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「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。

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日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。

オリンピアンかく語りき
第3回
柔道無差別「金」の系譜

上村 春樹

柔道の総本山である「講道館」は、1882年に嘉納治五郎によって創設された。柔術から「柔道」を確立した嘉納治五郎は、クーベルタン男爵の要請により1909年、東洋初の国際オリンピック委員会委員に就任し、そして1911年に大日本体育協会(現・日本体育協会、日本オリンピック委員会)を創設した人物でもある。

上村春樹さんは、2009年4月に第5代講道館長・全日本柔道連盟会長に就任し、嘉納家一族以外からの初の講道館長という重責を担っている。また日本オリンピック委員会の選手強化本部長という立場にあり、今夏開催された第30回オリンピック競技大会(2012/ロンドン)では、日本代表選手団団長を務めた。

上村さんの柔道人生を振り返りながら、団長として見たロンドンオリンピック、そして今後のスポーツ界への 期待・展望についてお話を伺った。

聞き手/西田善夫   文/山本尚子   構成・写真/フォート・キシモト

ロンドンオリンピックを振り返って

ロンドンオリンピック・開会式入場行進

ロンドンオリンピック・開会式入場行進
(団長/2012)

―― 8月17日のロンドンオリンピック・メダリストによる銀座パレードは、観衆が50万人と非常に盛大なものとなりました。上村さんも車に乗っていらしたのですよね。

はい。大会中は、試合時間が日本では深夜であるにもかかわらず、毎日たくさんの方々からお祝いや激励のメールをいただきました。そして帰国後の銀座パレードではあれほど多くの方々にお集まりいただき、あらためて感謝の思いを強くしました。

―― ロンドン大会は、日本が初めてオリンピックに出場した1912年のストックホルム大会から数えて100年目。日本代表選手団団長として臨まれて、全体の感想はいかがですか。

「金メダル獲得数で世界第5位」という目標には届きませんでしたが、メダル総数38個という過去最高の数字を残すことができました。今回、ロンドン大会は26競技が実施され、日本からはバスケットボールとハンドボールを除く24競技に出場しましたが 、そのうちの13競技でメダルを獲得できました。今までの最高は10競技でした。卓球とバドミントンは初のメダル、ウエートリフティング、サッカー、ボクシングでは40数年ぶりのメダルなど、将来が楽しみな構図といえます。

―― 金メダル数に不満を持つ方もいらっしゃるかもしれませんが、銀と銅が多いと いうことは今後に希望が持てますよね。

世界の頂点を目指した結果の銀と銅ですから、これからもより高い目標に挑戦する気持ちを大事にしてほしいと思っています。 これまでは、大会の前半は盛り上がりますが、後半にかけてムードが停滞していく面がありました。でも今回の「チーム・ジャパン」は、前半の柔道は目標に達しませんでしたが、毎日メダルを獲得し、雰囲気は非常によかったですね。 よく「心技体」と言いますが、「技」と「心」は努力で習得できるものです。「心」とはつまり「自信」です。選手たちには毎 日、「自分を信じ、自信を持って試合に臨みなさい。今までやってきたことをすべて出しきれば、必ず結果はついてくる」と話していました。

―― 今までの強化の方向性は正しかったということになりますか。

そうですね。北京五輪後、各競技団体で4年間の強化プランを作っていただき、それぞれの強化担当の皆さんと、目標に向かってどうすれば勝てるか議論を続けてきました。皆さんが、日本人の特性である几帳面さ、真面目さ、正確さを活用した選手強化を進め、敏捷性を活かして緻密に連携し合う戦い方ができた結果、今回はチーム種目でも8つのメダルを獲得出来たのではないかと思っております。
それと今回は、スポーツ振興基本計画に基づき、我が国におけるトップレベルのアスリートの国際競技力向上を総合的に図るト レーニング施設として、平成20年1月21日に開所しました味の素ナショナルトレーニングセンターをフルに4年間利用できた初の大会でした。味トレを活用した競技団体はきちんと結果を残してくれています。合わせて、医科学・情報など多方面から複合的 かつ戦略的にアスリートを支援するマルチサポート事業による支援をいただけたことが大きかったですね。

