みんなが喜んでいる。2つ目は実際にスタートしてさまざまな課題が浮上し、パニックになる。3つ目は無実の人を糾弾しようとする。4つ目は大会直前に成功を求めようとする。最後、大会後はみんなが栄光や成功を自分の功績だと思う。こうした 5段階を経るということを内々におっしゃっていましたが、今回もこれに近い状況をたどったのかもしれません。
―― 特に東京オリンピック・パラリンピックにおいては、2つ目、3つ目の段階が大きくクローズアップされた大会だったのではないかと思います。2013年に開催が決定した当初は、その2 年前の 2011 年に起きた東日本大震災による福島の原発事故のことが懸念されていました。また新国立競技場の建設においては、当初は建築家ザハ・ハディド氏(イラク出身のイギリス人。2004年には女性で初めて建築界のノーベル賞「プリツカー賞」を受賞するなど世界的に活躍。2016年 4月に急性気管支炎の治療中に心臓発作で死去)のデザインで決定し、完成予定は 2019年 3月となっていました。ところが 1300億円程度とされていた総工費が、設計の段階で約3500億円にまで膨らんでしまいました。世論からの厳しい批判を受け、結局15年7月に政府が白紙撤回を表明。さらに公式エンブレムは、一度は東京の頭文字「T」をあしらった佐野研二郎さんのデザインに決定しましたが、ベルギーのデザイナーから自身が手掛けた劇場のロゴに似ているという指摘があり、著作権をめぐっての騒動となり、結局これも白紙となりました。実際には後になって盗作ではないことは証明されましたが。こうした問題が重なる中、組織委員会への信頼感が揺らいでいったと思います。2021年2月には森喜朗前組織委員会会長の女性蔑視ともとれる発言が問題となり、東京オリンピック開幕まで半年を切った中、会長が交代するという事態となりました。そして東京オリンピック開会式・閉会式の式典・演出チームでも、辞任が相次ぎました。こうしたさまざまなことが、国民の組織委員会への不信感を募らせていったのではないでしょうか。
先述したセバスチャン・コー氏の言葉を借りれば、2つ目、3つ目の段階でいくつかの課題があったかと思います。新国立競技場や公式エンブレムの白紙撤回については、組織委員会の責任にも関わってくる問題だったと考えています。しかし、問題がなかったとは言いませんが、東京オリンピック・パラリンピックに直接関係のないところでの過去の問題について、SNS等で指摘があり、収拾がつかない状態に陥ってしまいました。それほど東京オリンピック・パラリンピックへの関心が高いというふうに楽観視することもできたかもしれませんが、やはりアスリートへの個人的な誹謗中傷と同様で、あまりにもいきすぎていたのではないかと思います。ただ、いずれの問題も私たち組織委員会が言い訳をするよりは、とにかく改善の方向にもっていって、より良いものを提供することしかなかったと思います。特に公式エンブレムの問題は、私たち組織委員会にとっても良い教訓になったと思います。当初、公式エンブレムの選考については、ある程度クリエイティブの専門家にお任せしていて、組織委員会として経過の詳細を把握していない面がありました。そのために問題が起きた時に迅速に対応することができませんでした。そこでその後の選考のプロセスでは、最初から国民の皆さんにオープンにした状態で選考基準を設定し、選考の過程においてもできるだけライブ配信するなど透明性の確保に努めました。
2020年東京オリンピック・パラリンピック公式マスコット
―― その点においては、公式マスコットを最終候補の3作品の中から全国の小学生の投票によって選ぶという国民参加型の方法はとても画期的で良かったと思いました。
小学生に投票してもらうという方法は、組織委員会の若い世代のスタッフからそういう提案があったんです。最初は、「本当にそんなことできるのかな」と不安はありましたが、「やってみようか」と実施したところ、東京都ではすべての公立小学校(小学部)計1330校の全学級が参加するなど、全国から総投票数は 20万5755票(1クラス1票)にものぼり、予想をはるかに上回る人数の小学生に参加してもらいました。そういう意味では、新型コロナウイルス感染症が拡大する前までは、国民参加型の手法が行えました。
日本財団パラリンピックサポートセンター
