決して目をそらさなかった山下泰裕選手
全日本準決勝
上村対山下(1975)
―― 柔道無差別の伝統は、やがて山下泰裕さんへ引き継がれていくわけですね。
そうですね。山下さんと初めて試合したときのことを今でも覚えています。1975年、全日本選手権の準決勝でした。 私はあがり症でしたから、試合に出るまでのいくつかの儀式というものを持っていました。会場に入ったら観客席を見渡し、応援に来ている私の父を探す。顔がはっきりと見えたら、「よし、あがってない、大丈夫だ」と。そして控えの選手席に入り、今度は相手選手をじっとにらみつけるのです。相手が目をそらせると、「よし、勝った」と自分に言い聞かせ、畳に上がったものでした。長い時間にらみ合いになると、たいていみんな汗をふくふりをしたりして目をそらすものなのです。それがたった一人、目をそらさなかった選手がいました。
―― それが山下さんですか。
そうです。まだ17歳の高校生のくせに、全日本のタイトルを取ったことのある私から目をそらすことなく、畳に立ち互いに組み合うまでにらみ合っていました。
1年かけて山下対策に取り組む
当時は、二宮和弘さん、高木長之助さん、遠藤純男さんといった強豪がいたのですが、その山下さんの目にただならぬものを感じた私は、1年かけて山下対策に取り組みました。相手のかかとをすくうように刈って倒す捨て身の「小内刈」という技をがっちりと稽古し、1年後の全日本選手権でその技で彼を破ることができました。 10年ほど前、福岡の屋台で、私、山下さん、斉藤仁さん(84年ロス五輪、88年ソウル五輪95キロ超級金メダリスト) の3人で話をしたことがあります。そのときに酔っぱらった勢いで、当時のにらみ合ったときのことを聞いてみたら、 「よく覚えていますよ。目をそらしたら負けそうな気がしたので」と言っていました。
―― 山下さんは気後れするどころか、上村さんに勝つ気でいたのですね。
そうです。それを聞いたときに「すごい17歳だったんだ」とぞっとしましたね。
―― 1976年、25歳の上村さんは、オリンピック、世界選手権、全日本選手権の3大会を制し、いわゆる「グランドスラム」を達成しました。しかし現役最後の対戦相手も、やはり山下さんでしたね。
現役最後の試合ではありませんが、トップを目指すのを諦めさせたのが、1978年の第1回嘉納治五郎杯(現・グランドスラム・東京)の決勝でした。私は彼の大内刈で勢いよく背中から畳に倒れ、日本武道館の天井を見つめるだけでした。
第5代講道館館長として
―― 上村さんは、2009年4月、講道館長に就任されました。
数年、ずっとお断りし続けていたのですがね。これまで嘉納家の血筋をひく方々が継承してきた講道館長を継ぐということは、相当な覚悟がいります。でも前館長から「嘉納家が継ぐと決まっているわけではない。“柔道人”に継いでほしいのでぜひ」というお話があり、悩んだ末、お引き受けしました。 講道館は教育機関でもあります。私は、「強くなること」と「人づくり」には大きな関連性があると考えています。人の成長というのは、何か目標を持ち続けること、疲れた後の一踏ん張り、量をこなすこと、毎日創意工夫しながら取り組み続ける、そうして目標に到達できると自信がわきさらなる高い目標に挑む、その繰り返しだと思っています。
―― 強さというのは、勝つという結果だけでなく、そのプロセスも大切なのですね。
ええ、自分に負けない気持ちを育てることもまた強さです。道場で一番になりたい、この技を完成させるなど、毎日、目標を持ち努力することが大切であり、この自信の積み重ねが成長です。試合での勝ちにはたまにラッキーがありますが、負けには必ず理由があるものです。どこかが間違っているから負ける。それを論理的に特定できれば、勝利に向けての組み立てができるはずです。
スポーツを通じて人格形成をし社会で活躍する人材を育てる
嘉納治五郎
―― 昨年8月、スポーツ基本法が成立し、今年3月、スポーツ基本計画が策定されました。これはスポーツ界にどのような影響を与えるでしょうか。
