2016.11.10
- 調査・研究
© 2020 SASAKAWA SPORTS FOUNDATION
© 2020 SASAKAWA SPORTS FOUNDATION
スポーツ政策研究所を組織し、Mission&Visionの達成に向けさまざまな研究調査活動を行います。客観的な分析・研究に基づく実現性のある政策提言につなげています。
自治体・スポーツ組織・企業・教育機関等と連携し、スポーツ推進計画の策定やスポーツ振興、地域課題の解決につながる取り組みを共同で実践しています。
「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。
日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。
2016.11.10
白馬ジャンプ会場の掲示板に表示された五輪マーク(1998年)
早いもので、2020東京オリンピック・パラリンピックまであと3年。東京都と組織委員会は都市ボランティア、大会ボランティア合計9万人を予定していると聞く。
私は1998年長野オリンピックで、ボランティアのコーディネーターという立場を経験させていただいた。さかのぼること約10年、じつは私のボランティア的な活動は、オリンピック招致の頃から始まっていた。2020東京大会招致では高円宮妃久子さまをはじめ、滝川クリステルさんや佐藤真海さんらすばらしい女性が活躍したが、長野の招致活動は、動き出しの段階では行政や男性中心に展開していた。
見ていた私は、「男性のみの論理ではいけない。世の中は男性と女性で成り立っている。男女両方の力で成し遂げるのが自然だ」と考えた。IOC委員の心を動かすためには女性ならではの、やさしい「おもてなし」も必要だ。やさしさは女性の特性のひとつだからである。それも、大きな組織や誰かの指示によるものではなく、女性が主体的に行う、やさしいおもてなしでなくてはならない。
私は近くの主婦など女性たち数名とともに、友人の切り絵作家の発案で、まず「こいのぼりキャンペーン」を行うことに決めた。“オリンピック来い(鯉)来い(鯉)”というわけである。手作りのこいのぼりとともに、私たちは、「こいのぼり」の歌を歌ってIOC委員をお迎えした。これには多くの人が喜び、感動してくれた。それを見た私たちも感動を覚える。なんて楽しいのかしら、と思った。その頃はボランティアをやっているという意識はなかった。ただただ、楽しいことをしていたのである。
法被(はっぴ)を着て餅つきもした。法被をHappyとかけたのだ。“ようこそ長野へ”と旗を振った。“Hearty NAGANO”で雨の日もやった。手作りの招致活動を女性たちが主体的に行った。
そして開催地決定!やった!それはそれは、うれしかった。高速道路ができる!新幹線が開通する!これで陸の孤島から脱出できる!よろこびはひとしおだった。
この招致活動の経験と人脈は、私のボランティアコーディネーターとしての活動において大きな財産となっていく。
競技会場での会場誘導ボランティア(1998年)
1991年に長野が冬季オリンピック開催地に決定し、その後に広島でアジア大会(1994年)、福岡でユニバーシアード(1995年)が行われ、私たちはボランティアのノウハウを教えてもらうため、それらの大会を視察した。そこで知ったことは、ボランティアをひとつにまとめることの難しさだった。
まずは自治体職員を中心とするスタッフとボランティアとの立場の違いをどう乗り越えるかが課題となった。これは、スタッフがボランティアのことを安価な“労働力”として見るべきではないし、職員とボランティアの違いを“有給か無給か”という“お金”の問題としてとらえてはいけないと知った。
スタッフは「どうせボランティアなんて……」という見方をしてはいけないし、ボランティアも「言われたことだけやっていればいい」という態度ではいけないと気づいた。
もうひとつの課題は、一般のボランティアと語学ボランティアをどのように一体化させるか、だった。ともすると語学ボランティアは他のボランティアに対して優越的な意識=ある種のプライドを持つことがあるが、両者に差をつけるべきではないということを学んだ。
その結果、ボランティアリーダーが講師として行政スタッフの研修を行うことにした。スタッフがボランティアに心を開くことが大事だと考えたのだ。さらに、スタッフとボランティアがいい人間関係をつくるために、長野大会ではみな同じユニフォームを着ることにした。そうして大会に携わるすべての人の一体感を作り上げていった。もちろん“失敗”もあった、だが私は“失敗”を“経験”という言葉に置き換えた。“経験”は日々の出来事をドラマに変えていった。
