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「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。

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日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。

1964東京大会を支えた人びと
第62回
国旗にまつわる東京オリンピック秘話

吹浦 忠正

1964年東京オリンピックでは、大会組織委員会国旗担当を務め、「日の丸」をはじめ、参加国すべての国旗づくりを担当した吹浦忠正氏。オリンピックに続いて行われたパラリンピックでは国旗の準備に加え、日赤語学奉仕団の組織化や運営に携わりました。
その後も、長野冬季オリンピックでは組織委の儀典担当顧問として、国旗や開会式などに関わり、日本における国旗研究の第一人者として、サッカーW杯をはじめ国内で開催された国際スポーツ大会に協力されました。
その吹浦氏に半世紀以上前の東京オリンピックでの国旗に関わる「舞台裏」について伺いました。

聞き手/佐塚元章氏  文/斉藤寿子  構成・写真/フォート・キシモト

組織委員会から突然の呼び出し

東京オリンピック大会組織委員会の入り口(現在の迎賓館)

東京オリンピック大会組織委員会の入り口
(現在の迎賓館)

―― 吹浦さんは、早稲田大学の学部生の時代に東京オリンピック組織委員会の専門職員として、国旗を担当されました。そもそものきっかけは何だったのでしょうか。

1964年東京オリンピックが開催された時、私は早稲田大学4年生でしたが、「第18回オリンピック東京大会組織委員会」(以下、組織委)の競技部式典課専門職員として国旗を担当しました。きっかけは、本当に突然だったんです。東京オリンピックの2年前のある日、組織委から電話がかかってきまして、「明日、夕方までに組織委の事務局に来てほしい」と言うのです。

当時、私は秋田県から出てきたただの大学2年生で、まさか自分に組織委から連絡が来るなんて、まったく思っていませんでしたから、本当に驚きました。とにかく翌朝、今の迎賓館(旧赤坂離宮)にあった組織委の事務局に行くと、森西栄一という式典課の人が「東京オリンピックの国旗を君に任せたいので、今から簡単な面接を受けてくれ」というのです。詳しく伺うと、「組織委では旗に詳しい人物を探していて、外務省、ユネスコ協会連盟、日本赤十字社などに問い合わせたところ、いずれからも吹浦という名前しか出てこなかったので、こういうことになった」という話でした。確かに当時、世界の国旗を研究している日本人は、おそらく、ほとんどいなかったでしょうからね。私は「ユネスコ新聞」に国旗について連載し、それをベースに冊子や本を出したりしていました。

―― 実際に組織委からは、どんな話があったのでしょうか。

組織委事務総長を務めた田畑政治氏

組織委事務総長を務めた田畑政治氏

組織委の事務総長室に連れて行かれると田畑政治(まさじ)総長(故人)による面接となりまして、田畑さんは私にこう訊いてこられました。
「君は国旗に詳しいそうだね。じゃぁ、ひとつ聞くが、イギリスのユニオンジャックがついている国旗の国は、どんなところがあるかね?」。

おそらく田畑さんはオーストラリアやニュージーランド、カナダといった国名が出てくるだろうと予想していたと思うんです。しかし、当時は私も20歳、生意気盛りでしたから(笑)、「バミューダ、バハマ、北ローデシア、香港。南アの国旗にも小さなユニオンジャックが出てきますね」と日本ではほとんど知られていないような国旗や地域名ばかりを大張り切りで挙げ続けました。すると、途中で田畑さんに「もういい」と言われました。

1964年当時の国旗。左上から、バミューダ、バハマ、北ローデシア、香港、南アフリカ。

1964年当時の国旗。左上から、バミューダ、バハマ、
北ローデシア、香港、南アフリカ。

「あぁ、怒らせてしまったかな。これで、話はつぶれたな」と思いました。
ところが、「なるほど、ホントかウソか知らないが、よう知ってるね」
「ウソなんか申しておりません」「まあ、まあ」と。

当時、組織委全体として、1958年に東京で開催された第3回アジア競技大会での女子走り幅跳びの表彰式で、中華民国、当時は国連安保理常任理事国、今ではチャイニーズ・タイペイですが、その国旗「青天白日満地紅旗」を逆さまに掲揚したトラウマが満ち溢れていました。そのため、最後は「とにかく正しい国旗を正しく掲げる。それが君の仕事だ」の一言で合格というのか、採用が決まって、授業第一、出勤自由、大学から組織委まではタクシーでの出勤可、月給8000円という条件で国旗を担当することになったのです。

すべてのはじまりは小4の時に抱いた疑問

オリンピック競技会場に掲げられた万国旗

オリンピック競技会場に掲げられた万国旗

―― 吹浦さんが国旗に興味を持たれたのは、小学生の時だとか。どんなことがきっかけだったのでしょうか?