―― そのプログラムの一つとして、パラ教育がありました。2012年にIPC(国際パラリンピック委員会) の開発を担う機関として設立されたアギトス財団(インクルーシブな社会実現のためのツールとして、パラスポーツの発展を国際的にリードする機関として活動)がIPC 公認教材として『I'm POSSIBLE』の開発に乗り出し、そのアギトス財団と業務提携し、世界に先駆けて『I'm POSSIBLE』日本版の開発に取り組んだのが、日本財団パラリンピックサポートセンターです。意義ある事だったと思います。
『I'm POSSIBLE』の日本語版は小学生版、中学生・高校生版が開発され、実際に全国の学校の授業に取り入れられました。パラリンピックの理解を深めるということについて非常に良い流れができたと思います。ただ、これも新型コロナウイルス感染症拡大のために、計画どおりに進まなかった面はありました。今後が大事です。
課題もあった組織委員会のガバナンス
―― 1972年札幌オリンピックも、1998 年長野オリンピックも、組織委員会には理事会の下に実行委員会が置かれていました。その実行委員会がいわゆる実行部隊の把握をしていて、理事会と縦横の連携ができていたと思います。ところが、今回は実行委員会がなかったために、隣が何をしているかわからない状態になっていたのではないでしょうか。
組織委員会の事務局の組織は、テストイベントの始まる大会の約2年前に大きく変えています。52のFA(ファンクショナルエリア)を9局5室に編成したライン型から、MOC(メインオペレーションセンター)の下、43会場に VGM(ベニューマネージャー、会場運営責任者)、SM(スポーツマネージャー、競技運営責任者)などを配置して、各会場に権限と責任を降ろし、過去大会の経験則に照らせば 97%は会場(現場)で即刻判断し、会場や競技を運営するもので「ベニュー化」と称しており、実行委員会という名称ではありませんでした。隣が何をしているか分からないということはありませんでした。
―― 組織委員会での決断は理事会決定になりますが、理事の方はほとんどいわゆる外部からの方で、そういう意味では決定機能に遅れが出たような気がしますが、いかがでしょうか。
理事会は意思決定機関ではありますが、常設ではなく、日々の運営は事務局が担いました。ベニュー化が始まってからは、MOC のリーダーシップの下、基本的に各会場や大会の運営については迅速に機能していたと思います。コロナ対策に関しては、どうしても厚生労働省や内閣官房あるいはスポーツ庁、また東京都や専門家の方々との連携・調整が必要でしたので、HQ(ヘッドクォーター、幹部)やMOCの判断や対外説明の機会が多かったと思います。
―― 組織論のあり方としては、実行委員会が実務を担当し、組織委員会は象徴的な存在という方がスムーズにいったような気がします。ただ、実際に実務の部分を請け負っていたのが電通だったと思いますが、民間企業である電通が少し介入しすぎではないかという批判の声もありました。
公式エンブレム問題の時が、その一つの象徴だったかと思います。クリエイティブな分野では「もちはもち屋」ではないですが専門性の高い人に任せており、物事を決める時に密室で決めたと受けとめられ、それに起因して批判につながったと思います。それを教訓にして、組織委員会も積極的に実務に携わり、透明性を高めるという方向に組織の運営の在り方を変えていくきっかけになりました。ただ自らの責任の下、大会の規模の大きさ、複雑さやクリエイティビティ、テクノロジーなどの面では、専門性の高い人材や組織の力を借りることはあると思います。
―― 開幕直前になって開閉会式の人選の部分で問題が出てきたのは、そこに原因があったのかなと思います。またガバナンス的にも、どこまで過去をさかのぼって問題とするかというところが不明確だったのではないでしょうか。そのためにせっかく開催にご尽力された組織委員会が必要以上に世間からマイナスイメージを持たれてしまったというのは、非常に残念なことだったと思います。
開閉会式の演出家の問題については、人は誰でも過去の過ちはあるはずで、それをどこまで責任追及するかということを考えることが必要です。現在はしっかりと過去を反省していらっしゃる方が糾弾されてしまったというのは、私たち組織委員会としても、きちんと説明をすれば良かったという反省点はあります。ただ、正直に申し上げれば大会直前で時間的余裕はありませんでした。
パラリンピックが“心のバリアフリー”のきっかけに
