投げやすさを優先してのミニスカート
パーフェクト達成で人気がブレイク
―― 注目される立場になって、「見られる」ことに対しては相当意識を高く持っていらしたのではないかと思いますが、どうですか?
気は使っていましたね。
―― カラフルなウェアにミニスカートという衣装も注目を浴びていました。コーディネーターがついていたりしたのですか?
いえいえ、全然。私自身、服装には無頓着なほうでした。ただスカート丈が難しくて、膝下丈だと投げづらいので、膝上のミニのタイトになってしまうんですよね。バレーで鍛えたたくましい足をあまり出したくはなかったのですが。
―― フレアスカートではいけなかったのですか?
広がると投球時に邪魔になるので、タイトスカートのほうがよかったんです。
―― お化粧は?
一生懸命、自分でメイクしました。
―― 試合の前と後と?
はい、後もです。髪は自分で洗うヒマがないので、しょっちゅう美容院に行っていました。
女子プロ初の公認パーフェクトゲーム達成で一気にブレイク
―― 選手同士は、皆、競争相手という感じでしょうか?それとも連帯感のほうが強いのでしょうか?
人それぞれでしょうね。相手あっての勝負ですから、「中山さんを絶対倒す」と虎視眈々とねらっていた人もいたでしょう。でも私は、「自分が一生懸命やればいいんだ」という気持ちが強くて、相手が嫌いだとか「倒してやろう」という発想にはなりませんでした。勝負師というタイプとは一線を画していたかもしれませんね。周囲の人はどう思っていたかわかりません。でも皆、優勝や女子プロ初のパーフェクトへの執念は、常に持っていたはずです。
―― では、ボウリングが華々しくブレイクするきっかけとなった女子プロ初のパーフェクト(12回連続ストライクで300点満点を出すこと)を達成したときのことを伺いましょう。1970年8月21日でしたね。
まだ優勝したことのない「月例会」でした。当時は力の抜き加減がわからず、パワーにまかせた投げ方をしていました。でもその日は、ボウリング場に向かうタクシーが接触事故を起こしまして。大した事故ではなかったのですが、試合会場へはギリギリの到着になり、「今日は気楽に行けばいいや」と臨んだのがよかったようです。力みが抜けて、どんどん上位に行って決勝戦で達成したのでした。
―― 会場の府中スターレーンは、ギャラリーでいっぱいだったのでしょう?
1000人ぐらい入っていたと思います。10フレームの1投目で危ない投球もあったのですが、不思議な集中力というかいつもと違う見えない力のようなものを感じていました。最終投球はエイヤッと投げたあと目をつぶってしまったので、ボールの行方は見られませんでした。快音が響いて目を開けたとき、カメラのフラッシュと他の女子プロの選手たちが「おめでとう」と駆けよってくる姿が目に入り、「ああ、やったんだ!」とわかりました。
サインのし過ぎで手が腫れたことも……
ファンの背中にサイン
―― そのあと、ボウリングブームに一気に火が点きました。 中山さんもNHK紅白歌合戦の審査員をされたり、翌71年にはシャンプーのCMに出演されました。
どこへ行っても「律子さーん」と声をかけられるようになって、テレビのすごさを実感しました。
―― サイン攻めにもあったそうですね。
はい、断れないのでできる限り応対していました。ある日、中部地方に移動中の電車では、2時間半、丸々サインをしたこともあります。
―― 手を使う仕事なので大変ですね。
手が腫れてボールに指が入らないなんてこともあって、それは反省しました。
―― 当時は日々せわしなく過ぎ去っていく感じだったのでしょうね。1日のスケジュールはどうなっていましたか?
あまり記憶にないですね。毎日が分刻みでめまぐるしくて、今日が何曜日なのかさえわからないくらい……。それでも練習に充てられる日は、8時間以上するようにはしていました。トーナメントがあるときは朝8時とか9時に集合しますでしょう。終わるのは遅くて午後7時、9時、10時とか。2日間連続の試合もありますし。テレビ中継が入っているときは、その時間に合わせて行われていました。次の日に移動して、ボウリング場のオープニングイベントやお客さまとのチャレンジがありました。「2投だけしていただきましょう」みたいな。
―― 試合は年間でどのくらいあったのですか?
多いときで85本から90本ぐらいでした。すごいですよね。
―― 4日に1度は勝負をしていらっしゃったということですね。体のケアはどうされていましたか?当時はまだクールダウンなんてなかったのでしょうか?
