Search
国際情報
International information

「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。

知る学ぶ
Knowledge

日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。

スポーツ界と新型コロナウイルス感染症
第95回
Jリーグに宿る“ミスを恐れず立ち上がる”サッカーのDNA

村井 満

中学校ではバスケットボール部、高校ではサッカー部に所属するなど、青春時代はクラブ活動に勤いそしんだ村井満氏。一方、大学では友人とともに“文化大革命”から解放されたばかりの中国を旅し、卒業後は「面白そうだから」という理由で日本リクルートセンター(現リクルートホールディングス)に入社しました。

アジア諸国に26の事業所を設立するなどの手腕を買われ、2014年に日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)の5代目チェアマンに就任しました。人とは違う道を進むことに関心が強く、マイナスを発想の転換でプラスへと変えてきた村井氏に、Jリーグの未来、日本スポーツ界の未来について伺いました。

聞き手/佐野慎輔  文/斉藤寿子  写真/フォート・キシモト  取材日/2020年9月14日(Zoomインタビュー)

理想のかたちを示したコロナ禍におけるNPB(日本野球機構)との連携

―― 今回のコロナ禍において、村井さんご自身の生活に変化はありましたでしょうか。

2月下旬から半年以上ずっと在宅勤務が続いていますので、日常生活では朝はごみ捨てに行ったり、夕食の買い物に行ったりするようになりました。また孫の世話をしたり、猫にえさをやったりと、こんなにも家庭のことをする生活は、人生で初めてと言ってもいいかもしれません(笑)。自宅近くに競馬場があって、レースを開催していない時には一般開放しているんです。ですから、早朝に競馬場を散歩したりして体を動かしています。また、これまでは昼間にテレビを見るなんてこともありませんでしたが、時にはワイドショーを見ることもあります。そういう意味では、生活が激変しましたね。だからこその葛藤もありましたし、新しい発見もたくさんありました。貴重な経験をしているなと感じながら生活をしています。



感染対策を実施して開催されたJリーグ(2020年)

感染対策を実施して開催されたJリーグ(2020年)

―― コロナ禍で日本スポーツ界が大きなダメージを受けた中で、NPBとJリーグが緊密な連携を取って、「見せる」プロスポーツのあり方ということに対しての対策を講じました。このように日本を代表するプロスポーツ団体であるNPBとJリーグが手を取り合うということも画期的だったと思います。

一般的には各競技団体、特にNPBとJリーグはライバル関係のように言われますが、実際はお互いの相乗効果を生み出す密接な関係にあるんです。それはDAZNで試合を放映するようになって明らかになったことです。インターネット配信というのは視聴者とサーバーが一本の紐でつながっているようなものなので、誰がどんなデバイスで、どのコンテンツをどれだけの時間、視聴していたかということがすべてわかるんです。

DAZNではJリーグだけでなくプロ野球も、Bリーグ(日本の男子プロバスケットボールリーグ)の試合も配信しているわけですが、「筋書きのないドラマ」であるスポーツの愛好者は、一つの競技に限らず、サッカーもプロ野球もバスケットボールも、そのほか大相撲やバレーボールも、何か面白そうな試合があれば、あるいは国際マッチが開催されていれば、ありとあらゆる試合を見たいと思うんですね。ということは、サッカーを繁栄させるためには、他競技をライバル視して蹴落とすのではなく、スポーツ界全体を盛り上げてスポーツ愛好者のパイを増やすことの方が有効なんです。

ですから今回のコロナ禍において、NPBと連携をしてコロナ対策を講じることにも、なんら躊躇(ちゅうちょ)することはありませんでした。実は、NPBとJリーグの「新型コロナウイルス対策連絡会議」は、日本トップリーグ連携機構の加盟競技団体あるいは音楽などエンターテインメント関連の業界団体など、すべての文化活動の関係者にオープンにするという約束をかわしたうえで開いたものなんです。コロナ対策というのは、野球専用、サッカー専用があるわけではなく、すべての競技団体に共通するものです。そのことにJリーグもNPBも共に賛同できたことが非常に大きかったと思います。



―― 今回の連絡会議は、NPBとJリーグ、どちらから持ち掛けられたものだったのでしょうか?

どちらからというものではありませんでした。実は2019年11月にジャイアンツ(正式名称は「読売巨人軍」)からJリーグに連絡が入りまして、「長崎という地域について知りたいので、ジャパネットたかた(J2のクラブチーム「V・ファーレン長崎」のメインスポンサー。17年からはジャパネットたかたの創業者・高田明氏が球団社長を務め、今年1月1日付で長女の春奈氏が新社長に就任した)の社長さんをご紹介いただけないでしょうか」と尋ねてこられたことがあったんです。電話を受けたスタッフが驚いて「ジャイアンツは東京を拠点とするチームなのに、なぜ遠い地方の長崎を研究されようとしているんですか?」と聞いたところ、「野球界も現状にあぐらをかかずに、地方のファン開拓に努めなければいけないと思っていますので、ファンサービスについてぜひ学びたいと思っているんです」と言われたというんです。それがご縁で、後にJリーグとしてもV・ファーレン長崎を訪問していただいたお礼をしたいと、私がジャイアンツの球団事務所を訪れたこともありました。