「国際競技力の向上」という目標の達成については、ロンドンオリンピックで一定の成果を出せたといえるかと思います。嘉納治五郎師範は、「柔道とは精力善用と自他共栄の精神である」と説きました。これは、柔道で培った力を社会のために活かし、人を信頼し合う心を育み社会の繁栄に貢献しよう、といった意味になります。スポーツ全体についてもまた然りです。スポーツを通じて心身を鍛え人格形成をし、社会で活躍する人材を輩出することが理想です。スポーツ基本法の中で、この実現に向けての仕組みをかなりつくっていただけたと感じています。
―― アスリートのセカンドキャリアについては、今後どのようになっていくでしょうか。
現在は味の素ナショナルトレーニングセンターで取り組んでいますが、まだ不十分だと認識しています。日本オリンピック委員会では、トップアスリート対象の就職支援ナビゲーションシステムである「アスナビ」を2010年秋からスタートさせました。しかしまだ対象範囲がほんの一部の人たちに限られています。今後はスポーツ界全体で、そのような人づくりに取り組んでいく必要があるでしょう。
―― スポーツを通じて人間的成長を遂げた人材に、社会でも大いに活躍してもらうということですね。
卵よりニワトリが先、今後は指導者の養成を
―― 上村さんご自身の今後の取り組みはいかがでしょうか。
柔道人としての私は、後世に柔道を正しく伝えていくことが責務だととらえています。どのスポーツにおいても、そのことは重要です。よく卵が先かニワトリが先かという議論がありますが、私は断然、ニワトリだと答えます。いくらいい卵でも、親鳥がしっかりと育てなければきちんと育たないのです。
―― つまり、指導者はその親鳥にあたるわけですね。
そのとおりです。きちんとした指導者がいれば、ヒヨコのよさを最大限に引き出す最適な指導ができます。私は指導者の養成に今後も取り組み続けていきたいですし、各競技団体の方にもそれを呼びかけています。指導者の養成なくして、スポーツの繁栄はあり得ません。日本ではどの競技もみんな「礼」で始まりますが、これなどはとくに大事に伝えていきたい一面ですね。
世界選手権東京大会
復刻された嘉納師範の柔道着と (2010)
武道の必修化の意義
―― 今年度から、中学校では武道が必修科目になりました。剣道、相撲もありますが、6割程度は柔道を選択しているそうです。学校の先生の負担を考えると、安全性への不安を懸念する声もあるようです。
柔道というのは、もともと自分の身を守ることがベースにあります。年間10時間程度ですから、あくまでも導入にすぎませんが、最初は礼法と自分の身を守るための「受け身」から指導することになっています。武道の授業では、仲間と一緒にやることの大切さを感じ、相手への感謝の気持ちを持ち、その表れである「礼法」を身につけてほしい。今、正座して礼をする「座礼」を正しくできる人はどれぐらいいるでしょうか。
―― 座礼どころか立ってお辞儀をする「立礼」もおぼつかないかもしれませんね。
そうなんです。そのような日本の良き伝統文化を受け継ぎ、世界に正しく発信できるように。それこそが真の国際化であり、その一環を担うことが大きな意義だと思っています。
2020年東京オリンピック招致がもたらすもの
―― 最後に、東京は2020年の夏季オリンピック・パラリンピックの招致活動をしています。
ぜひ東京で開催してほしいですね。何よりも子どもたちに間近で見てもらいたい。今、子どものスポーツ離れが問題になっていますが、トップアスリートが鍛え抜かれた心身で、磨き抜いた技を競い合う姿を見て、なぜここまで速く、高く、強くなれるのだろうかと興味を持つ。そして、自分たちもスポーツで体を動かすことで、将来、困難に立ち向かうことのできる「強い身体と強い心」を育てるきっかけになってくれればと期待しています。
―― 招致の実現を楽しみにしています。きょうはどうもありがとうございました。