夏、マラソンに転向
リクルート時代、ボルダー合宿(左)
―― それでも無事入社して、マラソンへの適性を見出されたということでしょうか。
最初のうちは、「中学生よりも遅い」とさんざん言われました。800メートルも駄目、1500メートルも駄目。私は監督の眼中になくて当然だと思いました。そんなある日、監督に呼ばれました。「おまえにはマラソンが向いていると思う、一つやってみないか?」。練習に真剣に取り組む姿勢、フォームが下り坂の走りに向いていること、競り合いになるとスピードランナーにもついていく粘り、限界に近づいても頑張れることなどを評価してもらったようです。私は「ハイ、やらせてください」と即答しました。
―― ふーむ、さすがの眼力ですね。でもそのころはまだ、メダリストへの片鱗も見られなかったのですね……。
ないですね。練習メニューには食らいついて、一つひとつの意味を問う、妙にしつこいランナーというだけの印象だったと思います。
―― どうして「なぜ」を追求することが得意だったのでしょう。
なぜこのメニューなのかその意味を知り、どのような走りをすればいいか納得して頑張りたいという思いがありました。といっても、こなすだけで精一杯でしたが。監督は「おまえは、速い・遅いは別にいい。とにかくちゃんと全部こなせ。タイムは気にせず全力でやりなさい」。そう言って、私の苦手な部分を和らげて芽を出させてくれたというのはありますね。各選手が持っている特徴を、長所も短所も含め、最終的には全部プラスに変えてしまう、そういうやり方の上手な方です。
「弱くしたくて練習メニューを出しているのではない」
小出監督
―― そのときは、言われることに納得できていましたか。
不信になる時期はありましたよ。私、国体の1万メートルに出場したいと思っていたのです。県の予選で1位になったにもかかわらず、代表になれませんでした。エントリーのミスがあって……。
そんな悔しさと、練習メニューはだいたい1週間単位になっているのですが、当日変更されたり、しっちゃかめっちゃかで変化がありすぎだなと感じたりしました。
―― そんな思いは払拭できたのですか。
監督にメニューを聞きに行ったときに、「俺はおまえを弱くしようと思ってメニューを出してはいないよ。強くしようと思って出しているんだからな」と言われた瞬間、「そうだよな。ああ、それだけでいいんだ!」と思えました。私は監督の「強い選手に育てたい」という思いを受け取って練習すればいい話で、内容についてああだこうだと考えるような無駄なことはいらない。そう割り切ることにしました。
―― よく割り切ることができましたね。
気持ちは一新しましたが、自分の中では「人のことは考えず、自分のことだけ考えていればいい」ということに実は違和感があって、そんな自分を否定する気持ちはどこかにありました。それでも強くなるために必要なことであり、強くなったらまた元通りの人間性に戻ればいい、自分にそう言い聞かせていました。まずは実績を出すことです。極端に言えば、真面目とか一生懸命なんていうのはどうでもよくて、結果を出すにはどうすればよいかを優先して考えるということです。
―― ひたすら毎日練習を積み重ねていく。質量ともに全国レベルの練習をこなす。世界を目指したいなら、世界レベルの練習をひたすら黙々とこなせばいい……。
そうです。オリンピック前には、「お前なら世界一の練習ができる。そうすれば必ずメダルは取れる」と励まされていました。
初マラソンで「バルセロナの星」として注目を集める存在に
―― 初マラソンは、1990年1月の大阪国際女子マラソンという大舞台でしたね。
その直前、1989年12月に郷里の大先輩である人見絹枝さんの名前を冠した第8回山陽女子ロードレース大会の20キロレースで優勝しました。
世界陸上東京大会マラソンで4位入賞(右は2位の山下選手)
―― 1928年アムステルダムオリンピック女子800メートルで、日本の女子選手として初のメダルとなる銀メダルを獲得し、24歳で夭折した人見絹枝さんですね。ちなみに同レースは、2004年の第23回大会から、ハーフマラソンの部が「有森裕子杯」となっています。
その優勝の勢いをかっての初マラソンは2時間32分51秒で、当時の初マラソン日本女子最高記録で6位入賞。「バルセロナの星」として注目されたのはここからでしたね。
