日本女子大学3年生の時に、1964年東京オリンピック・パラリンピックを迎えた吉田紗栄子さんは、オリンピックでは競技会場の英語通訳を、パラリンピックではイタリア選手団の通訳ボランティアを務めました。
オリンピックからパラリンピックへ移行する最中で目にした「障がい者のための改築工事」が、その後の人生に大きく影響したという吉田さん。オリンピック、パラリンピックともに関わった貴重な存在である吉田さんにお話を伺いました。
聞き手/佐塚元章氏 文/斉藤寿子 構成・写真/フォート・キシモト
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日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。
日本女子大学3年生の時に、1964年東京オリンピック・パラリンピックを迎えた吉田紗栄子さんは、オリンピックでは競技会場の英語通訳を、パラリンピックではイタリア選手団の通訳ボランティアを務めました。
オリンピックからパラリンピックへ移行する最中で目にした「障がい者のための改築工事」が、その後の人生に大きく影響したという吉田さん。オリンピック、パラリンピックともに関わった貴重な存在である吉田さんにお話を伺いました。
聞き手/佐塚元章氏 文/斉藤寿子 構成・写真/フォート・キシモト
―― 吉田さんが日本女子大学3年生の時に、1964年東京オリンピック・パラリンピックが開催されました。当時、吉田さんは何を専攻されていたのでしょうか?
日本女子大学家政学部住居学科で建築を学んでいました。「家政学部」と言えば、「衣服」「食」を学ぶところというイメージが強いと思うのですが、考えてみれば、「家政」というのは「衣食住」ですから「住まい」のことを学ぶところでもあるんです。ただ、当時「家政学部」に「住居学科」があったのは、日本女子大学と奈良女子大学だけで、とても珍しかったですね。
西暦80年、ローマ帝政期に作られた
円形闘技場“コロセウム”
―― 「住まい」への関心は、何がきっかけだったのでしょうか?
私が小学6年生の時に、親戚に「住居学科」を卒業した女性が嫁いでこられたんです。その人の話が面白くて「かっこいい人だなぁ」と思ったんですね。それで、なんとなくその人が学んだという「住居学科」に憧れを抱いたんです。私は中学校から日本女子大学の附属に通っていたのですが、高校2年、3年の時には日本女子大学家政学部にある住居学科に行きたいなと思っていました。決め手となったのは、1959年、私が高校2年の時に訪れたイタリアのローマで見た建築物でした。当時、父がローマに単身赴任をしていまして、夏休みにローマに遊びに行ったんです。途中、給油地だった香港で整備のために出航が10時間ほど遅れたこともあって、ローマに到着したのは明け方でした。空港には父が車で迎えに来てくれていて、その車で父が住む街へと向かったのですが、その途中でアッピア街道という古代ローマ時代に造られた道を走っていた時、窓から水道橋が見えたんです。父に「あれは何?」と聞いたら、「古代ローマ時代の水道橋で、今でも使われているんだよ」と教えてくれました。その話を聞いた時に「あぁ、建築というのは、これほど長く歴史に残るものを造ることなんだな。私もそういう仕事がしたいな」と思ったんです。それで建築の道に進むことを決めました。
車いすを対象とした
ストーク・マンデビル競技大会
―― そのローマでは、翌1960年にオリンピックが開催されました。
実は、私は翌年、1年間高校を休学して、ローマに父と住んでいました。ですから、ちょうどオリンピックが開催されていた期間も現地にいましたので、いくつか競技を見に行きました。
―― オリンピックの後には、同じローマで「第1回パラリンピック」が開催されました。パラリンピックについて記憶に残っていることはありますか?
