理想のかたちを示したコロナ禍におけるNPB(日本野球機構)との連携
―― 今回のコロナ禍において、村井さんご自身の生活に変化はありましたでしょうか。
2月下旬から半年以上ずっと在宅勤務が続いていますので、日常生活では朝はごみ捨てに行ったり、夕食の買い物に行ったりするようになりました。また孫の世話をしたり、猫にえさをやったりと、こんなにも家庭のことをする生活は、人生で初めてと言ってもいいかもしれません(笑)。自宅近くに競馬場があって、レースを開催していない時には一般開放しているんです。ですから、早朝に競馬場を散歩したりして体を動かしています。また、これまでは昼間にテレビを見るなんてこともありませんでしたが、時にはワイドショーを見ることもあります。そういう意味では、生活が激変しましたね。だからこその葛藤もありましたし、新しい発見もたくさんありました。貴重な経験をしているなと感じながら生活をしています。
感染対策を実施して開催されたJリーグ(2020年)
―― コロナ禍で日本スポーツ界が大きなダメージを受けた中で、NPBとJリーグが緊密な連携を取って、「見せる」プロスポーツのあり方ということに対しての対策を講じました。このように日本を代表するプロスポーツ団体であるNPBとJリーグが手を取り合うということも画期的だったと思います。
一般的には各競技団体、特にNPBとJリーグはライバル関係のように言われますが、実際はお互いの相乗効果を生み出す密接な関係にあるんです。それはDAZNで試合を放映するようになって明らかになったことです。インターネット配信というのは視聴者とサーバーが一本の紐でつながっているようなものなので、誰がどんなデバイスで、どのコンテンツをどれだけの時間、視聴していたかということがすべてわかるんです。
DAZNではJリーグだけでなくプロ野球も、Bリーグ(日本の男子プロバスケットボールリーグ)の試合も配信しているわけですが、「筋書きのないドラマ」であるスポーツの愛好者は、一つの競技に限らず、サッカーもプロ野球もバスケットボールも、そのほか大相撲やバレーボールも、何か面白そうな試合があれば、あるいは国際マッチが開催されていれば、ありとあらゆる試合を見たいと思うんですね。ということは、サッカーを繁栄させるためには、他競技をライバル視して蹴落とすのではなく、スポーツ界全体を盛り上げてスポーツ愛好者のパイを増やすことの方が有効なんです。
ですから今回のコロナ禍において、NPBと連携をしてコロナ対策を講じることにも、なんら躊躇(ちゅうちょ)することはありませんでした。実は、NPBとJリーグの「新型コロナウイルス対策連絡会議」は、日本トップリーグ連携機構の加盟競技団体あるいは音楽などエンターテインメント関連の業界団体など、すべての文化活動の関係者にオープンにするという約束をかわしたうえで開いたものなんです。コロナ対策というのは、野球専用、サッカー専用があるわけではなく、すべての競技団体に共通するものです。そのことにJリーグもNPBも共に賛同できたことが非常に大きかったと思います。
―― 今回の連絡会議は、NPBとJリーグ、どちらから持ち掛けられたものだったのでしょうか?