冷やすといけないといって泳いではいけないと教えられた時代ですからね。メンテナンスはほとんどしませんでした。オフがないので筋力トレーニングをする時間もなくて、準備運動くらいですよ。
―― では今日の試合はちょっと力を抜こうかというようなときは?
いえいえ、常に一生懸命でした。ファンの方ってよく観察していらして、「あ、あきらめたな」というのがわかるらしいのです。だからいつも全力投球。
「天下のライバル」と言われた須田開代子さんの早すぎる死
中央が中山律子、右がライバル須田開代子、左は並木惠美子
―― 結婚されたのは32歳のときでしたね。
はい。結婚は須田開代子さんと同じ1974年で、子どもも同い年なんですよ。
―― 一時期、「努力の須田開代子、人気の中山律子」なんて比較されたこともありましたが、“天下のライバル”と言われた須田さんとは何歳違いだったのですか。
須田さんが4歳年上でした。女子プロがたくさんいる中、私たちはお互いに一目置いて相手をライバルだと認めていたと思うのです。だからこそ須田さんに負けたときは非常に悔しく、勝ったときの喜びはひとしおでした。
―― ボウリング界を盛り上げる同志として、アドバイスし合うことはなかったのでしょうか。
ありましたよ。須田さんは普段は仲のいいお姉さん的存在でしたから、「ちょっと見て。私、どこが悪い?」なんて私に聞いてくることがありましたし、「中山さん、ひじを少し上げたらどう?」とかどこのメーカーがいいよなどと助言し合っていましたね。
―― それが57歳で亡くなるなんて、あまりにも早すぎましたね。
そうなんです。そのころ、私も病み上がりでした。須田さんががんと闘病中とは伺っていたので、「お見舞いに行きたい」と伝えていたのですが、答えは「絶対に来ないでよね」でした。若いころは、話したくても話せないことがいっぱいありました。私たち、60代ごろからなら、本当にざっくばらんにいろいろゆっくりと話し合える仲になっていたと思うのです。それがすごく残念でたまりません。
絶頂から低迷期へ
―― 絶頂の時代から数年後、ボウリングブームは下降していきました。
ボウリング場が増えすぎたのと、オイルショックが大きかったですね。
―― 絶頂からブームが去っていく苦しい時代をたどってこられて、並大抵の努力ではなかったと思います。
ブームが低迷したときでも、私はボウリング場に契約をしていただいて、全国各地に指導に行き、その生徒たちが成長して……。ボウラー同志は、仲間だという連帯感がとても強いんです。そういう意味では、私はものすごく人に助けられてきています。ですから、ボウリング業界からは離れられなかったですね。
ケガと闘いつつ生涯現役
左膝にサポーターをして投げ続ける
―― 中山さんご自身は、40代のころからケガに悩まされたそうですね。
まず左ひざ。それは手術しましたが、無理をしたせいで右肩痛になりました。そのあと右ひざにも来て、2年間、完全休養をせざるを得なくなりました。それまではパワーとスピードが特徴でしたが、それを機に回転とコントロール重視へとスタイルが変わりました。
―― けがが転機に?
というより、きっかけは子どもができたころにありました。早くボウリングを再開したくて、ボールをころころと転がしていたんですよ。投げるというより転がしただけなのに、「あれ?力を入れていなくても、ピンってこんなに倒れるんだ」という発見をしました。「ああ、これが基本なんだ」と初めて体得したわけです。それからは、意識して力を抜くことを心がけていました。そんな意識の変化がまずあって、ケガにより必要に迫られたこともあり、力を抜きつつボールを回転させてコントロールする技術を本格的に追求するようになりました。
―― 年齢を重ねるということは、追求する技術も変わってくるということですね。
体はもう変わりませんから、リズムも変えられないのです。変えるとしたらピッチ(ボールの指穴の傾斜度)ですね。肩が上がらなくなったら、ピッチもそれに合うように変えて、投げ方を変化させていくとかね。
―― 若いころと違って、腕をびゅーんと振り切ることも難しくなりますからね。どうですか、頭や体には理想とするスローイング、フォロースルーなどはまだありますか?
あります。自分のイメージと自分の一投がぴったり合うと、すごくうれしいんです。良かったり、また悪いときもあるのが楽しいんですよ。良いだけでは楽しくないと思うんです。
―― いま体調はいかがですか?
50代になって母を亡くしたあと、私は体調を崩してしまいました。それでも私の中にボウリングはいつもあって、永久シードプロの私は生涯現役です。