国内のスポーツ医学発展に寄与するメディカルセンター
JFAメディカルセンター開所式(2009年)
―― 2009年には「FIFAゴールプログラム」初の医療施設として、Jヴィレッジ(福島県双葉郡楢葉町にあるサッカーのナショナルトレーニングセンター)にJFA(日本サッカー協会)が運営するメディカルセンターが設立されました。土肥先生は設立当初から関わっておられますが、このメディカルセンターはどういう経緯で設立されたものだったのでしょうか。
JFAでは2006年に開校したJFAアカデミー福島(JFAが福島県、広野町、楢葉町、富岡町と連携し、中高一貫教育が受けられるサッカーのエリート校)を運営していることもあって、サッカー選手を目指す子どもたちへのスポーツ医学をきちんと確立させて、ケガ防止や心のケアにつなげていこうという話があがっていました。その中でアカデミーに通う子どもたちのメディカルチェックやケアを通じて、医学的な情報や知見を蓄積し、今後のジュニア選手のケアに役立てて行こうということになったんです。そのJFAの考えに対して、FIFAからも賛同が得られたことでサポートを受けることになり、メディカルセンターが設立されました。ここではケガをした選手のケアだけでなく、地域の健康サポートやスポーツの競技力向上、傷害予防などに関する研究も行われています。
JFAメディカルセンター。FIFAブラッター会長(当時)と。右から2人目が土肥氏。
―― 日本スポーツ界でこのようなスポーツ医学を専門とするメディカルセンターの設立は初めてのケースで、非常に画期的なことでした。ただ前例がなかっただけに、手探りの状態から始めたことも多かったのではないでしょうか。
まさにおっしゃる通りでした。まずは競技団体が医療施設を持つということが今までにありませんでしたので、いろいろと大変なこともありました。経営面はもちろん、学術的な部分においてもしっかりと準備しなければなりませんでしたので、どうバランスを取って運営していくかが難しかったですね。直接海外のメディカルセンターを訪れたりということはできませんでしたが、いろいろと海外の情報をいただいて、それを参考にしながら進めていきました。
調べていく中でスポーツ医学が発展しているアメリカをはじめ海外諸国や、FIFAが一番重要視していたのは「傷害予防」でした。ジュニア時代にスポーツ外傷・障害を負って選手生命が断たれるということがないようにすることが、何よりも大事なミッションだなと思いましたので、そのことを念頭に置きながら進めていきました。トップまで生き残ったアスリートはそれだけの才能があったということでもありますが、選手生命を絶たれるようなスポーツ外傷・障害を負わなかったということも大きく関係しています。一方、トップになる手前でケガや病気でドロップアウトしたアスリートがたくさんいる可能性もあるんですね。そう考えますと、トップ選手以上に、ジュニア選手への指導が非常に重要なのではないかと今、改めて感じているところです。
AFC医事委員会。前列右端。(2019年)
―― メディカルセンターをはじめ、日本サッカー界はスポーツ医学に対して意識が高く、画期的なことをしているなという印象を受けます。そのサッカー界が、国内の他の競技団体に与えた影響も大きいのではないでしょうか。
ほかの競技団体と横のつながりを深めながら、日本スポーツ界全体としてスポーツドクターがきちんと発言できる場を広げていかなければいけないと思っています。というのも、競技団体の中には「医学委員会」があっても、実際のところはうまく機能していないというところもあったりするんですね。2004年から2年間アジアサッカー連盟(AFC)に勤務していたことがあったのですが、日本だけでなくアジア全体的にスポーツの世界では医学は後回しになっていると感じています。ほとんどの国・地域の競技団体では、チーム強化や観客動員、放映権料、メディア対応といった面は非常に力を入れていますが、一方で医学に対してはサポート体制を整えるにはそれなりの時間も労力も費用もかかるということもあって、どうしても着手するのが後回しになってしまうんです。そういう現状を見ていると、スポーツ医学を根付かせることは決して簡単ではないなと痛感しています。
―― 本来であれば、スポーツを発展させるためには医学の体制を整えることが最優先事項なのではないでしょうか。
