1964年、東京都渋谷区の代々木に総面積66万m²の巨大な敷地に設置された「選手村」。そこへ毎日のように出勤していたのが、料理人の鈴木勇さんと、理容師の遠藤澄枝さんです。
日本人選手だけでなく、多くの海外選手の大きな支えとなった選手村スタッフの一員として大役を果たしたお二人に、当時の思い出についてお話をうかがいました。
聞き手/佐塚元章氏 文/斉藤寿子 構成・写真/フォート・キシモト
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スポーツ政策研究所を組織し、Mission&Visionの達成に向けさまざまな研究調査活動を行います。客観的な分析・研究に基づく実現性のある政策提言につなげています。
自治体・スポーツ組織・企業・教育機関等と連携し、スポーツ推進計画の策定やスポーツ振興、地域課題の解決につながる取り組みを共同で実践しています。
「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。
日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。
1964年、東京都渋谷区の代々木に総面積66万m²の巨大な敷地に設置された「選手村」。そこへ毎日のように出勤していたのが、料理人の鈴木勇さんと、理容師の遠藤澄枝さんです。
日本人選手だけでなく、多くの海外選手の大きな支えとなった選手村スタッフの一員として大役を果たしたお二人に、当時の思い出についてお話をうかがいました。
聞き手/佐塚元章氏 文/斉藤寿子 構成・写真/フォート・キシモト
選手村内の美容室
―― まずお二人には、それぞれの職業に就かれた経緯をお伺いしたいと思います。遠藤さんが、理容師になられたきっかけは何だったのでしょうか?
遠藤 両親が床屋を営んでいまして共働きだったものですから、私は幼少の時から家事を手伝うのが日課でした。それが子ども心に嫌で嫌で、「いつかこの環境から逃げ出したい」と思っていたんです。父親からは「中学校を卒業したら、理容師になりなさい」と言われていたんですね。でも、高校には行きたいと思っていました。勉強ができる生徒ではなかったのですが、「高校3年間勉強してから、親の跡を継ぎます」と言って、なんとか高校にも合格して進学したんです。
でも、周囲は私が進学することを良しとする人はほとんどいませんでした。「それほど勉強ができるわけでもないのに、なぜ?」って。だから今考えるとそんな周囲への反抗心からだったんでしょうね、「よし、見返してやるぞ」と思いまして、高校時代に勉強をして、当時は倍率5倍という大変な難関だった理容学校にも合格することができました。それで免許を取得して、卒業後は両親を手伝うようになりました。ところが、次々とインターン生がお店に入ってくるものですから、彼ら彼女らのご飯の支度なんかもしなけれならなくて、もうそれはそれは嫌で仕方ありませんでした(笑)。
選手村の着付け教室で和服に身を包む外国選手
―― ご実家は大きな床屋さんだったそうですね。何人くらいいらっしゃったんですか?
遠藤 お店は6台の椅子が並ぶくらいの大きさがありまして、従業員も常時6人はいるような感じでしたから、家族も含めて12人で生活をしていました。ただ、母があまり体が丈夫ではなかったんです。でも、お店をまわすためには、母も顔剃り専門として大事な働き手の一人でした。特に家の裏は花柳界で、そこの芸者さんたちがよく顔剃りに来られていたんですね。ですから、母も常にお店に出なければいけなかったんです。それで私が弟の面倒も、従業員の食事の支度もしなければなりませんでした。それでも高校にも進学させてもらいましたし、理容学校で免許も取ったわけですから、卒業後は観念して「わかったわ。もう、やってやりましょう」くらいの気持ちでいました。
―― 1964 年東京オリンピックには、どのようにして関わりをもつようになったのでしょうか?
遠藤 当時、ちょうど父が理容組合のリーダー役を務めていまして、開幕の少し前に23区内にある理容院からボランティアを募ったんです。本当はある程度の経験年数が必要ということで、免許を取得して5年以上の経験を持つ「25歳以上」ということだったのですが、実は私は当時24歳だったんです(笑)。父も組合の人たちと私のことは相談したと思うのですが、私が行くことになったのは本当にギリギリのタイミングで、どうしても人手が足りなくて、父が行くわけにはいかないので、私がということになったようです。父の方から「オリンピックの手伝いに行くか?」と言われた時には、それはもう嬉しかったですよ。「家から出られるならどこでも行く!」という感じでしたから、何の迷いもありませんでした(笑)。
ミュンヘンで開催されたIOC総会での1964年東京オリンピック開催決定の知らせを受けて喜ぶ関係者
―― でも、外国人を相手にするということで、不安はありませんでしたか?