また私自身、サッカーに劣らず野球も大好きでして、横浜ベイスターズやジャイアンツといった関東圏内のチームの試合を観に行ったり、あるいは年間に何度かプロ野球の各球団と連絡をし合ったりしてきていたんです。そうした中、今回のコロナ禍において2月15日にJリーグのシーズンを中断するという決断をした際、川淵三郎さん(2015年には日本バスケットボール協会会長に就任し、分裂状態にあった日本バスケ界を正常化させた。現在は日本トップリーグ連携機構会長、大学スポーツ協会顧問を務める)から「こういう時は、さまざまな競技団体と連携しあっていくことが重要だよ」という助言をいただきました。私自身にもそういう気持ちがありましたので、すぐにNPBやBリーグや日本相撲協会にも連絡をしました。特にNPBと私との間では、すでに風通しが良い関係性が築かれていましたので、どちらからともなく「一緒に対策を考えていきましょう」ということになったんです。



手の消毒をして入場する観客

手の消毒をして入場する観客

―― 今回のコロナ禍においては、今年5月に国税庁が「税優遇」の新解釈を示しました。親会社の宣伝広告費によってチームの赤字を補填できるという1954年の国税庁通達に基づくシステムは、これまではプロ野球だけの専権事項でした。そしてこれはJリーグとしては川淵さん以来の懸案事項だったと思います。これを国税庁に承服させたというのは村井さんの交渉力の高さを感じさせるとともに、日本スポーツ界にとっては画期的なことだったと思います。

確かにプロ野球は80年を超える歴史があり、日本のスポーツ界において果たしてきた功績を考えれば、税の優遇措置はしかるべき当然の話だったと思います。一方Jリーグは、まだまだそうした優遇措置を受けるだけの実績は社会的に十分に示すことができていなかったのかもしれません。しかし、今回のコロナ禍で日本スポーツ界全体が非常に苦しんでおり、Jリーグのクラブチームにとっても非常事態となっています。そこで生き残り策の一つとして、税の優遇措置をいただけないかと。もちろん、簡単にできるものではないことは重々承知していましたが、苦しんでいるクラブチームを何とか救済したいと、私と専務理事の木村正明とそのスタッフとで手分けをして、さまざまな関係者に相談に参りました。そういう中でJリーグもすでに28年の歴史があり、今回のコロナに関しましてもNPBと連絡会議等で連携するほどに日本社会における一定程度のガバナンスが整備され、安定的なリーグ開催も示すことができていましたので、プロ野球と同じ扱いにしましょうということにしていただきました。



"文武両道"を強く求められた高校時代

―― 村井さんとサッカーとの出合いというのは、いつ頃だったのでしょうか。

小学生時代、ミニバスケットの全国大会に出場(前列右から2人目)

小学生時代、ミニバスケットの全国大会に出場(前列右から2人目)

私は埼玉県川越市の霞ヶ関で生まれ育ちまして、大学まで川越に住んでいました。小学生の時はポートボールに夢中になって、高学年になるとミニバスケットボールを始めて全国大会にも出場しました。中学校でもバスケットボール部に入部したのですが、私が2年生の時に隣町の日進中学校(さいたま市)の男子バスケットボール部が全国大会で優勝したんです。すぐ近くに日本一のバスケ部の存在があったことで、「自分はぜんぜんダメだな」と思っていたこともあって、高校は浦和高校に進学してサッカーをしようと決めていました。やはり「浦和」と言えば「サッカー」というイメージがありましたし、浦和市立南高校サッカー部をモデルとした『赤き血のイレブン』(原作・梶原一騎)という漫画も愛読していたので、「浦和でサッカーをやりたい」という気持ちが膨らんでいたんです。

浦和高校は、そもそも学校自体が進学校でありながらスポーツに対しても非常に重きを置いているところがありました。例えば、1年生の時には入学してすぐに10キロの「新入生歓迎マラソン」がありましたし、それに加えて毎年50キロのマラソン大会がありました。さらに5キロほどの遠泳もありましたし、クラス対抗のラグビー大会も行われていました。このようにして浦和高校では毎月のようにスポーツのイベントが開催されていたんです。一方では毎年のように東京大学に合格者を輩出していて、スポーツと勉学の両方を求める、まさに"文武両道"の学校でした。この高校時代に「何事に対しても言い訳をしない」という自分に対してプレッシャーをかけることを楽しむ性格が築き上げられたような気がします。



浦和高校サッカー部の合宿所にて(前列中央。ニット帽)

浦和高校サッカー部の合宿所にて(前列中央。ニット帽)

―― 浦和高校サッカー部時代の成績はどのようなものだったのでしょうか。

もちろん全国大会出場を本気で目指していました。「浦和を制するものは埼玉県を制し全国を制する」というふうに考えていましたし、実際にその通りだったものですから、私たちも浦和でサッカーをやっている以上は全国の頂点を目標にしていました。しかし、私が1年生の時は先輩たちが県予選の準決勝で浦和南高校に敗れました。そしてその年、浦和南高校は全国大会で優勝しました。実は現在日本サッカー協会の会長を務めている田嶋幸三さんがキャプテンのチームでした。翌年、私が2年生でレギュラーになった時には、県予選の準々決勝でまたも浦和南高校に敗れたのですが、浦和南高校は全国大会で連覇しているんです。浦和南高校とは日ごろからよく練習試合をしていましたから、全国の頂点に立つような高校がどれほど強いかは身に染みていました。ですから、自分の実力ではこれ以上のレベルには行けないなと感じていましたので、スポーツへの道はすっぱり諦めて、大学ではまったく別の道に進もうと思っていました。