そうなのですが、そのあと座骨神経痛に悩まされ、2回目のマラソンは翌1991年1月の大阪国際女子マラソンでした。
―― 2時間28分1秒の日本最高記録。カトリン・ドーレ(ドイツ)に次いで2位でした。この結果、8月、東京での世界陸上選手権女子マラソン代表選手になり、世界陸上では2時間31分8秒で4位。2位の山下佐知子選手がバルセロナの代表切符を確実にしました。
柔道の山下泰裕選手とマラソンのロザ・モタ選手に感動
―― そもそも有森さんがオリンピックを意識したのはいつごろだったのでしょう。
オリンピックに憧れを抱いたのは、1984年のロサンゼルス大会の男子柔道・山下泰裕選手でした。足を傷めながらの金メダル。ああいう場面に自分も立ってみたいと日記に書きました。
その次に「出られたらいいな」と思ったのは、大学4年生のとき。1988年のソウルオリンピックの女子マラソンで、ロザ・モタ選手のゴールシーンを見た瞬間です。笑顔のゴールがあまりに衝撃的で感動しました。
―― そのわずか4年後に、その夢を実現させたことになりますね。
具体的な目標になったのは、2回目の大阪国際女子マラソンを終えて日本記録保持者になったときでした。世界は近いという手応えを感じました。
「行ってみせますバルセロナ、咲かせてみせます金の花」
バルセロナオリンピック
マラソンで銀メダル獲得
―― 選手選考をめぐってはいろいろありましたね。有森さんの名台詞もありました。
「行ってみせますバルセロナ、咲かせてみせます金の花」ですね。自分にそう言い聞かせてプレッシャーをかけました。
―― あの当時、女子マラソンは選考でいつももめていましたね。
不確定要素の多い中、条件が異なるものを比較して選ぶ。それは非常にわかりづらい。日本の女子マラソンの歴史も浅かったので、選ぶ側も選ばれる側も手探り状態でした。私を含め周りは結果オーライだったので選考問題について深く考えることはしませんでしたが、あのとき、もっと考えておくべきだったかもしれません。
―― さあ、1992年8月1日のバルセロナのレースに飛びましょう。監督からはどんな言葉をかけられていましたか。
「良くて5位には来るかな」って。「持ちタイムは全選手中10位。だから普通にいけば8位。だけどおまえはよく練習したから、とりあえず5位には来るだろう」と。
バルセロナオリンピックマラソンで銀メダル獲得
―― 私は現地に行っていました。あなたは29キロ付近でスパートし集団から抜けました。36キロ付近でトップのエゴロワに追いついて並走、一時は前に出ました。そこからは抜きつ抜かれつの競り合いでした。あのときはどんな気持ちだったのでしょう。
彼女を抜きたいとか私が1番になるんだという感覚ではなく、「彼女とここまで一緒に来たのだなあ」という感慨のような甘いことを考えていた気がします。最後の最後で私なりにスパートをかけましたが、ゴール手前のモンジュイックの丘でエゴロワは私をあっさりと置いていきました。私は目一杯でしたから、ゴールのときは「負けた」という思いよりも、「やったぁ!」だけでしたね。
―― 女子陸上では、人見絹枝さん以来の銀メダルでしたよ。
「まさかメダルとは」という驚きが、ほとんどの方の第一印象だったようですね。
―― 米国のジャーナリストが書いたバルセロナ大会の報告書を読んだことがあります。「モンジュイックの丘でのアリモリの姿を、日本では全国何千万人の人が見ていたことだろう。一方、ロシアの寒村では、たった1台のテレビの前に村人が集まりエゴロワを応援していたのだ」。
そういう一節があり、エゴロワの素朴な人柄を理解できる気がしました。
足底腱膜炎の手術からの復活
―― さあ、そしてその4年後、今度の舞台はアトランタ。と言いたいところですが、いろいろと紆余曲折のあった4年間だったようですね。
オリンピックに出場してメダルを取るという夢を実現して、気持ちは次のオリンピックへとは簡単には切り替えられませんでした。次の目標を見失った私は、兄のいるニュージーランドに長期滞在してのんびりしてみたりもしましたが、気持ちは晴れません。
