ずっと心に決めていた海外でのチャレンジ
ラグビーワールドカップで、試合前にマオリ族の戦い前の踊りで有名なハカを見せるニュージーランド代表。(2015年)
―― 当時の日本ラグビーには、どんな印象を持っていましたか?
当時、日本ラグビー界に語り継がれていたことと言えば、1968年のオールブラックスジュニアから挙げた勝ち星、1971年のイングランドとの接戦、1983年のウェールズ戦での惜敗。そして1989年、宿澤広朗監督時代のスコットランド戦での勝利でした。
つまり、実際に日本が勝ったのは、オールブラックジュニア戦とスコットランド戦くらいでした。一方、1995年のRWCでは、ニュージーランドに17-145の大敗を喫していました。当時の日本は、それこそ米国にも負けていて、アジアの中においても、韓国が強い時代でしたし、香港にはニュージーランド出身の選手が結構いましたので、RWCに出場することも簡単ではありませでした。まだプロ化もされていませんでしたから、日本ラグビーがどうのというよりは、「ここにいたのでは、世界に勝つことはできない」という考えが、私の中には早い時期からありました。
―― では、大学卒業後、日本の実業団に行くという選択肢はなかったと。
はい、実業団は全く考えていませんでした。でも、当時の日本ラグビー界では日本人選手が海外でプレーするということが想定されておらず、日本代表でプレーするためには日本のチームに所属していなければいけないという規約があったんです。当初はそのことを知らずに、実業団からのお誘いをお断りして、海外に行くと決めていたのですが、それでは日本代表でプレーできないということで、最後まで熱心にお誘いいただいた神戸製鋼に所属させていただきました。
―― 当時の日本ラグビー界は、アマチュア精神を大事にしていて、例えば元日本代表監督の宿澤さんがテレビのゲスト解説する時も、出演料はもちろん、交通費さえも協会に入れなければいけなかった時代でしたからね。
はい、そうですね。世界では1995年にプロ化されたのですが、日本では朝から夕方まで働いて夜に練習するというのが、少し緩くなってシーズン中は15時とか少し早めに上がって練習できるようになったばかりでした。世界とはだいぶ差がありました。
―― そんな中で海外に行こうとした理由は何だったのでしょうか?
まずは、やはり小学生の時に見た香港セブンズの試合ですね。あの時に「海外でやってみたい」という気持ちが芽生えたのが最初のきっかけでした。ただ、ラグビーで生計を立てるという発想はありませんでしたから、高校、大学と上がるにつれて、海外でラグビーをするだけでなく、しっかりと勉強をして学位を取得し、現役引退後は、それを活かした仕事に就こうと考えていました。
存在を認めてもらうところからのスタート
―― ケンブリッジ大学に留学したわけですが、いかがでしたか?
当時はまだインターネットがそれほど一般に普及されていませんでしたから、ほとんど海外の情報がありませんでした。ラグビー専門の雑誌に少し海外のことが載っていたのですが、そこに書かれてあることと言えば「ニュージーランドの選手は、週に2回、わずかな時間しかチーム練習を行わない」というようなことだったんです。でも、実際に行ってみると、もうそうではなくなっていて、朝7時から厳しい練習をしているわけです。ですから、国内ではよく「日本人はパスの技術が巧く、練習量も多いのでフィットネスにおいても上」ということが言われていたのですが、全くそんなことはありませんでした。練習量も意識の高さも全く違っていて、正直、「これでは日本人が勝てるわけないな」と思いました。
インタビュー風景(2016年)
―― ケンブリッジ大学のラグビー部には、希望すれば入れるものなんですか?
いえ、入れません。日本の大学もそうだと思いますが、入りたいという学生を全員受け入れていたら多すぎて練習ができませんから、やはりある程度の実力が認められないと入ることはできません。セレクションで40人ほどに絞られます。
―― 岩渕さんは、どうだったんですか?
