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「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。

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2020年東京オリンピック・パラリンピック競技大会
第104回
東京オリンピック・パラリンピック開催への道のり

布村 幸彦

幼少時代からスポーツが好きだった布村幸彦氏は、東京大学卒業後は「スポーツを通した人間教育に携わりたい」と文部省(現・文部科学省)に入省されました。体育局スポーツ課を初任に、初等中等教育局教育課程課長、人事課長、スポーツ・青少年局長、初等中等教育局長、高等教育局長などを歴任。東京オリンピック・パラリンピックの招致活動にも携わられ、2014年には東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会副事務総長に就任しました。新型コロナウイルス感染症拡大の影響を受け、史上初めて 1 年延期となった東京オリンピック・パラリンピック開催実現に向けてご尽力された布村氏にお話をうかがいました。

聞き手/佐野慎輔  文/斉藤寿子  写真/フォート・キシモト  取材日/2021年9月30日

東京オリンピック・パラリンピック開催に向けた 3つの広がり

―― 東京オリンピック・パラリンピックが無事に終了した今、どのようなお気持ちでいらっしゃいますか。

まずは東京オリンピック・パラリンピックを開催することができて、本当に良かったという気持ちです。全ての関係者に感謝申し上げます。「ARIGATO」(オリンピック・パラリンピックの閉会式で電光掲示板に映し出された文字)私自身のことを振り返りますと、これだけ長期間、スポーツの世界に携わることができて、本当に幸せだったなというのが率直な感想です。

―― 大会を総括すると、いかがでしょうか。

東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会では「スポーツには世界と未来を変える力がある」というビジョンのもと、発足当初からさまざまな方々にその理念をお話してきました。その中で目指してきたのは、大会開催による 3つの広がりです。1つ目は、東京オリンピック・パラリンピックはスポーツの祭典ではありますが、スポーツだけでなく、文化・教育、経済・テクノロジー、持続可能な街づくりなどの「分野的広がり」です。2つ目は「時間的な広がり」で、2020年大会の本番だけでなく、1964年大会からつながる流れの中、開催が決定した2013年からの7年間、実際は1年延期となりましたので 8年間という準備期間、そして2020年大会以降のレガシーとして次の世代、特に子どもたちにつなげていこうと。3つ目は「地域的な広がり」ということで「復興五輪」ということを明確に打ち出していましたので、東日本大震災の被災三県(岩手県、宮城県、福島県)を含めた“オールジャパン”、さらにはアジアや世界への広がりを目指そうという取り組みをずっと重ねてきました。そういう流れができたと手応えを感じてはいたのですが、一時は新型コロナウイルス感染症の拡大で、そのつながりや流れが分断されつつありました。それでもこの困難な状況に打ちひしがれることなく、コロナ禍の中でも世界中のアスリートの方々を安全にお迎えできたという面では、東京オリンピック・パラリンピックは成功したと言っても良いと思っています。その一つの証左として、共同通信の開催後の世論調査によると、オリンピックは62.9%、パラリンピックは69.8%の人が、「開催して良かった」という評価をいただくことができました。これも成功と言っていい要因の一つではないかと受け止めています。

左:1964年 東京オリンピック閉会式<br>右:2020年東京パラリンピック閉会式

左:1964年 東京オリンピック閉会式
右:2020年東京パラリンピック閉会式

―― 東京オリンピック・パラリンピックでは、閉会式の最後に「ARIGATO」という文字が映し出されました。これが今大会を象徴していたのではないかと思いましたが、改めて「ARIGATO」に込められた思いをお聞かせください。

1964年東京オリンピックの閉会式では「SAYONARA」でお別れしたのですが、今回は東京オリンピックから東京パラリンピックへ、そして2024年パリ大会や次の世代につながる大会としては、「SAYONARA」ではなく「ARIGATO」という言葉が、最後にお伝えするメッセージとして最適なのではないかということで選ばれました。そして同じ字体を使いました。

パラリンピック開催に感じていた大きな意義

―― 東京オリンピック・パラリンピックは、「すべての人が自己ベストを目指し(全員が自己ベスト)」「一人ひとりが互いを認め合い(多様性と調和)」「そして、未来につなげよう(未来への継承)」の3つを基本コンセプトにし、史上最もイノベーティブで世界にポジティブな改革をもたらす大会とすることを目指してきました。開催が決定した2013年からの準備期間でさまざまな取り組みを行ってきた中、残された課題はありましたか。

2016年リオデジャネイロパラリンピック・プレゼンターを務める布村氏

2016年リオデジャネイロパラリンピック・プレゼンターを務める布村氏

組織委員会は、オリンピックとパラリンピックを一つの大会として取り組んでいこうということで、2014年1月24日に設立され、スタートしました。そういう中で、「多様性と調和」は今後の日本社会を考えるキーポイントになるという思いがありました。そういった面で、森喜朗前会長や橋本会長がしばしばおっしゃていた通り、「パラリンピックの成功なくして、東京大会の成功はない」という気持ちで私たちもいました。東京オリンピック・パラリンピックを一体化し、とにかくパラリンピックまでしっかりとやり遂げるということがメッセージとして一番大事と思っていたんです。

 

2014年ソチパラリンピック(ロシア)を視察に行った時に衝撃だったのはアルペンスキーで全盲の選手が直滑降の雪山を滑り降りてくる姿でした。また、2016年リオデジャネイロパラリンピック(ブラジル)の時には、例えば水泳では四肢が欠損している選手がありのままの姿で自己ベストを目指して泳いでいる姿でした。そういう姿には、パラリンピックが持つ強いメッセージがあると感じましたので、東京パラリンピックでもぜひ日本の皆さんに見てもらいたいと思っていました。実際、東京オリンピック・パラリンピックでは学校連携観戦プログラムを立ち上げ、次世代を担う子どもたちにパラリンピックの競技会場に足を運んでもらって見てもらうことが大きな目標となっていました。しかし、コロナ禍でそれが計画どおりに実現できなかったことが非常に残念でした。それでも多くの日本の皆さんが、テレビでパラリンピック競技を生放送で目にしてくれましたので、とても良い機会となったと思います。

