大学卒業後に結婚
1964 東京オリンピック選手村にて夫の喬氏と
―― それから4年後、1960年のローマオリンピックに初出場したとき、小野さんは24歳。小野喬さんとの同時出場でしたが、ご結婚は?
もうしていました。大学を卒業した1958年11月に挙式しました。
―― ああ、ご夫婦での出場だったのですね。小野喬さんとは同郷で、大学の先輩・後輩の間柄ですよね。
4学年違いなので入れ違いなんですけどね。私が大学に入学したときは、主人は卒業して慶應義塾大学の3年生に編入していたはずです。
―― そもそも、どこで知り合ったのですか。
高校2年生のときに出場した山形県での国民体育大会(1952年)です。小野はヘルシンキオリンピックから帰国したばかりで、模範演技を披露するために来ていました。そして東京教育大学に女子体操部をつくるためのスカウティングもしていました。私に「受験してもらいたいから」と問題集を送ってくるようになったんです。答えを記入して送り返すと、○Xがついて返ってくる。まあ、家庭教師のようなものですね。
ローマオリンピックは惜しくも団体4位
1960 ローマオリンピック 体操日本代表選手(前列左から二人目)
―― 初めて出場したローマオリンピック、当時のメンバーはどなたでしたか。
池田敬子さん、虻川(千葉)吟子さん、白須(相原)俊子さん、曽我部和子さん、塚田紀美子さんと私の6人でした。今は閉鎖して入れませんが、会場があの遺跡で有名なカラカラ浴場だったんです。空気穴が開いていて、屋根がない代わりにテントの布が1枚だけ。
―― 雨が降ったらどうするんですか。
さあ、降りませんでしたから。ローマの空気は乾燥しているのですが、踏み切り板が素の板で、乾燥しているとかえって滑るんです。踏み切ったときに滑ると蹴り上げがうまくいきません。ですから跳馬の演技前、板を雑巾でぬらして、炭酸マグネシウムをすり込んで滑らないようにしていたのに、メンバーの一人が「踏み切り板、滑るわ」と口に出してしまったんです。体操競技者が一番嫌うのは「滑る」ことです。その言葉を耳にした途端、チームは失速してしまって、尻餅をついたり前に飛び出してしまったり、6人中3人が失敗。団体種目は終わってみればたった0.6点差で4位でした。
―― なるほど、頭のほうが滑っちゃってメダルを逃したわけですね。
言っていいことと悪いこと、言葉の重さというものを痛感しましたね。学んだことはもう一つありました。ルールブックの解釈のしかたです。平均台の点数が思ったよりも伸びなくて、途中で抗議をしたんです。そうしたら「静止」の解釈の読み違いをしていたことがわかりました。細かいのですが、ポーズをとって静止するときは2秒きっちり止まらなければいけません。その静止は3回まではよいのですが、4回目からは逆に0.2点減点になることを知らなかったんです。途中で気がついても、練習と違うことを急にするのは難しくて、そんなことも4位に留まった原因でした。
―― ああ、ルールの情報不足による読み違いについてはこのスポーツ歴史の検証シリーズ第1回のとき、小野喬さんも話されていましたよ。1952年のヘルシンキオリンピックで跳馬で3位になったのに、表彰台に上がれなかったんですよね。(第1回P5参照)
NHKのテレビ体操に出演
NHK シェイプアップ体操
―― 大学を卒業されて結婚もされて、お仕事のほうは?
私、NHKの朝の「テレビ体操」を学生時代からのアルバイトとしてやっていたんです。ちょうど私が卒業する年に女子の体操選手を4人採用することになって、私はその一人になりました。そのときに隣のテーブルには西沢さんというアナウンサーの方がいらして……。
―― 西沢祥平。
はい。大きなスタジオでの生放送で、段上に西沢さんがいらしてニュースを読まれる。真ん中には私たちがいてテレビ体操をする。左側では別の番組がという流れでした。私たち4人は、3人がテレビ体操をして、1人はキュー出し担当。キュー出しは全員ができるように仕込まれていて、半分、NHK職員のようなものでしたね。
―― テレビ体操は何時からだったのですか。
朝の5時40分からです。早朝にNHKに行って、テレビ体操が終わった後、お化粧を落として食事をして、局の運動部のお茶くみなどをして、お昼に帰るという毎日でした。その中で、私だけは慶應義塾大学にも勤めていたので、そのあと出勤していました。
―― 教えていたのですか。
はい、一般体育の授業を持ち、女子の指導もしていました。
―― いやあ、そんな前からNHKとつながりがあったとは知りませんでした。
長女を出産してわずか4カ月後、秋田国体に出場
家族とともに(1965)
―― 出産されたのは、ローマオリンピックの後ですか。
そうです。ローマ大会の翌1961年6月に長女の貴子、1963年8月に長男の憲一が生まれました。
―― ではローマ大会が終わったあと、4年後の東京オリンピックのことは?
いえ、全然。自分ではもういいと思っていましたから。復帰しなければいけなくなったのは、地元・秋田で国体があったからです。体操関係者から「平均台だけでも出て」と頼まれて、最初はお断りしたんですよ。でも平均台だけならできるかなと思い始めて、そうなると「あとの種目は知りません」とは言えないでしょう?
―― それはそうですよね。秋田国体は出産からどのくらい後でしたか。
4カ月後の10月です。出産して2カ月後から練習を再開しましたが、体があちこち重くて重くて。腹筋も腕力も背筋の力も落ちてしまって、腰ががくがくして走れないの。それでもなんとか体を回復させていきました。
2人目を出産後、東京オリンピックを目指すことに
―― お2人目は秋田国体のあとですよね。
秋田国体に出場したあと、体調も戻ったので、1962年の世界体操選手権(プラハ)に出場したんですよ。それでいよいよ現役は終わり、と考えての2人目でした。
―― それがなぜ1964年の東京オリンピックに?
