10月22日、第6回スポーツアカデミーが行われました。
今回は、スポーツ白書2014のトピックスで「トップアスリートのアイデンティティ」をご執筆いただいた株式会社ポリゴン代表取締役で当財団理事の田中ウルヴェ 京 様にご講義いただきました。
【当日の概要報告】
※以下の報告は、別掲の当日資料と合わせてご覧ください。
株式会社ポリゴン代表取締役
田中ウルヴェ 京 氏
主な講義内容
1. 講義~主なポイント~
(1)Personal Background~日本における「アスリートのためのキャリアプログラム」との関わり
- 講義を開始するにあたり、講師である自分自身のアイデンティティ(講義の立ち位置)をPersonal Backgroundをもとに説明。(説明資料スライド1参照)
現在は「メンタルトレーナー」「教授・研究員」「企業の代表取締役」の3つのアイデンティティをもつ。
- 日本においては、Jリーグのキャリアサポートセンターに設立時(2002年)から参画したのが、アスリートのキャリアプログラムに携わった最初の経験。
(2)競技引退とアスリートキャリア
- オリンピックアスリートの引退後のキャリアトランジションに関する本格的な議論は1980年代後半から、主に諸外国のオリンピック委員会(以下、NOC)で始まり、1990年代後半に、日本国内においてもキャリアトランジション・プログラム構築の必要性が有識者間で検討されはじめた。
- 1990年代後半のキャリアトランジションに関する先行研究においては「エンハンスメント、サポート、カウンセリングの要素を備えているべき」(Petipas, Brewer and Van Raatle, 1996 )、「スポーツ以外でのスキルをのばすこと」(Wylleman, Lavallee and Alfermann, 1999)、「引退前に適応準備プログラムをおこなうこと」(Lavallee, 2000)などが指摘されている。
(3)プログラム構築の背景:なぜキャリアを考えることが必要なのか
- アスリートのキャリア支援が必要な理由については、2006年に行われたInternational Athletes Services Forum (アスリートのキャリアトランジション支援や、ライフスキル教育などに関する専門家、実践家が世界中から集まる国際会議。以下、IASF)でまとめられた以下4つのポイントがわかりやすい。
1)「時間的背景」
幼少時より競技生活に入り、長く競技に専心しなければならないケースが多く、社会人としてのセカンドキャリアのプランニングの開始が遅くなる。スポーツ科学の発達により競技人生が長くなり、男性アスリートの場合は引退時に養うべき家族をもっているケースも多い。また、女性アスリートは「ソーシャルクロック」(直訳すれば“社会時計”。○○歳までに結婚して△△歳までに出産などの時間軸)に悩む場合も多い。
2)「コミットメント度の質的・量的背景」
オリンピック出場レベルのアスリートの場合、競技にフルタイムでコミットするため、現役でいる間は引退後のことを考える余裕がないほど競技生活に没頭する。また、引退後、アスリートとしての自分以外の生き方は考えられないという精神的なコミット性もある。(そのコミットメントが競技力向上につながるかは別問題)さらに、現役時に引退後のキャリアについて考えることは「余計なこと」であり、余計なことは自身の競技成績に良い影響を及ぼさないと考える場合も多い。
3)「ビジネスキャリア的背景」
USOC(米国のNOC)が2006年にオリンピック指定強化選手を対象に行った調査では、平均的なトレーニング時間が1日9時間という結果が出た。一般的な労働者の就労時間が1日8時間であることを考えると高いコミット性がうかがえる。仮にそのアスリートが大学で経営学やビジネスを学んだとしても、卒業後もそうした長時間のトレーニングが必要な競技生活を過ごすことになれば、同級生とのビジネスキャリアはどんどん差が開くことになる。また、長時間のトレーニングと両立が出来る仕事を選ぼうとすると選択肢は狭まり、消去法的に選ばざるを得なくなる。さらに大学卒業後、何年も経ってからビジネスの世界に飛び込む場合、社会状況も変わっており、大学で学んだ知識がすでに時代遅れのものとなっていることも少なくない。
4)「現場認知度的背景」
欧米諸国における調査において、アスリートの60%以上が将来のキャリアに不安をもっていると回答しているにも関わらず、競技団体や指導者が、キャリア支援プログラムは「後回しをしてもいいプログラム」と認知しているという結果が確認された。(Monster.com & Harris Interactive,2001)
こうした背景から、欧米ではキャリア支援プログラムがオリンピックの開催と前後して検討・着手され始めたという経緯がある。(例:米国における1984年ロサンゼルス五輪、カナダにおける1988年カルガリー五輪)
