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「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。

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日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。

セミナー「子供のスポーツ」
オリンピアンかく語りき
第13回
五輪史に輝く“柔”の体現者

山下 泰裕

日本のスポーツ界を牽引し、頂点を極め、輝ける足跡を残した方々の貴重な証言から、今後のスポーツの在るべき姿を探る「スポーツ歴史の検証」シリーズ。第2シリーズの1回目のゲストは、山下泰裕さんにお願いした。

柔道という競技が初めてオリンピック競技大会に登場したのは、1964年の東京大会であった。以来、日本の"お家芸"といわれる柔道がオリンピックで獲得した金メダル数は、実に36個にのぼる。その中でも、柔道ファンならずともいちばん鮮やかに記憶され、語り継がれるであろう金メダリストといえば、1984年ロサンゼルス大会の無差別・山下泰裕さんではないだろうか。

山下さんは、同年10月、国民栄誉賞を受賞。以降、柔道界のみにとどまらず、アスリートのシンボル的な存在として、注目を浴びる中、活躍を続けている。そんな山下さんにオリンピックにまつわる知られざるエピソード、現在の活動、柔道界・ご自身の未来などについてお話を伺った。

聞き手/西田善夫氏 文/山本尚子 構成・写真/フォート・キシモト 2013年5月

 

1984年ロサンゼルスオリンピック、2回戦で肉離れ

2回戦のシュナーベル(西ドイツ)戦。この試合で肉離れを起こす

2回戦のシュナーベル(西ドイツ)戦。この試合で肉離れを起こす

――「きょうは山下さんにお話を伺うんだ」と家内に話しましたら、「ロサンゼルスオリンピックのときは本当に素晴らしかったわね」と、30年近くも前の話なのに懐かしそうにしていました。ほかの方に伺っても、あのときの山下さんのイメージはくっきりと残っているようです。山下さんご自身、どこに行ってもよく聞かれるのではないですか。

ありますね。そのころまだ生まれていない人までもが、「山下さんじゃない?」と言う。なぜ自分のことを知っているのだろうと不思議に思っていたら、オリンピックが近づくたびに、過去の名シーンとして、ラシュワンとの試合が放映されているようですね。



―― 足を引きずり、苦しみながら戦った決勝戦。あれは2回戦で傷めたのでしたか。

そうです。2回戦のシュナーベル(西ドイツ)戦でした。がっちり組み合おうとしないやりにくい相手で、やっとのことでつかまえて内股を放った瞬間、軸足の右足に異常を感じ、「しまった、やっちゃった!」と思いました。おまけにその内股は不十分でした。



平常心を貫けなかった思わぬ落とし穴

―― 肉離れでしたね。そういうクセはあったのですか。

いや、全然。初めてでした。試合前日、トレーナーの方に入念にマッサージをしてもらい、「完璧ですね」と言われていたほどです。私にとって最初で最後のオリンピック。ウォーミングアップも普段の倍近くやって臨んだはずが、思わぬ落とし穴があったのです。



柔道会場となったカリフォルニア州立大ロサンゼルス校体育館

柔道会場となったカリフォルニア州立大ロサンゼルス校体育館

―― どのような?

大会会場はすり鉢状になっていて、冷気が上から下りてきます。一番低いところにある試合会場はよく冷えているのに、試合場のすぐ隣の控え室にはエアコンがなくて暑いのです。私は一つ前の試合が始まったので、試合場に入りました。普通ですと体を冷やさないように何か着込んでいくところですが、どうせ3~5分後には試合が始まると思ったので、「いらない」と言ったのです。 そうしたら、前の試合の選手がケガをし、5分間の試合が10分以上かかってしまいました。その待っている間に、足が冷えたのでしょう。普通だったら「まずいなあ」と思ってすぐ着込むのでしょうが、油断なのか、いや余裕がなかったのかもしれませんね。



―― 無意識のうちに緊張感があったのでしょうね。

負傷がバレたのなら、得意技の「開き直り」で

2回戦終了後、足を引きずりながら定位置に戻る

2回戦終了後、足を引きずりながら定位置に戻る

「しまった」と思った直後、でも相手は異変に気がついていない様子でした。ともかく「この試合に勝たなければ」と考え、平静を装ったつもりでした。ケガのことは誰にも知られたくない。いつもと同じ表情で足をひきずらずに試合場を下りたはずの私を迎えてくれたのは、仲間の選手や先生方の「どうしたんだ?何が起きた?」「どこをケガしたんだ?」という声でした。



―― ばれてしまっていたのですね。

帰国後ビデオを見たら、顔も引きつっているし、だれが見ても「何かがあった」と感じたでしょうね。テレビ解説では、猪熊(功)先生の「足を引きずっていますね」なんていう声も入っていましたし。 「右腓腹筋(ふくらはぎ)裂傷」という自分の負傷・弱点がばれてしまったのは勝負では致命的なことなので、少し落ち込みました。ただ、もうすぐに次の試合があります。気持ちを切り替えなければなりません。私もいろいろ修羅場をくぐり抜けてきた人間です。腹をくくって覚悟を決めると、肝が据わり、割と物事を冷静に見ることができるのです。「俺の一番の得意技は開き直りだぞ」と。



