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「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。

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日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。

1964東京大会を支えた人びと
第68回
1964年をきっかけに世界へ広がった「ピクトグラム」

村越 愛策

1964年東京オリンピックの遺産の一つである「ピクトグラム」(絵文字)。
その開発者の一人として、「空の表玄関」東京国際空港(羽田空港)のサインを担当したのがデザイナー村越愛策さんです。

村越さんがデザインに関心を持ったきっかけは、幼少時代を満州で過ごしたことにあったと言います。そして東京オリンピックに向けての2年間にわたる作業は、多忙を極めたそうですが、「面白かった」と村越さんは語っています。

果たして、村越さんが「ピクトグラム」に寄せたこだわりとは何だったのか。現在では誰もが日常的に使用している「ピクトグラム」について、村越さんにお話を伺いました。

聞き手/佐塚元章氏  文/斉藤寿子  構成・写真/フォート・キシモト

「形態は機能に従う」ことを学んだ少年時代

村越愛策氏 インタビュー風景(2017年)

村越愛策氏 インタビュー風景(2017年)

―― 村越さんは、戦時中に満州で生まれて、15歳の時にお姉さんと二人で日本に引き揚げられました。

私が14歳、中学2年の時に終戦を迎えまして、その1年後の昭和21年(1946年)、日本に引き揚げてきました。ですから、日本の小学校に入学するまでは「友だち」と言えば、ほとんど満州の人しかいなかったんです。だからなんでしょうかね。絵など、言葉の代わりになるものに対して、非常に興味がありました。

―― まさに言語の代わりである「ピクトグラム(絵文字)」そのものですね。子ども時代のそうした境遇が、将来の仕事へとつながっていったというわけですね。

そうかもしれませんね。中国語がわかりませんでしたから、遊びひとつにしても、とにかく言語の代わりになるもので対応しなければいけなかった。そうした環境が、大きく影響したのかもしれません。

―― 14歳で迎えた「敗戦」は、村越さんの心に何をもたらしたのでしょうか?

戦時中、私は子ども心に飛行機に憧れを抱いていまして、ずっと飛行兵になろうと思って、空ばかり見ているような子どもでした。そうしたところ、昭和20年(1945年)に敗戦となって、米軍から貸与したジープというものに出合ったんです。私は正直、「形の悪い車だな」と思いました。当時のデザインは飛行機に代表するように「流線形」が主流だったからです。しかし、よく観察してみると、実に機能的だということがわかり、それを機に考え方がガラッと変わりました。このことが、後にデザインの道に進んだ時に、「形」以上に重要な何かがあると考え、それを求めていったことにつながったのだと思います。その後、大学時代に「形態は機能に従うもの」ということを教わり、自分の考えが間違っていなかったことを確認することができました。

「オリンピック景気」で高まった商業デザインの需要

中国で見た米軍から貸与されたジープのイラスト(自叙伝「70年を超えて」村越愛策/2016より

中国で見た米軍から貸与されたジープのイラスト(自叙伝「70年を超えて」村越愛策/2016より)

―― 具体的には、どのようにしてデザインの道に進まれたのでしょうか?

日本に引き揚げてきた後、私は神奈川県小田原市の旧制・神奈川第二中学校に入りまして、新制・小田原高校を卒業した後は、千葉大学工学部に進学しました。もともと東京の芝浦には東京高等工芸学校(昭和20年に「東京工業専門学校」に改称)というデザイン教育を行っていた学校がありました。しかし、昭和20年5月の東京大空襲で建物が全焼してしまったんです。それで、千葉県松戸市にあった陸軍工兵学校の校舎に移転をしまして、昭和24年(1949年)に「千葉大学工芸学部」、昭和26年(1951年)に「工学部」となったという経緯があります。私が千葉大学に入学した当時、工学部には小池新二という先生がいました。小池先生は東京大学文学部で美学美術史学を学ばれた方で、戦後に千葉大学工学部工業意匠学科の学科長として招かれたんです。私はその小池先生に師事しました。

―― なぜ、千葉大学を選ばれたのでしょうか?

