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「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。

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日本のラクビーを支える人びと
第82回
「BIG TRY」を目指すラグビーワールドカップ2019

岡村 正

現在、日本ラグビーフットボール協会会長を務め、ラグビーワールドカップ2019の成功やラグビーの普及拡大に奔走する岡村正さん。そのラグビーの情熱は、小学生の時に初めて見たオールブラックス(ニュージーランド代表)とオーストラリア代表とのテストマッチでした。

現役引退後には「ラグビーから離れたくない」とレフリーに転向。さらに東芝ラグビー部の応援団長として毎試合のように会場を訪れるなど、ラグビーとともに人生を歩まれてきました。そんな岡村さんに、半年後に迫ったラグビーワールドカップへの思いや、今後のラグビー、スポーツのあるべき姿などを伺いました。

インタビュー/2019年2月19日  聞き手/佐野 慎輔  文/斉藤 寿子  写真/岡村 正・フォート・キシモト

全敗から3勝へ。勝って知ったラグビーの真の魅力

戸山高校時代にテニスに親しむ

戸山高校時代にテニスに親しむ

―― 日本ラグビーフットボール協会会長の岡村さんがラグビーと出合われたのは、どのようなきっかけだったのでしょう。

ずいぶんと古い話になりますが、私が10歳の時、オールブラックス(ニュージーランド代表の愛称)とオーストラリア代表との模範試合が東京ラグビー場(現秩父宮ラグビー場)で行われまして、その試合を兄に連れられて見に行きました。兄はラグビーをやっていたわけではなかったのに、なぜあの試合に私を連れて行ったのか、未だに理由はわかりませんが、それが初めて目にしたラグビーでした。当時はもちろん、ニュージーランドが圧倒的に強く、オーストラリアに大勝したと思いますが、そんな一方的な試合でも子どもながらにして「なんて面白いスポーツなんだ」と一瞬にして虜になりました。それが最初のきっかけでした。

―― それで、「ラグビーをやろう」となったわけですか? 小学生なので、ほかのスポーツもやられたのでしょうか。

兄がテニスをしていましたので、私も兄の後を追って高校まではテニスをしていました。そしたら進学した都立戸山高校(東京)では体育でラグビーの授業がありまして、やってみたらやっぱり面白くて、小学生の時にオールブラックス戦を見て感じたラグビー熱が蘇ってきたんです。授業でやっていくうちにどんどんラグビーへの関心が高まっていきまして、「大学では絶対にラグビー部に入ろう」と決めていました。

東京大学時代(左)

東京大学時代(左)

―― 実際、進学した東京大学ではラグビー部に入部されましたね。
自ら志願してという感じですか?

すでに入るつもりでいたのですが、私は身長が177cmと当時にしては高い方だったこともあって、偶然にもラグビー部に勧誘されたんです。汚いジャージとスパイクを手渡されて「これを貸してやるから、練習に来い」と。それで一緒に練習をしたのですが、練習後に私と同じように勧誘を受けた1年生数人を先輩が食事に連れて行ってくれまして、美味しいご飯をごちそうになりました。それで入部を決めました(笑)。

―― ご飯が決め手になったというわけですね(笑)。ところで、東大ラグビー部の練習はどうでしたか、厳しかったんですか?

練習は非常に厳しかったですね。日曜日も含めて週に6日練習がありまして、午後3時頃から、3、4時間ありました。休みは月曜日のみでした。日曜日が練習日だったのは、OBが来て指導してもらえるからです。当時の東大ラグビー部には常任のコーチがいたわけではありませんでしたから、OBに練習を見てもらっていたんです。

東京大学時代、山中湖合宿

東京大学時代、山中湖合宿

―― 当時の東大ラグビー部は、どんなラグビーをしていたのでしょう?

