1964年東京オリンピックでは、わずか10人の選ばれし「トップ通訳」として活躍した島田晴雄氏ですが、高校時代までは英語が苦手だったと言います。
慶應義塾大学時代には名門の英語会副委員長を務め、全国英語ディベートコンテストで準優勝するなど、「英語の達人」となったのは、絶え間ない努力があったからこそ。その成果が、東京オリンピックで花開き、数々の貴重な経験をした島田氏にお話をうかがいました。
聞き手/佐塚元章氏 文/斉藤寿子 構成・写真/フォート・キシモト
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日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。
1964年東京オリンピックでは、わずか10人の選ばれし「トップ通訳」として活躍した島田晴雄氏ですが、高校時代までは英語が苦手だったと言います。
慶應義塾大学時代には名門の英語会副委員長を務め、全国英語ディベートコンテストで準優勝するなど、「英語の達人」となったのは、絶え間ない努力があったからこそ。その成果が、東京オリンピックで花開き、数々の貴重な経験をした島田氏にお話をうかがいました。
聞き手/佐塚元章氏 文/斉藤寿子 構成・写真/フォート・キシモト
開会式で空に描かれた五輪
―― 島田さんは、1964年東京オリンピックが開催された時には、慶應義塾大学4年生で東京オリンピック組織委員会の上級通訳をされたわけですが、当時はオリンピックに対してはどのような思いがあったのでしょうか?
正直言って、当時はオリンピックの開催意義などということは、あまりわかっていなかったと思います。とにかくアジアで初開催のオリンピックに自分が少しでも携われるということに対して、感動と感激しかありませんでした。
―― 東京の街の変化というのは、学生の島田さんにはどのように映っていましたか?
もちろん、東京オリンピックに向けて東京中の人たちが心躍らせている雰囲気は感じていましたが、街の様子がどのように変わっていったかということは、あまり覚えていないんです。というのも、私は通訳として8月から11月初旬まで、約3カ月間、組織委員会直属の通訳として仕事をしていましたから、外の様子をじっくりと見るということがありませんでした。
選手村にて外国選手と
―― 東京オリンピックでは、学生が通訳を担当したということですが、当時はプロの通訳はいなかったのでしょうか?
もちろん通訳専門の会社もありましたし、プロの通訳はいました。ただ、当時オリンピックはアマチュアリズムを徹底していて、通訳においてはすべて学生を前面に立たせていたんです。当然、プロに比べれば力は落ちますが、それでも学生を起用した当時の東京オリンピック組織委員会は、今考えるとすごいなと思いますよね。
―― 通訳の募集はどのように行われたのでしょうか?
開幕1年前から都内の大学には、「オリンピックの通訳担当に、語学が堪能な学生を募集する」というような話が来ていて、学生の中では大変な騒ぎになっていました。
慶応大学英語会(ESS)のメンバーと(大学3年)
―― 当時、島田さんは慶應義塾大学の英語会(ESS)の委員長を務めていました。
実は、私は副委員長で、委員長は別の帰国子女の人が務めていたのですが、まぁ、いろいろありまして(笑)、私が事実上委員長をしているようなものでした。慶應義塾大学の英語会というのは、非常に伝統あるサークルでありまして、当時は400人ほどいました。毎年、全国英語ディベートコンテストでは優勝するのが当然で、優勝しないと先輩方から叱られてしまうんです。私はディベートを担当していまして、委員長とペアを組んでコンテストに出場したのですが、準優勝でした。そうしたら、先輩方に呼び出されまして「お前ら何をやっているんだ!なんで優勝しないんだ!」とこっぴどく叱られたという思い出があります。
―― そんな全国的にも優秀な慶應義塾大学の英語会副委員長としては、オリンピックの通訳の話は「千載一遇のチャンス」とばかりに飛びつかれたのでは?
はい、その通りです。私だけでなく、学内の英語に堪能な学生はみんな、「自分もオリンピックに携わりたい」ということで応募していました。
組織委員会事務総長を務めた与謝野秀氏
―― テストはあったのでしょうか?
