高校に通うも中退。それから相撲に専念
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左肩脱臼をテーピングでカバーして
出場した幕下時代の九重貢
―― 最初、中学を卒業した後、一度北海道に帰ろうとしたのですか?
そう、そういう約束事があって。それで、いろいろな方に相談したのですが、せっかくだから相撲を続けて東京の高校に進むことにしたらどうか、ということになった。
―― それで明大中野高校に進学したのですね。
大相撲に理解のある学校だったけど、昼間の時間帯の授業だったから、朝早く起きて稽古して、学生服に着替えて電車で通学して帰ってきて勉強。そしてまた相撲の稽古や弟子としての仕事もしなきゃいけないから大変でした。これは二足の草鞋は履けないな、と思い、親方に「相撲に専念したい」といったら大喜びですよ。もっと早く決断していてくれたら苦労もなかったのに、とそんな感じでした。まあ、それで相撲一本でやっていくのだと腹が決まりましたよ。
―― 話は戻りますが、当時の新弟子検査は、どんなものでしたか?
身長170cm、体重70kgが合格ラインでした。でも。今みたいに厳密じゃなくてね。身長は178cmくらいあったけど、体重は70kgなかった。それで1週間後に再検査があって、朝から目いっぱいご飯を食べていったのだけど、どうしても70kgま でいかない。体重計に乗ったら、やはり70までいかない。検査役の親方が、「1回降りて、もう一度乗れ」と言われて乗りなおすと、なんと70kgを越していた。親方の足も体重計に乗っているのですよ。それで合格でしたね。
―― わたしの記憶では、千代の山という力士は、大きいのだけど華奢な感じがしましたね。あまり器用ではなかったような印象でしたが、師匠としては、どんな感じの親方でしたか?
やさしい親方でしたね。あまり怒られた印象がないです。
―― 教えてもらって記憶に残っていることはありますか?
あまり覚えていないですね。「とにかく相撲は人に聞いてやるものじゃない。みんな同じようなことをやるのだから、同じようなことをやっていてもダメだ」とは言われましたね。それと「部屋付きの親方から受けたアドバイスは聞きなさい」とは言われましたね。
―― 新弟子のころ、股割をさせられると、痛くて泣く子がいるといいますが、本当なのですか?
そりゃね、スポーツをやっている子どもとやってない 子どもじゃ違いますね。わたしも最初は、股割は大変でした。
―― それで、いよいよ相撲に本腰を入れていくわけですが、辞めたいと思ったことはありませんか?
どんなことがあっても辞められない、と思いましたよ。ケガは再三しましたが、その都度、「もうダメかな」とも思いましたが、心が弱いから番付けが落ちるのだ、と思っていました。ケガをして番付が落ちるのは仕方がないとは思っていましたけどね。
出世はするものの ケガとの戦いだった
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「やっぱり、大銀杏結って相撲を取るのは気分いいね」
十両にカムバックした九重貢
―― 初土俵のことは覚えていますか?
初日は黒星スタートでしたが、教えてもらったことを きちんとやったら5連勝。最後負けたけど5勝2敗でしたね。それが序ノ口の成績でした。
―― 5勝2敗は立派な成績ですね。たしか四股名は「大秋元」でしたね。
入門してすぐ、親方から「とうぶん本名でいこう」って言われたのですが、他の部屋に「秋元」という力士がいて、小さいより大き いほうがいいだろうと「大秋元」になりました。
―― しかし、大秋元という四股名は、そんなに長くはなかったですね。
そう、2場所かな。親方が「大秋元改め千代の富士だ」と四股名を決めてくれたのですよ。
―― それは、千代の山と北の富士を合わせてつけてくれたのですか?
後から、そう聞きました。期待されていたのだね。 親方も見る目があったね(笑)
―― その当時は、どんな取り口でしたか?
親方がつっぱり相撲だったからね。まずは、つっぱって自分の形に持ち込んで、という相撲でした。
―― 親方の得意技は投げ、という印象が強いのですが。
当然番付により、相手によりでしたね。ケガをしないということもありましたが、前ミツを取って潜りこんでいき食らいつくという型でしたね。
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新横綱で故郷に錦も、左足に包帯して 土俵入りした九重貢(北海道・福島町)
―― 肩の脱臼に苦しまれたと思うのですが、それはいつごろからですか?
3段目のころからですね。そのころ、脱臼してからクセになっちゃった。最初にはずれたとき に自分で入れられたので病院に行かなかったのですよ。それがいけなかった。
―― それが生まれて初めての脱臼ですか?
そうです。
―― ショックではなかったですか?
何がなんだか分からなかったですね。左の肩なのですが。
―― ケガのあとは休んだのですか?
