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「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。

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日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。

スポーツ界と新型コロナウイルス感染症
第96回
コロナ禍でさらに拡大するスポーツ医学の役割

土肥 美智子

JISS(国立スポーツ科学センター)に勤務され、日本スポーツ協会公認スポーツドクターとして、サッカー日本代表やオリンピック日本選手団のチームドクターを務める土肥美智子氏。国際オリンピック委員会や国際サッカー連盟の仕事にも携わるなど、多岐にわたってスポーツ界に寄与されています。

ご自身は中学校、高校ではバスケットボール部に所属し、大学時代にはセーリングで国民体育大会に出場した実績を持っています。スポーツの最前線にいる土肥氏に、スポーツ医学の重要性、そして今後スポーツドクターが果たすべき役割についてうかがいました。

聞き手/佐野慎輔  文/斉藤寿子  写真/フォート・キシモト  取材日/2020年9月29日

コロナ禍の前から必須の感染リスクへの対応

土肥 美智子氏(当日のインタビュー風景)

土肥 美智子氏(当日のインタビュー風景)

―― 10月23日現在、新型コロナウイルス感染者が世界で4000万人以上にのぼっています。死者も100万人を突破してしまいました。このような現状をどのようにとらえていらっしゃいますか。

私は感染症の専門ではありませんが、おそらく今回の日本国内の新型ウイルス感染においてはウイルス自体はそれほど重症化させるものではないと思っています。例えば、2003年に流行した「SARS」(重症急性呼吸器症候群。2002年11月に中国南部広東省で非定型性肺炎患者が報告されたのを発端に2003年7月5日に世界保健機関が終息宣言するまで世界32カ国・地域で集団発生した)は多くの方が重症化しましたが、今回ほどには広範囲に広がりませんでした。一方、今回の「COVID-19」(新型コロナウイルスの呼称)は、SARSとは逆で重症者は少なく抑えられているけれども、感染自体は世界中の広範囲に及んでいます。主な特徴としては感染しても無症状の人が多く、だからこそ無自覚に動きまわってしまうので、これだけ流行っているのだろうと。そう考えますと、手洗いやマスクの装着などの対策をきちんと講じていれば、過剰に恐れる必要はないのかなと思っています。ただ、これはあくまでも日本国内についての印象ですが。



―― 土肥先生の生活自体に、何か変化はありましたでしょうか?

医療従事者の一人ではありますが、スポーツドクターですので、日本国内で感染者が出始めた頃は私が最前線に立つことはありませんでした。選手が活動できなかった自粛期間は当然、私の仕事も激減しました。ただ状況が少し落ち着いてきて、スポーツ活動が再開し始める中、スポーツドクターがアスリートたちの"かかりつけ医"という役割となりましたので、さまざまなことに対応しなければいけないことが出てきました。



―― 感染症の専門外でありながら、このコロナ禍ではウイルス感染に対応した指導をしなければならなくなりました。スポーツドクターの仕事も多岐にわたりますね。

私自身がいろいろと勉強しなければいけないことが増えました。ただ、実は今回のコロナ禍以前から、感染への対策というのはスポーツドクターには必要な知識ではありました。というのも、アスリートはさまざまな国に遠征に行きますので、そうするとケガ以上に、インフルエンザなどの感染症からいかにアスリートを守るかということがスポーツドクターの仕事のメインとなります。ですから、広く浅くではありますが、スポーツドクターは感染症の知識を持っていますし、アスリートもふだんから感染への対策には意識が高いんです。



大学生活の唯一のモチベーションとなったクラブ活動

―― 土肥先生が医学の中でもスポーツドクターの道を選択されたのは、どんなことがきっかけだったのでしょうか。

私は医師になってからではなく、最初からスポーツドクターを目指していました。大学の医学部を卒業する際には、それぞれがどの専門の医師になるかを決めなければいけないのですが、その時には「スポーツドクターになろう」と決めていたんです。というのも、私の大学生活というのは「楽しかった」とか「とても充実していた」と人に胸を張って言えるようなものではありませんでした。少しもがいていた部分があったんですね。それで将来を考えた時に、「何を選択したら、自分は一生モチベーションを高く保って、医師という仕事に従事していけるのだろう」と思いまして、それにはやはり自分の好きなことに関わることが大事だろうなと。それで、もともと見るのも自分でするのも好きだったスポーツに関わっていけば、常に「自分を高めていこう」という気持ちで取り組んでいけるかなと思ったことが理由の一つでした。



高校時代、バスケットボール部の同級生と。前列右。

高校時代、バスケットボール部の同級生と。前列右。

―― ご自身ではどんなスポーツをされてきたのでしょうか。

中学、高校ではバスケットボール部に所属していました。そのころは、まだスポーツドクターということは考えていなかったのですが、私にとっては今も忘れることのできない出来事がありました。高校時代にバスケ部の練習で私とぶつかった先輩が激しく転倒してしまって、前十字靭帯を切るという大けがをしてしまったんです。結局その先輩はバスケットボール部に復帰することができませんでした。故意ではなかったにしても、私とぶつかったことでケガを負い、それが原因でその先輩が好きなバスケットボールを続けることができなかったのは、私自身はとても責任を重く感じていました。今振り返ると、その出来事も自分を医学の道に進ませるきっかけの一つになったのかもしれないなと感じています。



