オーストリアのアルペンスキー選手カール・シュランツ (中央)(1972年/札幌オリンピック選手村にて。この後追放になった)
―― 長野オリンピックは財政的な面でも非常に成功しました。その重要な役割を果たしたのがJOCが中心となって出資して創設した「ジャパン・オリンピック・マーケティング」(JOM)という部門。これをJOCに創設し、長野オリンピック記念グッズを販売するショップを東京にもオープンさせたりするなどのマーケティング戦略が成功しました。そのおかげで51億円の黒字となり、オリンピック後に広く活用されました。
その背景には、プロ選手がオリンピックに出場することが容認されたことが非常に大きかったと思います。ご存じの通り、もともと「オリンピック憲章」(IOCによって採択されたオリンピズムの根本原則などを成文化したもの)にはアマチュア規定があり、参加はアマチュア選手に限られていました。しかし、1972年に札幌で開催された冬季オリンピックの時に、こんな事件が起こりました。アルペンスキーのオーストリア代表で出場するはずだったカール・シュランツ選手が広告への写真提供によって収入を得ていることが、開幕数日前にアメリカのメディアで報道されたんです。アマチュアリズムに強いこだわりを持っていたアベリー・ブランデージIOC会長(当時)はこれを問題視しまして、IOC委員による投票の結果、シュランツ選手の参加は認められませんでした。アマチュア選手だけが出場を認められていた当時、オリンピック選手はスポーツを利用してお金を得ることは許されていなかったんです。この事件を受けて、私と旧知の仲である国際スキー連盟のマーク・ホドラー会長(当時)は「今すぐにIOCを改革しなければ、オリンピックは金持ちだけが参加できるということになってしまう。こんなバカな話はない」と憤っていました。
彼は当時IOCの理事も務めていて、会計担当もやっていて、IOCのなかでも非常に力がありましたから、IOC改革の中心的役割を果たしたと思います。実際、2年後の1974年にはオリンピック憲章から「アマチュア」という文字が削除され、プロ選手の参加については各国際競技連盟に一任されるようになったんです。
そして、1980年にサマランチさんがIOC会長に就任したことで、全面的なプロ選手のオリンピック出場が容認されることになりました。しかし、そうした世界的な流れの中、日本は後れをとりました。当時の日体協にはアマチュア委員会がありまして、アマチュアリズムが根強く残っていたんです。ようやく日体協の「アマチュア規定」を廃止して、「スポーツ憲章」を制定し、スポーツは「人間が運動を自ら楽しみとして求めることによって成立してきた人類共通の文化」であると位置づけられたのは1986年。これ以降、日本でもプロ選手のオリンピック参加が認められていくようになったんです。
―― 1986年のスポーツ憲章制定が大きな意味をもちますが、年配の方たちの中には、アマチュアリズムに強いこだわりを持っていらっしゃる方たちが大勢いたはずです。アマチュア規定の廃止にもっていくためには、特にプロ容認の旗振り役として大きな責務を負われた堤さんは相当なご苦労があったのではないでしょうか。
世間一般的には知られていませんが、水面下では本当に大変でした。ただ、すでに世界がプロ化の道を進み始めていましたから、「プロ選手の出場を容認しないと、どんどん日本は世界に後れをとってしまいます」ということが言えたのは説得力がありましたね。
長野オリンピック・アイスホッケー決勝チェコ対ロシア戦(1998年)
―― そうした世界的な流れの中、長野オリンピックではアイスホッケーにはNHL(ナショナルホッケーリーグ:北米プロアイスホッケーリーグ)の選手たちがアメリカやカナダの代表として出場しました。NHLの現役選手がオリンピックに出場したのは、この時が初めてでしたから、世界的な話題となり、アイスホッケーの試合は大盛況でした。
長野オリンピックの開催が決定した後、私とサマランチ会長とでは「NHLの現役選手をオリンピックに参加させよう」という話をしていました。そこでサマランチ会長と旧知の仲であったIIHF(国際アイスホッケー連盟)のルネ・ファゼル会長にも協力してもらいまして、オリンピックのために史上初めてレギュラーシーズンを中断する「オリンピック・ブレイク」を設け、オリンピック出場が可能となったんです。