はい、あります。初めてオリンピックと同じ開催年、開催国で実施された大会ということで、今では1960年ローマ大会が「第1回パラリンピック」とされていますが、当時は「パラリンピック」とは呼ばれていなくて、「国際ストーク・マンデビル競技大会」という名称で開催されていました。
それまで私は障がい者の国際スポーツ大会があること自体を知らなかったのですが、共同通信特派員の奥さまの渡辺華子さんという方が「このオリンピックが終わったら、障がい者の大会があるのよ」とお話されていたのを聞いて、「そういう大会があるんだなぁ」と初めて知ったんです。そして、なぜかとても強く印象に残ったんですね。残念ながら、ローマで開催されたパラリンピックを直接見ることはできなかったのですが、今思うと、それがパラリンピックとの深い縁の始まりだったのかなと思います。
1964東京大会組織委員会から
交付された“通訳”の委嘱状
―― その4年後の1964年に東京オリンピック・パラリンピックが開催され、吉田さんはオリンピック、パラリンピックともに通訳を担当されました。
開幕1年前の1963年に、東京オリンピックでの通訳の募集があったんです。それに私が応募をして、試験を受けました。幸いなことに合格をしたのですが、大会期間の2週間ほど、大学の授業を休まなければいけななかったんです。それで東京オリンピック組織委員会からいただいた書類を大学に届けて、公休にしていただいたのですが、その時に「家政学部では、あなたが一人です」と言われました(笑)。文学部にはたくさんいらっしゃったと思うのですが、家政学部で「通訳」というのは確かに珍しかったと思います。
―― 10月10日の開会式はどこで見られていたんですか?
スタンドの上の方でしたけれども、国立競技場で見ていました。印象に残っているのは、やっぱり航空自衛隊のブルーインパルスが青空に5色の五輪のマークを描いたシーンや、聖火台に点火された瞬間ですね。今でも、競技場に鳴り響いたファンファーレの音は耳に残っています。
―― 東京オリンピックでは、どのような仕事をされたのでしょうか?
私は英語の通訳担当として、駒沢オリンピック公園総合運動場の「会場係」というところに配属されました。当初はバレーボール会場の担当だったのですが、「東洋の魔女」と言われた全日本女子が金メダルを期待されていて、すごく盛り上がっていたので、友人がすごくうらやましがったんです。私はあまりスポーツのことがわからなくて、どの競技がいいなんてことは特にありませんでした。ですから、「じゃあ、替わりましょう」と言って、友人と担当を交換したんです。それで私が担当することになったのが、「陸上ホッケー」だったのですが、私としてもかえって良かったんです。というのも、私の弟が高校時代にホッケーをやっていましたし、ローマオリンピックの時には私が住んでいたローマの自宅にホッケーの日本代表チームを招待してお世話したこともあって、私にとっては親しみのあるスポーツでした。ローマでお会いした選手にも何人かお会いできるということで、むしろ替えてもらって嬉しかったですね。
1964年東京パラリンピックにて自衛隊が設営したスロープの上を移動する選手たち
―― オリンピックに続いて、パラリンピックでも通訳を務められました。これは、どのようなきっかけだったのでしょうか?
オリンピックでは「ボランティア」ではなく、きちんと報酬が支払われる「アルバイト」でした。一方、パラリンピックの方は奉仕で、まさに「ボランティア」。オリンピックのように公募があったわけではなく、日本赤十字(日赤)が集めたメンバーで構成されました。当時日赤の青少年課長だった橋本祐子(さちこ)さんが海外に行かれた時に、大会運営委員会会長で元厚生事務次官の葛西嘉資(よしすけ)さんと飛行機が一緒になったそうなんです。その時に、橋本さんは葛西さんから「今度、東京でパラリンピックという障がい者のスポーツ大会が開催されるので、通訳が必要だ。しかし、単に言葉を通訳すればいいというものではなくて、障がいのある人たちのことを理解していないといけない。そういう人たちの組織をつくってもらえないだろうか」と頼まれたそうです。
これまで私たち通訳を担当した仲間の間で語り継がれていたのは、日赤で翻訳奉仕として活躍されていた「6人」に、橋本先生が「あなたたちが、一人10人さがしてくれば、60人になる」と言って、その6人が知人を介して声をかけられていって集まったのが東京パラリンピックの通訳ボランティアメンバーだったとされていて、私たちの間では「伝説の6人」とされていたんです。しかし、最近になってわかったことですが、「6人」ではなく、語学奉仕団の部屋には6つの席があって、何人かが日替わりで担当されていたそうなんです。それで、橋本先生はその日替わりで来たメンバーにいつも「通訳を集めてきなさい」と言われていたそうで、そうして集まったのが、私たち東京パラリンピックの通訳ボランティアのメンバーだったんです。語学奉仕団のメンバーは学生でしたので、大学の友人や知人をつたって広がっていき、それで私も日赤で翻訳ボランティアをしていた友人に声をかけられたんです。ほかには、早稲田、慶應、青山学院などの学生がいました。
代々木の織田フィールドで行われた1964年東京パラリンピック開会式
―― 友人から誘われた時、どう思われましたか?