これは、オリンピックの開催国として数多くの金メダリストを自国から輩出させたいと考えることを背景としているともいえる。この背景の説明として、昨年度のJSCによるデュアルキャリアに関する調査研究のなかで引用されたイギリスのパフォーマンスディレクターの言葉がある。そこでは「金メダルを1個取るには、3人の金メダルを取れる選手を育成しなければならない。その3人の金メダル候補の下にはその3人にプレッシャーをかけるために、9人のアスリートを揃えておかなければならない。」とある。さらに、その後の記述で、その下のタレントレベルになると36人のアスリートをプールして育成しなければならない。しかし金メダルをとるのは1人である。その他の47人のエリートアスリートはその後どうなるのかを考えなければならない」とある。
つまり、1人の金メダリストを生み出す一方で、それだけのアスリートが、例えて言えば、金メダリストにはならず(あるいは、オリンピックに出場することなく)引退をするわけで、それらに対しキャリア支援プログラムが必要となるということになる。
当然、選手に引退があるという事実はすべての競技に共通する。引退によって生起する諸問題を解決するために必要なのが、広義な意味での教育であり支援。欧米では、1980年代後半からそうした課題に向き合い「引退後の人生もないがしろにしないための支援」の研究と実践が続けられた結果、「選手が先のキャリアを考えることで、将来への不安を減らし、結果、競技により高い密度で集中できるようになる」という成果が認知され始めた。
(4)競技引退とアスリートキャリアに関する言葉
- アスリートのキャリアに関しては様々な言葉が用いられてきた。先行研究では、Career Termination、つまり競技引退という表現がよくつかわれた。その後は、Athletic Retirement。どちらも「キャリアの終わり」という意味合いで共通する。
- そこから、Career Transitionという表現が使われ始めた。アスリートとしてのキャリアが終了しても人生は続くことから、ひとつのキャリアと次なるキャリアの「節目」としての「時間的状態」を意味するこの表現が使われるようになった。
- また、「Second Career(セカンドキャリア)」という表現もよく耳にするが、これに「支援」をつけて「セカンドキャリア支援」というときは「引退後の新しいキャリアを見つけるための就職支援」という意味合いを持つ場合が多い。一方で、キャリアトランジション・プログラムという場合は、心理的なサポートが介入するという意味合いがある。アスレティック・アイデンティティは、このキャリアトランジションの中で生じる心理的葛藤に影響する因子の一つである。
- キャリアサポートという場合は、キャリア全般のサポートという事になるが、とくにスポーツのコミュニティ以外のコミュニティとのネットワーキングをサポートするという意味合いで用いられることが多い。
- 欧米ではここ数年、デュアルキャリアという概念でのキャリアトランジション・プログラムが主流となりはじめている。デュアルというのは「2つの」という意味。ファースト、セカンドとキャリアを分けるとファーストキャリアの間にセカンドキャリアのことは考えなくていいというように解釈される可能性がある。選手としての自分と選手以外の自分という2つの(デュアル)アイデンティティを同時にもっていると自覚することでそうした課題にも対処できる。トータルの「人としての自分」を意識して高めようとすることで、アスリートとしての自分のパフォーマンスにも、キャリアトランジションにも良い影響を与えるという考え方が広まりつつある。
(5)アスレティック・アイデンティティとは
- アスレティック・アイデンティティを1993年にBrewer氏らが発表した定義の直訳にもとづいて説明すると、「自分を選手だと考えたり感じたりする度合い」となる。「選手としての自分」を認知することとも言いかえられる。トップアスリートであればあるほど、このアイデンティティは強く、また競技パフォーマンスにもポジティブに影響する。
- アスリートのキャリアトランジションがうまくいかない場合の典型的な理由のひとつに「感情的な喪失感」がある。選手としての自分に対して「自己アイデンティティ」を強く持っている選手ほど、その喪失感は強くなる傾向がある。「選手として以外の人生が考えられない。選手としての自分以外は自分ではない。」というアイデンティティの持ち方が、引退時および引退後に抱えるストレスの原因になりやすい。(Wylleman, et al., 1999)
(6)引退時におけるアスレティック・アイデンティティ
以下、中込四郎筑波大学教授が2012年に発表した論文を抜粋紹介。(説明資料PPT参照)
- ここで述べられている「アイデンティティの再体制化の課題を突き付けられる」ことこそ、アスリートにとって必要であり、ここで悩むからこそ「新たな個性化」を果たせるという指摘は重要。
(7)競技引退時の心理的問題
強いアイデンティティ問題を含め,現役引退時にともなう選手特有の心理的問題としては、次の5つが指摘されている。(Taylor and Ogilvie,1998)とくに2. がほかの項目に深く関わっている。
- 競技そのものから得られた様々な価値の消失に対する失望感
- これまでの自己アイデンティティを消失したと思ってしまう寂寥感
- 引退せざるを得なくなった場合の外的環境に対する怒り
- 将来への漠然とした不安
- 選手という特別なステイタス消失に対する失望感
(8)トップアスリートのアイデンティティ
トップアスリートのアイデンティティを踏まえた上で、それをキャリアトランジション支援にどう生かすのか、どういう点に留意すべきかを3点にまとめた。