大学時代、セーリング470級に乗船中。

大学時代、セーリング470級に乗船中

―― 高校卒業後は、千葉大学医学部に進学されました。大学時代は何かスポーツをされていたのでしょうか。

本当は大学でもバスケットボールを続けたかったのですが、当時の千葉大学は女子学生が少なくて、私の学年はそれでも増えたのですが、その前までは一学年120人中、8人くらいしか女子学生がいなかったんです。それでバスケットボールの女子部がなくて、どうしようかなと思っていた時にふと目に留まったのがセーリング部でした。何か特別な強い思いがあったというよりは、大学のキャンパスは千葉市にあって、すぐ近くに稲毛ヨットハーバーがありましたので「やってみるのも面白いかも」と軽い気持ちで入ったんです。ただ実際にやってみると、もともと泳ぎが得意だったわけではなかったので、正直怖さはありました。特に天候が悪くて風が強い日の海は波のうねりも大きく、最大瞬間風速が30mを超えた海に出たこともあったのですが、とても怖かったですね。ですから、今は安易に海に行きたいとは思わないんです。ただ、セーリング部に入ったこと自体は良かったと思いました。先ほども申しました通り、医学生としては充実した学生生活を送ることができたとは言えなかった中、それでもスポーツをする時間があったことで、大学に通うとか人と触れ合うということに対してのモチベーションを保つことができていました。もしもスポーツをしていなかったら、大学に通い続けていたかどうかもわかりませんし、今のようにスポーツドクターになることもなかったかもしれません。



スポーツドクターを目指す自分を指南してくれた言葉

FIFAドーピングセミナー2003。前列左から2人目。

FIFAドーピングセミナー2003。前列左から2人目。

―― 大学卒業後は東京慈恵会医科大学で研修され、そのまま同大の放射線科医学講座に入局されました。放射線科を選ばれた理由は何だったのでしょうか?

大学時代からスポーツ医学を専門にやりたいと思っていたのですが、私が医師になった頃はまだスポーツ医学だけでは食べていくことができませんでした。また、どの先生もさまざまな専門の勉強をした後にスポーツ医学に関わっておられました。当時は医師がスポーツに関わるというと、スポーツ外傷・障害がメインで、あとは運動生理学という観点から循環器系、呼吸器系の先生が研究レベルで関わるということがほとんどでした。

大学でスポーツクリニックという外来を持たれてサッカーに関わっておられた東京慈恵会医科大学の恩師の元で勉強することにしたのですが、その前の研修医期間どの科に進むか悩んでいました。その時に大学の恩師から「ゆくゆくはどの科に行くにしても診断学は基本だから、放射線科で診断学を学んだらどうだ?」という助言をいただいたんです。それで決めました。運が良かったのは、ちょうどその頃に1980年代に開発されたMRI装置(核磁気共鳴画像法。X線を使用しないため放射線による被ばくをせずに体の断層画像を撮影できる装置)が、1990年代に入って日本でも臨床の現場に登場し始めたんです。「これでスポーツ医学にも重要な整形外科や脳神経外科の領域の診断はずいぶんと変わるな」と思いました。実際、MRIによって以前は見ることができなかった筋肉や靭帯、脊髄が可視化されるようになりました。「これだったら、自分が最も興味があるスポーツ医学を専門にやっていけるようになるかもしれない」と、将来はスポーツ医学を専門にすることを念頭に置きながら、放射線科で勉強しました。ただ、日本では「スポーツドクターになりたいと思っています」と言うと、必ず「何を専門にやってきたの?」と聞かれて、それまで自分がやってきたことが本当にスポーツ医学につながっているのかということに不安を抱いていました。



フランスの留学先にて。右はDr.Dona Le Bihan。後ろの建物が研究棟。

フランスの留学先にて。右はDr.Dona Le Bihan。後ろの建物が研究棟。

そんな時に、「スポーツドクターとは」ということを教えていただいたのが、カナダの医師でした。2001年に初めてFIFA(国際サッカー連盟)の仕事を受けて、カナダで開催された女子U-19の大会で医療スタッフを務めたのですが、そこに地元のスポーツドクターが手伝いに来てくださっていたんです。私が当時の日本の考え方で「ご専門は内科ですか?外科ですか?」と聞くと、先生は「スポーツドクターはスポーツドクターですよ」と答えられたんですね。その言葉を聞いた時に、ハッとさせられました。スポーツドクターというのは現場でケガや病気も診るし、栄養に関する指導もするし、メンタル的な部分も診ます。そういうトータル的に診るのがスポーツドクターだということを聞かされた時に、「そうか。私が目指しているスポーツ医学というのはこういうことなんだ。現場では私もこんなふうに広い知識を持ったドクターにならなければいけないんだ」ということに気づかされました。と同時に、「全身を診る放射線科で勉強していることもスポーツ医学につながっているんだ」と思うことができたんです。つまりスポーツドクターになるために大事なのは専門を持つことではなく「広く浅く知らなければいけない」ということなので、何かを根詰めてやってきたからいいということではないんだと。もちろん知識を広げていく必要はあるけれども、自分がやってきたことも必要な知識なんだと思えたんです。そしてスポーツの現場では、スポーツドクターはスポーツドクターであって、それ以外のなにものでもないんだということを教えていただきました。



国内のスポーツ医学発展に寄与するメディカルセンター

JFAメディカルセンター開所式(2009年)

JFAメディカルセンター開所式(2009年)

―― 2009年には「FIFAゴールプログラム」初の医療施設として、Jヴィレッジ(福島県双葉郡楢葉町にあるサッカーのナショナルトレーニングセンター)にJFA(日本サッカー協会)が運営するメディカルセンターが設立されました。土肥先生は設立当初から関わっておられますが、このメディカルセンターはどういう経緯で設立されたものだったのでしょうか。