お話した通り、私はローマの時に障がい者スポーツの国際大会が開かれていることは知っていましたから、友人から「パラリンピックの通訳ボランティアをしない?」と言われた時には、「あ、あの時、渡辺さんが言っていた大会のことだな」と自分の中でスッとつながったので、「いいわよ」と迷うことなく引き受けました。
―― パラリンピック開幕前には、研修会などはあったのでしょうか?
はい、ありました。いくつかのグループに分かれて、語学だけでなく、障がいのある方たちについての勉強会を週に1回行っていました。私は、橋本先生のご自宅で開かれていた勉強会に参加していました。英語の講師は日本に駐留していた米軍のご婦人たちがボランティアでしてくださっていましたね。
―― 通訳と言っても、パラリンピックの場合は、障がいのある選手たちへのサポートも大事な仕事の一つだったんですね。
そうですね。むしろサポートが一番の仕事で、相手が海外から来られた方たちだから通訳も、という感じだったと思います。
―― オリンピックからパラリンピックへと移行する際、その準備というのはどのように行われたのでしょうか?
聞くところによると、当初は駒沢の競技場でパラリンピックの開会式を行おうとしていたそうなんです。当時はまだ海外でも珍しいリフト付きの大型バスが9台用意されていたのですが、駒沢の競技場はバリアフリーになっておらず、段になっているところがたくさんあって、競技場までの輸送はできても、競技場内での選手団の移動は困難を極めると。それで、開会式もメイン会場の代々木公園陸上競技場(織田フィールド)で行われることになったそうです。
1964年東京パラリンピックの二部として開催された国内大会開会式における選手宣誓
私自身は入村式の前日から選手村に宿泊していました。インフォメーションセンターや食堂があるメインビルは一階の部分が高くなっていて、階段を昇って一階の入り口に辿りつくような構造になっていました。その階段部分に、自衛隊の人たちが長いスロープを造っていました。それから、選手たちの宿泊する場所は「バンガロー」と呼ばれた戸建ての住宅だったのですが、やはり入るにはも2、3段の階段があったので、そこにもスロープを付けていましたね。また、車いすで出入りするのに幅が足りないようなところは、ドアを外してしまって、カーテンが付けられるということもしていました。そういった光景を見ながら、「あぁ、障がいのある方たちに対しての建築というものもあるんだな」ということを学んだんです。それが、その後の私の人生を決めたと言っても過言ではありません。
―― そのような障がいのある方たち向けの建築というのは、その時代に日本にあったのでしょうか?