私はそう思います。結局、選手の健康状態が良くなければいい試合はできません。そうなれば、チーム強化も進まないですし、集客もできない。メディアに取り上げてもらうこともできないわけです。ただ日本ではJISSが設立されて以降、スポーツ医学が認知されるようになってきていますので、今後さらに広げていきたいと思っています。
コロナ禍でのオリンピック・パラリンピックの開催意義
―― 土肥先生のご主人でもあるJFAの田嶋幸三会長が、今年3月に新型コロナウイルスに感染したことを公表されました。さまざまな憶測も飛び交いましたが、実際はどのような経緯で公表に至ったのでしょうか。
もちろん田嶋自身も気を付けてはいたとは思いますが、3月14日に自分の部屋からリビングにいた私の携帯電話に「微熱がある」と連絡があったんです。田嶋は2月28日から3月8日まで北アイルランド、オランダ、アメリカと海外出張に出ていたこともあって、保健所に相談したところ16日に医療機関を受診するよう指示を受けました。診察で肺炎があったため入院し、同時にPCR検査を受け、翌17日の午後に陽性という結果が出たので、公表に至りました。彼を擁護するわけではありませんが、ウイルス感染は誰にでも可能性があるという点では感染したということ自体は仕方ないかなと。それと初期症状の様子からそれほど重い症状ではないということはわかっていましたので、私自身は「ちゃんと早めに治療を受ければ大丈夫だろう」と意外と冷静に見ていました。ただ世間の皆さまには、大変お騒がせしてしまいました。当時はまだ日本国内では感染者が少なかったために、余計に「会長が何をしているんだ」という非難の声が多く聞かれました。また家族である私がJISSに勤務するスポーツドクターであったために、「代表選手たちにうつしているのでは?」という心配の声が寄せられたようです。ただ、家族ということで私と同居している私の母は濃厚接触者ということになりましたが、私も2月末から海外に出張に行っていまして、3月13日に帰国をするまで、田嶋とは接していなかったんです。また帰国後もJISSには一度も行っていませんでしたので、選手たちと接することもありませんでした。
私自身は「選手に影響がなくて良かった」とほっとした気持ちだったのですが、世間は詳しいことは知りませんから、やはり心配しますよね。反響は予想以上に早く、大きかったです。田嶋が感染したことを公表して、わずか1時間後にはSNSで私への不安の声が寄せられていたのを、周囲が教えてくれました。もちろん私の職場の上司には、田嶋が公表する前にきちんと経緯を説明して理解を得ていましたので、私としては安心していたんです。ただ、世間がそんなふうに素早く反応するとは予想していなかったので、それは少し驚きました。それですぐにJFAの広報に詳しい経緯を説明して公表していただき、それで安心していただけたと思うのですが、当時はまだどんなウイルスかまったくわかっていない中でしたから、皆さんが心配するのも無理はなかったと思います。
―― 最近では少しずつ解明されてきていますが、世界的には収束の見通しが立っていません。情報も錯そうしている感がありますが、改めてどのようなことに気を付けて生活をしたらいいのでしょうか。
まず、一般の人たちにあまり多くの情報を与えないことが大切ではないかと考えています。私たち医療従事者は医学的知識がありますので判断することができますが、一般の人たちはあまりにも情報が多すぎて混乱してしまっていると思うんですね。私の母もテレビや新聞で得た情報を抱えすぎて、「あぁでもない、こうでもない」と心配ばかりしていました。ですから、まずは何をすべきかをシンプルに伝えることが重要です。
母にも伝えたのですが、まず何よりも優先すべきは「手洗い」です。顔を触ったり、食べ物を口に運ぶ時には、必ず手をきちんと洗うこと。あとは、いかに自分が健康であるかということ。体が元気であれば、ウイルスが体内に入っても人間には自然免疫がありますので感染する可能性は小さくなります。比較的若い人たちが無症状で重症化しにくい傾向にあるというのは、この自然免疫のおかげだと考えられます。母にも「外出する際にはマスクをし、きちんと手洗いをして、元気でいれば感染するリスクはほとんどないから」と言い続けたら、とても安心してくれました。私が選手に指導する際も、同じようにできるだけシンプルに答えるように心がけています。
東京オリンピック開会式が行われる新国立競技場で開催された天皇杯サッカー決勝(2020年1月1日)
―― 懸念されるのは、来年に延期となった東京オリンピック・パラリンピックが開催できるのかということです。土肥先生は、どう思われていますか?
