2023.11.02
- 調査・研究
© 2020 SASAKAWA SPORTS FOUNDATION
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スポーツ政策研究所を組織し、Mission&Visionの達成に向けさまざまな研究調査活動を行います。客観的な分析・研究に基づく実現性のある政策提言につなげています。
自治体・スポーツ組織・企業・教育機関等と連携し、スポーツ推進計画の策定やスポーツ振興、地域課題の解決につながる取り組みを共同で実践しています。
「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。
日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。
2023.11.02
鍛え上げた肉体と精神、それを一点に集中し爆発させる。スピードスケート500mは、夏の陸上競技100mにならぶオリンピック「冬の最速」を決めるレースである。
日本男子がこの種目で初めてメダルを獲得したのは1984年サラエボの北沢欣浩。降りしきる雪の中の銀メダルは日本スケート界に初めてもたらされたメダルだった。ただ失礼ながら北沢への期待はさして大きくはなく、「意外性」ばかりが強調され、国際的にも「キタザワ Who?」が喧伝された。
当時スピードスケートは屋外リンクの開催とされ、今日のように屋内リンクに移るのは1988年カルガリーから。自然と対峙するため予想外の結果が生まれる可能性もまた、魅力のひとつであったとは言い過ぎであろうか。
北沢の偉業の少し前、最も「金メダルに近い」と言われた男がいた。1968年グルノーブルの鈴木恵一である。「世界最速」と形容されて鈴木のレース結果が語られ、多くの人々は「悪くともメダル」と思っていた……。
1942年、鈴木は樺太で生まれた。父は王子製紙の社員。終戦とともに青森に引き上げ、5歳で王子製紙の本拠である北海道苫小牧に移り住む。冬の環境に恵まれたこの地でスケートに親しむのはごく自然な流れであった。
「サバナイという沼があってさ、夏はそこで泳いで、冬はスケートさ。野球場が2,3面とれるかな、そこで“雪スケート”で鬼ごっこやったり、野球のまねごとしたり……」
西武鉄道がライオンズを保有した当時から広報担当を務めていた鈴木とは、筆者が担当記者になって以来、「恵さん」と呼んで親しく言葉を交わすようになっていく。話のふしぶしに「世界のSUZUKI」としてのプライドがのぞくのが恵さんらしく、そんな時はスケートの話を聞くのが一番だった。
“雪スケート”とは長靴にブレードを縛り付けた苫小牧らしいスケートのこと。小学6年生でアイスホッケーを始め、そのアイスホッケーの靴でクラス対抗のスピードスケート大会で優勝して競技に目覚めたという。
国内に名を知られたのはスケートの名門、苫小牧工業高時代。1960年国体で500mと1500mの2冠、翌1961年には国体とインターハイの500mと1500mそれぞれ2冠を達成し、この年の全日本選手権ではなみいるシニア選手たちを抑えて優勝したのだ。卒業時には当然、多くの大学から勧誘をうけたものの、父の勤務する王子製紙へ。苫小牧の子にはあたりまえの選択である。しかし、両親も喜んでくれた王子製紙を1年で辞めてしまう。
「銭が豊かになると人間は怠け者になる」――まだ20歳に満たない鈴木は退社の理由をそう話したという。いかにも鼻っ柱の強い男の片鱗がのぞくが、ぬくぬくとした環境にいては「世界をめさす信念が崩れる」との思いがあったことを後に笹川スポーツ財団「スポーツ歴史の検証」インタビューで、NHKの名アナウンサー西田善夫に答えている。高校時代、友人から信念を質され「なぜ世界を狙わないんだ」と諭されて、自分を見つめ直したことがあった。スケートで世界を狙うため、あえてでこぼこ道を歩む方を選んだ。