休んだこともありましたね。突っ張っていって、相手 に腕をたぐられると外れてしまう。その後、筋肉の 断裂とか、いろいろケガをしましたよ。一番最初は 足首の捻挫なのですが、骨折もあって3段目で脱臼ですよ。
―― そうすると若いときは、ほんとうにケガとの戦いだったのですね。
そうですね。まあ、小さな身体で大きな相撲を取っていたからね。
―― 当時も新聞で、千代の富士の名前が最初に出てくるのが、幕下優勝でしたね。7戦全勝でした。
当時、NHKの大相撲放送で「幕下のホープ」というコーナーがあって、そこで取り上げていない力士で優勝したのは、わたしが初めてだったらしいよ。まあ、それだけ期待もされていなかったのでしょうね。
―― 何か幕下優勝に結び付いたエピソードはあったのですか?
別になかったですよ。毎場所納得のいく相撲をとれて、最後は十両の力士とどう取るか、と考えていました。そうすればチャンスが出てくると思ってね。負けたら反省して。
―― 力士になった以上、関取になるというのは 大きな目標ですよね。
そりゃ、そこまでやってきて、いろいろと苦労はあったけども、関取になった瞬間に、いっぺんに気分が晴れました。もう「やった!」という感じで した。同時に「これからが本番 だ」と心をいれかえましたよ。
―― 待遇も違うし、生活も一変しますよね。
それまでやってきたことや言われていたことがすべて生きてく るのだよね。ああ、これなのだと。頑張ってやってきたことが、 すぐに報われたという感じでした。
―― どうですか。関取になる と相撲の取り口も変わるのではないですか?
それは、全く変わりませんでしたよ。それまでやってきたことを詰めなおして、磨き上げて行くのだという気持ちでした。
練習の鬼、ウルフ(狼)の愛称。 そして三賞の常連に
―― 関取になった当時の新聞を見ると、千代の 富士の稽古量は半端でないと書かれています。
まあ、身体が小さかったからね。それくらい稽古しないと。くっついたら離れないという相撲ですから ね。それでも大きな相撲をとっていたね。やっぱり投げで勝つとうれしいのですよ。それも練習量が 増えた1つの理由でしたね。
―― 関取に上がったころ、新聞に身長180cm、 体重100kgと書かれていましたが。
100kgなんて届いてないですよ。大関に上がったころでも100kgはなかったですよ。
―― ということは、常に身体を大きくすることが課題であったわけですね。
それは、当然思っていましたよ。身体が大きくなれるという稽古もしてきましたが、なかなか大きくなれなかった。やっぱり食べても太れない時期もあったし、余裕がある時期もなかったですね。
―― 幕の内に上がってからは、三賞に千代の富士の名前が度々登場してきますね。
これはね、三賞というものが相撲を取るうえで大きな目標になりました。最初に受賞した時は9番勝ってもらうのだけども、大きな自信になりましたね。それからは、相撲を丁寧に取るように心がけました。賞に恥じない相撲ということです。4場所連続で技能賞を取ったこともあります。2桁に届かな いときでも受賞したこともありましたが。
―― 親方自身では、殊勲、敢闘、技能のうちで、一番自分にふさわしいのは何賞でしたか?
やはり技能賞でしょうね。それぞれの力士に賞に値する技能というのがあると思うのです。もちろん、その他の賞にも同等の価値はあります。殊勲賞は、何人横綱を倒したか、ということもありますしね。
―― それで、いよいよ千代の富士も三役に上がっていくわけですが、そのころのライバルというと誰ですか?
それは難しいところですね。あまり上の人を思ってもいけないし、無理なく勝てる人であってもいけないし。自分がどれだけ自分の相撲を取れるかという問題でもあるし。
―― 親方が三役に上がるころは、横綱をはじめ力のある、味のある力士が多かったですね。
力のある、味のある力士が多かったですね。 北の湖、2代目若乃花、増位山、いろんな人がいましたからね。
―― 輪島もいたし、先代の貴乃花もいましたね。
誰も個性的で、よい相撲取りでしたね。そこへ割って入っていくのは大変でした。逆に、相撲を取るのも楽しみでしたね。
―― 昭和56(1981)年初場所、関脇での幕の内初優勝のお話をうかがえますか?
思うがままに取っていたね。次の日の新聞に何が書かれるか、見るのが楽しみでした。そんな毎日でしたね。
―― その関脇時代、自分のどんなところがよかったですか?
やはり相撲の内容でしょう。立ち合いで早く立って、いい形になり、前まわしを取って素早く攻め込む。もう、相手に何もやらせない。秒殺ですね。
―― 短い相撲ですね。
早い短い相撲で体力を温存。変化で逃げるのでなくて、真向に攻め込んでね。それで懸賞金を ガッポリもらって(笑)次の日のスポーツ紙をみれ ば1面でね。優勝のマジックなんて出ましたものね。場所前から、やるべきことがしっかりできていたからこそ、充実した日々も送れた。マスコミの方 もよく書いてくれたと思います。もう期待度もすごかったです。それを力にかえることもできた。
―― あのころの千代の富士のマスコミ対応をみると、実に上手かったですね。
力士は、本当はしゃべるのですよ。NHKが悪いのではないですか(笑)
―― それこそ記者が書きたくなるような、そして デスクが削りたくならないようなコメントが千代の 富士の口から出ていました。
それは、もうサービス精神ですよ(笑)