いえいえ、ありませんでした。ですから開幕の1年ほど前から、担当者が障がい者スポーツの発祥の地であるイギリスの「ストーク・マンデビル病院国立脊髄損傷者センター」の施設を視察したりして勉強したそうです。当時、欧米には、車いすユーザーのためのドアや廊下の幅などの基準値というものがきちんとあって、ハードカバーの専門書も出されていましたので、そういうものを参考にしたのではないかと思います。
パラリンピックの父”グッドマン博士(左)と日本でパラリンピックを広めた中村裕博士
―― 1964年東京パラリンピックは二部構成で行われたそうですね。
日本選手団団長だった中村裕先生は、1961年から「大分県身体障がい者体育大会」を開催されていて、その大会では脊髄損傷者(脊損)だけでなく、そのほかの障がいのある方たちも参加していたんです。中村先生は東京パラリンピックもさまざまな障がいのある人たちが参加することのできる大会にしたいと考えておられたのですが、「障がい者スポーツの生みの親」でパラリンピックの前身「国際障がい者スポーツ大会」を創設したイギリスのルートヴィヒ・グットマン博士は頑として「脊損者のためのスポーツ大会」ということを譲らなかったそうです。そこで仕方なく、中村先生はそれまで通り脊損者の国際スポーツ大会を一部とし、その後に二部として脊損者以外のスポーツ大会を開催しました。二部にも、わずかばかりですが、海外の選手も参加されたそうです。でも、結局、今ではパラリンピックは脊損者に限ったものではなくなっていますから、中村先生の先見性には本当に尊敬します。
1964年東京オリンピックの車いすバスケット
―― 一部の大会には、21カ国378人の選手が参加し、日本からは53人の選手が出場しました。日本にとっては、どのような大会だったのでしょうか?
当時の日本では、障がいのある方がスポーツをするなんてことは、考えられませんでした。それどころか、外を出歩くこともなく、ほとんどの場合は施設で生活するのが当たり前だったんです。ですから、当時の日本に「選手」と呼べるような人は誰一人いませんでした。そんな中で、中村先生がご自分の病院の患者さんを中心に「あなたは陸上」「あなたは水泳」と言って、急きょ「日本選手団」をつくったんです。そんな感じですから、海外のチームと試合をやっても歯が立たないどころか、試合にならなかったそうです。これはある選手から聞いた話ですが、車いすバスケットボールではあまりにも日本チームが得点できないものだから、かわいそうになって、相手チームの選手がボールを渡してくれたそうなんです。それでもシュートが入らず、得点できなかったと……。
―― 吉田さんご自身、印象に強く残っていることはありますか?
私は水泳会場で目にしたシーンは未だに忘れることはできません。ある種目で、かなり遅れをとってしまった選手がいたんです。ほかの選手がみんなゴールした後も、おぼれそうになりながら懸命に泳いでいるんですね。見ているこちらがハラハラしてしまうくらいで、係の人が助けに行こうとすると、その選手のチームスタッフが「最後まで泳がせてほしい」と制止したんです。
結局、相当な時間はかかりましたが、その選手は最後まで泳ぎきりました。すると、会場中から割れんばかりの大歓声と拍手が鳴り響いたんです。そのシーンは本当に感動的で、継承していきたいパラリンピックの姿として、私の心に強く刻まれています。現在では、パラリンピックもオリンピック同様に競技性が強くなってきていますが、そもそも「パラリンピックの父」であるグットマン博士の有名な言葉に「失われたものを数えるな。残っているものを最大限に生かせ」というものがあるように、パラリンピックとは本来、そうした人間が挑戦する姿こそが伝えられていくべきものなのではないかなと思います。あの水泳でのシーンは、そういうパラリンピックの本来あるべき姿があったように感じられました。
1964年東京パラリンピック選手村でイタリア選手と
―― 吉田さんは、イタリア代表チームの通訳ボランティアを担当されたわけですが、当時の海外の選手というのはどのような様子だったのでしょうか?