ありました。どんな内容だったかはあまり覚えていないのですが、とにかくテストの結果によって採用通知が来まして、採用された学生は「どこの国のどの競技」というように担当が伝えられていったんです。慶應義塾大学の英語会の仲間たちも次々と通知が来まして、担当が決まっていったのですが、なぜか私にはなかなか通知が来ませんでした。
「あれ、もしかしてダメだったのかな」と思っていたら、しばらく経って、ようやく通知が来ました。そしたら「代々木の岸記念体育会館に来てほしい」という内容だったんです。それで岸記念体育会館に行くと、私の他にも大勢の学生が呼ばれていまして、東京オリンピック組織委員会与謝野秀事務総長が「君たちは選ばれた100人だ。他の学生とは違い、選手団団長付の通訳として頑張ってもらいたい」と言ってくださったんです。
―― 特別な100人に選ばれたということですね?
はい、そうなんです。他の学生通訳は競技会場を担当するのですが、私たちは参加100カ国の選手団団長専属の通訳ということで、「常に団長の側で支える役割」を仰せつかったわけです。団長には組織委員会からトヨタのクラウンが公用車として1台支給されていまして、団長付の通訳はそのクラウンに乗って隣の席に座ることができました。
―― それは大変名誉な任務を授かったんですね。
しかも、その100人の中でもさらに優秀な10人については、どの国の団長に付きたいかを選ぶ権利が与えられまして、私も光栄なことにその10人に選ばれました。
柔道競技をご観戦のベアトリクス女王と皇太子(当時)ご夫妻
―― 島田さんが希望した国はどこだったのでしょうか?
オランダです。ベアトリクス王女が来日することも知っていましたし、柔道とフェンシングが強いことで有名で、東京オリンピックでは前評判が高い国のひとつだったんです。希望通りにオランダの団長付となったのですが、しばらくしてまた岸記念体育会館に呼ばれました。すると「実はオランダから『オランダ選手団は英語の通訳は要らないので、彼には自転車の競技会場に行ってもらい、代わりにオランダ語の通訳が欲しい』という連絡がきているんだ」と聞かされました。
「じゃあ、自分はどうなるのかなぁ」と思っていたら、与謝野事務総長がこう言ってくださったんです。「あなたは何万人の学生の中から選ばれたトップの10人なんだから、自転車競技会場に行かせるというわけにはいかない。だから、組織委員会としてはオランダ選手団には学生通訳は付けないことにした。とはいえ、あなたは団長付の資格を持っているわけだから、オランダの団長に支給する予定だったクラウンは、あなたが使いなさい。その代わり、その時々で一番忙しい現場に行ってもらいますので、よろしくお願いしますね」と。つまりは、組織委員会直属のようなポジションを与えていただいたんです。
―― では、学生の島田さんお一人のための公用車が支給されたわけですね。
そうなんです。しかも、五輪マークの旗をはためかせたクラウンですからね。もう、きんと雲に乗った孫悟空の気分でしたよ(笑)。
自宅前で通訳の制服を着て
―― わずか10人の団長付通訳になるほど、英語の達人だった島田さんですが、そもそも英語を勉強したのは何がきっかけだったのでしょうか?
実は、私は高校2年の時まで英語がからっきしダメだったんです。ある日、私の家の修復に長髪のアルバイトのお兄さんがペンキを塗りに来たんですね。聞いたら、彼は早稲田大学の学生で、僕に「英語がうまくなりたいんだったら、いい方法を教えてあげるよ」と言ってくれたんです。「どうしたらいいんですか?」って聞いたら、「とにかく外国人と話すこと。誰でもいいから、自分からつかまえて話すようにしなさい。それくらいやらないと、英語なんて話せるようになんかなれないよ」と。
名門慶応大学端艇(ボート)部のクルー
―― 島田さんは高校時代までボート部に所属していて、舵取り役のコックスを担当されていました。オリンピックを狙うほどの選手だったと聞いています。
慶應義塾大学ボート部は、単独のチームで何度もオリンピックに出場している名門で、そのボート部から、高校の時にコックスとしてスカウトされたんです。それで、高校2年の時には東京オリンピックを意識しての強化合宿が始まっていました。ですから、当時はボートの練習に明け暮れていて、英語を勉強する時間なんてなかったんです。ところが、高校2年の時に体を悪くして、ボート部を辞めざるを得なくなってしまいました。その後は、水泳部に入ったのですが、ちょうどその頃に英語に興味を持ったんでしょうね。ふと気づけば、スポーツばかりして、勉強は何もやってこなかった自分に気付いて、英語を勉強してみようかなと思ったのがきっかけでした。
―― ペンキ屋のお兄さんの言う通り、外国人には話しかけられたんですか?