当時はメディアにもよく取り上げていただいたのですが、「タックルの東大」というふうに呼んでもらっていました。「とにかくタックルだけはすごいね」と言われていて、それはとても嬉しかったですね。しかしその反面、「まるでアクセルのない車だ」とも言われていました(笑)。要するに、選手は決してさぼっているわけではないんだけれども、15人がダラダラと進むだけで、スピード感がなかったんでしょうね。実際、練習はハードでしたけれども、弱かったんです。それこそ、私が1年生の時の対抗戦は全敗でした。特に早稲田大学との試合では、0-50くらいの大差で負けたと記憶しています。正直、「こんな弱いクラブに入ってしまったのか」と、がっかりした気持ちもありました。だからと言って、テニスに戻ろうとか、ラグビーを辞めようとは思いませんでしたが、やっぱりやるからには勝ちたいですからね。全敗というのは、ショックでした。

それで私が2年生の時にキャプテンを務めたのが、2001~2004年に日本ラグビーフットボール協会会長を務めた町井徹郎さんだったのですが、「こんなに負けてばかりじゃ、練習をしている意味がない。強豪校の早慶明(早稲田大学・慶應義塾大学・明治大学)は仕方ないにしても、それ以外の大学には勝てるようにしようじゃないか」と宣言しました。そこで力の接近している専修大学、防衛大学校、成蹊大学3校に絞りまして、各校の練習を視察に行き、どのようなラグビーをしているのかを調べました。そのうえで、どうすれば勝てるのか戦略を立てて試合に臨むようにしたところ、見事その3校にはすべて勝つことができたんです。もともと厳しい練習はしていましたから、実力がなかったわけではなかったと思うんですね。相手を知り、きちんと戦略を立てたことで、本来の実力が出せたのだと思います。いずれにしても、勝って初めてラグビーの本当の面白さを感じた気がしました。

日本代表のロック、ヘル・ウヴェ 

日本代表のロック、ヘル・ウヴェ 

―― 岡村さんは、ロック(スクラムでは第2列に位置して第1列を肩で押す。長身選手が多く、ジャンプ力が求められる空中戦に強いポジション)だったと聞いています。ロックはおもしろいポジションでしたか?

本当は自分としては、結構足も速い方でしたのでバックス(最前線でパスなどでボールをつないだり、サインプレーを駆使するなどしてトライを狙うポジション)をやりたかったのですが、身長177cm、体重75kgと、当時としては大柄な方でしたので、最初から先輩に「お前はロックだ」と言われてしまいました。
当時のロックはラインアウト(ボールがタッチラインの外に出た際、その地点からボールの投入によって競技を再開する)の中心となるポジションでしたので、個人練習にも励みました。現在のようにリフティング(ラインアウトによって投入されたボールを取る役割を担う選手を味方の選手二人で持ち上げること)がありませんでしたから、ジャンプ力をつけなければいけないということで、毎日何千回と縄跳びで鍛えたんです。練習は苦しかったのですが、試合でトレーニングの成果を感じてくると、どんどんロックのポジションが面白くなっていきました。

―― ラグビーのどんなところに魅力を感じられていたのでしょう。

「手を使ってはいけない」「足を使ってはいけない」というような制約がなく、体を自由に使うことのできるスポーツだというところです。普段、学校では授業などで頭を使いますから、やっぱりフラストレーションがたまりますよね。それをラグビーで体を自由に目いっぱい使うことで、頭も心もすっきりできたんです。それが何よりの魅力でした。

東京大学、東芝を通しての先輩町井徹郎氏(右)。左は日比野弘氏

東京大学、東芝を通しての先輩町井徹郎氏(右)。左は日比野弘氏

―― 先輩でキャプテンを務められた町井さんとは、大学卒業後も東芝の同僚になられた。町井さんも日本協会の会長をやられていますが、大学時代は、どんな方だったのでしょうか。

後に東芝では、町井さんは私の直属の上司となりまして、大変お世話になりました。大学時代から町井さんはキャプテンらしいキャプテンで、私は非常に尊敬しておりました。

ラグビーでは試合中、監督はグラウンドで指示することができませんから、試合の流れを見てキャプテンがすべて戦略を指示しなければならないのですが、そもそも当時の東大ラグビー部には常任の指導者が監督以外にはいませんでしたので、キャプテンが練習の時からすべて決めていかなければなりませんでした。次の試合の戦略を立てて、それを具体化させて練習メニューに落とし込んでいき、各選手の役割を決めてチームを強化しながらまとめていくと。キャプテンには「戦略の立案」と「リーダーシップ」という2つの能力が求められましたが、町井さんは、どちらの能力にも非常に優れた方でした。

