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「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。

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プロスポーツのカリスマたち
第35回
麗しき女王の軌跡

荒川 静香インタビュー

荒川 静香

オリンピックのフィギュアスケートでアジア選手最初の金メダリストになった荒川静香さん。
16歳で長野オリンピックに出場した早熟の天才スケーターと思われがちだが、実は遅咲きの努力の人だった。

ソルトレイクシティオリンピックの代表から漏れ、アイスショーの世界に転身を夢見るも、“チャンピオン”の称号がなければ、その世界では生きられないと聞き、競技生活を続行、世界選手権優勝、そしてトリノオリンピック金メダルと一気にトップの座に上がった。

現在は日本スケート連盟の要職にも就き、経験を生かして後進の養成にも尽力している。スケートを始めて副会長になるまでの人生を語っていただいた。

聞き手/山本浩 文/白鬚隆幸 構成・写真/フォート・キシモト、荒川静香、USM

 

日本スケート連盟副会長の要職に就く

荒川静香氏(当日のインタビュー風景)

荒川静香氏(当日のインタビュー風景)

―― 現在、日本スケート連盟の副会長になられたそうですが、どんなお仕事をされているんですか?

今は、おもに理事会に出席したり橋本聖子会長が多忙なときは、代わりに業務を行ったりします。私にできることは、これまでの選手として、プロとして、メディアとしてなどの経験を生かし、今の日本スケート界に必要であると思われることを提案したり、問題点を指摘したり、そんな役割だと思います。

―― スケートの世界は、スピード、フィギュア、ショートトラックとジャンルが広くて3部門ですね。お忙しいでしょう。

副会長は2人います。私が副会長就任のお話をいただいたのは妊娠中(2014年11月に出産)で「家庭との両立の中で、副会長という役職が責任を持って務まりきれるかというと…」とお返事したのですが、やれることから経験を積んで、少しでも貢献していければいいかなと、お受けすることにしました。

―― 荒川さんは大型バイクでツーリングされることで有名ですが、最近はぶっ飛ばしていますか?

今は育児が始まり、お休み中です。息抜きというか、まったく違った世界に足を踏み入れたくて始めたのですが、新しい発想も出てくるし、1つの事に集中することで頭がリセットされ、すごく頭に刺激ができると思っています。

男の子だったら龍馬だった

左:幼少期 右:フィギュアをはじめたころ

 左:幼少期 右:フィギュアをはじめたころ

―― それではスケートを始めたころの話をしていきましょう。お生まれは鎌倉ですか?

生まれたのは東京の病院ですが、神奈川県の大船に家がありました。

――“静香”というのは良いお名前ですよね。姓が荒川と動的で、名前が静香と静的で。

父が名付け親なのですが、実は父が男の子の名前しか考えていなくて、母が「女の子の名前を考えてくれないと退院しない」と言ったらしく、それで静しずかごぜん御前から名前をもらったようです。

―― もし男の子だったらなんて名前になっていたのでしょう?

父が辰年で母が午年だったので、“龍馬”という名前になっていたようです(笑)

―― 静香という名前は気にいっているのですか?

まあ、静と動の対照的な名前で面白いな、とも思うのですが、画数が多いので書くのが大変です。

物心付いたのは仙台

―― 東北に移られたのは何歳のときですか?

2歳のときです。父の転勤で仙台に引っ越しました。だから記憶は物心ついたときには仙台でした。

―― ご両親は、どんなお子さんだったと言ってらっしゃいますか?

ともかく活発な子どもだったらしく、歩くことができるようになったら目が離せなかったそうです。

―― スポーツとの出会いは、どうだったのですか?

最初はベビースイミングに通っていました。0歳児ですね。3歳のときに子どもスイミング教室を始めて、5歳のときフィギュアスケートに出会いました。
水泳は4種目泳げますが、得意なのはクロール。スケートを始めたときに、両方本格的な選手コースになると身体がもたないだろうと、スケートを選びました。

―― そうすると、かなり運動能力は発達していたのですね。

とにかく、じっとしていない子どもだったようです。親は「何かスポーツをやらせた方がいいかな?」と。昼間にエネルギーを発散させないとエネルギーが余ってしまうくらい元気な子でした。

―― 水泳もスケートも個人競技です。団体競技には興味を持たれなかったのですか?

小学校にあがったとき、サッカーに興味をもったのですが、小学校のスポーツ少年団から「男の子しか駄目」と言われたので諦めました。今と違って、サッカーは男のスポーツという考えが強かったですね。それとスケートが好きだった理由が、コスチュームのヒラヒラです。フィギュアを選んだのは競泳の水着に比べ、スカートのヒラヒラがかわいかったからです。それとフィギュアは技の種類が多く、新しい技を覚えていくのが楽しかったですね。

中学校に入ってから急激に背が高くなる

―― 子どものころから身長は高かったんですか?