―― いいなあ。

周りにケガを知られたのなら、いくらでも足は引きずってかまわない。しかし、俺にできる最善を尽くそう。こんなケガに負けてなるものか。痛い顔はしない。相手を見据えて胸を張って試合をしよう、と心に決めました。 帰国後に聞いた話ですが、あのとき私の身の回りのことを手伝ってくれていた後輩が2人いました。彼ら曰く「あの日の先生は、これまでにないくらい気合が入り、緊張しておられるような気がしました。でもケガのあと、柔和になったというか、変な力みが取れたのではないかと思いました」と。



―― ほう。私はあのときテレビで見ていましたが、足を引きずりながらも、どこか悟ったような表情に思えた。大変な状況でありながら、あなたがとても冷静に感じられました。

わざと投げられることまで考えた決勝戦

山下 泰裕氏(当日のインタビュー風景)

山下 泰裕氏(当日のインタビュー風景)

―― 準決勝のデルコロンボ(フランス)戦は、劣勢に立たされながらも横四方固めで一本勝ち。決勝のラシュワン(エジプト)戦はどのような気持ちで迎えましたか。

いつも試合前には、その試合の流れを読むメンタル・リハーサルを行います。勝てる可能性が一番高いストーリーをイメージし、その反対に、一番好ましくない展開のイメージもしておきます。ところがあの試合に限っては、どうやったら勝てるか何も浮かびませんでした。私の恩師の佐藤宣践(のぶゆき)先生が日本チームの監督だったのですが、「泰裕、投げられろ」と言ったほどでした。



―― その意味は?

一本を取られなければいいのだから、わざと投げさせて、しがみついて寝技に持っていけばいい、ということです。当時、私の体重は126~127キロありました。ひざを畳に着いてしまえば、軸足の右足には負担がかかりません。そこから寝技にもっていく方法があるぞと。しかしさすがに、「一本!」と言われたらおしまいですからね。それではいくらなんでも悔いが残ります。そこで思ったのは、勝負において一度もチャンスがないまま終わるはずはない。チャンスを呼び込むために、これまで以上に胸を張り、相手を見据えて自分からつかみかかっていこうと決心しました。



―― 佐藤先生は何と言って送り出してくれましたか。

「この試合で、俺とおまえの師弟関係を終わりにしよう」でした。つまり先生は、「人生最後の勝負だと思って行け」と言いたかったのだと解釈しました。 あとから聞いたのですが、佐藤先生は「山下も、古橋廣之進さんのようにオリンピックだけには縁がなかったのか……」という考えが頭をかすめたそうです。



―― 「フジヤマのトビウオ」と言われ、間違いなく世界一のスイマーとして戦後の日本に大きな希望を与えながら、全盛期にオリンピックの舞台に立てなかった古橋さんですね。

何があっても「一本」と言われるまで絶対に放さない

決勝でエジプトのラシュワンを「四方固め」で破る

決勝でエジプトのラシュワンを「四方固め」で破る

―― ラシュワン戦、あの一瞬の横の四方固めは見事でしたね。

あの試合展開は予想外でした。ラシュワン選手のコーチは、日本人の山本信明先生でした。後日、お話を聞く機会があったのですが、ラシュワンは非常に心の優しい選手だと。私と同じ控え室でしたが、私のケガの様子を見ると情け心が浮かぶかもしれないからと、まず控え室を替えたということでした。試合前のアドバイスでは、「ラシュワン、おまえは勝てる。あわてる必要はない。いつもどおりでいいが、1点だけ俺のアドバイスを聞け。最初の1分は、しっかりつかんで一切攻めるな。するとケガをしている山下は動揺するだろう。1分経ったらそこから思い切っていけ。そうすれば勝てる」。



―― しかしラシュワンは早く勝ちたくて、その1分間が待てなかった…。

そうです。もしラシュワンが山本先生の指示通りにしていたら、私は動揺して違う展開になったのではないかと思います。ところがラシュワンはやる気満々で、試合開始と同時につかみかかってきました。しっかり組み合って間もなく、彼が払い腰の技を仕掛けてきたのです。そのとき私は無意識のうちに、瞬時に体をさばきました。彼の技が空を切り、体勢が崩れたところを上から寝技の攻めに入り、抑え込んだのです。



―― 「チャンスだ!」と思った瞬間はどうでしたか。

いやあ、もう10回やって1回、いや、100回やって2、3回あるかないかの試合展開でした。これを逃したら絶対にチャンスはない。何があっても絶対に放すもんか。火事になっても、爆破されても、審判が「一本」をとるまで何時間でも絶対に放さないぞと、そんな思いでしたね。