どちらからというものではありませんでした。実は2019年11月にジャイアンツ(正式名称は「読売巨人軍」)からJリーグに連絡が入りまして、「長崎という地域について知りたいので、ジャパネットたかた(J2のクラブチーム「V・ファーレン長崎」のメインスポンサー。17年からはジャパネットたかたの創業者・高田明氏が球団社長を務め、今年1月1日付で長女の春奈氏が新社長に就任した)の社長さんをご紹介いただけないでしょうか」と尋ねてこられたことがあったんです。電話を受けたスタッフが驚いて「ジャイアンツは東京を拠点とするチームなのに、なぜ遠い地方の長崎を研究されようとしているんですか?」と聞いたところ、「野球界も現状にあぐらをかかずに、地方のファン開拓に努めなければいけないと思っていますので、ファンサービスについてぜひ学びたいと思っているんです」と言われたというんです。それがご縁で、後にJリーグとしてもV・ファーレン長崎を訪問していただいたお礼をしたいと、私がジャイアンツの球団事務所を訪れたこともありました。
また私自身、サッカーに劣らず野球も大好きでして、横浜ベイスターズやジャイアンツといった関東圏内のチームの試合を観に行ったり、あるいは年間に何度かプロ野球の各球団と連絡をし合ったりしてきていたんです。そうした中、今回のコロナ禍において2月15日にJリーグのシーズンを中断するという決断をした際、川淵三郎さん(2015年には日本バスケットボール協会会長に就任し、分裂状態にあった日本バスケ界を正常化させた。現在は日本トップリーグ連携機構会長、大学スポーツ協会顧問を務める)から「こういう時は、さまざまな競技団体と連携しあっていくことが重要だよ」という助言をいただきました。私自身にもそういう気持ちがありましたので、すぐにNPBやBリーグや日本相撲協会にも連絡をしました。特にNPBと私との間では、すでに風通しが良い関係性が築かれていましたので、どちらからともなく「一緒に対策を考えていきましょう」ということになったんです。
手の消毒をして入場する観客
―― 今回のコロナ禍においては、今年5月に国税庁が「税優遇」の新解釈を示しました。親会社の宣伝広告費によってチームの赤字を補填できるという1954年の国税庁通達に基づくシステムは、これまではプロ野球だけの専権事項でした。そしてこれはJリーグとしては川淵さん以来の懸案事項だったと思います。これを国税庁に承服させたというのは村井さんの交渉力の高さを感じさせるとともに、日本スポーツ界にとっては画期的なことだったと思います。
確かにプロ野球は80年を超える歴史があり、日本のスポーツ界において果たしてきた功績を考えれば、税の優遇措置はしかるべき当然の話だったと思います。一方Jリーグは、まだまだそうした優遇措置を受けるだけの実績は社会的に十分に示すことができていなかったのかもしれません。しかし、今回のコロナ禍で日本スポーツ界全体が非常に苦しんでおり、Jリーグのクラブチームにとっても非常事態となっています。そこで生き残り策の一つとして、税の優遇措置をいただけないかと。もちろん、簡単にできるものではないことは重々承知していましたが、苦しんでいるクラブチームを何とか救済したいと、私と専務理事の木村正明とそのスタッフとで手分けをして、さまざまな関係者に相談に参りました。そういう中でJリーグもすでに28年の歴史があり、今回のコロナに関しましてもNPBと連絡会議等で連携するほどに日本社会における一定程度のガバナンスが整備され、安定的なリーグ開催も示すことができていましたので、プロ野球と同じ扱いにしましょうということにしていただきました。
"文武両道"を強く求められた高校時代
―― 村井さんとサッカーとの出合いというのは、いつ頃だったのでしょうか。
小学生時代、ミニバスケットの全国大会に出場(前列右から2人目)
私は埼玉県川越市の霞ヶ関で生まれ育ちまして、大学まで川越に住んでいました。小学生の時はポートボールに夢中になって、高学年になるとミニバスケットボールを始めて全国大会にも出場しました。中学校でもバスケットボール部に入部したのですが、私が2年生の時に隣町の日進中学校(さいたま市)の男子バスケットボール部が全国大会で優勝したんです。すぐ近くに日本一のバスケ部の存在があったことで、「自分はぜんぜんダメだな」と思っていたこともあって、高校は浦和高校に進学してサッカーをしようと決めていました。やはり「浦和」と言えば「サッカー」というイメージがありましたし、浦和市立南高校サッカー部をモデルとした『赤き血のイレブン』(原作・梶原一騎)という漫画も愛読していたので、「浦和でサッカーをやりたい」という気持ちが膨らんでいたんです。