小学4年生の時に、教室に貼られていた世界地図の周辺に、各国の国旗が描かれており、それを眺めるのが好きでした。そのときふと不思議に思ったことがあったんです。「アジアの国旗はみなバラバラのように見えるのに、北ヨーロッパの国旗は、なぜ、どれも同じ十字型のデザインなのか」と。そこで担任の教師に質問をしたところ「それもいいが、国語、算数、理科、社会の4教科をもっと勉強しなさい」と言われ、根が真面目な私ですから(笑)、先生の言う通りに頑張って勉強しました。そうするとますます国旗にはまるんです。中学になって語学が加わると、ますます興味を抱くようになっていきました。というのも、国旗はどの教科にも関連していて、さまざまなことに派生していくんですね。高校での幾何学、大学に入っての政治学、民族学、宗教学、哲学なんかを学ぶと、国旗はそのすべてが集約されているんだということがわかり、ほかにも色彩学、光学、染色技術、布の製造なども学びつつ、この歳まで60数年、すっかり国旗に魅了されてしまったというわけです。 今でも、常に国旗の表を内外どこに行くにも持ち歩いています。見ればすぐにどこの国旗かといったことは小学生のときからもう頭の中に入っていますので、判別のためというわけではないのですが、ちょっと時間がある時に、なんとはなしに眺めると様々なことが湧いてきて、楽しいんです。

吹浦忠正氏

吹浦忠正氏

―― それほどまでに国旗に魅せられていると、やはり海外に行きたいというお気持ちも強かったのではないでしょうか。

当時はまだ、「海外に行く」なんてことは容易には考えられなかった時代です。国旗担当として東京オリンピックに携わった1964年の時にも、自分自身が海外に行くなんてことはイメージすることができませんでした。「10年後にはなんとか」と思っていたくらいだったのですが、実際は東京オリンピックの翌年から、最後は「もういい」と思うほど、海外に行く機会に恵まれました。それほど、当時の日本は急激に発展していたということだと思います。

―― 初めて行った「海外」はどこの国だったのでしょうか?

当時は両替ができるのは500ドルまでという厳しい規制の中、私が初めて海外に行ったのは1965年の国交正常化直前の韓国でした。韓国に到着すると、当然ですが、あちらこちらに韓国の国旗があるわけです。それを見ているだけで、韓国が歩んできた歴史が頭によぎり、感慨深いものがありました。例えば、「太極旗」と呼ばれる韓国の国旗ですが、これまで何度も部分的変更が繰り返されてきたこと、敗戦の混乱で日本が撤退する時の国旗の交代、北朝鮮が建国するまではこの旗を南北両方が使っていたことなど、思い浮かぶことはたくさんあるわけです。

―― 一方で、吹浦さんご自身は何かスポーツはされていたんですか?

実は、私は子どもの頃からスポーツはからっきしダメだったんです(笑)。6人兄弟で、ほかの5人はみんな全国大会や国民体育大会に何度も出場したりしていたのですが、なぜか私だけスポーツが苦手でした。だからコンプレックスの裏返しで、「どうせ、スポーツが得意なのは、兄貴たちみたいに勉強しない人たちばかりなんだろう」なんて思っていたんです。ところが、各競技団体から選ばれて東京オリンピックの組織委で働いている人たちは、皆さん優秀で、英語やフランス語など外国語に堪能な方たちばかりでした。「スポーツができない自分が、勉強もできないとなったら大変だ」と、一層勉強に力を入れ、何とか大学院に進むことができました(笑)。

『三丁目の夕日』そのものだった1960年代前半の東京

オリンピックを前に整備された高速道路

オリンピックを前に整備された高速道路

―― 吹浦さんは、1962年に組織委の一員として働き始めたということですが、アジア初開催となるオリンピックに向かっていった当時の東京というのは、どんな様子だったのでしょうか?

『三丁目の夕日』という映画が上映されて話題となりましたが、まさにあのような感じでした。経済的な面から言えば、ちょうど復興が終わりを告げようとしていた時で、貧国からの脱却、戦後の混乱からの復興を果たしていた時期です。

建設中の国立代々木競技場

建設中の国立代々木競技場

―― 『三丁目の夕日』と言えば、やはりできたばかりの東京タワーがそびえたつ風景が印象的です。

東京タワーは、まさに日本人の憧れのシンボルでした。私なんか大学受験の時に秋田から列車で上野に到着しまして、そのまま真っすぐ東京タワーに行ったほどです。普通は受験会場を確認したりするものなのに、東京タワーに行ったものですから、兄貴に「お前は何をしに東京まで来たんだ!」とひどく怒られたことは今でも鮮明に覚えています(笑)。ただ、それほど東京タワーへの憧れは、みんな強く持っていたと思います。

―― あちこちで建設工事が行われていたでしょうから、街中は騒々しかったのではないでしょうか。

1961年、62年あたりから、東京の街は一変しました。殺風景だったところに、どんどん住宅が建てられたり、「環七」や「青山通り」など新しい道路ができたり、国立屋内競技場や武道館が建設されるなど、「活気」と「(ほこり)」にあふれていました。ワシントンハイツを選手村にしたり、都内にあった米軍基地の多くが整備・撤去されたのも、この頃です。

組織委員会前にて撮影された職員集合写真(前列左から二人目が吹浦氏)

組織委員会前にて撮影された職員集合写真
(前列左から二人目が吹浦氏)

―― 海外開催のオリンピックでは、よく「いつ競技会場が出来上がるのか」「本当に開幕に間に合うのか」などということが取り上げられますが、1964年の東京オリンピックではどうだったのでしょうか。

代々木第一体育館の建設中に、組織委の職場が赤坂の迎賓館から、渋谷の岸体育館に移ったんです。そうすると、原宿駅で電車を降りて、そこまで行く途中に、代々木体育館の建設現場を毎日のように目にするわけです。自然と工事の進み具合をチェックしていましたが、全員が口をそろえて「これは、開幕までには間に合わないだろう」と言っていましたよ。
武道館など他の会場もそうでしたが、ギリギリもいいところで、突貫工事そのものでした。おかげで、本番では、組織委の制服を着ているためお客様から公衆電話やトイレの場所を訊かれ、恥ずかしながら答えられず、往生しました。

 時間を要した色、大きさ、生地の選択。特に難しかったのは「日の丸」

組織委競技部の職員と(後列左から二人目が吹浦氏)

組織委競技部の職員と(後列左から二人目が吹浦氏)

―― 組織委の国旗担当は、何人体制だったのでしょうか?