ラシュワン選手のフェアプレー

表彰式を前に感無量。左ががラシュワン

表彰式を前に感無量。左ががラシュワン

―― もう日本中がね、一瞬時が止まったというか、あの30秒は長く長く感じられました。
どうですか、一部ではラシュワンは傷めた右足を攻めてこなかったという言い方もされていましたが、私は彼にそのことで話を聞いたことがあるのです。彼は「フェアプレーと言われるのはうれしいが、それは違う」と言った。ああなるほど、彼はフェアプレー精神の持ち主だなと思いました。

はい、ケガをした足を武士の情けで攻めてこなかったというのは誤解です。彼は何も遠慮はしなかった。右足だけを攻めるというような卑怯な手を使うことなく、真っ向からいつもどおりに堂々と向かって勝負してきてくれた。そのことこそが「フェアプレー」だったのです。



―― だからこそ、見ている人々の心を打ったのですね。

ところがエジプト柔道界初のメダルだったにもかかわらず、ラシュワンは最初、えらい人たちにたたかれたそうですよ。応援に来られたエジプトオリンピック委員会や柔道連盟の会長さんに、「ケガをしている相手に手抜きをしたのではないか。コーチが日本人の山本先生だから、わざと負けるよう指示したのではないか」などと責められたそうです。



―― それは気の毒でしたね。

それが翌朝になると、ラシュワンのフェアプレーぶりが紹介されて、みんなの態度がコロッと変わり、「おお、ラシュワン、おまえはエジプトの、いや、アラブの誇りだ」となったそうです。彼には、後にユネスコ(国連教育・科学・文化機関)からフェアプレー賞が贈られました。



同じ目標に向け切磋琢磨し合うライバルだからこそ

無差別表彰式山下(中央)左がラシュワン(銀メダル)

無差別表彰式山下(中央)左がラシュワン(銀メダル)

―― 金メダルを獲得してほっとしたら、あとから痛みが襲ってきたのではないですか。

我に返ったら急に痛み出しました。表彰式では今と違い、優勝者から名前を呼ばれる時代でした。最上段へ上がるとき、ラシュワンは私を気遣って、さっと私の腕を支えてくれました。



―― 会場が割れんばかりの拍手に包まれた、いいシーンでしたね。

それからケガをした試合で戦った西ドイツの選手が、その試合の直後、治療を受けている私のもとに来て、「ヤマシタ、大丈夫か。おまえのケガは俺のせいか?」と申し訳なさそうな顔で尋ねるのです。私は「いいや、おまえとは関係ない。すべて俺が悪いんだ。心配しないでくれ」と説明しました。すると彼は少しほっとした顔で、「そうか、痛いだろうけど頑張ってくれ。心から応援しているからな」と言ってくれました。



―― ああ、彼も素晴らしいスポーツマンシップの持ち主ですね。

オリンピックは、各選手が国の代表として誇りと名誉を懸けて戦う舞台です。同じ目標に向かって切磋琢磨しているライバル同士だからこそ、互いに尊敬の気持ちが持てるのですね。



モスクワオリンピックのボイコット

JOCの臨時会議でモスクワオリンピック参加を訴える

JOCの臨時会議でモスクワオリンピック参加を訴える

―― 山下さんが全日本のタイトルを初めて取ったのは1977年、19歳のときでした。以来、全日本柔道選手権大会では9連覇されました。
世界選手権で初優勝(95キロ超級)したのは1979年、22歳のとき。本来であれば、1980年のモスクワオリンピックを上り調子の23歳で迎えるはずだったのですよね。

ええ、でもソ連(当時)軍のアフガニスタン侵攻を受け、米国に追従するように日本もモスクワ五輪のボイコットを決めてしまったのでした。



 

―― そうでしたね。1980年4月の「各競技団体の強化コーチ、候補選手らによる緊急集会」で、あなたとレスリングの高田裕司さんが涙ながらに出場を訴えていたシーンを思い出します。でも、あなたと高田さんの立場は全然違った。高田さんは76年モントリオール大会の金メダリスト(フリースタイル52キロ級)ですからね。私は彼の優勝シーンを放送していたのです。

そうでしたか。5月24日、日本オリンピック委員会(JOC)の緊急総会でボイコットが正式決定しました。オリンピック最終選考会を兼ねた全日本体重別選手権は、皮肉にもその翌日でした。私の階級の95キロ超級は4選手によるリーグ戦でした。私はそこで、遠藤純男選手の捨て身のカニばさみで左足を骨折してしまったのです。試合は続行不可能になりましたが、2勝した私が優勝で、オリンピック代表に選ばれ、日本オリンピック委員会からは代表認定書が送られてきました。



モスクワでライバルたちの試合を観戦

モスクワオリンピック柔道会場にて

モスクワオリンピック柔道会場にて

―― モスクワオリンピックは、1980年7月19日に予定どおり開幕しました。山下さんは現地に行かれたそうですね。骨折のほうは?