東京オリンピック・パラリンピック選手村の村長を務められた川淵三郎氏(Jリーグの初代チェアマン。2015年には日本バスケットボール協会会長に就任し、分裂状態にあった日本バスケ界を正常化させた。現在は日本トップリーグ連携機構会長、大学スポーツ協会顧問)は、初めてパラリンピックの選手村を訪れた時に、オリンピックの時とは一変してさまざまな障がいのある選手やスタッフたちが普通に生活をしている光景に出合い衝撃を覚えられたそうです。私自身も驚いたのですが、競技用義足を抱えてバスに乗り込む選手たちがいて、それがいたって普通なんですね。さらにスタッフやボランティアには健常者もいて、さまざまな人たちが一緒に生活している光景を見て「これが本来あるべきバリアのない社会の姿なんだな」と感じました。川淵さんが「私たちだけでなく、こういうところを広く見てもらうことが重要で、特に子どもたちに伝えたい」とおっしゃったのですが、私自身もその通りだ、東京オリンピック・パラリンピックを開催する意味の一つはこれを伝えることだと思いました。そこでIPC(国際パラリンピック委員会)の了承を得て、組織委員会の方で選手村の様子を写真撮影させていただいたので、それをパラリンピック教育の教材の中で活用するなどして、子どもたちに見てもらえるようにしたいと思っています。

1964年 東京オリンピック閉会式

1964年 東京オリンピック閉会式

―― 組織委員会は、東京パラリンピックの学校連携観戦プログラムに非常に注力されていました。コロナ禍で子どもたちが観戦することに対しては、さまざまな意見が飛び交いましたが、それでも可能な限り子どもたちにパラリンピックを観戦してもらおうと最後まで熱心に取り組んでいたのが印象的でした。

1964年に東京オリンピックが開催された時、私は小学生で富山県にいたのですが、テレビの画面越しで見た東京オリンピックは子どもながらにしてスポーツの力をひしひしと感じました。閉会式でさまざまな国の選手たちが混ざり合って入場してきた姿を見て「これが国際交流なんだ」と思い、とても感動したことを覚えています。

ですから私個人としても、今の子どもたちにも、ぜひ東京オリンピック・パラリンピックを見てほしいと思いました。特にパラリンピックを見てもらって、何かを感じてもらい、自分なりに考えたり行動したりするきっかけにしてもらえればと。それが東京オリンピック・パラリンピックを開催する意義でもあると思いましたので、組織委員会としては一人でも多くの子どもたちに生でパラリンピックを観戦してもらいたいという気持ちがありました。予定していたすべての学校の子どもたちが見ることはできず、ほんの一部にとどまってしまいましたが、それでも良いプログラムだったと思っています。

不祥事やコロナ禍で困難を極めた組織委員会への理解

―― 2020年3月11日、WHO(世界保健機関)が新型コロナウイルス感染症のパンデミック宣言をし、3月24日には IOC(国際オリンピック委員会)のトーマス・バッハ会長が東京オリンピック・パラリンピックの開催を 1年延期することを発表しました。それ以降、東京オリンピック・パラリンピックの開催を実現させようと奔走する組織委員会に対する風当たりは大変厳しいものがあったかと思います。

東京オリンピック・パラリンピックへの機運が高まっていたなか、1年延期となって以降は一転、開催に対して心配されたりネガティブな意見が多くなり、正直に申し上げますと、「ここまで人の気持ちが変わってしまうものなんだな」と驚きました。世界でも稀にみるほどオリンピック・パラリンピックが好きな国民性を持つ日本人ですら、開催に対して不安な気持ちが先立つものなんだなと、改めて感染症の怖さを感じたりもしていました。しかし、私たち組織委員会の中では「中止」という気持ちはなく、「どうすれば開催できるのか」「開催するために何をすべきか」という気持ちはずっと途切れることはありませんでした。招致した時点で国際的に開催することをお約束したわけですので、それを反故にしてしまえば、日本への信頼問題にもなりかねません。ですので、さまざまな問題をクリアして、安心・安全な大会を開催することだけを考えていましたし、その気持ちは最後までブレることはありませんでした。

―― しかし、世間では先行きの見通しが立たない中、コロナ禍での東京オリンピック・パラリンピックは中止すべきだという風潮になり、メディアもそれを助長する感じだったと思います。そうしたなか、組織委員会が矢面に立たされてしまった。組織委員会はもっと東京オリンピック・パラリンピック開催の意義、自分たちの立場や役割を丁寧に説明することが必要だったのではないでしょうか。

布村幸彦氏(当日のインタビュー風景)

布村幸彦氏(当日のインタビュー風景)

確かに、そうだったかもしれません。努力をしてきたつもりではありましたが、十分ではなかったところもあったかと思います。ただコロナ禍の前後では、やはり少し変わらざるを得なかったところもありました。コロナ禍になる前、私は講演をする際には一貫として「スポーツには世界と未来を変える力がある」というテーマでお話をしていましたが、コロナ禍では「大会開催に向けての準備状況」というような題目に変えました。前のめりと受け止められかねないことは差し控えた部分はありました。というのも、ボランティアの方々からもユニフォームを着用していたり、バッジを着けていたりするだけで、「世間では自分たちがどんな目で見られているか不安だ」という声も聞こえていましたので、本当に申し訳ない気持ちになると同時に、組織委員会が世論から反発を買うようなことをしてはスタッフやボランティアの人たちの肩身がさらに狭くなってしまうなと思いました。そのためにしばらくは、自分たちがやろうとしていることを強く押し出すことは控えた方が良いのではないかということが話題になったりしていました。それで淡々と準備に専念をして、外向けには強く発信することは控える、という面もありました。

―― 組織委員会として最も大変だったのは、観客を入れるのか無観客にするのか、オリンピックもパラリンピックも、開幕直前まで決定しなかったことではなかったでしょうか。さまざまな状況を想定して準備を進めていかなければいけない難しさもあったかと思いますが、本格的に無観客の場合の対応を考え始めたのはいつ頃でしたか。