長野オリンピック組織委員会としても、NHLの選手たちも参加しやすいように条件を整えました。まずは予選リーグと決勝ラウンドで選手の入れ替えを許可するルールにしました。また、NHLの選手たちにとっては本来であればリーグ戦真っただ中の時期ですから、なるべく短期間で終えられるようにと、シード国(6チーム)と非シード国(8チーム)に分け、NHLの選手が多くいる強豪国をシードとし、決勝ラウンドから参加すれば良いようにしました。さらにギャランティが発生しない代わりに、選手とその家族の分のファーストクラスの航空チケットとホテルを用意するというVIP扱いにしました。
初めてNHLの現役選手がオリンピックに参加して結成された"ドリーム・チーム"同士の試合は予想以上の人気を博しまして、チケットは完売し、放映権料も高騰しました。これは嬉しい"誤算"。これほどすごいことになるとはまったく予想していませんでした。51億円もの黒字は、アイスホッケーのおかげでした。
就任会見に臨む日本オリンピック委員会山下泰裕会長(2019年)
―― 長野オリンピック以降のオリンピックでは、財政的に厳しい状況が続いています。
確かにスポンサー集めには苦労しているかもしれませんね。2008年の「リーマン・ショック」(アメリカの投資銀行リーマン・ブラザーズが破産申請したのを契機に起こった世界的な金融危機)で景気が悪化したことも大きく影響したのではないでしょうか。
しかし近年、日本の景気は上向き状態にありますし、昨年JOCの新会長に就任した山下泰裕さん(全日本柔道選手権9連覇。1984年ロサンゼルスオリンピックでは柔道無差別級で金メダルを獲得。全日本柔道連盟副会長、東海大学副学長、味の素ナショナルトレーニングセンター長などを歴任)は世界的なアスリートでしたから、その山下さんがJOCの顔になったということも大きいと思いますね。山下さん自身、リーダーシップもありますし、表現力豊かで話もうまい。そういう意味では、企業からのサポートを受けて、財政的にも良いサイクルを生み出していくのではないかと期待しています。
西武ライオンズが生み出した プロ野球の慣習
堤義明氏
―― 堤さんご自身は早大の学生時代には「観光学会」というサークルをつくったり、在学中に軽井沢にスケートセンターをつくって人を呼び込んだりと、「スポーツ」と「観光ビジネス」をうまくマッチさせてきたと思います。今では「スポーツツーリズム」(スポーツイベントとその開催地周辺の観光とを融合させ、人々の交流促進・拡大や経済への波及効果などを図る取り組み)という考えも浸透しつつありますが、以前は日本にはそういう概念がほとんどなかった中、堤さんはどのようにしてそのような発想に至ったのでしょうか。
今から50年ほど前、私が学生のころは軽井沢には避暑地というイメージしかなく、夏に利用する別荘しかなかったんです。父親から軽井沢の開発を任された際、どうすれば軽井沢の別荘に夏以外にももっと人を呼び込めるかを考えたんですね。その時に思ったのが「冬の寒さを活かしたものができれば、もっと人が来るようになるのでは」と思いまして、何がいいかを考えた結果、スケート場にたどり着いたわけです。そしたら大当たりで、最盛期には夏にも負けないほどの人が冬に軽井沢に行くようになりました。
ところが、最初はうまくいっていたのですが、そのうちに同じような施設が周りに次々とできてしまいまして、来場者がどんどん減っていってしまったんです。それで若い年代に人気のスケートではなく、もう少し高い年齢層の人たち向けに何かないかなと思いまして、そしたらスキーにたどり着いたと。軽井沢には雪は積もりませんから、それで群馬県の万座温泉のほうにスキー場をつくったわけです。
そうした成功を機に、「スポーツ」と「観光」というものを融合させて考えるようになったんです。もともと不動産を家業とする家で育ってきていますけれども、先代も都心にビルを建てるというようなことよりも、リゾート開発に注力していました。子どものころ、先代についていっていろいろと見ていく中で、その地域にあった「付加価値」を考えるようになったのだと思いますね。それが「スケート」「スキー」「ゴルフ」「テニス」というスポーツだったということなんでしょうね。それとちょうど時代的にも、生活にゆとりが出てきて、スポーツを楽しむようになってきていたということもあったと思います。
