相撲の歴史と沿革
相撲の歴史は古く、『古事記』などにも見られます。神事として皇室との結びつきも深く、また、祭りや農耕儀礼における行事の一つとして発展していきます。日本の国技として親しまれているほか、近年は日本発祥の武道から発展したスポーツとして国際的にも愛好者が増えています。
●大相撲略史年表
時代 | 年月 | 内容 |
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神話時代 | 不明 | 国ゆずりの力くらべ:(古事記) 出雲国稲佐の小浜で高天原系の建御雷神と出雲系の建御名方神が「力くらべ」によって「国ゆずり」という問題を解決した。 |
不明 | 野見宿禰(のみのすくね)と当麻蹶速(たいまのけはや)の相撲:(日本書紀) 第十一代垂仁天皇の御前で野見宿禰と当麻蹶速が日本一を争った。これが天覧相撲の始まりと伝えられる。また、野見宿禰は相撲の神様として祀られている。 |
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飛鳥・奈良・平安時代 | 皇極天皇元年(642年) | 百済の使者饗応のため健児を召集して相撲をとらせる。 |
天平6年7月(734年) | 聖武天皇相撲を天覧。相撲節会の端緒。 | |
延暦12年7月(793年) | 桓武天皇相撲天覧。この頃より天覧相撲が毎年恒例となる。 | |
承安4年7月(1174年) | 高倉天皇相撲天覧を最後に400年におよんだ相撲節会の典儀は廃絶する。 | |
鎌倉・室町・安土桃山時代 | 文治5年4月(1189年) | 鎌倉八幡宮において源頼朝が上覧相撲。 |
室町時代(1333-1573年) | 室町末期より職業相撲が発生。 | |
元亀元年3月(1570年) | 近江国常楽寺において織田信長が上覧相撲。 |
相撲の競技方法/ルール
まわしを締めた2人の競技者の力士が土俵上で勝負を争い、相手の身体(足の裏以外)を土につけるか、土俵の外に出すことで勝利となります。相撲は「礼に始まって礼に終わる」といわれるように、礼儀作法が重視されています。
●土俵作法
- 花道から控えに入るときは土俵に向かって一礼をし、土俵上の力士の基本である「蹲踞」(そんきょ/中腰)の姿勢で互いに向かい合う。
- 四股を踏む。東方は赤房下、西方は白房下で力水をつける。力水をつけてもらった力士は徳俵の近くに戻り蹲踞をして「塵(ちり)を切る」(両手を前に出して手の平を打ち、左右に広げ手の平をかえすこと)。
- 土俵の邪気を払い清めて、力士がケガをしないように塩をまく。
- 両力士が土俵上中央で向かい合い、腰を下ろして両ひじをひざにつけた体勢から両手を仕切り線あたりに下ろし、「仕切り」の体勢を取る。その後、両力士が立ち上がって取組を開始する(「立ち合い」という)。
- 勝った力士は蹲踞し、右ひざの内側で手刀を切り、行司の勝ち名乗りを受ける。さらに懸賞金を受け取る時は、右手で左、右、中と手をかざして手刀を切る。
●決まり手
決まり手とは、勝負を決めた技のことです。 決まり手には82種の「技」と5つの「勝負結果(非技)」があります。
- 技:突き出し/寄り倒し/上手投げ/内掛け/他
- 非技:腰砕け/勇み足/つき手/つきひざ/踏みだし
その他
●土俵
現在の土俵は、「一辺が6m70cmの正方形の土台に高さ34~60cmの土を盛り、その中央に直径4m55cmの円を20俵の俵でつくる」と決められています。
●番附表
力士、行司、年寄の地位を示す一覧表のこと。現在の番附には若者頭、世話人、呼出(十枚目以上)、床山 (特等)の名前も記載されます。中央に書かれる「蒙御免」の文字は「ごめんこうむる」と読み、その近くには開催年月日と場所、審判委員が書かれています。番附独特の相撲字で書かれ、上位になるほど文字も大きく太くなり、地位が下がるにつれて小さく細くなります。
相撲字で番附表を書くのは行司の役目で、行司が書く番附を「元書き」といいます。千秋楽の3日後に開かれる番附編成会議で翌場所の力士の地位が決まると、担当行司がタテ110cm、ヨコ80cmの用紙に書いていきます。元書きが仕上がると約4分の1の大きさ(タテ58cm、ヨコ44cm)に縮小して印刷されます。
●本場所
日本相撲協会が主催する、大相撲の定期興行のことで、現在は年に6回開催されています。
開催月 | 通称 | 場所 |
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1月 | 初場所 | 両国国技館(東京都墨田区) |
3月 | 春/大阪場所 | 大阪府立体育館(大阪府大阪市) |
5月 | 夏場所 | 両国国技館(東京都墨田区) |
7月 | 名古屋場所 | 愛知県体育館(愛知県名古屋市) |
9月 | 秋場所 | 両国国技館(東京都墨田区) |
11月 | 九州場所 | 福岡国際センター(福岡県福岡市) |
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公益財団法人 日本相撲連盟