全治3カ月でしたが、ギリギリで退院できました。モスクワ行きは松前重義先生に勧められたのですが、はじめはためらい、迷いました。行けば「本当なら俺がここで試合をしていたのに」と空しく寂しい気持ちになるのではないかと。



―― 実際に行ってみてどんなことを感じられましたか。

会場に一歩足を踏み入れた途端、そんな不安は吹き飛びました。私を見付けたライバルたちが、「おお、ヤマシタ!」と寄ってきてくれるのです。「ケガは大丈夫か?」「またやれるんだよな?」「頑張れよ」と口々に励ましてくれました。彼らの言葉で吹っ切れたといいますか、私はライバルたちの試合を楽しんで観戦することができ、また俺も帰ったらやってやるぞという気持ちになれました。



 

―― 行って良かったのですね。4年後のロス大会の金メダルへの伏線にもなった。

本当に良かったです。世界の舞台での戦いを通して得た柔道仲間たちの友情は、私にとって何者にも代え難い財産となっています。



「メーンポールに日の丸」を夢見て

それにしても、ロサンゼルス五輪での金メダルのシーンは、中学生のときに夢見たそのまんまでした。 中学2年のときに、「将来の夢」という作文を書かされたのです。当時から柔道にのめり込んでいましたから、「僕は大好きな柔道で一生懸命稽古に励んで、柔道の強い高校・大学に進み、オリンピックに出場したい。そして僕の夢は、オリンピックで、メーンポールに日の丸を仰ぎ見ながら、君が代を聞けたら最高だなと思う」と書いているのです。



東京オリンピック無差別決勝。ヘーシンク(右)と神永

東京オリンピック無差別決勝。ヘーシンク(右)と神永

―― 「金メダル」ではなく、メーンポールに「日の丸」と「君が代」。ずいぶん描写が具体的ですね。

でしょう?自分でも不思議なくらいです。それというのも、1964年の東京オリンピックを見た印象が強かったのでしょうね。私は小学校1年生でした。国を挙げ、アジア初の東京オリンピックを成功させようという機運で、日本中が盛り上がっていました。ふだんの私は、学校が終わると日暮れまでずーっと外で遊んでいる子どもでした。でもオリンピック期間中は、真っ直ぐ家に帰り、テレビにかじりついて観戦していました。



―― 柔道は軽量級優勝の中谷雄英さん、中量級の岡野功さん、重量級の猪熊功さんがメーンポールに日の丸を挙げました。無差別でも、神永・ヘーシンク戦は名勝負でしたね。

2020年東京オリンピックで日本の「和の心」を世界へ発信

サッカー日本代表を心を一つにして応援

サッカー日本代表を心を一つにして応援!

―― 柔道が初めてオリンピックで実施されたことをきっかけに夢を抱き、ご自身も金メダルを獲得された。山下さんは、オリンピックにおける柔道史とともに歩んでこられたような方ですね。

はい。現在は2020年の東京オリンピック招致活動中です。なかなか夢を持ちづらくなっている今の少年・少女たちに、東京でのオリンピックを通して、夢や感動を伝えていきたいものです。
2011年3月に東日本大震災がありましたが、あの災害の際の日本人の対応に、世界中から賞賛の声が上がりました。オリンピックが開催されれば、世界中からジャーナリストだけでなく多くの人たちが来日します。それらの人たちに、できれば力強く復興した日本と日本人の姿を見せたいじゃないですか。

日本人の強い忍耐力、協調性、向上心といった生き方や心構えは、今後、世界の人たちに非常に参考になる部分ではないでしょうか。とりわけ日本の「和の心」、これが広まれば世界平和につながると信じています。ぜひ2020年のオリンピックを東京で開催し、世界中の方々にありのままの日本人と良き文化に接していただきたいと心から願っております。



招致成功に向けみんなで力を合わせよう

2012年8月に銀座で行われたオリンピックメダリストによるパレード

2012年8月に銀座で行われたオリンピックメダリストによるパレード

―― 日本のマスコミは、ジャーナリストの性(さが)なのか、逆に日本や東京の欠点を紹介したり、憂えるような論調も見られます。しかしそれよりも、「東京はこんなに素晴らしいんだよ」ということをもっと広く伝えてほしい、という気持ちがあります。
9月7日まであとわずかです。「TOKYO!」のコールを聞いて日本中で喜びたいと思いますが、山下さんの手応えはいかがですか。

東京、マドリード、イスタンブールの3すくみで予断を許さない状況なのかなと思います。まずは1回目の投票で絶対に勝ち抜くこと。次に、そこで負けた都市に投じた票が2回目にどこが流れるのか、そこが大事になってくると思いますね。



開催都市決定100日前イベント

開催都市決定100日前イベント

―― なるほど。各IOC委員はそれぞれ「第1候補」を決めているかもしれません。仮に東京以外の都市が1回目の投票で最下位になって敗れたとき、その都市に投じた票を次に東京支持に回してもらえるような「第2候補」というポジションを確立することも必要ということですね。

そうです。ただ日本のスポーツ界も、外交同様にロビー外交が弱いですからね。各方面みんなで力を合わせてやっていかなければなりません。私は私なりにやれることを精一杯やるだけです。