基本的には専門家のような立場は私一人です。ほかに管理面や掲揚などで手伝ってくれるスタッフは何人かいましたが、海外の国旗のことなんて知らない人ばかりでしたから、責任はすべて私にありました。

―― 最初にどんなことから着手したのでしょうか?

まずは、参加する可能性のある国のリストを作りました。それから、世界の国旗に関連する資料をかき集めて、それぞれ比較することから始めたわけですが、巣鴨のいささか怪しげな旅館に5泊ぐらいして、だだっ広い畳の部屋に、16冊の内外の資料を広げて、色は何番の色票を使っているのか、すべてリストに書き込んでいきました。ところが、例えば同じ「青色」でも、国や資料によって、さまざまな「青い色」があるんです。

―― 国旗の色は、明確に決められているんでしょうか?

さまざまですが、例えばアルジェリアの国旗は、バックが緑と白に、赤の星と月のマークが付いているデザインなのですが、緑と赤については光の周波数で決まっていて、非常に厳格なんです。ただ、それをすべて守ろうとすると、膨大な色の種類になってしまいます。そこで、青色だけは4種類に分けて、あとの色はすべて1色で作るという方針をかためるまでに、10カ月ほどの時間を要しました。最近では緑や黄色も2段階ぐらいにしていますが。

リオデジャネイロオリンピック体操男子団体で金メダルを獲得し日の丸を掲げる日本チーム(2016年)

リオデジャネイロオリンピック体操男子団体で金メダルを獲得し日の丸を掲げる日本チーム
(2016年)

―― 本当に大変な作業で、苦労も多かったと伺っていますが、なかでも最も吹浦さんの頭を悩ませたのは、日本の「日の丸」だったそうですね。

はい、そうなんです。何が一番苦労したかというと、日の丸の「赤色」を決めることでした。日の丸の「赤色」については「紅色」ということしか法的根拠がないのです。「じゃあ、一体、『紅色』とは何ぞや」というところから考えていかなければいけませんでした。

そこで、日本色彩研究所と、資生堂研究所の協力を得て、まず、500枚の日の丸を一般家庭からかき集めました。当時は、どの家にも必ず国旗があって、祝日には玄関の前に掲げられていましたから、一軒一軒まわりまして、「すみません。組織委のものですが、ご自宅にある国旗をいただけませんか」とお願いしにあがったんです。もらうだけでは申し訳ないですから、こちらが作った日の丸と交換するという条件で。そうしてかき集めた日の丸を、日本色彩研究所が分析して、「色見本表」というものを作ってくれました。はみ出している色票は除外して、平均値を求め、それを日の丸の「赤色」とすることに決めたんです。それを、本来は少しずつ異なる「赤色」であるアメリカやイギリスの国旗にも使い、各国のNOC(オリンピック委員会)に送って承認を得ました。

―― ということは、日の丸の「赤色」を決めたのは、吹浦さんだったわけですね。

正直言って、日の丸の「赤色」を決めるなど、恐ろしかったですよ。組織委の幹部も「どこかしかるべきところから承認を得なさい」と言うわけです。ところが、官房長官のところに持っていったのですが、「勘弁してくれ。そんなことは、とてもうちでは決められないよ」と言われました。ですから、最終的には私が「これが日の丸の赤です」と決めるほかありませんでした。

日の丸のフェイスペインティングで応援する外国のサポーター

日の丸のフェイスペインティングで応援する外国のサポーター

―― 終戦から20年近く経っていたとはいえ、やはり当時はまだ「日の丸」に対してのイメージというのは、重々しいものがあったのではないでしょうか。

その通りです。今では、サッカーなどの試合では「フェイス・ペインティング」で日の丸を顔に描いたりしていますが、当時は敗戦の後遺症というか、非常に畏れ多いもので、敬遠する雰囲気が残っていました。ですから、そのイメージを払拭しようと、当時の若手グラフィック・デザイナー永井一正さんほかお二人が日宣美展で「新しい日の丸の提案」というものを行ったんです。これは、縦と横の比率が2対3で、円の大きさが縦の3分の2にしたものでした。そうすると、これまでの日の丸と随分イメージが変わって、新鮮だということで、多くのメディアが推薦してくれたんです。そこで、丹下健三さんや亀倉雄策さん、勝見勝さんといった方たちがおられた組織委のデザイン委員会が検討した結果、採用ということになりました。
実際、オリンピックの前年に行われたプレオリンピックでは採用されました。ところが、毎日新聞が一面に「組織委、国旗を変更」という見出しで記事を載せたものですから、有名な右翼の親分がやって来たんです。組織委の幹部の人たちは、みんな恐れおののいてしまったのですが、若かった私は、ここでも怖い者知らずだったんでしょうね。帰り際、お見送りするといって付いて行き、巻き尺を手に「そちらの日の丸を測らせてください」と言ったんです。縦の5分の4近くはありました。そしたら、「やかましい!」と言って、砂煙を挙げて立ち去っていってしまいました。結局、東京オリンピックでは3分の2の日の丸は使用されませんでしたが、34年後の長野オリンピックでは、背景が雪と氷の白でしたから、日の丸が少し大きい方が見やすいだろうということで、念願の3分の2の日の丸を掲げさせていただきました。

長野冬季オリンピック開会式で入場する日本選手団(1998年)

長野冬季オリンピック開会式で入場する日本選手団(1998年)

―― 色、大きさのほかにはどんなことを決めなければいけなかったのでしょうか?

