大西時代から継承される強さの理由
早大、日本代表等を通し指導を受けた大西鐡之祐氏(右)と。
大東氏(中)
―― 大東さんは、早稲田大学ラグビー部ご出身です。4年生の時にはキャプテンを務め大学選手権で優勝。さらに日本選手権では新日鐵釜石を破って日本一に上り詰めました。あの時代の早大というのは、なぜ、あれほど強くあり続けられたのでしょうか。
もちろん学生が頑張って練習していたということもありますが、それに加えて、やはり指導者の力も大きかったと思います。1950~60年代に早大の黄金時代を築いた大西鐵之祐先生をはじめ、私が4年生の時(1970年)は日比野弘先生が監督就任1年目の時でしたが、両先生とも後に日本代表の監督も務めた早大の大先輩。そのほかの監督も、皆さん熱心に、かつ丁寧に指導してくださったことで、学生が力を発揮することができたのだと思います。
―― 大東さんは4年間、4人の監督から指導を受けられています。1年生の時が藤島勇一さん(後に共同通信社福岡支社次長)、2年生の時には白井善三郎さん(後に日本ラグビーフットボール協会専務理事)、3年生の時が木本建治さん(3度早大の監督に就任。2度目の1988年には16年ぶり4度目の日本選手権優勝に導く)、そして最後は日比野さんでした。毎年監督が替わったにもかかわらず、常に大学選手権で優勝争いをする強豪チームであり続けることができていた要因はどこにあったのでしょうか。
日本代表OB戦で。大西氏(前列左から4人目)、金野氏(前列左から3人目)等と。大東氏(中列中央)
当時の早大では監督が替わることは、そう珍しいことではありませんでしたが、強さが継承できたのは、やはり大西先生時代からの早大のラグビースタイルを軸とすることにブレがなかったからだと思います。大西先生は日本代表の監督としてもご活躍された方ですが、その時代のチーム、選手に合った戦い方を常に考えておられた方でした。代表的なのは「接近・展開・連続」という持久力と瞬発力を駆使した戦術理論や、守備に専念するのが通常だったフルバックを攻撃に参加させる戦略のサインプレー「カンペイ」を生み出されました。そうしたチームにあった戦略を立てることで、チームの強さを引き出していたのではないでしょうか。
―― とはいえ、相手もさることながら、自分たちもまた、毎年のように変わる戦略を理解していかなければいけなかったのは大変だったと思います。
そうですね。ですから、最も重要だったのはコミュニケーションを図ることでした。お互いをわかり合っていたからこそ、監督や戦略が変わっても、チームは一つになることができていたのだと思います。私の時代の早大は、決して個々の能力が他校を上回っていたわけではありませんでした。ただし、一人一人のメンタルは強かったですね。ですから結束力があった。それもまた、強さを生み出していたのだと思います。
大東和美氏(インタビュー風景)
―― 他の伝統校と比べると、早大では高校まで無名だった選手がレギュラーになることが少なくないという印象があります。
本人の努力はもちろんあると思いますが、「考えるラグビー」が選手たちを成長させるのだと思います。指導者の言うことをただ聞くだけではなくて、練習の時から選手に考えさせることが往々にしてありました。
―― 大西先生が考案されたと言われるサインプレー「カンペイ」は、大西先生のご著書によれば、実は合宿時に選手たちが考え出したものを元にしたものだったとか。
はい、そうなんです。夏の菅平(長野県菅平高原)での合宿の時に、大西先生が学生と一緒に考案したフルバック(最後尾に位置し攻守にわたって高い能力が求められるポジション)のライン参加の戦術で、「菅平」で生まれたことから「カンペイ」と呼ばれています。そういったことは珍しくありませんでした。練習メニューも委員に選ばれた選手たちが中心になって決めていました。
―― そんな伝統ある早大ラグビー部のキャプテンは責任も重大だったと思います。任命された時はどんなお気持ちでしたか?
「青天の霹靂」という感じでした。何人か候補はいたと思いますが、僕は2年生の時から試合に出させてもらっていたこともあって、「もしかしたら」という気持ちがあったんです。ですから、ある程度の心の準備はできていました。
大学選手権決勝で日本体育大学を破り優勝(中央でボールを持っている選手、1971年)
―― プレッシャーはありませんでしたか?
常にリーダーとしての責任の重さというのは感じていました。逆に言えば、それを感じなければ、キャプテンは務まらないと思いますしね。ただ、時折、ふと孤独を感じることがありました。それこそ試合では、監督は指示を出すことができませんから、すべてキャプテンが判断をします。自分一人で決めなければいけない孤独さは、やはりありましたね。
「民主的なチーム」早大への憧れ
―― そもそも大東さんがラグビーを始めたきっかけは何だったのでしょうか。
中学生の時までは野球少年だったのですが、報徳学園高等学校(兵庫)入学後に、楕円状の独特のボール形状と、15人という大人数で戦うというところに魅かれてラグビー部に入りました。
―― 報徳学園と言えば、野球の名門でもありますが、野球部に入ろうとは思わなかったのでしょうか。
まぁ、中学生の時にそれほど強いチームにいたわけではありませんでしたから、そこまで野球でという気持ちはありませんでした。そんな時にラグビーと出合って、「あ、面白そうだな」と。
“聖地・花園ラグビー場”で開催される全国高校選手権大会
―― 実際にやってみていかがでしたか?
やはり見ているだけと、やるのとでは、まったく違いました(笑)。タックルだ、スクラムだと、野球とは違ってコンタクトプレーの連続でしたからね。ただ、不思議なことにやめたいと思うことはありませんでした。よく日本では「ノーサイド」という言葉が使われますが、チームメイトはもちろん、対戦相手も含めて自然と"ラグビー仲間"になるんですね。それが何よりの魅力でした。
―― 関西ご出身の大東さんが関西の雄、同志社大学ではなく、関東の早大に進学を決めたのはなぜだったのでしょうか。
早大に行った先輩から「早稲田は民主的なチーム」という話を聞いていたことが一番大きかったと思います。もちろん練習は厳しいけれど、理不尽な縦社会ではなく民主的だと。また、文武両道というところにも魅かれて、2年生の時にはもう早大に行くことをほぼ決めていました。
早稲田大学ラグビー部監督時代、大学日本一に導く(中列右から4人目、1976年)
―― 実際に入ってみていかがでしたか?
練習は想像以上に厳しかったですね。特に毎年恒例の菅平高原(長野)で行われる夏合宿では、徹底的に走って、徹底的にスクラムを組むんです。もう練習するか、寝るかの生活でした。ただ、それも全部自分たちで決めてやっていたことでしたから、決してやらされていたというわけではなかったんです。そういう意味でも、聞いていた通り本当に民主的なチームでした。寮では食事の支度や清掃はすべて学生がやっていたのですが、分け隔てなく上級生もやっていましたからね。その時代においては、非常に珍しかったと思いますよ。
―― それは大西先生の訓えが継承されていたからだったのでしょうか。
いえ、おそらく大西先生がというよりも、早大の伝統的な気質だったと思います。
―― 伝統と言えば、「試合前儀式」は有名ですが、改めてどんなものなのかを教えてください。
試合前日のミーティングで、監督が一人一人名前を呼んで、塩で清めたジャージを手渡していくんです。夜寝る時には、そのジャージを枕元に置いて寝ます。それを公式戦では毎試合行うのが早大の習わしで、結束力につながっているんです。