組織委員会としては、国あるいは各都道府県が定めている観客の基準に準じるということ しかありませんでしたので、観客を入れるかどうかの結論を出すのは状況が好転する可能 性がある限り、ぎりぎりまで待っていただけたらありがたいという考えだったと思います。そうしたなかでプロ野球やJ リーグ、大相撲などが、新型コロナウイルス感染症の対策を伴った安心・安全な観戦を実証されていましたので、そういう流れに東京オリンピック・パラリンピックも乗っていければという思いでいました。無観客になることも想定しながら準備が進められてはいましたが、その反面、できるだけ少しでも改善することを願ってもいました。そういう気持ちが揺れ動きながら結論を待っていたという感じでした。

聖火到着。左から二人目が布村氏(2020年3月)

聖火到着。左から二人目が布村氏(2020年3月)

―― 2021年3月25日からは、東京オリンピックの聖火リレーがスタートしましたが、公道走行や関連イベントなどが相次いで中止となりました。

2020年3月20日、航空自衛隊松島基地(宮城県)で聖火の到着式が行われ、その4日後の24日に東京オリンピック・パラリンピック開催の1年延期がIOCから発表されました。しかし、すでにオリンピック・パラリンピックの象徴である聖火が日本にありましたので、組織委員会としては「この聖火を灯し続けて、必ずこの日本でオリンピック・パラリンピックを開催するんだ」という強い気持ちでいました。昨年3月20~25日には、規模は縮小しましたが、予定通り「復興の火」として東日本大震災の被災地である、宮城県、岩手県、福島県で聖火の巡回展示が行われました。小さなランタンに入った聖火をひと目見ようと、どこも盛況でした。仙台駅前では、密になりすぎるということで、途中で展示を中断するほどでしたし、岩手県では三陸鉄道リアス線とJR釜石線の計7駅で展示を行ったのですが、どこの駅も人だかりができるなど、東京オリンピック・パラリンピックへの期待の大きさをひしひしと感じました。また今年3月25日から行われた聖火リレーでも、公道を走った地域では人数制限を設けてもなお沿道から観客の皆さんに笑顔で手を振っていただきました。ですから、聖火リレーの間ずっと、東京オリンピック・パラリンピックに大きな期待を寄せてくださっているんだということを感じていました。

セバスチャン・コー氏(右)と

セバスチャン・コー氏(右)と

―― ただ、その聖火リレーに対しても「逆に密をつくって感染を拡大させているのではないか」「復興五輪は言葉だけではないか」というような批判の声も多かったと思います。

聖火リレーを行うにあたっても、当然ソーシャルディスタンスをとって、列は重ならないように 1m以上間隔を空けるなど、各都道府県の方々が感染防止のルールを徹底してくれていました。警備にあたった警察や、サポートしてくれたボランティアの方々など、非常に大きなご負担をかけましたが、なんとか聖火を途切れさせないようにとご尽力をいただきました。おかげさまで一度も途切れることなく、予定通り東京オリンピック開幕の当日、7月23日に東京都庁の都民広場でのゴールを迎えることができました。

もちろん聖火リレーへのご批判があったことも承知しております。ただ、東京オリンピック・パラリンピックを終えた後、お礼のご挨拶に岩手県、宮城県、福島県の被災地三県を訪れたところ、特に競技が実施されなかった岩手県の方々が聖火リレーについて「自分たちのところでもやっていただいて、本当に良かった」と熱い思いを語ってくださり、本当に嬉しかったです。セバスチャン・コー氏(国際陸上競技連盟会長)が 2012年ロンドンオリンピック・パラリンピック組織委員会会長を務めていた際の経験談として語っていたのですが、どの都市の組織委員会も通る 5つの段階があるということです。1つ目は招致が成功して、みんなが喜んでいる。2つ目は実際にスタートしてさまざまな課題が浮上し、パニックになる。3つ目は無実の人を糾弾しようとする。4つ目は大会直前に成功を求めようとする。最後、大会後はみんなが栄光や成功を自分の功績だと思う。こうした 5段階を経るということを内々におっしゃっていましたが、今回もこれに近い状況をたどったのかもしれません。

―― 特に東京オリンピック・パラリンピックにおいては、2つ目、3つ目の段階が大きくクローズアップされた大会だったのではないかと思います。2013年に開催が決定した当初は、その2 年前の 2011 年に起きた東日本大震災による福島の原発事故のことが懸念されていました。また新国立競技場の建設においては、当初は建築家ザハ・ハディド氏(イラク出身のイギリス人。2004年には女性で初めて建築界のノーベル賞「プリツカー賞」を受賞するなど世界的に活躍。2016年 4月に急性気管支炎の治療中に心臓発作で死去)のデザインで決定し、完成予定は 2019年 3月となっていました。ところが 1300億円程度とされていた総工費が、設計の段階で約3500億円にまで膨らんでしまいました。世論からの厳しい批判を受け、結局15年7月に政府が白紙撤回を表明。さらに公式エンブレムは、一度は東京の頭文字「T」をあしらった佐野研二郎さんのデザインに決定しましたが、ベルギーのデザイナーから自身が手掛けた劇場のロゴに似ているという指摘があり、著作権をめぐっての騒動となり、結局これも白紙となりました。実際には後になって盗作ではないことは証明されましたが。こうした問題が重なる中、組織委員会への信頼感が揺らいでいったと思います。2021年2月には森喜朗前組織委員会会長の女性蔑視ともとれる発言が問題となり、東京オリンピック開幕まで半年を切った中、会長が交代するという事態となりました。そして東京オリンピック開会式・閉会式の式典・演出チームでも、辞任が相次ぎました。こうしたさまざまなことが、国民の組織委員会への不信感を募らせていったのではないでしょうか。