―― ただ開幕してからは、オリンピックもパラリンピックも、非常に素晴らしい大会として、日本国民や海外のアスリート、メディアからも称賛を受け、運営やボランティアについても高い評価を受けました。特にパラリンピックの成功は大きかったと思います。
今大会の英国パラリンピック選手団の団長ペニーさんには、組織委員会が発足して以降ずっとアドバイスをもらってきました。当初は「日本のバリアフリーはまったく進んでいない」という非常に厳しい評価だったんです。道路の段差を一つとっても、またホテルもバリアフリーの部屋が極端に少ない、などという厳しい指摘を受けていました。そういう指摘を受けて、私たちも国内向けに「こういう課題があるので、なんとか改善したい」と問題提起を繰り返し、結果として国土交通省や都などが道路の段差や駅のエレベーターの設置などのバリアフリー化を進めてくれました。ホテルについても以前は大型ホテルでもバリアフリーの部屋が1室しかないというような状況から、2019年9月1日にバリアフリー法施行令第15条が改正され、「床面積2000㎡以上かつ客室総数50室以上のホテルまたは旅館を建築する場合は、客室総数の1%以上の車いす使用者用客室を設ける」となりました。そういう意味では、東京パラリンピックをきっかけに日本社会のバリアフリー化が進展し、それがゆくゆくは心のバリアフリーにつながっていくという非常に良いきっかけづくりができたと思います。東京パラリンピックが終了後、厳しい評価をしていたペニーさんから手紙を いただきました。「日本は素晴らしいパラリンピックを開催してくれました。特に“Venue”“Volunteer”“Village”の 3つの“V”が素晴らしかった。Venueのきめ細やかさは素晴らしく、Volunteerは親切で、Villageはバリアフリーのみならずスタッフ、ボランティアの方々が、日本らしい心のこもったおもてなしをしてくれました。この 3 つの“V”は歴史に語り継がなければいけない」というものでした。あれだけ厳しいことをおっしゃっていた方が、こんなにも高い評価をしてくださったんだ、と改めて開催して良かったと思いました。
2020年東京パラリンピック 陸上競技 山本篤選手
―― 実際にパラリンピックに参加したアスリートたちの姿を見た人たちは、素直に感動し、心のバリアフリーが生まれる大きなきっかけにもなったと思います。
それが一番の宝だと思います。会場で直に見てもらえればより良かったのですが、テレビを通してでも障がいのある方々が自分の限界に挑み続けている姿や、これまでの過去のプロセスがひしひしと伝わってきて、たくさんの感動を届けてくれたと思います。ふだんは車いすに乗っている人や視覚に障がいのある方たちと接することは少ないと思うんですね。そういう方々が、車いすに乗ってバスケットボールやテニスをしていたり、あるいは目の見えない人が泳いだり走ったりしているところを見て、何かしら感じるものがあったと思います。それが心のバリアフリーの広がりにつながっていくことを願っています。
―― 布村さんは、文部科学省で体育局や初等中等教育局教育課程課長、スポーツ・青少年局長など、教育の中枢にいらっしゃいました。その布村さんから見て、東京パラリンピックが与える社会的影響というのはどのように感じられましたか。
スポーツ庁が発足する以前、障がい者スポーツは厚生労働省の管轄でした。ですので、文科省が管轄する「スポーツ」は健常者のスポーツと受けとめていたという反省を持っています。スポーツ基本法に障がい者スポーツの条文が入り、今はスポーツ庁が担当していますが、当時はなかなか自分ごととしては捉えきれていませんでした。しかし、組織委員会の副事務総長に就任して、2014年ソチ大会などパラリンピックを見るたびに感動し、この感動をどう伝えていくのかというのが自分のミッションだと考えていたんです。実際、組織委員会にも車いすユーザーなど障がいのある人たちもたくさんいたのですが、私自身が障がいのある方たちと一緒に仕事をするというのはほぼ初めての経験でした。最初の頃は無意識に気を遣っていたのかもしれませんが、だんだんと自分から声をかけるということも普通になっていったんですね。気づけば、「あぁ、これが心のバリアフリーなのかな」と思いました。結局、“障がい”というのは自らや社会が作り出したバリアなんだと実感しました。こうした私自身の経験が、もっと多くの人に広がっていけばいいなと思います。