もちろん当初は、世界で多くの方が亡くなる中、「東京オリンピック・パラリンピックを開催するのは難しいかもしれない……」と思っていました。そんな時に、改めてスポーツの力といいますか、人に与える影響力の大きさを感じたことがありました。プロ野球が開幕し、Jリーグが再開され、徐々にテレビでスポーツの試合が放映されるようになるというニュースを聞いて、ふだんはほとんどスポーツに関心がない母が「やっとスポーツが見られるようになるのね。楽しみだね」と言ったんです。それを聞いて、本当に驚きました。あれだけ「コロナが怖い、怖い」と言っていた母が、普通に考えれば「スポーツどころではない」と言ってもおかしくないのに、スポーツを楽しみにしていたんです。改めて「スポーツやアスリートの存在意義って大きいんだなぁ」と思いました。
また、ドイツのプロサッカーリーグ・ブンデスリーガでは、まだ一般の人にまで検査体制が整っていない中、選手には2日に1回のPCR検査を行っていたんです。そこまでしてリーグ戦を継続しようとしたわけです。ブンデスリーガでプレーしていた日本人選手の中には「なぜサッカー選手だけが優先されるのか?一般の人たちからは批判されないのだろうか?」という心配の声もあったようですが、ドイツでは多少の批判はあったかもしれませんが、特に大きな問題は起きなかったですよね。ということは、いかにドイツという国ではサッカーが経済をまわしているか、そして国民の精神的なよりどころになっているかなんだろうなと。よくヨーロッパでは「サッカーは生活の一部、人生の一部」だと言われますが、まさにその通りだなと感じましたし、スポーツがいかに世界の人々にとって大きな存在であるかを改めて知ったような気がしました。
日本でもさらにスポーツがさまざまな面で人生を潤してくれるものだという認識が高まると、スポーツへの価値が高まり、東京オリンピック・パラリンピック開催への気運も高まっていくのではないかなと思います。今では新型コロナウイルスがどういうものなのかが少しずつ判明されてきて、スポーツ関係者は東京オリンピック・パラリンピックを「開催する」という強い気持ちを抱いていると思います。安全・安心にさえできれば、私の母のように楽しみに待ってくれている人たちは決して少なくないはずです。ですから「開催か中止か」の議論ではなく、大事なのは「開催するために、どうしていくか」ということ。私自身は東京オリンピック・パラリンピックは開催するものと思って、スポーツドクターとしての役割をしっかりと果たしていきたいと考えています。
十分な感染対策をとって再開されたJリーグ(2020年7月)
―― 6月19日に開幕したプロ野球を皮切りに、6月27日には中断していたJリーグが始まり、大相撲も7月場所から再開しました。それぞれ無観客から始めて少しずつ観客数を増やしています。こうした対策を講じながらの実戦を積み重ねていく中で、さまざまなエビデンスが生まれ、それが東京オリンピック・パラリンピックに向けて非常に重要な後ろ盾となるのではないでしょうか。
おっしゃる通りだと思います。もう元の世界には戻ることは難しいでしょうから、私たちはコロナ禍の中での新しいスタイルを見つけていかなければいけません。「無観客での大会なんて、オリンピック・パラリンピックではない」と言っていても仕方ないわけで、考え方もやり方も変えていくしかないのだと思います。今までのように海外からも観客を大勢集めて、何万人もの観客が見ている中で試合をするということは、新型コロナウイルスの感染状況が収束する気配がない今は、どう考えても無理なことです。そうであるならば、会場での観客人数を減らすかわりに、せっかくこれだけ情報技術が発展している時代なのですから、それをどう駆使して世界の人たちがオリンピック・パラリンピックを楽しめるか、その新しい形を模索すべきだと思いますし、ある意味それを考えるいい機会になったのではないかなと思います。
注目される日本が開発した「スマートアンプ法」
サッカー日本代表選手と話す土肥氏(2019年)
―― サッカー日本代表の活動も本格的に行われるようになっています。代表活動の再開に伴って、どのような新型コロナウイルスへの感染対策をしているのでしょうか。
