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次世代の架け橋となる人びと
第55回
日本と海外で異なる「シンクロとは」

藤木 麻祐子

高校時代に初めて米国に留学し、大学卒業後に再び米国へ。現役引退後は指導者として海外を渡り歩いてきたシンクロナイズドスイミングコーチの藤木麻祐子氏。

2008年北京オリンピックではアシスタントコーチとしてスペインを銀メダルに、そして2016年リオデジャネイロオリンピックではヘッドコーチとして中国を銀メダルに導きました。今や世界が注目する指導者のひとりとなった藤木氏に、世界のシンクロ界の現状と今後について語っていただきました。

聞き手/山本浩氏  文/斉藤寿子  構成・写真/フォート・キシモト

「水泳一家」に育った幼少時代

シンクロを始めたころ(小学2年)

シンクロを始めたころ(小学2年)

―― 藤木さんは、現役時代にはアトランタ大会で日本代表に選出され、指導者としてはアテネ、北京、ロンドン、リオデジャネイロと4大会連続でオリンピックに関わっています。そもそも、藤木さん自身が「オリンピック」というものを意識するようになったのは、いつ頃からだったのでしょうか?

私の両親が水泳をやっていまして、それこそ父親は競泳の方でオリンピックを目指していたので、自宅でオリンピックの写真やマークを目にしたり、家族でオリンピックの話をしたりして、「オリンピック」に触れることが多い環境で育ちました。私自身は7歳でシンクロを始めたのですが、ちょうどその頃に入った「浜寺水連学校」の先輩である元好(現・本間)三和子先生と、木村さえ子さんがロサンゼルスオリンピックに出て、メダルを取ったんです。身近な方たちがオリンピックで活躍する姿を見ていたので、8歳か9歳の頃には「オリンピックに出たい」と思っていました。

―― 競泳ではなく、シンクロを選択した理由は何だったのでしょうか?

母親がシンクロのコーチをしていたということありましたし、自分自身も黙々と泳ぐことよりも、音楽がかかっている中で演技をする方が面白いと感じていました。

―― 母親からの影響が大きかったと。

はい、そうですね。母は子どもの頃、大阪で一番はじめにシンクロを始めた浜寺水連学校に通っていたんです。現在の日本代表ヘッドコーチ(HC)の井村雅代先生とデュエットで組んだこともあるそうです。

―― まさか、おばあさまもシンクロをされていたとか?

祖母はシンクロはしていませんでしたが、競泳の方をやっていました。

―― それでは、一家に受け継がれてきたものがあったんですね。

そうですね。プールに通うのが当たり前の家庭で育ったところはあったと思います。学校から帰ってきたらプールに行って練習するということに、全く違和感なく自然とやっていました。だから今でも、プールに行く生活が苦ではないのだと思います。

叩きこまれた基礎こそが「日本の強み」に

ジュニアオリンピックで優勝(中央)(中学2年)

ジュニアオリンピックで優勝(中央)(中学2年)

―― 7歳からシンクロを始めて、順調に将来を嘱望される選手へと成長されていったのでしょうか?

中学2、3年とジュニアオリンピックの代表に選ばれて、どちらもソロで優勝しました。それでようやくオリンピックが本格的に見えてきたという感じがしていて、次のバルセロナオリンピックに出るだろうという選手が何人かいる四天王寺高校に入った時には、「ジュニアナショナルチーム入りすること」が目標となっていました。実際、高校1、2年の時にはジュニアナショナルチームに入りました。

―― 浜寺水連学校での指導というのは、どんなものだったのでしょうか?

日本のクラブでは、今も同じ環境のところが多いのかもしれませんが、クラブ自体がプールを持っていなかったので、「今日の練習はどこどこのスイミングスクールで」「明日は近畿大学のプールを借りて」というふうに、練習場所がまちまちだったんです。そんなふうにシステム的には恵まれていなかったかもしれませんが、指導者はみんな、現役時代に活躍されて、私が憧れていた方たちばかりでした。練習自体は厳しかったけれども、「あぁ、この練習をしていけば、きっと上にいけるんだろうな」という思いはありましたね。

―― トレーニングの内容も、相当ハードだったんでしょうね。

今考えると、それほどハードではなかったと思いますが、後に自分が米国やスペインに行った時に、「なんで日本が技術的に強いか」と言うと、小さい頃から毎日1時間も柔軟体操をしていたり、毎日2時間みっちりと基本練習をやったりするからなんだなということに気付かされました。当時は、それが面白いと思えなかったところもありましたが、今考えてみたら、そういうことは日本でしかやっていないことでしたし、後々日本がずっとメダルを取り続けていくようになる強みになったんだなと。ですので、厳しかったことは厳しかったけれども、それが後になって役に立ったという実感はありました。

ロサンゼルスオリンピックのデュエットで金メダルを獲得したアメリカのペア  (1984)

ロサンゼルスオリンピックのデュエットで金メダルを獲得したアメリカのペア (1984)

「楽しさ」全開の米国での練習風景

―― 高校2年生で米国に留学されますが、きっかけは何だったのでしょうか?

高校1年の時にジュニアナショナルチームに入って、夏に行われた米国の大会で、ソロで3位になったんです。そしたら帰国した時に、ソウルオリンピックでソロ、デュエットでともに銅メダルを獲得した小谷実可子さんのコーチをされていた金子正子先生から、母を通じて「東京に来ない?」と誘っていただきました。ちょうどその時、小谷さんが米国に行くという話があって、それで金子先生に「あなたもついて行きなさい」と。
実は、私は小さい頃から米国選手のゴーグルの付け方やキャップのかぶり方の真似をするくらい、米国のシンクロに憧れていたんです。ロサンゼルスオリンピックで優勝した米国選手の泳ぎをビデオで何十回、何百回も見て、完璧に振付の真似をできるくらい覚えたりして、とにかく大好きでした。ですので、もしかしたら単位の関係で1年ダブってしまう可能性もあると言われたのですが、そんなことお構いなしで「どうしても行きたい」と両親に頼みこんだところ、両親もスポーツに理解があったので、「あながどうしてもやりたいことなら、行っておいで」と言ってくれました。