現役引退後もレフリー、応援団長として関わり続けたラグビー

東芝ブレイブルーパス

東芝ブレイブルーパス

―― 東芝に入られたのは、先輩の町井さんの後を追ってということだったのでしょうか。

そうなんです。東芝に入社したのは町井さんが声をかけてくださったことがきっかけでした。当時の東芝のラグビー部(現東芝ブレイブルーパス)は南関東代表になれるかどうかというくらいで、決して強くはありませんでした。特に弱かったフォワードの強化が必要とされていたようで、町井さんから「どうだ、東芝に来ないか」と誘っていただきました。しかも聞けば、2年後には台湾に遠征する予定があると。当時、海外遠征に行くなんてことはほとんどありませんでしたから、「それはすごい!」ということで、すぐに飛びつきました(笑)。ところが、その台湾遠征の話は延期になってしまいまして、そうしているうちに、昭和40年(1965年)、経営悪化に伴い、東芝ラグビー部は廃部になってしまいました。結局、台湾遠征は実現しなかったんです。

―― 廃部になった後は、どのようにしてラグビーを続けていたのでしょうか?

廃部になったのは、各工場のチームから選抜されたメンバーによる混成チームでしたので、各工場のラグビー部は活動を続けていました。そこから「試合に出てほしい」と声をかけていただいたので、毎週のように関東のどこかの工場のチームに助っ人という形でプレーしていました。

―― それほど多くの声がかかったということは、岡村さんの技量がそれだけ高かったということの証ですね。

いえいえ、それほどたいした実力ではなかったと思います。ただ、ロックというポジションをやれる選手が少なかったんでしょうね。それで必要とされていたのだと思います。ともかく工場別にラグビー部は存続していたのですが、1977年(昭和52年)までは後の東芝ラグビーの母体になる府中工場でさえ予選敗退が続いていたのです。

岡村正氏(インタビュー風景) 

岡村正氏(インタビュー風景) 

―― その後、現役引退は、どのようにして決められたのでしょうか。

ケガが引退の引き金となりました。32歳の時に、母校の東大現役チームと練習試合をしたのですが、その際、学生に手を踏まれただけで、骨が折れてしまいました。「これではプレーはできないな」と諦めて引退しました。しかし、どうしてもラグビーから離れたくなくて、レフリーに転向したんです。プレーはできなくても、せめてレフリーでグラウンドに立っていたいと。菅平高原(長野)での協会の講習会に1週間出席をして、関東協会の資格は取ったのですが、ただ、やっぱりプレーするのと笛を吹くのとでは違いましたね。現在は変わりましたが、当時レフリーは試合前後に選手と私語を交わしてはいけないなど、非常に規律が厳しかったんです。チームプレーに魅力を感じていた私には、そうした孤独なレフリー生活にはのめりこめませんでした。結局、仕事が忙しくなったこともあって、3、4年でレフリーをやめてしまいました。

東芝ブレイブルーパス (前列右から3人目)

東芝ブレイブルーパス (前列右から3人目)

―― 1983年には東芝ラグビー部が復活しています。これはどのような経緯からだったのでしょうか。

1983年度に全国社会人大会で準決勝まで進み、その後1987年度に全国優勝をはたします。以後全国的に常に上位を確保できるようになったので、1965年休部以降、18年ぶりに復活したということになります。

ラグビー部の再建にあたって中心となったのは、やはり町井さんでした。「このままチームを眠らせておくわけにはいかない」ということで、工場からの選抜チームでは無く、一つの工場に戦力を集中し、毎日就業後練習できるチーム作りを目指しました。また大学ラグビー界から優秀な選手をスカウトしたりして、強化活動を充実させました。私自身はラグビー部の応援団長(自称)となりまして、毎試合、応援に行きました。

―― 東芝ラグビー部をはじめ、日本のスポーツというのは、昔から企業に支えられてきたという歴史があります。企業がクラブを持つことには、どのような意義があるとお考えでしょうか。

そこには二つのポイントがあると思います。一つは、スポーツが従業員全体の求心力の元になるということです。自分たちと同じ職場の選手を応援することで、従業員に一体感が生まれます。もう一つは、地域社会に貢献するということ。スポーツによってその地域を盛り上げていくということです。この二つが企業スポーツの意義だと思います。

ラグビーワールドカップ2019日本大会の決勝が行われる横浜国際総合競技場

ラグビーワールドカップ2019日本大会の決勝が行われる横浜国際総合競技場

―― 歴史を紐解くと、日本では「企業」と「スポーツ」と「地域」が密着して、それぞれ発展してきたといえますね。

地域のクラブによってスポーツが発展してきた欧米とは違い、日本では企業が地域を支える役割を担っていく中で、一つのツールとしてスポーツが重要な役割を果たしてきたということが言えるのではないでしょうか。どちらが良い悪いではなく、日本のスポーツの在り方として、企業スポーツが大きな役割を担っていたということは事実だと思います。