- 下山には時間がかかる(時間をかけてもいい)
競技人生を山に喩えた場合、競技引退は下山を意味する。アスリートの下山には「時間がかかる」(時間をかけてもいい)ということを理解することが重要。「山は一つしかない」と思ってしまっているアスリートや、「頂上に居続けられる」と思っているアスリート、「そもそも山の頂上にいる感覚がない」アスリートなど、引退感は様々。そもそも、今の自分は山のどこにいるのか、下山を自分はどうとらえるのか…といった「自分ならではの悩み」時間が必要なこと、それは新たなセルフ・アイデンティティの再構築であることをアスリートが気づくには時間がかかる。
こういったアスリートのキャリアトランジションのサポート時における、講師のこれまでおこなったプログラム事例の一つをあげると、たとえば、選手としての自分が何を成しとげたのか、何をやり残したのかを客観的に整理させること、価値観を確認すること(安心、友人、名誉などのどれを大事にするか、など)を実践し、次のキャリアに活かせる要素の抽出を促すことがある。
- Conformism(大勢順応)の弊害
「過度の一般化」とも言いかえられる。「○○であるべき」という考え方に固執してしまうこと。たとえば「トップアスリートの引退後の人生はこうあるべき」のような一般化。この一般化には良い面も悪い面もあるため、そこに気づき、自分はそれに順ずるのか抗うのかを考える点に主体性が生じる。自身がConformism(引退後のトップアスリートは経験を活かして指導者になるべき、など)の中に放り込まれていることを自覚しないでいると、主体性のないまま引退後のキャリアを決めてしまう(決まってしまう)。競技団体、指導者にも必要な視点といえる。指導者は選手の主体性を日々の指導によってどう構築するかを考えることが必要となる。主体性を育むという観点では(師の教えを)「守り、破り、離れる」の守破離の原則の中でも「離れる」をとくに意識することが、個人の尊重、多様性という点で重要と考える。
- 「やる気の変換作業」
引退後、アスレティック・アイデンティティをコーチとして生かす場合、選手としてのモチベーションのままで指導者になることでつまずくケースがある。それまで選手としての自分自身を作り上げてきた人が、そこで培ったものを選手一人一人の個性に合わせて継承させていく場合には、しっかりサーバントリーダーシップ的なマインドチェンジをして臨むことが求められる。キャリアトランジションにおける心理では、それをgenerativity(世代継承性)と呼ぶ。
【参考文献】
- Coakley, J. J. (1983). Leaving competitive sport: Retirement or rebirth? Quest, 35: 1-11.
- Ogilvie, B.C., & Taylor, J. (1993). Career termination issues among elite athletes. In R.N. Singer, M. Murphey, & L.K. Tennant (Eds.), Handbook of research on sport psychology (pp. 761-775). New York: Macmillan.
- Wylleman, P., Lavallee, D., & Alfermann, D. (1999). FEPSAC Monograph Series. Career transitions in competitive sports. Lund: European Federation pf Sport Psychology FEPSAC
- Brewer, B. W., Van Raalte, J. L., & Linder, D. E. (1993). Athletic identity: Hercules' muscles or Achilles' heel? International Journal of Sport Psychology, 24, 237-254.
- Werthner, P., & Orlick, T. (1986). Retirement experiences of successful Olympic athletes. Journal of Sport Psychology, 17, 337-363.
- 中込四郎 (2012). 競技引退後の精神内界の適応. スポーツ心理学研究第39巻第1号 (pp. 31-46), 2012
- Taylor, J., and Ogilvie, B. C. (1998). Career transition among elite athletes: is there life after sports? ; In J. M. Williams (Ed.), Applied sport psychology: Personal growth to peak performance. Mountain View, CA: Mayfield, pp. 429-444田中ウルヴェ京 (2009). トップアスリートのキャリアサポート. SCO-OP国際セミナー2009