ほかに、デザインを専攻できるところがなかったからです。東京芸術大学には当時「図案科」がありましたが、工業とは無関係で絵のみを学ぶところでした。

イラストで書籍に掲載された“図記号の世界”(「目でみることばの世界」一般財団法人日本規格協会/1983年 より)

イラストで書籍に掲載された“図記号の世界”(「目でみることばの世界」一般財団法人日本規格協会/1983年 より)

―― まだ「工業デザイン」というものが認知されていなかった時代において、千葉大学工学部工業意匠学科は先駆け的な存在だったというわけですね。

そうなんです。「工業デザイン」と言っても、一般的には「何それ?」と言われるくらいで、そうした時代において小池先生はパイオニア的存在でした。私はそこで「工業デザイン」の基礎を学ばせていただきました。しかし、1956年(昭和31年)の就職の時には、まだデザインと言えば服飾系の時代だったので、面接で「君はミシンは踏めるのか?」という質問を受けました。

―― 大学卒業後は、すぐに独立されました。お一人でデザイン事務所を構えられたんですか?

まぁ、事務所を構えるというようなたいそうなことではなかったのですが、当時二階建ての友人の家に下宿をして、そこで仕事をしていました。千葉大同期の仲間と一緒に広告やグラフィックの展示会を開いたりすると、そこにスポンサーがつくこともあったんです。当時依頼が多かったのは事務用品のカタログや宣伝物などの「商業デザイン」でしたね。

東京オリンピックを期に整備された首都高速道路

東京オリンピックを期に整備された首都高速道路

―― 時代は、1950年代。朝鮮戦争勃発で日本は特需で好景気となり、その後、高度経済成長の時代へと入っていきます。そうした時代背景もまた「商業デザイン」が求められたことと関係していたのでしょうか?

そうですね。朝鮮戦争による好景気の影響を大きく受けていたと思いますし、さらに、1959年にはアジア初となる東京オリンピックが1964年に開催されることが決定しました。高速道路や新幹線の開通に向けての工事が始まり、また次々と建物の建設、改築が始まったわけです。それもまた、「商業デザイン」の必要性が高まっていく契機となったのだと思います。

―― 当時、オリンピックが東京で開催されるというのは、日本国民にとってはやはり大きなインパクトのある出来事だったのでしょうか?

それは大きなものでしたよ。東京オリンピック開催が決定して以降、さまざまなことが急激に動きましたからね。例えば、高速道路や新幹線の開通も、東京オリンピックが開かれるからということで実現したものです。

―― 当時から村越さんのご自宅兼仕事場は、東京の原宿にあったそうですが、街の変化も激しかったのでしょうか?

当時の原宿は、まだ今のように若者の人気スポットというわけではなく、デザイナー仲間が結構住んでいました。私は東京オリンピック開催の2年前、1962年から原宿に住んでいたのですが、2年間で街の様子は一変したんです。例えば、ついこの間まで女性服を扱うテナントが入っていたビルが、いつの間にか壊されて駐車場になっていたり……。住んでいる者としては寂しい思いもありましたが、東京オリンピックに向けては仕方なかったんでしょうね。でも、今でも原宿は2、3年すればあったはずのお店がなくなっていたりと、「変わりゆく街」。55年も住んでいる原宿の変貌は面白いなと思いながら見ています。2020年東京オリンピックに向けては、どんなふうに変わっていくのでしょうかね。

欧州発祥の「ピクトグラム」を整備、統一

東京オリンピックに向けて整備された羽田空港

東京オリンピックに向けて整備された羽田空港

―― その東京オリンピックでは、村越さんは海外の人々を最初に出迎える「空の表玄関」東京国際空港(羽田空港)に携わられました。これは、どのようなことがきっかけだったのでしょうか?

東京オリンピック開催の際には、海外から大勢の選手団や関係者、観客が来られるということで、「羽田空港の看板をなんとかしなければならない」という話が持ち上がったんです。当時の羽田空港の看板といえば、「禁煙」を示すもの一つとっても、手書きのものが乱雑に標示されていただけでした。それも文字だけのものでしたから、非常にわかりにくかったんです。「これではいかん」ということで、建設業界から東京オリンピック組織委員会に設けられた「デザイン連絡協議会」に依頼がありました。そこで日本のデザイン界の第一人者であり、東京オリンピックのデザイン専門委員会委員長を務めた勝見勝先生の出番となったのです。その勝見先生からご指名をいただいた私の作業は1962年から始まって、約1年間の期間しかありませんでした。勝見先生は代々木の競技場周辺すべてのデザインを受け持たれていて、私にも「羽田空港だけじゃなくて、他の施設においても、密接に携わってくれよ」と言われましたけども、私はもう羽田空港だけでいっぱいいっぱいでした。ずっと朝から晩まで仕事場のある自宅かもしくは空港に詰めているような日々を過ごしました。デザイン連絡協議会の事務所は旧赤坂離宮の小部屋に設けられていましたが、私は一度もそこに伺うことすらできないくらい、羽田空港の作業で手一杯だったんです。