ワールドカップ開催の意義は「強化」と「普及」

―― 企業スポーツとして発展してきた一つがラグビーです。今年、日本ラグビー界にとって歴史に残る一大イベントがあります。アジアで初のラグビーワールドカップとなりますが、日本開催のワールドカップを迎えるにあたって、どのような思いでいらっしゃるのかをお聞かせください。

満員の観衆を集めた1980年代の早明戦

満員の観衆を集めた1980年代の早明戦

まず一つは、ラグビーをいかにして日本で人気のあるスポーツにするかということです。かつては6万人を収容する国立競技場が満員になるほど、特に大学ラグビーは人気がありました。ところが、2000年代に入ると、徐々にその人気に陰りが出始め、現在ではなかなか元の人気を取り戻すことができていません。我々からすれば、「こんなに面白くて、素晴らしいスポーツが、なぜ日本では普及しないのだろうか」と不思議でならないわけですが、まずは子どもたちにラグビーがどれだけ面白くて魅力あるスポーツなのかということを見てもらい、理解してもらわなければいけないのだろうと思います。そうした中、今年のラグビーワールドカップは子どもたちがラグビーを目にする大きなチャンスですから、これをきっかけにして、人気スポーツにしていきたいと思っています。

もう一つは、これまで世界のラグビー界というのは、ティア1(世界ランキングとは別にラグビー界の階級。強豪国で構成された「ティア1」、中堅国の「ティア2」、発展国の「ティア3」の3部制で、日本は「ティア2」)の10カ国(イングランド、スコットランド、ウェールズ、アイルランド、フランス、イタリア、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカ、アルゼンチン)で重要なことが決められてきました。ですから、過去のラグビーワールドカップはすべてティア1で行われ、「グローバルなスポーツ」とはなっていませんでした。それを日本の先輩達が中心となって、「ラグビーも世界に広げていかなければいけない」と、IRB(国際ラグビーボード:世界のラグビーの統括団体、2014年にワールドラグビー(WR)に名称変更)の理事たちを説得し、そういう意思の下でラグビーワールドカップを招致したわけです。ですから、今回の日本開催を機に、アジアをはじめラグビーを世界に広く普及させたいと思っています。この二つを実現させることが、我々日本ラグビーフットボール協会の役目だと思っています。

「BIG TRY」のスローガンを掲げる

「BIG TRY」のスローガンを掲げる

―― 子どもたちにラグビーがおもしろくて魅力あるスポーツだと知ってもらいたいとか、人気スポーツにしたいとおっしゃいましたが、日本にラグビーを根付かせ、メジャースポーツへと発展させていくための具体的な方策については、どのようにお考えでしょう。

日本ラグビーフットボール協会では2017年に「BIG TRY」というスローガンを掲げ、新たな戦略計画を示しました。「BIG TRY」という名称は、「大きな目標を達成する(=トライを決める)」という意味です。目標は大きく分けて二つありまして、一つは日本代表の強化です。今年のラグビーワールドカップで決勝トーナメント進出、そして2020年東京オリンピックでは7人制ラグビーの日本代表が男女ともにメダルを獲得するところまでもっていくことが理想です。

何より日本代表が国際的に強くならなければ、国内で普及させていくことは難しい。50点も100点も取られて大差で負けてしまうゲームでは、「見てください」とはとても言えませんよね。堂々と世界のチームと対峙して、勝つ可能性のある試合をするようになれば、間違いなく人気が出てくるはずです。ですから、何よりも日本代表の強化を優先しなければならないと思っています。

高校ラグビー

高校ラグビー

もう一つの目標は、日本国内におけるラグビーの普及拡大です。日本が南アフリカを破る大金星を挙げた2015年ラグビーワールドカップ以降、小学生、中学生の競技人口は増加傾向にあるのですが、残念ながら高校、大学まで続ける選手が少ないのが現状です。高校スポーツ、大学スポーツというのは、日本国内では人気のカテゴリーでもありますし、また将来の日本代表を強化するためにも高校、大学は非常に重要です。ですから、高校、大学の部分を名実ともに厚くしていかなければいけないわけですが、そのためには改めてラグビーの魅力を知って、感じてもらわなければいけないだろうと。小学生、中学生でラグビーを始めた子どもたちが、高校、大学でも続けて、代表を目指すというような機運を高めていくことが重要です。