バンカラを気取っていた早大精神昂揚会時代(後列右から2人目)

バンカラを気取っていた早大精神昂揚会時代(後列右から2人目)

―― 早稲田大学法学部に進学されましたが、"別の道"とはどんなものだったのでしょうか。

1966年から1976年の約10年間にわたって中国では「文化大革命」(中国経済を大混乱にし、多くの餓死者を出した責任を問われて中国共産党の国家主席の座を退いた毛沢東が、権力奪還を目的に提唱した政治運動)が起きていました。しかし、私が大学に進学する2年前の1976年に毛沢東が亡くなったのを機に、鄧小平(1959年に毛沢東に代わって国家主席に就任した劉少奇とともに党総書記として実権を握ったが、文化大革命によって資本主義の実権派と疑われて糾弾の対象となった)が復権して、文化大革命後の混乱の収束を進めていたんです。
私が大学に入学した1978年は中国のまさに"歴史的転換の時代"とも言われ、鄧小平が実質的に中国の指導者となり、経済発展を目指した改革開放路線へと踏み出していた時でした。
そんな中国に私は強く興味を持ちまして、開放以来、まだ一般の外国人は中国に足を踏み入れていないと聞いたものですから、友人たちと首都北京から、シルクロードの一番端にあたるウルムチ市(中国北西端にある新疆ウイグル自治区の中心都市)まで約3000キロを3年かけて歩こうという計画を立てたんです。



 
青島から河北平原を歩いて進むことになる(右から2人目)

青島から河北平原を歩いて進むことになる(右から2人目)

ただ当時は鄧小平が復権したばかりで、改革開放を唱えてはいたのですが、中央政府のガバナンスが地方都市まで行き渡ってはいませんでした。まだ地方には自治組織の「人民公社」の名残がありまして、正規のルートで地方の奥へと入って行こうとしても、各自治組織の力が強くて外国人を受け入れてもらえなかったんです。計画を練り直してルート変更して先に行こうとしても、やはり通行することを許可してもらえないことが何度か続きました。そこで仕方なく西側に進むことを諦めて、北京から南下することにしまして、華北平原の中を600キロほど進んだところの山東省済南市の奥まで歩いて、そこで断念しました。



Jリーグで生かされているリクルート時代の経験

リクルート人事部時代

リクルート人事部時代

―― 当時、中国への関心が高まってきたなかで「とにかく行ってみよう」という村井さんの行動力には脱帽ですが、その学生時代の中国への旅が、卒業後に入社した日本リクルートセンター(現リクルートホールディングス)との縁の始まりだったそうですね。

中国を訪れるためには、結構な資金が必要でした。というのも、おそらく中国は経済の立て直しの一環として外貨を得るためだったと思いますが、渡航費が非常に高額でして、とても私たち学生が賄うことができなかったんです。そこで「改革開放以来、初めて中国を外国人が訪れる」ことをアピールして資金援助をお願いに400~500社ほどの企業を回りました。それでいろいろな企業から金銭援助や物資提供をしていただいたのですが、なかでもリクルートは面白い企業でして、資金や物資を提供してくれることはなかったのですが、「この企業に行くと、こんなものがもらえるよ」なんていう情報をいろいろとくれたんです。すすめられた通りにその企業に行くと、本当に食料や旅用品がもらえまして、「リクルートって、なんでこんなに情報が豊富なんだろう。変わってるけど、面白い会社だなぁ」なんて思っていたんです。

1981年、大学3年生の時に中国の旅を始めまして、当初は3年という計画だったのですが、結局途中で断念をして翌年に帰国しました。そしたら自宅の机の上にはリクルートブック(新卒採用者向けの会社案内)がどっさりと置いてありました(笑)。就職活動の時期にさしかかっていたんです。中国に行ったのもそうですが、私は人と違うことを面白いと感じる性格でして、周りと同じ企業に就職したいとは思っていませんでした。とはいえ、自分がどこの会社に行けばいいのかさっぱりわかりませんでした。そこで「リクルートに行けば、いろいろな企業の情報をもらえるかもしれない」と思い、頻繁に出入りするようになったんです。お茶を飲ませてもらいながら企業の話をうかがっていく中で、リクルート自体に興味を持ち始めたんですね。それで試験を受けたというのが入社へのいきさつです。当時はまだリクルートは無名に近い存在で、私は25歳の時に結婚をしたのですが、妻の知人からは「リクルートで働かれているんですね」ではなく「リクルート"という"会社で働かれているんですね」と、"という"を付られけてしまうくらいに、世間一般的には知られていませんでした。

