仙台から全国に活躍の場を広げる
―― それで荒川さんが、東北ブロックから飛び出して、全国レベルになるのはいつごろですか?
小学校6年のとき、初めてジュニア選手権に出られる年齢になり、東北・北海道ブロック、東日本、全日本と進むことができました。でも、大会に出られる喜びよりも、大会で長野とか広島、他県に行けるのが旅行のようで嬉しかったです。全日本ジュニアは広島で行われるから、飛行機に乗れて、お好み焼きを食べ、紅葉饅頭をお土産に買って来よう、そんな感覚です。小さな規模でしたが、国際大会にも出場でき、初めて“JAPAN”と国名が付いた憧れのジャージーをもらって、来年も大会に出て、いろんな所に行きたい、そんなモチベーションでスケートをやっていました。
―― 野辺山のジュニア合宿に参加されていますよね。
最初は小学校5年のときです。全国から有望選手を集めて、こんな練習をすると効果的ですよ、と教えてくれました。仙台から本田武史君も行く予定でしたが、彼はおたふく風邪をひいて欠席。長久保先生と2人で車で行きました。あの合宿も楽しかったですね。夜、就寝時間を越えて遅くまで起きていたりして。
―― 荒川副会長から見た、当時の荒川選手は、どんな選手でしたか?
ジャンプを淡々と跳んでいるけれど・・・。やはり技術と芸術の要素を持った総合的な競技なのにも関わらず、残念ながら表現力のない演技でした。
―― 表現力をだそうという気がなかったのですか?
「演技しながら笑いなさい」とよく言われるのですが、なぜ笑わないといけないのか分からなかった。笑うような音楽ではないのに、なぜ笑わないといけないの、っていう感じです。
―― でも長久保先生は、表現力とかは求めていなかったのでしょう。
それが「いい点数をもらうのなら愛想笑いの1つもしろ」と言われて、先生が大げさに見本を見せてくれるのですが、もう鬼瓦が笑っているみたいで。私もこう見えるのかなと思って、逆に笑えない。私は笑っちゃいけないという感じでした。
―― いいですね。小学校のころは、長久保先生とそういう関係だったのですか?獅子舞みたいな感じでしょうね。これは原稿に残ると思いますよ。
怒られますね(苦笑)愛想笑いはなんだか審判の人に媚びを売るような感じがして、それが嫌だったのです。なんで笑顔が必要なのか、と分かったのは20歳でアルバイトをしたときです。
―― アルバイトですか?
ファストフードのアルバイトの研修で、実際に客として他店を訪れたとき、接客を見たのですが、「ああ、このお店にまた来たいな」と思わせる接客と「このお店、味は良いけど二度と来たくない」と思える接客を経験したのです。このときに、確かにフィギュアスケートでも、表情1つで与える印象の違いがあると思えたのです。それが20歳のときでした。
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1993年 中学1年で全日本ジュニアに優勝
―― 中学生のころ、背が伸びてスケートの構成も変わったのですか?
変わりましたね。小学校のときは、ともかくジャンプをメインに力を入れていましたが、中学になって身体が大きくなって重量感が出てきます。ジャンプは難なく跳んだとしても、もっと表現力をつけなければならない。そこで自分に必要な課題も見えてきました。ただし、まだそのころは、世界のトップに行くための目標はなく、オリンピックが現実味を増すこともなかったです。
―― ちょっとここでまとめると、ピョンピョン跳んでいたスケーティングがバランスを考えながら変わって来たのですか?
身体が大きくなると、同じスピードで滑っていてもスピード感がなく見えてしまうのです。体幹の強さやしなやかさを使い分けて見せていく年齢になっていきます。今の自分には何が必要なのか。それを知るには少し時間がかかりましたが。
―― 外から、そういうモチベーションを高められるのは幸せな人生ですね。
そうですね。わたしは褒められると安心してしまい成長を止めてしまうタイプでした。コーチがそんなわたしの性格を見抜いて褒めなかったのも良かったのだと思います。
―― 中学のころ、すでに海外にも行かれていたのですね。それは飛躍のため何かのきっかけになりましたか?