はい、話しかけましたよ。高校3年の夏に房総半島の突端の天津(漁師町)の知人宅に素潜り三昧で滞在した後、帰りの電車の中にブルーの軍服姿のアメリカ人が乗っているのを発見したんです。おそらく空軍の士官だったのでしょう。これはチャンスだと思いました。ところが、やっぱりなかなか話しかけられなくてね(笑)。「どこで話しかけようか……」と思っているうちに、もうすぐ自分たちが電車を降りる駅に到着するいう所まで来てしまったんです。「これを逃したら、僕は一生英語ができない」と思って、ようやく勇気を振り絞ってアメリカ人に近づいていって、肩を叩いたんです。そのアメリカ人は突然のことで驚いたんでしょうね。「What?」って言ってきました。それで僕はありったけの英語を使って、「I am a high school student. My name is Haruo Shimada.」って言ったら、「Good for you.」と言われましてね。それだけでもう乗り換えなければいけない駅に到着してしまったのですが、もう天にまで昇る気分で自宅まで帰ったことを今でも覚えています。
オリンピック期間中に、専用車でかけつけ参加した慶大川田寿ゼミ。
―― それで一気に自信をつけられたんですね。
そうですね。それで、翌年に慶應義塾大学に入ったのですが、ちょうどその頃に父親が癌で亡くなりまして、一日に何カ所も家庭教師のアルバイトをかけもつ生活を送っていました。結構大変だったのですが、それでもやっぱり英語をやりたいと思って、英語会に入部したんです。でも、当時の私のレベルでは、全然だめでした。というのも、私は慶應義塾大学の附属出身でしたから、高校も大学も受験勉強をしていないんです。しかも体育会でしたからね。それでも英語会に入った最初のうちは、まだ良かったんです。外部から入学してきた人たちにキャンパスのことを伝えたりして、結構調子よく話すことができました。それでも、やがてみんなが難しい単語を使って話をするようになると、だんだんとみんなについていけなくなって……何を言っているのかさっぱりわかりませんでした(笑)。参考書を買って勉強したりしましたけど、全然読めなくて、自分自身にがっかりしてしまいましたね。
―― 英語会をやめようとは思わなかったんですか?
ある時ふと思ったんです。「このまま続けてもダメだな」と。それで自分自身に腹が立って、みんなの勉強会の席で、持っていた資料をバンッと机の上に叩きつけて、立ち上がったんです。そして、ドアの方に歩いて行って、閉める前に、みんなの方を振り向いて、こう言いました。「I shall return!」って。米軍のダグラス・マッカーサーが駐屯していたフィリピンを日本軍に侵攻されて、脱出する時に言った言葉ですよね。「私は必ず戻ってくるから」と。まぁ、みんなは「ろくに英語を話せないやつが、何を言っているんだ」という感じだったでしょうけどね(笑)。
―― かっこいいですね!みんなに宣言して、マッカーサーばりに去っていったわけですね。
そうなんです。宣言したからには勉強しなければいけないですからね。最初は、高校の英語の教科書を読んでみたのですが、それが結構難しくて、その時の僕には高すぎるレベルでした。それで、仕方ないから中学の教科書を読んでみたら、2年生のレベルがちょうど良かったんです。「今の自分の学力はここなのか」ということがわかりまして、そこから始めました。アルバイトをしながらでしたから、とにかく時間がなかったのですが、通学やアルバイトに行く道すがらや電車に乗っている時間を利用して勉強しました。
1、2年時を過ごした慶大日吉校舎(左) 3、4年時を過ごした慶大三田校舎(右)
―― 順調に英語は上達されたんですか?
校内スピーチコンテストがありまして、大学2年の時にそれに出場しようと、自分で英作文を作ったんです。それを近くの教会の宣教師に見てもらって正しい英語に直してもらいました。さらに、宣教師が読んだのをテープに吹き込んでもらって、それを時間を見つけては何百回も聴いて覚えたんです。それこそ道を歩いている時も、電車に乗っている時も、聴きながら練習をしていましたから、周囲の人は驚いていましたね。でも、そんなことはお構いなしでした。「I shall return!」とみんなの前で宣言したからには、やらなければという気持ちの方が強かったですからね。
―― スピーチコンテストはいかがだったんですか?