国旗に使用する生地選びです。強度で言えばナイロンなのですが、少し安っぽく見えてしまうんですね。それで、ナイロンとウールとエクセランの3つの生地で、紋章のついたグアテマラ、スペイン、メキシコの国旗をつくり、15日間、国立競技場の上にさらすという検証を行いました。そうしたところ、9日目に台風の余波で、暴風が吹き荒れ、ウール(大同毛織)が破れてしまい、そして11日目には雨でナイロン(東レ)は、「染が泣く」と言うのですが、色が流れてしまいました。それで結局、ウールの品の良さと、ナイロンの強度を兼ね備えているということで、まだ外国旗の製造では実績がほとんどないのですがエクスラン(東洋紡)を使用することになったんです。

―― 「エクスラン」とは、アクリル繊維のことでしょうか?

そうです。当時、東洋紡が開発したばかりの新しい繊維でした。実は、このエクスランにも反対の声があったんです。「神聖な国旗に化学製品を使ってもいいものか」と。歴史を紐解けば、それ以前に化学繊維を使用したのは、1936年のベルリン・オリンピックだけでした。しかし、実際に検証した結果ですから、私は「化学製品を使ってもいいのでは」と強く推しました。最終的にはエクスランを使用して正しかったと思います。以後、日本での大判の旗はエクスランで定着しました。

吹浦忠正氏

吹浦忠正氏

―― そして、いよいよ国旗の製作に入ったわけですね。

はい、そうなのですが、製作においても、例えば「染める」のか「縫う」のかでは全然異なりますし、縫うにしても糸の色や、きれいに見えるような縫い方など、本当に苦労は絶えませんでした。あまりにも縫い糸が強いと生地が切れてしまいますので、縫い糸がやや弱めにしておかないと強度が保てないということも途中でわかりました。

―― 特に縫い方が難しかったのは、どこの国旗だったのでしょう?

それこそ、日の丸です。国立競技場の電光掲示板の上にあった国旗は、縦3m×横4m50cmと、非常に大きなものでしたが、まずは白色の原反にハギを入れて3段に縫い合わせ、その真ん中を丸く切り取るんです。そこに赤色の生地をはめこむようにして縫い合わせていくのですが、円が歪まないように縫うのは本当に難しい技術でして、現在では悲しいことに、日本ではそれをできる職人が皆無に等しいと思います。それほど難しいんです。

東京オリンピック開会式で入場する日本選手団(1964年)

東京オリンピック開会式で入場する日本選手団(1964年)

―― 当時は高度な技術をもつ職人がたくさんいたんですか?

はい、何十人といました。というのも、まだ戦後20年も経っていない時期ですから、戦時中に日の丸や旭日旗を作っていた職人が沢山残っていたんですね。

「戦争」ではなく「平和」のための国旗づくりに涙を流した旗屋の社長

札幌冬季オリンピック開会式で入場する日本選手団(1972年)

札幌冬季オリンピック開会式で入場する日本選手団(1972年)

―― そのようにして苦労されて作った国旗ですが、各国からの承認というのは得なければいけなかったのでしょうか。

はい。各国のNOCに、それぞれ手紙を添えて送りました。国旗のデザインについて各国NOCが国旗の専門家を抱えているわけではないので、yes/noばかりではなく、法的根拠を尋ねたり、具体的な質問をし、変更を希望するならこの布見本から選んでほしいなどと書いたので、結構、長文の手紙になりました。

今のようにEメールがあるわけではなく、航空便でしたから、返事が返ってくるまでには、約3週間かかりましたね。例えばオランダとルクセンブルクの国旗というのは、赤、白、青の「横3色旗」ですが、同じ青でも濃淡が違うわけです。オランダの方が少し濃いんです。ところが、実際にオランダとルクセンブルクの国旗を2つ並べて見比べると、オランダの方が濃いとわかりますが、実際にオランダに行くと、まるでルクセンブルクと同じ空色に近い青を使っている場合もあるんです。また、オーストラリアとニュージーランドからそれぞれ国旗を取り寄せると、デザインは同じような国旗ですが、青の色が微妙に違ったりするんです。そういうものをすべて調整しなければいけなかったので、色見本もつけて送りました。

東京オリンピック開会式で入場するアイルランド選手団(1964年)

東京オリンピック開会式で入場するアイルランド選手団(1964年)

―― 調整が最も難航した国はどこでしたか?