目に障がいのある恩師から学んだこと

―― 上村さんは、高校時代に国民体育大会で優勝されていますが、それまでは無名の選手だったそうですね。

はい、私は中学時代、県大会にも出られませんでした。男ばかりの3人兄弟の真ん中だった私は、真面目な兄・弟とは違い、やんちゃで悪さばかりしていました。手を焼いた父が先生に相談して、小学校5年だった私を中学校の柔道部に入れてしまったのです 。だから兄弟で柔道をやったのは私だけ。私は他の人より体重はありましたが、スポーツで大切なスピードとパワーがありませ んでした。

―― そんな上村さんは、スポーツの盛んな熊本県立八代東高校に進学されましたね。

そうです。私の柔道人生において、大きな出会いが三つありました。その一つが高校の柔道部の恩師です。道場へ初めて行った とき、私は体重を聞かれました。「100キロです」と答えると、目に障がいのある方でしたので、私の体を触るのです。さぞ立派な体格を想像していたのでしょうが、実際の私は身長は160センチほどで筋力も弱い。「毎日、練習前にグラウンドを10周走ること」を命じられました。それから柔道では「打ち込み」という技の反復練習がありますが、これを「毎日500本やれ」と言われました。オリンピック選手でもふつうは300本ぐらいです。

―― 単純な作業ですよね。

技の基本をつくるために、繰り返し動作を大切に練習しました。先生は、すべてを音で判断されます。相手をつかまえてダッダダーンと投げると、ふつうは「一本」です。でも先生は認めてくれません。柔道の投げ技では、ぬれ雑巾を畳にたたきつけたような「バシッ」という音がいい音だとされています。その音が出たときに、「今の投げ方を常にイメージして練習しろ」と言われました。だから私は、どんなときにこの音が出るのか考えました。そして、自分は体勢を崩さずに、相手を崩して、いいタイ ミングで入ったときだけこの音が出る、と気づいたのです。

―― ほう、柔道における音感教育ですね。

音は柔道に限らず、大事ですよ。

国民体育大会で優勝し明治大学へ

神永昭夫・東京オリンピック無差別決勝でヘーシングに破れる

神永昭夫・東京オリンピック無差別決勝で
ヘーシングに破れる(1964)

―― 国体はどこでありましたか。

福井県の春江町というところでした。5人による団体戦です。私はインターハイに出られなかったので、相手選手の実力の度合いがわかりませんでした。チームメートが「おまえの相手は一番弱いから一本取ってこい」と言うので、私はそれを真に受けまし た。めちゃくちゃ技をかけ、全部、違う技で一本勝ちしました。そこで、二つ目の出会いがありました。当時、明治大学の監督 になられたばかりの神永昭夫先生(東京オリンピック柔道無差別銀メダリスト)の目にとまったらしく、「来ないか」と誘われました。

―― 柔道が初めてオリンピックの正式種目となった東京大会の無差別決勝で、ヘーシンクと戦ったあの神永さんですね。

私からすると神様のような存在でしたから、何も知らないまま明治大学への進学を決めました。

―― 神永さんは、上村さんのどこに目をつけたんでしょうね。

当時、身長は今と変わらない174センチぐらいで、体重は90キロに届かないくらいでした。体は大きくありませんが、よく技をかけることと、退がらずに常に前に出て攻めていったところでしょうね。なにしろ、私は相手を「弱い」と思い込んでいたのです から。

講道館での試合で失神

―― 入学当初は、すぐレギュラーになれると思っていたのでしょうか。

軽い気持ちで上京したら、1日目にしてボキッと天狗の鼻をへし折られました。当時、部員は50人いて、自分の感触では後ろから5番目というところでした。

―― 同期には、ミュンヘンオリンピック(1972年)63キロ級金メダリスト川口孝夫 選手がいたのですよね。ミュンヘンのときは何年生でしたか。

ミュンヘンは大学4年のときですね。入学後すぐのことですが、私は東京学生体重別選手権大会に出場しました。 場所は忘れもしない講道館。川口さんは優勝、他の連中もみな入賞していました。私はといえば、背負い投げをかけようとして 逆に首を絞められて失神して「一本負け」でした。渇を入れられ目を開けると、講道館中の観客が私のことを見つめています。 もう恥ずかしいやら情けないやら。でもそんな私がいま講道館の館長ですから、世の中わからないものですね。