遠藤 私の実家は東京都中野区にありましたが、当時から近所には外国人の方が結構いまして、うちのお店にもよく来られていたんです。外国人の方はカットくらいで、日本人よりも簡単でした。日本語も片言でしたが通じていましたので、外国人に対して抵抗感を感じていなかったということも大きかったかもしれませんね。
―― じゃあ、オリンピックの選手村の担当は、適任だったんですね。
遠藤 それはわかりませんが、でも当時の私は嬉しさしかありませんでした。家から出られるというのもありましたし、もう一つは同年代の同じ理容界の人と集まっていろいろと話をする機会が多くなって、それがとても楽しかったんです。それと、オリンピックではほかの方の仕事を見ることができるという期待感がありました。
―― オリンピックについては、どんなものをイメージしていましたか?
遠藤 近所の大工さんや左官屋さんたちが、国立競技の建設現場に行っていて「とにかくすごいよ」という話を聞いていましたから、なんとなく東京や日本全体がオリンピックに向けて浮足立つというんでしょうか、そんな雰囲気は感じ取ってはいました。ただ、私自身はオリンピックがどういうものかというのは、全然わかりませんでした。自分が派遣される選手村も、どんなところか、さっぱりイメージできませんでした。
東京オリンピック選手村食堂勤務当時、コック服に身を包んだ鈴木さん
―― 鈴木さんは、ご実家が神奈川県川崎市だったそうですが、どんなふうにして料理人の道を進むことになったのでしょうか?
鈴木 当時は、高校に進学する人はクラスで4、5人くらいしかいない時代で、私は裕福な家庭ではありませんでしたから、中学を卒業したら住み込みで働ける場所を探さなければいけませんでした。そうしたところ、横浜市に「ねぎしや」という和食のお店がありまして、そこのお子さんと私の姉が友人関係にあったので、まずそのお店に行ってみたんです。そしたら、そこのお店のご主人のご友人に洋食屋のチーフがいまして、その方が「ここは君のような若い子が働くような場所ではないから、うちに来なさい」と言って、その日にお店に連れて行ってくれたんです。それが後にのれん分けをしていただいた「センターグリル」という洋食店でした。連れて行ってもらったその日から住み込みで働かせてもらうようになりました。中学を卒業したばかりの15歳のことです。
―― 料理人と言いますと、やはり器用でなければいけない気がしますが、仕事はご自身に合っていましたか?
鈴木 姉2人は、あまり食事の支度を手伝うことはしませんでしたが、私自身は好きで、よく町の共同の炊事場に行って手伝っていました。ですから、どちらかというと自分に向いていたんじゃないかなと思います。給料は安かったのですが、三食付きで、衣類や靴はお店が用意してくれましたし、床屋に行くのにもお店が散髪代を出してくれたので、自分で買うものと言えば下着くらいでしたから十分でした。両親も「食に関わる仕事がいいぞ」と言っていましたので、安心していたと思います。
―― それから約10年後に1964年東京オリンピック開幕を迎えるわけですが、どんなことがきっかけで、オリンピック選手村の食堂で働くことになったのでしょうか?
鈴木 本来は、ホテルのシェフ300人を集めるということになっていたのですが、10月というのはホテルにとっても多忙の時期で、200人しか集まらなかったんです。そこで「全国レストラン協会」に声をかけまして、各都道府県から2名ずつ出すことになったわけです。
選手村閉村式でコックの派遣元であった「日本ホテル協会」のプラカードを掲げて行進する食堂勤務者(1964年10月)
―― では、若くて優秀な料理人の一人として神奈川県から選ばれたわけですね。
鈴木 いえいえ(笑)。聞くところによると、選手村では大勢で働くものですから、団体行動ができる人でお願いします、というようなことは言われていたみたいなんですね。それで私は体も小さいですし、すぐに「はい、はい」と言いますから、まぁそれで「団体行動を乱すようなことはしないだろう」と思われたんじゃないでしょうか。
それと、実は東京オリンピック選手村の食堂の責任者だった、後の帝国ホテル料理長の村上信夫さんと、私が勤めていたお店「センターグリル」の社長はもともとお知り合いで、村上さんは社長を「先輩」と呼んで慕っていました。それもあって、社長がうちのお店からも誰かを出そうと思ったんじゃないでしょうか。社長には「勉強になるから」と言われて送り出されたのですが、選手村に設けられた3つの食堂のうち、ちょうど村上さんが率いる「富士食堂」に配属となりました。
選手村食堂風景
―― 社長に声をかけられた時は、どう思いましたか?