ローマ大会で逃した団体でのメダルをねらうにあたり、新人だけではチームにならないということで、池田敬子さんと私に出場してくれというお話がありました。さすがに子どもも2人目になると、体を戻す食事の摂取のしかたなど要領はわかってきたんですけど、体力的には1人目のときよりさらに落ちましたね。だからほかの選手に迷惑をかけないように、国立競技場のサブ体育館で必死に練習しました。
―― 僕は伝説のようになっている話を聞いたことがあります。小野さんが練習をしている間、上のお子さんを裏返した跳び箱の中で遊ばせておいたとか。「心配ないんですか」とだれかが聞いたら、「大丈夫。中で子どもが暴れると、揺れるからそれで子どもは喜ぶの」とおっしゃったと言う。
まさに現場発想ですよ。逆さにした跳び箱はゆらゆらとしばらく揺れていますでしょう。1歳の憲一は母たちが面倒を見てくれたんですが、3歳の貴子は泣きながら追いかけてくるので連れていくしかなかったんです。 跳び箱と、あとは甘栗ね。貴子は甘栗が好きでね、栗ってむくのが大変でしょう。半分位むいて渡しておくと、自分で必死にむきながら食べるの。そのように、どうすれば退屈することなく過ごしてくれるか知恵を絞りながら、私は確認練習を続けていました。
―― 東京オリンピックで「やれる!」と確信を持てたのはいつごろですか。
はじめは腰が不安定でこわさがあってなかなか踏み切れないんですよ。それが動かしていくうちに、何となく落ち着いてくるのがわかりました。そこであまり腰に負担のかからない技を考え、難度を組み合わせて演技を構成するようにしました。
―― 体操は自分の演技を自ら設計していくわけですから、面白い作業ですよね。
銅メダリストになったのにメダルはもらえなかった
1964 東京オリンピック 体操女子団体総合表彰式
(銅メダル/ 右)
―― さあ、そして迎えた東京オリンピック。近づいてくるにつれて、メダルへの希望のようなものは膨らんできましたか。
「3位になりたいね」というのが私たちの悲願でした。冷静に見て、ソビエト連邦にはエースのラリサ・ラチニナがいる。チェコスロバキアには、体操の名花とうたわれたベラ・チャスラフスカがいましたからね。しかし、好事魔多し。直前になって、練習で追い込みすぎてケガ人が出だしたんです。地元開催ということで力が入りますでしょう。筋肉疲労、肉離れやアキレス腱を切ったりね。そのほかに模範演技会を各地でやったんです。せっかく見ていただくのだからとつい力が入ってしまう。知らず知らずのうちに疲労がたまってケガにつながったのでしょうね。
―― それは計算外でしたね。しかし貴重な銅メダルでしたよね。
「ああ、よかった! やり終えた」という安堵以外の何物でもありませんでした。
―― ローマ大会では惜しいところでメダルを取り損ねた。その経験を東京オリンピックで活かすことができたのですね。
そう、「何としてもメダルを取る」という私たちの気概は、ローマ大会とは比べものにならないほど大きなものでしたから。なのに、メダルはチームに1個だけ。“東洋の魔女”で優勝した女子バレーボールチームは全員もらえているのにですよ。
―― え、それは残念……。
体操だけチームに1個では不平等ではないかということで、国際オリンピック委員会に掛け合いましたが、結局、ダメでした。その代わりに何かプレートみたいなものをくれましたけど、「メダルじゃなくちゃ喜びも湧かないね」とみんなで言い合いました。
1964 東京オリンピック
ゆかの演技
―― そうだったのですか。それでも、小野さんと池田敬子さん、相原敏子さん、中村多仁子さん、辻宏子さん、千葉吟子さんという6選手で勝ち取った3位という順位は、女子体操界にとっては誇りであり宝物ですよ。
いま思うと大変な価値ですよね。有り難いことです。
大好きなゆか運動は山本直純氏編曲の「さくら変奏曲」で
個人的には、大好きなゆか運動で作曲家の山本直純先生に「さくら変奏曲」のアレンジをお願いしました。日本開催なのだから「さくら」の曲を使おうと。本当は、東京芸術大学の宅孝二先生が各選手の編曲を担当してくださることになっていたんです。でもチーム全員だと1分20~30秒のアレンジを6人分で大変だったのでしょう。それで私だけ山本先生になりました。
山本先生は体操が大好きな方でね、いきなり向こうから走ってきて、踏み切り板で踏み切って、マットの上にポーンって。「先生、ケガするからやめてください」なんてブレーキをかけなければいけないようなダイナミックな方でした。
―― へえ、目に浮かぶようだな。
つい最近、自分の演技を初めてテレビで見る機会がありましてね、「ここをもうちょっとこうすればよかったな」なんて反省はありながらも、自分で構成した演技ですから非常に懐かしい思いがしました。
―― その映像はカラーでしたか。
いえ、白黒でした。
―― そうですよね。あのとき、カラー放送は1日1種目だったのです。NHKにカラー放送車は1台しかありませんでしたから。開会式は当然カラーでした。翌日からカラー放送車は競技会場を渡り歩きました。僕はバレーボール担当でしたが、女子バレーでカラー放映は決勝戦だけだったのではないでしょうか。会場の駒澤体育館は照明が少し暗くて、カラーがあまり鮮明ではなかった記憶があります。
ジャイアンツの長嶋茂雄さんと王貞治さんが観戦に来られていたこともいい思い出です。ちょうど跳馬の着地地点に近いところで応援してくださっていました。