東京オリンピック組織委員会は現在の迎賓館に置かれており、その地階にデザイン室があった

東京オリンピック組織委員会は現在の迎賓館に置かれており、その地階にデザイン室があった

―― そうした中で、1964年東京オリンピックの遺産の一つとなっている「ピクトグラム」が誕生しました。

「ピクトグラム」の発祥は、第一次世界大戦後(1919年頃)のヨーロッパにあります。陸続きの彼らにとって移動する手段は道路や鉄道で、言語が異なる各国を通過する際に必要とされ、ヨーロッパ鉄道連合が考案したのが「絵文字(ピクトグラム)」でした。ですから、私たちデザイン界ではその存在は知っていたんです。ただ、当時のヨーロッパの「絵文字(ピクトグラム)」というのは、全く統一されたものではなく、例えばトイレの表示ひとつをとっても、男性なのか女性なのか、わからないようなものが少なくありませんでした。それを、きちんと整備し、統一して、「わかりやすさ」を追求したのが、東京オリンピックだったんです。

当時の日本は海外旅行をする人はほとんどおらず、海外の人が来日するということも稀でした。ですから、外国語の表記と言えば、英語が少しあるだけでした。ところが、東京オリンピックでは90カ国以上の人々が一気に押し寄せてくる。勝見先生は「英語、フランス語、スペイン語、ロシア語、中国語、ドイツ語など、各国の言語で表記するのは不可能」と考えられていました。ところが、これは裏話ですが、当初は「10カ国でも20カ国でも、各国の言語を書いた看板を作れば、問題ないでしょう」という政府の話だったそうです。しかし、それでは言語の氾濫を招くことは明らかでした。

そこで勝見先生が「視覚言語」の必要性を訴え、「それならば、絵文字(ピクトグラム)を作りましょう」と提案したことで、その製作が始まったんです。陸上競技や体操などといった「競技シンボル」と、トイレや公衆電話などを示す「施設シンボル」が作られました。「競技シンボル」は、世界で初めてのことで、その後各国でのオリンピックにも用いられました。そのため、オリンピックでのピクトグラム活用は「絵文字の国際リレー」と呼ばれていたのです。

1968年メキシコオリンピックで使用されたピクトグラム

1968年メキシコオリンピックで使用されたピクトグラム

―― 東京オリンピックには、93カ国の選手団が来日しました。それぞれ言語はもちろん、文化も生活習慣も異なるわけで、その人たちがまず最初に足を踏み入れる羽田空港の看板というのは、非常に重要だったと思います。どのようなピクトグラムを考えられたのでしょうか。

最初に着手したのが、トイレでした。男女それぞれを表す人型のサインを考え、さらに男性と女性を青とピンクで色分けをしました。それから進行方向を示す矢印。ほかにもたくさん作りました。全部で十数種類のピクトグラムのデザインと、それを用いた案内サインを開発しました。

当時はまだ印刷技術がほとんどなかった時代で、それまではペンキを使っての手書きのものがほとんどでした。私たちが使ったのは当時出始めたばかりの白色乳のアクリル板。それを表示面として、ピクトグラムは色付きのアクリル板を10枚ほど重ねて、糸のこで切り抜き、それを貼り付けて看板を作りました。

東京大会を嚆矢とするオリンピック競技のピクトグラム

東京大会を嚆矢とするオリンピック競技のピクトグラム

―― 村越さんが考えられたピクトグラムによって、羽田空港は劇的に変わったのではないでしょうか。

いえいえ、劇的にというわけではなかったと思いますが、東京オリンピックをきっかけにして、世界のピクトグラムが統一されていく方向へと進んでいったと思います。

―― 村越さんは、その一端を担ったお一人だったわけですね。

ありがとうございます。そうであったら、嬉しいですね。でも、本当にやりがいのある面白い仕事でしたよ。こちらが提案したものを、大学生に市場調査をお願いして本当にひと目でわかるものかどうかを調べたり、さまざまな方と「あぁでもない、こうでもない」と話し合いながら試行錯誤していったんです。そうやって、とにかく「見やすさを」を追求しました。私自身、デザイナーとしての名誉には興味がなくて、私の名前が売れようが売れまいが、構わない。とにかく、「この空間を利用する人々の流れがスムーズになるようにしたい」ということだけを考えてやっていました。

―― 村越さんは、どこでどのようにしてデザイン案が生まれることが多いのでしょうか?

