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「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。

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日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。

スポーツアカデミー2014 第3回

スポーツ文化としての暴力

6月27日、第3回スポーツアカデミーが行われました。
今回は、スポーツ白書2014のトピックスで「スポーツ文化としての暴力」をご執筆頂いた毎日新聞社論説委員の落合 博 様にご講義いただきました。

【当日の概要報告】

1. 講義~主なポイント~

本講義を通じて、スポーツにおける暴力について以下「考えるヒント」を提供したい。

毎日新聞社 論説委員 落合 博 氏

毎日新聞社 論説委員 落合 博 氏

1)体罰ではなく、「暴力・虐待」と呼ぼう

  • 街中で行われる暴力行為は犯罪となるが、学校で行われる暴力は「体“罰”」と呼ばれ、指導者の刑事責任はまず問われない。暴力を振るわれた側は何の『罪』を犯して『罰』を受けねばならなかったのか? 体罰という表現は正しいのか?

2)それでも暴力を肯定する被害者

  • 笹川スポーツ財団(以下、SSF)の調べ(「部活・サークル活動に関する調査」2013年7月実施)によると、高校の部活動(運動系・文化系)における暴力行為は減少しているものの、部活動で暴力行為を受けたことがある回答者の約7割が「部活動に満足している」と回答。暴力行為を受けたことがない回答者の約8割も同様に「満足」と回答しており、暴力は満足度を左右する大きな要因となっていない。

3)ドメスティックバイオレンス(DV)と「疑似家族」としての「部活動」

  • 「配偶者からの暴力の防止及び被害者の保護に関する法律」(通称「DV防止法」)が2001年に成立するまで、家庭内暴力は「民事不介入」の原則により罰せられなかった。配偶者からの暴力事案は今も増加傾向にある。
  • 部活動における暴力も「ありふれたもの」として見過ごされてきた。DVとは「閉鎖的な空間」「上下関係(支配あるいは服従)」「加害者を擁護する被害者の言葉(悪いのは自分)」の3点で共通する。

4)「情動」の基準=「好ましい/好ましくない」の基準は変わる

  • かつてありふれていて問題視されなかった事柄も、時代や社会の変化によって問題視されるようになる。(例:セクハラ、パワハラなど)社会学者の故ノルベルト・エリアス氏は、「情動(何を好ましい/好ましくないと感じるか)の基準は時代や社会の変化によって変わる」と指摘した。かつて暴力によって解決されることが当然視されていた紛争が話し合いによって解決される方が好ましいとみなされるようになったのも一例である。

5)山本 徳郎 氏の「非暴力宣言!?」

  • 奈良女子大学名誉教授の山本 徳郎 氏は「非暴力宣言!?」と題した論文(国士舘大学 体育・スポーツ科学学会「体育・スポーツ科学研究」2006年第6号)の中で、「(理性、労働、遊戯などに加え)暴力も人間の本質をなすもの、つまり人間を他の動物と区別するものなのではないかと思えてくる。(中略)人間には他の動物に無い『狂い』『違い』『ズレ』があり、それが個性、性格を作り出している。暴力を否定することは、人間の根源を否定し、人間の画一化、動物化(非人間化)へ向かうことになる。我々体育やスポーツに関わる者も、体育教師やスポーツマンである前に、各人の『狂い』や『ズレ』を大事にできる一般的な人間でなければならない」としたうえで「このことを十分自覚して、我々は『非暴力』を宣言しなければならない」と結んだ。スポーツと暴力を考えるうえで傾聴すべき指摘である。

6)一緒に考えてほしいこと

  • 「部活動暴力防止法(仮称)」制定の検討と学校への「公権力介入」の是非
  • 国家賠償法によって部活動指導における公立校教諭の過失責任を問えるか?(大分県、滋賀県のケースを注視)
  • 道徳教育において「指導上の体罰・暴力は必要」と答える生徒に「不正解」と評価することは特定の価値観の押しつけになるか?
  • 相手を「個人として尊重する」ということ
    (年下、人生経験が乏しい相手であっても)かけがえのない個人として尊重するために、学生を「さん付け」で呼ぶ大学教授、部員を「愛称」で呼ぶ陸上部監督、部員に「選択肢=スポーツの面白さ」を示し続けた故 岡仁詩氏(同志社大学ラグビー部 元監督)

