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波瀾万丈の「鳥人」ニッカネンとV字ジャンプの「元祖」ボークレブ

【冬季オリンピック・パラリンピック大会】

2023.02.28

冬季オリンピック金4個の国民的英雄

1988年カルガリー冬季オリンピック のジャンプ男子90m級で金メダルに輝いたニッカネン

1988年カルガリー冬季オリンピック のジャンプ男子90m級で金メダルに輝いたニッカネン

 ノルディックスキー・ジャンプ男子で「鳥人」と呼ばれ、冬季オリンピックで金メダル4個を獲得したマッチ・ニッカネンはフィンランドの国民的英雄として今も多くのファンの記憶に刻まれている。ワールドカップ(W杯)では史上最多に並ぶ4度の総合優勝を果たし、通算46勝。20192月に55歳の若さで亡くなったが、引退後は過度な飲酒や暴行問題でトラブルも絶えず、栄光と挫折に彩られた波瀾万丈の人生でもあった。

 「V字ジャンプ」が主流となる以前の1980年代に一時代を築き、177cmの華奢な体形ながら、スキーを平行にそろえて飛ぶ「クラシックスタイル」で別次元の強さを誇った。その天才的な踏み切り技術と美しい飛型は歴代の五輪メダリストにも大きな影響を与え、数々の最年長記録を持つ50の「レジェンド」葛西紀明(土屋ホーム)は「僕の中では永遠に憧れのヒーロー」と自身のブログで明かしている。高校時代にホテルの部屋に呼ばれ、本人からもらったサイン入りのジャンプスーツと靴は今も「宝物の思い出」という。

 筆者も小中学生時代、友人たちと放課後の廊下や校庭でニッカネンの飛ぶフォームをものまねしてよく遊んだものだ。

19時間の猛練習

 「自分はジャンプにしか興味がないんだ。魂を解き放つために飛ぶ。最高のジャンプなら、たとえビリでもうれしい」

 2016年に公開された映画「イーグル・ジャンプ」(原題=エディー・ジ・イーグル)で、孤高の天才ジャンパーとして登場する「鳥人」はこんなセリフを口にする。

 この作品は、英国出身で運動音痴の左官職人がジャンプを始めてわずか1年で1988年カルガリー冬季オリンピックに初出場し、最下位ながら「イーグル(ワシ)のように飛んだ」と一躍人気者となった実在のマイケル・エドワーズが主人公だ。

 その対照的なエリートのヒーローとして描かれたニッカネンは全盛期だったオリンピックで「最強」を証明する圧倒的なジャンプを積み重ね、70m級(現ノーマルヒル)、90m級(現ラージヒル)、団体を合わせて前人未到の1大会3冠の偉業を成し遂げた。

 フィンランドの地元メディアによると、父の勧めで8歳からジャンプを始め、少年時代は身長の低さをからかわれ「ネズミのマッチ」と呼ばれたことも。だが反骨心を支えに、19時間もの猛練習に明け暮れ、潜在能力が開花。18歳で出場した1982年世界選手権(オスロ)の90m級で初優勝すると、20歳でデビューした1984年サラエボ冬季オリンピックでは90m級で大飛躍を見せ、金メダルで世界にその名をとどろかせた。

ジキル博士とハイド氏

 ジャンプへの旺盛な探究心から「彼は一種の学者だった」と評する米国のコーチもいる。あまりの強さに「ジャンプへの恐怖心がないのは催眠術が理由」とのうわさも飛び交ったという。2002年ソルトレークシティー、2010年バンクーバー両冬季オリンピックで個人2冠を達成し「ハリー・ポッター」の愛称でも有名になったシモン・アマン(スイス)は「彼こそ魔法使いであり偉大なジャンパー」と尊敬の念を隠さない。ところが、母国で記念切手にまでなった不世出のジャンパーは映画や自伝でも「飛べなくなったら自分には酒ぐらいしかなかった」と打ち明けた通り、アルコール依存に悩まされたアキレス腱があった。

 「ジキル博士とハイド氏」のような二面性を指摘する声も多く、史上初の3冠で栄光の頂点に立った1988年カルガリー冬季オリンピック以降は私生活で破天荒な行動も目立つようになっていく。1990年代に入り「V字ジャンプ」が主流になると、時代の流れにニッカネンは乗り遅れた。「酒場の暴れん坊」と揶揄(やゆ)されて自国の代表チームから追放されたと思えば、名声を頼りに歌手にも転じたが、ジャンプほどの輝きを放てず程なく頓挫。離婚と結婚を繰り返し、刺傷事件を起こして実刑判決を受けたこともあった。生活が困窮して自らの栄光のメダル売却にも乗りだし「墜ちた英雄」などとも報じられた。

スキー界のジョージ・ベスト

 誰よりも遠くへ飛ぶ「宿命」を背負わされた人生が何かを狂わせたのか。

 英国ではサッカー界の往年のスターFWで、長髪をなびかせた華麗なプレーと絶大な人気から「5人目のビートルズ」と呼ばれたジョージ・ベストと重ねる報道もある。彼もまた天才的なドリブルと得点力で熱狂的なファンから愛された一方、アルコール漬けの破天荒な私生活でたびたび騒動を起こし、59歳の若さで亡くなった。

 オリンピックと世界選手権で計19個のメダルを獲得したニッカネンは日本とも縁があり、北海道を拠点に練習し、1994年リレハンメル冬季オリンピック出場を目指していた時期もあった。だが「魂を解き放つために飛ぶ」という全盛期の輝きは戻らなかった。