先述したセバスチャン・コー氏の言葉を借りれば、2つ目、3つ目の段階でいくつかの課題があったかと思います。新国立競技場や公式エンブレムの白紙撤回については、組織委員会の責任にも関わってくる問題だったと考えています。しかし、問題がなかったとは言いませんが、東京オリンピック・パラリンピックに直接関係のないところでの過去の問題について、SNS等で指摘があり、収拾がつかない状態に陥ってしまいました。それほど東京オリンピック・パラリンピックへの関心が高いというふうに楽観視することもできたかもしれませんが、やはりアスリートへの個人的な誹謗中傷と同様で、あまりにもいきすぎていたのではないかと思います。ただ、いずれの問題も私たち組織委員会が言い訳をするよりは、とにかく改善の方向にもっていって、より良いものを提供することしかなかったと思います。特に公式エンブレムの問題は、私たち組織委員会にとっても良い教訓になったと思います。当初、公式エンブレムの選考については、ある程度クリエイティブの専門家にお任せしていて、組織委員会として経過の詳細を把握していない面がありました。そのために問題が起きた時に迅速に対応することができませんでした。そこでその後の選考のプロセスでは、最初から国民の皆さんにオープンにした状態で選考基準を設定し、選考の過程においてもできるだけライブ配信するなど透明性の確保に努めました。

2020年東京オリンピック・パラリンピック公式マスコット

2020年東京オリンピック・パラリンピック公式マスコット

―― その点においては、公式マスコットを最終候補の3作品の中から全国の小学生の投票によって選ぶという国民参加型の方法はとても画期的で良かったと思いました。

小学生に投票してもらうという方法は、組織委員会の若い世代のスタッフからそういう提案があったんです。最初は、「本当にそんなことできるのかな」と不安はありましたが、「やってみようか」と実施したところ、東京都ではすべての公立小学校(小学部)計1330校の全学級が参加するなど、全国から総投票数は 20万5755票(1クラス1票)にものぼり、予想をはるかに上回る人数の小学生に参加してもらいました。そういう意味では、新型コロナウイルス感染症が拡大する前までは、国民参加型の手法が行えました。

 
日本財団パラリンピックサポートセンター

日本財団パラリンピックサポートセンター

―― そのプログラムの一つとして、パラ教育がありました。2012年にIPC(国際パラリンピック委員会) の開発を担う機関として設立されたアギトス財団(インクルーシブな社会実現のためのツールとして、パラスポーツの発展を国際的にリードする機関として活動)がIPC 公認教材として『I'm POSSIBLE』の開発に乗り出し、そのアギトス財団と業務提携し、世界に先駆けて『I'm POSSIBLE』日本版の開発に取り組んだのが、日本財団パラリンピックサポートセンターです。意義ある事だったと思います。

『I'm POSSIBLE』の日本語版は小学生版、中学生・高校生版が開発され、実際に全国の学校の授業に取り入れられました。パラリンピックの理解を深めるということについて非常に良い流れができたと思います。ただ、これも新型コロナウイルス感染症拡大のために、計画どおりに進まなかった面はありました。今後が大事です。

課題もあった組織委員会のガバナンス

―― 1972年札幌オリンピックも、1998 年長野オリンピックも、組織委員会には理事会の下に実行委員会が置かれていました。その実行委員会がいわゆる実行部隊の把握をしていて、理事会と縦横の連携ができていたと思います。ところが、今回は実行委員会がなかったために、隣が何をしているかわからない状態になっていたのではないでしょうか。

組織委員会の事務局の組織は、テストイベントの始まる大会の約2年前に大きく変えています。52のFA(ファンクショナルエリア)を9局5室に編成したライン型から、MOC(メインオペレーションセンター)の下、43会場に VGM(ベニューマネージャー、会場運営責任者)、SM(スポーツマネージャー、競技運営責任者)などを配置して、各会場に権限と責任を降ろし、過去大会の経験則に照らせば 97%は会場(現場)で即刻判断し、会場や競技を運営するもので「ベニュー化」と称しており、実行委員会という名称ではありませんでした。隣が何をしているか分からないということはありませんでした。

―― 組織委員会での決断は理事会決定になりますが、理事の方はほとんどいわゆる外部からの方で、そういう意味では決定機能に遅れが出たような気がしますが、いかがでしょうか。

理事会は意思決定機関ではありますが、常設ではなく、日々の運営は事務局が担いました。ベニュー化が始まってからは、MOC のリーダーシップの下、基本的に各会場や大会の運営については迅速に機能していたと思います。コロナ対策に関しては、どうしても厚生労働省や内閣官房あるいはスポーツ庁、また東京都や専門家の方々との連携・調整が必要でしたので、HQ(ヘッドクォーター、幹部)やMOCの判断や対外説明の機会が多かったと思います。

―― 組織論のあり方としては、実行委員会が実務を担当し、組織委員会は象徴的な存在という方がスムーズにいったような気がします。ただ、実際に実務の部分を請け負っていたのが電通だったと思いますが、民間企業である電通が少し介入しすぎではないかという批判の声もありました。

公式エンブレム問題の時が、その一つの象徴だったかと思います。クリエイティブな分野では「もちはもち屋」ではないですが専門性の高い人に任せており、物事を決める時に密室で決めたと受けとめられ、それに起因して批判につながったと思います。それを教訓にして、組織委員会も積極的に実務に携わり、透明性を高めるという方向に組織の運営の在り方を変えていくきっかけになりました。ただ自らの責任の下、大会の規模の大きさ、複雑さやクリエイティビティ、テクノロジーなどの面では、専門性の高い人材や組織の力を借りることはあると思います。

―― 開幕直前になって開閉会式の人選の部分で問題が出てきたのは、そこに原因があったのかなと思います。またガバナンス的にも、どこまで過去をさかのぼって問題とするかというところが不明確だったのではないでしょうか。そのためにせっかく開催にご尽力された組織委員会が必要以上に世間からマイナスイメージを持たれてしまったというのは、非常に残念なことだったと思います。

開閉会式の演出家の問題については、人は誰でも過去の過ちはあるはずで、それをどこまで責任追及するかということを考えることが必要です。現在はしっかりと過去を反省していらっしゃる方が糾弾されてしまったというのは、私たち組織委員会としても、きちんと説明をすれば良かったという反省点はあります。ただ、正直に申し上げれば大会直前で時間的余裕はありませんでした。

パラリンピックが“心のバリアフリー”のきっかけに

―― ただ開幕してからは、オリンピックもパラリンピックも、非常に素晴らしい大会として、日本国民や海外のアスリート、メディアからも称賛を受け、運営やボランティアについても高い評価を受けました。特にパラリンピックの成功は大きかったと思います。