私が透視図を描く場合は、製図版と向き合いながら、自分自身がその空間にいることをイメージし、T定規と三角定規を使って、鉛筆で描き出していきます。まぁ、今は何でもパソコンの時代ですから、私のようなやり方をする人はいなくなったと思いますけどね。私は自分の手で描いたデザインをスタッフにスキャンしてもらい、それをパソコンの画面でチェックするという工程を経るわけですが、意図するものがパソコンでは表現できずに悩むことも少なくありません。確かにモノづくりにおいて効率化を図ることは重要です。しかし、デザイン、特に公共的サインというのは一般生活と密着に関わるもの。それをすべてパソコンのモニター上で表現するというのは、いささか無理があるように思います。いずれにしても、すべて自分の手作業でデザインを生み出していた、あの当時のことが今では懐かしいですね。

「半永久的に継承される道案内人」人生の始まり

羽田空港トイレのサイン

羽田空港トイレのサイン

―― オリンピック開幕前からは、続々と各国の選手団も含めて訪日客が羽田空港に降り立ったわけですが、やはり海外の人たちがどんな反応を示すかは気になりましたか?

そうですね。やはり、気になりましたね。私たちとしては「これで大丈夫」と準備万端という気持ちで迎えたわけですが、実は、多くの苦情もいただいたんです。直接何かを言われたことはありませんでしたが、間接的にはいろいろと耳にしましたね。例えば、迷子センターは、私の友人のデザイナーが泣いている女の子のピクトグラムのデザインをしました。ところが、「なぜ男の子ではなく、女の子なのか」という苦情もあったそうです。

―― 村越さんとしては、どんなことを一番大事にしてピクトグラムを製作されたのでしょうか?

一番は「わかりやすさ」という点です。例えば、飛行機の搭乗口の方向を示すピクトグラムは、飛行機と矢印を使っていて、「この矢印に沿っていけば、飛行機に乗ることができますよ」ということを示しているんです。ところが、飛行機と矢印の向きがそろっていなくて、反対では進む方向がわからないものになってしまいます。また、ピクトグラムと情報の主となる文字の組み合わせにも気を遣いました。本当に小さなことですが、そういうところにまで気を配って、とにかく「単純さ」と「わかりやすさ」を大事にして作りました。

羽田空港出発口のサイン

羽田空港出発口のサイン

―― デザイナーは、ひとりよがりではなく、利用者の気持ちを一番に考え、あるいは予測をしてサインを作ることが大事なんですね。

はい、そうです。例えば、空港のピクトグラムを作る場合は、頭を真っ白にした状態で、自分自身が海外から来た旅人になったつもりで考えることが一番大事だと思います。私のそういう発想は、やはり子どものころに満州で生活をしていたことが大きく影響しているのではないかと思いますね。日本にいれば日本語が通じますから、そういった発想はなかったと思いますが、満州ではお互いの言葉が通じない中で遊んだり交流することが少なくありませんでした。ですから、常に相手の気持ちを想像するような習慣があったんです。その経験が、デザイナーとして生かされたのかなと思います。こうした国境を越えた私のアイデンティティにちなんで、知人の外国人女性からは「あなたは『村越』というより、まるで『国越』ですね」と言われたりしました。

村越愛策氏 インタビュー風景(2017年)

村越愛策氏 インタビュー風景(2017年)

―― 羽田空港の看板がすべて完成した後、師匠の勝見さんからはどんなお言葉がありましたか?