 「鳥人」は40代後半で酒を一時断って自らを律し、再びジャンプに挑戦してシニアの世界選手権で頂点に立ったことがある。人生をリセットし、また自由に空中を飛びたい。そんな希望をかなえたかったのだろう。警察沙汰にもなる数々の騒動を起こしながらも、ジャンプこそが人生を支える全てだったのかもしれない。

 国際オリンピック委員会(IOC)のトーマス・バッハ会長は「彼は最も成功したスキージャンパーの一人で、レジェンドにほかならない」と追悼した。

V字時代への転換点

 「鳥人」の技術を上回り、スキー板の先端を大きく開く革命的な「V字時代」への到来を告げた象徴的な転換点は、カルガリー・オリンピックの翌シーズンとなる198812月に行われたW杯札幌大会だった。

 90m級でニッカネンを抑えて優勝したのはスウェーデンの伏兵、22歳のヤン・ボークレブ。V字フォームで最初にジャンプした「元祖」と呼ばれる選手である。この生みの親となったエピソードが実に興味深い。

 スキーを平行にして飛ぶのが当たり前だった1985年の夏、たまたま踏み切りに失敗して空中でバランスを崩したのがヒントになったという。1997年、引退後は幼稚園の経営者になっていた本人が筆者の先輩記者の取材に「あれはアクシデントだった。スキーがついてこないので慌ててスキーを開いたら、遠くに飛んでいた。これはチャンスかもしれないと思ったんだ」と振り返っている。

失敗ジャンプと「がに股」奏功

1992年アルベールビル冬季オリンピックのノルディック複合団体。V字ジャンプで飛距離をのばす荻原健司

1992年アルベールビル冬季オリンピックのノルディック複合団体。V字ジャンプで飛距離をのばす荻原健司

 奇想天外な発想といわれたV字飛行は、失敗ジャンプから偶然生まれたのだ。飛距離が伸びるのはスキー板が体の外側に出ることで風を受ける面積が広がり、飛行機の翼のように揚力が生まれるからだった。さらに、もともと「がに股」が特徴でスキー板をきれいにそろえづらかったことも功を奏したようだ。

 当時のV字ジャンプは「異端」扱いで酷評され、飛型点でも減点対象とされたが、ボークレブは飛距離でカバーすれば問題ないとばかりに大飛躍を続け、1988-1989年シーズンでは通算5勝を挙げてW杯総合優勝。スウェーデンのジャンプ選手で初の快挙だった。

 各国チームがV字を本格的に研究するようになると、強豪国からも転向者が続出した。これを受け、国際スキー連盟(FIS)は1991年春に飛型点の減点対象を見直すルール改正へと踏み切り、世界の流れはV字へと一気に傾いた。

 日本勢では原田雅彦が状況を打開しようといち早く取り入れ、初出場した1992年アルベールビル冬季オリンピックのラージヒルで4位に入った。複合の荻原健司はシーズン途中のアルベールビル・オリンピック開幕2週間前にV字を導入する勝負手に打って出て、一躍エースに成長して団体金メダルに貢献した。

病とも闘った保育士

 ストックホルムの保育士だったボークレブは、持病のてんかんなどハンディとも闘いながら競技生活を送った。薬をのみながら世界を転戦し、ジャンプの助走から踏み切りで飛び出してから空中で突然発作に襲われたこともあったそうだ。

 ただ選手として輝いたのは事実上1シーズンのみと短かった。1988年カルガリー冬季オリンピックでは飛型点の減点を補えるだけの完成度がまだ低く、90m級で18位、70m級で28位。1991年に右足を手術したことも影響し、1992年アルベールビル冬季オリンピックはノーマルヒルで47位にとどまった。W杯は198912月の3位を最後に表彰台に立てず、1993年にまだ20代の若さで引退した。

ジャンプ界に革命

 スポーツ界は陸上走り高跳びの「背面跳び」やバレーボールの「回転レシーブ」、体操の「月面宙返り」など独創的な発想や技術開発で発展を遂げてきた。

 V字ジャンプのパイオニアとなったボークレブは「鳥人」ニッカネンのようにオリンピックや世界選手権で表彰台に立てなかったものの、ジャンプ界を変える大きな足跡を残した形だ。欧州の専門メディアにV字ジャンプ誕生から30年の感想を問われ「私はスキージャンプの新しいスタイルを発明した。当初は周囲から嘲笑され、減点の対象とされてもV字スタイルの可能性を信じていた。ジャンプの本質は、どれだけ遠くに飛ぶか。自分の成績を誇ることはないが、自分自身がやり遂げたことは誇りに思いたい」とコメントしている。

 スキー界に革命を起こしたジャンパーとして、その歴史に名を刻んだことは間違いない。

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スポーツ歴史の検証
  • 田村 崇仁 共同通信社運動部デスク。群馬県出身。高崎高校―早稲田大卒。1996年共同通信入社、2002年W杯日韓大会までサッカー担当。プロ野球で近鉄や阪神をカバーし、日本オリンピック委員会(JOC)担当キャップを経て、2013年からロンドン支局駐在。国際オリンピック委員会(IOC)や国際パラリンピック委員会(IPC)の他、テニスやゴルフの四大大会を含む欧州スポーツ全般をカバー。東京五輪・パラリンピックではデスクと記者の兼任で取材した。最近は五輪汚職・談合事件に追われる日々。暴力指導や盗撮問題などスポーツを取り巻く社会問題のテーマにも関心を持つ。著書に「アスリート盗撮」(共同通信運動部編、ちくま新書)、柔道女子代表の暴力パワハラ問題取材班(代表)で2013年度新聞協会賞受賞。