アイルランドです。国旗に厳格な人がいまして、やりとりは8回に及びました。アイルランド人というのは、とても神経質な人が多いんです。というのも、イギリスとは全く違う色の国旗ということで、緑、白、オレンジの「縦3色」の国旗にしたわけですが、彼らいわく、3色ともアイルランド人の心に響く色合いがある、と言うんです。でも、それは感覚的なものですから、こちらにしてみれば、そんなこと言われてもわからないわけですよ。そしたら、2つの国旗を送ってきまして、「この2つの中間の色にしてほしい」と。「いやぁ、これは永遠に続くなぁ」とほとほと困りましたね。
今であれば、すぐにアイルランドに出張して、直接やりとりをすれば済む話なのですが、当時はそうはいきませんでしたからね。手紙のやりとりでやるほかなかったんですけども、正直言って、いくら言葉で言われても、なかなか理解が難しかった。ようやくアイルランドから承認を得られたのは、開幕4カ月前のことでした。最後は褒めてもらったので、良かったですけどね。その話は2018年から小学校6年生の「道徳」の教科書(日本文教出版)に私が主人公になって描かれています。

―― やはり、どの国も国旗への執着心というものは強いんでしょうね。

そうですね。いかに各国が自分たちの国旗を大切に思っているかということが判りました。一方、日本はと言えば、私の世代でさえも、国旗に対して愛着というのは諸外国から比べるといささかかけるものがあると思います。私は昭和16(1942)年生まれで、いわゆる「戦争を知らない子ども」の1期生なんです。物心ついた時には、既に日本は「敗戦国」でしたからね。そういう私からすれば、各国の国旗への思いの強さに圧倒されました。

―― 承認を得た後、本番に向けて、大量の国旗が作られていったと思いますが、どのくらいの旗屋さんが関わったのでしょうか?

全部で約3000枚の国旗を用意しなければいけなかったのですが、3つのロットに分けて東京の日本信号旗、大阪の国際信号旗、そして東京旗商工組合が入札で受託し、製造にあたりました。当時、全国に旗屋は167社あって、そのうち今あげた2社が本格的にバンティング(旗布)を使っての製造に慣れていました。どちらも防衛庁の御用達だったので、作り慣れていたといえましょう。しかし、旗屋にしてみれば、ふだんは外国旗というのは、今でもほとんど商売にならないんです。ですから、宣伝旗や暖簾(のれん)、浴衣、提灯などを作ったりしている人たちが、いきなり外国旗を作るわけですから、こちらが指導しなければならないことも多く、なかなか大変でした。
ただ、オリンピックの国旗を作ることを喜んでくれたところは多かったと思います。例えば、国際信号旗の三宅徳夫社長は当時60代だったと思いますが、私にこう言ったんです。「ついこの間まで戦争のために国旗を作っていた私たちが、オリンピックでは平和のために作ることができる」と。そうして、大粒の涙をこぼされたのです。戦争を知らない20歳過ぎたばかりの若造だった自分には、どう応えていいのか言葉が見つかりませんでしたが、もらい泣きしてしまいました。そして、とうにあの頃の三宅社長の歳を超えた今となってみれば、社長の気持ちが痛いほどわかる気がします。

 嬉しかった、陸上競技で唯一掲げられた日の丸

―― そんなふうにして、国をあげて3000枚の国旗を作られたわけですが、「準備万端」となったのは、開幕のどのくらい前だったのでしょうか?

少しずつ作ってゆき、検品を徹底的にやり、最後は3日前くらいでしたね。どの国の選手が表彰台に上がってもいいように、各競技に参加する国すべての国旗を各会場に配置しました。そして、大会期間中は、できるだけ多くの表彰式を見守りました。開幕前に1枚1枚きちんとチェックしたおかげで、1枚たりとも逆さまに掲揚されたりするなどというミスは起きませんでした。昨年のリオデジャネイロオリンピックは、中国の国旗「五星紅旗」の4つの小さな星の向きが違っていたり、ロシアとチェコの国旗が逆さまでしたが、実は、他国で開催されたオリンピックでは、必ずと言っていいほど、ミスが起こっているんです。でも、私が関わった東京、札幌、長野のオリンピックは、1度もミスは起きていません。世間から見れば当たり前のことかもしれませんが、わが人生のたった1つの密かな誇りかもしれません。

ただ、東京オリンピックでの陸上競技の男子棒高跳び決勝だけは、緊張しましたね。というのも、アメリカとドイツの選手が競り合っていて、夜遅くまで競技が続いたんです。それで陸上競技の関係者に「もし、勝負がつかなかった場合は、どうするんですか?」と聞いたら、「その場合は、2人とも金メダルだよ」とだけ言うんです。メダルは余裕をもって製造しているからそれでいいのでしょうが、国旗はポールの数が決まっているので、「どうしようか」と焦りました。なぜなら国旗を掲揚するポールは3本しか立っておらず、中央の1本だけが高く、高さを調整することもできないのですから。

―― 何か対策は練られたんですか?

1つずつ揚げるしかないかなと考えていました。ただ、その場合、難しいのはどちらを先に揚げるか。「ABC順からすると、フランス語でも英語でもドイツが先だが、日本語ならアメリカだ」とか、電光掲示板の下の表彰台管理室では大議論でしたよ。「誰が責任を取るのか」とかね。でも、幸いにして最後には勝負がついて、胸をなでおろしました(笑)。

5大陸を意味する5色で構成されたオリンピック旗

5大陸を意味する5色で構成されたオリンピック旗

―― 各国の国旗のほか、オリンピック旗も製作されたのでしょうか?