行ってはいましたが、海外に行けるのが楽しくて、成績は中の上くらい。世界ジュニアでは表彰台には乗れませんでした。ただ、高校1年の長野オリンピックには、自国開催という事で出たい、チャレンジしたいという気持ちはありました。
―― 欲があまりなかったのですね。先生だけではなく、地元のメディアも注目し始めていたでしょ。
競技に対する欲はまったくなかったですね。そしてメディアの取材も苦手でした。大人と会話するのが苦手で、どう自己表現していいか分からないので、私をあまり見ないでくださいという感じでしたね。
東北高校に進学、長野オリンピックに出場
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1997年 全日本選手権で優勝し長野オリンピックの出場権を獲得
―― 高校は東北高校に進まれたのですね。
東北高校を選んだのは、コーチが薦めてくださったからです。私自身は制服がかわいい仙台育英がいいかな、とも思ったのですが、東北はスケートリンクまで送迎バスがあり、授業が終わるとすぐにリンクに行き、夜10時ごろまでびっしり練習ができる。練習が長時間で大変でしたが、仲間と一緒にリンクまで行けるのが楽しくて、それが一番よかったですね。中学の時はスケート部がなく、全生徒が部活に入らなければならなかったので弓道部に入りました。ところが“全国中学生大会”で優勝したら「荒川さんは部活に出なくていいから早くスケートリンクへ行きなさい」と言われ帰宅部になってしまいました。一人っ子なので友だちとのおしゃべりが楽しみだったのに。ところが高校に入ったら、スケート部の人たちと色々な話をしながら、バスで一緒にリンクに行けました。それが楽しい思い出です。
―― 練習の環境も劇的には変っていないんですね。
変わっていないですね。練習量が増えたくらいで。ともかく同じ年ごろの人たちと過ごせたのは良かったと思います。
―― でも高校に入ると、自分の世界を広げて荒川静香の流れも変わっていったのではないですか?
オリンピックや、高校生で国際大会を目指す競技は他になく、インターハイや国内大会を目指している同級生と少し温度差があったように思います。スポーツをやっている友人とも、海外遠征から帰って来ると、なにかヨソヨソしい感じになってしまう。
―― アスリートとしての生き方、考え方はいかがでしたか?
長野オリンピックに高校1年のときに出場させていただき、ある程度自分自身で満足してしまいました。出場する事を目標にしていたせいか、16歳の若さで集大成というか、それ以上目指す事にはならなかった。ただ、出場するだけが目標だったので、本大会の成績は13位でしたが、新聞には“惨敗”の文字が。当時のフィギュア日本選手団の中では、それでも最高位だったのですが…。
―― 長野の代表を決める全日本選手権はショートプログラムは1位ではなくフリーで逆転でしたね。
シニアになった最初のシーズンで、ともかくオリンピックにチャレンジしたい気持ちと、若いから出られなくてもという気持ちと、まだ気楽に滑れる年齢だったのも良かったんだと思います。
―― そうするとショートプログラムでトップでなくとも平気だったわけですね。
オリンピックにいきたいけど、そんなに簡単じゃないとは思っていました。挑戦者の気持ちで「いけたらラッキー」という感じでした。
―― フリーの演技は覚えていますか?
最初のコンビネーションで、当時誰も組み込んでいなかった大技が決まり、今日は乗っているな、これは上手くいくかもと思いました。1つの作品として滑り切るという思いはまだなく、最後まで集中力をとぎらせず、ピンポイントで大技を決めれば、と演技していました。
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1998年 長野オリンピック
―― 長野本番でのパフォーマンスはいかがでしたか?
すべて目の前に来ることを受け止めるだけで精一杯でした。オリンピックに出られたことだけで満足し、その先の目標を見失ってしまいました。出たかったことは確かですが16歳で経験不足な私にとっては、オリンピックは舞台としても、それに対する注目度も、あまりに大きすぎる感覚でした。
―― オリンピックは、山でいうと登る前と登った後では、どんなことを思われましたか?