いえ、小学校のころはクラスの真ん中くらいでした。中学校になってから急に身長が伸び、クラスで一番高い方になっていました。

―― 音楽にも関心が高かったようですね。

父がバンドをやっていて音楽好きだったので、家にいろいろな楽器がありました。遊びの中で楽器を楽しんでいましたね。フィギュアスケートが忙しくなるにつれて、楽器で遊ぶことも少なくなってしまいました。フィギュアスケートは、技を覚えるのが楽しくて、表現する喜びというか、音楽にはまったくと言っていいほど、興味がなかったです。家の中で歌ったり踊ったりするのは好きでしたが、人前で1人に視線を注がれたりするシチュエーションが苦手な子どもだったんですよ。

―― 人前で表現するのが嫌いだったのですか?フィギュアスケートをやっていたのに。

人前で何かを表現するのは苦手でしたね。話をするのも苦手でした。家や気心知れた所ではよく喋るのに、典型的なウチ弁慶でした。

―― ということは人前でスケートを演じることも苦手でしたか?

ジャンプをしたり衣装を着るのは好きでしたが、人に演技を見られるという感覚が嫌いでした。特に一人で(笑)

―― すごく主観的にフィギュアスケートをやっていたんですね。

そうですね。私のスケートを見られた方は、笑顔も無く淡々と滑っていたので「この子、本当にフィギュアが好きでやっているんだろうか」と思っていたでしょうね。

1972年 長久保コーチの
札幌オリンピック時の演技

1972年 長久保コーチの 札幌オリンピック時の演技

―― フィギュアのクラブや教室は、何度か変わったのですか?

最初にスケートを始めたのが勝山というリンクです、小学校のときに泉に移りました。そのときに千葉の新松戸から長久保裕先生がいらして、教えていただくことになりました。

―― 長久保先生は、札幌オリンピックのペアに出られた名選手ですよね。山梨県の出身の。教え方は上手でしたか?

まだ、そこまでは分りませんでした。だいたいスケートにはスピード、フィギュア、ホッケーがあるという事も分らないような状態ですから。今のようにテレビの放送もなかったですからね。

―― フィギュアスケートをやめようとか思ったことはなかったですか?

きついこと、苦しいことはありましたが、やめようと思うことはなかったです。家でも怒られることはありましたし、厳しくされることへの抵抗はなかったですね。できないことに対して怒られるのではなくて、他の子達とおしゃべりしていたりという、練習態度が悪いときに怒られました。

―― 当時の新聞を見ますと、ジャンプの練習が中心みたいでしたね。長久保コーチは、ジャンプの練習しかやってないみたいな感じでしたか?

表現力は大人になってからでいいから、とにかくジャンプでしたね。芸術面の指導は皆無でした。「笑え」くらい(笑)

―― 伊藤みどりさんは一回り上ですよね。みどりさんのジャンプはテレビで見ていましたか?

オリンピックはテレビ放送を見ていましたが、みどりさんは別格でした。あれは特別な人が出るもので、自分があそこまでできるとは思っていませんでした。身近に、世界で戦うお手本になる人がいれば意識したのでしょうが、当時は仙台市内で国際レベルで戦っている選手はいませんでしたから。全国や世界で戦うという事が現実的に分かりませんでした。

―― 小学校も上に上がって行くと大人の考えになっていきますね。その時期のフィギュアスケート観はどうでしたか?

すごく狭い世界なので、いつも一緒に練習をしている子と試合に行って勝ったりすると、居心地が悪いのです。2位とか3位だと良いのですが、1位になると居心地が悪くなってしまう。そういう変に気を使うところがありました。勝って上に行きたいという意欲もなかったですし、戦う素晴らしさを知る機会もなかったように思います。

仙台から全国に活躍の場を広げる

―― それで荒川さんが、東北ブロックから飛び出して、全国レベルになるのはいつごろですか?

小学校6年のとき、初めてジュニア選手権に出られる年齢になり、東北・北海道ブロック、東日本、全日本と進むことができました。でも、大会に出られる喜びよりも、大会で長野とか広島、他県に行けるのが旅行のようで嬉しかったです。全日本ジュニアは広島で行われるから、飛行機に乗れて、お好み焼きを食べ、紅葉饅頭をお土産に買って来よう、そんな感覚です。小さな規模でしたが、国際大会にも出場でき、初めて“JAPAN”と国名が付いた憧れのジャージーをもらって、来年も大会に出て、いろんな所に行きたい、そんなモチベーションでスケートをやっていました。

―― 野辺山のジュニア合宿に参加されていますよね。

最初は小学校5年のときです。全国から有望選手を集めて、こんな練習をすると効果的ですよ、と教えてくれました。仙台から本田武史君も行く予定でしたが、彼はおたふく風邪をひいて欠席。長久保先生と2人で車で行きました。あの合宿も楽しかったですね。夜、就寝時間を越えて遅くまで起きていたりして。

―― 荒川副会長から見た、当時の荒川選手は、どんな選手でしたか?

ジャンプを淡々と跳んでいるけれど・・・。やはり技術と芸術の要素を持った総合的な競技なのにも関わらず、残念ながら表現力のない演技でした。

―― 表現力をだそうという気がなかったのですか?