やるだけのことはやりました。でも、「結果はどうせダメだろうな」と思っていたので、自分のスピーチが終わったら、すぐに自宅に戻ったんです。そしたら先輩から電話がかかってきまして、「オマエ、何で帰ったんだ?オール日吉(1、2年時日吉校舎)で3位に入ったんだぞ。オマエがいないから、オレが代わりに賞状を受け取ったから」と言うわけです。聞けば、4、5位の学生はニューヨーク帰りの帰国子女だと言うんですね。それで少しだけ「I shall return.」を実現した気分になりましたね。翌年大学3年の時には、オール三田(3、4年時三田校舎)で2位に入りまして、慶應義塾大学の代表としてディベートコンテストに出場することになったというわけです。
日本青年館に設置されたメインプレスセンター
―― さて、オリンピックに話を戻したいと思いますが、8月から働いていたということですが、開幕前はどのような場に行かれていたのでしょうか?
まず最初は、東京の代々木に設置されたプレスセンターに行きました。その頃にはもう世界の報道陣が仕事をしていまして、当時はタイプライターの時代ですから、もうあちこちから「パチパチ」とタイプライターを打つ音が聞こえてきて、騒然としていましたね。その報道の人たちからセンターのスタッフに色々な注文が来るので、私はそれを通訳するのに、1カ月ほど、センター内を忙しく駆け回っていました。
―― 1カ月後、開幕が近づくと、どのような仕事に従事していたのでしょうか?
羽田空港で各国の選手団を迎える役割を担いました。開幕1カ月前、9月に入ると、次々と選手団が来日してきたんです。空港内は厳しい規制がはられていましたが、「団長付」の腕章をつけている私は、どこもすぐに通してくれました。当時、飛行機から降りると、今のようにターミナルに直接つながってはいませんから、飛行機のタラップを降りて、ターミナルまで歩くわけですね。そうすると、そこに赤いカーペットが敷かれまして、まず最初に団長がタラップを颯爽と降りてくるんです。ですから、私はタラップのすぐ下に待機していまして、まずは団長に「ようこそ日本へ。私は通訳を担当する慶應義塾大学の島田です」というご挨拶をする役でした。ですから、彼らが来日して最初に会話をした日本人が私だったんです。今思うと、本当にすごいことですよね。空港からバスまでお連れするのが私の仕事で、そこからは各選手団の団長付の学生通訳にバトンタッチするという感じでした。
カナダ選手団の到着風景(羽田空港)
―― お迎えした中で、最も印象深い国はどこだったのしょうか?
全部で何十カ国の選手団をお迎えしたのですが、今も忘れることができないのはインドネシアでした。もうほとんどの国が既に到着していて、最後の方だったと思いますが、9月28日の朝、インドネシア選手団を乗せたガルーダ航空が羽田空港に到着したんです。詳しいことは知りませんでしたが、インドネシアが政治的な問題を抱えているということだけは私もちらっと聞いていました。後で知ったのですが、1963年にIOCから脱退していたインドネシアが、やはりIOCから脱退していた中華人民共和国などに呼び掛け「新興国競技大会」を開催し、これを受けてIOC、国際陸連、国際水連等がこの大会に参加した選手を資格停止処分にしました。インドネシア選手団にこれらの選手も含まれていたので、日本とIFが交渉を続けていたのです。当時の私には詳しい政治事情はわかりませんでしたが、とにかく飛行機は羽田に到着しているわけですから、いつもと同じようにタラップの下で待っていましたら、選手団は飛行機を降りてはいけないということで、団長だけが降りてきたんです。団長はインドネシア陸軍の大佐ということでしたが、記者会見のために空港内に行くということで、私がご案内しました。
―― 陸軍大佐ですから、やはり威厳があったんでしょうね。
私と接している時は、非常ににこやかにされていて、流暢な英語で話していましたが、会見場に一歩入ると、厳しい表情で、すべてインドネシア語で対応していました。
開会式当日に帰国するインドネシア選手団
―― 会見の後、どうされたんですか?
入国が許されていませんから、団長はすぐに飛行機へと戻りました。そして、また2~3時間ほどすると、団長が降りてきて、会見をするんです。それが夕方までに4回繰り返されました。そのたびに、私は団長を飛行機から会見場へ、会見場から飛行機へとお連れしたんです。その間、選手団はずっと飛行機の中で待機していました。
―― 結局、どうなったんですか?
その後入国し、選手村には入らず、ホテルで待機していましたが、結局参加には至らず、帰国することになり、最後のお見送りに行きました。それは、非常に辛いものでしたね。事情はあるにしろ、せっかく日本に来ているのに大会に参加せずに帰るということで残念でなりませんでした。「オリンピックは平和のシンボルであるはずなのに……」という気持ちしかなかったです。
―― その時の団長の様子はいかがでしたか?
