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「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。

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日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。

8. 水泳─日本のお家芸

【オリンピックの歴史を知る】

2016.12.12

東京開催を控える2016年リオデジャネイロ・オリンピックで、日本は12個の金メダルを獲得した。うち7個が女子選手による金メダルであり、はからずも昨今の国際競技大会での女子の活躍を象徴する結果となった。

日本の女子金メダリスト第1号は1936年ベルリン大会、競泳の前畑まえはた秀子ひでこである。リオの金メダリスト金藤かねとう理絵りえと同じ200m平泳ぎであったところに因縁を思う。

1936(昭和11)年8月11日午後4時、白いキャップを被った前畑は6コースに立った。となりのコースには優勝候補、地元ドイツのマルタ・ゲネンゲル。このとき、前畑の脳裡には「勝つ」という2文字しかなかったのではあるまいか。

1914(大正3)年5月20日、和歌山県伊都郡橋本町(現・橋本市)の豆腐屋の娘に生まれた前畑は、近くを流れる紀ノ川で泳ぎを覚えた。身体は弱いが大の負けず嫌い。誰よりも速く泳ぐ「カエル泳ぎの秀ちゃん」は、高等小学校(いまの中学)1年のとき、100m平泳ぎで学童新記録というより当時の日本女子新記録を樹立した。
人見絹枝が日本女子選手としてオリンピック初出場、陸上800mで銀メダルをる1928年アムステルダム大会の前年である。

3年生、ハワイで開かれたはん太平洋女子オリンピックに出場。100m平泳ぎに優勝、200m平泳ぎで2位。一躍、時の人となると、周囲が放っておかない。女子の体育教育に熱心な名古屋市の椙山すぎやま女学校(現・椙山女学園)に編入、学校側は日本初の屋内プールを設けて才能を後押しした。

1932年、18歳になった前畑は当然のようにロサンゼルス大会の代表選手となる。いや実際はたいへんな道のりであった。前年1月に母 光枝、6月に父 福太郎を相次いで亡くした。傷心に家業の問題が重なり、一度は退学届を提出。水泳を捨てるつもりでいた。

兄の正一が嫁をもらって家業をぎ、晴れ舞台に戻ってきたが、半年休んだ泳ぎは精彩を欠いた。ただ、世話になった人たちへの恩返しの思いだけがくずれそうな心を支えた。

そうして出場したロサンゼルス大会。200m平泳ぎで1位に0秒1差の2位となった。自己ベストを実に6秒も短縮した銀メダルに、「これで引退できる。あとは花嫁修業を…」と小おどりして帰国した。

ところが、祝勝会が開かれた東京・日比谷公会堂で思わぬひと言が待っていた。

「たった1秒の10分の1の差だよ。くやしくはないのかい。どうだ、ベルリンでもう一度、がんばってみないかね」

1940年オリンピック招致をめざす東京市長、永田秀次郎の言葉が負けず嫌いに火をつけた。前畑は1日2万m泳ぐと目標を課し、午前5時起床、朝・昼・晩と1日3回泳ぐ。プールに入れない冬場は陸上トレーニング。すべては「ベルリンの金メダル」のためであった。

寝付けなかった夜が明けたベルリン大会

1936年ベルリン大会女子200m平泳ぎの前畑秀子

1936年ベルリン大会女子200m平泳ぎの前畑秀子

決勝、やはり落ち着かず、思いあまって持参したお守りを丸めて水で一気に流し込んだ。「金メダル」が重圧だった。周囲にも緊張感が伝染し、負けたら前畑は自殺するかもしれないと、厳重な警戒態勢もとられたという。

さて、200mのレースはスタートから前畑が1ストロークほどリード、ゲネンゲルが追い、壮絶なデッドヒートとなった。50m、100m、その差は変わらず、逃げる前畑をゲネンゲルが追う。最後のターンをしてもその差は変わらず、このとき実況したNHKラジオの河西かさい三省さんせいアナウンサーは「がんばれ! がんばれ!」「前畑リード! 前畑リード!」「前畑がんばれ!」と絶叫。「がんばれ」を23回も繰り返した。

そして、ついに前畑の手が一瞬速くゴール板をたたいた。3分3秒6。悲願の金メダルは、2位ゲネンゲルと0秒6差であった。

「勝った!」「前畑勝った!」と河西はここでも18回、「勝った」を繰り返した。中継は深夜にも関わらず、ラジオに耳を傾けていた国民を熱狂させた。実況の主旨からは外れた中継ではあったが、前畑の金メダルとともに後世に語り継がれる放送となった。

前畑を頂点に、戦前の日本水泳陣は「水泳ニッポン」と呼ばれ、世界に君臨した。

戦前、国を背負い周囲の期待に応えようとした時代のヒロインが前畑秀子なら、いまの時代を象徴するヒーローは北島康介きたじまこうすけである。

1982年9月22日、北島は東京・西日暮里に生まれた。精肉店を営む両親のもと、5歳で東京スイミングセンター(東京SC)に通い始めた。現代の子どもたちが水に親しむ過程の通りの幼少期だが、ちょっと違っていたのは才能を見抜いて指導するコーチに恵まれたことだ。平井伯昌ひらいのりまさという。平井は早稲田大学水泳部出身、1986年に卒業すると、反対を押し切り東京SCに入社、泳げない大人や子どもたちの指導にあたっていた。

康介少年は「小学生の時から周囲に人が集まって来る人気者で、コーチの言うこともよく聞く抜群に素直な子」だったという。平井によれば、素直な子ほど伸びる。加えて、北島は中学生の時代にはもう、試合が近づくと目つきまで変わる集中力をもっていた。