今大会の英国パラリンピック選手団の団長ペニーさんには、組織委員会が発足して以降ずっとアドバイスをもらってきました。当初は「日本のバリアフリーはまったく進んでいない」という非常に厳しい評価だったんです。道路の段差を一つとっても、またホテルもバリアフリーの部屋が極端に少ない、などという厳しい指摘を受けていました。そういう指摘を受けて、私たちも国内向けに「こういう課題があるので、なんとか改善したい」と問題提起を繰り返し、結果として国土交通省や都などが道路の段差や駅のエレベーターの設置などのバリアフリー化を進めてくれました。ホテルについても以前は大型ホテルでもバリアフリーの部屋が1室しかないというような状況から、2019年9月1日にバリアフリー法施行令第15条が改正され、「床面積2000㎡以上かつ客室総数50室以上のホテルまたは旅館を建築する場合は、客室総数の1%以上の車いす使用者用客室を設ける」となりました。そういう意味では、東京パラリンピックをきっかけに日本社会のバリアフリー化が進展し、それがゆくゆくは心のバリアフリーにつながっていくという非常に良いきっかけづくりができたと思います。東京パラリンピックが終了後、厳しい評価をしていたペニーさんから手紙を いただきました。「日本は素晴らしいパラリンピックを開催してくれました。特に“Venue”“Volunteer”“Village”の 3つの“V”が素晴らしかった。Venueのきめ細やかさは素晴らしく、Volunteerは親切で、Villageはバリアフリーのみならずスタッフ、ボランティアの方々が、日本らしい心のこもったおもてなしをしてくれました。この 3 つの“V”は歴史に語り継がなければいけない」というものでした。あれだけ厳しいことをおっしゃっていた方が、こんなにも高い評価をしてくださったんだ、と改めて開催して良かったと思いました。

2020年東京パラリンピック 陸上競技 山本篤選手

2020年東京パラリンピック 陸上競技 山本篤選手

―― 実際にパラリンピックに参加したアスリートたちの姿を見た人たちは、素直に感動し、心のバリアフリーが生まれる大きなきっかけにもなったと思います。

それが一番の宝だと思います。会場で直に見てもらえればより良かったのですが、テレビを通してでも障がいのある方々が自分の限界に挑み続けている姿や、これまでの過去のプロセスがひしひしと伝わってきて、たくさんの感動を届けてくれたと思います。ふだんは車いすに乗っている人や視覚に障がいのある方たちと接することは少ないと思うんですね。そういう方々が、車いすに乗ってバスケットボールやテニスをしていたり、あるいは目の見えない人が泳いだり走ったりしているところを見て、何かしら感じるものがあったと思います。それが心のバリアフリーの広がりにつながっていくことを願っています。

―― 布村さんは、文部科学省で体育局や初等中等教育局教育課程課長、スポーツ・青少年局長など、教育の中枢にいらっしゃいました。その布村さんから見て、東京パラリンピックが与える社会的影響というのはどのように感じられましたか。

スポーツ庁が発足する以前、障がい者スポーツは厚生労働省の管轄でした。ですので、文科省が管轄する「スポーツ」は健常者のスポーツと受けとめていたという反省を持っています。スポーツ基本法に障がい者スポーツの条文が入り、今はスポーツ庁が担当していますが、当時はなかなか自分ごととしては捉えきれていませんでした。しかし、組織委員会の副事務総長に就任して、2014年ソチ大会などパラリンピックを見るたびに感動し、この感動をどう伝えていくのかというのが自分のミッションだと考えていたんです。実際、組織委員会にも車いすユーザーなど障がいのある人たちもたくさんいたのですが、私自身が障がいのある方たちと一緒に仕事をするというのはほぼ初めての経験でした。最初の頃は無意識に気を遣っていたのかもしれませんが、だんだんと自分から声をかけるということも普通になっていったんですね。気づけば、「あぁ、これが心のバリアフリーなのかな」と思いました。結局、“障がい”というのは自らや社会が作り出したバリアなんだと実感しました。こうした私自身の経験が、もっと多くの人に広がっていけばいいなと思います。

オリパラ開催後の日本スポーツ界と社会変革

富山高校バスケットボール部時代

富山高校バスケットボール部時代

―― 布村さんご自身は、富山県立富山高校時代にはバスケットボール部に所属されるなど、スポーツがお好きだったと思います。その布村さんにとってスポーツとはどんなものでしょうか。

私は、幼少時代から当たり前のようにスポーツをしてきました。少年野球をやったり、中学校、高校ではバスケットボール部でプレーしていました。大学でも野球やバスケットボールをやっていまして、文部省(現・文部科学省)に入省してからも省内の野球部やソフトボール部、バレーボール部に所属していたんです。実は組織委員会でもスポーツ活動が行われていまして、私は野球部、バスケットボール部、ボッチャ部に入っていました。ですので、どちらかというと体育会系の人間なのですが、就職をする際もスポーツをやってきた者として、学校教育やスポーツを通した人間教育に携わりたいという思いで文部省(現・文部科学省)を選びました。入省して最初に配属となったのがスポーツ課でして、またその後はスポーツ・青少年局長など、自分の希望だったスポーツ行政に3度携わる機会がありました。さらに組織委員会で8年間もスポーツに携われるとは思ってもいませんでしたので、自分としては幸運に恵まれたと思っています。