「演技しながら笑いなさい」とよく言われるのですが、なぜ笑わないといけないのか分からなかった。笑うような音楽ではないのに、なぜ笑わないといけないの、っていう感じです。

―― でも長久保先生は、表現力とかは求めていなかったのでしょう。

それが「いい点数をもらうのなら愛想笑いの1つもしろ」と言われて、先生が大げさに見本を見せてくれるのですが、もう鬼瓦が笑っているみたいで。私もこう見えるのかなと思って、逆に笑えない。私は笑っちゃいけないという感じでした。

―― いいですね。小学校のころは、長久保先生とそういう関係だったのですか?獅子舞みたいな感じでしょうね。これは原稿に残ると思いますよ。

怒られますね(苦笑)愛想笑いはなんだか審判の人に媚びを売るような感じがして、それが嫌だったのです。なんで笑顔が必要なのか、と分かったのは20歳でアルバイトをしたときです。

―― アルバイトですか?

ファストフードのアルバイトの研修で、実際に客として他店を訪れたとき、接客を見たのですが、「ああ、このお店にまた来たいな」と思わせる接客と「このお店、味は良いけど二度と来たくない」と思える接客を経験したのです。このときに、確かにフィギュアスケートでも、表情1つで与える印象の違いがあると思えたのです。それが20歳のときでした。

1993年 中学1年で全日本ジュニアに優勝

1993年 中学1年で全日本ジュニアに優勝

―― 中学生のころ、背が伸びてスケートの構成も変わったのですか?

変わりましたね。小学校のときは、ともかくジャンプをメインに力を入れていましたが、中学になって身体が大きくなって重量感が出てきます。ジャンプは難なく跳んだとしても、もっと表現力をつけなければならない。そこで自分に必要な課題も見えてきました。ただし、まだそのころは、世界のトップに行くための目標はなく、オリンピックが現実味を増すこともなかったです。

―― ちょっとここでまとめると、ピョンピョン跳んでいたスケーティングがバランスを考えながら変わって来たのですか?

身体が大きくなると、同じスピードで滑っていてもスピード感がなく見えてしまうのです。体幹の強さやしなやかさを使い分けて見せていく年齢になっていきます。今の自分には何が必要なのか。それを知るには少し時間がかかりましたが。

―― 外から、そういうモチベーションを高められるのは幸せな人生ですね。

そうですね。わたしは褒められると安心してしまい成長を止めてしまうタイプでした。コーチがそんなわたしの性格を見抜いて褒めなかったのも良かったのだと思います。

―― 中学のころ、すでに海外にも行かれていたのですね。それは飛躍のため何かのきっかけになりましたか?

行ってはいましたが、海外に行けるのが楽しくて、成績は中の上くらい。世界ジュニアでは表彰台には乗れませんでした。ただ、高校1年の長野オリンピックには、自国開催という事で出たい、チャレンジしたいという気持ちはありました。

―― 欲があまりなかったのですね。先生だけではなく、地元のメディアも注目し始めていたでしょ。

競技に対する欲はまったくなかったですね。そしてメディアの取材も苦手でした。大人と会話するのが苦手で、どう自己表現していいか分からないので、私をあまり見ないでくださいという感じでしたね。

東北高校に進学、長野オリンピックに出場

1997年 全日本選手権で優勝し長野オリンピックの出場権を獲得

1997年 全日本選手権で優勝し長野オリンピックの出場権を獲得

―― 高校は東北高校に進まれたのですね。

東北高校を選んだのは、コーチが薦めてくださったからです。私自身は制服がかわいい仙台育英がいいかな、とも思ったのですが、東北はスケートリンクまで送迎バスがあり、授業が終わるとすぐにリンクに行き、夜10時ごろまでびっしり練習ができる。練習が長時間で大変でしたが、仲間と一緒にリンクまで行けるのが楽しくて、それが一番よかったですね。中学の時はスケート部がなく、全生徒が部活に入らなければならなかったので弓道部に入りました。ところが“全国中学生大会”で優勝したら「荒川さんは部活に出なくていいから早くスケートリンクへ行きなさい」と言われ帰宅部になってしまいました。一人っ子なので友だちとのおしゃべりが楽しみだったのに。ところが高校に入ったら、スケート部の人たちと色々な話をしながら、バスで一緒にリンクに行けました。それが楽しい思い出です。

―― 練習の環境も劇的には変っていないんですね。

変わっていないですね。練習量が増えたくらいで。ともかく同じ年ごろの人たちと過ごせたのは良かったと思います。

―― でも高校に入ると、自分の世界を広げて荒川静香の流れも変わっていったのではないですか?

オリンピックや、高校生で国際大会を目指す競技は他になく、インターハイや国内大会を目指している同級生と少し温度差があったように思います。スポーツをやっている友人とも、海外遠征から帰って来ると、なにかヨソヨソしい感じになってしまう。

―― アスリートとしての生き方、考え方はいかがでしたか?

長野オリンピックに高校1年のときに出場させていただき、ある程度自分自身で満足してしまいました。出場する事を目標にしていたせいか、16歳の若さで集大成というか、それ以上目指す事にはならなかった。ただ、出場するだけが目標だったので、本大会の成績は13位でしたが、新聞には“惨敗”の文字が。当時のフィギュア日本選手団の中では、それでも最高位だったのですが…。

―― 長野の代表を決める全日本選手権はショートプログラムは1位ではなくフリーで逆転でしたね。

シニアになった最初のシーズンで、ともかくオリンピックにチャレンジしたい気持ちと、若いから出られなくてもという気持ちと、まだ気楽に滑れる年齢だったのも良かったんだと思います。

―― そうするとショートプログラムでトップでなくとも平気だったわけですね。

オリンピックにいきたいけど、そんなに簡単じゃないとは思っていました。挑戦者の気持ちで「いけたらラッキー」という感じでした。

―― フリーの演技は覚えていますか?

