日本戦後初のオリンピックに出場
芦屋女子高時代、国体に出場した仲間と
(後列中央、前列は野田先生)
―― 星野さんは本格的に陸上競技を始めた高校時代から、日本人として初のオリンピック金メダリストである織田幹雄さんに師事していました。どのようないきさつで、織田さんの指導を受けるようになったのでしょうか?
私は兵庫県の芦屋女子高等中学から高校に進学したのですが、陸上部はあったものの、練習環境には恵まれていませんでした。高校は山の中腹にあり、とてもグラウンドが狭かったんです。当時はソフトボール部が全国優勝するほど強くて盛んだったのですが、ソフトボール部が練習している周りをいろんな運動部が所狭しに練習しているような中、「ちょっと、どいてー」と言いながら走っているような状態でした(笑)。ですから、自校のグラウンドだけではなく、兵庫県の甲南大学や京都大学などでも練習をさせてもらっていました。
そんな中、後に同じヘルシンキオリンピックの三段跳びに出場された長谷川敬三さんが、大学で練習している私を見て、同じ朝日新聞社の記者だった織田幹雄さんに連絡をしてくださったんです。それが縁で、私の練習メニューを織田さんが作ってくださるようになりました。それを私が長谷川さんからいただいて練習していたんです。その練習の成果を、長谷川さんが織田さんに伝えてくださって、月に一度、週末に汽車で13時間かけて東京の織田さんのところに行って練習をし、日曜の夜行で戻って、そのまま学校に行くということをしていました。
奈良県橿原で開催されたインカレの
100mスタート前(1951年)
―― 織田さんの指導もあって、星野さんは1952年ヘルシンキオリンピックに、陸上競技の日本代表で出場しました。日本としては、久方ぶりのオリンピックの参加ということで、注目された大会だったと思います。
戦後、初めて開催された1948年ロンドンオリンピックには、第二次世界大戦の責任を問われた日本とドイツは招待されませんでした。ですから、ヘルシンキオリンピックが日本としては戦後初のオリンピックということで、国内でもクローズアップされた記憶があります。
ヘルシンキオリンピックの円盤投で
4位に入賞した吉野トヨ子(1952年)
―― 日本全体が湧いていたと思いますが、選手としてはどんなお気持ちだったのでしょうか?
陸上競技で女子は、戦前、戦後にわたって日本選手権で20回も優勝した伝説の選手として知られている円盤投げの吉野トヨ子さん、私の2つ上のお姉さん的存在だった80mハードルの宮下美代さん、そして私の3人しか代表選手に選ばれませんでした。
ですから、とても誇りに思いましたし、私は陸上代表の中で最年少の19歳だったのですが、少女時代の夢が本当に叶ったんだと思うと、胸の高鳴りを抑えることができませんでした。
日本が戦後初参加したヘルシンキオリンピックの日本選手団入場
(1952年)
―― 日本からは72人の選手団が送られました。ヘルシンキには、どのようにして向かわれたのでしょうか?
ほかの競技とは別に、陸上競技の選手団だけに用意されたプロペラ機で、羽田空港から旅立ちました。ユニフォームは、現在のように開会式での入場行進用と普段着用というふうには分かれていなくて、1着しかありませんでしたから、入場行進の時と同じ、男子は明るい紺のブレザーにグレーのズボン、私たち女子は同じ紺のブレザーにグレーのスカートという服装で、飛行機に乗り込みました。沖縄を経由して途中4カ国【バンコク(タイ)、カラチ(パキスタン)バスラ(イラク)、ローマ(イタリア)で給油をし、50時間の空の旅でした。
―― 当時は、報道陣も同じ飛行機だったそうですね。当時の記者の方にうかがうと、「まるで選手団の一員だった」と。
そうでしたね。飛行機に乗る選手団のリストには、どこどこ新聞社のだれだれ、というふうに、報道陣の名前も書かれてありましたので、私たち選手と一緒に行動していたんだと思います。
―― 開幕までは、どのように過ごされていたんですか?
スウェーデンの首都ストックホルムで、陸上と水泳は同じホテルに2週間滞在し、そこで最終調整ということで練習をしました。ストックホルムのオリンピックスタジアムでは記録会というかたちで競技をし、いよいよ本番ということで、ヘルシンキに乗り込んだんです。
星野綾子氏 インタビュー風景
衝撃を受けた世界の成長スピード
―― 星野さんは、100mと走り幅跳びに出場されました。初出場ということで、緊張はしませんでしたか?