大会期間中は、私たちボランティアも選手村で過ごしていましたので、まさに選手たちとともに生活するという感じだったのですが、それまで私が抱いていた「障がい者」のイメージとは全く違っていました。少なくとも、私が担当したイタリア選手団は、みんな明るくて、聞けば、会社で働いていて、結婚もしていて、と健常者と同じような生活をしているというんです。スポーツもその一つだと。それを聞いて、あまりの日本人選手との違いに、驚きました。私自身、イタリアの選手を「障がい者」として接してはいなくて、みんな名前で呼び合っていましたし、純粋に人と人との付き合いという感じでした。たまたま車いすに乗っているというだけだったんです。
今考えてみると、こうした経験がその後の私にとってはとても重要だったと思います。建築士になって約50年、これまで障がいのある方の住宅もたくさん設計してきましたが、「障がいがあるから」ということが重要ではないと思ってきました。確かに障がいは一つの条件ではありますが、「障がい者」のために作っているわけではなく、「○○さん」のための住宅を作っているんだという考えでやってきたんです。そういうふうに考えられたのは、最初に障がいのある方に接したのが、あの東京パラリンピックでのイタリア選手団とだったからだと思います。
浅草にてパラリンピックイタリア選手と
―― 大会期間中、選手団と東京見物に出かけたりもされたんですか?
はい、しました。私の親戚に車を出してもらったり、あるいはタクシーをつかまえて、一緒に出掛けました。車いすをたたんで、なんとか車に乗ってという感じでしたね。
―― 一方、日本人選手はどのような様子だったのでしょうか?
海外の選手とはまるで違っていたと思います。そもそも、それまで施設内で生活をしていた人たちが、急に外に出てきたという感じだったと思いますからね。ですから、海外の選手たちの姿を見たり話を聞いて、自分たちが置かれている環境とのあまりの違いに、相当なショックを受けたと聞いています。そういう方たちが、その後、「自分たちも」ということで立ちあがったことで、日本の障がい者の環境が変わっていったんです。ですから、1964年というのは、日本の障がい者にとって、大きなターニングポイントになったことは間違いありません。
―― 後に吉田さんがご専門とされる「バリアフリー」という点においても、1964年の東京パラリンピックは時代を動かした大きな出来事だったと言えるわけですね。
そうだと思います。1980年代くらいまでは、「バリアフリー」という概念はそれほど大きな広がりはなかったかもしれませんが、1964年がスタート地点だったということは言えると思います。
吉田紗栄子氏 インタビュー風景(2018年)
―― それにしても、吉田さんはパラリンピックとの縁が深いですね。1960年にはローマに、1964年には東京に住んでいらっしゃったのは、まさに「運命」ですよね。
そう思います。本当に自分はパラリンピックと運命的に強く結びつきがあるなぁと感じた出来事がありました。私の大伯父がオーストラリア人の女性と結婚をし、母の従妹もイギリス人と結婚をしたんです。その娘さんが私の又従妹にあたるのですが、その又従妹が再婚する時に親戚代表として結婚式に出席するためにイギリスに行ったんです。それで、又従妹が迎えに来てくれた車に乗っている時に、道中でストーク・マンデビル病院がある「Aylesbury」という標識を見つけ、「東京パラリンピックの翌年(1965年)、日本人選手のサポートで、ストーク・マンデビル病院の施設内で行われた大会のために、この場所を訪れたことがあったなぁ」と、懐かしく思い出していました。