最初のコンビネーションで、当時誰も組み込んでいなかった大技が決まり、今日は乗っているな、これは上手くいくかもと思いました。1つの作品として滑り切るという思いはまだなく、最後まで集中力をとぎらせず、ピンポイントで大技を決めれば、と演技していました。

1998年 長野オリンピック

1998年 長野オリンピック

―― 長野本番でのパフォーマンスはいかがでしたか?

すべて目の前に来ることを受け止めるだけで精一杯でした。オリンピックに出られたことだけで満足し、その先の目標を見失ってしまいました。出たかったことは確かですが16歳で経験不足な私にとっては、オリンピックは舞台としても、それに対する注目度も、あまりに大きすぎる感覚でした。

―― オリンピックは、山でいうと登る前と登った後では、どんなことを思われましたか?

登れなかったという印象ですね。今思えば頂上を目指していなかったので、世界と戦うとはどういうことか、どんな準備が必要なのか、何も分かっていませんでした。

―― それでも、オリンピックの後も大会に出ていますよね。

出ていましたね。世界選手権の代表権もいただきました。でも体調も崩し、準備も十分でなく、22位という成績に終わりました。

―― その後は留学されたのですか?

夏休みに短期でアメリカに行きました。留学と呼べるほどのものではありません。

―― 長野の残像を残しながら、なんとなくおぼつかないスケート人生を続けたんですか?

そうですね。私自身はそれをステップとして、もっと段階を踏んで次のオリンピックに向け準備をしようとするスケート連盟の考えとはちょっと違っていて、私はもうこれで満足だ、というような心境でした。

―― 精神的なものなのか、身体のバランスを崩して、今度は大人の演技、パフォーマンスを必要としたのですね。

それはありました。やはり自分自身では表現力の面では技術面より評価が下がってしまう。当時の日本選手は、表現力を評価されておらず、技術面偏重でした。だから日本選手たちは誰も危機感をあまり持っていなかった。同じような技で停滞していたかもしれません。

―― 荒川さんは、インターハイ、国体、冬季アジア大会、ユニバーシアード、なんでも滑っていましたね。

好奇心が強いというかなんでも出てみたい、行ってみたいという感覚ですね。関東選手権とか、大学の試合とか電車に乗っていきました。アイスホッケーの早慶戦の前座に滑ったこともありましたね。

上京して環境が一変

荒川静香氏(当日のインタビュー風景)

荒川静香氏(当日のインタビュー風景)

―― それで、高校を卒業されて早稲田大学に自己推薦で行かれますよね。それは長久保先生に行けと薦められたのですか?

いえ、それで先生との関係は当時悪化しました。今は仲が良いですよ(笑)当時、コーチは手元に選手を置いておきたかったようで、宮城県の東北学院大学か東北福祉大学を薦められました。私は、セカンドキャリアを考えて早稲田の進学を希望して願書を出したら、進学も決まった年明けの国体に、長久保先生は来られたのに指導していただけませんでした。急遽、佐野稔先生が見てくださいました。

―― 早稲田の『わ』の字で顔色が変わった。

長久保先生は日大OBなので、日大に籍を置いて仙台でコーチを受ける選択もありました。

―― 法政だったら良かったかもしれませんよ(笑)なぜ、また早稲田だったんですか?

当時スケーターは大学を卒業したら就職するというのが自然な流れでしたので、当然私もそう思っていました。わたしは高校から大学へはスポーツ選手として進めたかと思うのですが、大学卒業時に就職することを考えたら、その可能性を広げる選択肢として早稲田の進学を考えました。大学4年間でスケート選手の活動は終わりだと思っていましたし。卒業したら自立して、一人っ子なのでゆくゆくは両親の面倒を見ていく。大学を早稲田にしたのは、校風が私に合っているかな、ということで選びました。

―― 上京してどこに住んだのですか?

最初は京浜急行の立会川です。母の姉の娘さん、つまり従姉妹の家にお世話になりました。ただ、大学まで遠いので、途中から新丸子に引っ越しました。

―― 練習の拠点は、どこにしたのですか?

新横浜スケートセンターにしました。これまで男性のコーチにしか指導を受けたことがないので、染谷慎二先生のお世話になることになりました。

―― 環境が大きく変わりましたが、スケートの世界観は変わりましたか?