―― シンクロがオリンピックの正式競技として初めて採用されたのが、1984年のロサンゼルスオリンピックでした。当時はソロとデュエットの2種目が行われていて、いずれも金メダルを獲得するなど、米国は「シンクロ王国」の時代。まさに世界覇者だった米国への憧れは、相当だったんでしょうね。

はい。当時の日本人は、耳を出してキャップをかぶるのが普通だったのですが、米国選手はみんなキャップの中に耳を入れて、ちょっとだけ前髪を出すというスタイルだったんです。それがすごく格好良く見えて、泳ぎにくいのに、真似をしていました(笑)。

ロサンゼルスオリンピックのデュエットで金メダルを獲得したアメリカのペア   (1984) 

ロサンゼルスオリンピックのデュエットで金メダルを獲得したアメリカのペア  (1984) 

―― 言葉も文化も異なる異国の地である米国では、苦労もあったのでは?

もともとシンクロ以外の部分でも米国が大好きで、小さい頃から英語の歌を意味もわからず歌ったりしていたんです。ですので、「憧れの米国に来たんだ」という嬉しさといったらなかったのですが、留学の条件として語学学校ではなく、はじめから米国の高校に入らなければいけなかったのが辛かったですね。全く英語を話すことのできない私が、地元の普通の高校に入ってしまったものですから、学校の授業は相当苦労しました。米国の学校は、宿題が多いんです。それも、手書きではなくて、大学のようにタイピングしなければいけませんでした。それまでそんな機械を使ったことがありませんでしたから、使い方を覚えるにも一苦労でしたね。
ただ、シンクロの練習は非常に楽しかったんです。今思うと、それが救いだったのですが、チームメイトがすごく楽しみながら泳いでいるんですね。それこそ、キャーキャー言いながらウォーミングアップしたりして(笑)。コーチともお互いにファーストネームで呼び合って、「ここはこう思うんだけど」って、自分たちの意見を言えるような関係性だったんです。コーチが「こうしなさい」「ああしなさい」と言うのではなくて、選手が自分自身の美的感覚を言って、それをコーチが認めてくれる、という感じでした。さらに私にとって恵まれていたのは、一緒にデュエットで組んだ選手が、英語が話せない私を、すごく親身になってサポートしてくれたんです。そのおかげで、練習でも後れを取らずに済んだというところがありました。

ロンドンオリンピック、プール際でアメリカ選手にアドバイス(2012年)

ロンドンオリンピック、プール際でアメリカ選手にアドバイス(2012年)

―― 日本でやってきたことが役に立ったということはありましたか?

はい、ありました。小さい頃からみっちりと技術練習をしてきていたので、同じ年代の米国人選手よりも技術という点では優れていました。「それって、どうやるの?」と選手に聞かれて、教えることも結構あったんです。逆に、芸術的な部分では私の方が米国人選手に学ぶことが多かったので、お互いを尊敬し合えたというのも大きかったと思います。

―― 練習の考え方や方法というのは、日本とは相当違っていたのでしょうか?

日本にいた時も小さい頃は、自分が好きで練習に行っていたので、60%くらいは楽しんでいたと思うのですが、米国では高校生でも「学校が終わったぁ!さぁ、今から楽しむぞ!」というふうな気持ち全開で、毎日練習に行っている感じでしたね。もちろん厳しい練習もありますが、コーチから一方的に「こうやりなさい」と言われることはなくて、決められた練習メニューに対して自分流にやっていいんです。日本では当たり前のように「これは、あかん」「あれは、あかん」とずっと言われ続けてきていたのが、米国では「Oh! Mayu! That's very good!」とかって言われる。「えっ!そんなこと言ってもらえるの?」という感じで、すごく驚きましたね。

―― 大会では、どんな成績をおさめていたんですか?

私が所属していたクラブは、当時は全米でNO.1のクラブで、ロサンゼルス、ソウル、バルセロナと、ずっとメダリストを輩出していました。ですので、彼女らがいるAチームが世界で一番強くて、全米選手権でも1位。私たちのBチームは5位でした。ソロでも、私は5位くらいだったと思います。

藤木麻祐子氏インタビュー風景

インタビュー風景(2016年)

「シンクロが大好き」という思いを出せなかったナショナル時代

―― 帰国してからは、古巣の浜寺に戻られたのでしょうか?

卒業するために、高校3年の3月に帰国をしたのですが、その時に金子先生の方から「東京シンクロクラブに練習にいらっしゃい」と言われたんです。当時は5月に日本選手権があって、卒業をして4月からというのではチームの一員として間に合わないということで、卒業前から毎日東京に通っていました。高校の授業が午後3時くらいに終わって、そのまま新幹線で東京に行って、辰巳のプールで練習をして。終わったら金子先生の車で東京駅まで送ってもらって、夜行バスで梅田まで戻って、そのまま高校に行って……という感じでした。

―― それはすごい生活でしたね。相当、タフでなければできないですよね。

とにかく卒業しなければいけなかったので、なんとか頑張りました(笑)。

―― 高校卒業後は日本大学に通いながら、金子先生が指導する東京シンクロクラブで練習していたと。大阪の浜寺とは、練習内容は違いましたか?

金子先生の教え方は、大阪のように言葉でどんどん来るというようなものとは全く違いました。金子先生も言葉自体は厳しいのですが、選手一人ひとりのいい所を見つけるのがとても上手い方で、そこを上手く使って指導するんですね。「ジュニアナショナル」の立場だった浜寺の時よりも、「次のオリンピックの候補として」という立場だった東京シンクロの時の方が、フィジカル的な部分での練習は厳しかったのは当然ですが、精神的な言葉の突き刺さりというのは浜寺の時よりも少なかったのかなと思います。

―― 東京シンクロ時代は、すぐに日本代表に入れたのでしょうか?