「よくやったね」とは言われましたが、その後にこんな助言をいただきました。「ただ、時代は変わっていくから、いろいろなものの形も変わっていく。そうした中で、サインもその時代に見合ったものに変えていかなければいけないからね」と。なるほど、と思いました。今振り返ると、例えば電話が代表例ですが、東京オリンピックの時代から、モノの形は本当に変わりましたからね。「さすが勝見先生。先見の明があるな」と感心しました。

―― 東京オリンピックは、村越さんにとってデザイナーとしての新しいスタートとなったといえるのではないでしょうか?

そうですね。公共的サインに対して、のめりこんでいく大きなきっかけになったと思います。

―― 「公共的サイン」とは、多くの人に役立つものですよね。

その通りです。一過性のものではなく、「半永久的に継承される道案内人」ということが私の役割だと考えています。ですから、今もお金になる仕事なのかどうかではなく、これは公共的に必要とされるものなのかどうかということを考えています。

公共という意味では、実は東京オリンピックでは、すべての作業を終えた後、組織委員会からは「ピクトグラムの著作権を放棄してほしい」という旨の依頼がありました。勝見先生は私たちデザイナーにこう言われました。「君たちの仕事は誠に素晴らしかった。しかし、これは社会に還元するもの。誰が描いたのかではなく、私たちは日本人としてやるべき仕事をやったということです」。その言葉に賛同し、私たちデザイナーは、東京オリンピックのためにつくった「ピクトグラム」のデザインの著作権をすべて放棄したんです。すべては「日本のために」という気持ちがあったので、誰も異論を唱える人はいませんでした。もし、ひとりでも著作権料を要求し、個人の財産としていたら、ピクトグラムの「国際リレー」はなかったかもしれませんね。

新東京国際空港(現・成田国際空港)用に開発された各種ピクトグラム

新東京国際空港(現・成田国際空港)用に開発された各種ピクトグラム

―― 村越さんのデザイナー人生の中でも、東京オリンピックはインパクトの強いものとなったのではないでしょうか。

おっしゃる通りです。東京オリンピックで羽田空港を担当したことによって、その後は関西の伊丹空港や阪神電鉄、京阪電鉄、東京メトロといった公共交通の仕事を多く手がけました。

―― 東京オリンピックで考案された「ピクトグラム」に対する世界的な評価はどうだったのでしょうか?

それは勝見先生のご尽力によって、非常に高く評価されていたと思います。スイスの有名なグラフィックデザインの専門誌『GRAPHIS(グラフィス)』では、こう記されています。

<国際交通標識の提案(1949年)は、部分的な成功をおさめた実例であるが、この種のシンボルは、あらゆる人種と文明形態のなかでたやすく識別されなければならないし、行政当局や一般市民によって価値を認められ、実際に使用されなければならない。
こうした課題のすべてが1964年の東京オリンピックに際して、するどく提起された。旅行者で日本語のわかる人は例外であり、また日本では、別の外国語が普及しているわけではない。
90カ国以上の参加者にとってこの問題を真剣に考え、勝見先生をリーダーとする一群の若いデザイナーたちが、スポーツをはじめ各種の施設のためのシンボルのデザインにあたったが、これらのシンボルが、次の大会にも採用されることによって、万国共有の視覚言語として完全なものに磨き上げられることを望んでいる>

日本人はもともとデザインが得意な民族なのかもしれません。というのは、日本には家紋があって、非常に優れたデザインのものが多いですからね。

いつの時代も変わらない「単純化」「シンプルさ」の重要性

紆余曲折を経て2016年4月に発表された2020東京大会のエンブレム

紆余曲折を経て2016年4月に発表された2020東京大会のエンブレム

―― 1964年東京オリンピックに関わられた村越さんとしては、56年ぶりに開催される2020年東京オリンピックは、どんな大会になってほしいと思っていますか?

いやぁ、本当にすごいことですよね。まさか、2度目の東京オリンピックを迎えることになるとは、56年前には想像もできませんでしたから(笑)。とにかく、みんなにとっていいオリンピックになってほしいなと思います。それにしても、選手はすごいですよね。陸上や水泳といったタイムを競う競技では、わずか0.01秒差を争うわけですよね。本当に尊敬します。そうそう、先日新聞記事で読みましたが、体操では「3Dレーザセンサー」というシステムで、審判を支援するとか。空中で何回転したのか、もはや人間の肉眼では正確な判定が難しいそうですね。本当にすごい時代になりました。

―― 2015年には、2020東京オリンピック・パラリンピックにおけるエンブレムの盗用問題が起きました。同じデザインの世界に生きる先輩としては、どのような目で見られていたのでしょうか?