今回のラグビーワールドカップは全国12会場で試合が行われますので、それぞれの会場がラグビーの聖地となって、小学生を含めた若い人たちにラグビーの魅力を感じる機会となり、全国でラグビー人気が高まっていくようにしていきたいと考えています。

―― 日本代表の強化策の一つが、サンウルブズ(国際大会「スーパーリーグ」に参加する日本代表チーム)ですね。

おっしゃる通りです。ラグビーの世界最高峰リーグと謳われるスーパーリーグに参戦するためにサンウルブズを設立したわけですが、海外の大柄な選手たちともフィジカル面で対等に試合ができるようにしようというのが狙いです。「どうせ海外の選手とは体格が違うのだから、ティア1チームには勝てない。一つでもトライを奪えば拍手喝采」なんていうような試合をしていては、いつまでたっても強化は見込めません。ですから、フィジカル面においても日本のラグビーを変えていこうということです。結果だけを見れば、サンウルブズは苦戦を強いられていますが、それでも大柄な海外選手の当たりを体感し、自分達も鍛えれば対等に戦える、という日本人選手が増えたことはデータから見ても明らかです。ここ数年日本代表全体のフィジカル面の強化が図られてきました。

エディ・ジョーンズ氏

エディ・ジョーンズ氏

―― 2015年のラグビーワールドカップで日本代表を率いたエディ・ジョーンズ前ヘッドコーチ(現イングランド代表HC)の下、過酷なトレーニングでフィジカルを鍛え上げて、その成果としてワールドカップでは南アフリカから勝利を挙げました。2015年大会の遺産を引き継いだ現在の日本代表をどのようにご覧になっていますか。

過信してはいけませんが、それでも海外チームとのテストマッチを見ていますと、確実に力をつけてきています。例えば昨年11月のニュージーランドとのテストマッチでは、31-69という差で負けはしましたが、それでも世界最強国から5つもトライを奪ってみせたというのは、これまで行ってきた強化策の成果の一つとして挙げられると思います。それこそイタリアやフランスとは、しっかりと勝負することができるようになっていますよね。

ただ、ティア1のチームと常に五分に渡りあえるかというと、そこはまだまだで、これから力をつけていかなければいけません。正直に言えば、「善戦」はもう十分。やっぱり代表は勝たなければならないんです。あと半年で勝ち切る力をどこまでつけることができるか。ぜひラグビーワールドカップでは勝ち切る日本の姿を見たいですね。

「ラグビー憲章」には「Solidarity(団結)」が謳われている

「ラグビー憲章」には「Solidarity(団結)」が謳われている

―― ワールドカップ開催をきっかけにラグビーを広く普及させたいと伺いましたが、「ラグビーは危険なスポーツ」というイメージを持っている人も少なくないと思います。子どもの競技人口を増やすためには、保護者への理解も必要となるのではないでしょうか。

WR(ラグビーの国際統括団体)が制定した「ラグビー憲章」では5つの価値が掲げられています。人間の品格を構成する(1)「Integrity」(品位)、見ている人たちを魅了する(2)「Passion」(情熱)、チームスポーツに欠かせない(3)「Solidarity」(団結)、そして次に(4)「Discipline」(規律)、そして最後にチームメイトや対戦相手に対する(5)「Respect」(尊敬)。この5つの価値を行動規範および行動指針のビジョン(理想)としています。これらはすべて人間の人格形成に極めて重要な要素であり、実際ラグビーには人格形成に必要な要素が多く含まれています。例えば、「One for All, All for One(1人はみんなのために、みんなは1人のために)」や、試合終了の笛とともに敵味方ではなくラグビー仲間同士になる「ノーサイド」といった昔から言われているラグビー精神がそうです。このラグビー精神を保護者の方にも理解してもらえると、「ぜひ、うちの子にもラグビーをやらせたい」というようになっていくのではないかと思います。安全面での対策も指導者はしっかり気を配ることが重要です。

ラグビーの普及が課題

ラグビーの普及が課題

また、そうした理解を深めていくためにも、重要なのは現役を引退した後の「セカンドキャリア」です。選手としてだけでなく、引退後、今度は社会人としても立派な姿を見せていかなければ、子どもたちに示しがつきません。ですから、日本ラグビーフットボール協会や各企業のクラブチームでは、就職先を見つけることだけがセカンドキャリアではなく、そこで社会人としてどうあるべきか、ラグビーで培われたものをどう生かしていくのか、というところまで掘り下げてセカンドキャリア問題に取り組んでいます。同時に現役の選手達にも社会人としての基本を教育しなければなりません。