学校は9月から始まるのですが、その前にキャンプが行われたんです。そこで何度か練習試合をした中でなんとか認めてもらえて、40人のセレクションには合格しました。ただ、SOをやらせてはもらえませんでした。既に日本代表に選ばれてはいましたが、当時海外の人にとって日本のラグビーと言えば、ニュージーランドに145点を喫したというイメージしかなかったんです。
ですから、もう端から「SOはないよね」という感じで見られていて、当時のラグビーでは英語でのコミュニケーションの影響がなさそうなウイング(WTB:基本的にフォーメーションの両翼に位置し、チームがつないだボールをトライに持っていくのが役目で、スピードが求められる)といった端の方のポジションをやらされました……。まずは存在を認めてもらうというところからスタートしました。
―― 同じ学生スポーツでも、日本と英国とでは何か違いはありましたか?
全く違いましたね。ケンブリッジというのは、オックスフォードと並んで、英国の中でも非常に特殊な大学だと思うんです。当時、既にイングランドではラグビーがプロ化されていましたから、本当にプロとしてラグビーで生計を立てていこうという選手は、高校卒業してすぐにプロに行くわけです。その中で、ケンブリッジやオックスフォードに進学する選手というのは、ラグビーは続けたいけれど、将来はパブリックスクールの教師や金融界で働きたいという人が多い。実際、私の同級生で大学卒業後もラグビーを続けたというのは、ごく少数でした。
―― 逆に言えば、野望の持ち主が多いと。
はい、そうなんです。だからこそ、純粋にラグビーの実力だけでは決まらないことが多くありました。
向こうでは、キャプテンがメンバーを決めるという文化が根強くあるんです。そうすると、ケンブリッジとオックスフォードの定期戦に出場した選手だけが与えられるブルーの称号を得た人が、エリートのパブリックスクールの教師になれるということもあって、みんな何とかしてキャプテンに気に入られようとするわけです。キャプテンがどこの国の出身なのか、どの派閥に所属しているのかということにも関わってくるのですが、日本人の私なんかは当然少数派でしたから、大変でした。でも、私以上に、南アフリカ出身の選手などはとても厳しい状況にあったと思います。
来日した国際親善試合で日本代表と戦う
ケンブリッジ大学(1975年)
―― いわゆる人種差別的なものがあるわけですか?
はい。日本ではちょっと考えられないことが、往々にしてあったりしましたね。表面上はスマートですが、実際は良くも悪くも、したたかです。でも、例えばRWCの招致におけるロビー活動の重要性も言われていますが、そういう政治的な要素も必要であることは確かだと思います。
―― そんな厳しい中でもまれながら、岩渕さんは日本人で初めてブルーの称号を得ました。
本当に幸運なことが重なったおかげで定期戦に出場できたと思っていますし、その時に出会った人たちとは今もつながっています。さまざまな組織やチームで活動されている方が多いので、ケンブリッジで得た人脈というのはとても大きいですね。
海外でプレーすることの充実感と悩み
―― ケンブリッジを卒業後の進路については、どんなふうに考えていたんですか?
日本に帰国しようとは考えていませんでした。留学した当初から、海外の大学でプレーをして、その後はそのまま海外で、と思っていたんです。留学先を英国にしたのも、実際に行けるかどうかは別として、とにかく卒業後はプレミアシップに挑戦すると決めていたからでした。私がケンブリッジを卒業する頃、ちょうど日本でもプロ化の話が出てきていまして、個人的にプロとして契約する選手も少しずつ出てきてはいました。
私も、国内の実業団チームからプロ契約で来ないかというお誘いをいただいてはいたのですが、自分の中ではプロとしてやっていくというよりも、とにかく世界トップの舞台で挑戦したいという気持ちの方が強くありました。当時は、世界においてもまだプロとしての環境が整備されていない状況でしたから、実際にプロで生活できるかどうかはわからなかったんです。ですから、ラグビーはあくまでもチャレンジの場であって、将来は他の仕事で生計を立てるんだと考えていました。
12チームが参加して行われるイングランドのトップリーグ
“プレミアシップ”
―― プレミアシップでやってみて、いかがでしたか?