1年目は選ばれませんでしたが、翌年からナショナルチームに入ることができました。

―― どのくらいの人数が選ばれるのでしょうか?

最初はだいたい12~15人くらい選ばれて、そこから削られていく感じですね。

―― 当時、「藤木麻祐子」という選手は、どんなタイプだったのでしょうか?

チームの中で最年少ということもありましたし、とても「傷つきやすい選手」だったなぁと思いますね。今思えば、コーチがなぜ「あんたは、ここがあかん!あそこがあかん!」と言っていたかというと、私を良くしようとしてくれていたからだなとわかるのですが、その時は言葉通りに受け止めてしまって、「はぁ、私はあかんのや」と思ってしまう選手だったんです。先生の話を聞く際も、必ず一番端の方で隠れるようにしていました。

―― やる気はあったのに、出せなかった?

はい。シンクロが大好きで、自分でビデオを観ては、「こういうふうに泳ぎたい」「こんな演技がしたい」という思いはものすごく持っていたのですが、それを先生に言うことができなかったんです。ですので、今、指導者という立場になって、自分と同じように「気持ちはあるけれど、それを表現できないんだろうなぁ」という選手はすぐにわかりますね。あるいは、いつもは私の目の前で話を聞いている選手が、急に端にいたりすると、「あれ、何かあったのかな」と気付いたりすることもあります。

米国で取り戻した「泳ぐ楽しさ」

アトランタオリンピックのチームで銅メダルを獲得した日本 (1996)

アトランタオリンピックのチームで銅メダルを獲得した日本 (1996)

―― 晴れて代表入りを果たしたアトランタオリンピックは、いかがでしたか?

小さい時からずっと「行きたい」と思っていたオリンピックとは違いましたね。現地入りする前の段階から「うわぁ、オリンピックに出れる」と思うことさえも許されない感じがありました。
例えば、選手村で他の国の選手や他競技の選手と話すだけで、「浮かれて、競技に集中していない」というふうに思われる雰囲気があったんです。「ずっと憧れていたオリンピックだ」という思いはすべて封じて、とにかく「メダルを取らなければいけない」と。そのために「これをしなければいけない」「あれをしなければいけない」ということだけを考え、チームの足並みを乱さないようにすることに集中していたんです。競技を終えた時、「あぁ、私は何をやったんやろう」と思いました。

―― それでも、銅メダルという結果を残すことはできたのでは?

そうですね。ただ、私自身は本番では泳ぐメンバーには入れなかったので。

―― その後は、どうされたんですか?

年齢的にも、「次のシドニーが、自分にとっては一番大事な大会になる」と考えていたのですが、正直アトランタから帰ってきた時には、もうシンクロが嫌になっていたんです。「また、こういうふうにコーチから言われるんだろうな」とか「また、チームの足並みを揃える言動を強いられるんだろうな」と思ったら、もう嫌で嫌で……。ちょうど大学3年だったので、とりあえず卒業論文に集中するということで、一度シンクロから離れました。もう、うつ状態のような生活でしたね。3カ月くらいは、ずっとアパートに引きこもって、誰とも話さない毎日を過ごしていました。

―― その状態から、どのようにして立ち直っていったのでしょうか?

ちょうどその時に、留学時代に米国でお世話になったコーチや、一緒に練習をしたチームメイトたちから連絡があったんです。彼女たちはまさか私がそのような状態になっているとは思っていなくて、「麻祐子、オリンピックに出たなんてすごいね!」というようなことを手紙で送ってきてくれたんですね。その時に、彼女たちには「自分は、そんなに嬉しい気持ちではいないし、今はシンクロはしてないんや」ということを素直に言うことができました。結局、1年間くらいシンクロから離れていたのですが、大学卒業が決まったタイミングで、米国のコーチから「こっちに戻ってきたらどう?」と言ってもらえたんです。その2週間後には、米国に行きましたね(笑)。

アトランタオリンピックのチームで金メダルを獲得し喜ぶアメリカの選手(1996)

アトランタオリンピックのチームで金メダルを獲得し喜ぶアメリカの選手(1996)

―― それは、現役選手として米国に行かれたわけですか?

そうです。それまでも、自分としてはまだまだ選手としてシンクロをやっていきたいという思いはあったのですが、ただ日本の中でやっていくというのは精神的にはもう無理だったんですね。でも、高校時代に経験したような米国での練習環境の中で、どうしてももう一度やりたいと思えたので、「米国で現役を終えたい」という思いで行きました。実は、両親や日本の関係者は「もちろん、シドニーに向けてまた戻ってくるんでしょう。そのための勉強として米国に行くのよね」ということで承諾してくれたんです。でも、私の中では戻ってこようという気持ちはありませんでした。

―― 実際、米国で再開してみて、どうでしたか?

その時は、すぐにAチームに入れてもらって、全米選手権でチームは2位でした。

―― 米国でそれだけの好成績を挙げていたのなら、日本関係者から「戻ってきて」という話もあったのでは?

いえいえ、全くそういう話はありませんでした。おそらく、海外で活動している選手に対しては、あまり関心を抱いていなかったのだと思います。「あなたは、もう日本を離れているのだから」という感じだったのではないでしょうか。

―― 藤木さん自身は、もう一度オリンピックに出たい、というお気持ちにはならなかった?

全然、そういう気持ちはありませんでしたね。特に目標を持って泳いでいたわけではなく、とにかく、また大好きなシンクロが楽しくできるようになったことが嬉しかった、ただそれだけでした。

引退の決め手は「最高の仲間と最高の演技ができたこと」

アトランタオリンピックのチームで金メダルを獲得したアメリカの演技 (1996)

アトランタオリンピックのチームで金メダルを獲得した
アメリカの演技(1996)

―― 当時、米国のシンクロは厳しい時代を迎えていました。

そうですね。1996年のアトランタ大会が米国が金メダルを取った最後のオリンピックで、2000年シドニー大会ではひとつもメダルを取ることができませんでした。

―― なぜ、それほど急激に米国のシンクロは落ちてしまったのでしょうか?