―― 指導者については、OBを活用できるようなシステムの構築が必要かなと思われますが、いかがでしょうか。

おっしゃる通りですね。例えば各企業のクラブチームでプレーをしたOBが、その地域のクラブで指導をするということもできると思います。また、各クラブで指導者を養成するシステムも作っていかなければいけないと思います。

「ゴールデン・スポーツイヤーズ」はスポーツの意義を問うチャンス

アジアラグビーチャンピオンシップ2017

アジアラグビーチャンピオンシップ2017

―― いよいよ半年後にはラグビーワールドカップが開幕するわけですが、現在の日本国内の盛り上がりをどのように感じられているでしょうか?

最終的には全試合を満員の観客で埋め尽くすということが目標となるわけですが、その機運というのは非常に高まってきていて、ラグビー人気は高いレベルにまで到達しつつあると感じています。もちろん、楽観的にとらえることはできませんが、あと半年間、最後の後押しをしていけば、相当な盛り上がりを見せてくれるだろうと自信を持っています。

―― 盛り上がりという意味で、日本のラグビー界はあまり上手ではないという印象があります。今回はティア1の国・地域以外での初めてのラグビーワールドカップ開催ということで、ラグビーをグローバルなスポーツにするための重要な大会であり、特にアジアにどのようにして普及させていくかが今後の課題の一つとなっています。日本がリーダーシップをとっていかなければいけないと思いますが、その点についてはいかがでしょうか。

アジアの普及・強化ということについては、日本に非常に大きな責任があると考えています。まずはリーダーシップを取るべき日本自体が世界と互角に渡り合えるほどの力を持たなければいけません。そして日本国内におけるインフラ整備と指導者の養成システムの構築を進め、それを今度は人材派遣というかたちで、アジアに広げていくことが必要です。

特に経済的成長が著しい東南アジアでは、スポーツの強化にも注力してきていますので、大きなチャンスだと思います。一方、韓国はひと昔前まで結構強かったんですよね。残念ながら現在では下火になったままですが、ポテンシャルはありますので、ラグビー熱を復活させて、国としてラグビーの強化に力を入れていくようなきっかけを日本が作っていけたらと思います。今年のラグビーワールドカップには、アジアラグビー(AR:アジアのラグビー運営団体。2014年に「アジアラグビーフットボール協会」から改称)の各国の理事をご招待しますので、ぜひラグビーの魅力を感じてもらい、そこで見たもの、得たものを、各国に持ち帰っていただきたいなと思います。そして、ラグビーワールドカップの日本視察をきっかけにして、日本とアジア各国とのラグビー交流が深まっていくことができればと考えています。そうしたことが、国際的なレガシーとなり、ラグビーの世界的規模の発展につながっていくはずです。

7人制ラグビー

7人制ラグビー

―― 2019年ラグビーワールドカップの後には、2020年東京オリンピック・パラリンピックが開催されます。

オリンピックでは7人制ラグビー、パラリンピックではウィルチェアーラグビーがあるわけですが、この2つの競技とも連携を図っていろいろな取り組みを行っているところです。例えば、ラグビーワールドカップでは予選終了後、決勝トーナメントが始まるまでに、少し日が空くんですね。

そこで、JPC(日本パラリンピック委員会)の鳥原光憲会長と話をしまして、その空いた期間(10月16日~20日)に「ウィルチェアラグビーワールドチャレンジ2019」を開催することが決定しています。ウィルチェアーラグビーの世界ランキング上位8カ国(オーストラリア、アメリカ、日本、カナダ、イギリス、フランス、ニュージーランド、ブラジル)が集結する大会で、パラリンピックを前にしてウィルチェアーラグビーの魅力を知ってもらえるいい機会になると思います。ウィルチェアーラグビー日本代表は昨年の世界選手権で優勝し、現在世界チャンピオンですからね。非常に盛り上がると思います。我々15人制のラグビー日本代表とウィルチェアーラグビー日本代表の活躍が同じ時期に見られるということで、楽しみにしていただきたいですね。