JFAでは2006年に開校したJFAアカデミー福島(JFAが福島県、広野町、楢葉町、富岡町と連携し、中高一貫教育が受けられるサッカーのエリート校)を運営していることもあって、サッカー選手を目指す子どもたちへのスポーツ医学をきちんと確立させて、ケガ防止や心のケアにつなげていこうという話があがっていました。その中でアカデミーに通う子どもたちのメディカルチェックやケアを通じて、医学的な情報や知見を蓄積し、今後のジュニア選手のケアに役立てて行こうということになったんです。そのJFAの考えに対して、FIFAからも賛同が得られたことでサポートを受けることになり、メディカルセンターが設立されました。ここではケガをした選手のケアだけでなく、地域の健康サポートやスポーツの競技力向上、傷害予防などに関する研究も行われています。



JFAメディカルセンター。FIFAブラッター会長(当時)と。右から2人目が土肥氏。

JFAメディカルセンター。FIFAブラッター会長(当時)と。右から2人目が土肥氏。

―― 日本スポーツ界でこのようなスポーツ医学を専門とするメディカルセンターの設立は初めてのケースで、非常に画期的なことでした。ただ前例がなかっただけに、手探りの状態から始めたことも多かったのではないでしょうか。

まさにおっしゃる通りでした。まずは競技団体が医療施設を持つということが今までにありませんでしたので、いろいろと大変なこともありました。経営面はもちろん、学術的な部分においてもしっかりと準備しなければなりませんでしたので、どうバランスを取って運営していくかが難しかったですね。直接海外のメディカルセンターを訪れたりということはできませんでしたが、いろいろと海外の情報をいただいて、それを参考にしながら進めていきました。

調べていく中でスポーツ医学が発展しているアメリカをはじめ海外諸国や、FIFAが一番重要視していたのは「傷害予防」でした。ジュニア時代にスポーツ外傷・障害を負って選手生命が断たれるということがないようにすることが、何よりも大事なミッションだなと思いましたので、そのことを念頭に置きながら進めていきました。トップまで生き残ったアスリートはそれだけの才能があったということでもありますが、選手生命を絶たれるようなスポーツ外傷・障害を負わなかったということも大きく関係しています。一方、トップになる手前でケガや病気でドロップアウトしたアスリートがたくさんいる可能性もあるんですね。そう考えますと、トップ選手以上に、ジュニア選手への指導が非常に重要なのではないかと今、改めて感じているところです。



AFC医事委員会。前列右端。(2019年)

AFC医事委員会。前列右端。(2019年)

―― メディカルセンターをはじめ、日本サッカー界はスポーツ医学に対して意識が高く、画期的なことをしているなという印象を受けます。そのサッカー界が、国内の他の競技団体に与えた影響も大きいのではないでしょうか。

ほかの競技団体と横のつながりを深めながら、日本スポーツ界全体としてスポーツドクターがきちんと発言できる場を広げていかなければいけないと思っています。というのも、競技団体の中には「医学委員会」があっても、実際のところはうまく機能していないというところもあったりするんですね。2004年から2年間アジアサッカー連盟(AFC)に勤務していたことがあったのですが、日本だけでなくアジア全体的にスポーツの世界では医学は後回しになっていると感じています。ほとんどの国・地域の競技団体では、チーム強化や観客動員、放映権料、メディア対応といった面は非常に力を入れていますが、一方で医学に対してはサポート体制を整えるにはそれなりの時間も労力も費用もかかるということもあって、どうしても着手するのが後回しになってしまうんです。そういう現状を見ていると、スポーツ医学を根付かせることは決して簡単ではないなと痛感しています。



―― 本来であれば、スポーツを発展させるためには医学の体制を整えることが最優先事項なのではないでしょうか。

私はそう思います。結局、選手の健康状態が良くなければいい試合はできません。そうなれば、チーム強化も進まないですし、集客もできない。メディアに取り上げてもらうこともできないわけです。ただ日本ではJISSが設立されて以降、スポーツ医学が認知されるようになってきていますので、今後さらに広げていきたいと思っています。



コロナ禍でのオリンピック・パラリンピックの開催意義

―― 土肥先生のご主人でもあるJFAの田嶋幸三会長が、今年3月に新型コロナウイルスに感染したことを公表されました。さまざまな憶測も飛び交いましたが、実際はどのような経緯で公表に至ったのでしょうか。

もちろん田嶋自身も気を付けてはいたとは思いますが、3月14日に自分の部屋からリビングにいた私の携帯電話に「微熱がある」と連絡があったんです。田嶋は2月28日から3月8日まで北アイルランド、オランダ、アメリカと海外出張に出ていたこともあって、保健所に相談したところ16日に医療機関を受診するよう指示を受けました。診察で肺炎があったため入院し、同時にPCR検査を受け、翌17日の午後に陽性という結果が出たので、公表に至りました。彼を擁護するわけではありませんが、ウイルス感染は誰にでも可能性があるという点では感染したということ自体は仕方ないかなと。それと初期症状の様子からそれほど重い症状ではないということはわかっていましたので、私自身は「ちゃんと早めに治療を受ければ大丈夫だろう」と意外と冷静に見ていました。ただ世間の皆さまには、大変お騒がせしてしまいました。当時はまだ日本国内では感染者が少なかったために、余計に「会長が何をしているんだ」という非難の声が多く聞かれました。また家族である私がJISSに勤務するスポーツドクターであったために、「代表選手たちにうつしているのでは?」という心配の声が寄せられたようです。ただ、家族ということで私と同居している私の母は濃厚接触者ということになりましたが、私も2月末から海外に出張に行っていまして、3月13日に帰国をするまで、田嶋とは接していなかったんです。また帰国後もJISSには一度も行っていませんでしたので、選手たちと接することもありませんでした。

