2021.06.04
- 調査・研究
© 2020 SASAKAWA SPORTS FOUNDATION
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スポーツ政策研究所を組織し、Mission&Visionの達成に向けさまざまな研究調査活動を行います。客観的な分析・研究に基づく実現性のある政策提言につなげています。
自治体・スポーツ組織・企業・教育機関等と連携し、スポーツ推進計画の策定やスポーツ振興、地域課題の解決につながる取り組みを共同で実践しています。
「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。
日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。
2021.06.04
リュミエール兄弟が発明した映写技術「シネマトグラフ」
オリンピックが映像にはじめて残されたのは、1908年の第4回ロンドン大会である。「ドランドの悲劇」としてよく知られるマラソン競技、1位でスタジアムに凱旋したものの、疲れ切って足取りが怪しくなってしまったイタリアのドランド・ピエトリ選手に、運営スタッフが手を貸したことで記録が無効になってしまったその決定的なシーンがおさめられている。また、綱引きなど今はなくなってしまった競技も記録されており、オリンピックの歴史を振り返る上で重要な資料となっている。
ロンドン大会に先立つ1906年の中間大会の模様も不完全ながら残されており、オリンピック映像化の試みは、このころ着々と進んでいたことがうかがえる。一説に1896年第1回アテネ大会が映像(動画)に記録されたとされるが、映像に記録されている競技種目(立ち高跳び)がアテネ大会にはなかったものであることから、最初のオリンピック映像は、歴史から削除された1906年の中間大会のものと見るのが妥当である。
1906年と言えば、スクリーンを用いたリュミエール式の映画技術がパリで生まれ、娯楽として熱狂的に受け入れられてから、わずか11年後のことである。映画という生まれたばかりの技術に改良を重ね、なんとかオリンピックのために役立てようと奮闘した大会関係者、映像制作者の熱意がひしひしと感じられる。
1908年第4回ロンドン大会映像化の手応えを受けて、オリンピックと映像は、分かち難く、いよいよ強く結びつけられてゆく。同時に映画というメディアは、オリンピック・ファン、スポーツ・ファンを世界中で増やすためにうってつけの方法でもあった。1930年「オリンピック憲章」改訂の際に、オリンピックを公式映画として記録するよう定められたのも当然の成り行きと言えよう。
上:西田修平(1936年)下:大江季雄(1936年)
1936年のベルリン・オリンピック公式記録映画「オリンピア/民族の祭典」「同/美の祭典」(二部構成)は、閉幕2年後の38年に世界中で公開され、各国で大ヒットを記録する。スタジアムで観戦するヒトラーの姿が数回登場することからプロパガンダ映画だとの批判もあったが、当時の世界情勢の危ういバランスは世界での作品公開・上映を許した。
日本もこの映画にわきかえった。投入された数々の新映像技術は、オリンピックの魅力を余すところなく見せてくれるものだった。見たことのないアングル、鍛え上げられた身体の躍動と美、厳しいまでの精神性、それらの崇高なものに間近で触れる実感。この映画は、オリンピックとは感動のドラマそのものなのだと世界中が理解し、その驚きと喜びを国を超えて共有するという、貴重な体験を与えてくれたのだった。
監督レニ・リーフェンシュタールは、この作品に技術、演出などさまざまなアイデアを持ち込んだ。中でもスローモーション技術は真新しいもので、多くの競技にこれを使っている。規則的な回転運動を見せる競技者の美しい動き、棒高跳びでバーをなんとかクリアしようと競技者が見せる身のこなしの工夫、それを大きなスクリーンで目のあたりにする驚き、空を飛ぶかのごとく身を投げ出す飛び込み選手たちと一体化する浮遊感。競技記録への関心よりも、美しさ、陶酔感が鑑賞者を支配する。すべては肉眼ではとらえられない、映画だからこその世界。それを永遠にフィルムに残そうと、リーフェンシュタールは使命に燃えたのだった。
