日本の冬季スポーツ史を語るとき、1人の異能な人物を忘れてはならない。その名を麻生武治という。
日本が初めて参加した冬季オリンピック、1928年第2回サンモリッツ大会に出場したオリンピアンである。同時に早稲田大学時代、第1回「箱根駅伝」に出場した草創期の名ランナーでもあった。
プロ野球の枠を超え、戦後の日本と日本人に希望を与え続けてきた長嶋茂雄は、「オリンピックは特別な存在」と公言してはばからない。そして、病に倒れた後も「オリンピックに行きたい」と言い続けたことはよく知られている。だから今も、東京オリンピック・パラリンピックの開会式では「長嶋さんに聖火ランナーを」という声が後を絶たない。
執筆者:佐野 慎輔 View more「フェアプレー」というと、1984年ロサンゼルス大会無差別級決勝、山下泰裕選手とエジプトのモハメド・ラシュワン選手の戦いが例えにあがる。
後世に真実を伝えなければならないと思った。
「オリンピックで最も重要なことは、勝つことではなく、参加したということである。これは人生において最も重要なことが、成功するかではなく、努力したということと同じである。本質的なことは勝ったかどうかではなく、よく闘ったどうかである」
冒頭の言葉は1932年ロサンゼルス大会の男子選手村ロビーに掲げられ、「オリンピックの理想を表す標語」として広まった。
「Right to Play スポーツを活用して、子どもたちの未来を」スピードスケートのオリンピック金メダリスト、ヨハン・オラフ・コスをはじめとするアスリートたちの社会貢献活動を解説。
執筆者:佐野 慎輔 View more『友情のメダル』とは、1936年第11回ベルリン大会の陸上競技棒高跳びで同記録ながら2位となった西田と3位の大江季雄がベルリンから帰国後、銀と銅のメダルを2つに割り、それをつなぎ合わせたメダル。
互いの健闘をたたえ合った「友情の証し」として新聞が取り上げ、道徳の副読本にも紹介されて、広く知られていた。
2020年東京パラリンピックにレームはやって来る。
リオ大会での優勝記録は、2位におよそ1mもの差をつけた8m21。東京でのパラリンピック三連覇は間違いないだろう。直前のオリンピックの優勝記録を上回る可能性も十分にある。これを見逃すわけにはいかない。東京でのマルクス・レームの跳躍は、その一本一本が、そのまま新たな歴史の扉を開くものとなるはずだ。
ベルリンオリンピックで、大観衆を魅了した村社講平を紹介。日本長距離界の奇跡に迫る。
レニ・リーフェンシュタール監督のベルリン大会公式記録映画『オリンピア』は2部作で構成され、10000mの村社講平は『民族の祭典』(もうひとつは『美の祭典』)で陸上100mを制した黒人選手ジェシー・オーエンスと並ぶ主人公のような地位を占める。
オリンピックの歴史のなかで、まれにメダル獲得と同じくらい、いやそれ以上に貴重な出来事に出合うことがある。それは選手が所属する国・地域だけでなく、世界中の人々を感動させる真実の記録である。
執筆者:大野 益弘 View moreパラリンピックの競泳で実に15個の金メダルを獲得している名選手、成田真由美。
日本パラスポーツ史に燦然と輝くスーパースイマーにもそんなライバルがいた。かつて激戦を繰り広げたカイ・エスペンハインとの心の通い合いは、パラスポーツの歴史を美しく彩っている。
オリンピックのたびに繰り返されるドーピング失格事件。ことに多いのが陸上競技とウエイトリフティングで、陸上では特に投てき競技で目立つ。
スポーツは社会の宝だ。スポーツ界だけでなく、社会全体でドーピング撲滅に動かねばならない。あらゆる機会を通じて、ドーピングがスポーツを滅ぼしてしまう危険性を説いていかねばならない。
『炎のランナー』という映画をご覧になったことがあるだろうか?