私自身は「選手に影響がなくて良かった」とほっとした気持ちだったのですが、世間は詳しいことは知りませんから、やはり心配しますよね。反響は予想以上に早く、大きかったです。田嶋が感染したことを公表して、わずか1時間後にはSNSで私への不安の声が寄せられていたのを、周囲が教えてくれました。もちろん私の職場の上司には、田嶋が公表する前にきちんと経緯を説明して理解を得ていましたので、私としては安心していたんです。ただ、世間がそんなふうに素早く反応するとは予想していなかったので、それは少し驚きました。それですぐにJFAの広報に詳しい経緯を説明して公表していただき、それで安心していただけたと思うのですが、当時はまだどんなウイルスかまったくわかっていない中でしたから、皆さんが心配するのも無理はなかったと思います。



―― 最近では少しずつ解明されてきていますが、世界的には収束の見通しが立っていません。情報も錯そうしている感がありますが、改めてどのようなことに気を付けて生活をしたらいいのでしょうか。

まず、一般の人たちにあまり多くの情報を与えないことが大切ではないかと考えています。私たち医療従事者は医学的知識がありますので判断することができますが、一般の人たちはあまりにも情報が多すぎて混乱してしまっていると思うんですね。私の母もテレビや新聞で得た情報を抱えすぎて、「あぁでもない、こうでもない」と心配ばかりしていました。ですから、まずは何をすべきかをシンプルに伝えることが重要です。
母にも伝えたのですが、まず何よりも優先すべきは「手洗い」です。顔を触ったり、食べ物を口に運ぶ時には、必ず手をきちんと洗うこと。あとは、いかに自分が健康であるかということ。体が元気であれば、ウイルスが体内に入っても人間には自然免疫がありますので感染する可能性は小さくなります。比較的若い人たちが無症状で重症化しにくい傾向にあるというのは、この自然免疫のおかげだと考えられます。母にも「外出する際にはマスクをし、きちんと手洗いをして、元気でいれば感染するリスクはほとんどないから」と言い続けたら、とても安心してくれました。私が選手に指導する際も、同じようにできるだけシンプルに答えるように心がけています。



東京オリンピック開会式が行われる新国立競技場で開催された天皇杯サッカー決勝(2020年1月1日)

東京オリンピック開会式が行われる新国立競技場で開催された天皇杯サッカー決勝(2020年1月1日)

―― 懸念されるのは、来年に延期となった東京オリンピック・パラリンピックが開催できるのかということです。土肥先生は、どう思われていますか?

もちろん当初は、世界で多くの方が亡くなる中、「東京オリンピック・パラリンピックを開催するのは難しいかもしれない……」と思っていました。そんな時に、改めてスポーツの力といいますか、人に与える影響力の大きさを感じたことがありました。プロ野球が開幕し、Jリーグが再開され、徐々にテレビでスポーツの試合が放映されるようになるというニュースを聞いて、ふだんはほとんどスポーツに関心がない母が「やっとスポーツが見られるようになるのね。楽しみだね」と言ったんです。それを聞いて、本当に驚きました。あれだけ「コロナが怖い、怖い」と言っていた母が、普通に考えれば「スポーツどころではない」と言ってもおかしくないのに、スポーツを楽しみにしていたんです。改めて「スポーツやアスリートの存在意義って大きいんだなぁ」と思いました。

また、ドイツのプロサッカーリーグ・ブンデスリーガでは、まだ一般の人にまで検査体制が整っていない中、選手には2日に1回のPCR検査を行っていたんです。そこまでしてリーグ戦を継続しようとしたわけです。ブンデスリーガでプレーしていた日本人選手の中には「なぜサッカー選手だけが優先されるのか?一般の人たちからは批判されないのだろうか?」という心配の声もあったようですが、ドイツでは多少の批判はあったかもしれませんが、特に大きな問題は起きなかったですよね。ということは、いかにドイツという国ではサッカーが経済をまわしているか、そして国民の精神的なよりどころになっているかなんだろうなと。よくヨーロッパでは「サッカーは生活の一部、人生の一部」だと言われますが、まさにその通りだなと感じましたし、スポーツがいかに世界の人々にとって大きな存在であるかを改めて知ったような気がしました。

日本でもさらにスポーツがさまざまな面で人生を潤してくれるものだという認識が高まると、スポーツへの価値が高まり、東京オリンピック・パラリンピック開催への気運も高まっていくのではないかなと思います。今では新型コロナウイルスがどういうものなのかが少しずつ判明されてきて、スポーツ関係者は東京オリンピック・パラリンピックを「開催する」という強い気持ちを抱いていると思います。安全・安心にさえできれば、私の母のように楽しみに待ってくれている人たちは決して少なくないはずです。ですから「開催か中止か」の議論ではなく、大事なのは「開催するために、どうしていくか」ということ。私自身は東京オリンピック・パラリンピックは開催するものと思って、スポーツドクターとしての役割をしっかりと果たしていきたいと考えています。



十分な感染対策をとって再開されたJリーグ(2020年7月)

十分な感染対策をとって再開されたJリーグ(2020年7月)

―― 6月19日に開幕したプロ野球を皮切りに、6月27日には中断していたJリーグが始まり、大相撲も7月場所から再開しました。それぞれ無観客から始めて少しずつ観客数を増やしています。こうした対策を講じながらの実戦を積み重ねていく中で、さまざまなエビデンスが生まれ、それが東京オリンピック・パラリンピックに向けて非常に重要な後ろ盾となるのではないでしょうか。