 

「暴力の根絶」プロジェクトリーダーとして

トレーニングに励む

トレーニングに励む

―― この質問は避けて通れないのですが、山下さんの明るいイメージとは対照的に、最近の日本柔道界内部ではいろいろ問題が起きています。山下さんは一連の出来事とは少し離れた位置におられるような、それが救いであるような気もします。心中は複雑なところもあるかと思いますが、話せる範囲でいかがでしょうか。

全日本柔道連盟(全柔連)の理事の一人であるという意味では、私にも責任があると思っています。ただ私は執行部ではなく、どちらかというと強化の中心からは外されていた立場でした。
個人でも組織でも、生き抜いていく中で大切にしなければならないのは、"信頼"です。柔道界が失った信用を回復するには長い年月がかかるでしょう。
しかし柔道という武道は、本来、人づくりであり人間教育、日本の心を伝えるものです。日本だけでなく世界において柔道界がより大きな貢献をしていけるよう、私ができることを愚直にやっていくしかないと思っています。



 
暴力の根絶「プロジェクトメンバー」

―― その一つが3月12日に立ち上がった「暴力の根絶」プロジェクトでしょうか。

(注:全柔連のサイトでは、「暴力の根絶」プロジェクトと表記されていますが、山下さんの柔道教育ソリダリティーのサイトでは、「暴力根絶」プロジェクトとなっています。)

そうです。大変困難な問題であることは、スポーツに携わっている人ならみんな理解しています。しかし信頼回復のためには、柔道界挙げて取り組まなければならない。全柔連理事全員の協力を得るということで、自らリーダーに名乗りを上げました。



―― そうでしたか。しかし、決して得な役回りではありませんね。

それでも、もう損得を考える年齢ではありません。

 

柔道の稽古に励んでいる少年少女たち、そして指導者の方々からは、「『私は柔道をやっています』と胸を張って言えないのだ。何とかしてほしい」といった声が聞こえてくるのです。そのような現場の方たちのことを思うと居ても立ってもいられず、手を挙げました。そしてメンバーは、私が全員を口説き落としたのですよ。



自ら考え工夫して自ら行動できる選手を育てる

石巻市で被災地の子どもたちに柔道を指導

石巻市で被災地の子どもたちに柔道を指導

―― 「鍛えること」と「暴力」を分ける1本の線はどこにあると思いますか。

「自ら考え工夫して、自ら行動できる」。青少年をそういう自主性を持った選手に育て上げることが我々の理想です。柔道に限らずスポーツにおける成功者とは、「高い志を持ち、目標に向かって誰よりも努力し、工夫し、日々研鑽を重ねてチャレンジを続けていく」、そんな人材であると考えます。スポーツ選手は現役を辞めた人生のほうが長いわけです。この自主性が身についていれば、選手を辞めた後、どこかで挫折したとしても乗り越えていくことができるでしょう。



―― スポーツだけでなく、人生全体に当てはまることですね。

ええ。仮に抜群の才能を持つ選手がいたとします。目先の結果にこだわり、痛い思いをさせプレッシャーをかけ続けると、その選手は必死になるので頂点に立つことができるかもしれません。しかしそれは一過性のものです。暴力は、自主性の"芽"を根こそぎ奪う愚かな行為です。牛や馬、ライオンや象も、暴力を使えば言うことは聞きます。つまり暴力で相手を意のままに動かすことは、人間を動物同様に扱っているのと同じで、"教育"とは呼べない最低の手段であると思っています。



指導者にも自己研鑽は不可欠

山下 泰裕氏(当日のインタビュー風景)

山下 泰裕氏(当日のインタビュー風景)

―― 指導者が備えておくべき指導力とはどんなことでしょう。

子ども、学生、選手を育てるためには、指導者自身が成長することが不可欠です。傾向として、選手のことは磨いても、己を磨くことを忘れてしまった経験主義に頼る指導者に、暴力を使うケースがしばしば見られるようです。私の知り得る範囲で、自己研鑽を重ねている指導者で暴力を使う人は見たことがありません。



―― 選手に反省させる手段として、殴ることが手っ取り早いわけですよね。指導者として、選手に上手に説明できないからつい手が出て殴ってしまうと……。

そのとおりです。



―― 相手にどのように理解させるかの手段を持たない人は、友達でも親子関係でもいますね。野球などで名監督と呼ばれる方は、例えきつい言葉で選手を叱っても、選手にわからせる話し方ができているので、その言葉で選手は納得し心のつながりができます。指導者にとって、選手時代の実績以上に、選手が納得する説明をできることが大事ですね。

言葉で選手にわからせることができないから暴力という手段に訴えてしまう。言い方を変えれば、それは指導力不足。自分の指導力不足を選手に転嫁すべきではありません。



2つのターニングポイント

―― こうお話ししていると、山下さんは実に幅の広い考え方をお持ちだなと感じます。金メダルを目指し、佐藤宣践監督のもとで柔道ひと筋に集中してきた山下さんですが、どういうところで身についた、あるいは学ばれたのでしょうか。

