アクシデントがきっかけとなったアイススレッジスピードレース
リレハンメルオリンピックのISSに出場した土田和歌子(1994)
―― マセソンさんと言えば、「松江(旧姓)美季」時代、1998年長野パラリンピックでの活躍があげられます。
マセソンさんが3つの金メダルを獲得したアイススレッジスピードレース(スケート)は、1994年リレハンメル大会で初めてパラリンピックの正式競技となったわけですが、当時はこの競技をご存知でしたか?
私は、大学1年だった1993年に交通事故に遇って、入院中にリレハンメルパラリンピックのことを知りました。実は偶然、私の主治医の先生が、当時スピードレースで活躍していた土田和歌子ちゃんの主治医と同じ方だったんです。
それで先生から「ちょうど美季と同じくらいの子が、今度パラリンピックという大会に出るんだよ」というのを聞いていました。
―― 当時は、パラリンピックの報道というのはほとんどなかったですよね。
ほとんどありませんでしたね。新聞に小さい記事が出ていればいい方で、それもスポーツとしての扱いはまったくなかったですからね。
―― 初めてアイススレッジスピードレースを見た時には、「これだ!」という感じでしたか?
いえ、正直そんなふうには思いませんでした(笑)。
当時は、1998年に長野パラリンピックの開催が決まっていて、大会に向けて選手を増やさなければいけなかったんです。ちょうど今、2020年東京に向けて選手発掘をしているような感じですよね。特に日本では冬季競技の競技人口が少なかったので、あちこちで発掘事業が行われていたんです。
私もケガをする直前まで柔道をやっていましたので、スポーツをする体も根性もあるだろうというふうに思われたんでしょうね。「やってみないか」と声をかけられました。
長野オリンピックISS1500mでも
金メダルを獲得(1998)
それで、まずは富士急ハイランドのリンクで練習をしている所に見学に行ったのですが、もう寒くて寒くて(笑)。
それまでスケートと言っても、ちょっと神宮球場のリンクに行って、遊んで帰ってくるというような感じでしたから、防寒をしていくという発想が全くなかったんです。だから寒くて仕方ないし、ただぼーっと練習を見ていてもつまらないしで、本気で「帰りたい」と思っていました。でも、帰るわけにはいかないので、じゃあ体を温めるにはどうしようかと。もう動くしか選択肢がないんですよね。
それで特にやりたかったわけでもないのに、監督に「見ているだけではもったいないので、ぜひ私にもやらせてください!」と頼み込んだんです(笑)。そしたら「そうか。じゃあ、やってみろ」ということになって、用具を貸してもらってやってみたんですね。そしたら、全然できないんです。それまで私にとって、スポーツというのはそれほど頑張らなくてもできてしまうものでした。走れば速いし、ボールを投げれば遠くまで飛ぶしで、体育の授業はいつも目立つ存在だったんです。
ところが、アイススレッジは、真っすぐ滑ろうとしても、すぐに転んでしまって進むことさえもできないわけです。それで、もう悔しくて、一生懸命に練習しました。
そしたら2時間くらいの練習が終わる頃には、なんとか転ばずに滑れるようになったんですね。それで「見てください!こんなに速く滑れるようになったんですよ!」と言って、みんなの前で思い切りスピードを上げて滑ったんです。そしたらみんなが「うわぁー」って言い始めて、最初は「え!?何?」と思っていたんですけど、そのうちに気付いたんです。「あ、私、止まり方知らないんだ」って(笑)。
野外のリンクだったので、壁で仕切られているのではなく、リンクの先はアスファルトになっていたんです。それでそのままリンクから勢いよくアスファルトに出てしまって、1本20万円もするスケートの刃を、見事にボロボロにしてしまいました(笑)。
自分の中では「もう二度とやるもんか」と思っていたのですが、帰りがけに監督に「オマエ、この刃がいくらするか知っているか?もう、このままやめるわけにはいかないよな(笑)」って言われて、思わず「はい」と言ってしまったのが、スピードレースをするきっかけでした。
G7伊勢志摩サミットの関連イベントにて(2016)
―― それまで車椅子スポーツはされていなかったんですか?