最初の1年間は、生活のリズムを上手く回すのが難しかったですね。学業を優先するとスケートが(おろそ)かになるし、その逆もある。それと親のありがたみをつくづく感じました。これまでは洗濯物も籠に入れれば母がやってくれましたからね。2年生になると徐々に要領が分かって来ました。ただ、離ればなれになっている両親に頑張っているのを伝えるためには、スケートで結果を出し、学業でも良い成績を残さないといけない。試行錯誤しましたが、それが、どちらも良い結果に繋がったような気がします。

ソルトレイクシティオリンピックで代表から漏れる

2002年 NHK杯

2002年 NHK杯

―― 長野の4年後といえばソルトレイクシティオリンピックですが。

ソルトレイクに対しては、東京に進学を決めた時に、目標から外れました。年齢的には20歳でオリンピックですから、ちょうど良い時ではありましたが、一度出ているからいいかなと、どこかで思ってしまう自分がいて…。その後は学業と就活に力を入れようと決めていました。しかし、長年続けた競技としては自分の中では有終の美を飾りたいと思っていました。

―― 体調は良かったのですか? 一部の新聞は股関節が悪いと書いてありましたが。

そんなに調子は悪くなかったと思います。選手生活をしていますと、どこも悪くないときなんてなかったと思います。

―― それからスケートのリズムとか、個人でやって来た要素とかは変化していなかったのですか?

スケートと学業の両立、そこに向き合っていました。このころからコーチに言われた練習をするよりは、自発的に練習するようになってきました。早い話がスケートが面白くなってきたんです。これまでは、与えられたメニューを淡々とこなすスケートでしたが、このころからは自分で考えながら練習して結果にも反映されるようになってきました。

―― ソルトレイクの代表は2枠でしたが、まず恩田美栄さんが内定したんですね。

恩田さんがグランプリシリーズのポイントで内定。全日本選手権では優勝者のみがオリンピック代表に選ばれることになりました。

―― 全日本は村主章枝さんが優勝して代表になりました。結果、荒川さんは代表から漏れました。

長野に出たかったけど出られなかった選手の4年間、そこをどう過ごすかが結果となって出た全日本でした。ソルトレイクのとき、私はテレビでオリンピックを見ていましたが、もう心の中でオリンピックへの想いは皆無になっていました。だからトリノは、次の世代の選手が出るものと思っていました。私は競技者ではなく社会人として迎えるオリンピックになる年齢でしたから。

―― そうするとソルトレイクあとの大会は余韻みたいなものですか?

結果とか効果とか、面白くなったシーズンでした。学業も面白くなったのですが、スケートも面白くなってきて、両親に「もう1シーズンだけスケートをやらせてください」とお願いしました。オリンピックには出られませんでしたが、どんな試合もそこに向けて取り組んでいくプロセスが面白くなっていたように思います。

―― コンスタントに試合に出ていて、面白くなってきたんですね。

自分でスケートをするにあたって、どこまでできるのか、限界を見てみたい、そこを目指してみたいと思いました。スケートをやっていて初めての感情です。大学3年で目覚めて、大学4年も同じように滑りました。

アイスショーをみてモチベーションを上げる

2003年メダリストオンアイス

2003年 メダリストオンアイス

―― そのころ、アメリカでアイスショーを見たのですね。

そうです。競技で得点を争うのではなくエンターテイメントとして見せるショーがあると知って、こんなに素晴らしい世界があるんだ、私もやってみたいと思いました。ところが、なんらかの世界タイトルを持っていないと呼んでもらえない世界。それで初めて世界選手権でのタイトルを取りたいと思ったのです。

―― ずいぶん後になってからですね。

そうですね。ソルトレイクの翌年の世界選手権も出場しましたが8位でしたから、ショーには呼ばれるようなレベルではないことを考えると、できれば世界のトップを目指したいと初めて思うようになりました。もちろん並行して就職活動もしていました。

―― そこで早稲田を卒業される訳ですが卒論のテーマは?

“メディアとスポーツに関する考察”です。

―― 今度見せてくれませんか?

大学の教授のところにあると思います。

―― 世界選手権に優勝するための戦略はどんなものだったのですか?

すべて自分の持っているものを出し尽くさないと取れるものではないと思いました。とにかく自分を追い込みました。シーズン途中、結果のでないときもありましたが、技術的なレベルも上げ、表現力を磨き、感性、人に伝える表現する部分でタチアナ・タラソワさんの指導を受け、プラスマイナスゼロくらいまでいったかな?!それが大きな力になりました。

トリノオリンピックで金メダルを獲得

2006年 金メダルを獲ったトリノオリンピックでの演技

2006年 金メダルを獲ったトリノオリンピックでの演技

―― それで世界チャンピオンになり、どうしてトリノまで現役を続行したのですか?

周りの人たちが「次はトリノでメダルだね」と言い出したのです。マネージメントをお願いしていたエージェントの社長さんも、「トリノまでやった方が良い。もったいない」と言い出して。もう皆から背中を押されて辞める訳にいかなくなったのです。ただ、トリノまでは2年あるし、得点やルールが翌年から変わることもあり、その対策も必要でした。

―― トリノオリンピック代表を選ぶ全日本選手権は、どのような戦略でしたか?

長野の失敗を生かして、オリンピック本番にピークをもっていくことを考えました。私は代表権さえ取れれば全日本は何位でも良かった。

―― トリノ直前に、プログラムを大幅な変更をしましたね。あれは非常識な変更ではなかったですか?

