父と交わした約束からスタートした監督の道
監督のオファーをくれた日立高崎の佐々木氏(左)と
―― 指導者としての道を歩もうと思ったのは、何がきっかけだったのでしょうか。
当時は女性の監督は一人もいませんでしたし、自分が指導者になろうとはまったく思っていませんでした。ただ、第1回ジュニア世界選手権後、私はユニチカを退職して埼玉県の実家に戻っていました。4年後の第2回ジュニア世界選手権に向けたチームも少し指導していたのですが、そのチームには東京女子体育大学や日本体育大学の学生が多くいましたので、大学の練習も観に行っていたんです。それと、時々リーグの試合も観に行っていました。仕事がなく、時間だけはありましたから、いろいろなところに顔を出していたんですね。
そうしていたところ、日立高崎の総務課長さんからお電話をいただきまして、「うちには今、指導者がいないので、トレーニングコーチとして来てくれませんか」という打診を受けたんです。その時は監督をするなんてことはまったく考えていませんでした。「遊んでいるのもなんだし、実業団を指導するのもいいかもしれない」と思ってお引き受けしました。
それが1985年11月だったのですが、当時、日立高崎は三部リーグで12人しかいませんでした。でも、インターハイにも出場しているような強豪の高校から優秀な選手ばかりが集まっていました。「これだけの選手が集まっていて、なぜ勝てないのかな?」と不思議に思って、選手に聞いてみたんです。そしたら「私たちも練習しているのですが、相手が強いんです」と答えるわけです。「それはおかしいよ。じゃあ、監督が決まるまでの1カ月間、一緒に練習してみよう」と言って始めたのが最初でした。私がユニチカでやってきたことをすべて選手たちに伝えながら一緒に練習をしたところ、1カ月が経った年末に工場長に呼ばれまして「監督をやっていただけませんか」と言われました。もともと優秀な選手たちが練習によって成長していることはわかっていましたので、「これは意外とスムーズに一部昇格できるかもしれない」と思うくらいチームには手応えを感じていました。しかし、女性監督が一人もいない時代でしたから、やっぱり躊躇する気持ちがあったんですね。どちらかというと「やってみたい」という気持ちが強かったものの、その場では返事をすることができず、年明けまで待ってもらいました。
20代前半、父(左)と
それでお正月で実家に帰省した際、父親に相談したんです。「日立高崎から監督就任の打診を受けたんだけれども、どうしようか悩んでいます」と言ったところ、父はすでに私が監督をやりたいと思っていることがわかっていたんでしょうね。こう言われました。「監督というのは、社長のように背中を見せて引っ張らなければいけないし、時には従業員のように自ら率先して雑用もしなければならない。ソフトボールだけを教えればいいわけじゃなく、それぞれ個性のある選手たちの人間教育もしながら、みんなを一つの方向に向かわせなければいけないんだぞ」。
それまで私は一度も自分の弱い部分を父に見せたことがなかったのですが、その時初めて中学、高校、実業団で意地悪されたり、最初の3年間はトイレ掃除しかさせてもらえなかったとか、いろいろと辛いこともたくさんあったということを洗いざらい話したんです。そしたら父は泣きながら「3年間、頑張ってみろ。実業団は結果の世界なんだから、勝たなければいけない。でも、勝つだけじゃダメだ。周りから応援されるようなチームになるように、選手一人ひとりに向き合ってきちんと育ててみなさい」と言われました。それで3年という猶予をもらって日立高崎の監督に就任しました。
プロゴルファーとして活躍した岡本綾子さん(右)と
―― ソフトボール界で初めての女性監督ということで、何か意識されたことはありましたか?