1924年第8回パリオリンピックの時代、落日に向かう英国の姿を背景に、英国エリート層の権威的で排他的な側面とそれに挑む若者の姿が描かれている。
フェアとは何か、アマチュアリズムとはなにか、そして走るとは何か、改めて我々に問いかけてくる。
日本陸上の黎明期、試行錯誤の末に、日本人として初めて金メダルを獲得した伝説のアスリート、織田幹雄。
「世界人となるべし」。それが織田幹雄のモットーだった。世界人と国際人、二つの言葉はいささか意味が違うのだというのがその趣旨である。
「日本人が日本の国籍を背負って海外で何かを行うとすれば、それは国際人だ。しかし自分は国籍にとらわれてはいない。意識としては自分は世界人なんだ、と。それが信条でした」
レスリングの女子フリースタイルは、2004年アテネ大会からオリンピックの正式種目になった。
実は、日本ではメダルが確実な種目として、早くから注目されていた。なぜなら、前年の9月に行われた世界選手権で、日本女子選手たちは7階級中5階級で優勝していたからだ。
戦前の冬季オリンピックに出場した女子唯一の日本選手、 女子フィギュアスケートの稲田悦子を紹介。12歳0カ月での出場は、現時点におけるオリンピック出場日本選手最年少記録。
執筆者:松原 茂章 View more1996年アトランタオリンピック開会式、モハメド・アリは、ふるえる手で聖火トーチを掲げた。「アリはいまも病と闘い続けている。アメリカ人は何かに挑むことが大好きだし、困難と闘う人は尊敬されるんだ」。別の記者は違う角度からこう話した。「アトランタという南部の、公民権運動の指導者マーチン・ルーサー・キング・ジュニアのふるさとで開かれたオリンピックの象徴だよ。米国社会と黒人の和解をアリの姿を通して発信したかったんだ」
執筆者:佐野 慎輔 View moreアジアで初めて開催された1964年の東京オリンピックで、日本人に最も人気の高かったのが"東京大会の名花"と謳われた、ベラ・チャスラフスカ(チェコスロバキア)である。
種目別の平均台、跳馬も制し、3個の金メダルを獲得、一躍大会のヒロインとなった。
東京オリンピックの柔道は、軽量級、中量級、重量級、無差別級の4種目が実施された。
結果は軽、中、重量各級では順当に日本人選手が金メダルを獲得したが、無差別級では本家の期待を一身に背負った神永昭夫が、決勝でヘーシンクに敗れた。日本の柔道が世界のJUDOになった瞬間であった。
オリンピックでの正式種目としての実施、そしてヘーシンクが日本人選手を破って金メダルを獲得したこと、この2つの事実が重なったことがその後の柔道国際化の嚆矢となったのは間違いない。
ひたむきな努力が思わぬ高みに人間を押し上げる可能性を持っていることを、円谷幸吉の生涯は教えてくれている。と同時に、時代の空気や社会の意識が思いがけないところで思いがけない悲劇を呼ぶことも示している。それは、スポーツとは、オリンピックとはどうあるべきものなのかという問いまでをも、いまも我々に突きつけている。
執筆者:佐藤 次郎 View moreマラソンの歴史で大きな足跡を残したランナー、アベベ・ビキラ。ローマオリンピックを裸足で走り抜いた。
マラソンの高速化はますます進み、男子のタイムは2時間1分台まで来た。長距離におけるアフリカの時代も、ケニア、エチオピアを中心としてますます隆盛を誇っている。陸上の歴史からその偉大な足跡が消えることはない。
大会初日の8月16日、古橋は18分19秒0という驚異の記録をたたきだした。米国、いや世界中が目を見張るなか、古橋は400m、800m、1500m、そして800mリレーにすべて世界新記録を樹立して優勝したのだった。
日本国内が大騒ぎになったのはもちろん、大会前は反日感情むき出しだった米国の新聞の論調ががらり一転、「ザ・フライイング・フィッシュ・オブ・フジヤマ(フジヤマのトビウオ)」と、歴史に残るタイトルをつけて大きく称賛したのである。
清川正二は、戦前の"水泳ニッポン"を築いた立役者であった。
1932年のロサンゼルスオリンピックの100m背泳で金メダル、続く1936年ベルリン大会でも同種目で銅メダルを獲得している。IOC委員に就任後、清川はオリンピック・ムーブメントの普及に信念を持って取り組んだ。
インディアン(先住民=ネイティブアメリカン)の子孫として生まれたジム・ソープは、のちに20世紀最高のアスリートと呼ばれるようになる。しかし彼の人生は、アマチュアリズムという思想、そして差別に翻弄され続けた。
執筆者:大野 益弘 View moreあからさまな差別を受けながらも、ハワイの人々の期待を一身に集め、ストックホルムオリンピック、アントワープオリンピック男子100m自由形などで金メダルを獲得したデューク・カハナモク。サーフィンの父とも呼ばれた。
執筆者:大野 益弘 View moreジェシー・オーエンスの名は大方のスポーツファンの頭にあるだろう。だが、詳しい知識や具体的なイメージとなると、どうだろうか。母国のアメリカはともかく、日本では「戦前に陸上競技で活躍した黒人(アフリカ系)の大選手」「ベルリンオリンピックの金メダリスト」といったあたりにとどまっているように思う。スポーツ史の中でもひときわ大きな存在でありながら、その記憶は歴史のはざまに半ば埋もれかけているのである。
執筆者:佐藤 次郎 View moreバロン・ニシの名は悲劇の主人公としてよく知られている。
1932年のロサンゼルスオリンピックで馬術・障害飛越の金メダリストとなりながら、軍人として戦火の中に赴き、壮烈な戦死を遂げた西竹一。
日本の女性として初めてオリンピックに出場し、みごとメダリストとなった人見絹枝。
オリンピック2大会に連続して出場し、日本の女性として初めて金メダリストとなった前畑秀子。
この2人の偉大な女性がそろって味わったのは、想像を絶するほど大きな重圧だった。
日本人初のオリンピック選手である金栗四三(かなくりしそう)。
3度出場したオリンピックはすべて不本意な結果であったが、不屈の努力と固い信念で、金栗四三は若き先駆者として日本長距離界の道を切り開き「日本マラソンの父」と呼ばれる。駅伝競走の草分け存在で箱根駅伝創設にも尽力。