よく「オリンピックには魔物がいる」と言われますが、いつも以上に緊張してしまって実力を出せない選手がいますよね。それで、ヘルシンキオリンピックの時には、ヘッドコーチの織田先生が「観客席を見て、人の顔がわかるようだったら、緊張していない証拠だから大丈夫」とおっしゃったんです。実際、フィールドに立った時に観客席を見たら、遠くではありましたけど、ボート代表の日本人選手たちが最前列で日の丸の小旗を振ってくれているのが見えたんです。それで「よし、私は緊張していないから大丈夫」と思うことができました。
アムステルダム大会800mで日本人女子初の
メダル(銀)を獲得した人見絹枝
(1928年)
―― 100mでは、前年の第6回広島国民体育大会で、1928年アムステルダムオリンピックで日本人女子初のメダリスト(800mで銀メダル)となった人見絹枝さんの記録を23年ぶりに破る、12.0秒の日本新記録を樹立されていました。ですから、国民からの期待も非常に大きかったと思いますが。
当時は今のような電気計時の計測システムはありませんでしたので、手動式での計測だったのですが、実はもう1人の計測では「11.9秒」と出ていたそうなんです。今では日本人男子が「10.0秒」の壁を破るのに注目されているのと同じように、もし「11.9秒」が正式記録でしたら、「日本人女子初の11秒台」ということで、もっと喜んだんでしょうけど、当時の記録としては「12.0秒」でした。それでも長い間、人見さんの12.2秒が破られていなかっただけに、やっぱり嬉しかったですね。
ヘルシンキオリンピックの100mに出場(右から二人目、1952年)
―― 走り幅跳びの方も、好記録を出されていたんですよね。
ヘルシンキの4年前のロンドンオリンピックでは、5m69㎝が金メダリストの記録でした。私は、当時5m78㎝が自己ベストでしたので、国内ではメダル争いに入れるんじゃないかというふうに言われていたんです。
私自身も「オリンピックで絶対に活躍する」と胸に誓って、ヘルシンキに乗り込んだんです。どちらかというと、100mよりも走り幅跳びの方が期待されていましたので、私も走り幅跳びが本番だと思っていました。100mは、その本番のために、会場の雰囲気に慣れるという感じでしたね。でも、思っていたような活躍はできませんでした。100mは12秒6で予選落ち。走り幅跳びは予選は一発でクリアしましたが、決勝では5m54㎝で16位に終わりました。今思うと、参加しただけの大会になってしまったなぁ、という気がしています。
ヘルシンキオリンピックの走幅跳に出場
(1952年)
―― 日本は16年もの間、オリンピックに参加することができませんでした。選手にとっても、その16年というブランクは、相当な影響を受けていたんですね。
そうだったと思います。国際大会の経験と言えば、ヘルシンキオリンピックの前年3月にニューデリー(インド)で行われた第1回アジア大会の1度きりだったんです。ですから、アジア以外の欧米の選手たちがどのくらいのレベルでいるのか、世界の実情というものをまったく知りませんでした。日本で自分自身が出した記録が、そのまま世界で通用すると思い込んでいたんです。ところが、実際は自分が思っていたよりも、世界ははるか遠くにあることがヘルシンキに行って初めてわかりました。
走り幅跳びでは、金メダリストは6m24㎝を記録して、しかも9位の選手までが当時のオリンピック新記録でした。実は、私も決勝では2回目の跳躍の時に、自分でも驚くほど助走でスピードに乗ることができて、5m80cm近くまで跳んだんです。もう大喜びして、後ろを振り返ったら、ファウルを意味する赤旗が振られていました。すぐに踏み切り板を確認しましたら、本当にわずかにスパイクの先が1cmほど出ていたんです。それで「次こそは」と思って臨んだ最後の3回目の跳躍では、ちょうど向かい風が吹いていました。途中でやめて、助走をし直せば良かったのですが、そのまま行ってしまって、そしたらやっぱり最後の踏み切りの足が合わなくて、まったくダメでした。「もし2回目の跳躍がファウルでなかったとしたら」あるいは「3回目の助走をやり直していたら」と思うと、今でも悔しいですね。ただ、それでも入賞できたかどうかギリギリのところだったんです。それほど、ロンドンオリンピックからの4年間でいかに世界がレベルアップしていたかということだったんですね。あまりにも世界のレベルが高すぎて、「ここまで進んでいるのか」と、もうびっくりしました。私たち日本人は「井の中の蛙」だったんです。