ウィルチェアーラグビー

ウィルチェアーラグビー

―― 今年ラグビーワールドカップが開催され、2020年東京オリンピック・パラリンピック、そして2021年にはワールドマスターズゲームズ2021関西と続き、「ゴールデン・スポーツイヤーズ」と呼ばれています。こうした国際的スポーツイベントが続く中で、日本スポーツ界は今後、どのような道を辿っていくべきだとお考えでしょうか。

まずはスポーツの意味をどこに求めるか、そのことを問い直さなければならない時期に来ていると思います。私はやはりスポーツは人格形成の重要な役割を担うものであると考えていまして、その認識が日本のスポーツ関係者にはもっと必要だろうと。昨今、スポーツ界における不祥事が問題となっていますが、一つは学校に任せっきりであることが閉鎖された世界を作り上げているのではないでしょうか。もっと地域に開かれ、学校の先生だけでなく、地域からのサポートを得られるシステムが必要だろうと思います。

子どもにとってスポーツは立派な社会人に育っていくための人格形成の場であるという認識を社会全体が持ち、国を挙げて問題対策に取り組んでいかなければいけません。ゴールデン・スポーツイヤーズが、そのことを考える一つのきっかけになってほしいと思います。

天皇皇后両陛下のご説明役を務める(左)

天皇皇后両陛下のご説明役を務める(左)

―― 最後に、岡村さんにとってラグビーとはどのようなものでしょうか。

ラグビーで教えられたことが、現役引退後も自分がやるべきことの判断基準として、ずっとあったように思います。社会人となってビジネスをするうえでも、先述した「ラグビー憲章」の5つの価値に照らし合わせて、「これができていないな」と反省することがよくあるんです。

すでに80歳という年齢にもなったというのに、まぁ、いいところ40点くらいしかもらえないというのは、なんとも悲しいのですが(笑)。ラグビーで教えられたことが、私の人生の基準になっています。

ラグビー・岡村 正氏の歴史

  • 岡村 正氏略歴
  • 世相

1871
明治4
イングランドでラグビーフットボール協会(ラグビー・フットボール・ユニオン)が創設
初の国際試合がイングランドとスコットランドの間で行われる
1883
明治16
初の国際大会であるホーム・ネイションズ・チャンピオンシップ(現・シックス・ネイションズ)が開催
1886
明治19
国際統括団体である国際ラグビーフットボール評議会(現・ワールドラグビー)創設
1899
明治32
慶應義塾大学の教授でケンブリッジ大学のラグビー選手でもあったクラーク氏と、
同大学の選手でもあった田中銀之助が日本で初めてラグビーの指導を開始
1900
明治33
ラグビーが夏季オリンピックに採用される (1924年のオリンピックで終了)
1911
明治44
同志社大学でラグビー部が創部される
1918
大正7
早稲田大学でラグビー部が創部される
1919
大正8
第1回日本フットボール大会(現・全国高等学校大会)開催
1921
大正10
京都帝国大学、東京帝国大学(現・京都大学、東京大学)でラグビー部が創部される
1924
大正13
関東ラグビー蹴球協会(現・関東ラグビーフットボール協会)創設
1926
昭和元
西部ラグビー蹴球協会(現・関西ラグビーフットボール協会)創設
日本ラグビーフットボール協会が、関東ラグビーフットボール協会と、関西ラグビーフットボール協会の統一機関として創設
1928
昭和3
高木喜寛氏、日本ラグビーフットボール協会の初代会長に就任
第1回東西対抗ラグビー、甲子園球場にて開催
1929
昭和4
近鉄花園ラグビー場が完成
全日本学生対全日本OBの試合を、秩父宮両殿下が台覧
1930
昭和5
日本代表、カナダで初の海外遠征を行う(6勝1分)

  • 1938岡村 正氏、東京都に生まれる
1942
昭和17
日本ラグビーフットボール協会、大日本体育大会蹴球部会に位置づけられる

  • 1945第二次世界大戦が終戦
1947
昭和22
秩父宮殿下、日本ラグビーフットボール協会総裁に就任
九州ラグビー協会(現・九州ラグビーフットボール協会)創設
東京ラグビー場(現・秩父宮ラグビー場)が竣成

  • 1947日本国憲法が施行
1949
昭和24
第1回全国実業団ラグビー大会開催
1950
昭和25
第1回新生大学大会開催
「全国大学大会」の名称となる

  • 1950朝鮮戦争が勃発
  • 1951安全保障条約を締結
1952
昭和27
全国実業団ラグビー大会、第5回から全国社会人ラグビー大会に改称
1953
昭和28
田辺九萬三氏、日本ラグビーフットボール協会の2代目会長に就任
東京ラグビー場を秩父宮ラグビー場に改称

