早大サッカー部では1年からレギュラー、2年で日本代表入り
―― 早大サッカー部では、即レギュラーでしたか。
そうです。それも珍しかったと思いますね。サッカーのエリート選手ばかりのレベルの高いチームで、いきなりFWでレギュラーなんて。いかに浪人時代に勉強せずサッカーばかりやっていたかの証明みたいなものですが。当時、八重樫茂生さんが主将で、同期には宮本征勝がいました。
―― 成績はどうでしたか。
1年生のときは関東大学リーグで優勝、東西大学王座決定戦では関西学院大学を2-0で下し、僕も1点入れました。そして2年でもう日本代表に選ばれましたから。関東大学リーグは3年生のときに立教に敗れたものの、4年間で3回優勝しました。
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早大の先輩であり、日本代表のキャプテンを
務めた八重樫茂生氏(対ソ連戦)
―― 八重樫さんはいい先輩だったのでしょう。
はい、もう選手としても素晴らしいですしね。技術・戦術、体力・精神力を含めて抜群でナンバーワンの選手でした。うまくて速くて最後まで頑張れる、僕の理想とする選手でした。早稲田は他の大学と違い、キャプテンが率先垂範するという伝統があります。八重樫さんはいつも最後までボールを蹴り続けていましたね。
寮では同部屋でした。「川淵は2浪していて遊び人だろうからキャプテンの部屋に入れておけ」ということだったらしいですよ。
―― なるほど。
練習が終わると、くたびれ果てた八重樫さんは、すぐに布団を敷いて精根尽きたかのように眠ってしまう。そんな毎日で本当にストイック。尊敬を通り越してとても勝てないという感じでした。宮本もそう。その点、僕はカワブチサボロウでした。
名将クラマーさんは日常生活から鍛え上げてくれた
―― 謙遜されているのだと思いますが、1964年の東京オリンピックに向けて、日本代表の強化はどのように図られたのですか。
約50日間の欧州遠征と、ドイツ協会へのコーチ派遣要請です。
―― ああ、“日本サッカーの父”と言われるデットマール・クラマーさんですね。
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恩師デッドマール・クラマーコーチ
(検見川)
クラマーさんと吉岡たすく先生、恩人が2人もいる僕は本当に幸せ者です。
僕は大学4年になっていまして、欧州遠征はドイツのデュイスブルクで始まりました。クラマーさんは当時35歳。技術指導も素晴らしいのですが、サッカーのことだけでなく日常生活の指導まで徹底していました。スリッパは脱ぎ捨てない。風呂は後に入る人のことを考える。ドアやふすまを閉めるときは音をしないようにする……。
―― 細かいですね。
そう、ありとあらゆるところまで。それはつまり常に仲間のことを思いやって動けということにつながる指導なので、受け入れやすかった。
頭ごなしに怒ることは決してしない人です。合宿所は禁煙なのに隠れて吸う選手がいるわけですよ。夜、部屋の窓を開けてふーっと煙を吐き出したら、そこにクラマーさんが立っていたとかね。それでも彼は怒らない。ただ悲しい顔をする。僕が東南アジア遠征で発熱して寝ていたときは、頭ではなくて足を冷やせと。
―― ドイツ流ですか。
ええ、冷やした箇所に熱が集まるので、「冷たい水も飲んではいけない」と言われました。でも何となく氷をぱくっと口に入れちゃったら、そこになぜかクラマーさんが入ってきてまた悲しそうな顔をする。
―― クラマーさんを悲しませることは二度とやっちゃいけないという心持ちになる……。
そうなんですよ。いや、本当に素晴らしい指導者でした。
東京オリンピックのアルゼンチン戦、勝利を呼ぶダイビングヘッド
―― 日本代表のポジション争いは大変だったのではないですか。
1964年になって、新人・釜本邦茂が出現して、センターFWだった僕はポジションを追いやられてしまいました。右のウイングにまわったのですが、そこは宮本輝紀のポジションでした。彼がまた八重樫さんに輪をかけたようなテクニシャン。ところが、足はあまり速くなかったので、その点だけが僕のアドバンテージでした。レギュラーを取るには、彼をしのぐ技術を身に着けなければならない。そう考えて、正確なボールコントロールを手始めに輝紀の研究をずいぶんしましたよ。輝紀の技を盗みたくて必死でね。
―― 人からいろいろ吸収する闘争心が強かったのですね。
輝紀に勝たない限り補欠ですから。最終的に右ウイングのポジション争いには勝って、輝紀はボールキープ力があったので中盤のポジションになりました。
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東京オリンピック選手村でクラマーコーチの話を聞く
(左から三人目)
―― それらの競争が、チームを活性化させ、東京オリンピック初戦のアルゼンチン戦(10月14日)でのあの有名なヘディングシュートを生み、さらにベスト8という成績につながったのでしょうね。