そうしたところ、又従妹の自宅に到着したら、家中にグットマン博士の写真が飾られていたんです。「どういうこと?」って又従妹に聞いたら、お相手の方、マイクと言うんですけど、彼はユーゴスラビアの内戦の時に、イギリスから食糧を輸送するボランティアをしていて、その時に乗っていた車が爆撃に遭い、その時仲間の2人が亡くなったのですが、マイクだけは生き残ったと。ただ、脊損に加えて足も負傷し、ストーク・マンデビル病院に運ばれて、6年ほど入院していたそうなんです。その後、グットマン博士の偉業を称えて、銅像を作ることになった時には、リーダー役を務められたりもしたというんです。それでマイクに「私は、グットマン博士にお会いしたことがあって、パラリンピックでは何度か通訳のボランティアをしました」と伝えたら、「明日の結婚式には、1964年の東京パラリンピックにイギリス代表として出場した選手が来るよ」と教えてくれました。
実際、結婚式当日に会場に車いすの方がいらっしゃったので、声をかけてみたら、「東京パラリンピックに出たよ」と。そしたら、そのお隣にいた年配の女性が「私も行ったわよ」と言うんですね。彼女は健常者の旦那さんと一緒に東京に行ったそうなのですが、選手村では部屋が旦那さんと別々だったそうです。それで事務局に行って、「私と夫を同部屋にしてほしい」と頼んだそうなんですけど、その時に事務局の人は「え?ご結婚されているんですか?」と非常に驚かれていたと話されていました。3人で「あの時、同じ会場にいて、同じ空気を吸っていたのね」なんて盛り上がったのですが、まさか親戚の結婚式でパラリンピックの選手に2人も会えるなんて、本当に縁だなぁと思いました。
1964年に東京で開催されたパラリンピック大会開会式で入場するイギリス選手団
―― 1964年の後も、1972年ハイデルベルグ大会(当時西ドイツ)、1976年トロント大会(カナダ)と、パラリンピックにボランティアとして参加されました。
ハイデルベルグ大会では、同年に開催されたミュンヘンオリンピックの後に場所を移して、ハイデルベルグの障がい者スポーツセンターのような施設に選手村が用意されていて、競技会場もその周辺にありました。ですから、「バリアフリー」という点においては、特に問題はなかったと思います。
一方、トロント大会も同年のモントリオールオリンピックの後に、場所を移して行われたのですが、郊外の学生寮を選手の宿泊場所として提供されていました。高層のマンションタイプになっていたのですが、困ったのはエレベーターの数が限られていたこと。サイズも大きくはないので、車いすでは何人も乗れないわけです。ですから、開会式や毎日の食事の時間といった、人が集中するような時間帯には、1時間ほど待たないとエレベーターに乗れませんでした。そうした経験からも、2020年東京パラリンピックでは、ぜひ低層階に車いすの人たちが利用する部屋を置くといった配慮のある構造にしてもらいたいなと思っています。
―― パラリンピックは社会にインパクトを与えるきっかけになると思われますか?
そうですね。私が一番大事だと思っているのは、子どもの時代に障がいのある人たちと接することなんです。障がい者に対する痛ましい事件をニュースで見聞きするたびに思うのは、表面上ではほとんどの人が「障がいの有無に関係なく、一人の人間」というようなことをおっしゃるけれど、根っこのところではやっぱり「自分と障がい者とは違う」というようなことを無意識に思ってしまっている部分ってあるんじゃないかなって思うんです。でも、そういう根っこの部分というのは、大人になってから変えようと思っても、なかなか難しいところがありますよね。ですから、先入観のない子どもの時から障がいのある人たちと接することで、受け入れる心を養ってほしいなと思うんです。
それこそ2020年に東京パラリンピックが開催されることをきっかけに、子どもたちが障がいのある人たちを自然と受け入れて、もし困っている人がいたら、パッと手を差し伸べる、というようになってほしいなと。それこそ、障がいの有無に関係なく、誰しも「できないこと」「苦手なこと」ってありますよね。そんな時、誰かに手伝ってもらうことはあるわけです。そう考えれば、障がいのある人たちに手をさしのべることは、特別なことではなく普通のこと。そんなふうに考えられるようになったらいいなと思います。
―― 現在、2020年東京オリンピック・パラリンピックに向けて、さまざまな施設が新築・改築されていますが、日本のスポーツ施設における「バリアフリー化」については、どのように感じられていますか?