もちろんです。実は、このオリンピック旗には随分と助けられました。というのも、東京オリンピックの前年、スポーツと政治を切り離してきたオリンピックに対抗するかたちで開催された新興国競技大会(GANEFO)に出場した選手に対し、陸上と水泳の各国際連盟(IF)が資格停止処分を下したことによって、インドネシアと北朝鮮の選手団が直前になって帰国してしまったんです。こちらとしては、両国とも参加するということで、96の国と地域すべての旗を用意し、既に掲揚されていたものもあったのですが、突如、その2カ国の国旗を取り外さなければいけなくなったわけです。そうすると、「I(インドネシア)」と「P(北朝鮮)」の部分が2カ所、ぽっかりと空いてしまって、「どうしよう」となったんですね。考えられたのは、2つの方法でした。1つは、その2カ所が空かないように、全ての旗をずらすこと。たいていのところでは、そうしてもらいましたが、あるところでは、掲揚する係員がそれではあまりにも寂しいということで、「代わりにオリンピック旗を揚げて欲しい」という要望があって、そうしたんです。国旗の掲揚は陸上自衛隊練馬師団を中心に、ボーイスカウト、ガールスカウト、スポーツ少年団が行いました。

東京オリンピックマラソンで銅メダルを獲得した円谷幸吉(後ろ/1964年)

東京オリンピックマラソンで銅メダルを獲得した円谷幸吉(後ろ/1964年)

―― 吹浦さんにとって、東京オリンピックでの一番の思い出とはどんなシーンでしょうか?

大会最終日の男子マラソンで、円谷幸吉が銅メダルを獲得してくれたことですね。というのも、陸上競技ではどの種目の表彰式も、アメリカ、ソ連(当時)、ドイツ、イギリスくらいの国旗で事足りていたわけです。それが最後にようやく日の丸が国立競技場のポールに掲揚されたんですからね。こちらとしては万全の態勢で、きちんと3枚の日の丸を用意していたのに、1枚も使用されなかったら悲しいなと思っていました。ですから、国立競技場に戻ってからイギリスのヒートリーに抜かれたとはいえ、円谷が銅メダルとなった時は、本当に嬉しかったですね。

―― オリンピックの後には、パラリンピックが開催されました。吹浦さんはパラリンピックにも国旗担当として関わられましたが、どのような印象を持ちましたか?

東京パラリンピックは、資金もなければ競技のルールさえほとんど知られていませんでした。参加した選手の中には自分で十分車椅子を取り扱えない人さえいました。その時、皇太子妃美智子さまと私どもの恩師ともいうべき橋本祐子(さちこ)日本赤十字社青少年課長とが話し合い、「日本語は外国の方々にとっては聞きなれない言葉。ましてや障がいがある方には、言葉の問題で負担がさらに重くならないようにしなければ」とおっしゃられました。そして、私たち当時の若者を発奮させ、200人近い若者で14カ国語くらいをなんとかカバーしました。そのためには1年近く、在日米軍将校の家や2世の方を訪ねたりして、語学の勉強をし、妃殿下はしばしばそうしたお宅を周られて私たちを励まされ、パラリンピックの大会開催中は、ほとんど毎日のように、各競技場や選手村を訪問されました。

先年、あれから50年ということで、当時のメンバーと現役の日赤語学奉仕団の団員が浜松町のレストランに集まり、皇后陛下をお迎えして、懐旧の同窓会のような会合を開きました。この時のボランティア活動がきっかけになって、慶応でコンピューターを学んでいた丸山一郎くんは障がい者福祉に転じ、バリアフリーの促進や埼玉県立大学の創設にあたり、次世代の要請にあたるなど、生涯、わが国におけるその分野の先駆者であり続けました。文部省(当時)に勤務をし、現在では母校日本女子大の役員である郷農彬子さんは、英語とドイツ語に優れ、バイリンガルグループという会議運営会社を経営していますが、日本車椅子バスケット連盟の事務所を10年間ほど自社において支援しました。吉田紗栄子さんは同じく日本女子大の建築科の学生でしたが、英語とイタリア語に優れ、パラリンピックで障がい者問題に目覚め、障がい者用の住宅や施設の設計に尽くしてきました。

オリンピックの後に開催された東京パラリンピック開会式(1964年)

オリンピックの後に開催された東京パラリンピック開会式
(1964年)

パラリンピックが開催されたことで、日本の障がい者スポーツばかりではなく、障がい者、特に車椅子への意識は大きく変わったと思います。例えば、東京パラリンピックで日本代表チームは惨敗に終わったのですが、その様子を見ていた食品保存容器大手企業「タッパウェア」が15人の選手を雇用し、車いすバスケの練習を積ませたんです。そうして、1年後には東京オリンピックの男子バスケ日本代表チームと練習試合を開催しました。オリンピックに出たナショナルチームの選手にも車いすに乗ってプレーしてもらうわけですから、ハンディが必要だろうということで、なんとオリンピックの代表チームには「100点」のハンディがつけられました。結果は、113-100。つまり、オリンピックの代表チームは1点も得点することができずに終わったんです。私自身、1年前の東京パラリンピックでの試合を見ていましたから、わずか1年でスポーツマンとして大きく成長した姿を見て、ひどく感激したことを覚えています。

―― 東京パラリンピックが開催されたことによって、社会環境も変わったことはあったのでしょうか?