まずは、ルールが改正されたことです。それまでは、音楽なしで既定の技の完成度を競う「フィギュア」と、音楽に合わせて振り付けされた演技を競う「ルーティン」だったのが、シドニー大会からは「フィギュア」がなくなり、「テクニカルルーティン」と「フリールーティン」とで競うようになりました。それから、世代交代ということもありました。それまで第一線で活躍していた選手が退き、こぞって新しい選手たちに入れ替わったんです。

―― つまり、世代交代がうまくいかなかったと?

そうですね。それと、ロシアの台頭もありました。アトランタまでは一つもメダルを取ることができずにいたのですが、いきなりシドニーで金メダルを獲得したんです。それまで米国のパワフルな泳ぎが良しとされてきたのが、一転、バレエのような演技が良しとされるようにシンクロが変わっていきました。

―― ちょうどその頃に、藤木さん自身は現役を終えられました。

2000年の全米選手権で、これ以上ないというくらいすごくいいチームメイトと一緒に、「ああだ、こうだ」と言いながらみんなで考えた、とてもやりがいのある演技をすることができたんです。結果は前年に続いて2位でしたが、それでも自分の中で「これが、私の頂点の演技やな」と思えたので、引退することを決めました。

―― あれだけ大好きだったシンクロを、パッと未練なくやめられましたか?

現役最後のシーズンには、既に小さい子どもたちの指導もしていたんです。クラブの方針として、Aチームの選手は子どもたちを見るということがあったので、私は11歳以下の子どもたちを見ていました。そこで指導する楽しみも感じていて、それまでは指導者になると決めてはいなかったのですが、「このまま米国にもいられるなら、コーチになりたいな」と。そういう思いもあって、スッと現役を退くことができたのかなと思いますね。

「技術」よりも「面白さ」を追求するスペイン

北京オリンピックでのスペインチームのクリエイティブな演技 (2008)

北京オリンピックでのスペインチームのクリエイティブな演技(2008)

―― 4年後の2004年アテネオリンピックの時には、日本代表チームのマネージャーとなっていますが、これはどういう経緯だったのでしょうか?

2000年に現役を引退して、その後はずっと米国のクラブでコーチをしていたのですが、その時に金子先生からマネジャーへの打診があったんです。日本としては、海外遠征に行く際に、私のような英語も話せて、かつシンクロにも詳しいという人材が欲しかったと思いますし、金子先生としてはおそらく私が日本のシンクロ界とのつながりが持てるようにという計らいもあったのだと思います。普段の国内での合宿等には参加せずに、海外遠征の時に現地対応だけすればいいということでしたし、私としても海外のシンクロに触れて勉強できるいいチャンスだなと思えたので、2003年の世界選手権からお手伝いをさせていただきました。

―― ふだんは、引き続き米国のクラブで指導されていたと。

いえ、実は2003年からは、スペインでアシスタントコーチとしてナショナルチームを指導していました。私が米国のクラブで選手として泳いでいた時、米国代表の一員としてスペインで開催された大会に出場したことがあったんです。その時に、米国人の中でただひとりアジア人である私のことを、スペイン代表のアナ・タレスHCが覚えていたようなんですね。それで、2003年に再会した時に「あなた、あの時の選手よね」ということで話しかけてきてくれたんです。当時、スペインはどんどん強くなってきていて、「日本の細かい技術を教える人が必要だから」ということで、世界選手権までの短期コーチとして呼ばれたのがきっかけでした。

―― じゃあ、2003年の世界選手権では日本とスペイン、どちらのスタッフとして帯同されていたんですか?

結構、複雑な立場でしたね(笑)。日本チームがバルセロナに現地入りする直前までスペインチームの練習を見て、日本チームが現地入りしてからは日本のマネジャーとして動くという感じでした。

北京オリンピックのチームで初の銀メダルを獲得し喜ぶスペインの選手 (2008)

北京オリンピックのチームで初の銀メダルを獲得し喜ぶスペインの選手 (2008)

―― スペインでの指導はいかがでしたか?

まだ米国での経験を挟んでいたので、違いに対してなんとか理解することができたのですが、おそらく日本から直接スペインに行っていたら、私はやっていけなかったと思います。それまでのスペインのシンクロは、オリンピックでメダルを取ることを目指してやるという道がなかったので、まず練習に対する考え方が非常にルーズだったんです。加えて、アナHCも気性が激しい性格で、今日はいいけれど、明日になるとダメみたいなところがあって、自分の機嫌の良し悪しで練習が変わってしまったりしていました。

一番最初の練習のことは、未だに忘れることはできません。空港から直接練習会場に行ったのですが、その日の練習は終わっていて、「明日は何時から?」と聞いたら「朝9時からだ」と。それで翌日、8時半くらいに行って、器械のセッティングなどをしていたのですが、9時を過ぎても誰ひとり来ないんです。「あれ、時間を聞き間違えたかな?」と思っていたら、9時15分くらいになって、ようやく選手がひとり来たんですね。「私、時間間違えた?」と聞いたら、「いや、9時からですよ」と。「じゃあ、なんで誰も来ないの?」と言ったら、「いつもこんな感じだから」と言うんです。「そんなんでいいんかい」と思いましたよ(笑)。それこそ、HCが9時に来ることは絶対にありませんでした。10時くらいになってようやくHCが来ると、選手たちは十分にウォーミングアップもしていないのに、さぞ動いたかのように疲れているふりをするのが上手かったですね(笑)。

―― 相当苦労されたんでしょうね。

そうですね。ただ、今振り返ると、そういう中でアシスタントコーチをやらせてもらえたことで、プラスになったこともあったなと感じているんです。HCがそういうタイプの人だったからこそ、「今のスペインの選手たちにとって、何が必要なんだろうか」ということを自分なりに考えましたし、「HCがこういうタイプなんだから、アシスタントの私はこうでなくちゃいけない」ということも考えました。HCにないものを持っていなければ、チームのバランスが取れないと思ったんです。例えば、HCが感情的に怒った時には、私は逆に冷静になって選手に指示をしようとか。最初の1、2週間はあまりの違いにビックリしたのですが、その後は「私はこういう存在でいなければいけない」ということを理解して、指導をしていました。