7)「指導」を「縦ではなく横に」

  • 教育社会学者であるヒュー・メーハンは教室における教師と生徒のコミュニケーションを「I-R-E構造」(教師の主導:Initiative、生徒の応答:Response、教師の評価:Evaluation)として分析し「教える人の情報量がまったく増えない」という問題を指摘した。これはスポーツの指導現場にも当てはまる部分が多いのではないか?
  • 神戸大学准教授の小笠原博毅氏は、スポーツの現場において「教えられる側」が「教える側」に依存する関係を指摘する。その関係の延長に「指導という名の暴力」が発生するなら、いっそ、指導を拒否し、指導の余地を狭めて教えられる側が自主管理してはどうかと提案している。容易なことではないと思うが検討すべき提案といえる。

8)まとめ

  • 閉鎖的でなく、開放的であること
    (指導の現場を)誰かにみられていることを意識する。
  • 非対称でなく、対等であること
    他人から言われたことを守るだけではなく、自らの頭で考えることを楽しむ。
    考えの異なる人との対話をやめない。例えば、暴力をふるう指導に成功体験をもつ人に暴力をやめるよう訴えてもすぐには止まらないかもしれないが、対話の窓口をそこで閉ざさない。対話の扉を開放しておく。
  • 「ケアは非暴力を学ぶ実践」(上野千鶴子氏「生き延びるための思想 新版」岩波現代文庫)より
    子どもや高齢者など、ケアを必要とする対象への接し方を身に付けるなかで、暴力性をどう抑制するかを学ぶことができるのではないか。相手をいたわるマインドをもつことは何かを指導する際に必ず役に立つ。
  • 人生をどう生きていくのか? の問題
    一般的には、アスリートとしての一線を退いた後の人生のほうが長い。選手として高いレベルで競技していた何年間かの活動内容や成績だけでその後の人生が決まることはない。一線から引退した後「これから、より豊かな人生を生きていくにはどうすれば良いか?」を自ら考え、異なる考えをもつ人間と対話し続けることでスポーツも含め、さまざまなものの見方も変わる。

2. ディスカッション

聞き手:笹川スポーツ財団研究員 吉田 智彦

主なやりとり

Q.(聞き手)昨年、学生スポーツ、トップスポーツの別なくスポーツの指導現場における暴力行為が頻発し、下村文科大臣が「日本のスポーツ史上最大の危機」とのメッセージを発信した。スポーツと暴力の関係は根深い問題ではあるが、スポーツ白書を通じて議論喚起すべきと考え、落合さんに本トピックスを執筆いただいた。昨年の一連の事案を受け、暴力根絶に向けたさまざまな動きがあると思うが、この流れでいけば日本のスポーツ界から暴力はなくせるとお考えか?
A.

(講師)実際に、暴力事案は減ったし、今も減っている。先ほどの「情動」の話もあるとおり「スポーツ指導における暴力=好ましくないもの」の認識は広がっていると思う。ただ、講義でも紹介した山本氏の指摘のとおり、人間は誰でも暴力性を備えており、暴力をふるいたくなる衝動・誘惑にかられる。その観点から言えば、完全になくなるということはないだろう。

Q.(聞き手)スポーツ指導において暴力がふるわれる原因は、指導者を育成するプロセス(制度やカリキュラム)に問題があるとお考えか? それとも制度云々ではなく、個人の資質の問題とお考えか?
A.

(講師)個人の資質といってしまうと身もふたもないが、大きな視点でいえば「どれだけ社会的な経験を積んでいるか」は重要だと思う。とくに、先ほど紹介した上野氏がすすめる「子育てと介護」という社会経験を通じて、サポートを必要とする人へのアプローチを身に付けるのは大事な素養のひとつになるのではないか。

Q.(フロア)暴力を用いた指導は結局、「成果」につながっているのか?
A.

(講師)何をもって「成果」とするかにもよる。例えば、試合の後半になって選手の動きが緩慢になったと判断して、暴力や暴言を通じて自分の指示に意識を集中させ、試合に勝った場合の「成果」には二通りあるのではないか。すなわち、試合に勝ったという成果と、暴力によって選手を従わせたことへの周囲の批判(非難)という後ろ向きの成果の二つである。後者の「暴力による勝利は真の勝利(成果)ではない」という考え方が浸透するかどうかはまさに情動の問題。「成果」の定義を狭めるべきではない。

ディスカッションの様子

ディスカッションの様子

※ディスカッションにおいては、上記に加え、指導者のメンタルの問題、競技団体による指導者育成のありかたなどについて活発な意見交換が行われましたが、紙面の都合により割愛します。

以上