鈴木 最初は半信半疑でした。というのも、お店には10人ほどの従業員がいまして、先輩たちはみんな「行きたい」と言っていたんです。ただ、チーフはもちろん、お店としては1番手、2番手の料理人を長期間出すわけにはいきませんから、それで私がちょうどいいポジションだったのではないでしょうか(笑)。ただ、「わかりました」と二つ返事で受けたものの、だんだん開幕が近づくにつれて、不安になっていきましたね。ホテルのシェフの働きぶりを直に見て勉強することができるという期待感もありましたが、「私で本当に大丈夫だろうか」という気持ちもありました。
―― 当時の日本人にとって、洋食はどのようなものだったのでしょうか?
鈴木 「これからは洋食」というような傾向があって、東京オリンピック開催は、それを加速させる一つの要因になったかと思います。私たち洋食界の先輩たちも「これからは和食より、洋食が流行る時代だぞ」と意気揚々という感じでした。私も「料理人であれば、フランス料理ができなければダメだ」と言われて、フランス語も勉強していました。
遠藤さんが勤務した理容室
―― 選手村の理髪店には、どれくらいの人が働いていたんですか?
遠藤 30人ほどで、そのうち女性は3人でした。同じ通りには、デパートやテーラー、写真店、宝石屋と並んで理容室、美容室がありました。建物自体は、学校の校舎のようなもので、外から丸見えでしたね。
―― 用具は、全てそろっていたんですか?
遠藤 シャンプーや石鹸といったものはそろっていましたが、自分が使用するハサミやクシは、自分持ちでした。ですから、毎朝出勤する時には、必ず警備員に一つ一つチェックしてもらわなければいけませんでした。
―― 実際に、理髪室に来た海外の選手たちの様子はいかがでしたか?
遠藤 当時、国によっては女性の理髪師がいないところも少なくなくて、私たち女性が「どうぞ」と声をかけても、「No,No」と言って首を振る選手もいました。男性にしか髪の毛を触らせてくれなかったんです。私たち女性の理髪師にとって、一番のお客さんは自衛隊の人たちでした。特に開幕前は、あまり仕事がなかったんでしょうね。よく来てくれましたよ。ただ、自衛隊の方の髪の毛は短いですよね。短髪ほど難しいんです。ですから、私は結構苦手だったのですが、来る日も来る日もやるもんですから、徐々に馴れてきたんです。そうすると、その自衛隊の人たちのきれいに刈られている髪の毛を見て、海外の選手たちも「なんだ、女性でもうまくやれるじゃないか」というふうに思ってくれたみたいで、少しずつ私たち女性にもカットさせてくださる海外の方たちが増えていきました。
思い出と言えば、夜8時が閉店時間だったのですが、ぎりぎりの時間になって選手村にあったディスコ帰りの選手がよく来ていましたね。上機嫌で見たことがないような大きな巨峰なんかをポケットから取り出して、私たち従業員にくれるんです(笑)。でも、私たちは帰りのバスに間に合わなくなりますから、「Close!Close!」と言って帰ってもらったりしたんですけどね。そうそう、毎日のようにお店に来ては私をスカウトしてくれたアルゼンチンの役員もいました。アルゼンチンには女性の理容師がいなかったみたいで、私が行けば結構話題になってお店も繁盛するだろうということだったみたいです。私自身は行きたい気持ちがありましたが、両親が許してくれなかったでしょうからね(笑)。アルゼンチン以外の外国の選手からもよく声をかけられました。それでチーフが心配をして、指輪を用意してくれたんです。「結婚指輪をしていれば、言い寄られることもないんじゃないか」ということで。大会期間中、ずっとその指輪をはめていました。
インタビュー風景 遠藤澄枝氏
―― 組織委員会からは理容師に手引書が配布されたそうですが、どんなものだったのでしょうか?
遠藤 手引書には、英語やフランス語、イタリア語など、6カ国の言語と日本語で書かれてあるんです。ですから、例えばイタリア人選手が来られたら、イタリア語のページを開いて、選手にメニューを選んでもらって、その通りにやればいいというふうになっていました。
―― 代金はどのくらいだったんですか?