おっしゃる通りだと思います。もう元の世界には戻ることは難しいでしょうから、私たちはコロナ禍の中での新しいスタイルを見つけていかなければいけません。「無観客での大会なんて、オリンピック・パラリンピックではない」と言っていても仕方ないわけで、考え方もやり方も変えていくしかないのだと思います。今までのように海外からも観客を大勢集めて、何万人もの観客が見ている中で試合をするということは、新型コロナウイルスの感染状況が収束する気配がない今は、どう考えても無理なことです。そうであるならば、会場での観客人数を減らすかわりに、せっかくこれだけ情報技術が発展している時代なのですから、それをどう駆使して世界の人たちがオリンピック・パラリンピックを楽しめるか、その新しい形を模索すべきだと思いますし、ある意味それを考えるいい機会になったのではないかなと思います。



注目される日本が開発した「スマートアンプ法」

サッカー日本代表選手と話す土肥氏(2019年)

サッカー日本代表選手と話す土肥氏(2019年)

―― サッカー日本代表の活動も本格的に行われるようになっています。代表活動の再開に伴って、どのような新型コロナウイルスへの感染対策をしているのでしょうか。

サッカー日本代表の活動を再開する際に、これからどういうふうに活動していけばいいかというところで、まずは選手を検査する体制が必要だろうということが議題にあがりました。強化合宿をする際に、全国から代表選手たちが一堂に集結するわけですが、その時に感染者の侵入を防ぐために選手たちの中で感染者がいるかどうかを早く見極める必要があると。
そこで当初はPCR検査をするということで動いていたのですが、いろいろと調べていく中で、PCR検査と同じ核酸増幅法でも「スマートアンプ法」(新型コロナウイルス感染検査方法の一つ)の方が適しているだろうということになりました。PCR検査では感染症対策として Biological safety level(BSL)2以上が必要になります。つまり、採取した検体からウイルスが感染する可能性があることを念頭に置いて厳重な対策を講じた設備のある環境で検査をしなければなりません。一方、スマートアンプ法はBSLが1で良く、そのような設備を必要としません。なぜなら、検体を採取した時点でウイルスを死活させて感染力がない状態にした検体を扱うからです。ですから場所を選ばずに、またウイルス感染の専門外のスタッフでも検査をすることができます。さらに検体採取後、検体を検査機関に送って結果が届くのに2、3日を要するPCR検査に比べて40分という短い時間で検査結果が出るという利点もあります。
このスマートアンプ法を使用して、サッカー日本代表では合宿に集まった選手たちに検査をし、陰性という結果が出た選手のみ合宿に参加させています。さらに合宿終了時にも検査をし、陰性であることを確認してから解散するということが行われています。スマートアンプ法による機器(Life Case)が市場に出始めたばかりで、まだ日本ではあまり知られていません。国内で本格的に採用したのは、おそらくサッカー日本代表が初のケースだと思います。



土肥 美智子氏(当日のインタビュー風景)

土肥 美智子氏(当日のインタビュー風景)

―― スマートアンプ法の検査機(Life Case)はどのくらいの費用がかかるのでしょうか?

1台につき約200万円です。今、感染の疑いがない方がPCR検査を受けると、2~4万円かかります。ということは単純計算ですが、スマートアンプ法で100人検査をすれば、PCR検査をした場合の元は十分に取れます。サッカー日本代表では、選手、スタッフを含めて1回の合宿につき約50人の検査が必要となり、それが男女それぞれにいくつものカテゴリーがありますので、あっという間に200万円の元が取れます。実際すでに1000以上の検体を採取しています。
このスマートアンプ法はほかの競技団体も注目しています。実はJOC(日本オリンピック委員会)会長の山下泰裕さんから田嶋の方に連絡がありました。全日本柔道連盟(以下、全柔連)ではコロナ禍で最初の大会「講道館杯全日本柔道体重別選手権」が10月31日、11月1日に行われましたが、選手の検査体制において、JFAにも協力してほしいという要請があったんです。そこで私と全柔連のスポーツドクターの方で話をしまして、スマートアンプ法を紹介させていただきました。ちょうどサッカー日本代表の検査体制が整えられた診療所と同じ千葉市の千葉ポートアリーナが会場だったこともあって可能だろうという判断で、JFAとしても全面的に協力させていただくことになりました。

また12月にはレスリングの全日本選手権が行われるので、日本レスリング協会のスポーツドクターの方からも連絡をいただきました。もちろんPCR検査でも十分だとは思いますが、競技団体の台所事情を考えれば、少しでもコストを抑えたいところ。さらに検査時間を考えても、やはりPCR検査よりもスマートアンプ法の方がスムーズに検査できるのではないかと思いますので、今後ほかの競技団体やエンターテインメント事業にも広く採用されていく可能性があります。



―― 迅速かつコストも抑えられるというのは素晴らしいですね。スマートアンプ法は、どこの国が開発した検査なのでしょうか?