私が意識したというよりも、周囲の男性監督の方がどんどん態度が変わっていったというのはありました。まだ勝てない頃は、仲良くしてくれていた監督も、日立高崎が勝つチームになっていくと、あまり話をしてくれなくなるような人も少なくなかったです。ただ、そんな中で私しか女性監督がいませんでしたので、自分流に自由にやらせてもらったというのは大きかったと思います。
個人的に目標にしていたのは、ソフトボールからプロゴルファーへと転身し、世界で活躍していた岡本綾子さん(中学からソフトボールを始め、大和紡績福井工場のソフトボール部に入社後は、エース兼四番打者として活躍。大和紡績を退職後、1974年からプロゴルファーとなり、日本の女子選手では初めて本格的にアメリカLPGAツアーに参戦し、1987年にはアメリカ人以外で初めてLPGAツアー賞金女王となった)でした。「よし、岡本さんがゴルフで世界一になったのだから、私はソフトボールで世界一になろう」と、憧れでもあり、勝手にライバルにもしていました。
サンバイザー、サングラスで指導
―― 「宇津木監督」と言うと、サンバイザーにサングラスという装いがトレードマークでもありましたが、これらには意味があったそうですね。
現役時代は、鉢巻をしてプレーしていたんです。こめかみのあたりがキュッと締められると、気持ちが引き締まる思いがして、集中力が高まるんです。サンバイザーはその流れからですね。サングラスは、周囲に気持ちを悟られないようにするためです。
実は監督になった当初は、薄い色のサングラスで周囲からも目が見えていたんです。それは試合中も選手とアイコンタクトを取れるようにと思ってしていたのですが、ある試合で期待していた選手が三振をしてベンチに帰ってきた時に「なんであんなボール打てなかったの?」と聞いたら「ベンチの監督の顔を見たら、打てる気がしませんでした」と。ベンチで私が「なんであんなボールを振るんだよ」みたいに思っているのが、わかってしまったんでしょうね。
一方で、いつも守備要員で起用していた選手が打席に立った時に、ヒットを期待していないからこそ「自由に思い切り打てばいいよ」と笑顔で送りだしたところ、サヨナラホームランを打ったんです。後で聞いたら「監督の顔を見たら安心して打てるような気がしていたんです」と言うわけです。
それで、「あ、選手は監督の顔色をうかがってしまうものなんだな。それではダメだな」ということで、周りからは私の目が見えない濃いサングラスをかけるようにしたんです。いずれにしても、選手から教えてもらったことは多いですし、それがあるからこそ指導者としてここまでやってこれたと思っています。
東京オリンピック・パラリンピック招致活動
―― 日立高崎を3年で一部に昇格させ、常勝軍団へと育てられた宇津木さんに、今度は日本代表チームの指導者としてのオファーがきます。女性として日本代表のスタッフに抜擢されたのは、前代未聞のことでした。
最初に指導者として日本代表に招かれたのは、1990年アジア大会のことでした。その大会で銀メダルを獲得はしたのですが、JOC(日本オリンピック委員会)の中ではソフトボールはマイナー競技というのもあって、「あぁ、私はこういうきらびやかな世界はちょっと無理だな」と思って、その後は日本代表の監督はお断りしていたんです。
でも、1996年のアトランタオリンピックでソフトボールが正式競技となった時に、前年の世界選手権では7位でオリンピックの切符を獲得できなかったりして、いろいろと問題が起きたんですね。そのなかで私がコーチに選出されて、アトランタオリンピックに臨んだのですが、4位という結果に終わりました。ただその中で「日本のいいところはどこだろう」ということを考えながら試合を見ていたところ、アメリカや中国の体格やパワーには勝てませんでしたが、守備に関しては日本の良さが出ていると感じていました。それで「守備を磨いて、あとは制球力のいい投手を集めれば、日本は世界でも勝てるんじゃないだろうか。1点さえ取れば、あとは守りで勝てるかもしれない」と考えたわけです。
1996年アトランタオリンピック。ソフトボールが正式競技に
それでアトランタから帰国して、日立高崎に戻った時に、選手たちに言いました。「日本一になれたんだから、今度はみんなで世界に目を向けてみよう」と。会社にもお願いをしまして、日立高崎単独で「カナダカップ」にも出場させてもらいました。「世界は勝つためにどんな練習をしているのか」を知ることが目的だったのですが、大会が終わって日本に帰国後、選手たちに「どうだった?」と聞いたら「パワー不足」「準備不足」「日本人は常に指示待ち」「海外の選手はバランスのいい食事をしている」などと、みんな口々に気づいたことを言ってくれました。そこで「じゃあ、どうしたらいいか」ということを選手たちから提案してもらい、すべて実践したんです。
