―― よく高校野球の選手は、忙しくてプロ野球のテレビ中継も観られないって聞きますが本当ですか?
もう自分たちのことで目一杯で、テレビなんか観ている暇はなかったですね。練習が終わって家に帰る途中で、電気屋さんや駅の街頭テレビで試合の終わりころを観るくらいでしたね。
―― 青田さんや大下弘さんのころですか?
いや、もう少し後ですね。
―― 川上哲治さんは観ましたか?
川上さんは観ましたね。でも、同じ人間とは思えないプレーぶりでした。そういう選手はいるけど、別世界の人かと思っていました。
―― 王さんの身体が大きくなったのは、いつごろでしたか?
小学生のころは小さかったですね。大きくなったのは中学生のころですね。早実に入ったときは175cmでジャイアンツに入ったときは177cmでした。
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1958年 巨人入団発表(右は品川主計球団社長)
―― 当時は、プロ野球のスカウトという人はいましたか?
いましたけど、数は少なかったですね。学校とかに見に来られた方はいなかった。神宮球場の大会には来ていたと思います。
―― では、王さんがスカウトに目を付けられたのは、甲子園に出てからですか?
甲子園に出てからでしょうね。
―― 新聞なんかに載るようになったのはいつごろですか?
新聞記者の人たちが、プロ野球のスカウトから取材して、それからでしょうね。
―― そのころは、自分の記事とか読んでいたのですか?
高校に入ったころは、そうでもないですね。やはり甲子園に出て、2年の春に優勝したわけですが、そのころからでしょう。うちは姉がスクラップをしてくれていて、今もミュージアムに展示されていますが、自分たちは野球をやることに集中していたので、思われているほど自分の記事は読んでいないですよ。
―― お父さんは、甲子園で優勝しても、エンジニアになることを望んでいらっしゃいましたか?
野球をやることは許してくれていましたが、勉強もしっかりやりなさいといっていました。さすがに甲子園に4回行ったあとは、勉強、勉強と言わなくなりましたが。私は最悪の場合、家業を継げばいいや、くらいに気楽に考えていました。
憧れの巨人に入団
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インタビュー風景
―― 王さんご自身が、プロ野球に進もうと強く意識されたのは、いつごろのことですか?
4回甲子園に行けて、当然3年の夏も行けるものだと思っていたのですが、東京都の決勝戦、明治高校との試合で、変な負け方をして甲子園に行けなかったのです。始めての挫折でした。それが悔いに残って、そのときまでは大学に進もうと思っていたのですが、もう一度野球というものにチャレンジしてみたいな、と思ったのです。
―― その変な負け方というのは、王さんに責任があるのですか?
延長11回までいって、12回の表に早実が4点取ったのです。その裏で3アウトを取れれば甲子園に行けたのに、2人ランナーを出してしまった。僕は交替してリリーフピッチャーに勝利を委ねたのですが、そこから5点を奪われ逆転負けです。
実際に打たれたのはリリーフのピッチャーでしたが、僕が3人抑えていたら5回連続で甲子園にいけたのです。今から思えば、僕の人生の大きなターニングポイントでしたね。
―― そこで、この仇はプロ野球で、みたいな気持ちだったのですか?
すぐには、そういう気持ちになりませんでした。考えてみれば、ずっと野球漬けの生活でしたからね。夏が終わると3年生はやることがない。とにかくショックでした。ちょっと立ち直れないな、みたいな。大好きな野球ができなくなってしまったわけですから。これからどうしよう。初めて将来の進路について悩みました。進学かプロ入りか。両親に相談したら最終的には自分で決めなさいと言われ、プロ入りを決意し、ジャイアンツにお世話になることにしました。
―― 当時は、ドラフトという制度もないし、何チームくらいから誘われましたか?
ジャイアンツには高校2年のときに声をかけられていました。熱心だったのは甲子園がホームの阪神タイガース。それと中日、阪急あたりから誘っていただきました。
―― 王さんはスカウトの人とは交渉しなかったのですか?
両親と兄ですね。僕は挨拶をした程度でした。まあ、兄が代理人みたいな感じです。当時の高校生は、そんなものでしょう。
―― ジャイアンツに決められたのは、何が決め手になったのですか?
兄から「どこでやりたいんだ」と聞かれ、小さいころからの憧れなんかもあったので「ジャイアンツでやりたい」と言ったら、「じゃあ、ジャイアンツにしよう」ということになりました。兄もジャイアンツでやってほしいと思っていた感じでした。
―― 契約書にサインしたのは、いつでしたか?
10月4日だったと思います。
―― 夏に負けたあと、翌年の春までボールは握らなかったのですか?
いえ、10月にジャイアンツの秋季キャンプが多摩川であって、そこに参加しました。まだジャイアント馬場さんとかがジャイアンツにいたころです。
―― 当時の監督は水原さんですね。
水原さんは1軍の監督で、直接指導してくれたのは2軍の千葉茂さんでした。西鉄と日本シリーズで戦う直前でしたね。
―― ジャイアンツに入団したときは、投手で契約したのですか?打者で契約したのですか?
いや、そういう区別はなくただのプレーヤーという契約でしたね。
―― 千葉監督には、最初どのように声を掛けられたのですか?