旭化成行きは周囲から大反対

全日本柔道選手権で2度目の優勝を果たす

全日本柔道選手権で2度目の優勝を果たす
(インタビューを受ける/1975)

―― 大学卒業後に進んだ旭化成は、大学3年生のときに声をかけられたそうですね 。

はい、3年次はまだ正レギュラーではなかったのに誘ってくれたので決めました。

―― 一途な上村さんらしい話ですね。旭化成は上村さんのどこを見込んだのでしょう。

練習量だと思います。当時から、基礎をつくる時期、練習の量をたくさんこなす時期、そして考えて自分の柔道をつくり上げる時期と、段階を踏まえて考えていたので、あのころだれにも負けないだけの練習量はこなしていました。何せ、周りはみんな私より強かったのですから。

―― ところが、旭化成入りを周囲に反対された。

旭化成は宮崎県の延岡ですからね。当時は東京か大阪近辺にいなければ、全日本選手権や世界選手権は目指せないと言われてい た時代でした。大学4年になり、正レギュラーになった私はチームのポイントゲッターで、全日本学生選手権と世界学生選手権で優勝しました。先輩方が「なぜ延岡なんだ」とずいぶん言われました。当時、実業柔道のトップは新日本製鐵や博報堂でしたからね。

―― 熊本出身の上村さんにとっては、そう遠く感じる土地ではありませんよね。 

そうです。仲の良かった先輩もいましたし、私の決意は揺るぎませんでした。

「人間力」を磨き上げる

モントリオールオリンピック無差別で悲願の金メダルを獲得

モントリオールオリンピック無差別で悲願の金メダルを獲得(1976)

旭化成では練習相手も少ないし、指導者もそう多くいるわけではない。でも、職場ぐるみで私をオリンピックチャンピオンにするプロジェクトを組んでいただいたのです。この旭化成が、私にとっての貴重な「第三の出会い」の場でした。柔道を経験したことのない上司たちが何をしてくれたかというと、「人間力」を高めるメニューです。まず上司から本を渡されました。ロケットの生みの親・糸川英夫さんの『逆転の発想』という本です。数日後、本の内容について質問攻めにされ、あわてて熟読し直し ました。ほかにも教養や知識を高める機会をいろいろつくってもらいました。

―― ほかにはどんなことを?

1年目の終わりに、レーヨン工場の勤労課から支社の広報に異動になりました。そこでは、徹底的に文章の訓練をさせられました 。必ずデータの裏付けとなる資料をそろえなさい、と。数字はどこから持ってきたか、本当に正しいのか、工場に行ってきちんとあたってこいと言うのです。今でもオリンピックの情報収集で、「らしい」、「聞いた話です」という報告があると、私は「 自分で足を運んで確かめてきなさい」と言っています。


小柄をカバーするために考えた武器

―― 上村さんはずいぶん大きく見えますが、身長は174センチなのですね。

私たちの階級でいえば、チビの部類です。身長で悩んだこともありましたが、考え方を切り換えました。自分の武器は何だろうかと。体は小さい、スピードはない、パワーもない。一番強いときでも100メートル走では17秒7、ベンチプレスで105キロがやっと。それでも1973年に、全日本柔道選手権で優勝できたのです。

―― そこにはどんな「逆転の発想」がありましたか。

私は体が小さいこと、柔らかいことが私の武器だと考えるようにしました。パワー不足を体の柔らかさでカバーできないかと考えました。技というのは、相手より早くかければかかるのです。しかし相手がそれ以上のスピードで逃げたら絶対にかかりませ ん。それならばどうするか。テンポをずらしてみようと考えたのです。

観察することで相手の動きの予備動作を見抜く

相手の動きをものすごく研究しましたよ。人は動きを起こす直前に、必ずなんらかの予備動作をするものなのです。口の一部を動かす人もいるし、頭を微妙に動かす人もいる。その動作のあと何かが来る、それを見抜くのです。