例えば、新幹線ですね。当時は、新幹線のドアを車いすでは通ることができませんでした。そこで、「あと3センチ、通路の幅を広げて欲しい」ということを、丸山くんらが当時の国鉄と交渉しました。いろいろと大変でしたが、最終的には承諾してもらいました。

1964年東京オリンピックで使用された統一東西ドイツ国旗

1964年東京オリンピックで使用された統一東西ドイツ国旗

 国旗は国際理解の第一歩。「オリンピック教育」の一環に

―― 国旗担当として、オリンピックに深く関わってこられた吹浦さんは、スポーツにとっての国旗とは何だと思われますか?

先日、フォート・キシモトの「オリンピック報道写真展」を訪れた際に、足をとめてじっくりと見入った写真が何枚かあったのですが、そのうちの1枚の写真には、男子ホッケーのインドチームが掲げたプラカードに「Gold for India」と書かれてあったものでした。私は、それはオリンピック精神とはかけ離れた考えだと思っています。実は、マイケル・モリス・キラニン男爵がIOC(国際オリンピック委員会)会長だった時、彼が「国旗全廃案」を出したことがありました。大論争の末に、採決をとらずにキラニンはその案を引っ込めたのですが、これは永遠の課題だと思うんです。オリンピックでのメダルは、本来は個人の栄誉であって、国の栄誉ではありません。しかし、選手の強化には国の支援が必要ですし、団体競技は国際チームでいいのかという問題が出てくる。現状では、個人での出場というよりも、国の代表という意識がより高くならざるを得ないですからね。また、各国にNOC(オリンピック委員会)がある中では、やはり国旗は必要です。しかし、それが他国の国旗を排斥するような「排他的ナショナリズム」であってはならない。そうではなくて、「enlightened」、あえて日本語で言えば「解放された」あるいは「啓発された」ナショナリズムこそが、健全な国際関係を築くものだと思います。現在の世界は、主権国家で成り立っています。そうである以上、オリンピックで国旗を掲揚するというのは否定しようがありません。しかし、「Gold for India」までのナショナリズムに走ってはいけないと思います。節度のあるナショナリズムでなければ、オリンピックは発展していかないと思います。

リオデジャネイロオリンピック競泳男子400mMRで金メダルを獲得し国旗を掲げるアメリカチーム(2016年)

リオデジャネイロオリンピック競泳男子400mMRで金メダルを獲得し国旗を掲げるアメリカチーム(2016年)

―― 「母国のために」と思う選手たちも少なくないのが実情だと思いますが、選手たちのモチベーションという意味ではいかがでしょうか。

選手にとって「日の丸を掲げる」というのは、「インセンティブ」だと思います。しかし、勝つまでは表には出さない。勝った時に初めて日の丸を掲げてウイニングランをすることが許されると。つまり、勝者だけの栄光の権利みたいなものだと思うんです。その代わり、勝者は敗者の悔しさをきちんとねぎらってあげるということ、それが大切だと思います。

―― あと3年後には、再び「東京オリンピック・パラリンピック」が開催されるわけですが、吹浦さんは2020年についてどう感じていますか?

正直に言えば、これだけ社会や生活が多様化している中で、オリンピック・パラリンピックだけに注目を向かせるというのは難しい。「one of them」というような傾向が出て来ざるを得ないと思います。大切なのは、オリンピック・パラリンピックをどう社会や教育に還元していくかということ。そういう部分にもっと知恵を絞るべきだと思います。

国旗をテーマに講演する吹浦忠正氏

国旗をテーマに講演する吹浦忠正氏

―― そういう意味では、「オリンピック・パラリンピック教育」中に、国旗を盛り込むということも大切になってくるのではないでしょうか。

とても大切だと思います。国旗を知ることは、その国を知る第一歩となり、国際理解につながります。そもそも国旗って、本当に面白いんですよ。なにせ60年研究をしている私がまったく飽きないんですからね(笑)。今、2020年の東京オリ・パラで19競技も実施される江東区の全68の小中学校で、ソプラノ歌手の新藤昌子さんという国歌の専門家と組んで、 「世界の国旗と国歌 学び、聴き、歌おう!」という出前授業をやっています。

―― オリンピック・パラリンピックは、そういう教育のチャンスでもありますね。

その通りです。ですから、メダルばかり追うのではなく、オリンピック・パラリンピックをもっと有効活用すべきだと思います。今は、組織委をはじめオリ・パラに関わる問題ばかりがメディアで取り上げられていますが、もっとプラスイメージを抱けるような報道を期待したいと思います。オリ・パラのプラス面はほんとにたくさんあるのですから。私もオリ・パラがどんなに素晴らしい、人類共通の文化であるかを、少しでもお伝えして行きたいと思っています。

  • 吹浦忠正氏とオリンピック 年表
  • 世相
1912
明治45

ストックホルムオリンピック開催
日本から金栗四三氏が男子マラソン、三島弥彦氏が男子100m、200mに初参加

1924
大正13
パリオリンピック開催
織田幹雄氏、男子三段跳で全競技を通じて日本人初の入賞となる6位となる
1928
昭和3
アムステルダムオリンピック開催
織田幹雄氏、男子三段跳で全競技を通じて日本人初の金メダルを獲得
人見絹枝氏、女子800mで全競技を通じて日本人女子初の銀メダルを獲得
1932
昭和7
ロサンゼルスオリンピック開催
南部忠平氏、男子三段跳で世界新記録を樹立し、金メダル獲得
1936
昭和11
ベルリンオリンピック開催
田島直人氏、男子三段跳で世界新記録を樹立し、金メダル獲得
織田幹雄氏、南部忠平氏に続く日本人選手の同種目3連覇となる