その後、1988年に発覚した「リクルート事件」(リクルートグループ企業「リクルートコスモス」の未公開株が、政界の実力者や官僚らに譲渡されていたことが発覚し、当時の竹下登首相が退陣に追い込まれた事件)で誰もが知る企業になるわけですが、戦後最大の汚職事件を起こすような企業となり、さらにはダイエーの資本傘下に入るような企業になるとは、入社当時はまったく想像していませんでした。また、時代の流れにも翻弄されました。私が大学時代にはリクルートブックという会社案内の冊子の制作がリクルートの主要事業でしたが、1990年代に入るとインターネットの時代となり、「紙のリクルートブックは10年後にはなくなる」と言われました。そしたら本当に10年後にはリクルートブックは跡形もなく消えました。「リクルート事件」で企業ブランドの価値が地に落ち、財務的にはすでに破綻していて1兆4000億円の有利子負債を抱えていました。そのうえさらに頼みの綱だった本業のリクルートブックもなくなり、大変厳しい状況に陥りました。このように入社後は到底予想しえなかった苦難が多々ありました。今思うと、当時は類似業者がまったくなかったリクルートという企業で、人と違う方法で違うことをしていきたいという強い思いがなければ、あるいは同じような開拓精神の持ち主の仲間たちがいなければ、とても続けていけなかっただろうなと思います。私はどちらかというと人事畑の部署にいたのですが、どれだけ企業がスキャンダルにまみれたり、時代の流れの中で本業が色褪せても、そこで働く人間が一致団結して微かでも希望を持って働くことができていれば、つぶれることはないということを身をもって知ることができました。



ACL決勝第1戦を観戦。セパハン(イラン)対浦和。イランのエスファハーン州フーラードジャフルスタジアム。

ACL決勝第1戦を観戦。セパハン(イラン)対浦和。イランのエスファハーン州フーラードジャフルスタジアム。

―― その後、村井さんは本社執行役員になられ、2004年にはリクルートエイブリックの代表取締役社長に就任されました。さらに2011年にはリクルート・グローバル・ファミリー香港法人の代表取締役社長、2年後の2013年には同社代表取締役会長となられました。こうしたキャリアを積まれていく中でのさまざまな経験が、後にJリーグチェアマンに就任されてからも活かされているのではないでしょうか。

2014年にJリーグ(日本プロサッカーリーグ)の5代目チェアマンに就任した時、Jリーグでは全国に50あるクラブが「村井ってどこの誰ですか?」という状況でした。高校時代に3年間サッカー部だったとはいえ、サッカー選手として名を馳せたわけでも、クラブチームを経営してきたわけでもなかったわけですから当然です。2008年からJリーグの社外理事ではありましたが、あくまでもアドバイザリー的なものであって、リーグに深く携わってきたわけではありませんでした。そんな状況の中で、私が50の各クラブチームの社長と対面していく時には、リクルート時代の経験が非常に役に立ちました。

私が香港事業所の社長となったのは、2011年。その3年前の2008年に「リーマン:ショック」(アメリカの大手投資銀行リーマン・ブラザーズが経営破綻したことを契機に金融市場が麻痺し、アメリカ経済にとどまらず世界同時不況を引き起こした)が起き、そのあおりを受けて2009年、2010年には実体経済に大きな影響をもたらしました。それに加えて2011年には東日本大震災が起き、日本の雇用政策が大きく揺らいだ時期でした。その中で、私はASEAN(東南アジア諸国連合)の各国に全部で26個のオフィスを設立しました。この時に4社ほど海外企業を買収したのですが、日本のM&Aと言いますと、どうしても財務デューデリジェンス(対象企業の財務状態について調査すること)したり法務デューデリジェンス(M&Aに影響を与えかねない法務上の問題の有無を調査すること)したりと査定を一生懸命に行って、書類をたんまりと積み上げていくんです。しかし、海外では結婚にとても似ていて、オーナーと何日にもわたって一緒にお酒を飲みかわしたりダンスをしたりカラオケをしたりして、共に時間を過ごしてこちらを信頼していただくんです。自分が大切に育てた子どものような存在である会社を嫁がせるような感覚なんですね。つまり書類ではなくて、お互いのビジョンを語り合ったり、時には徹底的に討論をしたりを繰り返していきながら生身の人間同士が近づいていくんです。当時、リクルートはまだ世界的にはほとんど無名で、少し調べればスキャンダラスな事件しか出てこないような企業でした。そんな中でも、自分はこういう者で、こういう事業をしていて、こういう展望を持っているということを懇切丁寧に対峙していきました。その時の経験がなければ、Jリーグで私のような外様が50のクラブの社長と対峙することはできなかったと思います。また、2016年にはスポーツ動画配信サービス「DAZN」(ダゾーン)と10年間、約2100億円の放映権契約を締結するわけですが、この時はロンドンにあるDAZN本社にまで出向きまして、DAZNのオーナーと直接話をして契約をまとめました。これも私がリクルート時代に、丸腰で出ていくことが重要であることを学んだ海外事業の経験がなければ、とても契約は無理だったなと思います。



Jリーグ再建の基盤となった「約束」と「戦略」

―― 2014年に村井さんがJリーグチェアマンに就任された時は、Jリーグの入場者数が減少傾向にあり、改革が求められていた時期でしたね。

当時はJリーグの財産がほぼ底をついていて、このままでは破綻するというような状況に追い込まれていました。では、どのようにして人気回復を図るかといえば、いきなり世界のスーパースターがJリーグのチームに移籍してきてくれるわけでもないですし、いきなり選手の技術レベルが高くなるわけでもないわけですよね。そうすると考えられるのは、既存のクラブチーム、選手で、どうやって魅力的なサッカーをファンに見せていくかということしかありません。そこで就任初年度には選手やクラブに対して「チェアマン3つの約束」ということで「簡単には倒れない」「選手交代は素早く」「リスタートは速く」(翌2015年には「レフリーへの異議をやめる」が加えられて「4つの約束」となる)を提言しました。ファンが見苦しさを感じるのは、それほど激しくない接触プレーで簡単に選手が倒れて、痛くもないのに大げさに痛がったり、審判に相手選手のファウルを訴えたりすること。あるいはリードしているチームの選手が交代の時にゆっくりと歩いて時間稼ぎをしたりすることなんです。ファンは、下手なら下手なりに全力でやっている姿を望んでいる。ですから、そういう見苦しいシーンを減らすこと、J1はもちろんJ2やJ3にだってすぐにできることから始めようと考えました。