「真似をする」というと誤解がありますが、やはり何かを「参考にする」ということは、デザインの世界にはあることです。そこからそれぞれの発想でデザインを描いていくわけですからね。もちろん、それをそのままコピーするというのは絶対にしてはいけませんが、「これは面白いな」と思ったものを参考にしてアイディアを生み出すことは、よくあること。ですから、あの「エンブレム問題」では、ちょっとデザイナーがかわいそうだなと思いながら見ていました。あれを「盗用」とされては、デザイナーとしては厳しいなと感じました。

1964年東京オリンピック開会式で空に描かれた五輪

1964年東京オリンピック開会式で空に描かれた五輪

―― デザインの世界においては、1964年東京オリンピックのピクトグラムが世界に広がり、統一化のきっかけとなったわけですが、2020年ではどのようなデザインを期待されていますか?

若い人たちがどのようなデザインを製作するのか、やはり期待もしていますし、楽しみですよね。体操のように、競技はどんどんアクロバティックに変化していますから、デザインもそれに伴っていくのかもしれませんね。ただ、「わかりやすさ」だけは失ってほしくないと思います。どんなに凝ったデザインでも、見た人が何を示しているものかひと目でわからなければ、それこそ公共的サインとしては本末転倒になってしまいますからね。複雑化は、かえってサインの良さ、役割をないがしろにしてしまう危険性があるように思います。ですから、やはり「単純化」「シンプルさ」が重要ではないかなと。いずれにしても、オリンピックデザインの国際リレーがどのように行われていくのか、ということには興味を持って注目していきたいと思っています。

  • 村越 愛策氏とオリンピック 年表
  • 世相
1912
明治45

ストックホルムオリンピック開催(夏季)
日本から金栗四三氏が男子マラソン、三島弥彦氏が男子100m、200mに初参加

1916
大正5

第一次世界大戦でオリンピック中止

1920
大正9

アントワープオリンピック開催(夏季)

1924
大正13
パリオリンピック開催(夏季)
織田幹雄氏、男子三段跳で全競技を通じて日本人初の入賞となる6位となる
1928
昭和3
アムステルダムオリンピック開催(夏季)
織田幹雄氏、男子三段跳で全競技を通じて日本人初の金メダルを獲得
人見絹枝氏、女子800mで全競技を通じて日本人女子初の銀メダルを獲得
サンモリッツオリンピック開催(冬季)

  • 1931 村越 愛策氏、満州に生まれる
1932
昭和7
ロサンゼルスオリンピック開催(夏季)
南部忠平氏、男子三段跳で世界新記録を樹立し、金メダル獲得
レークプラシッドオリンピック開催(冬季)
1936
昭和11
ベルリンオリンピック開催(夏季)
田島直人氏、男子三段跳で世界新記録を樹立し、金メダル獲得
織田幹雄氏、南部忠平氏に続く日本人選手の同種目3連覇となる
ガルミッシュ・パルテンキルヘンオリンピック開催(冬季)
1940
昭和15
第二次世界大戦でオリンピック中止
1944
昭和19
第二次世界大戦でオリンピック中止

  • 1945第二次世界大戦が終戦
  • 1946 村越 愛策氏、満州から日本に引き揚げる。
  • 1947日本国憲法が施行
1948
昭和23
ロンドンオリンピック開催(夏季)
サンモリッツオリンピック開催(冬季)

  • 1950朝鮮戦争が勃発
  • 1951日米安全保障条約を締結
1952
昭和27
ヘルシンキオリンピック開催(夏季)
オスロオリンピック開催(冬季)

  • 1955日本の高度経済成長の開始
1956
昭和31
メルボルンオリンピック開催(夏季)
コルチナ・ダンペッツォオリンピック開催(冬季)
猪谷千春氏、スキー回転で銀メダル獲得(冬季大会で日本人初のメダリストとなる)

  • 1956 村越 愛策氏、千葉大学工学部工業意匠科を卒業。以後、フリーのデザイナーとして活動する
1960
昭和35
ローマオリンピック開催(夏季)
スコーバレーオリンピック開催(冬季)
1964
昭和39
東京オリンピック・パラリンピック開催(夏季)
インスブルックオリンピック開催(冬季)