さすがは陸軍大佐ですよね。「日本滞在中は付き合ってくれて、ありがとう」と言って、毅然とした態度でタラップを駆け上がっていきました。ドアが閉まって、飛行機が羽田を飛び立った時、思わず涙が出てしまいました。「こんなことがあっていいのだろうか……」と、もう涙が止まりませんでした。
開会式で選手宣誓を行う小野喬日本選手団主将
―― 忙しい日々の中で迎えたと思いますが、10月10日、オリンピックの開会式はどこにいらっしゃいましたか?
その日一番忙しいのは、やはり開会式が行なわれた国立競技場だからということで、私も開会式に出席していました。幸運なことに、実際はというと、仕事の指令はまったくなかったんです。ですから、開会式はゆっくりと見ることができました。それも、結構前の方の良い席だったんです。各国の選手団が入場してきて、最後に目の前を日の丸の選手団が通過した時には、まさに「感動」そのものでした。それから日本選手団主将を務めた小野喬さんの選手宣誓の後に、平和の象徴として鳩が一斉に放たれ、ブルーインパルスが青空に五輪のマークを描いたんです。あの光景は今も鮮明に覚えています。周りに座っていた海外の方たちも驚いたんでしょうね、みんな総立ちで拍手を送っていました。その時、「あぁ、日本人に生まれて良かった」と心の底から思いました。「こんなすごいことを、僕たちがやっているんだ」と思うと、とても誇らしい気持ちになりました。あの感動は、他では決して味わえない、オリンピック独特のものがありましたね。
―― 開幕後は、どんなお仕事をされていたんですか?
実は、開幕前とは違って、競技が始まると、決まった仕事場がなかった私は、あまり忙しくはなかったんです。それでも、「一番忙しいところに」ということでしたから、各競技の決勝の場にいることが多くて、とても幸運に恵まれましたよね。
ボクシングヘビー級の表彰式
―― 印象に残った試合はありましたか?
ひとつは、ボクシングですね。ヘビー級のジョー・フレージャー(アメリカ)とハンス・フベル(ドイツ)との決勝は、迫力がありましたねぇ。結構体格差があって、フベルの方が大きかったんです。リーチの長さも、圧倒的にフベルの方があって、同時にパンチを出すと、フレージャーの方は相手に届いていませんでした。しかも、その時フレージャーは親指を骨折していたんです。それでも、フレージャーのパンチの威力はすごくて、彼がパンチを出すと、空気がビュンと揺れるのを感じました。
結局、フレージャーが判定でフベルを下し、金メダルを獲得しました。それから陸上競技の男子100m走決勝も目の前で見ました。当時の世界新記録10.0秒を出して金メダルを獲得したボブ・ヘイズ(アメリカ)は、独特な走りでしたね。とてもスムーズな走りではなくて、「こんな走り方で?」と思いましたが、それでも圧倒的な速さでしたよね。やはり迫力がありました。でも、やっぱり一番の思い出と言えば、女子体操のベラ・チャスラフスカ(旧チェコスロバキア)でしたね。
選手村内に設置されたディスコで楽しむ選手たち
―― 彼女は東京オリンピックで最も日本人から愛された海外選手の一人だったのではないでしょうか。
本当にそうでしたね。実は、彼女が来日したら話をしたいと思って、「何語なら通じるんだろう?」と一生懸命考えて、「ドイツ語なら話せるかもしれない」と、開幕前のひと夏ドイツ語を勉強したんです。
―― チャスラフスカと話したいためにですか?
はい、彼女と話すためだけにです(笑)。それで、当時は会話のためのテキストなんてないですから、分厚いドイツ語の資本論を買いまして、必死になって読みました。
―― チャスラフスカにはお会いできたんですか?
選手村に行った時に探したら、トレーニングパンツ姿の彼女を見つけることができたんです。当時、選手村にはディスコのような、ちょっとしたダンススペースが設けられていましたので、チャスラフスカに思い切って勉強したドイツ語で必死になって話しかけました。「一緒に踊ってくれませんか」と。そしたら「いいわよ」と言ってくれて、少しだけ一緒に踊ってもらいました。それで最後に握手してくれたのですが、体操選手なのでゴツゴツしていると思ったら、以外に柔らかくて驚きました。
―― その時の感触は未だに残っているんでしょうか(笑)?