実は日本とロシアとの共同開発事業なんです。神奈川県が特区を活用して神奈川県衛生研究所と理化学研究所が共同開発し、ロシアで生産されています。7月15日の神奈川県の定例会見によれば、国内の販売会社に45の病院施設等から問い合わせがあったことが報告されていますし、スポーツ庁でも認識されていますので、今後日本国内でも広がっていくと思います。



安心・安全な日常、スポーツ活動のための予防医学

左:骨年齢撮像中 右:手の骨年齢資料

左:骨年齢撮像中 右:手の骨年齢資料

―― 新型コロナウイルスばかりが騒がれていますが、スポーツと医学に関わる問題はたくさん存在しています。例えば今、子どもたちがスポーツをするうえで「骨年齢」が注目されています。具体的には骨年齢によって、どのようなことがわかるのでしょうか。

「骨年齢」は成人になる前、特に発育・発達の重要な時期の子どもたちにとって非常に重要です。いわゆる暦のうえでの年齢と骨年齢は違いまして、例えば同じ12歳の子どもでも、骨年齢にはおよそ4歳の幅があって10歳の子もいれば、14歳の子もいます。そうすると、スポーツで同じことを要求するには無理が出てくるんです。その子の発育・発達に合わせたトレーニングが重要になってきます。また骨年齢がわかると、その子どものおおよその発育時期がわかりますので、最終的な身長の伸びというのも予測することができるんです。そのために、選手発掘においては骨年齢を見て判断するということがよくあります。ただ、骨年齢を判定するにはX線を撮らなければいけませんので、被曝の問題があります。ですから病気で必要な場合を除けば、積極的に取り入れられてはいないんです。

その代わりに注目されているのが、1年間の身長の伸び幅(成長速度曲線)から測る方法です。成長のピークが過ぎた子どもは体格の発育がほぼ終了したということになりますので、筋力トレーニングを始めさせるなど、身長からわかる発育・発達に合わせたトレーニングメニューを考えていくことができます。骨年齢でも成長曲線でも言えることは、同じ年齢だからといって同じことを求めたり、その時にできないから「ダメだ」という評価を下すのではなく、その子どもの体の成長に合わせて評価や指導していくことが重要ということです。



―― スポーツ庁でも注力し、土肥先生も関わっていらっしゃる女性アスリートへの支援についてはいかがでしょうか。

私がスポーツ庁の女性アスリートへの支援プログラムに関わるようになったのは、2011年でした。ちょうどその年に「なでしこジャパン」(女子サッカー日本代表の愛称)がサッカー女子ワールドカップで初優勝したり、レスリング元日本代表の吉田沙保里さんが世界選手権で9連覇したりと、女性アスリートが活躍していて、翌年のロンドンオリンピック・パラリンピックでの活躍が期待されている頃でした。

左:FIFA女子ワールドカップ2011で優勝したなでしこジャパン 右:吉田沙保里

左:FIFA女子ワールドカップ2011で優勝したなでしこジャパン 
右:吉田沙保里(2012年ロンドンオリンピック)この時点で世界選手権9連覇、オリンピック3連覇。

当時はJISSに勤務する女医が私一人だったこともあって担当になったのがきっかけだったのですが、支援活動を始めて改めて感じたのは、女性アスリートが活動する環境が男性アスリートよりも大変な面が多いなということはもちろんですが、その一方で女性アスリート自身が自分の体についてあまりよく知らないんだなということでした。例えば、月経一つとっても成人になってからではなく、10代で月経が始まった時から競技をするうえでどういうことに気を付けなければいけないのかということを知っておく必要があります。これについても、やはりジュニア世代への指導が重要だと感じています。



IOCメディカルコミッションのメンバーと。前列中央はバッハIOC会長。後列右から2人目が土肥氏(2018年)

IOCメディカルコミッションのメンバーと。前列中央はバッハIOC会長。後列右から2人目が土肥氏(2018年)

―― 今後、スポーツ医学はさらに発展し、スポーツと医学は切っても切れないものになっていくと思います。どのような関係性を築いていくことが理想の形だと思いますか。

スポーツ医学がトップアスリートのものに限らず、広く一般的な広がりが出てくることを期待しています。現在、IOC(国際オリンピック委員会)のSport and Active Society 委員会委員を務めているのですが、そこで言われているのは、"スポーツ"というと抵抗を持つ人が多いので、"身体活動"という幅広い枠でスポーツが重要な役割を果たしていかなければいけないということ。例えば、コロナ禍でより自宅にいることが多くなる中、運動不足で体重が増えてしまい困る人たちも増えてきています。そういう方たちに対して体を動かすことの意味を伝えたり、あるいは高齢化社会が進む中で、高齢者の自立という意味でも身体活動は重要な意味を持ちます。

私はこれまではパラリンピックの方にはほとんど関わっていなかったのですが、東京オリンピック・パラリンピックの開催決定を機に、パラリンピック選手と接する機会も出てきたので、自分でも勉強したり、あるいは大学で講義をしたりすることも増えました。その中でパラリンピック競技の選手がこう言っていた記事を読みました。「健常者は、運動した方がいいと思いますが、障がい者は自立し、日常生活の質を高めるために運動し続けなければいけないんです」と。この言葉にハッとさせられました。考えてみれば、人間誰しも高齢者になれば、だんだんと体が衰えてきて、いわゆる"非健康体"になっていくわけですよね。ちょっとした段差につまづいたり、手が思うように動かなくなったり、とっさに動くことができなかったり。
ですから「自立し、日常生活の質を高めるためには運動が必要」というのは、障がいのある人だけではなく、みんなに言えることだなと思ったんです。だからこそスポーツ医学はアスリートだけでなく、一般社会に重要なものになっていくだろうと。

