2023.08.10
- 調査・研究
© 2020 SASAKAWA SPORTS FOUNDATION
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スポーツ政策研究所を組織し、Mission&Visionの達成に向けさまざまな研究調査活動を行います。客観的な分析・研究に基づく実現性のある政策提言につなげています。
自治体・スポーツ組織・企業・教育機関等と連携し、スポーツ推進計画の策定やスポーツ振興、地域課題の解決につながる取り組みを共同で実践しています。
「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。
日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。
2023.08.10
唐突に書き起こすが、オリンピックの開催年、開催回数は数式で表すことができる。
開催年を「X」開催回数を「Y」とし、「X」を求める数式は下記の通りだ。
X=1896+4×(Y-1)
YがわかっていればXがすぐにわかり、XがわかればYも容易く導き出せる。例えば第18回オリンピックは、1896+4×(18-1)=1896+68=1964となり、1964年開催となる。
こうした規則性はピエール・ド・クーベルタンが創始したオリンピックが「オリンピアード」と呼ばれる4年周期の初年度に開催された古代オリンピックに倣ったことによる。
オリンピアードとは「オリンピア紀元」「オリンピック暦」とも称される暦、カレンダーである。第1回大会が開催された紀元前776年7月8日を起点に、4年ごと開催するオリンピア祭(オリンピック競技会)を数える紀年法にほかならない。
以下は余談のことながら、4年周期は古代ギリシャ人が用いていた太陰暦に起因しているとされる。今日、私たちが使う太陽暦の8年が太陰暦の8年3カ月とほぼ等しく、ふたつが重なる8年の周期をギリシャ人は大切に扱い祭典を開いてきた。その周期を縮め、49カ月と50カ月との期間を交互に、祭典を開催していたといわれる。
閑話休題。このオリンピアードの周期、つまり数式の例外こそ、新型コロナウイルスのパンデミック(世界的流行)によって2021年に1年延期して開催された東京2020大会である。そして1924年に第1回を開催した冬季オリンピック競技大会にほかならない。
冬季オリンピックは紀年が夏季大会と異なり、開催回数にも規則性はない。さらに1992年アルベールビル大会の次の開催が1994年リレハンメル大会で、ここだけ2年間隔。それ以降、夏季と冬季は2年の間隔で交互に4年周期で開催されている。なぜ、こうしたことになったか、それがこの章のテーマである。
1984年サラエボ冬季大会開会式、IOC サマランチ会長のスピーチ
1986年10月、国際オリンピック委員会(IOC)はローザンヌで開催した年次総会の場で、唐突に「第17回冬季オリンピックは1994年に開催する」と決定した。
第16回大会はフランスのアルベールビルで1992年に開催が予定されている。本来なら第17回の開催は1996年で、開催都市は7年前の1989年に決めるてはずだった。
この方針変更、いやオリンピックの大改革を提案したのはファン・アントニオ・サマランチ会長率いるIOC理事会である。冬季大会の開催を「オリンピアードの1年目」から「オリンピアードの3年目」に移す。冬季オリンピックの独立であり、オリンピックそのもののあり方を変える。
これほどの大改革であったにも関わらず、しかし議論はほとんどなされないまま、提案は受け入れられた。準備計画を慌ただしく変更しなければならなくなる冬季スポーツの国際競技連盟(IF)からも異論は出なかった。サマランチ執行部が周到に根まわししていたことは想像に難くない。
「オリンピック競技大会を4年ごとに開催するだけではオリンピックムーブメントの周知は広がらない。冬季と夏季大会の開催年を別々にすることで、オリンピックはますます盛んになっていくだろう」
サマランチ会長は改革をそのように説明した。いや、それだけしか語らなかった。