僕はあれだけでしたけどね。
―― いやあ、後半36分、1-2とリードを許している状況で、釜本選手の左サイドからのクロスに合わせ、地をはうようなダイビングヘッドの同点弾。川淵さんのあの一撃で試合の流れが変わって、3-2でアルゼンチンを下したのでした。
南米の強豪に勝利したという事実は、日本代表選手団全体へ、ひいては日本国民への大きな励ましとなりましたよ。またあの大会が土台となったからこそ、次のメキシコ大会で銅メダルを獲得できたのでしょう。
あのころ、サッカーはまだマイナースポーツでしたからね。代表選手はみな一様に、「このオリンピックを通じて何とかメジャースポーツにしたい」という使命感を持っていました。それはなでしこジャパンの状況と似ていますね。男子に比べて女子サッカーは全然目立たなかった。それを何とかメジャーにしたいと長い時間をかけてコツコツ築き上げた成果が、2011年のFIFA女子ワールドカップ優勝につながりましたから。
大学卒業後、古河電工へ
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日本サッカーリーグ、古河電工の中心選手として活躍
―― 前後しますが、川淵さんは1961年に早稲田を卒業し、古河電気工業に入社されました。その経緯を教えてください。
当時は、実業団がどんどんサッカー部の強化を進めていた時代でした。田辺製薬、湯浅電池が強く、東洋工業、八幡製鐵あたりが追走して、日立製作所、三菱、古河電工にも代表クラスの選手がいました。大学1年のときに僕を4年だと勘違いしたらしく東洋工業に誘われたこともありました。4年になって日立に声をかけられ、行くつもりでいました。みんな、僕をつかまえれば宮本征勝がくっついて来ることを知っていたわけですよ。
―― そういうことですか。
そのあとに、古河電工がどうしても取りたいと言ってくれていると。長沼健さんが監督兼選手でいらして、八重樫さん、平木隆三さんといったそうそうたるメンバーがいて、日本代表仲間も多かったので入ることにしました。1期下には、その後、国際サッカー連盟の理事になった小倉純二がいて、サッカー部のマネジャーをしてくれました。
仕事とサッカーの両立
―― 川淵さん、オリンピックは東京が最後ですよね。
はい、僕はメキシコへは行っていません。膝も腰も限界に来ていましたから。東京オリンピックの最終試合、ユーゴスラビア戦のあとに、クラマーさんに「これでサッカーを辞めて仕事に専念します」と伝えました。
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日本サッカー殿堂掲額式でクラマー氏に記念品を授与
―― クラマーさんは受け入れてくれましたか。
「そんなにすぐに辞めるな。きみには、長時間かけてレベルアップしてきたことをきちんと後輩に伝える仕事がある」と諭されたというか怒られました。
―― クラマーさんは川淵さんの中に、頭脳的な理論派である部分や指導力があることを見抜いていたのでしょうね。
うーん、どうかな。のちに話したことがあるのですが、少なくともそんなに頭が悪いとは思っていなかったんでしょうね。クラマーさんの通訳代わりは岡野俊一郎さんでした。
僕は英語はペラペラではありませんが、でも例えば新聞記者へ「都合が悪くなったからアポイントを変更してくれ」などと告げたいときに、僕なら上手に連絡・調整してくれると思われていたようです。かなりいろいろな話をしてくれましたね。
―― クラマーさんの言葉で東京オリンピック直後の引退を翻意した川淵さんは、1970年に33歳で現役を退かれました。仕事との両立はどのようにされていたのでしょうか。
日本代表にいると遠征や合宿で職場を離れることが多いのですが、優秀な人材の多い同期には負けたくないと思って、一生懸命働きましたよ。代表引退後は、古河電工サッカー部のコーチや監督を務めながら、ビジネスマンとして仕事もしっかりとやりました。
新たな転機、JSL総務主事に
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日本サッカーリーグ、古河電工の中心選手として活躍
―― その時代に学ばれたことが、Jリーグや日本サッカー協会(JFA)での仕事に活かされたのでしょうね。日本のサッカーをこうしていきたいとかJリーグを興すという構想は、どこから出てきたのですか。
JFAの強化部長として日本代表チームを見たこともありますが、ロサンゼルスオリンピック(1984年)の予選でこてんぱんにやられて、そこでいったんサッカーから離れました。だから常にサッカーにのめり込んでいたのではなく、客観視していた時代がある。そこが僕の強みだととらえています。