遠藤 カット代が200円、そのほかシャンプー、シェービングをやると、200円ずつが加算されていく感じでした。町の理容院の相場がセットでおよそ600円でしたから、それと同じように設定されていました。なかには「チップだよ」ということで、私たちが来ているユニフォームのポケットに100円を入れてくれる選手もいました。でも、私たちはチップをいただいてはいけない規則になっていましたから、お断りするんですけど、それでもくださる方がいらっしゃるんですね。それを断るわけにもいきませんから、「Thank you」と言って、レジの中に入れようとすると、今度はそれを「No!No!」と言って制止してくるんです。「私はカット代はちゃんと支払ったんだから、この100円はあなたがもらうべきものです」というわけです。それで選手の前ではお礼だけ言って、選手がいないところでチップを集めて、仕事が終わった後の反省会やスタッフの親睦会のために使いました。
―― ちなみに毎日の交通費や日当はもらえたんでしょうか?
遠藤 確か日当は700円くらいだったと思います。当時、ラーメン一杯35円くらいの時代です。それと私は毎日自宅の中野からバスで通ったのですが、たしか交通費は支給されなかったと思います。ただ、「明日は休日」という時にも、「ヘルプに来て!」という電話がかかってきて、結局出勤するなんてことが結構あったのですが、そういう時は特別にタクシー代をいただきました。とにかく特別に待遇がいいわけではありませんでしたよ。でも、お金のためにやっていたわけではなかったんです。
選手村入り口付近で選手を乗せたバスを見守る群衆
鈴木 それは私たちも同じでした。どちらかというと東京オリンピック成功のための「勤労奉仕」というふうに思っていました。あの当時、東京オリンピックに関わった人たちは誰もがみんな「お店の代表」というプライドと、「日本のために」という使命感を持っていたと思いますね。
遠藤 まさにそうでしたよね。それと、これは後から知ったことですが、日本の理容技術の高さを海外に広める、その旗振り役ということでもあったんです。ですから、大会期間中もよく組合の人たちが来て「ごくろうさま」とねぎらってくれました。
―― 食事はどうされていたんですか?
遠藤 食堂で使用できる食券はいただいていましたが、短い休憩時間に行くには食堂が遠かったんです。それでも最初の2、3日はせっかく食券があるからと行ったのですが、私たちが行く頃にはもうなくなっていて、食べることができなかったんです。それで、私は自宅からお弁当を持って食べるようにしました。外で食べていると、海外の選手がお弁当の中身をのぞいて「オー」なんて声をかけられることもありましたね(笑)。
選手村内の万国旗
―― 一方、料理人の方たちはどんなことから始められたのでしょうか?
鈴木 私たち地方からの料理人は、用意された宿舎に入りました。そこには食事の支度や部屋の清掃をしてくださる方が10人以上いらっしゃって、私たちの身の回りの世話をしてくださいました。詳細は覚えていないのですが、4人か6人部屋だったと思います。選手村の食堂は10月1日にオープンしたのですが、6日くらいまではまだ時間に余裕があったんです。ですから休憩時間になると、私はよく調理場の写真を撮っていました。本当は私物の持ち込みは禁止されていたのですが、せっかくの機会なので「ホテルの調理場の勉強をしたいから」ということで社長から村上さんに撮影の許可を取ってもらっていたんです。選手村の食堂には、ホテルにあるような調理器がすべてそろっていましたから、そういうものの使い方も勉強することができました。
ところが、開幕2、3日前になって、海外から一気に選手団が来日してきたので、もうそれからはてんやわんやでした。早番の時には朝5時から仕事だったので、4時半に起きて外が真っ暗なうちに出かけるんです。そうして帰りは夜9時頃にあがれるという感じでした。遅番になると、朝8時くらいには調理場に出て、帰りは夜11時を過ぎていたと思います。朝も昼も、どこでどうやってご飯を食べていたか記憶がないくらい忙しい毎日でした。覚えているのは、宿舎に帰ってきて、必ずお風呂に入ったこと。これは清潔を保つために義務とされていたので、どんなに疲れていてもお風呂にだけは入らなければいけなかったんです。そうしてその日覚えたことをノートに書き留めたら、あとはもうバタンと寝るだけ。朝は目覚まし時計がなければ起きられませんでした。そんな毎日でしたから宿舎にはテレビもありましたが、一度もテレビでオリンピックの試合は見ることはなかったですね。
選手村食堂風景
―― 選手村には3種類の食堂があったんですよね。
鈴木 はい、そうです。私が配属された「富士食堂」はアジア向けのもので、そのほかに欧米向けの「桜食堂」と、女子選手向けの食堂もありました。私は富士食堂のことしか詳しくは知らないのですが、富士食堂だけで選手村には6棟あったんです。それぞれ一度に150人ほどが座れるくらいのテーブルと椅子が用意されていました。食堂には男性の料理人と、配膳係をしてくれた男子学生が働いていて、女性は一人もいませんでした。それと、聞くところによると、夜遅くに終わる競技の選手用に、夜12時まで開けている食堂が一つあったみたいですね。
―― 女子選手は「富士食堂」や「桜食堂」では食事はできなかったのでしょうか?