リーフェンシュタールは、陸上トラックの周囲に溝を掘り、レールを敷き、手押し台車にカメラを搭載して走らせるという、映画そのものの撮影手法を導入した。スピードに乗るアスリートにできる限り迫りたいとの工夫だった。その撮影装置に乗るリーフェンシュタールのりりしい姿が写真に残されている。レールだけでなく溝まで掘ったのは、できるだけ低い位置からアスリートを見上げるアングルを欲しがったためである。カメラが下からアスリートを仰ぎ見ながら狙う、というそのアングルはアスリートの姿を偉大に見せた。ヨーロッパの街角や美術館に残された彫像を、偉大な歴史を振り返りながら見上げるあの視点と同じものである。競技場に足を運んでも得られない、映像ならではの視点がこのアングルから生み出された。
夜までもつれ込んだ陸上競技の撮影には、照明を思う存分に使った。日本の期待を担う西田修平(銀)、大江季雄(銅)の両名が登場するシーンである。暗闇に沈む競技場、やや逆光寄りのドラマチックな光に包まれた選手たちは、あたかも古代の彫刻の神々しさそのままに、抜きつ抜かれつの緊迫した競技を続けている。美しいスローモーションの迫力に加えて、存在感そのものに映像が迫った、この映画のハイライトと言っていいだろう。このシーンは、実際には技術的問題から撮影できなかったものを、日を改めて再撮影したものである。しかし、両選手の真剣さ、ひたむきさは、再現・再撮影であることを一切感じさせない。
リーフェンシュタールは、監督になる以前の女優時代、猛吹雪に襲われた雪山での撮影で大変な目にあっている。監督が凍傷にかかり身動きできなくなり撮影中断を迫られる中、監督、スタッフの代わりに立って、主演を継続しながらメガフォンも取り作品を完成まで導いたという驚くべき経験を持つ(「青の光」1932年)。不屈の人、生粋の映画人なのである。
映画「東京オリンピック」のエンディングメッセージ
オープニングに「オリンピックは人類の持っている夢のあらわれである」という明快な文言を掲げた映画「東京オリンピック」(1965年公開)は、「オリンピア」と並び、単なる記録を超えた印象深い作品として今日も高く評価されている。総監督を務めた市川崑の望遠レンズ使いの腕前は、その後手がけられたドラマや映画でもよく知られるが、本作には、望遠レンズならではの切り取り効果、圧縮効果、背景のボケ味豊かな表現があますところなく使われた。
しかしながら、1965年の公開当時は、問題作とも受け止められていた。内閣、運営関係者が強く期待していた「オリンピック映画」とは、競技全体を時系列的に過不足なく記録する、ハイライトシーンをドラマチックに強調する、世紀の祭典の感動をフィルムに永遠にとどめる、というものであったに違いないが、その期待から大きく外れるものだったからである。
市川の手法は、まずは戦後大きく変貌を遂げていく日本の姿を浮き彫りにした上で、大会の客観的な記録・内容・流れを追うことよりも、競技のジャンルを超えて、競技の瞬間に見え隠れする点とも言える小さなドラマを見つけ出すことを優先し、そこからオリンピックの全体像を引き出すことに賭けた、と言ってよい。瞬間に沸き立つ濃密な人間ドラマを、複数台のカメラによる多視点的なアングルと望遠効果で引きつけ、「点」として集約することで強調していく。競技を前に軽く体を慣らすアスリートの姿、競技中のアスリートの真剣な眼差し、勝利を得て一気に破顔する様子、観客の一喜一憂する様、きちんきちんと準備を進める大会役員、あわただしいプレスなど、オリンピックを彩るすべての要素、出来事にまんべんなくカメラが向けられた。それぞれのシーンは短くカットされ、場面の切り替えが多くなる。その言わばレンズと編集の綾なすコラージュ的な映像手法は、リーフェンシュタールも試みてはいたものの市川のそれは先人を凌駕する意欲的なものだった。
しかし、時の内閣はこの作品の出来栄えがあまりにもわかりにくいとして渋い評価を下す。わかりやすさ、俯瞰性、記録性を重視するのか、それとも、夢と人間ドラマが濃く熱く渦巻く場としてオリンピックをとらえ、どのように表現すべきなのか、映画表現者として市川は難しい選択の淵に立たされたと言ってよい。