僕は会社の中である程度偉くなれると思っていました。買いかぶり過ぎでしたが。名古屋支店勤務の1988年5月、東京へ異動の辞令が出ました。それは本社へではなく、関連会社への出向だったのです。一度出向すると、もうその先は自ずと見えてしまうわけですよ。
―― 会社内での自分の将来の姿ですね。
このまま終わってしまうのではあまりにも夢がないなと。何かやれることはないか、進むべき道を変えられないかと思ったのが51歳のときでした。
そんな折り、日本サッカーリーグ(JSL)の総務主事の話が舞い込んできました。当時、JSLはプロ化に向けて少しずつ動き始めていました。新しい世界に生きるなら、やはりサッカーしかない。サッカーは世界中で愛されているスポーツなのだから、日本でも可能性があるはずだ、というのが僕の信念のよりどころでした。プロ化はともかくとしても、日本のサッカーを本気で立て直したいという気持ちで、再びサッカー界に飛び込みました。
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Jリーグ開幕セレモニー・プラチナチケットを手に喜ぶ子どもたち
(国立競技場)
「大きな夢」の実現に向けて
―― その後、Jリーグ開幕までの5年間は「走りながら考える」時間だったと思います。1991年3月にJリーグの初代チェアマンに就任された川淵さん は、ついに古河電工を退社。Jリーグをスタートさせるにあたっての最大のヒントは何でしたか。
僕らの中にあった理想像です。現役のときに何度もヨーロッパに遠征し、ドイツの「スポーツ・シューレ」など、各コミュニティに地域に根ざしたスポーツクラブがあり、老若男女、だれもがいつでも多彩なメニューのスポーツを楽しんでいる姿を見てきました。そこにはプロのクラブもあって、アスリートは人々から注目を集める存在であり、みんなが尊敬し応援していた。これらは日本には存在していなかった仕組みです。いつかそういう場所を日本にもつくりたい。Jリーグのプロ化を通じて、その夢を実現させるチャンスが来たのではないかと。
―― ああ、「大きな夢の実現に向けて」というのはそういうことでしたか。Jリーグには3つの理念がありましたね。
「日本サッカーの水準向上及びサッカーの普及促進」、「豊かなスポーツ文化の振興及び国民の心身の健全な発達への寄与」、「国際社会における交流及び親善への貢献」です。
―― サッカーのプロ化と、地域に根ざしたスポーツクラブの普及と、二つを重ね合わせてしっかりとした理念をつくりあげたところに今日の成功があるのでしょうね。
プロ化を進めるにあたって、各企業チームとの交渉も大変だったのではないですか。
そうですね。ほとんどのトップの方は、赤字の垂れ流しの会社をなぜつくるのだ。前例がないのに成功するわけはないと言いました。日本サッカー協会のトップの人ですら「時期尚早」と週刊誌にコメントしていましたからね。だからかえって失うものは何もない、ある意味、恐いものなし状態でしたよ。
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Jリーグ初年度開幕戦。ヴェルディ川崎対横浜マリノス
(国立競技場)
―― 前例、時期尚早……、味方はサッカーファンだけでしたね。
それも当時は数が少なかったですからね。今、Jには40クラブあります。(J1が18、J2が22)各クラブの年間予算の合計は約700億円。日本サッカー協会とJリーグの予算が約300億円で、1000億円を超えています。携わっている人数は選手、監督、コーチ、クラブの従業員など3,000人はいて、さらにマスコミの方などの数を考慮すると、一大産業を誕生させたのと同じ。あらためてすごいことだったと思います。
―― 本当にそうですね。日本の経済状況においてもタイミングがよかった。
そう、あの時期以外、成功するタイミングはなかったでしょうね。
ナベツネさんとの論争はアピールのチャンスだった
―― 何か迷ったときに相談する相手はだれかいらしたのですか。
いや、僕はあまり人に相談することはないですね。
―― そう言えば、Jリーグ発足当時、読売新聞の渡辺恒雄社長といろいろやり合っていましたよね。読売相手に挑戦する人はそういないというのに。
いろいろ言われましたからね。「地域に根ざすなんて空疎な理念」とか、「川淵がいる限りJリーグは潰れる」とかね。
でも私はナベツネさんを恩人だと思っているのですよ。
―― ほう、それはなぜ?
当時、テレビ朝日の「ニュースステーション」という番組で、キャスターの久米宏さんがJリーグをとても応援してくれていました。ナベツネさんと何か問題があると、必ず呼んでくださったんです。僕はナベツネさんへの反論を通じて、Jリーグについてしっかりと理論武装してアピールする機会をいただけました。
―― 「これは演出だ。ナベツネさんと川淵チェアマンは裏でできている」という噂がありましたよね。
いやあ、それだけはない。もういいかげん勘弁してくれ、という気持ちでしたよ。