鈴木 いえいえ、そんなことはありません。富士食堂にも桜食堂にも女子選手は入れました。また、アジア人選手が桜食堂に行ったり、欧米の選手が富士食堂に行くこともできました。ただ、女性選手専用の食堂には男子選手は入れませんでした。
選手村で提供された料理のメニュー
―― 選手はどんなふうにメニューを選べたのでしょうか?
鈴木 当時からホテルで行っていた「ビュッフェ形式」でした。そうしなければ、あれだけの人数の食事を賄うことはできなかったと思います。
―― 一日、どのくらいの食事を用意されていたのでしょうか?
鈴木 一日三食で、7200人分くらいを300人の従業員で作っていたんです。それもスポーツ選手の食事ですから、一般の成人男性では一日2800キロカロリーのところを6000キロカロリーを超えるんです。当初、選手一人あたりの一日の予算は2000円と言われていました。でも、実際はそれではとても間に合わなかったそうです。
―― 一番人気のメニューは何だったのでしょう?
鈴木 ローストビーフやビーフステーキなど、お肉料理は人気が高くて、すぐになくなりましたね。富士食堂の料理は、ホテルのシェフが作るような料理を提供していたわけですが、当時の日本ではホテルで食事をするのは、裕福な家庭の人だけでした。ですから味付けが上品で、家庭の味よりも全体的に薄味だったんです。そうしたところ、残す選手が少なくなかったんですね。選手にしてみたら、競技で汗をかいて塩分が不足しているのに、薄味の料理では美味しいと感じられないですよね。それで、途中から味を濃くしたということがありました。ステーキなんかも、下味にそれまでの倍の量の塩と胡椒ををふりかけて焼いたら、海外の選手たちも「美味しい」と言って食べてくれたみたいです。
選手村食堂風景
―― 海外選手にも評判が良かったんですね。
実は、当初フランスの選手団にはシェフも帯同していたんです。「なぜ、わざわざ連れてきたの?」と聞いたら、ある日本の写真を見せてくれたのですが、昔の土間で鍋を焚いている写真でした。フランス人にしてみれば、日本の料理はまだその水準だと思ったんでしょうね。それでシェフを連れてきたのですが、実際に選手村の食堂を見たら、最新の調理器で、ホテルのシェフたちが作っているのを見て、「これなら大丈夫」と安心したそうです。でも、村上さんは「せっかくだから」と言って、フランス人シェフに「日本の料理人たちに、ぜひ本場のフランス料理を教えてあげてください」とお願いし、実際に調理を見せてもらったみたいですね。さすがだな、と感心しました。
―― 調理器具も、最新のものがそろっていたと。
鈴木 そうですね。一般家庭にはないような良質のステンレスで作られたものなどが並べられていました。それからガスレンジも3つくらい連携しているビックサイズのものがあって、コンロは15口ほどありました。便利だったのは、蒸気で野菜を茹でる調理器。お湯を沸かして茹でるよりも蒸気の方が早く茹で上がるので、とても効率よく作業することができました。
大会前に行われた選手村の食事試食会
―― 当時として革新的だったのは、冷凍技術だったそうですね。
鈴木 そうですね。大会期間中、毎日築地市場から食料を調達するとなると、それこそ東京都民の食糧がなくなってしまうわけです。また、輸送においても交通渋滞にはまってしまっては大変です。そこで開幕の2、3年前からニチレイと共同で食品を冷凍保存する研究を行いました。急速冷凍の方法や、あるいは解凍においても、急に暖かいところに置いてしまうと、水分が出てうま味も栄養も流れてしまうのですが、少しずつ高い温度のところにおいて、段階を踏んで解凍する方法を開発したところ、野菜も肉も魚も美味しさを逃がさずに調理することができるようになったんです。オリンピック開幕前に、当時のオリンピック担当大臣だった佐藤栄作さんなど政府関係者への試食会を帝国ホテルで開いているのですが、その時も冷凍保存した食材だとは全くわからなかったそうで、「美味しい」と言ってもらえたそうです。
―― 厨房で選手とお話したなど、何か思い出はありますか?