ターニングポイントは数多くありましたが、そのうちの2つを挙げたいと思います。 一つは、現役を辞め、東海大学の柔道部で学生を指導する立場になり、さらに全日本ナショナルチームの監督になりました。それで気づいたのは、選手としての実績がある私の発言は自分で予想した以上に影響力が大きいということでした。実際の私は柔道の世界に生き、東海大学で教員をやり、どちらかというと狭い世界の中で生きてきたのではないか。そんな自分がもし間違った考え方や価値観を持っていたら、若い連中が私の影響を受け、ひいては彼らの人生までおかしなものになってしまう。 そう考えたときから、できるだけ社会勉強をしなければいかん、と。教育者として、選手のとき以上に熱意と創意工夫でやってきたつもりですが、もっと世の中を知らなければいかん、と思いました。



1985年全日本9連覇

1985年全日本9連覇

―― すばらしいな。ではもう一つは?

柔道界最大のイベントは、4月29日に日本武道館で行う全日本柔道選手権です。しかし他の試合では勝てる私の教え子たちが、この試合になると力を発揮できない。そんな状態が続き、なぜかと考えました。



―― 答えは見つかりましたか。

ひとつの考えが浮かびました。そうだ、ここには俺に負けて夢破れた選手たちの怨念がいっぱい詰まっているのではないかと。



―― 山下さんは、全日本では9連覇していますからね。

そうなのです。「山下のせいで俺はチャンピオンになれなかった」、そう思っている人がかなりいたとしても、この先、「俺はあの山下と戦ったんだよ」と、私と同世代を生きてきたことを誇りに思ってもらえるような生き方をすれば、怨念が消えるのではないか、そう考えました。



柔道の切り口で国際交流に貢献したいという思いを持ち続ける

南アフリカ視覚障害者の子どもたちと

南アフリカ視覚障害者の子どもたちと

―― 2006年には、「NPO法人柔道教育ソリダリティー」を立ち上げられていますね。これはどんな活動をされているのですか。

ソリダリティーとは「連帯、団結」の意味。柔道の普及を通じ、世界中の人々の心を通い合わせ、お互いの文化への理解を促進することを目的としています。 外国へ指導者を派遣したり、逆に外国人指導者や選手を受け入れたり、そしてリサイクル柔道衣・畳などで発展途上国の支援をしています。また隣国の中国やロシアと国際交流をしています。例えば外務省と協力して、2010年に中国の南京に「日中友好南京柔道館」を建設しました。ロシアのプーチン大統領は柔道を通して日本の文化にも関心を持つようになったということで、長く親交が続いています。

イスラエルの日本大使館の方から話が持ち込まれて、イスラエルとパレスチナ両国の柔道指導者を一緒に日本に招へいし、ともに研修してもらうことも続けています。



―― それはすごい国の組み合わせですね。

そうなのですよ。柔道を媒介にしての国際交流では、単に"柔(やわら)"の心だけではなく、日本の心、"和"の心を伝えたい。海外の人たちに日本、日本人、日本の文化へもっと興味や関心を持ってもらいたいのです。同時に、相互理解を深めたい。 友人からは「いいよな、山下さんは。そうやって向こうから話が来るから」と言われます。一つ言えるのは、強い思いを常に持ち続けていると、同じ思いを共有できる人が引き寄せられるような気がします。



―― なるほど、要するにそれが"志"ですね。

スポーツ庁はフェアな日本をつくるために必要

学生に講演

学生に講演

―― スポーツ基本法の改正に伴い、スポーツ庁設置の動きがあります。今後、スポーツ庁が設置されたら、スポーツ振興やスポーツ政策においてどんなことを期待されますか。

私もスポーツ庁の設置を期待している人間の一人です。ただ、ざっくばらんに本音を言えば、自分たちがかかわるスポーツのことしか考えていない風潮が見られるようです。近年の日本では、自殺者が3万人弱もいるとか、心の病を抱える人も増加しています。子どもたちのコミュニケーション能力も低下してきている。そんな折り、スポーツは大きな役割を果たせるはずなのです。

競技スポーツのみならず、生涯スポーツの振興も大事です。生涯スポーツを通じて、フェアプレーの精神を育み、心身共に明るく、逞しく、思いやりのある人材を育てる。 その意味で言うと、スポーツ庁はスポーツ界のためだけではなく、より良い社会、より良い日本をつくるために必要だと思っています。そして私たちは、スポーツと社会のつなぎ役になっていきたいものです。