全国中学校水泳競技大会で優勝、高校1年のときのインターハイ100m平泳ぎで優勝し、高校3年でシドニーオリンピック出場を果たした。100m平泳ぎ4位。これから始まる活躍の序章である。

2004年アテネ大会。北島には「水泳ニッポン」復活への期待があった。すでに2003年に100m、200m平泳ぎで世界記録を樹立していた。しかし、個を基本に置く北島は、重圧と感じていない。

8月15日、100mの決勝に臨んだ北島はライバルのブレンダン・ハンセン(米国)をマークした。ハンセンは大会前、北島の世界記録を塗り替えていた。負けるわけにはいかない。

最初から飛ばすと、ハンセンも追う。しかし、持ち味の大きな泳ぎに崩れはない。リードを保ったままゴールへ。タッチは少しながれたが1分00秒08。ハンセンを0秒17しのいだ。水面を右こぶしでたたいて喜ぶ。「ちょー気持ちいい」はこのときの言葉だ。

2004年アテネ大会男子200m平泳ぎでフィニッシュした北島康介

2004年アテネ大会男子200m平泳ぎでフィニッシュした北島康介

3日後の18日、今度は200m平泳ぎ決勝。100mの激しさと変わり冷静なレース運び。2分09秒44は、2位と1秒36の大差。平泳ぎ2冠は史上4人目の快挙だが、軽くこぶしを握っただけ。まるで勝って当然と言いたげな姿が印象にある。

2008年北京大会。アテネからの道のりは必ずしも順調にいかず、勝てない時期もあった。それでも、オリンピック・イヤーに入ると別人のように調子を上げた。平井が幼少期に見出した勝負への執着だろうか。

8月11日、100m決勝。前半を抑え気味の北島は後半、踊るように泳ぐ。ノルウェーのアレキサンダー・ダーレーオーエンを抑え、58秒91の世界新記録で優勝。日本水泳界では鶴田義行つるたよしゆき以来の大会2連覇に責任を果たした思いか、感極まって声を絞り出した。

「なんも言えねえ…」

そして14日、200m決勝は2位に1秒24差、2分07秒64と他を圧倒しての2冠達成である。平泳ぎの2大会連続2冠は世界初、頂点に立った北島に牽引された日本選手たちも両大会で好成績を収め、まさに「水泳ニッポン」復活であった。

2012年のロンドン大会男子400mメドレーリレーで銀メダルを獲得した日本チーム

2012年のロンドン大会男子400mメドレーリレーで銀メダルを獲得した日本チーム

2012年のロンドン大会、北島は日本水泳史上初の4大会連続出場を果たした。個人種目は残念ながらメダルを逃したものの、400mメドレーリレーで銀メダルを獲得した。そのとき、バタフライを泳いだ松田丈志まつだたけしの言葉がふるっていた。「康介さんを、手ぶらで帰すわけにはいかない」。北島が日本水泳史上最高のスイマーとして認知された瞬間ではなかったか。

アテネ、北京の北島の印象的な言葉も含めて、これらはテレビで全国に放映された。水泳ニッポン新時代の現われといってもいいだろう。

古橋廣之進ふるはしひろのしんが、そんな選手たちの姿を見ていたらどんなにか喜んでいたことだろう。

戦争責任から日本が出場できなかった1948年ロンドン大会、日本水泳界はロンドンの水泳競技と同じ時間帯で日本水上選手権を開催した。古橋は男子1500m自由形で、ロンドン大会の優勝タイムを大幅に短縮する驚異的な“世界新記録”で優勝した。

戦後、世界新記録を立て続けに出した古橋廣之進

戦後、世界新記録を立て続けに出した古橋廣之進

これをきっかけに翌1949年、ロサンゼルスで開かれた全米水泳選手権に招かれると、1500、400、800m自由形と800mリレーの4種目すべてに世界新記録をうちたてて優勝した。「フジヤマのトビウオ」と称えられたときである。古橋は、敗戦にうちひしがれた日本国民に希望の火を灯し、国際舞台復活に大きな力となった英雄だった。

しかし、参加がかなった1952年ヘルシンキ大会では400m自由形で8位と惨敗。前々年、遠征先のリオデジャネイロで口にした1杯のコップの水でアメーバ赤痢せきりを発症し、往時の体力が戻らなかった。心を残したまま、現役を終えた古橋は以降、日本水泳連盟会長、国際水泳連盟副会長、そして日本オリンピック委員会会長としてオリンピック運動に貢献、スポーツ界初の文化勲章を受賞している。
その最晩年、「水泳は個人競技だが、団体競技でもある」と語った。自身の経験からくる理想であり、後に日本水泳陣が「チーム・トビウオ」と名乗るが、まさにロンドンのメドレーリレーが体現した世界であった。

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スポーツ歴史の検証
  • 佐野 慎輔 尚美学園大学 教授/産経新聞 客員論説委員
    笹川スポーツ財団 理事/上席特別研究員

    1954年生まれ。報知新聞社を経て産経新聞社入社。産経新聞シドニー支局長、外信部次長、編集局次長兼運動部長、サンケイスポーツ代表、産経新聞社取締役などを歴任。スポーツ記者を30年間以上経験し、野球とオリンピックを各15年間担当。5回のオリンピック取材の経験を持つ。日本スポーツフェアネス推進機構体制審議委員、B&G財団理事、日本モーターボート競走会評議員等も務める。近著に『嘉納治五郎』『中村裕』(以上、小峰書店)など。共著に『スポーツレガシーの探求』(ベ―スボールマガジン社)『これからのスポーツガバナンス』(創文企画)など。