はい、はっきりと残っています。当時、しばらくは手を洗いませんでしたからね(笑)。現役引退後はチェコスロバキア大統領補佐官兼顧問(現:チェコ共和国)や国際オリンピック委員会の委員を務められましたが、当時はとにかく「可愛いお嬢さん」という感じでした。
水泳競技で唯一の日の丸が上がった競泳男子800mリレーの表彰式
―― 島田さんは、特に水泳が好きでご自身でも泳がれていると伺ったのですが、水泳会場での思い出は何かありますか?
とっておきのがありますよ(笑)。水泳で日本が唯一メダルを獲得した800mリレーです。
―― そのレースは、水泳の最終日にして最終種目でしたね。
そうなんです。「水泳ニッポン」ということで大きな期待を寄せられながら、それまで日本は一つもメダルを取ることができていなかったんです。しかし、最後の800mリレーには希望の光があるということで、当日私はほかの競技会場に詰めていたのですが、どうしても見たかったので急いで水泳会場に駆けつけたんです。ところが、最終日の最終種目で、国民の注目が集まっていたレースでしたから、会場も超満員で、全く入ることができなかったんです。それで、報道陣の腕章をちょっとお借りしまして、警備員にその腕章を見せましたら、すんなりと会場に入ることができました。でも、プールサイドへのドアは全て閉まっていて、入ることができなかったんです。
競泳男子800mリレーで銅メダルを獲得しチームメイトと喜ぶ最終泳者岡部幸
―― もう、諦めるしかなかったと。
いえいえ、諦めきれませんでしたから、何かいい方法はないものかと周りを見たら、マンホールが目に入ったんです。それを開けて見ると、下につながる階段があって、しかもなぜかライトがついていたんです。それで思い切ってマンホールの下に降りてみたら、そこはプールの真下のようで、観客席からの声が聞こえてきました。そのまま真っ直ぐ進んで行くと、行き止まりになった所に、上につながっている鉄格子の階段があったので上って、「えいやー」とばかりに地面に出てみたら、なんとたどり着いた先は、ロイヤル席でした。プールの方を見たら、すでに最終泳者が泳いでいるところで、日本は岡部幸明選手が残り100mを切ったあたりでした。スタンドはもう総立ちでしたね。それでもう興奮してしまって、一目散にプールサイドまで階段を駆け下りて行ったんです。そしたら、誰かが「止まりなさい!」って私を追いかけてくるもんだから、そのままプールサイドを岡部選手と並走するかたちでゴールの方に向かって走りました。「岡部、頑張れ!」と叫びながら走りましたよ。「もうこれで捕まってもいい」とさえ思うくらいに感動していたんです。
―― 結局、警備員に取り押さえられはしなかったんですか?
あの時は、日本チームの銅メダルに会場中が興奮の嵐で、もう大変な騒ぎになっていて、警備ができないくらいにゴチャゴチャの状態だったんです。ですから、私も捕まえられませんでした。そのどさくさに紛れて、団長付の席にすっと入り込んで、何もなかったかのように席に座っていました(笑)。
―― それは忘れられない思い出ですね(笑)。
私の家には、オリンピック期間中、選手のご家族がホームステイをしていたんです。それでその日は、そのご家族とのちょっとしたパーティーが開かれていたのですが、私がいつまでたっても帰ってこないので、兄弟が「晴雄は、どうしたんだろう?」って母に聞いたらしいですね。そしたら、母は「晴雄は今日は遅いよ。だって、ほら、あそこを走っているじゃない」と、テレビ画面に映ったプールサイドを走る私を指差したそうなんですよ(笑)。
選手村食堂前にて外国選手と
―― 閉会式後は、どんな役割を務められたのでしょうか?