FIFAワールドカップブラジル大会。コロンビア戦の本田圭佑(2014年)

FIFAワールドカップブラジル大会。コロンビア戦の本田圭佑(2014年)

ちょうど就任した2014年は、サッカーワールドカップブラジル大会が開催された年でもありました。そこで、サッカーワールドカップの全試合のコーナーキックに要した所用時間を計測したところ、ボールがラインの外に出てから、キッカーが蹴り出すまでにかかった平均時間は26.4秒でした。一方、その年サッカーワールドカップで中断するまでのJ1の約3カ月間の試合での平均は30.6秒でした。つまり世界のサッカーよりも、Jリーグの方が約4秒も時間を要していたことがわかったんです。コーナーキックを早く蹴れば、相手の守備陣形を固める前に攻撃するチャンスができます。ですから相手の隙をついて攻撃するなら早くリスタートした方がいいのに、当時の日本ではのんびりとペットボトルの水を飲んだりしてからリスタートするようなサッカーをしていたんです。

ワールドカップ終了後も、J1の各クラブチームのリスタートの時間を計測して、サッカーワールドカップでの平均時間と照らし合わせながら「もっと早くできるのでは」という検証を繰り返していきました。明確な数字を示すことで実行に移してもらおうと考えたわけです。あれから6年経ちましたが、今ではJリーグもずいぶんとリスタートが早くなりました。海外のサッカーを見ていますと、まさに「息つく暇がない」というほど攻守が激しく入れ替わりますよね。本来これがサッカーというスポーツの醍醐味だと思います。以前のJリーグのように、試合途中で不用意に中断の時間が長く、選手が休んでいたり、レフリーに文句を言っている姿を、観客はお金を払って見たいとは思いません。リスタートを早くするだけでも、観客の目にJリーグのサッカーが非常に魅力的に映るようになったのではないでしょうか。実は、就任当初は「サッカーを知らない素人チェアマンはこれだから困るよ」なんていう声も随分と聞こえてきました。しかし、ただ「こうしようよ」と掛け声を挙げるだけでなく、計測をして数字化し、それを全クラブチームにフィードバックして効果を共有するというサイクルの中で克服していけたような気がします。



―― なぜサッカーが世界で最も人気のスポーツになっているのか、世界標準とは何かと考えてこられた結果、今日のJリーグが存在しているわけですね。また、村井さんはチェアマン就任以降、「育成」と「財政基盤」を前提条件とした「5つの重要戦略」(①魅力的なフットボール、②スタジアムを核とした地域再生、③経営人材の育成、④デジタル技術の活用、⑤国際戦略)を掲げ、Jリーグの人気を復活させ、今日の状況をつくりあげてこられました。ただ試行錯誤の中でうまくいかなかったこともあったかと思います。それでも強く突き進んでこられた村井さんの姿からは「失敗を恐れるな」という精神が垣間見られ、それがリーグのスタッフやクラブチーム、選手たちにも影響を与えているのではないでしょうか。

Jリーグチェアマン就任記者会見(2014年)

Jリーグチェアマン就任記者会見(2014年)

JリーグのDNAともいうべき深い部分で私の中に刻まれているのは、初代チェアマンの川淵さんをはじめ、Jリーグを創設した時の関係者の思いですよね。おそらく当時は日本でサッカーのプロリーグなんて成功するはずがないというのが大方の予想だったと思います。しかし成功する保証がない中でも、「全国に地域密着のクラブチームと緑の芝生があるような日本スポーツ界にしたい」という夢を現実にしようと信念を持ってやってこられた方々がいたからこそ、今Jリーグがあるわけです。

ビジネスの世界では、新規事業を立ち上げる際には可能な限り失敗の確率を下げようとします。ましてや近年ではAIをはじめさまざまなテクノロジーのレコメンデーション(顧客の趣向を分析したデータ)がありますから、風潮として失敗を恐れていくような社会になりつつあります。もちろん生産性を上げるためには失敗しない方がいいわけですから、そうした方法をとるのは当然ですよね。

一方でサッカーは、人間にとって日常生活で何をするにも必要不可欠な手を、あえて使わないスポーツです。そのために、プロでも90分の試合で0-0で終わることが珍しくありません。そんなふうに得点しないことも珍しくないサッカーというスポーツで、観客は何を見せられるかというと、選手たちが起こすミスの連続なんです。たとえば、手を使うスポーツに「オウンゴール」(自陣のゴールに誤ってボールを入れ、自ら失点を招くこと)という言葉はあまり使用しませんが、サッカーにはそれがあり得るわけです。それくらいサッカーとは非常にミスの多いスポーツだということです。逆に言えば、サッカー選手というのはオウンゴールのような通常では想像し得ないミスをしても、そこからまた立ち上がって試合を続行していくスポーツでもあります。そういうスポーツを取り仕切る組織で働く人間が、ミスを恐れてどうする、ということなんです。サッカーが持っている本質と、マネジメントする側が進む方向がずれていては、組織としての真のパワーは生まれません。連続して起こるミスから立ち上がることを本質とするサッカーに毎日関わっている私たちは、サッカーを生業とする選手たちと同じように強く前進していこうと。私が言ってきたことは、そんなシンプルなことなんです。



