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「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。

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日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。

2. クーベルタンとオリンピック復興

【オリンピックの歴史を知る】

2016.11.22

パリから北へ、はるか英仏海峡を望むノルマンディーの地にミルヴィルはある。ピエール・ド・クーベルタンの母方の実家ミルヴィル侯爵家こうしゃくけの領地。母アガト・ガブリエルが父シャルル・ルイ・フレディと結婚したときに持参した塔をもつ古城が現存している。

クーベルタンは幼少期の大半をそこで過ごした。長じても好んで滞在、オリンピック復興の構想を練ったゆりかごでもある。

「クーベルタンの生まれはフランスの土に深く根ざしている。しかし、彼は自分のうちにノルマンの古い血筋を感じていた。祖父母の館がそびえる往古からの断崖の高みに立って“呼び声”を聞いたのである」

ドイツの体育学者でクーベルタン研究の大家、1936年ベルリンオリンピック組織委員会事務総長だったカール・ディームは、のちにこう述べた。

クーベルタンは1863年1月1日、15世紀のイタリア貴族フレディ家に端を発した名門貴族の三男としてパリに生まれた。

オリンピックの創始者ピエール・ド・クーベルタン男爵

オリンピックの創始者ピエール・ド・クーベルタン男爵

海の向こうの英国では産業革命が起き、スポーツの制度化が進み、伝統的な名門校では教育に取り入れられていた。
一方、フランスは1870年に起きたプロシャとの普仏戦争、翌年ナポレオン3世の第二帝政が倒されて第三共和政に移行するなど混乱期にあった。

クーベルタンは神学寮に源をもつコレジュで中等教育を終えると1880年陸軍士官学校に入学した。
当時の貴族は軍人か、法律で身を立てるか、どちらか選択するのが常だった。しかし、軍事的な教育になじめず数カ月で退学。
自分を見失っていたある日、ミルヴィルの館で手にしたフランスの哲学者、イポリット・テーヌの著作「イギリス・ノート」によって生き方を変えた。

正しくは、テーヌの著作に引用されていた当時のベストセラー小説、トマス・ヒューズの「トム・ブラウンの学校生活」でうけた衝撃によってである。
主人公トム少年がパブリックスクールを舞台に、学業にスポーツに躍動する。
そこに青少年教育の理想を思い、推進者とされた教育者トーマス・アーノルドの生き方に自分を投影していくのだった。

1883年、20歳になったクーベルタンは初めて英国へ渡る。イートン、ハロー校など名門パブリックスクールの実際に触れた。そこには間違いなく「トム・ブラウンの学校生活」の世界が広がっていた。人の成長には肉体と精神との融合が必要である。そう考えたクーベルタンは感激のあまり、ラグビー校にあるアーノルドの墓に参り「フランスにおけるアーノルドになる」と決意する。ディームのいう“呼び声”にほかならない。

クーベルタンは父シャルルが切実に入学を願い通っていた法律学校を1年で退学。スポーツと教育を自らの生き方とさだめた。幾度かの英国訪問を経て、フランス・スポーツ連盟を結成。1889年にはフランス教育省から近代スポーツ普及の研究を命じられた。プロスポーツも誕生しスポーツ先進国となっていた米国を訪問。世界各国に学校でのスポーツ教育に関する質問状を送るなど、意識的に交流を広げていった。

同じころ、クーベルタンを刺激する別の動きも起きていた。ドイツ帝国による古代オリンピア遺跡の発掘である。考古学者ハインリッヒ・シュリーマンの指導をうけた発掘団は粘り強い作業を続け、1881年までに主要な遺跡の発掘を終えた。この発掘により、当時の欧州では古代への夢が語られていた。

こうした空気のなかで、クーベルタンは肉体と精神との融合の理想として古代ギリシャで行われていた「"オリンピック"の復活」への意志を固めていくのである。

じつは、彼の前にもオリンピック復興の動きはあった。1850年代には英国中西部の小さな町、マッチ・ウエンロックでウエンロック・オリンピックと銘打った総合スポーツ大会が開かれている。1830年代にはスウェーデンで2度、スカンディナビア・オリンピック大会が開催され、ギリシャでも1859年からパン・ヘレネス・スポーツ・フェスティバルが開かれていた。スエズ運河を建設したフランス人外交官、フェルナンデス・ド・レセップスも復興を唱えた一人だった。

機は熟していた。クーベルタンは1892年11月25日、フランス・スポーツ連盟創立5周年記念式典で講演。初めて「オリンピックの復興」を説いた。このときの反応はまだ芳しいものではなかったが、周到な準備を重ねた2年後の1894年6月23日、パリ大学の大講堂で開いたパリ国際アスレチック会議の席上、「“オリンピック”の復興」が満場一致で決議されたのである。