―― ビデオでですか。

いえ、試合前の練習場でじっくり観察しました。あの山下泰裕選手ですらクセがあったのですよ。それを見抜いておけば、次に何がくるかはわからないまでも、来るべき局面への対応はある程度できますからね。

―― 常に考え、観察していたのですね。

延岡という、練習環境としてはあまり恵まれない土地にいたことによる危機感が、私をそうさせたのだと思います。東京や大阪に行っていたら今の私はなかったでしょう。

脳しんとうを起こしながら一本勝ち

そう言えば、私は投げられて気絶したまま逆転勝ちした試合があるんです。1975年の世界選手権でした。準決勝で対戦相手はミュンヘンオリンピックのチャンピオンのチョチョシビリ(旧ソ連)という選手でした。190センチの彼は私を軽々と持ち上げ、頭 からまっさかさまに投げ落とす「裏投げ」で、私は「技あり」を取られてしまいました。しかしもつれ合って一緒に倒れたとき に、彼もまた頭を打って気絶したのです。意識をなくした者同士でしたが、私がたまたま彼の上に乗っかかるかたちで、抑え込みと同じ体勢でした。15秒経ったところで意識を取り戻し、さらに15秒抑え込んで逆転勝ちしました。

―― へえ、勝負ってわからないものですね。

彼は2009年に亡くなりましたが、その少し前に彼と話したことがあります。「おまえがあと10キロ重かったら、俺が世界チャンピオンだったのに」と言われました。彼は、私を持ち上げたときに軽すぎて勢い余って後頭部を打ってしまったのだと。

オリンピックで無差別の金メダルを取り返す

―― 東京オリンピックで始まった柔道ですが、無差別ではヘーシンク(オランダ) が優勝しました。68年のメキシコでは実施されず、72年のミュンヘン大会では篠巻政利選手が出場し、オランダのルスカが優勝をさらいました。3度目の実施となったモントリオール大会で、いよいよ上村さんが登場したのですね。

柔道は日本のお家芸で、無差別を取ってこそという気持ちがありました。私は少し減量すれば下のクラスに回ることもできましたが、どうしてもそれは嫌だったのです。神永さんも篠巻さんも明治の私の先輩でもあり、オリンピックの舞台で無差別の金メ ダルを取り返すことだけが、私の使命だと思っていました。3回戦では、事実上の決勝戦ともいえるチョチョシビリ選手との対戦でした。私は1年かけて彼を研究したので勝つことができました。そして決勝では、イギリスのレムフリー選手を破り、優勝したのです。

―― そのときのお気持ちは?

ただほっとしただけです。「ああ、これで日本に帰れる」と思いました。羽田空港には会社の人たちがたくさん出迎えてくれました。

―― 神永さんは何とおっしゃっていましたか。

「よくやった」と。その一言だけでしたが、初めてほめられました。

決して目をそらさなかった山下泰裕選手

全日本準決勝  上村対山下

全日本準決勝
上村対山下(1975)

―― 柔道無差別の伝統は、やがて山下泰裕さんへ引き継がれていくわけですね。

そうですね。山下さんと初めて試合したときのことを今でも覚えています。1975年、全日本選手権の準決勝でした。 私はあがり症でしたから、試合に出るまでのいくつかの儀式というものを持っていました。会場に入ったら観客席を見渡し、応援に来ている私の父を探す。顔がはっきりと見えたら、「よし、あがってない、大丈夫だ」と。そして控えの選手席に入り、今度は相手選手をじっとにらみつけるのです。相手が目をそらせると、「よし、勝った」と自分に言い聞かせ、畳に上がったものでした。長い時間にらみ合いになると、たいていみんな汗をふくふりをしたりして目をそらすものなのです。それがたった一人、目をそらさなかった選手がいました。