―― そうした中で、Jリーグの経済的な立て直しも図ってこられました。何よりも大きかったのはDAZNとの10年契約だったと思います。

サッカーにおいて「世界5大リーグ」と言われているところはすべて衛星放送やケーブルテレビからの巨額な放映権料が財政ベースになっていました。しかし、試合時間に帰宅が間に合わずに見過ごしたり、あるいは録画したものを見るにしても自宅に戻らないと見ることができず、帰宅途中で結果を知ってしまって残念な思いをしたことが、私自身何度もありました。やはりスポーツ観戦というのはライブで一緒に戦っているという感じが醍醐味ですから、何とかしてライブ感を楽しめる方法はないかなと模索していたんです。そうした中で偶然出合ったのが、パフォーム・グループ(イギリス・ロンドンに拠点を置くデジタルスポーツメディア。2019年4月の事業再編に伴い、「DAZNグループ」に名称を変更)でした。まだ当時は世界のサッカー界では無名でしたが、Jリーグの放映権において競争入札の中にパフォーム・グループも参加してもらったんです。いろいろと話をしていく中で、インターネットの可能性を秘めた魅力を改めて感じました。

一方で全試合の著作権をJリーグが保有するという条件に一番こだわっていたために、交渉は難航しました。従来は試合映像の著作権は放映するテレビ局や配信事業者にありました。それをクラブのオウンドメディア等でインターネット配信する場合は一つ一つ許諾を得ないとできなかったんです。これではリアルタイムが一番の魅力であるインターネットで配信していくためには大きな妨げになってしまう。だからこそ、試合動画の権利をすべてわれわれJリーグが保有することにこだわりました。つまり提携先に提供するのは配信する権利だけで、制作著作は渡しません、という条件の中で長期間で高額な契約を望んだものですから、何度もディールブレイク(取引が失敗すること)となりそうな瞬間ありました。最後は私がパフォーム・グループの本社があるロンドンにまで行って直談判しまして、ようやく契約が締結されました。苦労の甲斐あって結果的には、いつでもどこでも、テレビでもパソコンでも携帯電話でも見ることができることを可能としたインターネットでの動画配信は正解でした。このDAZNとの契約は、コロナ禍という大きな難局を乗り切るために、本年8月に契約期間を2年間延長(2017~2028シーズン)、放送権利料も約2100億円から約2239億円に上積みされました。



世界をリードする可能性を秘めたJリーグ

―― 新型コロナウイルス感染拡大のなかで対策を講じ、当初は無観客、やがて周囲の状況も勘案しながら有人試合を始められ、ようやく収容人員の50%まで届きました。そのコロナとの付き合いはまだ続きそうですが、Jリーグのトップとして今後、村井さんは全国のクラブチームをどのように牽引していこうと考えていらっしゃるのでしょうか。

2019年度は、Jリーグ史上過去最高の入場者数1100万人を突破し、J1においては年間平均入場者数が初めて2万人を超えました。しかし、2020年になってスポーツ界も刻々と状況は変わり、Jリーグも新型コロナウイルス感染拡大の影響を大きく受けています。9月19日からは「5000人以内」という人数制限が撤廃されましたが、引き続き収容人数の50%が上限となっていますので、入場者数の激減は免れず、おそらくJリーグ創設以来過去最低になると思います。そして赤字のクラブチームも、これまで以上に多くなるでしょう。しかし、冒頭でもお話しましたが、リクルートは戦後最大のスキャンダルを起こしながらも、つぶれることはありませんでした。ビジョンを共有できる人間たちが結束をして前を向いて歩んでいけば、どんな困難でも克服できる。リクルート時代にそう確信しましたので、Jリーグも、そしてスポーツ界全体も、コロナ感染拡大での環境変化に負けることはないと固く信じています。そのためには、これまでやったことのない新たな挑戦を、失敗を繰り返しながらも熱量高くやり続けていくことが重要です。そうすれば、逆にもっといいリーグ、クラブチームに生まれ変わることができると思っています。



リオでジャネイロオリンピックのサッカーで金メダルに輝いたブラジルチーム

リオでジャネイロオリンピックのサッカーで金メダルに輝いたブラジルチーム

―― 来年に延期された東京オリンピック・パラリンピックが、果たして本当に開催できるのか、その岐路に立たされているわけですが、村井さんはどのように感じられていますか?

サッカーワールドカップと同様に、世界最高峰に位置する国際大会であるオリンピック・パラリンピックは、スポーツの象徴的存在です。そもそもスポーツの語源は「運び去る・運搬する」という意味のラテン語「deportare(デポルターレ)」からきています。それが精神的次元の移動の意味で「気分転換・気晴らし」といった「日常から離れて楽しむ」という意味に転じました。つまり、スポーツとは人間が人間らしく生きるための根源的なものであると言っても過言ではないと思っています。そのスポーツをコロナ禍で行うということは、非常に大きな意味を持つものではないでしょうか。まだまだコロナの影響を受けて苦しんでいる人たちはたくさんいます。しかし、苦しいことだけが続いては、それを乗り越える力は沸いてこないですよね。やはり楽しみがあるからこそ、また元気に苦難を乗り越えようとするんだと思うんですね。だからこそ東京オリンピック・パラリンピックの開催期間中は、少し苦しい日常を忘れて楽しんでいただき、世界のアスリートたちがしのぎを削り合いながら挑む姿を見て活力を養ってほしいなと。そういう意味では、東京オリンピック・パラリンピックは、まだまだ続くであろう"withコロナ時代"にも「また頑張って生きていこう」というエネルギーを与えてくれる、そんな苦しい時代だからこそ非常に重要な大会になると思っています。是が非でも開催していただき、成功してほしいと願っています。