というのも、スポーツ医学というのは予防医学でもあるんです。「ケガや病気を治す」よりも「ケガをさせない、病気にならない」ことが重要視されています。たとえば熱中症一つとっても、熱中症になってからの対処も大事ですが、それ以上にまずは熱中症にならないための対策をしっかりと講じることが重要です。そしてこの対策はアスリートが自分のパフォーマンスを発揮するためだけに限ったことではありません。高齢者をはじめ、みんなにとって必要ですし、同じような対策が取られているわけです。つまり、アスリートが安心・安全に競技をするために必要なスポーツ医学は、高齢者になって安心・安全に日常生活を送るためには必要なことでもあるんですね。ですから、アスリートへの特別なものではなく、人が日常生活を送るうえでスポーツ医学は不可欠なものであるということを広く認識してもらえるようにしていきたいと思っています。



リオデジャネイロオリンピック日本選手団メディカルスタッフと選手村にて。右から二人目。(2016年)

リオデジャネイロオリンピック日本選手団メディカルスタッフと選手村にて。右から二人目。(2016年)

―― 予防医学は大変重要なものだと思います。いま、日本の予防医学は世界と比べてどのくらい進んでいるのでしょうか?また、今後どのようになっていくべきだとお考えですか?

スポーツ医学における予防医学が日本に入ってきた頃は、もちろん欧米に比べると遅れている部分があったかと思います。今では日本でもかなり予防医学については進んではいるのですが、課題の一つは日本では医学的な資格が整備されていないというところだと思います。医学的な知識を持つ理学療法士は国家資格がありますが、私たちスポーツドクターをはじめ、アスレティックトレーナー、スポーツ栄養士は日本スポーツ協会公認の資格はありますが、国家資格ではありません。そのためにそれ一本でやっていけるかというと、なかなか難しいんです。また、アスレティックトレーナーに対して日本のアスリートがトレーニング後のケアを主に望むことが多いということも、予防医学の妨げの要因になっているかもしれません。もちろん日本のアスレティックトレーナーのケアの技術はマッサージ一つとってもとても丁寧で技術も高く、世界的にも評価されています。それはとてもいいことなのですが、どうしてもケアが重点的に考えられる傾向が強いために、予防医学という点がなかなか進まないというところもあるかなと。実はアメリカではアスレティックトレーナーは国家資格ですし、それだけで十分に食べていけるんですね。

また、スポーツの現場ではどちらかというとスポーツドクターよりもアスレティックトレーナーの方が上の立場なんです。例えばアメリカのオリンピック委員会には常勤のスポーツドクターはいませんが、アスレティックトレーナーが常勤しています。オリンピックの時には、そのアスレティックトレーナーがチーフとなって、どのドクターを帯同させるかを決めているんです。どちらが上とかではありませんが、アメリカではアスレティックトレーナーに対するポジションがきちんと用意されているというところに、予防医学の素地があるのかなと。日本ではアスレティックトレーナーも、そして私たちスポーツドクターも、日本スポーツ協会の認定にとどまり、医学的な国家資格ではないというところに改善すべき問題があると思っています。しっかりとした資格制度も必要ですし、さらにせっかく勉強をして厳しい試験をパスしても、働く場がなければ宝の持ち腐れになってしまいます。そういう部分が今後日本にスポーツ医学や予防医学を浸透させていくための大きな課題だと思います。



―― 最後に、今後取り組んでいきたいことや目標について教えてください。

日本でもスポーツ医学が少しずつ認知されてきた今、私たちの世代として今後取り組んでいかなければいけないと考えているのは、やはりスポーツドクターやアスレティックトレーナーの医学的な資格制度の確立です。おそらく資格制度を整備するには少なくとも10年といった少し長い時間が必要だと思いますので、その間にスポーツドクターやトレーナーを目指そうとする若い人たちを増やして、医学界にも声が届きやすくすることが必要かなと。そのためにも今スポーツドクターやアスレティックトレーナーとして活動している私たちが、たとえば日本代表の遠征に帯同した時に「この先生に来てもらって良かった」と思ってもらえる仕事をし、継続して働く場が持てるように、しっかりと取り組まなければいけないと思っています。



  • 土肥 美智子氏 略歴
  • 世相

1912
明治45

ストックホルムオリンピック開催(夏季)
日本から金栗四三氏が男子マラソン、三島弥彦氏が男子100m、200mに初参加

1916
大正5

第一次世界大戦でオリンピック中止

1920
大正9

アントワープオリンピック開催(夏季)

1924
大正13
パリオリンピック開催(夏季)
織田幹雄氏、男子三段跳で全競技を通じて日本人初の入賞となる6位となる
1928
昭和3
アムステルダムオリンピック開催(夏季)
織田幹雄氏、男子三段跳で全競技を通じて日本人初の金メダルを獲得
人見絹枝氏、女子800mで全競技を通じて日本人女子初の銀メダルを獲得
サンモリッツオリンピック開催(冬季)
1932
昭和7
ロサンゼルスオリンピック開催(夏季)
南部忠平氏、男子三段跳で世界新記録を樹立し、金メダル獲得
レークプラシッドオリンピック開催(冬季)
1936
昭和11
ベルリンオリンピック開催(夏季)
田島直人氏、男子三段跳で世界新記録を樹立し、金メダル獲得
織田幹雄氏、南部忠平氏に続く日本人選手の同種目3連覇となる
ガルミッシュ・パルテンキルヘンオリンピック開催(冬季)

1940
昭和15
第二次世界大戦でオリンピック中止

1944
昭和19
第二次世界大戦でオリンピック中止

  • 1945第二次世界大戦が終戦
  • 1947日本国憲法が施行
1948
昭和23
ロンドンオリンピック開催(夏季)
サンモリッツオリンピック開催(冬季)

  • 1950朝鮮戦争が勃発
  • 1951日米安全保障条約を締結
1952
昭和27
ヘルシンキオリンピック開催(夏季)
オスロオリンピック開催(冬季)