 それに、高校生の時に初めて米国を訪れた時のような楽しさも感じていたんです。スペインの選手たちというのは、自分たちの泳ぎ方に誇りを持っていて、「このルーティンを面白くさせるために、私は何でもする」という姿勢がありました。日本では、「技術」と「同調性」をシンクロと思っているところがあると思うのですが、スペインでは「どれくらい面白いことをするか」というのが8割くらいで、技術なんてものは2割くらいにしか考えていない。それが、すごく新鮮で面白かったんです。それと、中途半端なウォーミングアップの仕方を見た時に、逆に「もっとちゃんと科学的にやれば、彼女らは絶対にもっと上手く泳げるはず」というふうにも思いました。それがあったからこそ、「じゃあ、自分には何ができるんだろうな」というふうに考えられましたし、マイナスなことよりも、プラスの事の方に惹きつけられていった感じでしたね。

北京オリンピックのチームで初の銀メダルに輝いたスペインの演技 (2008)

北京オリンピックのチームで初の銀メダルに輝いたスペインの演技(2008)

―― 日本や米国とは、選手へのアプローチの仕方も違うんでしょうね。

三者三様で、全く違いますね。例えば、選手がミスをした時に、日本では「そこ、あかんで。こうしなさい」という指示が出て、選手もその通りに直そうと努力する。一方、米国では、コーチはまず「こういうところはとてもいいよ」と褒め言葉から入って、その後に「でもね、こういうところは気を付けて」というふうな指導方法なんです。ところが、スペインでは褒め言葉は必要なくて、「そこは、あかんで」というふうにストレートに指示を出すと、単に怒られているというふうには取らずに「こうしたら、もっと自分の泳ぎは良くなるんだな」と、自分なりのフィルターを通して聞いているところがあるんですね。

―― 藤木さんが指導されるようになってから、スペインはどんどん強くなっていきましたよね。

選手もコーチも、どんどん世界に認められていく充実感と、北京オリンピックでスペイン初のメダルという大きな目標があったので、北京でのデュエット、チームともに銀メダル獲得という結果につながったのだと思います。

中国に不足していた自分自身の「美的感覚」

カザンで開催された世界水泳チームで高得点を出して銀メダルを獲得し喜ぶ中国選手 (2015)

カザンで開催された世界水泳チームで高得点を出して銀メダルを獲得し喜ぶ中国選手(2015)

―― その後、米国のナショナルチームのHCを務められました。これは、どんな経緯があったのでしょうか?

スペインには7年間いたのですが、2010年の時に米国から「ナショナルチームのHCとして、こっちに戻ってこないか」という誘いがあったんです。2008年北京オリンピックで、米国はひとつもメダルを取ることができていなかったので、次のロンドンで挽回しないといけないという事態に陥っているというのはわかっていました。と同時に、スペインでアシスタントコーチとしてやっていて、「自分がHCだったら、こういうふうにするのにな」という思いがどんどん膨らんでいたこともあって、「じゃあ、米国でHCとしてやってみようかな」と。スペインのアナHCに「米国からこんな誘いがあるんやけど」と言ったら、彼女も「いいじゃない」と勧めてくれたので、トライすることにしました。

―― 実際、米国の現場はどうでしたか?

正直、厳しかったですね。というのも、米国ではどこどこの大学に行って、奨学金をもらって競技活動をするというのが非常に大きなステータスとなるんですね。そうすると、授業にも出なければいけないですし、練習の時間が限られてくるので、「大学選手権のための競技活動」になってしまって、ナショナルチームの活動はままならないんです。そのために、ナショナルチームに来る選手というのは、大学から奨学金をもらえないようなレベルの選手だったり、もしくは高校生だったりするわけです。正直、「これでロンドンを戦わなければいけないのかぁ……」と思ったりもしました。
ただ、私としては自分が憧れていた米国のナショナルチームにHCとして呼ばれたことがとても光栄なことだと感じていましたし、何より米国のために何かができるということが嬉しかったんです。ですので、「スペインで学んできたことを、ここで発揮しよう」という思いがありました。結局、ロンドンでもメダルを取るまでには至りませんでしたが、それでも新しい米国のシンクロは見せられたと思っています。というのも、北京までの米国は、旧態依然のままのパワーで泳ぐシンクロをやっていたのですが、それがロシアやスペインにも劣らないルーティンをロンドンではやることができた。下降の一途を辿っていた米国のシンクロを、少しだけ上向きにすることができたなという実感はありました。

―― そして、井村さんの後の中国代表を引き継がれました。

ロンドンの後、一度スペインに戻って、1シーズンだけ指導をしていたのですが、米国にいた時から中国からオファーをいただいていたんです。中国のある省から振付を依頼されたのがきっかけで、国家体育総局から「ナショナルチームの指導をしてほしい」というお話をいただきました。最初は引き受けるかどうか、とても迷いました。というのも、井村先生の後に私が行って、井村先生がされてきたようなシンクロを求めているのだとしたら、私の目指しているシンクロはまったく違うものなので、期待に応えることはできないなと。それで、「どういうことを求めているのかを知りたい」と言ったら、すぐにスペインまで飛んできてくれました。説明を聞くと、私がやってきたことをすべて把握したうえで、「あなたのシンクロというのは、こういうスタイルのもので、中国に今必要としているものを教えられるのはあなたが一番だから」というふうに言ってくれたんです。それで「あぁ、ちゃんと私のコーチとしてのスタイル、目指しているものをわかって、依頼してきてくれたんだな」ということがわかったので、少し考える時間をもらったうえで、決断しました。

北京オリンピックのチームで銅メダルを獲得し、中国選手と抱き合会う井村コーチ(右端)(2008)

北京オリンピックのチームで銅メダルを獲得し、中国選手と抱き合会う井村コーチ  (右端)(2008)

―― 中国でのHCとしての最初の指導というのは、どういうところから入ったのでしょうか?

