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「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。

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日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。

東京オリンピックの「負のレガシー」をチャンスに

【オリンピック・パラリンピックのレガシー】

2016.10.24

半世紀ほど前まで、この国にはスポーツクラブが存在していなかった。戦後から1964年東京オリンピックの頃までは、国民が気軽にスポーツに親しめる施設はほとんどなく、学校ではようやくプールの設置が進められるようになり、クラブ活動も行われるようになったが、まだまだスポーツの設備もクラブ活動のスポーツ種目数も少なかった。

日本のスポーツが劇的に変わったきっかけは、1964年東京オリンピックだった。そして私を大きく変えたのもこのオリンピックだった。1960年に日本大学水泳部に入部した私は、村上勝芳むらかみかつよし監督の指導のもとで地獄のような厳しい練習をこなし、1962年にインドネシアのジャカルタで行われたアジア競技大会に出場することになった。そのころ私は、何が何でもオリンピックに出てやろうと思うようになる。1964年4月には100m自由形で日本記録を出し、その後の選考会で代表に選ばれた。オリンピックに出場できると聞いたときのうれしさは格別だった。あとで、有頂天になってしまったことが間違いだったと気づくのだが…。

東京オリンピック開会式で入場する日本選手団(1964年)

東京オリンピック開会式で入場する日本選手団(1964年)

東京オリンピックの日本選手団の入場行進は赤いブレザーに白いスラックス姿。それに加えて事前に白い革靴が支給された。高級な革底の靴だった。だが泳いでいるときはもちろん何も履かないし、ふだんも革靴を履くことはめったにない。そんな私は革底の靴を履き慣れていなかった。

開会式の前日に、きれいにワックスがけしてある選手村の木製の階段をその靴で歩き、滑って足をくじいてしまったのだ。試合本番になっても足の痛みは引かなかったが、「もう、どうなってもいい」と思い、誰にも言わずに出場した。

出場種目は100m自由形と400mフリーリレー。結果は100m自由形、準決勝敗退。400mリレーは4位に入賞したとはいえ、800mリレーは出場を辞退、満足のいく結果とはほど遠い。うかつだった。試合前の体調管理の意識が不足していた、基本的なことが、おろそかになっていた。「失敗した」と思った。

結局、日本の競泳陣が獲得できたメダルは、800mフリーリレーの銅メダルだけだった。

すでに社会人になっていた私は通常の仕事に戻った。

ところが上司に連れられて客先へ行くと、「東京オリンピックに出た後藤」と紹介される。相手は興味をもってくれるのだが、私はその紹介のされ方が嫌だった。メダルを獲得できていれば堂々としていられる。だが、活躍できなかった者が、いったいどのような顔をすればいいというのだ。スポーツは結果がすべてだということを思いしらされた。

東京オリンピック選手村に勢ぞろいした水泳日本代表チーム(1964年)(前から2列目左から二人目が筆者)

東京オリンピック選手村に勢ぞろいした水泳日本代表チーム(1964年)
(前から2列目左から二人目が筆者)

そんなある日、私は日本大学水泳部時代の恩師であり東京オリンピック競泳競技のヘッドコーチを務めた村上勝芳監督が、代々木競技場のサブプールで子どもたちに水泳の指導をしていると聞き、足を運んだ。

村上監督は、東京オリンピックの競泳のメダルが800mリレーの銅1個だけに終わったことを嘆き、日本の水泳界の未来をうれいていた。その状況をなんとかしなくてはいけないと考え、村上監督は立ち上がったのだ。これからの日本の水泳を強くするためには、将来を担う子どもたちにしっかりと教えることが必要だ。そう考えて、なんと監督自身も入場料を払って指導をはじめたのだ。

その活動を見て、私はショックを受けた。オリンピックでメダルを獲得できなかったのは、私たち選手の努力が不足していたからだ。なのに監督は自分でその責任を負い、選手の育成に力を注いでいるではないか。

オリンピックに選手として出場し、負けたのは私だ。その私が何もしなくていいのか。いいわけはない。選手を育成するとともに、子どもたちにスポーツを通じて心身ともに健康になってもらうことこそ、私がやるべき仕事なのではないだろうか。

そして、東京オリンピックの5年後である1969(昭和44)年、すでに体操のスポーツクラブをはじめていた東京オリンピック体操メダリストの小野喬・清子さん夫妻や遠藤幸雄さんたちとともに、セントラルスポーツクラブを立ち上げた。最初は場所がなかったため、杉並区の高校の体育館とプールを借りた。会員募集のツールは、わら半紙のチラシだった。

単一のスポーツを指導するクラブはすでにいくつかあったので、複数のスポーツを行い、さらに多店舗展開を行った。

セントラルスポーツ水泳教室

セントラルスポーツ水泳教室

理念は「スポーツを通じての体力づくり健康づくり、情操教育を行う」。さらに、「明るく 仲よく 元気よく 磨けよ心、鍛えよ身体、今日もみんなで頑張ろう。」というスポーツ訓を作った。

子どもたちには「スポーツを通じて豊かな人間になってほしい」「人に迷惑をかけず、スポーツで自分自身の力を試し、そして協調性を培ってほしい」と願い、社内では「歴史ではなく伝統を作れ」という指導をしている。

当社としてはオリンピックメダリストを数多く輩出したいと考えている。世界で活躍するトップ選手を作れば、その選手に憧れ、勇気をもらった子どもたちが増えて裾野が広がる。逆にスポーツ人口が増えて裾野が広がってくればトップ選手も出やすくなる。

どちらにしても、トップアスリートの強化は欠かせない。これはスポーツクラブにとどまらず、日本全体を考えても同じことが言える。こうした活動を通じて、私たちは多くの人々に一度きりの人生を健康に楽しく過ごしてもらおうと考えている。

アテネオリンピックで活躍した選手と共に。 左から体操の鹿島丈博、冨田洋之、 本人、水泳の稲田法子、森田智己(2004年)

アテネオリンピックで活躍した選手と共に。左から体操の鹿島丈博、冨田洋之、 本人、水泳の稲田法子、森田智己(2004年)

2020年の東京オリンピック・パラリンピックは、レガシーとして施設を残せばよいということではないと思う。スポーツ実施率が高まり、運動習慣を身につけ、健康で長生きする人が増えること、つまりレガシーとして「健康な国民」を残せればよいのではないだろうか。

私にとって1964年の失敗は「負のレガシー」だった。だがその失敗がなければ、セントラルスポーツを立ち上げることはなかったと思う。オリンピックで負のレガシーを残してはいけない。だが、逆境を乗り越えることを厭(いと)わない者にとって、ときには負のレガシーがチャンスになることがある。

(構成:大野益弘)

スポーツ歴史の検証
  • 後藤 忠治 セントラルスポーツ株式会社 代表取締役会長
    1964年 東京オリンピック 競泳日本代表選手(自由形100mと400mリレー)