―― それが山下さんですか。

そうです。まだ17歳の高校生のくせに、全日本のタイトルを取ったことのある私から目をそらすことなく、畳に立ち互いに組み合うまでにらみ合っていました。

1年かけて山下対策に取り組む

当時は、二宮和弘さん、高木長之助さん、遠藤純男さんといった強豪がいたのですが、その山下さんの目にただならぬものを感じた私は、1年かけて山下対策に取り組みました。相手のかかとをすくうように刈って倒す捨て身の「小内刈」という技をがっちりと稽古し、1年後の全日本選手権でその技で彼を破ることができました。 10年ほど前、福岡の屋台で、私、山下さん、斉藤仁さん(84年ロス五輪、88年ソウル五輪95キロ超級金メダリスト) の3人で話をしたことがあります。そのときに酔っぱらった勢いで、当時のにらみ合ったときのことを聞いてみたら、 「よく覚えていますよ。目をそらしたら負けそうな気がしたので」と言っていました。

―― 山下さんは気後れするどころか、上村さんに勝つ気でいたのですね。

そうです。それを聞いたときに「すごい17歳だったんだ」とぞっとしましたね。

―― 1976年、25歳の上村さんは、オリンピック、世界選手権、全日本選手権の3大会を制し、いわゆる「グランドスラム」を達成しました。しかし現役最後の対戦相手も、やはり山下さんでしたね。

現役最後の試合ではありませんが、トップを目指すのを諦めさせたのが、1978年の第1回嘉納治五郎杯(現・グランドスラム・東京)の決勝でした。私は彼の大内刈で勢いよく背中から畳に倒れ、日本武道館の天井を見つめるだけでした。

第5代講道館館長として

―― 上村さんは、2009年4月、講道館長に就任されました。

数年、ずっとお断りし続けていたのですがね。これまで嘉納家の血筋をひく方々が継承してきた講道館長を継ぐということは、相当な覚悟がいります。でも前館長から「嘉納家が継ぐと決まっているわけではない。“柔道人”に継いでほしいのでぜひ」というお話があり、悩んだ末、お引き受けしました。 講道館は教育機関でもあります。私は、「強くなること」と「人づくり」には大きな関連性があると考えています。人の成長というのは、何か目標を持ち続けること、疲れた後の一踏ん張り、量をこなすこと、毎日創意工夫しながら取り組み続ける、そうして目標に到達できると自信がわきさらなる高い目標に挑む、その繰り返しだと思っています。

―― 強さというのは、勝つという結果だけでなく、そのプロセスも大切なのですね。

ええ、自分に負けない気持ちを育てることもまた強さです。道場で一番になりたい、この技を完成させるなど、毎日、目標を持ち努力することが大切であり、この自信の積み重ねが成長です。試合での勝ちにはたまにラッキーがありますが、負けには必ず理由があるものです。どこかが間違っているから負ける。それを論理的に特定できれば、勝利に向けての組み立てができるはずです。

スポーツを通じて人格形成をし社会で活躍する人材を育てる

嘉納治五郎

嘉納治五郎

―― 昨年8月、スポーツ基本法が成立し、今年3月、スポーツ基本計画が策定されました。これはスポーツ界にどのような影響を与えるでしょうか。

「国際競技力の向上」という目標の達成については、ロンドンオリンピックで一定の成果を出せたといえるかと思います。嘉納治五郎師範は、「柔道とは精力善用と自他共栄の精神である」と説きました。これは、柔道で培った力を社会のために活かし、人を信頼し合う心を育み社会の繁栄に貢献しよう、といった意味になります。スポーツ全体についてもまた然りです。スポーツを通じて心身を鍛え人格形成をし、社会で活躍する人材を輩出することが理想です。スポーツ基本法の中で、この実現に向けての仕組みをかなりつくっていただけたと感じています。

―― アスリートのセカンドキャリアについては、今後どのようになっていくでしょうか。

現在は味の素ナショナルトレーニングセンターで取り組んでいますが、まだ不十分だと認識しています。日本オリンピック委員会では、トップアスリート対象の就職支援ナビゲーションシステムである「アスナビ」を2010年秋からスタートさせました。しかしまだ対象範囲がほんの一部の人たちに限られています。今後はスポーツ界全体で、そのような人づくりに取り組んでいく必要があるでしょう。