 
2011FIFA 女子ワールドカップなでしこ優勝

2011FIFA 女子ワールドカップなでしこジャパン優勝

―― そういう中で、スポーツの価値や重要性などを感じたというような経験はありましたでしょうか。

スポーツの力を最も感じたのは、2011年のサッカー女子ワールドカップで初優勝した「なでしこジャパン」(女子サッカー日本代表の愛称)です。当時私は文科省のスポーツ・青少年局長で、アメリカとの決勝戦を現地のフランクフルト(ドイツ)のスタジアムで見ていました。フランクフルトには米軍基地が近くにあることもあって、ほとんどがアメリカ人のファンでうまっていました。誰もがアメリカが勝つものだという前提で試合を見ていたと思います。ところがアメリカにリードされて、日本が追いつくたびに、徐々に会場の雰囲気が変わっていくのがわかりました。延長で日本が勝った時には、スタジアムは「なでしこジャパン」を応援するファンの熱狂に包まれていて、「スポーツの力って本当にすごいな」と感じずにはいられませんでした。そして日本に帰国してからは、よりそれを強く感じました。当時は東日本大震災が起きて4カ月しか経っていない時で、どれだけ「なでしこジャパン」の優勝に励まされた人たちが多かったかということを実感しました。「スポーツの力」をあれだけ感じさせられる試合に立ち会えたことは、私にとっても幸せなことでした。東京オリンピック・パラリンピックのテーマであった「スポーツには世界と未来を変える力がある」をまさに体現したものだったと思います。

組織委員会ボッチャ部。中央が布村氏

組織委員会ボッチャ部。中央が布村氏

―― 東京オリンピック・パラリンピックを開催したなかで、改めてオリンピック・パラリンピックを開催する意義はどこにあると思っていらっしゃいますか。

オリンピックの意義は私の理解では「より速く、より高く、より強く」を目指して、アスリートが 4 年をかけて世界一に挑むプロセスに価値があり、そこにストーリー性が生まれ「4 年に一度」という長いスパンを経て迎える大会だからこそ、熱狂や感動を呼び、見る人々に強いインパクトを与え、深い印象を刻み、それが人や社会を変える力となる、と受けとめています。また、パラリンピックでは、障がいの種別に応じた世界一ではありますが、世界一に挑むプロセスに障がいを乗り超えるストーリーが加わっているもの、それがパラリンピックの意義だと思います。

 
2020年東京パラリンピック開会式

2020年東京パラリンピック開会式

―― 社会が変わるきっかけづくりという部分は、東京パラリンピックで十分にできたと思います。今後、政府や企業、そして日本の国民一人ひとりが何をしていくかというところが重要になってくると思いますが、布村さんはどんなお考えでしょうか。

非常に難しい課題だと思いますが、東京大会を契機に国の学習指導要領に「パラリンピック」という言葉を付け加えていただいたり、「心のバリアフリー」を学ぶ機会となるパラリンピック教育を学校教育の中に盛り込んでいただくというようなことがより定着していければ良いと思います。また、社会においては総合型スポーツクラブがありますが、先述した「なでしこジャパン」が優勝したワールドカップの視察後、ベルリンの総合型スポーツクラブを訪れました。日本でいう江戸時代からずっと地域の人々が運営してきたクラブで、多種目・多世代にわたっていて、訪れた当時は気づきませんでしたが、おそらく障がいのある人たちも参加していたのだと思います。あのような総合型スポーツクラブのように、いつでも、どこでも、誰でも、さまざまな種目のスポーツが楽しめる環境が大事だと実感しました。日本では現実的にはまだまだ進んでいませんので、そういうスポーツ環境の整備が一つの大きなテーマになるかと思います。当然バリアフリーになっていて、多世代にわたって様々な種目のスポーツを楽しみ、クラブ活動の後には大人だったら美味しいビールを一杯飲みながら談笑する、というような心が豊かになる地域社会がスポーツを通じてできるといいなと思っています。ただ、これから新しい施設をつくるとなるとコストの面で非現実的です。そうなると全国にある学校の施設を活用するのが最もスムーズかと思いますが、公の施設だけにどうしても様々な制約があって拡がりは難しいというのが現状です。

布村幸彦氏(当日のインタビュー風景)

布村幸彦氏(当日のインタビュー風景)

―― 東京オリンピック・パラリンピックを、どのようにして今後につなげていくことが重要だとお考えでしょうか。

日本のスポーツ界のあり方として、サッカーのJリーグが一つのモデルとなると思っています。自前の施設は持てないにしても、地域密着型のスポーツクラブという形で、地域を基盤にして発展していく。バスケットボールのBリーグがそれに追随していますよね。Bリーグのチームは、自前のアリーナではなく、地域に5000人クラスのアリーナがあれば、そこを拠点にして地域密着型のスポーツクラブを設立し、それが日本代表などトップを目指す選手の育成機関という部分も併せ持っています。東京オリンピック・パラリンピックで初めて正式競技に採用されたアーバンスポーツ、なかでもスケートボードは東京オリンピックでの若い選手の活躍をきっかけに、日本社会に溶け込む基盤ができつつあります。しかし、子どもや若い人たちが「やりたい」となった時に、なかなかすぐに対応できる環境がまだ整備されていませんので、例えば若い人たちが中心となってスポーツクラブを運営していくとか、いろいろなやり方が今後出てくると良いですね。

東京オリンピック・パラリンピックが、地域とスポーツが密着した社会をつくるきっかけになればと思っています。特に障がい者スポーツが、高齢化社会でのけん引力になればと思っています。ボッチャはリオパラリンピックで日本代表が団体で銀メダルを獲得したことで盛り上がり、一般の人たちもする機会が増えました。しかし、一方で車いす競技に関しては、タイヤの痕で体育館の床が汚れるから、という理由で受け入れてもらえない施設もまだまだ多いのが実情です。そういうバリアがなくなり、障がい者スポーツもあわせて地域と密着して発展していける道を模索していくことが重要になると思います。また、人材的にも財政的にもパラリンピック競技の団体の脆弱さというのも大きな課題です。東京パラリンピックに向けては、日本財団の支援が非常に大きかった。日本財団パラリンピックサポートセンターを設立し、パラリンピック競技の団体運営の環境を整えてくれましたし、アスリートの練習環境においても日本財団パラアリーナがあったことによって非常に大きな力となり、東京パラリンピックでの日本人選手の好成績につながりました。もちろんパラの新しいナショナルトレセンも大きく貢献しています。ありがたいことにパラリンピックサポートセンターやパラアリーナは、もう少し継続していただけるということですが、日本財団にばかり頼るのではなく、やはりスポーツ庁や自治体も対応していかなければいけないと思います。

―― 日本には学校に体育館や校庭、プールなど多くのスポーツ施設があります。そうした学校施設が全国にあるというのは、世界でも稀で日本独特のスタイルだと思いますが、少子高齢化によって、使用されなくなった廃校の施設をもっと活用すべきではないでしょうか。