プロ野球 西武対オリックス戦(1999年/西武球場)
―― 堤さんの功績として欠かすことができないのが、西武ライオンズ(現・埼玉西武ライオンズ)です。1978年、経営難に陥っていたクラウンライターライオンズを、西武グループの国土計画が買収し、「西武ライオンズ」が誕生しました。
当時、盟主を自認していた巨人でさえ多摩川の河川敷で練習し、小さなピッチング練習場しか所有していなかった時代に、西武のオーナーに就任した堤さんは、メジャーリーグのドジャースタジアムをモデルとしたすばらしい新球場を建設し、さらに球場付近には第一、第二グラウンドや室内ピッチング練習場、選手寮までつくられました。それに応えて、球団創設3年目の1982年には24年ぶりの日本一を達成しました。
実は、あれほど早く優勝するとはまったく予想していなかったんです。それまでライオンズは最下位が定位置というくらいの球団でしたから、私は日本シリーズで対戦するセ・リーグの6球団もあわせて、11年かけて日本一になればいい、と長期計画で考えていました。ですから即戦力の選手を集めるのではなく、チームスポーツなのだから、個人的な能力よりもチームワークを大切にしてコミュニケーションを図れるような選手たちを集めなさいと指示していました。殺伐とした雰囲気ではなく、みんなで一致団結をして明るい雰囲気で優勝をめざすようなチームづくりをテーマに掲げていたんです。
―― 今ではプロ野球では一般的になりましたが、選手が移動の時にスーツを着るというのも西武ライオンズが始めたことでしたし、ライオンズの公式マスコット「レオ」のピンバッジを選手がみんな胸に付けるというのも画期的なことでした。そうしたこともすべて「一致団結」を意味していたんですね。
最初にライオンズの選手たちを見た時に、あまりにもバラバラだったんですね。例えば、高校野球とかアマチュアの選手はきちんと整列したり、そろえるのが当たり前ですよね。ところが、プロはそうではなかったんです。それで、服装などをそろえたらチームに団結力が生まれるのではないかと思いまして、それで始めたことでした。
根本陸夫氏
―― 他球団も西武ライオンズに追随していって、今ではどこの球団もやるようになりました。また、チームづくりにおいても、前年に最下位だったクラウンの監督である根本陸夫さん(元プロ野球選手。引退後、コーチ、監督、ゼネラルマネジャー〈GM〉を歴任。特にGMとしての手腕に優れ、西武ライオンズやダイエーホークス〈現・福岡ダイエーホークス〉の黄金時代を築いた)に権限を持たせ、3年目の1981年に広岡達朗さん(巨人の遊撃手として活躍し、現役引退後は監督としてヤクルトスワローズ〈現・東京ヤクルトスワローズ〉、西武を日本一に導いたプロ野球界屈指の名将)を監督に抜擢したというのも、さすがでした。
根本さんは監督としての能力はとても高いとは言えませんでした(笑)
クラウン、西武の監督を務めた3シーズンの成績は、リーグ5位、6位(最下位)、4位でしたからね。しかし、有望新人選手の獲得などチーム編成やフロント業務のGMとしての能力は非常に高いと思っていましたから、正解でしたね。広岡さんを監督にした背景には、実は川上哲治さん(戦時中から戦後にわたって巨人で強打者として活躍。引退後、コーチを経て1961年に巨人の監督に就任。14年間で日本一11回を誇り、特に1965年から1973年までの日本シリーズ9連覇達成は「巨人V9時代」として今も語り草となっている)からの助言がありました。
周囲には絶対に気づかれないように、あるテレビ局の応接室をお借りしまして、川上さんにお会いしまして「あなたの思想を最も受け継いでいる人を紹介してもらえませんか」と言ったところ、広岡さんの名前が出てきたわけです。おかげで球団創設4年目、広岡さんが監督就任1年目の1982年にはリーグ優勝、日本一を達成しました。あんなに早く優勝できたのは99%、広岡さんの力でした。