帰国する選手団を、選手村から羽田空港までお見送りするという役割がありました。もう次から次へと選手団をお見送りした中で、特に印象深かったのがドイツとフランスでした。ドイツの選手団は例えば「11時10分に迎えのバスが来ます」と言うと、その時間に整然と待っていて、次から次へと乗り込むんです。そして、いざお別れとなった時に、全員で『私がまた帰ってくる日まで』というドイツの歌を合唱し始めたんです。そのシーンはとても印象深く残っています。そして、空港でもスムーズに飛行機に乗り込んで、誰にも迷惑をかけずに去って行ったのがドイツの選手団でした。「さすが、ドイツ人だなぁ」と感心しましたね。一方、そのドイツと正反対だったのが、フランスの選手団でした。バスに乗り込む際もバラバラで、なかなかことが進まないんです。ようやく全員乗り込んだかと思って人数を数えたら、30人いるはずが25人しかいないとかね(笑)。しかも、選手団の責任者も「オレの知ったことか」みたいな態度でいるんですよ。「本当に自由な人たちなんだなぁ」と思いましたよ。結局、空港へは選手村を30分ほど遅れての出発となりました。この2カ国がいい例で、それぞれお国柄がとてもはっきり出ていて、面白かったですね。
―― 違う国の選手同士が交流するシーンもあったのでしょうか?
ありましたね。選手同士で流行っていたのは、お互いの国のピンバッチを交換することで、その姿はよく見られました。それがオリンピックでは慣習化されていたみたいですね。私も選手からいただいたものが60個ほどありました。
―― 島田さんにとって、学生時代にオリンピックを経験したことは、今でも大きな財産となっていると思いますが、2020年東京オリンピック・パラリンピックでは、若い世代にどんなことを経験してもらいたいと思っていますか?
時代がまったく違いますからね。当時のように、日本はもう途上国ではなく、先進国を通り過ぎて、今や成熟国となっています。そういう中で若い世代は、国際社会の中で海外の人と一緒にやっていかなければいけません。また、日本の人口は当時は増加していましたが、今は逆に減少に歯止めがかからない状況です。ということは、マーケットがどんどん縮小してきているんです。ですから、企業はこぞって海外に出ていかなければいけなくなった。そういう厳しい時代の中において、2020年東京オリンピック・パラリンピックが開催されるわけですから、本当の意味で世界と一緒にやっていくという姿勢を示すことが必要になってくると思います。それを担うのは、これからの若い人たちだと思います。そして、我々の世代がアレンジをして、若い世代に体験してもらえるようにしなければいけません。2020年東京オリンピック・パラリンピックは、そのいいチャンスととらえられると思います。
島田晴雄氏 インタビュー風景
―― 今の日本でオリンピック・パラリンピックが開催される意義というのは、どこにあるでしょうか?
2020年東京オリンピック・パラリンピックの開催が決定して以降、競技会場をどうするかということが問題となっていますが、私に言わせれば、そんなものはどうってことないんです。本当のレガシーというのは、「モノ」ではなく「心」。それ以外は必要ありません。1964年の時代よりも、今の時代の方が、オリンピック・パラリンピックから学ぶべきことはたくさんあると思います。
ひとつは、競技に対する姿勢です。特に、言ったことを「言っていない」などと平気で嘘をつくような政治家や企業のトップには、ぜひ選手たちから学んでほしいと思います。選手たちは相手よりも強くなりたいと、非常に大変な思いをしながら努力をして、戦う準備をするわけです。そうして、本番ではルールに基づいてフェアプレーの精神のもとに本気でぶつかっていく。そして試合が終われば、あれこれと言い訳をせず、勝ち負けを認め、そして握手をして相手の健闘を称え合いますよね。これがスポーツのいいところです。
オリンピック・パラリンピックでは、そうした本気になって努力することの素晴らしさと、フェアプレーの精神を学んでほしいと思います。もうひとつは、異文化交流です。2020年には相当な数の外国人がどっと日本に押し寄せてくるはずですから、ぜひそういう人たちとの交流を楽しんでほしいなと思います。
1912 明治45 | ストックホルムオリンピック開催(夏季) |
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1916 大正5 | 第一次世界大戦でオリンピック中止 |
1920 大正9 | アントワープオリンピック開催(夏季) |
1924 大正13 | パリオリンピック開催(夏季) 織田幹雄氏、男子三段跳で全競技を通じて日本人初の入賞となる6位となる |
1928 昭和3 | アムステルダムオリンピック開催(夏季) 織田幹雄氏、男子三段跳で全競技を通じて日本人初の金メダルを獲得 人見絹枝氏、女子800mで全競技を通じて日本人女子初の銀メダルを獲得 サンモリッツオリンピック開催(冬季) |
1932 昭和7 | ロサンゼルスオリンピック開催(夏季) 南部忠平氏、男子三段跳で世界新記録を樹立し、金メダル獲得 レークプラシッドオリンピック開催(冬季) |
1936 昭和11 | ベルリンオリンピック開催(夏季) 田島直人氏、男子三段跳で世界新記録を樹立し、金メダル獲得 織田幹雄氏、南部忠平氏に続く日本人選手の同種目3連覇となる ガルミッシュ・パルテンキルヘンオリンピック開催(冬季) |
1940 昭和15 | 第二次世界大戦でオリンピック中止
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1944 昭和19 | 第二次世界大戦でオリンピック中止
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1948 昭和23 | ロンドンオリンピック開催(夏季) サンモリッツオリンピック開催(冬季)
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1952 昭和27 | ヘルシンキオリンピック開催(夏季) オスロオリンピック開催(冬季)