  • 1955日本の高度経済成長の開始
1956
昭和31
メルボルンオリンピック開催(夏季)
コルチナ・ダンペッツォオリンピック開催(冬季)
猪谷千春氏、スキー回転で銀メダル獲得(冬季大会で日本人初のメダリストとなる)
1959
昭和34
1964年東京オリンピック開催決定

1960
昭和35
ローマオリンピック開催(夏季)
スコーバレーオリンピック開催(冬季)

ローマで第9回国際ストーク・マンデビル競技大会が開催
(のちに、第1回パラリンピックとして位置づけられる)

1964
昭和39
東京オリンピック・パラリンピック開催(夏季)
円谷幸吉氏、男子マラソンで銅メダル獲得
インスブルックオリンピック開催(冬季)

  • 1964東海道新幹線が開業
  • 1965 土肥美智子氏、東京都に生まれる
1968
昭和43
メキシコオリンピック開催(夏季)
テルアビブパラリンピック開催(夏季)
グルノーブルオリンピック開催(冬季)

1969
昭和44
日本陸上競技連盟の青木半治理事長が、日本体育協会の専務理事、日本オリンピック委員会(JOC)の委員長に就任

  • 1969アポロ11号が人類初の月面有人着陸
1972
昭和47
ミュンヘンオリンピック開催(夏季)
ハイデルベルクパラリンピック開催(夏季)
札幌オリンピック開催(冬季)

  • 1973オイルショックが始まる
1976
昭和51
モントリオールオリンピック開催(夏季)
トロントパラリンピック開催(夏季)
インスブルックオリンピック開催(冬季)
 
  • 1976ロッキード事件が表面化
1978
昭和53
8カ国陸上(アメリカ・ソ連・西ドイツ・イギリス・フランス・イタリア・ポーランド・日本)開催  
 
  • 1978日中平和友好条約を調印
1980
昭和55
モスクワオリンピック開催(夏季)、日本はボイコット
アーネムパラリンピック開催(夏季)
レークプラシッドオリンピック開催(冬季)
ヤイロパラリンピック開催(冬季) 冬季大会への日本人初参加

  • 1982東北、上越新幹線が開業
1984
昭和59
ロサンゼルスオリンピック開催(夏季)
ニューヨーク/ストーク・マンデビルパラリンピック開催(夏季)
サラエボオリンピック開催(冬季)
インスブルックパラリンピック開催(冬季)

1988
昭和63
ソウルオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
鈴木大地 競泳金メダル獲得
カルガリーオリンピック開催(冬季)
インスブルックパラリンピック開催(冬季)

  • 1991 土肥美智子氏、千葉大学医学部を卒業し、東京慈恵会医科大学にて研修
1992
平成4
バルセロナオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
有森裕子氏、女子マラソンにて日本女子陸上選手64年ぶりの銀メダル獲得
アルベールビルオリンピック開催(冬季)
ティーユ/アルベールビルパラリンピック開催(冬季)

  • 1993 土肥美智子氏、東京慈恵会医科大学放射線医学講座に入局
1994
平成6
リレハンメルオリンピック・パラリンピック開催(冬季)

  • 1994 土肥美智子氏、フランス原子力委員会、フレディック・ジョリオ病院に留学
  • 1995阪神・淡路大震災が発生
1996
平成8
アトランタオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
有森裕子氏、女子マラソンにて銅メダル獲得

  • 1996 土肥美智子氏、東京慈恵会医科大学柏病院放射線科に勤務
  • 1997香港が中国に返還される
1998
平成10
長野オリンピック・パラリンピック開催(冬季)

2000
平成12
シドニーオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
高橋尚子氏、女子マラソンにて金メダル獲得

2002
平成14
ソルトレークシティオリンピック・パラリンピック開催(冬季)

  • 2002土肥美智子氏、東京慈恵会医科大学青戸病院放射線科に勤務
    土肥美智子氏、国立スポーツ科学センタースポーツ医学研究部に非常勤にて勤務
    • 2003 土肥美智子氏、日本スポーツ協会公認スポーツドクターに就任
2004
平成16
アテネオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
野口みずき氏、女子マラソンにて金メダル獲得

  • 2004土肥美智子氏、アジアサッカー連盟スポーツ医学部門に勤務
    土肥美智子氏、国立スポーツ科学センタースポーツ医学研究部非常勤医師に就任
2006
平成18
トリノオリンピック・パラリンピック開催(冬季)

  • 2006土肥美智子氏、国立スポーツ科学センタースポーツ医学研究部研究員に就任
2007
平成19
第1回東京マラソン開催

2008
平成20
北京オリンピック・パラリンピック開催(夏季)
男子4×100mリレーで日本(塚原直貴氏、末續慎吾氏、高平慎士氏、朝原宣治氏)が3位となり、男子トラック種目初のオリンピック銅メダル獲得

  • 2008リーマンショックが起こる
2010
平成22
バンクーバーオリンピック・パラリンピック開催(冬季)

  • 2010 土肥美智子氏、国立スポーツ科学センターメディカルセンター副主任研究員に就任
  • 2011東日本大震災が発生
2012
平成24
ロンドンオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
2020年に東京オリンピック・パラリンピック開催決定

2014
平成26
ソチオリンピック・パラリンピック開催(冬季)

2016
平成28
リオデジャネイロオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
2018
平成30
平昌オリンピック・パラリンピック開催(冬季)
2020
令和2
新型コロナウイルス感染症の世界的流行により、東京オリンピック・パラリンピックの開催が2021年に延期