次世代の人々をバックアップ

青島友好柔道館の子どもたちと

青島友好柔道館の子どもたちと

―― あなたはまだお若いけれども、東海大学の副学長という顔を持っておられます。大学という現場で若い世代の人たちと日々接していらっしゃるわけですよね。

といっても、56歳になったのですよ。今後、いかに次の時代を担う人を引き上げていくかを意識しなければならない年代です。ですから大学でも、若い先生方の意識を高めていくことが大事な仕事であると考えています。 幸い、私より若い世代は、意識が高く、日本のスポーツ界においてもスポーツが社会のためになすべきことは何か、我々がどの面で貢献できるのか、そういう視点を持った人たちが多い気がしています。



―― それは頼もしいですね。

若い世代の人たちが意欲・能力を発揮し、日本のスポーツ界を支えつつ、世界に出ていけるような、そういう環境をつくるのがこれからの私の役割だと思っています。



必修化された武道を通し日本の伝統を学び、スポーツに親しむ習慣をつける

剣道大会で他の選手に拍手を送る少年たち

剣道大会で他の選手に拍手を送る少年たち

―― この4月から、中学では武道が必修化になりましたね。

始まる前は、安全対策について盛んに議論されました。あの動きのお陰で、連盟や各教育委員会などでも講習会を開いたり、熱心に対策しました。より真剣に、前向きに、指導者の質向上のために様々な施策を打つことにつながったので良かったと思っています。



―― 必修化で期待することは?

一つは、柔道や剣道、相撲といった武道そのものを学ぶというよりは、それらを教材として、日本の伝統的なしきたり、作法を学んでもらいたい。 また、学校の授業はほんの限られた時間なので、正直、多くの技を身につけることは望めません。技術よりも武道というスポーツに触れることにより、「やってみたら案外面白い、高校でもやってみたいな」とか、それが生涯にわたり武道やスポーツに親しんでいくきっかけになってほしい。この2つの視点ですね。



自分と正反対のタイプを集める

試合後松前重義氏から祝福を受ける。中央は祖父の泰蔵

試合後松前重義氏から祝福を受ける。中央は祖父の泰蔵

―― お話を伺ってきて、あなたの情熱に感銘を受けました。

東海大学の創設者である松前重義先生は、私を非常に可愛がってくれました。先生の生き様を拝見していたので、私はその影響を受けているかもしれません。 私の得意技は、何かを行うときに、私とは正反対の、自分の弱点を埋めてくれる人と手を組むことです。「水と油だろう」と言われても、同じ目標に向かうにあたって、互いの持ち味が違うほうが多様性のある発想ができる。それが、同じようなキャリアの組織では発展性がないと思うのですよ。



 

私と志を一にしてともに仕事をすると、その方も忙しくなります。それでも、それがその方のやりがいや生きがいとなり、自己実現につながるような時間になってくれればいいと思っています。



―― あなたは人を騙すことができないキャラクターですよね。

いつも直球勝負で、ストレートすぎて相手にぶつかることは時々あります。それでもこれまでの人生で、騙したことはもちろんありませんが、騙されたこともないのですよ。すぐに人を信用するので周囲の人は心配しているようですが、私は上手に利用されるならそれでかまわないと思っています。より良いものを求めての活動であれば、その方が山下を利用したつもりでも、結果、Win-Winの関係になれるのではないかと。



嘉納治五郎先生にいつも見守られている

日本のスポーツの父嘉納治五郎

日本のスポーツの父嘉納治五郎

―― 柔道の創始者である嘉納治五郎氏は、「精力善用」(全ての力を最大限に活用し、社会のため善い方向に用いる)、「自他共栄」(自分だけでなく他の人と共に栄えある世の中にする)をうたわれた方ですね。そして、日本で初めて国際オリンピック委員会(IOC)委員となった方でもあります。山下さんは嘉納治五郎氏から何か影響されたことはありますか。

「何か」や「一部」どころではありません。もう私の「全て」です。何かやるとき、いつも後ろから嘉納先生に見守っていただいているように感じています。万分の一でいいから、嘉納先生に近づきたい。 私がこの世での役割を終える人生の最期には、嘉納治五郎先生と松前重義先生が私を出迎えに来てくださるといいなと。嘉納先生からは「君が山下か、よく柔(やわら)の道を究めたな。ご苦労さん」。松前先生からは、「俺の目に狂いはなかった。よう頑張ってくれた。ありがとう」。その声に迎えられてお二人と天に昇っていく。それが私の最期の夢です。 上がれるか沈むかはこれからにかかっています。これからが私の人生の本番です。



―― いやあ、山下さんは第1回のゲストに本当にふさわしい方だと思いました。年寄り臭い言い方になりますが、この先、また難関が待ち構えていることもあるかもしれませんが、今まで通り真っ直ぐに進んでいってください。期待しています。

自分としても、まだまだ伸びしろはあると思っています。どうもありがとうございました。



柔道・山下泰裕氏の歴史

  • 山下泰裕氏略歴
  • 世相
1882
明治15
嘉納治五郎師範が東京・下谷北稲荷町の永昌寺で講道館柔道を創始
「精力善用・自他共栄」の柔道の原理を確立
1916
大正5
第1回九州学生武道大会を福岡市で開催

