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「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。

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日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。

蛙のうたが聞こえてくる…

【オリンピック・パラリンピックのレガシー】

2016.09.29

オーストラリアで絶滅の危機に瀕する“グリーン・アンド・ゴールデン・フロッグ”

オーストラリアで絶滅の危機に瀕する“グリーン・アンド・ゴールデン・フロッグ”

我が輩の名は「グリーン・アンド・ゴールデン・フロッグ」という。

フロッグ、いうまでもなく蛙である。しかし、我が輩はそんじょそこいらにいる蛙とはちょっと違う。カンガルーやコアラ、カモノハシなど独自な進化を遂げた動物たちと同じオーストラリア原産の蛙なのだ。

しかも身体の色は緑と金。つまり、オーストラリアの国の色を背負っている。いってしまえば「国宝」の蛙である。えへん。

そんな我が輩の仲間たちはしかし、環境汚染、水質の悪化で次第に数を減らしてきた。1990年代始めには全土で12の住み家というか生息地しかなくなり、絶滅の危機にあったんじゃ。我が輩もシドニーから西へ14~5キロ離れたホームブッシュベイというところで300匹ほどの仲間とひっそりと身を寄せ合い、いつ滅びるかわからない状況におびえていたんだな。いま思い出しても辛い。

そんなある日、我が輩たちの身の上に大きな変化が起こる…。

シドニーオリンピックの聖火はアボリジニのキャシー・フリーマン選手によって点火された (2000年)

シドニーオリンピックの聖火はアボリジニのキャシー・フリーマン選手によって点火された (2000年)

1993年、シドニーが2000年の夏季オリンピック開催都市に決まった。有力視されていた北京を4回の投票の末、わずか2票差で破っての選出である。

シドニーの計画は蛙のいるホームブッシュベイを再開発してメーンスタジアムを建設、新設、既存の施設を合わせてオリンピック公園を造る。大会終了後は近くにできる選手村を分譲住宅地に、一帯をスポーツゾーンを兼ねた郊外型都市とする構想である。

ホームブッシュベイは広さ760ヘクタール、かつては火薬庫や煉瓦工場などがあった一大遊休地。1980年代に都市再開発事業予定地に指定され、スポーツ施設が次々と建設される一方、化学薬品メーカーなどの産業廃棄物の投棄場となっていた。のべ160ヘクタールの土地に総量900万トンもの産廃物が埋められ、「ダイオキシンの郷」と揶揄されていた土地である。

ニューサウスウェールズ州(NSW)政府は招致決定の1年前、すでに1億4000万ドルもの巨費を投じる土壌改良プロジェクトに着手している。

ここは貴重なマングローブや水鳥、魚類の生息地であり、着手前の調査では国際条約で保護されている野鳥、絶滅危惧種の生物が見つかった。世界有数となる土壌改良に、環境保護の視点も盛り込まれた。

1992年、国連は「環境と開発に関する会議(地球サミット)」で環境原則を採択、国際オリンピック委員会(IOC)は94年のパリ・オリンピックコングレスで「環境」を「スポーツ」「文化」に続くオリンピック・ムーブメントの3本柱と定める。当時のファン・アントニオ・サマランチ会長はこの頃までに環境保全への積極的な取り組みに言及し、IOCは時代の波に乗ろうとしていた。実はそれこそ、シドニーが北京をふるい落とした大きな要因である。

シドニーオリンピック開会式におけるオリンピック旗の入場(2000年)

シドニーオリンピック開会式におけるオリンピック旗の入場(2000年)

シドニーは夏季で初めて「環境保護」を掲げ、「グリーン・ゲーム」を標榜するオリンピックとなった。環境保護団体・グリーンピースを招致段階から参画させ、「夏季オリンピック大会のための環境ガイドライン」を練り上げた。