―― スポーツを通じて人間的成長を遂げた人材に、社会でも大いに活躍してもらうということですね。

卵よりニワトリが先、今後は指導者の養成を

―― 上村さんご自身の今後の取り組みはいかがでしょうか。

柔道人としての私は、後世に柔道を正しく伝えていくことが責務だととらえています。どのスポーツにおいても、そのことは重要です。よく卵が先かニワトリが先かという議論がありますが、私は断然、ニワトリだと答えます。いくらいい卵でも、親鳥がしっかりと育てなければきちんと育たないのです。

―― つまり、指導者はその親鳥にあたるわけですね。

そのとおりです。きちんとした指導者がいれば、ヒヨコのよさを最大限に引き出す最適な指導ができます。私は指導者の養成に今後も取り組み続けていきたいですし、各競技団体の方にもそれを呼びかけています。指導者の養成なくして、スポーツの繁栄はあり得ません。日本ではどの競技もみんな「礼」で始まりますが、これなどはとくに大事に伝えていきたい一面ですね。

世界選手権東京大会  復刻された嘉納師範の柔道着と

世界選手権東京大会
復刻された嘉納師範の柔道着と (2010)

武道の必修化の意義

―― 今年度から、中学校では武道が必修科目になりました。剣道、相撲もありますが、6割程度は柔道を選択しているそうです。学校の先生の負担を考えると、安全性への不安を懸念する声もあるようです。

柔道というのは、もともと自分の身を守ることがベースにあります。年間10時間程度ですから、あくまでも導入にすぎませんが、最初は礼法と自分の身を守るための「受け身」から指導することになっています。武道の授業では、仲間と一緒にやることの大切さを感じ、相手への感謝の気持ちを持ち、その表れである「礼法」を身につけてほしい。今、正座して礼をする「座礼」を正しくできる人はどれぐらいいるでしょうか。

―― 座礼どころか立ってお辞儀をする「立礼」もおぼつかないかもしれませんね。

そうなんです。そのような日本の良き伝統文化を受け継ぎ、世界に正しく発信できるように。それこそが真の国際化であり、その一環を担うことが大きな意義だと思っています。

2020年東京オリンピック招致がもたらすもの

―― 最後に、東京は2020年の夏季オリンピック・パラリンピックの招致活動をしています。

ぜひ東京で開催してほしいですね。何よりも子どもたちに間近で見てもらいたい。今、子どものスポーツ離れが問題になっていますが、トップアスリートが鍛え抜かれた心身で、磨き抜いた技を競い合う姿を見て、なぜここまで速く、高く、強くなれるのだろうかと興味を持つ。そして、自分たちもスポーツで体を動かすことで、将来、困難に立ち向かうことのできる「強い身体と強い心」を育てるきっかけになってくれればと期待しています。

―― 招致の実現を楽しみにしています。きょうはどうもありがとうございました。

  • 上村春樹氏略歴
  • 世相
1882
明治15
嘉納治五郎師範が東京・下谷北稲荷町の永昌寺で講道館柔道を創始。
「精力善用・自他共栄」の柔道の原理を確立
1916
大正5
第1回九州学生武道大会を福岡市で開催

  • 1945第二次世界大戦が終戦
  • 1947日本国憲法が施行
1948
昭和23
嘉納治五郎師範十年祭を記念して全国都道府県代表選手による第1回全日本柔道選手権大会を講道館で開催。松本安市が優勝
1949
昭和24
嘉納履正講道館長の呼び掛けを受け、全日本柔道連盟を創立
1950
昭和25
第5回国民体育大会(愛知大会)から柔道が正式種目として参加。府県対抗で鹿児島県が優勝 

  • 1950朝鮮戦争が勃発
1951
昭和26
第1回全日本勤労者柔道選手権大会を神奈川体育館で開催。東洋レーヨンが優勝

  • 1964上村春樹氏、熊本県に生まれる
  • 1951安全保障条約を締結
1952
昭和27
第1回全国高等学校総合体育大会柔道競技大会を水戸市の県総合グラウンド体育館で開催
第1回全日本学生柔道優勝大会を東京・蔵前国技館で開催。明治大学が優勝
第1回全国青年大会・柔道競技を開催パリにおける国際柔道連盟(IJF)臨時総会で全柔連もIJFに加盟。
嘉納履正講道館長がIJF会長に就任
1953
昭和28
第1回全日本産業別柔道大会を講道館で開催。繊維部門が優勝