鈴木 いえいえ、まったくないです。というのも、食堂と厨房の間はガラス窓で区切られていましたし、私たちはとにかく食事を作るのに必死でしたから。ただ、ガラス越しに選手が見えますから、例えば大人気だった体操のベラ・チャスラフスカ(当時チェコスロバキア)が来たりすると、厨房は「あ、チャスラフスカが来た!」ってざわついたりしていましたね(笑)。
東京大会から正式競技となった柔道・無差別級で優勝したオランダのヘーシンク
―― 遠藤さんは、柔道無差別級決勝で日本代表の神永昭夫を破って金メダルに輝いたアントン・ヘーシンク(オランダ)の散髪をされたそうですね。大きな体格のヘーシンクが来店した時には驚いたのでは?
遠藤 最初、開幕前に来られた時には、そんなに有名な選手だなんて、まったく知りませんでした。ところが、ドラム缶のような大きなテレビカメラと太いコードを持ったオランダのテレビ局の人たちが一緒に入ってきて、私の周りを囲むわけです。「なんだろう?」と驚きましたよ。それで聞いたら柔道の有名な選手だというので、そうなんだと。
理容室で遠藤さん(当時は旧姓の山方)に散髪してもらうヘーシンク
―― ヘーシンクの様子はいかがでしたか?
遠藤 彼は日本語がペラペラでしたから、会話はとてもスムーズにできたんです。
ただ、大変だったのはヘーシンクさんがあまりにも大きくて、座ってもらっても、頭のてっぺんまで私の手が届かないんです。一生懸命につま先立ちするんですけど、そうすると足元がぐらいついてしまって……。
それでヘーシンクさんにお尻を前にずらして座ってもらって、できるだけ頭の位置を低くしてもらったんです。それでようやく散髪することができました。それと、髭剃りの時にはタオル1枚ではお顔を覆いきれなくて2枚使いました。とても髭が硬くて、時間もいつもの3倍くらいかかったので、髭を剃るだけなんに、もう汗だくでしたね。でも、嬉しいことに、金メダルを取った後にもう一度来てくださったんです。金メダルも見せていただきました。
東京大会日本選手金メダル第1号となったウエイトリフティングの三宅義信選手
―― 「東洋の魔女」と呼ばれた全日本女子バレーボールの選手も来店されたそうですね。
遠藤 何人かお顔を剃りに来られましたね。女性はお顔を剃った後、クリームを塗るんですけども、来店前日にご連絡をいただいたので、当日は自宅からコールドクリームを用意しました。席も、女性専用を用意してお迎えしたんです。ほかに日本人選手と言えば、マラソンの君原健二さんがレース前に来られました。最初、私は大会関係者だと勘違いしてしまったほど落ち着かれた方でした。私が「どうなさいますか?」と聞いたら、小さい声でひと言「短く刈っていただくだけで大丈夫です」と。
―― 鈴木さんは選手との思い出はありますか?
鈴木 食堂ではずっと厨房の中にいましたから、なかなか選手と直接接する機会はありませんでしたが、嬉しかったのは東京オリンピック日本人金メダリスト第一号となった重量挙げの三宅義信さんが「富士食堂のご飯が美味しかった」と、金メダルを取った後に、わざわざお礼に来てくれたんです。直立不動で「ありがとうございました!おかげさまで金メダルが取れました!」と言って敬礼してくれました。富士食堂では朝、必ず大好きな卵焼きを食べてくれていたんだそうです。
―― 料理人としては、最高の言葉をいただいたんですね。
そうですよね。本当に光栄なことでした。でも当時の僕は、日本人金メダル第一号の選手だなんて知りませんでしたから、そのきびきびとした言動に、ただただあっけに取られていました。周りも同じだったようで、誰一人「おめでとうございます」と言わなかったんです。それで後から、「あ、おめでとうございますってお祝いを言えばよかったね」なんて、みんなで言っていたんですけどね。でも、やっぱり励みになりましたよ。「よし、頑張ろう」って思えましたよね。本当に疲労困憊でくたくたでしたけど、残りの日々を乗り切ろうと思えたんです。それと、帝国ホテルの社長が自分たちに言ってくださった言葉を思い出しました。「あなたたち料理人も、東京オリンピックに参加している一人の選手なんですよ」と。そんなこともあって、三宅さんがお礼に来てくださったことで、改めて喝を入れてもらいましたね。
遠藤 三宅さんは理容店にも来ていただきました。とても優しくて、お話が面白い方でしたね。
「女性に散髪してもらったのは、子どもの時以来だよ」とおっしゃっていましたね(笑)。
「センターグリル洋光台」のお店の前にて。遠藤氏(左)と鈴木氏(2018年)
―― さて、1964年東京オリンピックは、お二人のその後の人生にどのように影響されたのでしょうか?