条件の良い大学を断り、学費免除もなく、入学試験の恩典もない明治大学政経学部に猛勉強の末に合格。そして伝統のスケート部に入部後も2年で合宿所を飛び出し、自分で創意を凝らした1人だけの練習に励んだ。1964年東京オリンピックのために改装された国立競技場のトレーニング室に通い、筋肉を鍛え上げる。どうしたら世界に近づき、世界の頂点に立つことができるか、それだけ考えた。
信念の人と言えばいいが、言ってしまえば「頑固なへそ曲がり」なのである。高校時代にシニア選手を抑えて全日本を制したプライドが1人ぼっちの練習を支えた。
「それで8年間、国内で負けたのは1度っきりさ」――鍛え上げた太腿は、女性の胴体を二つつけたようで、西武ライオンズの広報時代、「俺は既成のズボンがはけないんだ」と嘆いていたことを思いだす。そして鈴木がつくったトレーニングメニュー、恵さん流に言う「アップ程度」の練習に当時の主力選手たち東尾修や石毛宏典、清原和博らがみんな音を上げて途中リタイア。
「野球とスケートじゃあ鍛える筋肉が違うから、そんなもんだよ」
と恵さんは涼しい顔で笑っていた。
オリンピック初出場は1964年インスブルック、21歳、初の海外遠征だった。臆することなく滑った結果は500m40秒7で5位。見事な入賞というよりも2位に40秒6の同タイムで3人が入り、その差0秒1でメダルに届かなかった。この結果を残念がる人は多かったが本人はいたって意気軒高、インスブルックでは「国際レベルを体感し、次のグルノーブルでの頂点につなげるつもり」でいたからだ。
その言葉通り、国際レベルを体感した鈴木は勝ち続ける。
この年の世界オールラウンド選手権500mで初の優勝を遂げると翌1965年も優勝。1966年は2位に終わったが、1967年には再び頂点に立ち、勝負の1968年を迎えるのだった。
その年も調子はよかった。1月下旬、オリンピック前哨戦とも言うべき、西ドイツのインツェルで開かれた国際競技会で39秒3、世界新記録を叩きだして優勝した。誰もが鈴木の金メダルを信じて疑わなかった。
ところが運命の神はいたずら好き、陥穽を用意していた。鈴木はまだそれを知らない。ただ、精神を集中できない状況が続いた。
グルノーブル入りを前にライバルたちはスイスのダボスに向かった。オリンピック前、最後の大会に出場し、高地に位置するこの地でスピード調整するためだ。鈴木もダボス行きを懇願した。しかし監督の答えは「NO」。「開会式に参加できなくなる」ことが理由だった。鈴木は抵抗した。「俺は開会式に出たいんじゃない。金メダルを獲りに来たんだ」と食ってかかったが、代表選手団の行動規範の前に、そんな叫びは無視された。
日本チームはインツェルに残って練習することになる。しかし、インツェルのリンクはオートレースのために使用不能。外国勢はそうした情報を知っていたのである。
1968年グルノーブル冬季大会スピードスケート男子500m、鈴木恵一の力走
アクシデントはオリンピックの本番、500mのレース開始45分前に起きた。ウォーミングアップのために氷に乗り、足を踏み出すと2歩めに違和感を覚えた。慌ててスケート靴を脱いで調べてみると、ブレード(刃)のエッジが欠けていた。風が運んだ小石を踏んだのだ。公園にパイプを敷いて氷を造っただけの粗末な屋外リンク。屋内リンク全盛の今日では考えられない出来事であった。
しかも、間が悪いことに刃を研ぎ直そうにも砥石がなかった。
国内大会ならこうした時に備え、刃を研ぐための砥石を3種用意する。まず荒砥で欠けた部分を研ぎ、中砥でならし、仕上げ砥で微妙な調整を行う。だがここはグルノーブル。飛行機の持ち込み荷物の重量制限に合わせて重い砥石は中砥だけ、こんな時に必要な荒砥は置いてきた。選手団の誰ひとり、荒砥は持っていなかった。
しかたなく中砥でブレードを研ぐ。すぐに目が詰まり、それでも必死の思いで研いだ。
「俺はこんなことをしに来たんじゃない」――そう思うと泣けてきた。泣きながら砥石をかけ、欠けた部分は直したが、エッジは平らで操作が利かない状態だった。