  • 1955日本の高度経済成長の開始
1956
昭和31
第1回世界柔道選手権大会を東京・蔵前国技館で開催。無差別トーナメント方式で行われ夏井昇吉が優勝
1964
昭和39
東京五輪開催。日本は階級別で3個の金を獲得、無差別はへーシングが優勝

  • 1964東海道新幹線が開業
1966
昭和40
第1回全日本招待選抜柔道体重別選手権大会を福岡市・九電記念体育館で開催
1969
昭和44
第1回全国警察柔道選手権大会を警察大学校で開催


  • 1969アポロ11号が人類初の月面有人着陸
1970
昭和45
第1回全日本柔道ジュニア選手権大会を講道館で開催
第1回全国高等学校定時制通信制柔道大会を日本武道館で開催。新潟県が優勝
第1回全国中学校柔道大会を講道館で開催。熊本・藤園中学校が優勝

1971
昭和46
第1回全日本実業柔道個人選手権大会を大阪市立修道館で開催。年齢層別の4部制で開催。第16回大会より体重別を、第19回大会より女子の部を導入

  • 1973上村春樹氏、全日本柔道選手権大会で優勝
  • 1973オイルショックが始まる
  • 1975上村春樹氏、世界柔道選手権大会 (オーストリア、ウィーン)無差別級で優勝
1976
昭和51
第1回国際試合強化選手選考会を開催。2003年から男女同時開催
          
  • 1976上村春樹氏、モントリオール五輪無差別級で優勝
  • 1976ロッキード事件が表面化
1977
昭和52
第1回全国教員柔道大会を講道館で開催。神奈川県が優勝

1978
昭和53
第1回嘉納治五郎杯国際柔道大会を日本武道館で開催

  • 1978日中平和友好条約を調印
1979
昭和54
第1回全国高等学校柔道選手権大会を開催。1986年女子個人、1988年男子個人、 2006年女子団体試合を順次導入
第1回全日本少年武道練成大会(柔道)を開催
1981
昭和56
第1回全国少年柔道大会を講道館で開催。団体戦で都城市武道館が優勝
1982
昭和57
全日本学生柔道選手権大会から独立して、第1回全日本学生柔道体重別選手権大会を日本武道館で開催

  • 1982東北、上越新幹線が開業
  • 1984香港が中国に返還される
1986
昭和61
第1回全日本女子柔道選手権大会を愛知県体育館で開催。八戸かおりが優勝。女子柔道はその後、学生、職域、体重別など、男子柔道と同様に発展
第1回全日本視覚障害者柔道大会を講道館で開催
1987年パラリンピック(韓国・ソウル)で柔道競技を開催
フランスで国際視覚障害者柔道選手権大会を開催

  • 1995阪神・淡路大震災が発生
1988
昭和63
第1回近代柔道杯全国中学生柔道大会を開催。東京・弦巻中学校が優勝           
1990
平成2
第1回全日本選抜少年柔道大会を開催        
1997
平成9
第1回全日本柔道形競技大会を講道館で開催
1999
平成11
第1回全日本学生柔道体重別団体優勝大会を大阪府立体育会館で開催。国士舘大学が優勝
2004
平成16
第1回全国小学生学年別柔道大会を伊勢原市体育館で開催

  • 2008リーマンショックが起こる
  • 1998上村春樹氏、講道館長に就任
2009
平成21
国際柔道連盟(IJF)において世界ランキング制を導入。
また2010年より、立ち技において相手の帯より下に片手・腕または両手・腕で直接攻撃・防御する行為を禁止する試合審判規定を導入
2010
平成22
東京で52年ぶりに世界柔道選手権大会を開催。
参加国・地域111、参加選手848名で史上最大規模、男女7階級と無差別で日本は金メダル10個獲得

2012
平成24
ロンドン五輪で女子57kg級で、松本薫が金メダル獲得。男女合わせ銀3個、銅3個獲得