遠藤 東京オリンピックから自宅の理容院に戻った時に、父からこう言われました。「パーフェクトな技術を身に付けるように、この道を究めなさい」と。これからは髪の毛を刈るだけでなく、女性のシェービングやマッサージなどの技術も習得するように言われたので、いろいろと勉強会に行きました。
それで今もまだ現役でいるわけですが、実は昨年12月に麻布十番の地域新聞のようなものに、どこからどう聞いたのか、私の手が「神の手」だというふうな記事が掲載されたんです。というのも、今の時代はみんな疲労が取れなくて困っている人が多いですよね。そんな中で私が来店したお客さんにリンパマッサージをするんですけど、「小顔になった」「肩こりが取れた」って、リピーターがたくさんいるんです。それがどういうふうにうわさが広がったのか、「神の手」だと(笑)。それも、東京オリンピックでの経験がきっかけとなったことかもしれませんね。
インタビュー風景 鈴木 勇氏
―― 東京オリンピック後は、300人の料理人たちが、再び全国津々浦々、それぞれのホテルやお店に戻ったわけですよね。よく東京オリンピックが日本の食文化に与えた影響は大きかったと言われていますが、何か変化は感じられましたか?
鈴木 日本の洋食業界にとって、東京オリンピックはとてもプラスになったと思います。何より洋食を食べるお客さんが増えました。私自身においても、東京オリンピックの食堂での経験は、とてもいい勉強になりました。これからの若い方たちに特に言いたいのですが、オリンピックのような国際的なイベントに参加したかしないかでは、その後の人生が大きく違います。物事のとらえ方も、世間を見る目も。私も20代の時にオリンピックを経験したことで、非常にプラスになりました。1974年にのれん分けをしてもらい、小さなお店ではありますが、これまで44年間も自分のお店を続けてこられているのは、あの時の経験があったからこそだったと思っています。ですから、ぜひ若い人たちにも経験してほしいなと思います。
―― とても忙しかったと思いますが、でも充実した日々をすごされたんでしょうね。すべて終わった後には、責任者だった村上さんを皆さんで胴上げされたそうですね。
鈴木 はい、そうなんです。村上さんは私たち以上に寝食を忘れて、オリンピック成功のため、選手が競技で力を発揮できるように、本当に一生懸命頑張られていました。それで11月5日、もう選手もみんな帰った後、選手村の最後の日に、感謝の気持ちをこめて村上さんを胴上げしたんです。本当に立派なリーダーでした。
遠藤 私も1、2度、選手村でお見掛けしたことがありました。白いコック帽子がとても似合う方でしたね。
―― 2020年東京オリンピック・パラリンピックに向けて期待することとは何でしょうか?
遠藤 私は、メダル獲得数がどうのということよりも、1964年東京オリンピックで感じた時のような、日本人らしい「おもてなしの心」を海外の人たちに感じてもらえるような大会にしてほしいなと思っています。
鈴木 ぜひ、1964年の時の良かった部分を継承した大会にしてほしいですね。そして、若い人たちにはいろいろな経験をしてほしいなと思います。
1912 明治45 | ストックホルムオリンピック開催(夏季) |
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1916 大正5 | 第一次世界大戦でオリンピック中止 |
1920 大正9 | アントワープオリンピック開催(夏季) |
1924 大正13 | パリオリンピック開催(夏季) 織田幹雄氏、男子三段跳で全競技を通じて日本人初の入賞となる6位となる |
1928 昭和3 | アムステルダムオリンピック開催(夏季) 織田幹雄氏、男子三段跳で全競技を通じて日本人初の金メダルを獲得 人見絹枝氏、女子800mで全競技を通じて日本人女子初の銀メダルを獲得 サンモリッツオリンピック開催(冬季) |
1932 昭和7 | ロサンゼルスオリンピック開催(夏季) 南部忠平氏、男子三段跳で世界新記録を樹立し、金メダル獲得 レークプラシッドオリンピック開催(冬季) |
1936 昭和11 | ベルリンオリンピック開催(夏季) 田島直人氏、男子三段跳で世界新記録を樹立し、金メダル獲得 織田幹雄氏、南部忠平氏に続く日本人選手の同種目3連覇となる ガルミッシュ・パルテンキルヘンオリンピック開催(冬季) |
1940 昭和15 | 第二次世界大戦でオリンピック中止
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1944 昭和19 | 第二次世界大戦でオリンピック中止
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1948 昭和23 | ロンドンオリンピック開催(夏季) サンモリッツオリンピック開催(冬季)
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1952 昭和27 | ヘルシンキオリンピック開催(夏季) オスロオリンピック開催(冬季)
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1956 昭和31 | メルボルンオリンピック開催(夏季) コルチナ・ダンペッツォオリンピック開催(冬季) 猪谷千春氏、スキー回転で銀メダル獲得(冬季大会で日本人初のメダリストとなる) |