浦和高校は、そもそも学校自体が進学校でありながらスポーツに対しても非常に重きを置いているところがありました。例えば、1年生の時には入学してすぐに10キロの「新入生歓迎マラソン」がありましたし、それに加えて毎年50キロのマラソン大会がありました。さらに5キロほどの遠泳もありましたし、クラス対抗のラグビー大会も行われていました。このようにして浦和高校では毎月のようにスポーツのイベントが開催されていたんです。一方では毎年のように東京大学に合格者を輩出していて、スポーツと勉学の両方を求める、まさに"文武両道"の学校でした。この高校時代に「何事に対しても言い訳をしない」という自分に対してプレッシャーをかけることを楽しむ性格が築き上げられたような気がします。
浦和高校サッカー部の合宿所にて(前列中央。ニット帽)
―― 浦和高校サッカー部時代の成績はどのようなものだったのでしょうか。
もちろん全国大会出場を本気で目指していました。「浦和を制するものは埼玉県を制し全国を制する」というふうに考えていましたし、実際にその通りだったものですから、私たちも浦和でサッカーをやっている以上は全国の頂点を目標にしていました。しかし、私が1年生の時は先輩たちが県予選の準決勝で浦和南高校に敗れました。そしてその年、浦和南高校は全国大会で優勝しました。実は現在日本サッカー協会の会長を務めている田嶋幸三さんがキャプテンのチームでした。翌年、私が2年生でレギュラーになった時には、県予選の準々決勝でまたも浦和南高校に敗れたのですが、浦和南高校は全国大会で連覇しているんです。浦和南高校とは日ごろからよく練習試合をしていましたから、全国の頂点に立つような高校がどれほど強いかは身に染みていました。ですから、自分の実力ではこれ以上のレベルには行けないなと感じていましたので、スポーツへの道はすっぱり諦めて、大学ではまったく別の道に進もうと思っていました。
バンカラを気取っていた早大精神昂揚会時代(後列右から2人目)
―― 早稲田大学法学部に進学されましたが、"別の道"とはどんなものだったのでしょうか。
1966年から1976年の約10年間にわたって中国では「文化大革命」(中国経済を大混乱にし、多くの餓死者を出した責任を問われて中国共産党の国家主席の座を退いた毛沢東が、権力奪還を目的に提唱した政治運動)が起きていました。しかし、私が大学に進学する2年前の1976年に毛沢東が亡くなったのを機に、鄧小平(1959年に毛沢東に代わって国家主席に就任した劉少奇とともに党総書記として実権を握ったが、文化大革命によって資本主義の実権派と疑われて糾弾の対象となった)が復権して、文化大革命後の混乱の収束を進めていたんです。
私が大学に入学した1978年は中国のまさに"歴史的転換の時代"とも言われ、鄧小平が実質的に中国の指導者となり、経済発展を目指した改革開放路線へと踏み出していた時でした。
そんな中国に私は強く興味を持ちまして、開放以来、まだ一般の外国人は中国に足を踏み入れていないと聞いたものですから、友人たちと首都北京から、シルクロードの一番端にあたるウルムチ市(中国北西端にある新疆ウイグル自治区の中心都市)まで約3000キロを3年かけて歩こうという計画を立てたんです。
青島から河北平原を歩いて進むことになる(右から2人目)
ただ当時は鄧小平が復権したばかりで、改革開放を唱えてはいたのですが、中央政府のガバナンスが地方都市まで行き渡ってはいませんでした。まだ地方には自治組織の「人民公社」の名残がありまして、正規のルートで地方の奥へと入って行こうとしても、各自治組織の力が強くて外国人を受け入れてもらえなかったんです。計画を練り直してルート変更して先に行こうとしても、やはり通行することを許可してもらえないことが何度か続きました。そこで仕方なく西側に進むことを諦めて、北京から南下することにしまして、華北平原の中を600キロほど進んだところの山東省済南市の奥まで歩いて、そこで断念しました。