長野オリンピックでは3万2000人のボランティアが大会を支えた。そのとりまとめを担当したのが、ボランティア登録をした県議会議員と私の2人だけのコーディネーター。2人は非常勤と常勤という立場で活動した。イベントの最前線にいるボランティアには、クレームやらちょっとしたいざこざなど、さまざまなトラブルが持ち込まれる。ボランティアはバーチャルではなく現実そのものだった。やっていることは泥くさかった。現実の世界は厳しいことが多かった。
けれど、温かみもあった。涙があふれるような体験もたくさんさせてもらった。そしてトラブルのときには、“ハプニングこそボランティアが本領を発揮できるチャンス”とばかり、私たちは熱く燃えて対応した。その熱はまわりに伝わっていった。“ボランティアは熱病と同じ”だと思った。“熱が高くないとうつらない”からだ。この経験の根底にはパッション、ミッション、アクションがあり、それが土台となって私の今につながっている。
長野オリンピック開会式で披露された大相撲の土俵入り(1998年)
ボランティアの交流を目的として「ボランティアセンター」を開設した。センターは、スタッフとボランティア、そしてボランティア同士の交流や情報共有の役割を担った。メディアの人たちもときどき訪れた。休む時間がなく、「健康より原稿なんですよ」などと言っているメディア関係者にも、私たちは休む場を提供した。彼らには“取材なし”“肩書きなし”でくつろいでもらった。
センターの一角にウェアなどの置き場となっている畳の部屋があった。スポンサーからビールの差し入れ、ボランティアからは土産、さらに地元のボランティアからは温かな手料理などが届いた。人と物がたくさん集まったのだ。そこはいつのまにか「バーFujiko」とよばれるようになる。一緒に飲んだり食べたりしながら本音でぶつかり合うことが、このような大きくて長期的なイベントには欠かせない。この場所は、そうした役割を果たした。
長野オリンピックは多くの感動を残して16日間の幕を下ろした。それを陰で支えたボランティアの活躍には注目が集まり、そこからも感動が生まれていった。まさに“感動が人を動かす”こと、そして“みんながひとつの目的に向かって力を合わせると、その力は社会を変える”こと、また“人はひとりでは生きていけない”ことを知った。大会終了後、私たちボランティアは大きな高揚感をおぼえていた。
私たちはその後、2004年の新潟中越地震では災害ボランティアを行い、2005年スペシャルオリンピックス長野大会でもボランティアとして参加した。
競技会場での座席案内ボランティア(1998年)
長野オリンピックのボランティアは、次の3つのレガシーを残した。
従来の“奉仕”、“人のためにがまんする”という暗いイメージから、“やりたくてがまんできない、ほっておけない、だから自発的にやる”と変化した。ここから、自分発の単純明快な明るいボランティアイメージが生まれた。
2020年東京大会招致のときに言われた「おもてなし」の心を高めるきっかけとなったのは、長野大会だったのではないかと思っている。「おもてなし」の心があれば、10年かけても会えないような世界中からのたくさんの人々に、よろこんでいただくことができると証明できた。
長野大会のとき、行政スタッフとボランティアは同じ目的に向かって動いていた。しかし、立場が違うからプロセスが異なる。行政スタッフは従来の組織の枠組みを壊すことなく、“公平・平等”の原則にもとづいた運営を目指した。一方、ボランティアは“思い”を持って参加し、命令されて動くものではなく、消極的な存在でもなかった。お互いに認め合いながらパートナーシップを構築することが成功への道であることが確認された。
閉会式。参加国・地域の国旗の入場(1998年)
この長野のボランティアが残したレガシーは、はたして2020年東京大会にあてはめることができるのだろうか。前述したように、長野のボランティアは“手作り”からはじまった。世界的な大都市で行われる2020年大会は、長野大会とは規模が全く違う。そこでは極めて都市化されたボランティアのあり方が求められるのであろう。また1998年と2020年とでは時代が変わっている。人々の考えや社会のあり方も変化している。しかし都市の規模や時代が違っていても変わらないのは、ボランティアは“お金”や“経済”とは異なる価値観で動くということではないだろうか。ボランティアを動かすのは“思い”や“感動”なのである。主催者はそこから目を離してはいけない。
2020年の若者には、ぜひボランティアとして東京オリンピック・パラリンピックを経験していただきたい。すばらしい体験ができる絶好のチャンスが到来するのだ。人と人との絆を実感できて、感動して成長できる夢のような体験。その若者たちには、そこで得た感動を文化として、次の世代へ引き継いでいってほしい。その感動の継承のムーブメントが、きっとレガシーなのだろう。
(構成:大野 益弘)