まずは、「これからの3年間、こういうことをやっていったら、私はもっと良くなると思っているんやけど」ということを、ビデオを見せながら伝えました。最初は「はぁ?何を言ってるの?」という反応の選手もいましたね。というのも、おそらくシンクロというのは合わせることが一番だというふうに思っていて、芸術的にいかに美しく見せるかということを考えたことがなかったと思うんです。

―― よく「女子選手の指導は難しい」と言われたりしますが、そのへんはいかがですか?

その点に関して、中国での指導というのは非常に楽ですね。米国人とスペイン人の16~24歳の女子選手を集めると、すごいことになるんです。すぐにグループができて、シャワー室で会話が盛り上がる。米国もスペインも、自分の意見を言うことを良しとしているので、お互いに「あんたのここは、ああだ、こうだ」というふうに意見をぶつけ合うんですね。それが良くない方向にいってしまうと、プールの中でよりも、複雑な人間関係が出来上がってしまうこともあったりするんです。一方、中国人はそういうことはないんです。「私、あの子嫌いやから、この子と組みたい」ということも、一切ない。だから、練習以外のところであまり気を配らなくていいですね。

リオデジャネイロオリンピックのチームで銀メダルを獲得した中国 (2016)

リオデジャネイロオリンピックのチームで銀メダルを獲得した中国(2016)

―― では、中国人を指導する方が楽だと。

そうですね。ただ、それも善し悪しあって、私自身はシンクロというのは自分を表現するものだし、自分自身の美的感覚がないとダメだと思っているんです。「私はこれがきれいだと思う」とか「こうすれば、もっときれいになる」というような自分の意思がないと、うまく泳げないと思うんです。ところが、中国の選手は、コーチが「こうします」と言えば、その通りにする。そこに自分の意思がないんです。
一方、米国やスペインの選手は、8人いたら8通りの「美的感覚」があるので、それをまとめるのが大変なんです。中国は、それがない分、確かに指導するのはやりやすいところはありますが、自分の美的感覚がないということでもある。ですから、いいところでもありますし、シンクロに必要な芸術的思考が欠けているということでもあると思うんです。

中国選手とのシンクロ交換日記

中国選手とのシンクロ交換日記

―― リオデジャネイロでは中国は、オリンピック過去最高のデュエット、チームともに銀メダルを獲得しました。本番までの道のりは、順調に進んだという感じだったのでしょうか?

自分がこういうふうに変えたいということを理解してもらうことだったり、選手一人ひとりの性格を変えなければいけなかったというところでは、多くの時間を費やしました。私がやりたいと思っていた中国のシンクロというのは、恥ずかしがり屋ではできませんし、それまで中国では普通とされてきたことが基本とされたままでは難しかったので、最初は本当に時間がかかりました。ただ、彼女たちの頭の思考が変わってからは、成長もすごく速かったです。ですので、「こういうふうに変わった中国を見せたいな」というところまでは辿り着いて、リオを迎えました。

―― 2020年に向けて、中国はどういうところが強みになっていくでしょうか。

技術に関しては、既に日本と同じくらい高いレベルにあると思いますし、次世代を担う選手たちは身体的能力にも優れていますので、そこにさらに高い技術が加わっていけば、ロシアに近づいていくことができると思っています。

異なる各国の金銭的サポート事情

ロンドンオリンピックの開会式でスペインの教え子たちと(中央)(2012)

ロンドンオリンピックの開会式でスペインの教え子たちと(中央)(2012)

―― スペイン、米国、中国とナショナルチームで指導をされてきたわけですが、金銭的サポートというのはそれぞれどういうふうになっているのでしょうか。

どこの国も、NOC(国内オリンピック委員会)の傘下にあるオリンピックスポーツとしてメダルを取っているかどうかで、サポートの金額がかわってくると思いますが、そういう意味で3カ国の中で一番手厚いサポートを受けているのが中国で、一番薄いのは米国です。それは結果にも表れていると思います。

―― 米国が一番金銭的サポートが薄いというのは、意外でした。潤沢な資金を使って、手厚くサポートしているというイメージがありましたが、現在のシンクロのステータスからすると、十分なサポートを受けることができていないということでしょうね。

そうですね。ただ、メダルを取れなくなったからということでもないんです。例えば、私が米国で一緒に泳いでいた選手たちの中には、金メダルを獲得したアトランタ大会の代表選手もいたのですが、彼女たちは、練習後にはアルバイトをして生活費を賄っていました。たとえ金メダルスポーツでも、選手のハウジングをサポートするシステムは米国にはないんです。一方、スペインはナショナルチームに入れば、宿舎の部屋が提供されて、食事代もすべて無料なので、自分で働いて稼ぐなんていうことは考えられません。ナショナルチームで練習しているということが仕事のようなものなので、それ以外の部分で心配することは一切ありません。中国はもっと手厚くて、各省の代表選手に選ばれた時から、金銭的な心配をする必要はありません。

上海で開催された世界水泳で指導にあたったアメリカチームのメンバーと(後列右から二人目)(2011)

上海で開催された世界水泳で指導にあたったアメリカチームのメンバーと(後列右から二人目)(2011)

―― 各国の女性スポーツのステータスという部分ではいかがでしょうか?