―― 村井さんが考えているJリーグの未来像、スポーツ界の未来像とは、どのようなものでしょう。

まずJリーグの未来像ですが、世界トップランクのリーグにするということです。競技力はもちろん、入場数やマーケティングの財政的な収支というさまざまな要素を包含したうえで世界の中のトップランクに位置するようなリーグにしていこうと考えていますし、間違いなくなると思っています。日本は世界屈指の強豪国になる可能性を秘めています。なぜなら経済力で言えば、日本はアメリカ、中国に次ぐ世界3位なわけですから、スペインやドイツに負けるわけがありません。また人口も、日本は1億人以上いて、ヨーロッパの中では大国のドイツの約8000万人を優に超えています。ということは、それだけ人材が豊富ということです。しかも教育立国ですし、非常に勤勉な国民性であることを考えても、大きく前進するポテンシャルを持っています。それをしっかりと紡いでいくことができれば、それこそ世界のサッカーシーンのリーダーになる可能性も秘めていると私は思っています。すでに差別や暴力の排除といったインティグリティ(誠実さ)の観点、あるいは給料未払いや遅配がないなど、さまざまな要素で世界に誇れるリーグになっています。それに加えて、今後は競技力やマーケティングなどさまざまな観点でトップランク入りすることを目指しています。そのためには徹底的に人材育成に注力していこうと考えています。

一方、日本のスポーツ界でいえば、「学校スポーツ」の発展というのは、世界に誇れるものだと思っています。すべての小学校、中学校、高校に校庭やスポーツ施設があるというのは、世界から見ても屈指の「スポーツ教育環境」です。ただ、部活動においては主に学校の先生が顧問となって指導するというこれまでの体制が成り立たなくなってきており、地域や外部指導者を取り込んだ体制へと変わりつつあります。しかし、それはプラスに転じるでしょう。「学校スポーツ」と「プロスポーツ」の垣根が少しずつなくなっていき、地域社会を軸に誰もがスポーツを楽しむことができるようになっていくと思います。これまでの学校スポーツの環境やノウハウが社会に還元されて、スポーツがさらに社会や地域の「公共財」となっていくはずです。これが日本スポーツ界における一つの未来像だと考えています。



―― 最後に、村井さんが後世につなげていきたいこととは何でしょうか?

心の底から自分自身の喜怒哀楽を開放できる社会をつくりたいと思っています。今後、さらにテクノロジーが発達し、AIが活躍の領域を広げていくことでしょう。それこそ遠隔でビジネスや医療ができたりと、どこででも何でもできる、より便利な時代になるかもしれません。しかし、どんなに時代が変わっても、人が泣いたり笑ったり、相手を称えたり、悔しさに打ちひしがれたり、挫折したりすることが人間である証であることは変わりません。そして、スポーツの中にはその喜怒哀楽があり続けます。これからの時代、失敗を恐れる人たちが増えてくるかもしれませんし、"ソーシャル・ディスタンス"が常識化している今日において、人と人との距離が離れて、ぶつかり合うことを避ける社会になるかもしれません。それでも、太古の時代から変わっていない豊かな感情の表出というのは、やはり人が人らしくいられるものですので、それを人間がなくさないためにもスポーツは重要な存在です。そうしたスポーツの価値をしっかりと継承していきたいと思っています。



  • 村井 満氏 略歴
  • 世相

1912
明治45

ストックホルムオリンピック開催(夏季)
日本から金栗四三氏が男子マラソン、三島弥彦氏が男子100m、200mに初参加

1916
大正5

第一次世界大戦でオリンピック中止

1920
大正9

アントワープオリンピック開催(夏季)

1924
大正13
パリオリンピック開催(夏季)
織田幹雄氏、男子三段跳で全競技を通じて日本人初の入賞となる6位となる
1928
昭和3
アムステルダムオリンピック開催(夏季)
織田幹雄氏、男子三段跳で全競技を通じて日本人初の金メダルを獲得
人見絹枝氏、女子800mで全競技を通じて日本人女子初の銀メダルを獲得
サンモリッツオリンピック開催(冬季)
1932
昭和7
ロサンゼルスオリンピック開催(夏季)
南部忠平氏、男子三段跳で世界新記録を樹立し、金メダル獲得
レークプラシッドオリンピック開催(冬季)
1936
昭和11
ベルリンオリンピック開催(夏季)
田島直人氏、男子三段跳で世界新記録を樹立し、金メダル獲得
織田幹雄氏、南部忠平氏に続く日本人選手の同種目3連覇となる
ガルミッシュ・パルテンキルヘンオリンピック開催(冬季)

1940
昭和15
第二次世界大戦でオリンピック中止

1944
昭和19
第二次世界大戦でオリンピック中止

  • 1945第二次世界大戦が終戦
  • 1947日本国憲法が施行
1948
昭和23
ロンドンオリンピック開催(夏季)
サンモリッツオリンピック開催(冬季)