それならばと、走り出せば何か次の目標が見えてくるかもしれないとチームの練習に戻りましたが、今度は故障です。足裏が痛む「足底腱膜炎」で、マラソンランナーの職業病のようなもの。手術をするかどうかで、私は手術を選びました。1994年11月に入院し、退院したのは1995年1月でした。
―― その間に気持ちの変化は何かありましたか。
リハビリを重ね、痛みを感じることなく走れるようになりました。そしてまた、走ることを喜びととらえられるようになりました。そして3月から米国コロラド州のボルダーへ行って高地トレーニングを行い、8月27日、北海道マラソンに出場。
―― そこで2時間29分17秒の大会新記録で優勝して「有森復活」を印象づけ、アトランタ大会の出場切符をほぼ手中にしたのでしたね。
ノーマークのロバが飛び出した
アトランタでは、バルセロナ以上に皆さんを驚かせたようです。まさかまたメダルを取るなんてと。
―― そう。あのレースはロバ(エチオピア)がね、ロバって普通はゆっくり歩くものですが、アトランタのロバはすごかったですね。
本当に、もう規格外で。
―― 1996年7月28日午前7時。スタートと同時にピピヒ(ドイツ)が飛び出しましたが、15キロ付近で後ろからの集団に吸収されました。もちろんそこには有森さんもいて、一時はトップに立ちましたね。16キロ過ぎに飛び出したのは、エチオピアのロバでした。
ロバが行った瞬間に、ピピヒみたいな感じになるだろうと思って、誰もついていきませんでした。そもそも「ロバって誰?」という感じでしたから。全員が驚いたのは折り返してきた彼女を見たとき。その距離の広がりに「えっ、こんなに逃げているの?」と。「しまった」と思いましたが、もう追いかけられる距離ではありませんでした。
―― それでは、それ以降は自分の順位は今の集団内の位置+1だと。
そう考えるしかなかったですね。まだ距離は半分以上残っていましたから。ロバは全然ストライドも違っていて、ゆったりとした走りで、同じマラソンレースをしているようには見えませんでした。
またも因縁のエゴロワとの競り合い
アトランタオリンピックマラソンで銅メダルを獲得
―― ロバに続く集団は、有森さんのほか、エゴロワ(ロシア)、シモン(ルーマニア)、マシャド(ポルトガル)がいました。そして最後はまたも、エゴロワとのデッドヒートになりましたね。
アトランタでは、スパートする地点を29キロ過ぎの下り坂にさしかかったところと決めていました。様子を見てさっと出た瞬間に集団が崩れ、誰がついてくるかわからない状況で自分なりに飛ばしていきました。そこでひたひたと後ろから来る選手がいて。並ばれてふっと見たら……。
―― またエゴロワ。
そうです。でも私、そのとき正直、嫌だとは思いませんでした。一瞬の思いをよく覚えているのですが、また彼女とこうして並んで走れる舞台に戻ってこられたのだという喜びのような気持ちになりました。私って本当に勝負師ではないのだなあと笑ってしまいますが、あのとき一番私の心の中に残った感覚はそれでしたね。
―― そう。「終わってから、なんでもっとがんばれなかったのかと思うレースはしたくなかった」という名言がありましたが、気持ちに余裕のようなものがあったのでしょうか。
きついことはきつかったのですが、何か超えられたものはあったかもしれません。仮に他の選手に並ばれていたら、もっと慌てたと思うのですよ。エゴロワだったということが逆に私を元気づけたといいますか、彼女の走りは上りだろうが下りだろうがとにかく安定していて、またも勝てませんでしたが、私はどこかでうれしさを感じていましたね。
後方の選手に気づいていなかった
アトランタオリンピック女子マラソンのメダリスト
―― 後方は気にならなかったのですか。
気になりませんでした。競技場に入る直前に監督がいて、「後ろ来てるぞ。今すぐ速く逃げろ!」と言われました。でもなぜかそれを真に受けず、「ああ、監督は最後に私を奮い立たせるために言ってくれるのだな」と解釈したのです。競技場に入って、歓声が「ワーッ」と起きますよね。その歓声は自分が通ったあと、次の選手が来るまでいったんおさまるはずなのに途絶えないのですよ。そこで初めて「あれっ?」と。私のすぐ後ろで歓声の波が起きている。振り返ることはできませんから、これはまずいと思ってコーナーを曲がる瞬間に目線だけで確認したら、ドーレ選手(ドイツ)がいるじゃないですか。そこからは猛ダッシュでしたね。