  • 1945第二次世界大戦が終戦
  • 1947日本国憲法が施行
1948
昭和23
嘉納治五郎師範十年祭を記念して全国都道府県代表選手による第1回全日本柔道選手権大会を講道館で開催。松本安市が優勝
1949
昭和24
嘉納履正講道館長の呼び掛けを受け、全日本柔道連盟を創立
1950
昭和25
第5回国民体育大会(愛知大会)から柔道が正式種目として参加。府県対抗で鹿児島県が優勝

  • 1950朝鮮戦争が勃発
1951
昭和26
第1回全日本勤労者柔道選手権大会を神奈川体育館にて開催、東洋レーヨンが優勝

  • 1951安全保障条約を締結
1952
昭和27
国際柔道連盟(IJF)臨時総会にて全日本柔道連盟がIJFに加盟
嘉納履正講道館長がIJF会長に就任
1953
昭和28
第1回全日本産業別柔道大会を講道館で開催

  • 1955日本の高度経済成長の開始
1956
昭和31
第1回世界柔道選手権大会を東京・蔵前国技館で開催

  • 1957山下泰裕氏、熊本県に生まれる
1964
昭和39
東京オリンピック・パラリンピック開催
東京オリンピックにて日本は柔道の階級別で金メダル3個を獲得
柔道無差別級はアントン・ヘーシンク(オランダ)が優勝

  • 1964東海道新幹線が開業
1966
昭和41
第1回全日本招待選抜柔道体重別選手権大会を福岡市・九電記念体育館にて開催
1969
昭和44
第1回全国警察柔道選手権大会を警察大学校にて開催

  • 1969アポロ11号が人類初の月面有人着陸
1970
昭和45
第1回全日本柔道ジュニア選手権大会を講道館で開催
第1回全国高等学校定時制通信制柔道大会を日本武道館にて開催
第1回全国中学校柔道大会を講道館で開催
1971
昭和46
第1回全日本実業柔道個人選手権大会を大阪市立修道館にて開催

  • 1973オイルショックが始まる
1976
昭和51
第1回国際試合強化選手選考会を開催、2003年から男女同時開催
          
  • 1976ロッキード事件が表面化
1977
昭和52
第1回全国教員柔道大会を講道館で開催

  • 1977山下泰裕氏、全日本選手権初優勝(以後9年連続)
1978
昭和53
第1回嘉納治五郎杯国際柔道大会を日本武道館で開催

  • 1978日中平和友好条約を調印
1979
昭和54
1986年女子個人、1988年男子個人、2006年女子団体試合を順次導入
1981
昭和56
第1回全国少年柔道大会を講道館にて開催

  • 1981山下泰裕氏、世界選手権無差別優勝
1982
昭和57
全日本学生柔道選手権大会から独立して、第1回全日本学生柔道体重別選手権大会を日本武道館にて開催

  • 1982東北、上越新幹線が開業
  • 1984香港が中国に返還される
  • 1984山下泰裕氏、ロサンゼルスオリンピック無差別優勝
    山下泰裕氏、国民栄誉賞受賞
1986
昭和61
第1回全日本女子柔道選手権大会を愛知県体育館で開催
八戸かおり氏が優勝を果たす
女子柔道はその後、学生、職域、体重別など、男子柔道と同様に発展
フランスで国際視覚障害者柔道選手権大会を開催
1988
昭和63
ソウルオリンピック・パラリンピック開催、パラリンピックで柔道競技を開催
第1回近代柔道杯全国中学生柔道大会開催

1990
平成2
第1回全日本選抜少年柔道大会開催
1991
平成3
国際視覚障害者柔道選手権東京大会開催
1992
平成4
バルセロナオリンピック・パラリンピック開催

  • 1995阪神・淡路大震災が発生
1997
平成9
第1回全日本柔道形競技大会、講道館にて開催

  • 1997香港が中国に返還される
1999
平成11
第1回全日本学生柔道体重別団体優勝大会、大阪府立体育会館にて開催

2004
平成16
アテネオリンピック・パラリンピック開催
第1回全国小学生学年別柔道大会、伊勢原市体育館にて開催

  • 2004 山下泰裕氏、全日本柔道連盟強化副委員長に就任
  • 2007 山下泰裕氏、紫綬褒章授章
  • 2008リーマンショックが起こる
2009
平成21
国際柔道連盟(IJF)が世界ランキング制を導入
また2010年より、立ち技において相手の帯より下に片手・腕または両手・腕で直接攻撃・防御する行為を禁止する試合審判規定を導入
2010
平成22
東京で52年ぶりに世界柔道選手権大会が開催
参加国・地域111、参加選手848名で史上最大規模、男女7階級と無差別で日本は金メダルを10個獲得

  • 2011東日本大震災が発生
2012
平成24
ロンドンオリンピック・パラリンピック開催
松本薫氏、柔道女子57kg級に出場し金メダルを獲得
男女合わせて銀メダル3個、銅メダル3個を獲得

2016
平成28
リオデジャネイロオリンピック・パラリンピック開催