  • 1955日本の高度経済成長の開始
1956
昭和31
香山蕃氏、日本ラグビーフットボール協会の3代目会長に就任

1961
昭和36
第1回NHK杯ラグビー試合(現・日本選手権)開始

1962
昭和37
秩父宮ラグビー場、国立競技場に移譲

  • 1962岡村 正氏、東京大学を卒業し、東芝に入社
1963
昭和38
日本代表、戦後初の海外遠征(カナダ)

1964
昭和39
第1回日本選手権試合開催

  • 1964東海道新幹線が開業
1965
昭和40
第1回全国大学選手権大会開催

1968
昭和43
湯川正夫氏、日本ラグビーフットボール協会の4代目会長に就任

1969
昭和44
第1回アジアラグビー大会開催され、日本は全勝で優勝

  • 1969アポロ11号が人類初の月面有人着陸
1970
昭和45
横山通夫氏、日本ラグビーフットボール協会の5代目会長に就任
1971
昭和46
第1次・高校日本代表のカナダ遠征

1972
昭和47
椎名時四郎氏、日本ラグビーフットボール協会の6代目会長に就任

1973
昭和48
全国高校選抜東西対抗試合開始

  • 1973岡村 正氏、ウィスコンシン大学経営学修士課程を修了
  • 1973オイルショックが始まる
  • 1976ロッキード事件が表面化
  • 1978日中平和友好条約を調印
1979
昭和54
阿部譲氏、日本ラグビーフットボール協会の7代目会長に就任

1982
昭和57
代表キャップ制度を発足

  • 1982東北、上越新幹線が開業
1987
昭和63
第1回ワールドカップが開催(オーストラリア・ニュージーランドの共同開催) 以後、第7回大会まで日本代表チームは連続出場を果たす

1990
平成2
磯田一郎氏、日本ラグビーフットボール協会の8代目会長に就任

1992
平成4
川越藤一郎氏、日本ラグビーフットボール協会の9代目会長に就任


1993
平成5
第1回ジャパンセブンズ開催

  • 1994岡村 正氏、東芝 取締役 情報処理・制御システム事業本部長に就任
1995
平成7
金野滋氏、日本ラグビーフットボール協会の10代目会長に就任

  • 1995阪神・淡路大震災が発生
  • 1996岡村 正氏、東芝 常務取締役に就任
  • 1997香港が中国に返還される
2000
平成12
IRBワールドセブンズシリーズ日本大会開催

  • 2000岡村 正氏、東芝 取締役社長に就任
2001
平成13
町井徹郎氏、日本ラグビーフットボール協会の11代目会長に就任

2002
平成14
女子ラグビーが日本ラグビーフットボール協会に加入
女子ラグビーは、第4回女子ワールドカップに初参加

2003
平成15
ジャパンラグビー トップリーグが社会人12チームで開幕

2005
平成17
森喜朗氏、日本ラグビーフットボール協会の12代目会長に就任

  • 2005岡村 正氏、東芝 取締役会長に就任
     岡村 正氏、日本経団連 副会長に就任
2006
平成18
ジャパンラグビートップリーグチーム数は12チームから14チームへ増加

  • 2007岡村 正氏、日本商工会議所 会頭に就任
  • 2008リーマンショックが起こる
2009
平成21
U20世界ラグビー選手権(IRBジュニアワールドチャンピオンシップ2009)開催
2019年ラグビーワールドカップが日本で開催決定

  • 2009岡村 正氏、東芝 相談役に就任
2010
平成22
2019年ラグビーワールドカップ日本開催組織委員会の設立準備を開始

  • 2011東日本大震災が発生
  • 2012岡村 正氏、ラグビーワールドカップ2019組織委員会 副会長に就任
2013
平成25
日本ラグビーフットボール協会が公益財団法人へ移行

  • 2013岡村 正氏、日本商工会議所 名誉会頭に就任
2015
平成27
  • 2015岡村正氏、日本ラグビーフットボール協会の13代目会長に就任
2016
平成28
リオデジャネイロオリンピック・パラリンピック開催
7人制ラグビーが正式種目として実施

  • 2016岡村 正氏、東芝 名誉顧問に就任