自分として手応えは感じていました。しかし、わずか2人という外国人枠が高いハードルとなっていました。当時、同じチームにはオーストラリア代表としてRWCに2回出場経験のあったティム・ホランなど、世界的な選手がいました。そういう選手が出場すると、違うポジションでも同じ外国人枠の私にはなかなか出番が回ってこないんです。本当に、どうやって出場のチャンスを得られるのか、悩みましたね。
―― 海外でプレーするという気持ちにブレは生じませんでしたか?
ブレることはなかったです。試合に出られなくて悩んではいましたが、レベルの高いところでやれているという充実感はありましたので、迷いはありませんでした。
―― 日本でやるのとでは、どこに違いを感じていましたか?
当時は、全てが違っていたと思います。練習量ひとつとっても、向こうでは朝7時から、一日3部練習するのが普通でしたし、試合も年間40ほどありました。一方、日本では練習も夜に2、3時間で、試合もおそらく20もできていなかったと思います。それでいて、選手のレベルも違うわけですから、日本は海外のチームに絶対にかなわないなと感じていました。
―― 突然、首を切られるということもあったりするのでしょうか?
はい、すごくシビアでした。よく、メジャーリーグでも突然解雇を言い渡されて、その日のうちにロッカーを片付けるなんていう話をよく聞きますが、ラグビーの世界も同じでした。
―― トレーナーなど、サポート体制においては、日本との違いはありますか?
その部分では、間違いなく日本が世界のトップだと思います。それは日本のいい部分ではあると思いますが、一方で、十分すぎる環境が危機感を薄めている要因になっているとも言えると思います。
人生観を変えたフランスラグビーの影響
国旗の三色でフェイスペインティングをする
フランスサポーター
―― その後、何度か移籍していますが、最も影響が大きかったのはどのチームですか?
フランス南西部にあるコロミエというチームですね。フランスのラグビー界では、1部リーグのトップチームでプレーするような選手も、引退する前に故郷のチームに戻って、そこで恩返しとして、貢献して辞めるというのがごくあたり前でした。私が所属したコロミエにも、隣町のトゥールーズという強豪チームに所属していた選手が何人か戻ってきてプレーしていました。
フランスでのラグビーというのは、それまでイングランドで触れてきたラグビー観や人生観とは違っていて、リラックスしてラグビーをしているような感じを受けました。そういう中で、海外でラグビーを終えて、その後は全く違うことをやるんだ、という自分の考えは、なんだかかっこつけているに過ぎないのかなと思えてきたんです。考えてみれば、自分はラグビーをやってきたからこそ、海外に行って、いろいろな人と知り合って、多くの経験をすることができたわけです。だったら、最後は何らかの形で日本のラグビーに携わって終わるというのも一つの選択肢としてあるんじゃないかな、と考えました。
―― 現役最後を日本で迎えたというのは、そういう理由があったんですね。
はい。フランスのラグビーに触れたことは、私のラグビー人生にとって、ひとつのターニングポイントになったと思います。ちょうどフランスのコロミエに所属していた時に、7人制ラグビーの日本代表コーチ就任のお話をいただいたんです。本当は、もう少し海外でプレーしたかったのですが、家庭の事情もあって、日本に帰国することになり、1年間セコムに所属しながら、7人制の兼任コーチをさせていただきました。翌2009年からは日本ラグビー協会のハイパフォーマンスマネージャーに就任しました。
―― 2009年というと、ちょうどラグビー界がいろいろと動きがあった年ですね。
はい、そうなんです。ちょうどその頃に、2019年RWCの日本開催や、7人制ラグビーがリオオリンピックの追加種目に決定しました。さらに、2013年には2020年東京オリンピックの開催が決定し、ラグビー界が取り巻く環境が次々と変わっていきました。
―― つまり、日本ラグビーの激動の時代の中で、日本代表の強化に携わってこられたわけですね。
2019年の前に、日本は一度RWCの招致に失敗しているんです。それでももう一度手を挙げたということで、私は日本協会が本気なんだなと感じていました。というのは、RWCを招致するということは、日本代表は出るだけでは済まされない。勝てるチームにしなければいけないわけです。日本が真剣に勝負しようとしている中で、自分が強化に携われるというのは、とても光栄でしたし、喜びを感じました。