理想としてはおっしゃる通りですし、実際に廃校を活用した地域密着型スポーツクラブを運営している地域もあります。ただ課題も多く、たとえば廃校を地域のスポーツ施設として利用する際の運営、運用を誰が担うのか、また財政的な限界もあり、なかなか広がっていません。人材は、NPO法人や組織化されたボランティアで賄うということはできるかと思いますので、あとは基盤となる財政的な問題をどうするかが課題です。

今後の課題となるレガシーの生かし方

―― 東京オリンピック・パラリンピックの開催にあたっては、たびたび莫大なコストが問題視されました。実際、現在オリンピック・パラリンピックを開催するとなると、開催都市には非常に大きな負担がかかります。

東京オリンピック・パラリンピックを開催するにあたって、まずは高温多湿な日本の夏のシーズンに開催するということで、暑さ対策をどうするかを考えなければなりませんでした。また、競技会場においてはIOCで定められた観客数を動員できる施設を準備することにも苦労しました。たとえ既存施設を活用したとしても、営業補償や賃借料に莫大なコストがかかります。さらに今回においては、新型コロナウイルス感染症の対策にも費用がかかりました。今後も、いつどんなウイルスが出てくるかわかりませんので、開催都市はこうした対策も講じる必要が出てくると思います。今回は無事に大会を開催することができましたが、たとえば開催の時期を変更するとか、開催規模を小さくすることで解決できることもあると思いますので、今後は改善すべき点もあるのかなと思います。私たち組織委員会も大会を振り返り、しっかり課題を整理して提言していくことで、今後のオリンピック・パラリンピックにつなげていけたらと思っています。

 
2020年 東京オリンピック新競技 スケートボード

2020年 東京オリンピック 新競技 スケートボード

―― オリンピック・パラリンピックの規模については、いかがでしょうか。

競技・種目数は減らさずに、できるだけさまざなスポーツのアスリートが参加できる大会であってほしいとは思いますが、大会運営のレベルをもう少し下げて経費削減や簡素化につなげる余地はあるかと思います。東京オリンピックも5競技・18種目を追加したことで、アーバンスポーツなど新しいスポーツのあり方が見えてきたりもしましたので、競技や選手の枠というよりは、会場設備やテレビ放映に求める技術水準などを見直してはどうかなと思います。

―― 東京オリンピック・パラリンピックの開催にあたって、多くの人材が育ったと思いますが、これを今後どう生かしていくかも重要です。

組織委員会では多種多様な職種の人たちが最長7年半、一緒に困難を乗り越えてきて、最終的には約7000人のスタッフが大会運営にあたりました。さらに約7万人の人がボランティアの方にも携わっていただきました。こうしたスポーツイベントのノウハウを持った人材が育っていますし、人的ネットワークもできました。チケット購入者も含めて、今後の日本スポーツ界を支える態勢の基盤が作られていくといいなと思います。東京オリンピック・パラリンピックには多くの人たちが関わっていただき、スポーツへの理解やノウハウを持った人たちが増えたことがレガシーだと思いますので、その人たちをどのように活かしていけるのかが今後は重要になってくるのではないでしょうか。全国レベルでは、JOC、JPC そして JSC がありますし、自治体や民間での取り組みにも期待したいです。

嘉納治五郎

嘉納治五郎

―― 東京大会のレガシーとして、未来に継承していきたいこと、子どもたちに伝えたいこととは何でしょうか。

東京オリンピック・パラリンピックで改めて示された「スポーツの力」を、次世代の方々にも継承してほしいと思っています。近代オリンピックの創始者であるピエール・ド・クーベルタンも、「日本オリンピックの父」と呼ばれている嘉納治五郎氏も、最も大事にしていたのは「人間形成」でした。その一つのツールがスポーツであり、それを発揮する場としてオリンピック・パラリンピックをつくってこられたのだと思います。それだけの魅力や力がスポーツにはありますし、社会をも変えられるのがスポーツだと思います。子どもたちのスポーツ離れと言われて久しいですが、若い人たちに人気が高い新しいスポーツも出てきているので、ぜひスポーツが文化として日本社会に定着していってもらえたらと思います。東京オリンピック・パラリンピックは、その流れを推し進めるきっかけにはなったと思います。

  • 布村 幸彦氏 略歴
  • 世相

1912
明治45

ストックホルムオリンピック開催(夏季)
日本から金栗四三氏が男子マラソン、三島弥彦氏が男子100m、200mに初参加

1916
大正5

第一次世界大戦でオリンピック中止

1920
大正9

アントワープオリンピック開催(夏季)
熊谷一弥氏、テニスのシングルスで銀メダル、熊谷一弥氏、柏尾誠一郎氏、テニスのダブルスで 銀メダルを獲得

1924
大正13
パリオリンピック開催(夏季)
織田幹雄氏、男子三段跳で全競技を通じて日本人初の入賞となる6位となる
内藤克俊氏、レスリングで銅メダル獲得
1928
昭和3
アムステルダムオリンピック開催(夏季)
日本女子初参加
織田幹雄氏、男子三段跳で全競技を通じて日本人初の金メダルを獲得
人見絹枝氏、女子800mで全競技を通じて日本人女子初の銀メダルを獲得
サンモリッツオリンピック開催(冬季)
1932
昭和7
ロサンゼルスオリンピック開催(夏季)
南部忠平氏、男子三段跳で世界新記録を樹立し、金メダル獲得
レークプラシッドオリンピック開催(冬季)
1936
昭和11
ベルリンオリンピック開催(夏季)
田島直人氏、男子三段跳で世界新記録を樹立し、金メダル獲得
織田幹雄氏、南部忠平氏に続く日本人選手の同種目3連覇となる
ガルミッシュ・パルテンキルヘンオリンピック開催(冬季)

1940
昭和15
第二次世界大戦でオリンピック中止

1944
昭和19
第二次世界大戦でオリンピック中止

  • 1945第二次世界大戦が終戦
  • 1947日本国憲法が施行
1948
昭和23
ロンドンオリンピック開催(夏季)*日本は敗戦により不参加
サンモリッツオリンピック開催(冬季)