最初に「やっぱりスポーツっていいなぁ。私も何かやりたいな」と思ったのは、車椅子バスケットボールでした。入院中、施設内の体育館でプレーしている姿を見て、「あぁ、かっこいいなぁ」と。それまで障がい者にはネガティブな印象しかなく、私も車椅子で生活すると、周りの人にはネガティブなイメージで見られるようになるのかと思うと、それが辛かったんです。
でも、彼らを見て「あ!あんな人たちもいるんだ!私もかっこいい障がい者になればいいんだ」と、嬉しくなったのを覚えています。それで、何かスポーツをやりたくて、「一人でもやれるスポーツはないかなぁ」と探していた時に出合ったのが車いす陸上でした。何度かハーフマラソンや大分国際車いすマラソン(ハーフの部)などの大会にも出て、ある程度の成績も出していました。それが長野パラリンピックの関係者の目に留まったのだと思います。
―― 陸上をやっている時は、パラリンピックを目指そうというお気持ちはあったんですか?
はい。いつかはパラリンピックに出てみたいとは思っていましたし、おそらく続けていれば狙えるだろうという位置にはいた選手だったと思います。
パラリンピック直前、突然の「開花」
ロンドンパラリンピック閉会式、
パラリンピック旗の引き渡し(2012)
―― 実際に、スピードレースでパラリンピックを目指すことになったわけですが、練習はどこでどんなふうにされていたんですか?
私は東京に住んでいたのですが、練習ができるのは山梨か長野だったんです。だから日中は都内の大学に行って、夜中に自分で車を運転して山梨か長野に行って練習をして、また自宅に戻って、明け方少し寝て、また大学に行って……というのを週に3回ほどやっていました。そのほかの日は、陸上のレーサーに乗ってロードワークでスタミナをつけたり、ウエイトトレーニングしたりしていました。
―― そんなハードな生活を続けられたということは、やっていくうちにスピードレースが面白くなってきたんでしょうね。
うーん、面白くなってきたというよりも、初めてできなかったスポーツだったので、ある程度、自分が納得するところまでできるようになりたいという気持ちが強かったですね。そうしてやっているうちに、世界選手権に出られるかもしれないという話を聞いて、「じゃあ、もっと頑張ろう」と思ったりして、少しずつのめりこんでいった感じでした。
インタビュー風景
―― 生まれつきの負けず嫌いが発揮されたと。
負けず嫌いと、頑固さですね(笑)。
―― 初めて出場したレースのことは覚えていますか?
覚えています。国内大会のジャパンパラで、500mと1000mに出場したのですが、結果は良くありませんでした。隣のレーンの選手が少しどころか、ずっと前を行くような感じでしたから、「惨敗」でした。
―― それでも続けられたのは何があったからだったんでしょうか?
悔しかったからだと思います。それとその時、自分がトップギアで走っていれば、「あぁ、これはかなわないな」と思って諦めたかもしれませんが、ギアが上がりきらずに力を出せないまま終わってしまったというふうに感じていたんです。
―― 500m、1000mといえば、その後、長野パラリンピックで金メダルに輝いた種目ですから、当時から得意としていたんでしょうね。
いえ、実は私はもともと短距離を得意としていたんです。
インタビュー風景
―― それが長野では、500、1000、1500mという種目でいずれも金メダル。ご自身が開花したというのは、いつ頃だったのでしょうか?
長野の直前でした。パラリンピックに向けての最終合宿で、コーチが「あれ?」って驚くほどタイムが伸びたんです。なぜ、そこで開花したかは、自分でもちょっとわからないですね。それこそ、まさに「ある日、突然」という感じでした。ゾーンに入ったのかもしれませんね。
自分でも滑っていて「あれ、何か今までにないくらいいい感じだな」というのは感じていました。ライン取りや重心の移動、スピードの上げ下げなど、すべてが自分が思い描いていた通りにできるようになっていたんです。
―― じゃあ、自信を持ってパラリンピックに臨んだわけですね。
いえ、国内では良くても、世界でどれほどなのかは全くわからなかったので、正直、どういう結果が出るのかは予測できていなかったんです。
長野オリンピックISS1000mで金メダル
を獲得し声援に応える(1998)
夢の中ですりかわった銀メダリストから金メダリストへ
―― 当初、パラリンピックでメインとしていた種目は短距離だったんですか?
はい、そうです。周囲も自分も、「メダルを取れるとすれば、100mだろうね」という感じでした。
―― 注目度はどれくらいだったんでしょうか?
私はほとんど注目されていない選手でした。それこそ、開会式の映像を見ると、私なんかは顔が切れたところで終わって、すぐに和歌子ちゃんのアップになる、みたいな感じでしたから(笑)。
練習の時も、カメラマンに「ちょっと、そこの黄色いシャツの子、どいて!」と言われたりして「どいてじゃないでしょ。こっちだって、練習しているだから!」なんて、心の中では思ったりしてました(笑)。でも、そんなんだったからこそ、気持ち的に楽だった部分はあったと思います。