今だったら「やめたほうがよい」って言われますね。オリンピック直前に本番のリンクを使って合宿をやったのですが、演技してみると音楽が会場の雰囲気に合わないような気がして。そこでショートプログラムを『幻想即興曲』に、フリーを『トゥーランドット』に変更しました。構成はほぼ変えずに曲と振付けのニュアンスを変えたマイナーチェンジでしたが、かなりの冒険でした。でも、それが優勝につながりました。

―― 演技内容については、どうでしたか?

公式練習のとき、マックスの技を見せてライバルを牽制しました。実際に試合でやるかは別として、トリプル、トリプルのコンビネーションを何種類もやって、調子の良さを見せておいて、相手に余裕を与えないというか。あの当時は回転不足の減点が厳しい時代でしたから。

―― ショートプログラムで荒川さん、サーシャ・コーエン(アメリカ)、イリナ・スルツカヤ(ロシア)の3人が66点台で並びましたね。

そうなんです。わたしは3位でしたが、気が楽でした。66点台で3人並び、4位以下に5点差が開いていたので、ほぼこの3人でメダル争いになる。あとはフリーでメダルの色が変わるであろう中で、私は3位で追う立場。

―― そのフリーの演技は、どこで勝負をかけたのですか?

最初の2つのジャンプが終わった時点で気持ちが楽になりました。前に滑ったコーエン選手が何らかのミスをしていたことを得点から悟っていたので、大きなミスをしなければ銀は確実だなと確信しましたが、最後の決めのポーズまで気を抜かずに演技しました。これまでは最後に失敗して痛い目にもあっていたので、なおさらです。ステップシークエンス、イナバウアーのあたりはルールに気持ちを縛られず、想いを込めて滑る事ができました。

―― 演技が終わって花束がいっぱい飛んで来た時の気分はどうでしたか?

もう感謝の気持ちで一杯でした。オリンピックに辿り着き、滑り終えられたこと。チャレンジしないでプロスケーターの道もあったのに、たくさんの人たちから背中をプッシュされて立てた舞台でした。本当に穏やかな気持ちで滑ることができました。

―― めくるめく人生。7万人を越す人がパレードにも集まったのですね。オリンピックが終わってすぐに次のスタートは切れたのですか?

気持ちの上ではオリンピックを終え、すぐにプロ転向を決めていました。引退を表明するタイミングは、プロとして一歩を踏み出す準備が整ったところでと思い、5月になりました。

―― 寂しさみたいなものはなかったですか?それはなかったですね。

もし寂しさがあったら引退しなかったと思います。私はプロスケーターを目標に世界選手権で優勝して、オリンピックで金メダルを取ったのです。その新しいドアを開けようとしました。

新しい世界を開拓する

2010年 ジャパンオープンのエキシビジョン

2010年 ジャパンオープンのエキシビジョン

―― プロといってもフィギュアの世界はアマチュアとの世界が曖昧ですよね。

自分のキャリアのために主体的にやってきたスケートと、仕事として、観る方のために滑るスケート、その責任感みたいな感覚の違いはあると思います。プロはお金を払って来てくださるお客様を満足させないといけませんからね。心身の調子が悪いとか、そんなことは許されない。

―― 2011年の東日本大震災の際は、すぐに被災地に行かれましたね。

何か自分に出来ることはないかと考えたとき、じっとしてはいられませんでした。被害を受けた方の立ち上がろうとする強さなど、逆にこちらがエネルギーを頂いてしまうことが多いです。

2014年 全日本選手権で副会長として表彰式に臨む

2014年 全日本選手権で副会長として表彰式に臨む

―― 2020年は、どんなふうに関わられますか?

東京オリピックが成功するだけではなく、東日本の復興があってこそ東京オリンピックの成功があると思います。復興なくしてオリンピックの成功はないと思っています。そのために自分ができることを模索していきたいと思います。

―― アスリート目線で2020年に貢献できることもありますね。

オリンピックを通じて、スポーツ、物事と向き合う大切さを伝えられたらと思います。スポーツは心身を鍛える事を通じて、人生を豊かにする大切なことであると考えています。

―― 荒川さんは長野でオリンピックに出場して、1回お休みしてトリノで金メダルを獲っていらっしゃる。ある意味、理想型ですよね。

理想型ですか? 紆余曲折しながらも、子どものとき見た夢を実現した部分もあるので子どもたちにその中で感じたり、学んだ経験を伝えていきたいと思います。オリンピックは頂点を取るだけが素晴らしいのではなく、目標に向かって努力することが大切。そうしたプロセスもオリンピックの意義であると思います。

―― プロフェッショナルのアスリートというのは、自分の体験を、パフォーマンスと同時に言葉で伝えていく重要な使命を持つわけですが、まさに荒川さんのお話を聞くと送って来た人生を山と谷を言葉で表現しながら子どもたちに伝えていく、そしてアスリートとして力になれることにあると思います。どうもありがとうございました。