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1956 昭和31 | メルボルンオリンピック開催(夏季) コルチナ・ダンペッツォオリンピック開催(冬季) 猪谷千春氏、スキー回転で銀メダル獲得(冬季大会で日本人初のメダリストとなる) |
1960 昭和35 | ローマオリンピック開催(夏季) スコーバレーオリンピック開催(冬季) |
1964 昭和39 | 東京オリンピック・パラリンピック開催(夏季) 円谷幸吉氏、男子マラソンで銅メダル獲得 インスブルックオリンピック開催(冬季)
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1968 昭和43 | メキシコオリンピック開催(夏季) テルアビブパラリンピック開催(夏季) グルノーブルオリンピック開催(冬季) |
1969 昭和44 | 日本陸上競技連盟の青木半治理事長が、日本体育協会の専務理事、日本オリンピック委員会(JOC)の委員長に就任
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1972 昭和47 | ミュンヘンオリンピック開催(夏季) ハイデルベルクパラリンピック開催(夏季) 札幌オリンピック開催(冬季)
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1976 昭和51 | モントリオールオリンピック開催(夏季) トロントパラリンピック開催(夏季) インスブルックオリンピック開催(冬季)
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1978 昭和53 | 8カ国陸上(アメリカ・ソ連・西ドイツ・イギリス・フランス・イタリア・ポーランド・日本)開催
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1980 昭和55 | モスクワオリンピック開催(夏季)、日本はボイコット アーネムパラリンピック開催(夏季) レークプラシッドオリンピック開催(冬季) ヤイロパラリンピック開催(冬季) 冬季大会への日本人初参加
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1984 昭和59 | ロサンゼルスオリンピック開催(夏季) ニューヨーク/ストーク・マンデビルパラリンピック開催(夏季) サラエボオリンピック開催(冬季) インスブルックパラリンピック開催(冬季)
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1988 昭和63 | ソウルオリンピック・パラリンピック開催(夏季) 鈴木大地 競泳金メダル獲得 カルガリーオリンピック開催(冬季) インスブルックパラリンピック開催(冬季) |
1992 平成4 | バルセロナオリンピック・パラリンピック開催(夏季) 有森裕子氏、女子マラソンにて日本女子陸上選手64年ぶりの銀メダル獲得 アルベールビルオリンピック開催(冬季) ティーユ/アルベールビルパラリンピック開催(冬季)
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1994 平成6 | リレハンメルオリンピック・パラリンピック開催(冬季)
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1996 平成8 | アトランタオリンピック・パラリンピック開催(夏季) 有森裕子氏、女子マラソンにて銅メダル獲得
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1998 平成10 | 長野オリンピック・パラリンピック開催(冬季) |
2000 平成12 | シドニーオリンピック・パラリンピック開催(夏季) 高橋尚子氏、女子マラソンにて金メダル獲得
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2002 平成14 | ソルトレークシティオリンピック・パラリンピック開催(冬季) |
2004 平成16 | アテネオリンピック・パラリンピック開催(夏季) 野口みずき氏、女子マラソンにて金メダル獲得
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2006 平成18 | トリノオリンピック・パラリンピック開催(冬季) |
2007 平成19 | 第1回東京マラソン開催
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2008 平成20 | 北京オリンピック・パラリンピック開催(夏季) 男子4×100mリレーで日本(塚原直貴氏、末續慎吾氏、高平慎士氏、朝原宣治氏)が3位とな り、男子トラック種目初のオリンピック銅メダル獲得
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2010 平成22 | バンクーバーオリンピック・パラリンピック開催(冬季)
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2012 平成24 | ロンドンオリンピック・パラリンピック開催(夏季) 2020年に東京オリンピック・パラリンピック開催を決定 |
2014 平成26 | ソチオリンピック・パラリンピック開催(冬季)
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2016 平成28 | リオデジャネイロオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
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