確かに日本のスポーツ施設の「バリアフリー化」は、以前よりも進んでいると思います。しかし、その一方で「きめ細やかさ」という部分においては、不足しているようにも感じられます。例えば、スタジアムのような大きなスポーツ施設には、車いす専用のシートが設けられていますが、どこも横に一列にスペースがとられていますよね。でも、考えてみると、スポーツって誰かと一緒に見に行くことが多いわけですよ。それなのに、車いすユーザーと健常者とが一緒に見ることができないようでは、楽しむことはできません。それと、車いすユーザーはある一定の決まった場所でしか見ることができないというのも、つまらないと思うんです。ですから、一カ所にかためるのではなく、さまざまな方向から見られるように車いすのシートを散らすというような工夫もしてほしいなと思います。
日本人はとても真面目なので、規定で決められている通りにすることを良しという傾向がありますが、実は建築で大事なのは規定ではなくて、利用者がいかに心地よさを感じるかを考えることにあると私は思っています。ですから、規定にとらわれず、「こうすれば、こうかな、ああかな」と、建築業界の一人一人が考えて設計してもらえると嬉しいなと思います。
2016年リオデジャネイロパラリンピック閉会式では2020東京大会が紹介された
―― 1964年の東京パラリンピックではイタリア選手団の通訳ボランティアを務められたわけですが、今度の2020年東京パラリンピックには、どんなふうに関わっていきたいと思われていますか?
実は私は、2020年東京パラリンピックの開催が決定した時からぜひやりたいと思っていることがあるんです。それは、「パラリンピックの選手をお茶に
さらに、自宅の玄関から車いすに乗ったまま入れるのか、部屋の中はバリアフリーになっているか、トイレには行くことができるのか、ということも考えなければいけません。現状ではとても車いすの選手を招待するのは無理という家の方が多いと思いますが、だからといって、ダメだとかということを言いたいわけではないんです。車いすの選手が無理ならば、視覚障がい者や義足選手を招くことだってできるわけですからね。
大事なことは、障がいのあるパラリンピック選手について考えることで、将来、自分たちが高齢者になった時にどうなのか、ということに気付くことなんです。そうすると、障がいのある人たちに対して、深く理解することができるのではないかなと。いくら「障がい者のことを理解しましょう」なんて口先だけで言っても、やっぱり他人事なんですよね。でも、高齢者になって、足腰が弱くなり、視力も悪くなった時のことを考えることで、当事者意識が芽生え、自分のこととして考えられるようになると思うんです。そして、ひいては住宅の設計も変わってくるはずで、「超高齢社会」の日本において、とても大事なことだと思いますので、ぜひ実現させたいと考えています。
1912 明治45 | ストックホルムオリンピック開催(夏季) |
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1916 大正5 | 第一次世界大戦でオリンピック中止 |
1920 大正9 | アントワープオリンピック開催(夏季) |
1924 大正13 | パリオリンピック開催(夏季) 織田幹雄氏、男子三段跳で全競技を通じて日本人初の入賞となる6位となる |
1928 昭和3 | アムステルダムオリンピック開催(夏季) 織田幹雄氏、男子三段跳で全競技を通じて日本人初の金メダルを獲得 人見絹枝氏、女子800mで全競技を通じて日本人女子初の銀メダルを獲得 サンモリッツオリンピック開催(冬季) |
1932 昭和7 | ロサンゼルスオリンピック開催(夏季) 南部忠平氏、男子三段跳で世界新記録を樹立し、金メダル獲得 レークプラシッドオリンピック開催(冬季) |
1936 昭和11 | ベルリンオリンピック開催(夏季) 田島直人氏、男子三段跳で世界新記録を樹立し、金メダル獲得 織田幹雄氏、南部忠平氏に続く日本人選手の同種目3連覇となる ガルミッシュ・パルテンキルヘンオリンピック開催(冬季) |
1940 昭和15 | 第二次世界大戦でオリンピック中止
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1944 昭和19 | 第二次世界大戦でオリンピック中止
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1948 昭和23 | ロンドンオリンピック開催(夏季) サンモリッツオリンピック開催(冬季)
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1952 昭和27 | ヘルシンキオリンピック開催(夏季) オスロオリンピック開催(冬季)
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1956 昭和31 | メルボルンオリンピック開催(夏季) コルチナ・ダンペッツォオリンピック開催(冬季) 猪谷千春氏、スキー回転で銀メダル獲得(冬季大会で日本人初のメダリストとなる) |