  • 荒川静香氏 略歴
  • 世相

1892
明治25

国際スケート連盟(ISU)が発足

1896
明治29

フィギュアスケートの世界選手権がスタート

1908
明治41

ロンドンオリンピックにて、初めてフィギュアスケートが行われ、男女シングルとペアが種目となる このころは夏季大会での種目であった

1912
明治45

ストックホルムオリンピック開催(夏季)
日本から金栗四三氏が男子マラソン、三島弥彦氏が男子100m、200mに初参加

1916
大正5

第一次世界大戦でオリンピック中止

1920
大正9

アントワープオリンピック開催(夏季)
熊谷一弥氏、テニスのシングルスで銀メダル、熊谷一弥氏、柏尾誠一郎氏、テニスのダブルスで 銀メダルを獲得

フィギュアスケート愛好者たちにより日本スケート会が結成

1924
大正13
パリオリンピック開催(夏季)

織田幹雄氏、男子三段跳で全競技を通じて日本人初の入賞となる6位となる
内藤克俊氏、レスリングで銅メダル獲得

スピードスケート、フィギュアスケート、アイスホッケーの全体的発展を目指して、全国学生氷上競技連盟が結成。シャモニーオリンピックでスピードスケート、フィギュアスケートの男女シングルとペアが、冬季大会にて正式種目として採用

1928
昭和3
アムステルダムオリンピック開催(夏季)
日本女子初参加
織田幹雄氏、男子三段跳で全競技を通じて日本人初の金メダルを獲得
人見絹枝氏、女子800mで全競技を通じて日本人女子初の銀メダルを獲得
サンモリッツオリンピック開催(冬季)
1932
昭和7
ロサンゼルスオリンピック開催(夏季)
南部忠平氏、男子三段跳で世界新記録を樹立し、金メダル獲得
レークプラシッドオリンピック開催(冬季)
1936
昭和11
ベルリンオリンピック開催(夏季)
田島直人氏、男子三段跳で世界新記録を樹立し、金メダル獲得
織田幹雄氏、南部忠平氏に続く日本人選手の同種目3連覇となる
ガルミッシュ・パルテンキルヘンオリンピック開催(冬季)

1940
昭和15
第二次世界大戦でオリンピック中止

1944
昭和19
第二次世界大戦でオリンピック中止

  • 1945第二次世界大戦が終戦
  • 1947日本国憲法が施行
1948
昭和23
ロンドンオリンピック開催(夏季)*日本は敗戦により不参加
サンモリッツオリンピック開催(冬季)

  • 1950朝鮮戦争が勃発
1951
昭和26
スピード・フィギュア共に戦後初めて世界選手権に参加し、内藤晋氏が500mで優勝

  • 1951日米安全保障条約を締結
1952
昭和27
ヘルシンキオリンピック開催(夏季)
オスロオリンピック開催(冬季)

  • 1955日本の高度経済成長の開始
1956
昭和31
メルボルンオリンピック開催(夏季)
コルチナ・ダンペッツォオリンピック開催(冬季)
猪谷千春氏、スキー回転で銀メダル獲得(冬季大会で日本人初のメダリストとなる)

1959
昭和34
1964年東京オリンピック開催決定

1960
昭和35
ローマオリンピック開催(夏季)
スコーバレーオリンピック開催(冬季)

ローマで第9回国際ストーク・マンデビル競技大会が開催
(のちに、第1回パラリンピックとして位置づけられる)
1962
昭和37
フィギュアで冬季ユニバーシアード大会に初参加し、平松純子氏が優勝、佐藤信夫氏が2位を獲得
1964
昭和39
東京オリンピック・パラリンピック開催(夏季)
円谷幸吉氏、男子マラソンで銅メダル獲得
インスブルックオリンピック開催(冬季)

  • 1964東海道新幹線が開業
1968
昭和43
メキシコオリンピック開催(夏季)
テルアビブパラリンピック開催(夏季)
グルノーブルオリンピック開催(冬季)

1969
昭和44
日本陸上競技連盟の青木半治理事長が、日本体育協会の専務理事、日本オリンピック委員会(JOC)の委員長に就任

  • 1969アポロ11号が人類初の月面有人着陸
1972
昭和47
ミュンヘンオリンピック開催(夏季)
ハイデルベルクパラリンピック開催(夏季)
札幌オリンピック開催(冬季)

  • 1973オイルショックが始まる
1976
昭和51
モントリオールオリンピック開催(夏季)
トロントパラリンピック開催(夏季)
インスブルックオリンピック開催(冬季)
 
  • 1976ロッキード事件が表面化
1977
昭和52
世界フィギュア選手権を東京にて開催。佐野稔氏、日本選手初の3位となる
 
  • 1976ロッキード事件が表面化
1978
昭和53
8カ国陸上(アメリカ・ソ連・西ドイツ・イギリス・フランス・イタリア・ポーランド・日本)開催  
 
  • 1978日中平和友好条約を調印
1979
昭和54
渡部絵美氏、世界フィギュア選手権にて日本女子初の3位となる
1980
昭和55
モスクワオリンピック開催(夏季)、日本はボイコット
アーネムパラリンピック開催(夏季)
レークプラシッドオリンピック開催(冬季)
ヤイロパラリンピック開催(冬季) 冬季大会への日本人初参加

  • 1981荒川静香氏、東京都に生まれる
  • 1982東北、上越新幹線が開業
1984
昭和59
ロサンゼルスオリンピック開催(夏季)
ニューヨーク/ストーク・マンデビルパラリンピック開催(夏季)
サラエボオリンピック開催(冬季)
インスブルックパラリンピック開催(冬季)