1894年の第1回国際オリンピック委員会総会

1894年の第1回国際オリンピック委員会総会

このとき、第1回大会を2年後の1896年にオリンピックの故郷であるギリシャのアテネで開くことが決まった。さらに、その年を4年周期とする近代オリンピアードの1年目とする、4年に1度の開催、理念を広げるために開催地を替える、競技種目は近代スポーツに限ることなどが決まり、競技大会の運営母体としての国際オリンピック委員会(IOC)創設も決まった。初代会長にギリシャ人のデメトリウス・ビケラスを推し、クーベルタンは事務総長に就く。すべては円滑な運営のためであった。

クーベルタンはこの会議で、「スポーツの力を取り込んだ教育改革を地球上で展開し、これによって世界平和に貢献する」という理想を説いた。後に「オリンピズム」と表現される「理念」である。しかし、実際は大半の委員たちは理解していなかったという。理念よりも総合競技大会という“目新しさ”に飛びついたのが実情であったろう。

それでも教育者であるクーベルタンは理念にこだわり、1925年にIOC会長を退くまで、いや退いた後までも「オリンピズム」の理解、浸透に努めた。

今日、オリンピック運動の憲法ともいうべき『オリンピック憲章』は「オリンピズムの根本原則」をこう書き起こす。

「オリンピズムは肉体と意志と精神のすべての資質を高め、バランスよく結合させる生き方の哲学である。オリンピズムはスポーツを文化、教育と融合させ、生き方の創造を探求するものである。その生き方は努力する喜び、良い模範であることの教育的価値、社会的な責任、さらに普遍的で根本的な倫理規範の尊重を基盤とする」

憲章の理念を簡単にいえば、オリンピズムとは生き方の哲学で、目的は平和な社会の構築に寄与すること、スポーツを人類の調和の取れた発展に役立たせることといえようか。

このオリンピズムを推進する活動を「オリンピック・ムーブメント」といい、競技大会をムーブメントの頂点とする。また、スポーツをすることは人間がもつ権利であり、どのような差別も受けず、友情や連帯、フェアプレー精神とともに相互理解を深めると規定している。スポーツの本質、原点といえよう。

クーベルタンは理想追求のため、友人たちの言葉まで借りた。例えば「より速く、より高く、より強く」というモットーは、友人である神父のペーター・ディドンが1897年のIOC総会で語った演説である。

「オリンピックは勝つことではなく、参加することに意義がある」。これもまた有名な言葉だが、1908年の第4回ロンドン大会で米国と英国の選手たちの対立を重くみたペンシルベニア主教が、日曜礼拝で選手たちをさとした説教である。クーベルタンはわかりやすい言葉で理解を深めようとしたのだった。

14カ国の参加で始まったオリンピックはいまや、200を超える国・地域が参加する地上最大の組織、イベントとなった。第1次、第2次世界大戦や東西冷戦時のボイコット合戦、財政危機などを乗り越えた歴史を持つ。

クーベルタンの面目躍如めんもくやくじょといいたいところだが、1927年、彼はこう演説した。
「もし
輪廻りんねというものが実際に存在し100年後にこの世に戻ってきたなら、私は自分が作ったものをすべて破壊することでしょう」

教育者として自分が描いていた理想と現実との乖離かいり、苦悩がいわせた言葉であろう。人類が深く噛みしめるべき言葉である。

ピエール・ド・クーベルタンは1937年9月2日、スイス・ジュネーブのラグルンジュ公園を散策中、急逝きゅうせいした。74歳。家族的には恵まれず、寂しい晩年であった。ちなみに、ミルヴィルの古城は事業に失敗したクーベルタンが手放したが、家督を継いだ姪の息子、ジョフロワ・ド・ナヴァセル・ド・クーベルタンによって買い戻された。

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スポーツ歴史の検証
  • 佐野 慎輔 尚美学園大学 教授/産経新聞 客員論説委員
    笹川スポーツ財団 理事/上席特別研究員

    1954年生まれ。報知新聞社を経て産経新聞社入社。産経新聞シドニー支局長、外信部次長、編集局次長兼運動部長、サンケイスポーツ代表、産経新聞社取締役などを歴任。スポーツ記者を30年間以上経験し、野球とオリンピックを各15年間担当。5回のオリンピック取材の経験を持つ。日本スポーツフェアネス推進機構体制審議委員、B&G財団理事、日本モーターボート競走会評議員等も務める。近著に『嘉納治五郎』『中村裕』(以上、小峰書店)など。共著に『スポーツレガシーの探求』(ベ―スボールマガジン社)『これからのスポーツガバナンス』(創文企画)など。