スタートは「どんぴしゃり」決まった。ところが、ピストルが2度鳴ってフライングが宣せられた。気を取り直して再スタート。今度は同走の相手がフライング。3度目、ようやくスタートし、滑りは順調だ。だが第2コーナーでバランスを崩した。利かないエッジの影響だった。40秒8。優勝したライバル、西ドイツのエアハルド・ケラーとは0秒5差の8位に終わった。
なぜ、何が起きた、と聞いてくる報道陣に鈴木は口をつぐんだ。「申し訳ありません」とだけ言い、あとは押し黙った。言い訳はしたくない。鼻っ柱の強い男のプライドだった。
もし屋外のリンクでなかったなら、もし重量制限なく荷物を持ち込むことができていたなら、もし選手団として砥石を用意していたなら、鈴木は金メダルを獲っていたかもしれない。試合前のアクシデントのこと、砥石のこと、そしてあの敗北を語るまでにはまだ長い時間が必要だった。
「悔しいか?」
選手村で悶々とする鈴木のもとに、1本の電話がかかってきた。国土計画社長の堤義明だった。まだ深くスポーツ組織に関わる前だが、軽井沢にスケートリンク、苗場にスキー場を開設するなど冬季スポーツに理解のある堤は鈴木の思いをくみ取るように続けた。
「ケラーを日本に連れてきて再戦するか?」
オリンピックの翌月、軽井沢スケートリンクに鈴木とケラーがいた。ふたりだけのマッチレース、文字通りの対決に多くの観衆、報道陣が集まった。
1本目、ケラー39秒5に対し、鈴木は39秒2、世界新記録で勝利した。スタートのアウトとインを入れ替えた2本目、ケラーは39秒3を記録した。鈴木は39秒2、再び世界新記録の勝利である。収まらないケラーは「もう1回」のレースを要求、39秒5で39秒6の鈴木をようやく上回った。
「ざまあみろ」――鈴木は報道陣に向かってほえた。鬱屈した思いからの解放であった。それを境に再び、勢いを取り戻したかにみえた。1968、1969年の世界オールラウンド選手権500m連覇。1970年には38秒50の世界新記録も樹立し「世界最速」の称号に胸をはったが……。
スポーツ選手が長い間、トップであり続けることは想像以上に難しい。鈴木は長い選手生活の影響で腰を痛めていた。朝、なかなか体を起こすことができない。一度立っても、次の姿勢になかなか移ることができない。同じ姿勢でいると、また腰が痛み、立っていられなくなる。加えて焼却中のゴミがはねて目を傷めた。「もう限界」と悟り、現役引退を公言したのは1972年札幌オリンピックの前年だった。
周囲の説得で翻意、札幌では選手団主将として選手宣誓も務めたが、「一度は引退を口にしていたし、札幌だからと現役復帰したけれど、もう燃えることはなかった」と振り返る。最後の500mは19位。勝利の女神ニケはついにオリンピックで微笑むことはなかった。
記録映画『札幌オリンピック』の篠田正浩監督はそんな鈴木を主役のように描いた。練習風景を追い、ケラーとの語らい、そしてレースとレース後の姿……ヒーローの終焉、敗北の美学とでもいうべき映像が残った。
1972年札幌冬季大会スピードスケート男子500m、鈴木恵一
そんな鈴木が母校明大スケート部監督を引き受け、スケート界に戻ったのが1993年。ちょうど長嶋茂雄がプロサッカーのJリーグ誕生で危機感をもった巨人軍に復帰した年にあたる。私は鈴木の復帰を産経新聞に「スケート界の長嶋が戻ってきた」と書いた。鈴木が低迷する名門立て直しに成功した頃、日本スケート界は悲願のメダルを手にした。1998年長野大会、清水宏保によってもたらされた500mの金メダルである。低い姿勢からのロケットスタートを初めて見た時、鈴木は「清水は頂点を獲る」と話していた。そして、あの金メダル当日、解説者としてエムウエーブ(長野市オリンピック記念アリーナ)にいた鈴木、いや恵さんはそれこそ心のうちから絞り出すように言った。「あの頃、こんなリンクがあったらなあ」と。
手腕を買われた鈴木は日本スケート連盟、日本オリンピック委員会の理事などを歴任。やがて2010年バンクーバー大会では日本選手団総監督としてオリンピック代表の総指揮を執った。だが、そこに選手鈴木恵一がいないことを少しだけ残念がった。ああ、この人は果たし得なかった夢をまだ追い求めているのかと、胸が熱くなった。