1988
昭和63
ソウルオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
鈴木大地 競泳金メダル獲得
カルガリーオリンピック開催(冬季)
インスブルックパラリンピック開催(冬季)
伊藤みどり氏、女子選手として初めてトリプルアクセルに成功
1992
平成4
バルセロナオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
有森裕子氏、女子マラソンにて日本女子陸上選手64年ぶりの銀メダル獲得
アルベールビルオリンピック開催(冬季)
ティーユ/アルベールビルパラリンピック開催(冬季)
伊藤みどり氏、アルベールビルオリンピック・ 女子シングルにて銀メダル獲得
1994
平成6
リレハンメルオリンピック・パラリンピック開催(冬季)
佐藤有香氏、世界フィギュア選手権・ 女子シングルにて優勝

  • 1994荒川静香氏、初めての国際大会(トリグラフトロフィー)へ出場
    荒川静香氏、全日本ジュニアフィギュア選手権にて優勝
  • 1995荒川静香氏、全日本ジュニアフィギュア選手権にて2連覇を果たす
  • 1995阪神・淡路大震災が発生
1996
平成8
アトランタオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
有森裕子氏、女子マラソンにて銅メダル獲得

  • 1996荒川静香氏、全日本ジュニアフィギュア 選手権にて3連覇を果たす
  • 1997荒川静香氏、ジュニアからシニアへ移行
  • 1997香港が中国に返還される
1998
平成10
長野オリンピック・パラリンピック開催(冬季)

  • 1998荒川静香氏、長野オリンピックに出場し、総合13位となる
2000
平成12
シドニーオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
高橋尚子氏、女子マラソンにて金メダル獲得

2002
平成14
ソルトレークシティオリンピック・パラリンピック開催(冬季)
本田武史氏、世界選手権にて銅メダル獲得。安藤美姫氏、ジュニアグランプリファイナルにて、ISU公式大会で女子選手として史上初の4回転ジャンプに成功
2003
平成15
本田武史氏、世界選手権にて2大会連続の銅メダル獲得

  • 2003荒川静香氏、ユニバーシアード冬季大会、冬季アジア競技大会にて立て続けに優勝
2004
平成16
アテネオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
野口みずき氏、女子マラソンにて金メダル獲得
伊藤みどり氏、世界フィギュアスケート殿堂入りを果たす

  • 2004荒川静香氏、世界選手権にて優勝
2006
平成18
トリノオリンピック・パラリンピック開催(冬季)
平松純子氏、フィギュア委員長に就任

  • 2006荒川静香氏、トリノオリンピックにてアジアで初の金メダル獲得
    流行語大賞に「イナバウアー」が選ばれる
    荒川静香氏、5月にプロ宣言をし、本人プロデュースのアイスショー「フレンズオンアイス」、国内及び海外のアイスショーを中心に活動を始める
2007
平成19
第1回東京マラソン開催

2008
平成20
北京オリンピック・パラリンピック開催(夏季)
男子4×100mリレーで日本(塚原直貴氏、末續慎吾氏、高平慎士氏、朝原宣治氏)が3位となり、男子トラック種目初のオリンピック銅メダル獲得

  • 2008リーマンショックが起こる
2010
平成22
バンクーバーオリンピック・パラリンピック開催(冬季)
佐藤信夫氏、世界フィギュアスケート殿堂入りを果たす
高橋大輔氏、バンクーバーオリンピックにて日本男子シングル初となる銅メダル獲得
浅田真央氏、バンクーバーオリンピックにて女子では史上初となる、ショートプログラムとフリーで計3度のトリプルアクセルに成功し銀メダル獲得
2011
平成23
世界フィギュア選手権、東日本大震災の影響により、東京での開催が中止となり急遽ロシアでの開催となる。安藤美姫氏が2連覇し、小塚崇彦氏が2位となる
ブランドン・ムロズ(米)が4回転ルッツに成功

  • 2011東日本大震災が発生
2012
平成24
ロンドンオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
2020年に東京オリンピック・パラリンピック開催決定

  • 2012荒川静香氏、日本スケート連盟評議員会で史上最年少の30歳で日本スケート連盟 理事に選任
    荒川静香氏、プロアマ混合の国際大会、第1回メダルウィナーズ・オープンで優勝し初代女王となる
2013
平成25
2020年に東京オリンピック・パラリンピック開催決定

2014
平成26
ソチオリンピック・パラリンピック開催(冬季)
羽生結弦氏、ソチオリンピックにて 日本男子シングル初となる金メダル獲得

  • 2014荒川静香氏、日本スケート連盟役員改選にて史上最年少の32歳で日本スケート連盟副会長に選任
2016
平成28
リオデジャネイロオリンピック・パラリンピック開催(夏季)

2018
平成30
平昌オリンピック・パラリンピック開催(冬季)

2020
令和2
新型コロナウイルス感染症の世界的流行により、東京オリンピック・パラリンピックの開催が2021年に延期
2021
令和3
東京オリンピック・パラリンピック開催(夏季)