1959 昭和34 | 1964年東京オリンピック開催決定 |
1960 昭和35 | ローマオリンピック開催(夏季) スコーバレーオリンピック開催(冬季) ローマで第9回国際ストーク・マンデビル競技大会が開催 (のちに、第1回パラリンピックとして位置づけられる)
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1964 昭和39 | 東京オリンピック・パラリンピック開催(夏季) インスブルックオリンピック開催(冬季)
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1968 昭和43 | メキシコオリンピック開催(夏季) テルアビブパラリンピック開催(夏季) グルノーブルオリンピック開催(冬季) |
1969 昭和44 | 日本陸上競技連盟の青木半治理事長が、日本体育協会の専務理事、日本オリンピック委員会(JOC)の委員長 に就任
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1972 昭和47 | ミュンヘンオリンピック開催(夏季) ハイデルベルクパラリンピック開催(夏季) 札幌オリンピック開催(冬季)
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1976 昭和51 | モントリオールオリンピック開催(夏季) トロントパラリンピック開催(夏季) インスブルックオリンピック開催(冬季)
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1978 昭和53 | 8カ国陸上(アメリカ・ソ連・西ドイツ・イギリス・フランス・イタリア・ポーランド・日本)開催
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1980 昭和55 | モスクワオリンピック開催(夏季)、日本はボイコット アーネムパラリンピック開催(夏季) レークプラシッドオリンピック開催(冬季) ヤイロパラリンピック開催(冬季) 冬季大会への日本人初参加
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1984 昭和59 | ロサンゼルスオリンピック開催(夏季) ニューヨーク/ストーク・マンデビルパラリンピック開催(夏季) サラエボオリンピック開催(冬季) インスブルックパラリンピック開催(冬季) |
1988 昭和63 | ソウルオリンピック・パラリンピック開催(夏季) 鈴木大地 競泳金メダル獲得 カルガリーオリンピック開催(冬季) インスブルックパラリンピック開催(冬季) |
1992 平成4 | バルセロナオリンピック・パラリンピック開催(夏季) 有森裕子氏、女子マラソンにて日本女子陸上選手64年ぶりの銀メダル獲得 アルベールビルオリンピック開催(冬季) ティーユ/アルベールビルパラリンピック開催(冬季) |
1994 平成6 | リレハンメルオリンピック・パラリンピック開催(冬季)
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1996 平成8 | アトランタオリンピック・パラリンピック開催(夏季) 有森裕子氏、女子マラソンにて銅メダル獲得
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1998 平成10 | 長野オリンピック・パラリンピック開催(冬季) |
2000 平成12 | シドニーオリンピック・パラリンピック開催(夏季) 高橋尚子氏、女子マラソンにて金メダル獲得 |
2002 平成14 | ソルトレークシティオリンピック・パラリンピック開催(冬季) |
2004 平成16 | アテネオリンピック・パラリンピック開催(夏季) 野口みずき氏、女子マラソンにて金メダル獲得 |
2006 平成18 | トリノオリンピック・パラリンピック開催(冬季) |
2007 平成19 | 第1回東京マラソン開催 |
2008 平成20 | 北京オリンピック・パラリンピック開催(夏季) 男子4×100mリレーで日本(塚原直貴氏、末續慎吾氏、高平慎士氏、朝原宣治氏)が3位とな り、男子トラック種目初のオリンピック銅メダル獲得
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2010 平成22 | バンクーバーオリンピック・パラリンピック開催(冬季)
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2012 平成24 | ロンドンオリンピック・パラリンピック開催(夏季) 2020年に東京オリンピック・パラリンピック開催を決定 |
2014 平成26 | ソチオリンピック・パラリンピック開催(冬季) |
2016 平成28 | リオデジャネイロオリンピック・パラリンピック開催(夏季) |
2018 平成30 | 平昌オリンピック・パラリンピック開催(冬季) |