ジャネット・リン(1972年)
作品公開の迫る直前まで続けられた政府の苦言、批判は大きな話題となり、封切り直後には、若者たちの間で、芸術か記録か、オリンピックはどのように映像化されるべきだったのか、を論じる風潮が渦巻いた。それだけこの作品の影響力は大きかったということである。結果的には日本映画史上最大のヒットとなり、その配給収入記録は1972年まで超えられることはなかった。
オリンピックのドラマは金・銀メダルを隔てる決勝戦だけにあるのではなく、頂点に手が届かなかった選手が世界を魅了することもある。札幌オリンピックの記録映画(篠田正浩監督/1972年公開)に記録された、ジャネット・リン(フィギュアスケート女子シングル銅メダル)の溌剌とした若々しさは今も忘れることができない。演技中にいきなり尻餅をついてしょげかけたところ、表情を整え直して笑顔を振りまいたあの瞬間に、彼女は競技者、演技者として最高に輝いた。順位とも名誉ともかけ離れたところで大きく花を開かせる、人間の純粋さ、ひたむきさであった。記録と芸術がフィルム上でまさに一体となった瞬間だった。
アスリートたちの存在感、美しさは、会場で観戦していても映像を通じて観戦しても、それはどちらでも存分に感じ取れるものだと思う。それはいつも必ず、前触れなく、「瞬間」におこる。
東京オリンピック第2号ポスター
オリンピックと日本人という関係で見ると、その「瞬間」を最初に経験させてくれたのは、実際のオリンピックではなく、その先駆けとして告知用に作られた「東京オリンピック第2号ポスター」(1962年、アートディレクター・亀倉雄策/写真家・早崎治)ではなかっただろうか。
この魅力的なポスターは、大会2年前に世界に向けて発表され、国内のいたる所に貼られ(と同時に次々と剥がされ)、来たるオリンピックへの期待をおおいに高める役割を果たした。6人の精悍なランナーが、競り上がるようなスタートを切ったその瞬間。ランナーの顔には闘志がみなぎり、汗が吹き出し、高度な集中力を持って、筋肉のすべてが一気に発動する。たった1枚の写真がすべてを語っている。映画「オリンピア」が、オリンピックの全体像と多種多様なスポーツの魅力、そのドラマ性、美しさを世界に伝えたものだとすれば、このポスターは、オリンピックというものは、厳しさであると語っている。凄まじく美しく、この上なく激しくぶつかり合う場所であり、瞬きほどのわずかな時間であり、古代から連綿と引き継いだ重厚な文化なのだ、それがもうすぐ我々の目の前で開催されるのだと、わからしめる重要な存在だった。たった一枚の写真だからこそ、「瞬間」に世界を飲み込むことができたのだ。
映像技術はオリンピックを節目としながら、これからも発展の一途をたどるだろう。だが、課題はまだ残っているように思う。
私たちは次々と提示される映像を盲目的に肯定しすぎてはいないだろうか? 映像が選び取り、見せてくれる競技のリプレイ場面、そこにスポーツの明暗を分ける何かがあると誰もが思い込みがちだが、アスリートたちの思いは他にあるかもしれない。そこがあたかも決定的な瞬間に見え、「絵になる」からクローズアップされるのは理解できる。だが「絵になっている」のは時間の前後をさかのぼった結果であって、アスリートの思惑は、絵になるわかりやすさとは違うところにあるかもしれない。世界注視の中にいるアスリートの心情など、簡単にこれだと提示できるはずもない。技術が進んでいくという実感がある今だからこそ、あえて新たな表現に踏み出してみる意味は大きいと思う。
今回はパラリンピックの映像にも大変関心が集まっている。多くの人が競技の面白さに目覚め、見どころを理解しはじめているからだ。数々の公式オリンピック映画が常識を打ち破ってきたように、これからのオリンピックにも旅立つべく新たな地平は広がっている。新しいオリンピックとともに、スポーツ映像が次へ進む。今が最大の機会なのだと思う。
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