「よく来たね。噂は聞いているよ。頑張ってね」と言われました。ただ、千葉さんは、そのシーズンを限りに近鉄バッファローズの監督になられて移籍されたのです。その記念試合を日生球場でやったのですが、その試合はライトを守りました。
―― ピッチャーはだめという引導を渡されたのはいつごろで、誰からだったのですか?
新シーズンから宮崎キャンプが始まり、2週間後に明石キャンプに移ったときです。水原さん(監督)、川上さん(打撃コーチ)、中尾碩志さん(投手コーチ)の3人に呼ばれて「明日からピッチャーはしなくていい」と言われました。このお三方から言われては仕方ないな、という感じでした。
―― ショックは無かったですか?
甲子園でもずっとピッチャーでしたからね。これで二度とマウンドには立てないんだ、と思いました。でも、プロのピッチャーを間近で見て限界を感じていたのも事実です。
―― 開幕はスタメンでしたか?
ファーストで打順は7番でした。僕が幸運だったのは、ちょうど川上さんが引退されたシーズンで、そのポジションがあいていたことです。国鉄スワローズが相手でピッチャーは金田正一さん。2三振、1四球というデビューでした。
―― ファンからの期待も大きかったでしょうね。
まあ、甲子園で優勝した早実の王、みたいな期待はあったと思います。でも、なかなか打てなかったですね。少なくとも順風満帆とはいきませんでした。ファンの方からも、「王、王、三振王」なんて野次られましたからね。
―― 荒川さんの前の打撃コーチはどなただったのですか?
川上さんでした。川上さんは現役時代から練習の虫といわれた人でしたからね。ただマンツーマンで練習することもなかった。グラウンド以外で宿舎とかでも練習しなかった。早実の方が練習は厳しかったですね。
―― 当時は、バッティングマシンも無かったですし、練習はどんな感じでしか?
ピッチャーの球を打ったり、素振りするくらいですね。ティーバッティングもありませんでした。
―― そうすると練習も単調ですね。
だから練習時間も短かったですね。後は、走ることが多かったです。練習が終わった後は、ランニングをしていましたね。
ジャイアンツが荒川氏をバッティングコーチに招請。打撃開眼!
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荒川博の指導をうける
―― そうすると、ジャイアンツといえども、荒川さんが来るまでは旧態依然という感じだったわけですね。
川上さんが監督になってからは、いろんな意味で厳しくなりましたね。2年目までは成績も良くない割には、しんどくなかった。
―― 荒川さんとは中学時代から一本足打法の完成まで関わりは深かったですね。
荒川さんは、3年目まで毎日オリオンズの現役選手でしたからね。引退されて広岡達朗さんがジャイアンツのバッティングコーチに推薦したと聞いています。それから練習が一変して、毎日午後9時になると大広間に集められて素振りをするようになりました。
―― プロ野球のトレーニング方法が、劇的に変わるころでもありましたね。
どんどん変わりましたね。量的なもの、質的なもの、方法論も変わったし、マシンも出てきたし、雨天用の室内練習場もできました。
―― 荒川さんがジャイアンツのコーチになり、野球観も変わりましたか?
僕の2年目は、ホームラン17本、打率ベスト10に入り、打点も4位に入るなど上向きでした。ところが3年目は少し落ち込んでしまった。荒川さんが入って来て口癖の「なんだ、そのスイングは」というところから始まり、そこからマンツーマンで指導されました。早実の先輩だったし、荒川さんと僕が同じタイプの選手だったのでしょう。ずっと親身になって朝から晩まで指導してもらいました。毎朝タクシーで、荒川さんのお宅を訪ねてスイングを見てもらい、荒川さんの車で後楽園球場に行く。試合を終えてから再び荒川さんのお宅へ行きスイングを見てもらう。夕食をご馳走になりタクシーで帰宅する毎日でした。だから荒川さんの奥様にも、ずいぶんお世話になりました。
―― 荒川さんは、コンディショニングに関しては、どんな指導をされましたか?
「とにかく走れ」と口酸っぱく言われました。だからランニングはよくしましたね。おかげで足腰が鍛えられ、ケガをすることもなかったし、ホームランを打つ礎を築くことができました。
―― その効果は、すぐに現れましたか?
いや、9月から年が変わって6月までの9カ月間打てませんでした。
―― 何か理由はあったのですか?
やはりボールとの距離感が、どうしても取れなかったですね。いくら良いスイングをしていても芯でボールを捕らえられないとボールは飛びません。そこが一番難しいところでした。スイングもいろいろ試行錯誤しましたが、結局始動するポイントが掴めない。あるとき、荒川さんが「ピッチャーが足を上げたらお前さんも右足を上げろ。足を降ろしたらお前さんも足を降ろせ。そうやってタイミングを取ってみろ」と一本足打法の原型みたいなものを作った。そうすると距離感が取れるようになって、ボールを遠くへ飛ばす天性も蘇ってきた。4月から6月までで9本しか打てなかったホームランが、7月から3ヵ月間で27本も打てたのです。結果が出れば、荒川さんとのトレーニングにも身が入る。やればやるほど結果は出る。4年目、5年目、6年目とだんだん面白くなっていきました。