登れなかったという印象ですね。今思えば頂上を目指していなかったので、世界と戦うとはどういうことか、どんな準備が必要なのか、何も分かっていませんでした。
―― それでも、オリンピックの後も大会に出ていますよね。
出ていましたね。世界選手権の代表権もいただきました。でも体調も崩し、準備も十分でなく、22位という成績に終わりました。
―― その後は留学されたのですか?
夏休みに短期でアメリカに行きました。留学と呼べるほどのものではありません。
―― 長野の残像を残しながら、なんとなくおぼつかないスケート人生を続けたんですか?
そうですね。私自身はそれをステップとして、もっと段階を踏んで次のオリンピックに向け準備をしようとするスケート連盟の考えとはちょっと違っていて、私はもうこれで満足だ、というような心境でした。
―― 精神的なものなのか、身体のバランスを崩して、今度は大人の演技、パフォーマンスを必要としたのですね。
それはありました。やはり自分自身では表現力の面では技術面より評価が下がってしまう。当時の日本選手は、表現力を評価されておらず、技術面偏重でした。だから日本選手たちは誰も危機感をあまり持っていなかった。同じような技で停滞していたかもしれません。
―― 荒川さんは、インターハイ、国体、冬季アジア大会、ユニバーシアード、なんでも滑っていましたね。
好奇心が強いというかなんでも出てみたい、行ってみたいという感覚ですね。関東選手権とか、大学の試合とか電車に乗っていきました。アイスホッケーの早慶戦の前座に滑ったこともありましたね。
上京して環境が一変
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荒川静香氏(当日のインタビュー風景)
―― それで、高校を卒業されて早稲田大学に自己推薦で行かれますよね。それは長久保先生に行けと薦められたのですか?
いえ、それで先生との関係は当時悪化しました。今は仲が良いですよ(笑)当時、コーチは手元に選手を置いておきたかったようで、宮城県の東北学院大学か東北福祉大学を薦められました。私は、セカンドキャリアを考えて早稲田の進学を希望して願書を出したら、進学も決まった年明けの国体に、長久保先生は来られたのに指導していただけませんでした。急遽、佐野稔先生が見てくださいました。
―― 早稲田の『わ』の字で顔色が変わった。
長久保先生は日大OBなので、日大に籍を置いて仙台でコーチを受ける選択もありました。
―― 法政だったら良かったかもしれませんよ(笑)なぜ、また早稲田だったんですか?
当時スケーターは大学を卒業したら就職するというのが自然な流れでしたので、当然私もそう思っていました。わたしは高校から大学へはスポーツ選手として進めたかと思うのですが、大学卒業時に就職することを考えたら、その可能性を広げる選択肢として早稲田の進学を考えました。大学4年間でスケート選手の活動は終わりだと思っていましたし。卒業したら自立して、一人っ子なのでゆくゆくは両親の面倒を見ていく。大学を早稲田にしたのは、校風が私に合っているかな、ということで選びました。
―― 上京してどこに住んだのですか?
最初は京浜急行の立会川です。母の姉の娘さん、つまり従姉妹の家にお世話になりました。ただ、大学まで遠いので、途中から新丸子に引っ越しました。
―― 練習の拠点は、どこにしたのですか?
新横浜スケートセンターにしました。これまで男性のコーチにしか指導を受けたことがないので、染谷慎二先生のお世話になることになりました。
―― 環境が大きく変わりましたが、スケートの世界観は変わりましたか?
最初の1年間は、生活のリズムを上手く回すのが難しかったですね。学業を優先するとスケートが疎かになるし、その逆もある。それと親のありがたみをつくづく感じました。これまでは洗濯物も籠に入れれば母がやってくれましたからね。2年生になると徐々に要領が分かって来ました。ただ、離ればなれになっている両親に頑張っているのを伝えるためには、スケートで結果を出し、学業でも良い成績を残さないといけない。試行錯誤しましたが、それが、どちらも良い結果に繋がったような気がします。