1940
昭和15
第二次世界大戦でオリンピック中止

  • 1941吹浦忠正氏、秋田市で生まれる
1944
昭和19
第二次世界大戦でオリンピック中止

  • 1945第二次世界大戦が終戦
  • 1947日本国憲法が施行
1948
昭和23
ロンドンオリンピック開催

  • 1948  吹浦忠正氏、秋田大学付属小学校に入学
  • 1950朝鮮戦争が勃発
  • 1951日米安全保障条約を締結
1952
昭和27
ヘルシンキオリンピック開催

  • 1955日本の高度経済成長の開始
1956
昭和31
メルボルンオリンピック開催

1960
昭和35
ローマオリンピック開催

  • 1961 吹浦 忠正氏、早稲田大学入学
      大学在学中に国旗に関する著作を出版
  • 1962 吹浦 忠正氏、オリンピック東京大会組織委員会専門職員となる
  • 1963 ケネディ米大統領、暗殺さる
1964
昭和39
東京オリンピック・パラリンピック開催
円谷幸吉氏、男子マラソンで銅メダル獲得 

  • 1964東海道新幹線が開業
  • 1964  吹浦忠正氏、東京オリンピックで国旗を担当、出場国の国旗やオリンピック旗の製作・掲揚などを行う。
     また、パラリンピックでは、国旗担当とともに日赤語学奉仕団としてボランティア活動。
  • 1964東海道新幹線が開業
  • 1965  日本ユネスコ協会国旗委員会の中心的メンバーとして『国旗総覧』(森重出版)を共同出版。以後、国旗に関する著作は45点。
1968
昭和43
メキシコオリンピック開催
1969
昭和44
日本陸上競技連盟の青木半治理事長が、日本体育協会の専務理事、日本オリンピック委員会(JOC)の委員長に就任

  • 1971  吹浦 忠正氏、国際赤十字駐在代表として第3次印パ戦争で捕虜や難民の救済に従事
  • 1969アポロ11号が人類初の月面有人着陸
1972
昭和47
ミュンヘンオリンピック開催

  • 1971 吹浦 忠正氏、日本赤十字中央女子短期大学助教授となる。
      吹浦 忠正氏、末次一郎事務所嘱託となり、1980年以降、同事務所長となる。
  • 1973吹浦 忠正氏、国際赤十字駐在代表としてベトナム戦争で捕虜や難民の救済に従事
  • 1973オイルショックが始まる
  • 1975吹浦 忠正氏、社団法人協力隊を育てる会創設メンバーとなり、以後理事・常務理事など約30年。
1976
昭和51
モントリオールオリンピック開催 

  • 1976ロッキード事件が表面化
1978
昭和53
8カ国陸上(アメリカ・ソ連・西ドイツ・イギリス・フランス・イタリア・ポーランド・日本)開催 

  • 1978日中平和友好条約を調印
  • 1979吹浦 忠正氏、NGO法人「難民を助ける会」創設メンバーとなる(現在・特別顧問)
1980
昭和55
モスクワオリンピック開催、日本はボイコット

  • 1982東北、上越新幹線が開業
1984
昭和59
ロサンゼルスオリンピック開催
1988
昭和63
ソウルオリンピック・パラリンピック開催
鈴木大地 競泳金メダル獲得
1992
平成4
バルセロナオリンピック・パラリンピック開催
有森裕子氏、女子マラソンにて日本女子陸上選手64年ぶりの銀メダル獲得

  • 1995阪神・淡路大震災が発生
1996
平成8
アトランタオリンピック・パラリンピック開催
有森裕子氏、女子マラソンにて銅メダル獲得

  • 1997香港が中国に返還される
1998
平成10
長野オリンピック・パラリンピック開催

  • 1998吹浦 忠正氏、長野冬季オリンピック大会組織委員会 儀典担当顧問となる
      各国の国旗制作や掲揚のほか、開会式の進行等にも関わる
2000
平成12
シドニーオリンピック・パラリンピック開催
高橋尚子氏、女子マラソンにて金メダル獲得

  • 2000吹浦 忠正氏、埼玉県立大学教授となる
2001
平成13
  • 2001吹浦 忠正氏、東京財団研究推進担当常務理事となる
  • 2002埼玉県立大学教授を辞任
2004
平成16
アテネオリンピック・パラリンピック開催
野口みずき氏、女子マラソンにて金メダル獲得
2007
平成19
第1回東京マラソン開催

  • 2007吹浦 忠正氏、東京財団を退任、ユーラシア21研究所を発足させ、理事長に就任
2008
平成20
北京オリンピック・パラリンピック開催
男子4×100mリレーで日本(塚原直貴氏、末續慎吾氏、高平慎士氏、朝原宣治氏)が3位となり、男子トラック種目初のオリンピック銅メダル獲得

  • 2008リーマンショックが起こる
2011
平成23
  • 2011吹浦 忠正氏、法務省難民認定参与員となる
  • 2011東日本大震災が発生
2012
平成24
ロンドンオリンピック・パラリンピック開催
2020年に東京オリンピック・パラリンピック開催を決定

2016
平成28
リオデジャネイロオリンピック・パラリンピック開催

  • 2016吹浦 忠正氏、世界の国旗研究協会を発足させ、会長・理事長に就任