  • 1950朝鮮戦争が勃発
  • 1951日米安全保障条約を締結
1952
昭和27
ヘルシンキオリンピック開催(夏季)
オスロオリンピック開催(冬季)

  • 1955日本の高度経済成長の開始
1956
昭和31
メルボルンオリンピック開催(夏季)
コルチナ・ダンペッツォオリンピック開催(冬季)
猪谷千春氏、スキー回転で銀メダル獲得(冬季大会で日本人初のメダリストとなる)
1959
昭和34
1964年東京オリンピック開催決定

  • 1959 村井満氏、埼玉県に生まれる
1960
昭和35
ローマオリンピック開催(夏季)
スコーバレーオリンピック開催(冬季)

ローマで第9回国際ストーク・マンデビル競技大会が開催
(のちに、第1回パラリンピックとして位置づけられる)

1964
昭和39
東京オリンピック・パラリンピック開催(夏季)
円谷幸吉氏、男子マラソンで銅メダル獲得
インスブルックオリンピック開催(冬季)

  • 1964東海道新幹線が開業
1968
昭和43
メキシコオリンピック開催(夏季)
テルアビブパラリンピック開催(夏季)
グルノーブルオリンピック開催(冬季)

1969
昭和44
日本陸上競技連盟の青木半治理事長が、日本体育協会の専務理事、日本オリンピック委員会(JOC)の委員長に就任

  • 1969アポロ11号が人類初の月面有人着陸
1972
昭和47
ミュンヘンオリンピック開催(夏季)
ハイデルベルクパラリンピック開催(夏季)
札幌オリンピック開催(冬季)

  • 1973オイルショックが始まる
1976
昭和51
モントリオールオリンピック開催(夏季)
トロントパラリンピック開催(夏季)
インスブルックオリンピック開催(冬季)
 
  • 1976ロッキード事件が表面化
1978
昭和53
8カ国陸上(アメリカ・ソ連・西ドイツ・イギリス・フランス・イタリア・ポーランド・日本)開催  
 
  • 1978 村井満氏、埼玉県立浦和高等学校を卒業し、早稲田大学に入学。 高校在学時はサッカー部に所属
  • 1978日中平和友好条約を調印
1980
昭和55
モスクワオリンピック開催(夏季)、日本はボイコット
アーネムパラリンピック開催(夏季)
レークプラシッドオリンピック開催(冬季)
ヤイロパラリンピック開催(冬季) 冬季大会への日本人初参加

  • 1982東北、上越新幹線が開業
  • 1983 村井満氏、早稲田大学を卒業し、日本リクルートセンター(現・リクルートホールディングス)に入社
1984
昭和59
ロサンゼルスオリンピック開催(夏季)
ニューヨーク/ストーク・マンデビルパラリンピック開催(夏季)
サラエボオリンピック開催(冬季)
インスブルックパラリンピック開催(冬季)

1988
昭和63
ソウルオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
鈴木大地 競泳金メダル獲得
カルガリーオリンピック開催(冬季)
インスブルックパラリンピック開催(冬季)

1992
平成4
バルセロナオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
有森裕子氏、女子マラソンにて日本女子陸上選手64年ぶりの銀メダル獲得
アルベールビルオリンピック開催(冬季)
ティーユ/アルベールビルパラリンピック開催(冬季)
1994
平成6
リレハンメルオリンピック・パラリンピック開催(冬季)

  • 1995阪神・淡路大震災が発生
1996
平成8
アトランタオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
有森裕子氏、女子マラソンにて銅メダル獲得

  • 1997香港が中国に返還される
1998
平成10
長野オリンピック・パラリンピック開催(冬季)

2000
平成12
シドニーオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
高橋尚子氏、女子マラソンにて金メダル獲得

  • 2000 村井満氏、リクルートホールディングス執行役員に就任
2002
平成14
ソルトレークシティオリンピック・パラリンピック開催(冬季)

2004
平成16
アテネオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
野口みずき氏、女子マラソンにて金メダル獲得

  • 2004 村井満氏、リクルートエイブリック(現・リクルートキャリア)代表取締役社長に就任
2006
平成18
トリノオリンピック・パラリンピック開催(冬季)

2007
平成19
第1回東京マラソン開催

2008
平成20
北京オリンピック・パラリンピック開催(夏季)
男子4×100mリレーで日本(塚原直貴氏、末續慎吾氏、高平慎士氏、朝原宣治氏)が3位となり、男子トラック種目初のオリンピック銅メダル獲得

  • 2008 村井満氏、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)理事に選任
  • 2008リーマンショックが起こる
2010
平成22
バンクーバーオリンピック・パラリンピック開催(冬季)

  • 2011 村井満氏、リクルート・グローバル・ファミリー香港法人社長に就任
  • 2011東日本大震災が発生
2012
平成24
ロンドンオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
2020年に東京オリンピック・パラリンピック開催決定

  • 2013 村井満氏、リクルート・グローバル・ファミリー香港法人会長に就任
2014
平成26
ソチオリンピック・パラリンピック開催(冬季)

  • 2014村井満氏、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)5代目チェアマンに就任
    村井満氏、日本サッカー協会副会長に就任
2016
平成28
リオデジャネイロオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
2018
平成30
平昌オリンピック・パラリンピック開催(冬季)
2020
令和2
新型コロナウイルス感染症の世界的流行により、東京オリンピック・パラリンピックの開催が2021年に延期