このガイドラインによって施設整備が進められていった。

グリーン・アンド・ゴールデン・フロッグは93年、煉瓦工場の跡地から見つかった。開発を担当するNSW州オリンピック調整公社(OCA)はさっそく、この蛙を環境オリンピックの象徴、マスコットに採用した。

「ともかく蛙でした。この珍種の蛙のサンクチュアリを守り、いかに影響を与えないかという工事でしたよ」

手元にある当時のメモから、大林組シドニー・スタジアム工事事務所所長だった瀬藤祐さんの言葉を読み取る。大林組がメーンスタジアムとなるオリンピック史上最大11万人収容のスタジアム・オーストラリア建設工事を落札したのは1995年9月、着工は翌96年9月だった。「始めに環境ありき、環境への配慮が入札、設計の条件でした」。瀬藤さんの言葉がメモから立ち上がってくる。

大林組は、スタジアムの屋根でうけた雨水をグラウンドレベルの貯水槽にため、散水やトイレ洗浄に使うシステムを考案した。雨水の再利用は「グリーン・ゲーム」のシンボルとなり、その後のスタジアム建設のモデルとなったことはいうまでもない。

ともかく大林組に限らず、すべての建設、内装関連の企業は「環境」を強く意識しなければならなかった。グリーンピースから「建築材料をすべて提示、提出せよ」と注文が出され、さまざまにクレームもついた。そして蛙である。人家もないのに埃がたたないよう散水車で水まきしながらの工事。当時、私は「カエル保護のため」と記事を書いた。

建設現場は資材搬入のため、工事関連車両が行き来する。蛙が道路にとびだして車にひかれないよう配慮、防御壁や安全な移動のための橋や地下トンネルまで造られた。また、除草剤の使用も制限された。すべては絶滅危惧種の蛙の管理と一体であった。そしてテニス会場は、この珍種の蛙の生息地にあたったため、場所変更を余儀なくされた。

シドニーはオリンピックにおける環境問題の先駆けであり、優等生と称される。蛙への配慮からもうかがい知れよう。

グリーンピースはそれでも、「銅メダル相当」と断じた。会場外の産廃物処理やエアコン、冷蔵庫使用が過多との理由からである。もっとも、その後の大会がシドニーに優っていたかというと…大きな疑問符がつく。

約半世紀ぶりに南半球で開催されたシドニーオリンピックの開会式(2000年)

約半世紀ぶりに南半球で開催されたシドニーオリンピックの開会式(2000年)

さて20年は、世界の温室効果ガス削減目標年に当たる。気候変動に関する新たな国際枠組み「パリ協定」が動き出す。環境省は、「低炭素化の推進」「ヒートアイランド対策の推進、良好な大気・水環境の実現」「リデュース(削減)・ リユース(再利用)・ リサイクル(再生)の徹底」など、目標を設定した。東京の覚悟と負担が問われる。

で、蛙のその後である…。

我が輩はいまも煉瓦工場の跡地に住んでいる。ほかの湿地や林と一緒に保護地域に指定され、静かな環境で暮らしておるよ。ずっと、この聖地を守ってほしいもんじゃ…。

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スポーツ歴史の検証
  • 佐野 慎輔 尚美学園大学 教授/産経新聞 客員論説委員
    笹川スポーツ財団 理事/上席特別研究員

    1954年生まれ。報知新聞社を経て産経新聞社入社。産経新聞シドニー支局長、外信部次長、編集局次長兼運動部長、サンケイスポーツ代表、産経新聞社取締役などを歴任。スポーツ記者を30年間以上経験し、野球とオリンピックを各15年間担当。5回のオリンピック取材の経験を持つ。日本スポーツフェアネス推進機構体制審議委員、B&G財団理事、日本モーターボート競走会評議員等も務める。近著に『嘉納治五郎』『中村裕』(以上、小峰書店)など。共著に『スポーツレガシーの探求』(ベ―スボールマガジン社)『これからのスポーツガバナンス』(創文企画)など。