そしたら、その年は日本リーグ、全日本総合選手権、国民体育大会と三冠を達成しました。それが偶然にも1998年の世界選手権の前年だったということもあって、私が日本代表の監督に指名されました。考えた末に「選手セレクションなど、チームの全権をください」という条件を提示して、監督に就任しました。全国から集まった99人の中から22人をセレクションして、チームが始動したわけですが、選手たちには最初に「日本のため、ソフトボール界のために、チームの犠牲になってほしい」と言いました。それが、2000年シドニーオリンピックに向けての始まりでしたね。
今思い返しても「よくついてきてくれたな」と思うくらい、過酷な練習を課しましたが、選手たちは本当によくついてきてくれました。いつも口を酸っぱくして言っていたのは「あなたたちは日の丸を背負った日本代表なんだよ」ということでした。日本の代表だから、多くの方々からさまざまな支援をいただきながら、良い環境の元でこんな風に練習することができている、ということを選手に伝えながら、日本代表としての覚悟を植え付けさせました。今だったらいろいろと問題になることも当時はやりましたけれども、それでも選手たちがついてきてくれたのは「シドニーオリンピックでメダルを取って、ソフトボールをメジャーにしたい」という共通の気持ちがあったからだと思います。それと、選手たちとはとにかくたくさん話をしました。練習後は一緒にお風呂に入って、大声で歌を歌ったりね。そういう部分では、女性監督で良かったと思いますね。
2000年シドニーオリンピックで銀メダルを獲得
―― 指導者として心がけていたことは何だったのでしょうか。
一番は、教える選手たちと同じ目線になって話をすることだと思います。もちろん練習中は厳しく指導をしますが、グラウンドを離れたら、同じ人間同士、相手と一緒になってはしゃいだり、バカなことをしたりすることも大事だと思いますね。そういうふうにして心と心を通い合わせることによって、信頼関係が築けていけるのだと思います。
2004年アテネオリンピック。円陣の中央が宇津木監督
―― 2000年シドニーでは銀メダル、2004年アテネでは銅メダルと、2大会連続でメダルを獲得しました。
すべて選手のおかげです。ただ、目標だった「世界一」になれなかったのは、指導者である私の力不足でした。実はアテネの後も、「もう一度チャンスをもらえないだろうか」という気持ちがどこかにありました。だから新監督が決まって新チームが始動した時は、気持ちはどん底にあったんです。それでも、これまで自分が指導してきた選手たちにすべてを託そうと思いました。彼女たちが頑張れば、必ず金メダルを取れると信じていたんです。
2008年北京オリンピックには解説者として行かせていただいたのですが、日本が決勝で勝った瞬間、選手たちが私の方を向いて手を上げてくれた時には「よくやった、おめでとう!」と本当に嬉しい気持ちになりました。でも、正直に言うと、選手たちが首に下げた金メダルを私の方に掲げてくれた時は、複雑な気持ちになりました。「こんなに私は頑張ってやってきたのに、なんで金メダルは自分が監督の時じゃなかったのかな」と醜い自分を感じていたんです。でも、それが人間だと思うんですよね。考えてみれば、オリンピックに出たくても出られなかった選手たちもたくさんいるわけで、そういう選手たちも同じように複雑な気持ちで見ているんだろうなと。私もその一人なんだなと思いながら、金メダルを掲げた選手たちを見ていましたね。でも、こういう思いが人間を成長させてくれると思いますし、レギュラーになれない選手たちの気持ちもわかるわけですから、とても貴重な経験だったことは間違いありません。
2008年北京オリンピックでは金メダルを獲得。
肩車される上野選手
―― ソフトボールは2008年北京大会を最後に、オリンピックの正式競技から外れましたが、東京オリンピックで復活します。その東京オリンピックを間近に控えて、どんな思いを抱いていますか。
もともと東京オリンピックは「復興オリンピック」ということをうたっていましたので、そういう意味では東日本大震災の震災地の一つである福島県のあづま球場で、ほかの競技の先陣を切って始まるソフトボールには、この10年間で日本がこれだけ頑張って復興しましたよ、ということをまず最初に発信する大きな役割があると思っています。また、私個人的にはオリンピックの競技に選んでいただき、ソフトボールを世界に発信する場を用意していただけた感謝の気持ちを表すことができたらと思っています。