  • 1964 村越 愛策氏、東京オリンピック・パラリンピックの大会組織委員会メンバーとして、東京国際空港(羽田)のサインデザインを手掛ける。
  • 1964東海道新幹線が開業
1968
昭和43
メキシコオリンピック開催(夏季)
テルアビブパラリンピック開催(夏季)
グルノーブルオリンピック開催(冬季)
1969
昭和44
日本陸上競技連盟の青木半治理事長が、日本体育協会の専務理事、日本オリンピック委員会(JOC)の委員長に就任

  • 1969アポロ11号が人類初の月面有人着陸
  • 1971 村越 愛策氏、村越愛策デザイン事務所を設立
1972
昭和47
ミュンヘンオリンピック開催(夏季)
ハイデルベルクパラリンピック開催(夏季)
札幌オリンピック開催(冬季)

  • 1973オイルショックが始まる
1976
昭和51
モントリオールオリンピック開催(夏季)
トロントパラリンピック開催(夏季)
インスブルックオリンピック開催(冬季)
 
  • 1976ロッキード事件が表面化
1978
昭和53
8カ国陸上(アメリカ・ソ連・西ドイツ・イギリス・フランス・イタリア・ポーランド・日本)開催  

  • 1978日中平和友好条約を調印
1980
昭和55
モスクワオリンピック開催(夏季)、日本はボイコット
アーネムパラリンピック開催(夏季)
レークプラシッドオリンピック開催(冬季)
ヤイロパラリンピック開催(冬季) 冬季大会への日本人初参加

  • 1964 村越 愛策氏、ISO図記号国内対策委員会 案内用分科会主査に就任
  • 1982東北、上越新幹線が開業
1984
昭和59
ロサンゼルスオリンピック開催(夏季)
ニューヨーク/ストーク・マンデビルパラリンピック開催(夏季)
サラエボオリンピック開催(冬季)
インスブルックパラリンピック開催(冬季)
1988
昭和63
ソウルオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
鈴木大地 競泳金メダル獲得
カルガリーオリンピック開催(冬季)
インスブルックパラリンピック開催(冬季)

  • 1988 村越 愛策氏、成田空港第2ターミナルビルのサイン実施設計を担当
  • 1990村越 愛策氏、JR東海 新幹線駅におけるサイン計画を担当
1992
平成4
バルセロナオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
有森裕子氏、女子マラソンにて日本女子陸上選手64年ぶりの銀メダル獲得
アルベールビルオリンピック開催(冬季)
ティーユ/アルベールビルパラリンピック開催(冬季)

  • 1992 村越 愛策氏、千葉大学教授に就任
1994
平成6
リレハンメルオリンピック・パラリンピック開催(冬季)

  • 1994 村越 愛策氏、JR西日本 関西空港駅のサインデザインを担当
  • 1995阪神・淡路大震災が発生
1996
平成8
アトランタオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
有森裕子氏、女子マラソンにて銅メダル獲得

  • 1997香港が中国に返還される
1998
平成10
長野オリンピック・パラリンピック開催(冬季)
2000
平成12
シドニーオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
高橋尚子氏、女子マラソンにて金メダル獲得

  • 2001 村越 愛策氏、JIS案内用図記号原案作成委員会の委員長に就任
2002
平成14
ソルトレークシティオリンピック・パラリンピック開催(冬季)
2004
平成16
アテネオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
野口みずき氏、女子マラソンにて金メダル獲得
2006
平成18
トリノオリンピック・パラリンピック開催(冬季)
2007
平成19
第1回東京マラソン開催
2008
平成20
北京オリンピック・パラリンピック開催(夏季)
男子4×100mリレーで日本(塚原直貴氏、末續慎吾氏、高平慎士氏、朝原宣治氏)が3位とな り、男子トラック種目初のオリンピック銅メダル獲得

  • 2008村越 愛策氏、JR東海 新横浜駅のサインデザインを担当
  • 2008リーマンショックが起こる
2010
平成22
バンクーバーオリンピック・パラリンピック開催(冬季)

  • 2011東日本大震災が発生
2012
平成24
ロンドンオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
2020年に東京オリンピック・パラリンピック開催を決定
2014
平成26
ソチオリンピック・パラリンピック開催(冬季)
2016
平成28
リオデジャネイロオリンピック・パラリンピック開催(夏季)