1980年モスクワ総会で第7代IOC会長に選出されたサマランチが初めて会長としてオリンピックを仕切ったのは1984年サラエボ大会である。いまやユーゴスラビア紛争によって完全に解体されたが、当時ユーゴスラビア社会主義連邦共和国は「7つの国境、6つの共和国、5つの民族、4つの言語、3つの宗教、2つの文字」からなる「1つの国家」として国際社会に独自な地位を築いていた。サラエボはそこの古都。史上初の社会主義国家による冬季オリンピックは「モザイク国家」としての運営の難しさが指摘されたものの、49カ国・地域から1274選手が参加した。天候不順で延期、開始時間変更などが相次ぐなか、男子スピードスケート500mで北沢欣浩が2位に入り、日本スケート界初のオリンピックメダルを獲得したことは特筆したい。
美しかった古都サラエボはのちにボスニア・ヘルツェゴビナ紛争により、徹底的に破壊された。1994年リレハンメル大会では開催国ノルウェーがオリンピック人道支援プログラム「オリンピック・エイド」を設け、援助をよびかけた。IOCはこれに呼応、開会式での黙祷、会期中のサマランチ会長以下IOC委員のサラエボ訪問を実現し、国連総会によるオリンピック休戦決議をスタートさせている。サマランチ会長就任以前の1980年レークプラシッド冬季大会は前年末、旧ソ連によるアフガニスタン軍事侵攻が起きた微妙な時期にあたった。米国開催にも関わらず参加は37カ国に留まり、盛り上がりを欠いた。逆に言えばサラエボ大会開催により、サマランチ執行部は冬季大会の広がりに自信を深めたといっていい。それが2年間隔に踏み切らせた。
IOCサイドには“冬季オリンピックの独立”を進める理由があった。
1984年ロサンゼルスで開催された夏季オリンピックでピーター・ユベロス率いる組織委員会がスポンサー企業の1業種1社独占という「閉鎖的」で「競争的」な手法で高額な民間資本を獲得、公的支援のない大会を成功させた。その後、IOCが積極的に推進していくオリンピックビジネスのきっかけでもある。
ロサンゼルス大会について詳しくは書かない。笹川スポーツ財団スポーツ歴史の検証「ピーター・ユベロスロサンゼルスが悪いのではない…(https://www.ssf.or.jp/ssf_eyes/history/supporter/17.html)」の拙文を参照していただければ幸いである。
そのロサンゼルス大会以降、テレビ放送権料が高騰した。ユベロスの競争的な独占契約手法の恩恵を被るかたちで、1980年レークプラシッド大会では総額2100万ドルに過ぎなかった放送権料が1988年カルガリー大会では3億2500万ドルに跳ね上がった。米国のCBCとNBCによる価格競争が招いた狂乱的な数字だが、放送権を握ったCBCは大幅な赤字を計上。以後オリンピック放送権奪取競争から身を引いたことは皮肉である。一方NBCの独占が進み、複数年契約によってIOCの放送権収入は「高値安定」が続いていった。IOCがオリンピックの商業主義に舵を切るのはロサンゼルス直前の1983年である。ニューデリー総会で世界的なスポーツ用品大手アディダスの2代目社長ホルスト・ダスラーが発案したオリンピックロゴなどを国際的な広告宣伝に用いる決議が採択された。1985年からスタートしたTOP(The Olympic Programme、現在のThe Olympic Partner)である。
サマランチ執行部はその延長線上に冬季大会と夏季大会の開催年分離を置いた。
ビジネス化によって放送権料は高騰、スポンサー収入は安定した。すでにサラエボを経て冬季の広がりに自信を深めてもいた。ならば夏季と冬季との開催年を分離し、冬季大会の価値を高めていけば、より安定的な収入を担保できる。狙いの背景であった。
中継するテレビ局やスポンサーにとっては4年に一度の盛り上がりよりも、2年ごとに目標となる“ヤマ”があった方がいい。選手団を派遣するNOC(国内オリンピック委員会)や記者たちを特派するメディア媒体にとっても準備のため、そして派遣費用の面でも都合のよい話である。
しかもそれはIOCを潤し、IOC委員の待遇を改善、さらに利益配分を受けるIFや加盟各NOCをも潤すことになる。どこからも異論が差しはさまれなかった理由にほかならない。オリンピアードという伝統よりも組織の拡大、安定的な収入にシフトしたIOCの“作戦勝ち”であった。
さて冬季オリンピックの裾野を広げ、価値を高めていくにはどうしたらいいか。冬季大会の変革はIOCの大きな命題となっていく。
サマランチ体制下、12日間だった開催会期は夏と同じ16日間に変更され、放送時間枠は増えた。その分、実施競技種目も増えて、レークプラシッドの6競技38種目から2002年ソルトレークシティ大会では7競技78種目に。競技数はともかく、金メダルを競う種目はほぼ倍増、女子種目を増やし、フリースタイルスキーやスノーボードなど目新しい種目が実施された。明らかに女性活躍に配慮し若い層に訴え、テレビ映えする実施競技種目の編成になった。