サッカー日本代表の活動を再開する際に、これからどういうふうに活動していけばいいかというところで、まずは選手を検査する体制が必要だろうということが議題にあがりました。強化合宿をする際に、全国から代表選手たちが一堂に集結するわけですが、その時に感染者の侵入を防ぐために選手たちの中で感染者がいるかどうかを早く見極める必要があると。
そこで当初はPCR検査をするということで動いていたのですが、いろいろと調べていく中で、PCR検査と同じ核酸増幅法でも「スマートアンプ法」(新型コロナウイルス感染検査方法の一つ)の方が適しているだろうということになりました。PCR検査では感染症対策として Biological safety level(BSL)2以上が必要になります。つまり、採取した検体からウイルスが感染する可能性があることを念頭に置いて厳重な対策を講じた設備のある環境で検査をしなければなりません。一方、スマートアンプ法はBSLが1で良く、そのような設備を必要としません。なぜなら、検体を採取した時点でウイルスを死活させて感染力がない状態にした検体を扱うからです。ですから場所を選ばずに、またウイルス感染の専門外のスタッフでも検査をすることができます。さらに検体採取後、検体を検査機関に送って結果が届くのに2、3日を要するPCR検査に比べて40分という短い時間で検査結果が出るという利点もあります。
このスマートアンプ法を使用して、サッカー日本代表では合宿に集まった選手たちに検査をし、陰性という結果が出た選手のみ合宿に参加させています。さらに合宿終了時にも検査をし、陰性であることを確認してから解散するということが行われています。スマートアンプ法による機器(Life Case)が市場に出始めたばかりで、まだ日本ではあまり知られていません。国内で本格的に採用したのは、おそらくサッカー日本代表が初のケースだと思います。
土肥 美智子氏(当日のインタビュー風景)
―― スマートアンプ法の検査機(Life Case)はどのくらいの費用がかかるのでしょうか?
1台につき約200万円です。今、感染の疑いがない方がPCR検査を受けると、2~4万円かかります。ということは単純計算ですが、スマートアンプ法で100人検査をすれば、PCR検査をした場合の元は十分に取れます。サッカー日本代表では、選手、スタッフを含めて1回の合宿につき約50人の検査が必要となり、それが男女それぞれにいくつものカテゴリーがありますので、あっという間に200万円の元が取れます。実際すでに1000以上の検体を採取しています。
このスマートアンプ法はほかの競技団体も注目しています。実はJOC(日本オリンピック委員会)会長の山下泰裕さんから田嶋の方に連絡がありました。全日本柔道連盟(以下、全柔連)ではコロナ禍で最初の大会「講道館杯全日本柔道体重別選手権」が10月31日、11月1日に行われましたが、選手の検査体制において、JFAにも協力してほしいという要請があったんです。そこで私と全柔連のスポーツドクターの方で話をしまして、スマートアンプ法を紹介させていただきました。ちょうどサッカー日本代表の検査体制が整えられた診療所と同じ千葉市の千葉ポートアリーナが会場だったこともあって可能だろうという判断で、JFAとしても全面的に協力させていただくことになりました。
また12月にはレスリングの全日本選手権が行われるので、日本レスリング協会のスポーツドクターの方からも連絡をいただきました。もちろんPCR検査でも十分だとは思いますが、競技団体の台所事情を考えれば、少しでもコストを抑えたいところ。さらに検査時間を考えても、やはりPCR検査よりもスマートアンプ法の方がスムーズに検査できるのではないかと思いますので、今後ほかの競技団体やエンターテインメント事業にも広く採用されていく可能性があります。
―― 迅速かつコストも抑えられるというのは素晴らしいですね。スマートアンプ法は、どこの国が開発した検査なのでしょうか?
実は日本とロシアとの共同開発事業なんです。神奈川県が特区を活用して神奈川県衛生研究所と理化学研究所が共同開発し、ロシアで生産されています。7月15日の神奈川県の定例会見によれば、国内の販売会社に45の病院施設等から問い合わせがあったことが報告されていますし、スポーツ庁でも認識されていますので、今後日本国内でも広がっていくと思います。