  • 1950朝鮮戦争が勃発
  • 1951日米安全保障条約を締結
1952
昭和27
ヘルシンキオリンピック開催(夏季)
オスロオリンピック開催(冬季)

  • 1955 布村 幸彦氏、富山県に生まれる
  • 1955日本の高度経済成長の開始
1956
昭和31
メルボルンオリンピック開催(夏季)
コルチナ・ダンペッツォオリンピック開催(冬季)
猪谷千春氏、スキー回転で銀メダル獲得(冬季大会で日本人初のメダリストとなる)
1959
昭和34
1964年東京オリンピック開催決定

1960
昭和35
ローマオリンピック開催(夏季)
スコーバレーオリンピック開催(冬季)

ローマで第9回国際ストーク・マンデビル競技大会が開催
(のちに、第1回パラリンピックとして位置づけられる)

1964
昭和39
東京オリンピック・パラリンピック開催(夏季)
円谷幸吉氏、男子マラソンで銅メダル獲得
インスブルックオリンピック開催(冬季)

  • 1964東海道新幹線が開業
1968
昭和43
メキシコオリンピック開催(夏季)
テルアビブパラリンピック開催(夏季)
グルノーブルオリンピック開催(冬季)

1969
昭和44
日本陸上競技連盟の青木半治理事長が、日本体育協会の専務理事、日本オリンピック委員会(JOC)の委員長に就任

  • 1969アポロ11号が人類初の月面有人着陸
1972
昭和47
ミュンヘンオリンピック開催(夏季)
ハイデルベルクパラリンピック開催(夏季)
札幌オリンピック開催(冬季)

  • 1973オイルショックが始まる
1976
昭和51
モントリオールオリンピック開催(夏季)
トロントパラリンピック開催(夏季)
インスブルックオリンピック開催(冬季)
 
  • 1976ロッキード事件が表面化
1978
昭和53
8カ国陸上(アメリカ・ソ連・西ドイツ・イギリス・フランス・イタリア・ポーランド・日本)開催  
 
  • 1978布村 幸彦氏、東京大学法学部を卒業し、文部科学省に入庁
  • 1978日中平和友好条約を調印
1980
昭和55
モスクワオリンピック開催(夏季)、日本はボイコット
アーネムパラリンピック開催(夏季)
レークプラシッドオリンピック開催(冬季)
ヤイロパラリンピック開催(冬季) 冬季大会への日本人初参加

  • 1982東北、上越新幹線が開業
1984
昭和59
ロサンゼルスオリンピック開催(夏季)
ニューヨーク/ストーク・マンデビルパラリンピック開催(夏季)
サラエボオリンピック開催(冬季)
インスブルックパラリンピック開催(冬季)

1988
昭和63
ソウルオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
鈴木大地 競泳金メダル獲得
カルガリーオリンピック開催(冬季)
インスブルックパラリンピック開催(冬季)

1992
平成4
バルセロナオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
有森裕子氏、女子マラソンにて日本女子陸上選手64年ぶりの銀メダル獲得
アルベールビルオリンピック開催(冬季)
ティーユ/アルベールビルパラリンピック開催(冬季)

1994
平成6
リレハンメルオリンピック・パラリンピック開催(冬季)

  • 1994布村 幸彦氏、文部科学省体育局学校健康教育課学校健康企画官に就任
  • 1995布村 幸彦氏、文部科学省大臣官房企画官に就任
  • 1995阪神・淡路大震災が発生
1996
平成8
アトランタオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
有森裕子氏、女子マラソンにて銅メダル獲得

  • 1997布村 幸彦氏、文部科学省生涯学習局学習情報課長に就任
  • 1997香港が中国に返還される
1998
平成10
長野オリンピック・パラリンピック開催(冬季)

  • 1999布村 幸彦氏、文部科学省高等教育局医学教育課長に就任
2000
平成12
シドニーオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
高橋尚子氏、女子マラソンにて金メダル獲得

  • 2001布村 幸彦氏、文部科学省初等中等教育局教育課程課長に就任
2002
平成14
ソルトレークシティオリンピック・パラリンピック開催(冬季)

  • 2002布村 幸彦氏、文部科学省生涯学習政策局政策課長に就任
2004
平成16
アテネオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
野口みずき氏、女子マラソンにて金メダル獲得

  • 2004布村 幸彦氏、文部科学省大臣官房人事課長に就任
  • 2005布村 幸彦氏、文部科学省大臣官房審議官(初等中等教育局担当)に就任
2006
平成18
トリノオリンピック・パラリンピック開催(冬季)

2007
平成19
第1回東京マラソン開催

2008
平成20
北京オリンピック・パラリンピック開催(夏季)
男子4×100mリレーで日本(塚原直貴氏、末續慎吾氏、高平慎士氏、朝原宣治氏)が3位となり、男子トラック種目初のオリンピック銅メダル獲得

  • 2008布村 幸彦氏、文部科学省大臣官房文京施設企画部長に就任
  • 2008リーマンショックが起こる
  • 2009布村 幸彦氏、文部科学省スポーツ・青少年局長に就任
2010
平成22
バンクーバーオリンピック・パラリンピック開催(冬季)

  • 2011東日本大震災が発生
2012
平成24
ロンドンオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
2020年に東京オリンピック・パラリンピック開催決定

  • 2012布村 幸彦氏、文部科学省初等中等教育局長に就任
2013
平成25
2020年に東京オリンピック・パラリンピック開催決定

  • 2013布村 幸彦氏、文部科学省高等教育局長に就任
2014
平成26
ソチオリンピック・パラリンピック開催(冬季)

  • 2014布村 幸彦氏、東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会 副事務総長に就任
2016
平成28
リオデジャネイロオリンピック・パラリンピック開催(夏季)

2018
平成30
平昌オリンピック・パラリンピック開催(冬季)

2020
令和2
新型コロナウイルス感染症の世界的流行により、東京オリンピック・パラリンピックの開催が2021年に延期
2021
令和3
東京オリンピック・パラリンピック開催(夏季)