この傾向はサマランチ以降、拍車がかかっていくが、冬季大会独立という改革はこの時点でひとまず成功だったと言っていい。
さらにフランスのシャモニーに始まり、スイスのサンモリッツ、オーストリアのインスブルックなど、欧米のスキーリゾートで開かれていた冬季大会のありようは変化。開催都市自体がオリンピック開催を好機ととらえ、都市そのものの変革に利用しはじめた。
1988年カルガリーは石油産業に依存するアルバータ州の中規模都市。開催を経て世界に知られる観光、ハイテク産業が根付く140万人都市に育った。カルガリー大学に建設されたスピードスケート会場オリンピック・オーバルは高速リンクで知られ、1年中氷が張られて毎年、世界から選手が集う拠点となった。
1968年のグルノーブル大会以来、24年ぶりのフランス開催となった1992年アルベールビルでは、グルノーブルのアルペンスキー3冠王ジャン・クロード・キリーが組織委員会会長として辣腕を揮った。舞台のサボア地方は小さなリゾートがアルプスの麓に散在する。アルベールビルは中心に位置するが、ひとつの小さな町に過ぎず、実施競技種目ごとに選手村も5つに分村された。関係者が移動に苦労する一方、フランス政府は山中に道路網をめぐらせ、サボア地方をリゾート地域に高める目的を果たした。
北緯61度、1994年リレハンメル大会はオリンピック史上最も北で開催された大会である。ノルウェーの首都オスロから北東に180km、国内最大のミューサ湖に面した標高200mの谷あいの村は人口2万3000人。その小さな町に67カ国・地域から1739選手が集った。小さな町は選手や関係者、観客など空前の人出となった。
ノルウェー政府と組織委員会は1988年9月に前倒し開催が決まると「自然にやさしいオリンピック」づくりに着手した。オリンピックは環境問題と裏表の関係。競技施設や関連施設の建設、道路網などの交通アクセス整備にホテル建設など来訪者の利便も図る必要がある。自然と隣り合わせの冬季大会らしく慎重にプロジェクトが進められた。
首相は環境至上で知られたグロ・ハーレム・ブルントラント。景観を損なわない施設建設、木材や石材など自然素材の使用、そしてエネルギーの節約など、政府が主導し対策が練られた。例えば「バイキングシップ」と呼ばれたオリンピックホールは建設予定地が野鳥のサンクチュアリだったため場所を移動。アイスホッケー会場は岩山をくり抜いた洞窟ホールで、ノルウェーのトンネル掘削技術を結集した。周辺の景観を損なわないよう努めて建設費は高くなったものの、冷暖房などの維持費は安く抑えられた。先行きを見込んだ施策は、経費削減のために簡略化を推進したあげく大会後の使用が難しくなった日本の国立競技場建設とは逆の発想であった。
ジャンプ台やボブスレーコースは景観に配慮し余分な樹木伐採には罰金を科した。あえて道路を整備せず、市内への一般車両乗り入れを禁止し、排気ガスを抑えた。海外からの観客は主にオスロに宿泊、列車でリレハンメルへ。そして徒歩で会場に向かった……。
リレハンメルの徹底した環境対策は「グリーン・オリンピック」と呼ばれ、冬季大会に一石を投じた。夏季との分離によって、冬季の環境問題に視線が集まるのは重要なことである。
選手たちが夏と冬、両方のオリンピックに出場する機会を増やした。スピードスケートの橋本聖子が自転車で代表となり、冬季4度夏季3度のオリンピック出場を果たした。パラリンピックでも土田和歌子がアイススレッジスピードレースと車いす陸上、車いすマラソンに出場、冬と夏両方で金メダルを獲得した。東京2020大会と2022北京冬季大会でもスケートボードとスノーボードの平野歩夢がオリンピックに、車いす陸上短距離とアルペンスキーで村岡桃佳がパラリンピックに出場した。分離開催が可能にした壮挙だといっていい。
一方で夏季大会と比べればまだ余裕はあるが、冬季大会は毎回肥大化。そしてスケートなど氷上競技は大都市圏、スキーは遠く離れた山岳地帯での分離開催があたりまえになった。自然、雪と氷の競技の選手たちが混じりあうこともなく、競技の枠を超えて理解し合う本来の姿から遠ざかっている。冬季大会の価値を高めた結果、招いた事態ではあろう。
夏季大会の実施競技数が限界を迎えているなか、屋内競技の冬季大会移行を求める声もあがる。オリンピック憲章では冬季大会は「雪と氷の競技」と定める。柔軟にことにあたってきたIOCは、生き残りをかけて冬季大会のありようを改めて検討するのだろうか。いまがその時かもしれない。