もしかしたら中国は頭一つ抜けているかもしれませんが、その部分においては万国共通だと思います。例えばスペインでは、スポーツ新聞が12ページあるとすると、そのうち10ページは男子サッカーの記事なんです。たとえ水球の女子代表が世界選手権で銀メダルを獲得したとしても、その扱いは本当に小さい。もしそれが、男子代表だったらもっと大きな記事になるんです。スペインにはそういうところがすごくあって、これに関しては女性も黙ってはいません。「水に関わる女性スポーツ会」という組織を立ち上げて、「私たちはこんなに優秀な成績を挙げているのに、これだけしかサポートを受けていない」というようなことを発信しているので、今、どんどん女性スポーツのステータスが上がってきています。中国は、男女の差ではなくて、チーム競技よりも個人競技の方が強いということと、金メダルを取ったかどうかということに重きが置かれています。

―― 金メダリストに対する社会的評価という部分ではいかがでしょうか。

それは米国が一番だと思いますね。米国人にとって「自分は国の代表として、オリンピックで金メダルを取った」ということは、お金には代え難い誇り高きことなんです。米国チームのHCとして行ったロンドンオリンピックでは、どのインタビューでも、まず最初の質問に出てくるのが「proud」という言葉でした。私が選手を誇りに思っているかどうかが、コーチとして何より重要なんです。米国人にとっては、人から「proud」されているかどうかで、価値が決まるというところがあります。

リオデジャネイロオリンピックのデュエット<br>  の表彰式。左から銀メダルの中国、<br>金メダルのロシア、銅メダルの日本(2016)

リオデジャネイロオリンピックのデュエット
の表彰式。左から銀メダルの中国、
金メダルのロシア、銅メダルの日本(2016)

「ロシアを越える日」を目指して

―― 今後、米国、中国、スペインはどこを見据えてチーム作りをしていくと思われますか?

米国は2020年ではなく、その先の2024年を最大の目標としています。それは2024年にシンクロのメッカであるカリフォルニアでの開催を待望していて、オリンピックが開かれるだろうということを想定して、そこで花開くと期待される若手の育成に力を入れているからです。
中国は、2020年でロシアにどれだけ迫れるかということを目標としています。スペインはチームではリオに行くことができず、何人も選手が辞めてしまったので、今は若手が中心となっています。ですので、米国と同じように2020年は通過点として見ていて、8年越しでのメダル獲得を目指しています。

―― シドニーオリンピック以降、ロシアが不動の地位を築いているわけですが、もちろん「いつかは」というお気持ちを持って指導されているのではないでしょうか。

20年もの間、チャンピオンであり続けているロシアを、自分の力で、泳ぎで抜き去るというのは、どの国にとっても夢であると思いますし、そのためにやっているところはあると思います。私自身、スペインのアシスタントコーチとして、北京オリンピックで2位となり、昨年のリオでは中国のHCとして2位となって、徐々にロシアに近づいてきたなという実感はあります。
「いつ、ロシアを抜く日が来るのだろう」と考えると、とても楽しみで仕方ないですね。周りも今、中国に対してそういう期待感を持って見てくれていて、「とにかくロシアを抜く姿を見たいんだ」と言って、リオではすごく応援してくれました。

藤木麻祐子 (インタビュー風景)

インタビュー風景(2016)

―― 将来、日本からオファーがあった場合は、引き受けられますか?

私は、私がやりたいシンクロを理解してくれていて、それを必要としてくれている国で、自分自身も楽しんで夢を持って指導できると思えれば、チャレンジしたいと思っています。やっぱり指導においても、コーチである私自身に充実感があって楽しめているかどうか、というのはとても大事だと思っているんです。

―― これまで、技術コーチや振付師、ボランティアも含めると、10カ国以上で指導経験がある藤木さんですが、「指導者にとって大事なこと」とは何でしょうか。

選手が現役最後の日に「自分はこれだけやってきたんだ」という思いをどれだけ抱けるかで、コーチとしての価値というのは決まると思っています。成績とか全く関係なく、「このコーチは自分の限界まで引き上げてくれた」と思ってもらえることが、コーチ冥利に尽きると思いますし、それがコーチの価値でもあるのかなと。結果はそこまでの通過点であって、結果を出させてあげることがすべてではないと思うんです。ただ、それって、簡単なことではないんですね。どれだけその選手と向き合って、信頼される立場になれるかどうか。技術的なことはもちろんですが、例えばケガで試合に出場できなくなった時に、どれだけ精神的にサポートをして、もう一度意欲を引き出してあげられるかどうかとか、さまざまな要素が必要となってくる。そういうことができるコーチが理想だと思っていますし、自分もそういうコーチになりたいと思っています。

リオデジャネイロオリンピックのチームで銅メダルを獲得した日本チームと井村コーチ (2列目中央)(2016)

リオデジャネイロオリンピックのチームで銅メダルを獲得した日本チームと井村コーチ(2列目中央)(2016)

―― 海外を知る藤木さんから見て、現在の日本のシンクロはどのように映っていますか?

正直、日本のスポーツ界から離れすぎていて、昔のことしか思い浮かばないのですが、システムがというよりも、競技をしている選手の気持ちや、指導者の選手との接し方という点においては、「選手が本当にその競技が好きで、うまくなりたいと思えるような環境を作ってあげられているのかな」という疑問はあります。選手の成長というのは、やらされるのではなく、どれだけやる気があって、自ら「こうしたらどうだろう」というような発想が生まれるかどうかにあると思うんです。そういう環境を作ってあげることができたら、本番で演技をしている時の表情ももっと違ってくるのかなと思います。

―― 2020年東京オリンピックについての期待感という点では、どんな声を聞かれていますか?