1960 昭和35 | ローマオリンピック開催(夏季) スコーバレーオリンピック開催(冬季) ローマで第9回国際ストーク・マンデビル競技大会が開催 (のちに、第1回パラリンピックとして位置づけられる) |
1964 昭和39 | 東京オリンピック・パラリンピック開催(夏季) インスブルックオリンピック開催(冬季)
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1968 昭和43 | メキシコオリンピック開催(夏季) テルアビブパラリンピック開催(夏季) グルノーブルオリンピック開催(冬季) |
1969 昭和44 | 日本陸上競技連盟の青木半治理事長が、日本体育協会の専務理事、日本オリンピック委員会(JOC)の委員長 に就任
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1972 昭和47 | ミュンヘンオリンピック開催(夏季) ハイデルベルクパラリンピック開催(夏季) 札幌オリンピック開催(冬季)
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1976 昭和51 | モントリオールオリンピック開催(夏季) トロントパラリンピック開催(夏季) インスブルックオリンピック開催(冬季)
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1978 昭和53 | 8カ国陸上(アメリカ・ソ連・西ドイツ・イギリス・フランス・イタリア・ポーランド・日本)開催
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1980 昭和55 | モスクワオリンピック開催(夏季)、日本はボイコット アーネムパラリンピック開催(夏季) レークプラシッドオリンピック開催(冬季) ヤイロパラリンピック開催(冬季) 冬季大会への日本人初参加
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1984 昭和59 | ロサンゼルスオリンピック開催(夏季) ニューヨーク/ストーク・マンデビルパラリンピック開催(夏季) サラエボオリンピック開催(冬季) インスブルックパラリンピック開催(冬季) |
1988 昭和63 | ソウルオリンピック・パラリンピック開催(夏季) 鈴木大地 競泳金メダル獲得 カルガリーオリンピック開催(冬季) インスブルックパラリンピック開催(冬季) |
1992 平成4 | バルセロナオリンピック・パラリンピック開催(夏季) 有森裕子氏、女子マラソンにて日本女子陸上選手64年ぶりの銀メダル獲得 アルベールビルオリンピック開催(冬季) ティーユ/アルベールビルパラリンピック開催(冬季) |
1994 平成6 | リレハンメルオリンピック・パラリンピック開催(冬季)
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1996 平成8 | アトランタオリンピック・パラリンピック開催(夏季) 有森裕子氏、女子マラソンにて銅メダル獲得
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1998 平成10 | 長野オリンピック・パラリンピック開催(冬季)
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2000 平成12 | シドニーオリンピック・パラリンピック開催(夏季) 高橋尚子氏、女子マラソンにて金メダル獲得
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2002 平成14 | ソルトレークシティオリンピック・パラリンピック開催(冬季) |
2004 平成16 | アテネオリンピック・パラリンピック開催(夏季) 野口みずき氏、女子マラソンにて金メダル獲得
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2006 平成18 | トリノオリンピック・パラリンピック開催(冬季) |
2007 平成19 | 第1回東京マラソン開催 |
2008 平成20 | 北京オリンピック・パラリンピック開催(夏季) 男子4×100mリレーで日本(塚原直貴氏、末續慎吾氏、高平慎士氏、朝原宣治氏)が3位とな り、男子トラック種目初のオリンピック銅メダル獲得
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2010 平成22 | バンクーバーオリンピック・パラリンピック開催(冬季)
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2012 平成24 | ロンドンオリンピック・パラリンピック開催(夏季) 2020年に東京オリンピック・パラリンピック開催を決定
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2014 平成26 | ソチオリンピック・パラリンピック開催(冬季) |
2016 平成28 | リオデジャネイロオリンピック・パラリンピック開催(夏季) |