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セミナー「子供のスポーツ」

オリンピック「讃歌とマーチ」

【オリンピック・パラリンピックのレガシー】

2017.12.08

若き日の古関裕而氏

若き日の古関裕而氏

古関裕而という作曲家がいた。

1909(明治42)年に福島市で生まれた古関は、戦後の混乱する世の中に向けて「長崎の鐘」「とんがり帽子」などの明るい歌を発表し、多くの人を元気づけた。NHKラジオドラマでは「鐘の鳴る丘」「さくらんぼ大将」「君の名は」などの主題歌を発表し、一世を風靡した。さらに古関は、スポーツ音楽において数多くのレガシーを残している。

  • 全国高等学校野球選手権大会歌「栄冠は君に輝く」
  • 阪神タイガース応援歌「大阪タイガースの歌(六甲おろし)」
  • 読売ジャイアンツ球団歌「巨人軍の歌~闘魂こめて~」
  • 早稲田大学応援歌「紺碧の空」
  • 慶應義塾大学応援歌「我ぞ覇者」

これらは古関が作曲したスポーツ関連楽曲の一部だが、どれもよく知られている曲ばかりだ。そしてこれらの曲の延長線上にある「オリンピック・マーチ」は、古関自身が最大の仕事と考えたものだった。

オリンピックが単なる総合スポーツの世界選手権ではなく、スポーツを通じた世界最高の平和の祭典になったのは、近代オリンピックを提唱したクーベルタンの偉業の一つである。クーベルタンは、オリンピックを他のスポーツ大会とは違ったものにしなくてはならないと考えていた。世界中からトップ選手を参加させ、多数の競技を実施し、開催地を毎回持ち回りで変える、世界最高かつ最大の競技大会として。

近代オリンピックを提唱したクーベルタン男爵

近代オリンピックを提唱したクーベルタン男爵

そのためにクーベルタンは、オリンピックに神聖性を加味することを考えた。オリンピックのあるべき姿は、「神聖で、高尚な」競技大会である。そのためにクーベルタンは芸術を利用した。とりわけ彼が効果的に使用したのが音楽という芸術であった。

まず、オリンピックの復興(近代オリンピックの開催)と国際オリンピック委員会の発足を決める1894年のパリ会議で、クーベルタンは音楽を最大限に利用した。招かれた人々は美しい音楽に酔いしれて、クーベルタンによるオリンピック復興についての提案に異議を唱えることができなくなっていた。

「その場に居あわせた二千人もの人々が(中略)神々しい旋律に耳を傾けた。聖なるハーモニーが聴衆を望ましい雰囲気の中へ引き込んだ。(中略)この最初の数時間において、会場は絶頂に達したのだ。もはや誰一人としてオリンピック大会の復興に反対の票を投じるものはありえない」(ジョンJマカルーン、柴田元幸・菅原克也訳「オリンピックと近代 評伝クーベルタン」平凡社)

そして2年後に開催された1896年第1回オリンピック・アテネ大会。ここでも音楽が効果的に使われた。盛大に行われた開会式ではギリシャ国王が開会を宣言し、続いて演奏されたのは、スピロ・サマラス作曲の「オリンピック讃歌」だった。この曲は大きな感動を呼んだ。

「サマラスの作曲は大成功であった。静かにゆっくりと始まる旋律が、やがて徐々に躍動を帯び(中略)すべての声すべての楽器が一体となり、このうえなく壮大な効果を生んだ。聴衆は熱狂的な拍手を贈った。人々は皆、王までもが、アンコールを要求した。二度目の演奏が終わった時、拍手喝采はさらに倍になった」(前掲書)

オリンピック讃歌楽譜の表紙(1896年)

オリンピック讃歌楽譜の表紙(1896年)

第1回アテネ大会の後、オリンピックは万国博覧会に飲み込まれるような形で、しばらく低迷する。それとともに「オリンピック讃歌」は忘れ去られ、その楽譜は行方がわからなくなっていた。ところが1958年、東京で行われる国際オリンピック委員会(IOC)総会を前に、ギリシャのIOC委員から「見つかった」とのコメントとともに日本のIOC委員、東龍太郎にオリンピック讃歌の楽譜が届いたのだ。その楽譜はピアノ演奏を想定していたものだったため、東はオーケストラでの演奏を考えてNHKに編曲を申し入れた。そしてNHKは、当時日本音楽界の頂点にあった古関裕而に依頼した。古関はそれにしっかりと応え、オーケストラ仕様に仕立て直す。編曲されたオリンピック讃歌はIOC総会の開会式でNHK交響楽団によって演奏された。荘厳でありながら華麗な装いをまとった古関版のオリンピック讃歌は、IOC委員たちを心底魅了した。以来、大会ごとに、開会式のオリンピック旗掲揚時には必ず演奏されることとなった。

古関裕而のもとに、1964年東京オリンピックで使用する「オリンピック・マーチ」の作曲依頼があったのは、前年2月のことだった。

「開会式に選手が入場する一番最初に演奏され、しかもアジアで初めての東京大会であるということから、勇壮な中に日本的な味を出そうと苦心しました。そこで曲の初めの方は、はつらつしたものにし、終わりの部分で日本がオリンピックをやるのだということを象徴するために、『君が代』の一節を取り入れました。私の長い作曲生活の中で、ライフ・ワークと言うべきもので、一世一代の作として精魂込めて作曲しました(…)」(齋藤秀隆「古関裕而物語」歴史春秋出版)

選手入場の最後は真っ赤なブレザーの日本選手団

選手入場の最後は真っ赤なブレザーの日本選手団

1964年オリンピック東京大会開会式の選手入場は、オリンピック・マーチとともに始まった。第1回大会の開催国ギリシャから入場する。古関のオリンピック・マーチは、世界各国の選手の登場を見つめる多くの人の心を限りなく高揚させた。これから始まる世界最高のスポーツの祭典で繰り広げられる感動のドラマを予感させる、みごとなマーチだった。

古関は日本にとって戦後最大のイベントである東京オリンピックで、課せられた重大なミッションをみごとに成し遂げた。

1964年10月10日、国立競技場のスタンドで見ていた人にとって、そしてテレビで見た人にとっても、あの開会式の情景とオリンピック・マーチという音楽は、感動をともないながら一つになって心に刻み込まれた。古関裕而の音楽が灯した1964年東京オリンピックの火は、大会が終わっても心のなかに小さな種火として灯り続け、消えることがない。あの開会式を見た人は、種火に新鮮な空気が吹き込まれると炎が上がるように、オリンピック・マーチを聴くたびに、選手たちが国立競技場の赤いトラックに入場するシーンを目に浮かべるのである。

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スポーツ歴史の検証
  • 大野 益弘 日本オリンピック・アカデミー 理事。筑波大学 芸術系非常勤講師。ライター・編集者。株式会社ジャニス代表。
    福武書店(現ベネッセ)などを経て編集プロダクションを設立。オリンピック関連書籍・写真集の編集および監修多数。筑波大学大学院人間総合科学研究科修了(修士)。単著に「オリンピック ヒーローたちの物語」(ポプラ社)、「クーベルタン」「人見絹枝」(ともに小峰書店)、「きみに応援歌<エール>を 古関裕而物語」「ミスター・オリンピックと呼ばれた男 田畑政治」(ともに講談社)など、共著に「2020+1 東京大会を考える」(メディアパル)など。