日本では準備段階での問題点についての報道をよく目にしますが、例えばアテネやリオの大会がそれほどきっちりとしていたわけではなかったですし、海外の人たちにしてみれば、日本の東京でオリンピックが開催されるということに、どれだけほっとしているかわかりません。「ちゃんとやってくれるだろうな」という安心感があって、一般の人でも「自分は東京に観に行くよ」と楽しみにしている人が沢山いるんです。スポーツに関わる人だけでなく、「日本はどんなことをやってくれるんだろう」という期待感はとても大きいと感じています。

  • シンクロナイズドスイミング・藤木麻祐子氏の歴史
  • 世相
1924
大正13
大日本水上競技連盟創設
1927
昭和2
競技規定、クイックスタートに改正
1928
昭和3
日本水連FINAに加盟
1930
昭和5
神宮外苑プール施工
1936
昭和11
ベルリンオリンピック開催
シンクロの女子中等校全国大会開催
1938
昭和13
東京オリンピック返上、団体長距離競泳、 女子水上体育大会開催
1944
昭和19
全国皆泳ラジオ水泳開催
1945
昭和20
日本水泳連盟として再発足

  • 1945第二次世界大戦が終戦
1946
昭和21
早慶戦、戦後初競技会、第1回国民体育大会開催
1947
昭和22
古橋廣之進氏、日本選手権大会に出場し、400m自由形で世界新記録を樹立

  • 1947日本国憲法が施行
1949
昭和24
日本水泳連盟、国際水泳連盟に復帰
1950
昭和25
第3回日米対抗開催、全国勤労者水上開始

  • 1950朝鮮戦争が勃発
  • 1951安全保障条約を締結
1953
昭和28
国民皆泳行事開始

  • 1955日本の高度経済成長の開始
1956
昭和31
メルボルンオリンピックで潜水泳法が禁止となる。バタフライが新種目となる
1957
昭和32
シンクロ選手権大会が始まる。日本水泳指導者協会再発足
1959
昭和34
第1回末弘室内選手権
1964
昭和39
東京オリンピック・パラリンピック開催
代々木オリンピックプール完成
日本水泳連盟40周年記念会開催

  • 1964東海道新幹線が開業
1966
昭和41
学童泳力テストを開始
1968
昭和43
メキシコオリンピック開催

  • 1969アポロ11号が人類初の月面有人着陸
1972
昭和47
ミュンヘンオリンピック開催
日本室内選手権開催
日本年令別大会開催
1973
昭和48
競泳記録が100分の1秒となる
水泳女子が日本学生選手権大会にて正式競技となる

  • 1973オイルショックが始まる
1974
昭和49
日本水泳連盟が財団法人認可される
シンクロ第1回パンパシフィック大会開催
日本水泳連盟50周年記念式典開催

  • 1975藤木麻祐子氏、大阪府に生まれる
1976
昭和51
モントリオールオリンピック開催
シンクロ第2回パンパシフィック大会開催
第1回全国遠泳大会開催

  • 1976ロッキード事件が表面化
  • 1978日中平和友好条約を調印
1980
昭和55
モスクワオリンピック開催
日本室内選手権にJOC杯寄贈
第1回加盟団体普及委員長会議
1982
昭和57
  • 1979藤木麻祐子氏、7歳でシンクロを始める
  • 1982東北、上越新幹線が開業
1984
昭和59
ロサンゼルスオリンピックにて、シンクロ(ソロ・デュエット)種目決定
第1回全国女子水球大会開催
日本身体障がい者水泳連盟発足
第1回日本身体障がい者水泳選手権大会開催

  • 1984香港が中国に返還される
1985
昭和60
古橋廣之進氏、日本水泳連盟7代目会長に就任
1988
昭和63
ソウルオリンピック・パラリンピック開催
1991
平成3
  • 1991 藤木麻祐子氏、石川国体にてデュエットで優勝
1992
平成4
バルセロナ オリンピック・パラリンピック開催
岩崎恭子氏、200m平泳ぎで金メダルを獲得

  • 1995阪神・淡路大震災が発生
1996
平成8
千葉県国際総合水泳場が完成
アトランタオリンピック・パラリンピック開催

  • 1996 藤木麻祐子氏、アトランタオリンピックにて銅メダルを獲得
  • 1997香港が中国に返還される
2000
平成12
シドニーオリンピック・パラリンピック開催
シンクロは銀メダル2個獲得

  • 2000 藤木麻祐子氏、現役引退
      この年から米国でコーチ留学をしながら、オーストラリア、カナダなどで技術、振り付けコーチを担当
2002
平成14
北島康介氏、第14回アジア大会(釜山)に100m、200m平泳ぎで出場し、ダブル金メダルを獲得
200m平泳ぎで世界新記録を樹立し、アジア大会MVPに輝く
2003
平成15
北島康介氏、第10回世界水泳選手権大会(バルセロナ)に100m、200m平泳ぎで出場
ダブル金メダルを獲得し、世界新記録を樹立する
シンクロは金メダル1個、銀メダル2個獲得

  • 2003 藤木麻祐子氏、シンクロスペイン代表コーチに就任
2004
平成16
アテネ オリンピック・パラリンピック開催
北島康介氏、平泳ぎ2種目で金メダルを獲得
柴田亜衣氏、女子自由形で初の金メダルを獲得
戦後最多の金メダル3個、銀メダル3個、銅メダル4個の10個を獲得

  • 2004 藤木麻祐子氏がマネージャーを務めるシンクロ日本代表チーム、アテネオリンピックで銀メダルを獲得
2006
平成18
FINAシンクロワールドカップ、横浜にて開催
2008
平成20
北京オリンピック・パラリンピック開催
北島康介氏、平泳ぎ2種目で金メダルを獲得し、連覇を果たす

  • 2008藤木麻祐子氏がコーチを務めるシンクロスペイン代表チーム、北京オリンピックにて銀メダルを獲得
  • 2008リーマンショックが起こる
2010
平成22
シンクロ日本代表の愛称“マーメイドジャパン”と、シンボルマークを決定

  • 2011東日本大震災が発生
2012
平成24
ロンドン オリンピック・パラリンピック開催

  • 2012 藤木麻祐子氏、シンクロ米国代表チームのヘッドコーチとしてロンドンオリンピックに出場
2013
平成25
日本障がい者水泳協会設立
2014
平成26
日本障がい者水泳協会、日本水泳連盟に加盟

  • 2014 藤木麻祐子氏、シンクロ中国代表ヘッドコーチに就任
2016
平成28
リオデジャネイロ オリンピック・パラリンピック開催

  • 2016 藤木麻祐子氏率いるシンクロ中国代表チーム、リオデジャネイロオリンピックにて銀メダルを獲得