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「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。

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日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。

日本のラクビーを支える人びと
第77回
見直すべき指導者として必要な要素

森 重隆

 高校からラグビーを始め、明治大学では1年生から試合に出場。日本代表としてのキャップ数(出場回数)は27と、当時、日本を代表するセンターバックとして活躍されたのが森重隆さん。新日鐵釜石時代には、その釜石黄金時代の礎を築き上げました。

また、現役卒業後には母校の福岡高校の監督を22年間務め、2015年からは九州ラグビーフットボール協会会長、日本ラグビーフットボール協会副会長に就任された森さん。今回はラグビーW杯2019日本大会への期待や、指導者としての在り方などについて、その森さんにうかがいました。

聞き手/佐野 慎輔  文/斉藤 寿子  写真/森重隆・フォート・キシモト

忘れられない初めての花園ラグビー場での感動

福岡高校の中心選手として活躍(手前)

福岡高校の中心選手として活躍(手前)

―― 現在、日本ラグビー界においてさまざまな面でご活躍されていますが、森さんがラグビーを始めたのは、いつだったのでしょうか。

中学校時代は9人制のバレーボール部に所属していました。1964年、私が中学1年生の時に東京オリンピックが開催されまして、大松博文監督率いる全日本女子バレーボールチームが金メダルに輝いたんです。それに大いに感化され、バレーボール部に入部したのですが、高校ではラグビー部に入りました。

―― 森さんが進学された福岡高校は県内有数の進学校でもあり、ラグビーの伝統校でもあります。福岡高に進学すると決めた時からラグビー部に入ろうという気持ちがあったのでしょうか。

同じ中学校から福岡高には30人ほどが進学したのですが、なぜかバレーボール部出身者のほとんどが勧誘されてラグビー部に入ったんです。また、当時の福岡高で全国大会に行けるような強豪クラブは、ラグビー部くらいしかなかったんですね。それでというところもありました。

試合に臨む福岡高校のメンバー(右から4番目)

試合に臨む福岡高校のメンバー(右から4番目)

―― ラグビー部の部員はどのくらいいたのでしょうか?

私の学年は11人入ったのですが、一つ上の学年は5~6人でしたので、3学年で30人弱だったと思います。今では考えられないほどのぎりぎりの人数でした。

―― ポジションははじめからセンターバック(守備ではタックル、攻撃ではゲームメイクしたり自ら突破してトライのチャンスを作る役割を担うスピードとパワーの両方を要するポジション)だったのでしょうか?

私は身長が低い方でしたので、最初はスクラムハーフ(パスのスペシャリストで、スクラムではそのスクラムにボールを入れる役割を担うポジション)でした。当時は、身長が低い選手はスクラムハーフと決まっているようなところがあって、私は半年以上、当然のようにスクラムハーフをやっていました。もちろん、1年の時は上の学年にスクラムハーフの先輩がいましたから、試合には出られませんでした。

―― スクラムハーフはゲームを左右する大事なポジションですから、非常にやりがいがあったのではないでしょうか。

本来はそうだと思うのですが、私自身はスクラムハーフとしてのやりがいを感じるところまでいかずに、2年からセンターバックに替わってしまいました。足だけは速かったので、当時の監督さんから「オマエ、センターやれ」と。

1969年、全国大会に出場した時の福岡高校のメンバー(中列左から3番目)

1969年、全国大会に出場した時の福岡高校のメンバー(中列左から3番目)

―― 高校時代の一番の思い出を教えてください。

1年の時に全国高等学校ラグビーフットボール大会(毎年12月末から翌月1月の始めに開催)に出場しまして、初めて花園ラグビー場に行ったのですが、中学生の時に全国大会の経験はありませんでしたから「こんな大きな大会があるんだ」と驚きました。全国から集まってきた他校のラグビー部の選手はみんな体格が大きいんです。がっちりとした体つきに圧倒されました。私自身は試合には出なかったのですが、チームが負けた時も不思議と悔しさは感じませんでした。「これが全国大会なんだんな」ということへの感激の気持ちの方が大きかったんです。「ラグビー部のお正月はこういうふうにして過ごすのか。また来年、ここに来たいな」という気持ちで帰りました。

―― ラグビー部の練習は相当厳しかったのでは?

非常に厳しかったですね。練習は授業が終わった後の放課後、2~3時間程度だったのですが、特に夏の合宿が過酷でした。今のように涼しい場所に行くなんてことはなく、学校に寝泊まりして、OBも来てみっちりと鍛えられました。夏合宿は本当に辛かったですね。

―― 後に母校の監督を務められますが、当時と今とでは学校の部活動に、どんな違いがあるのでしょうか。

当時は今のように保護者が介入することはまったくなかったですね。試合を観に来るようなこともありませんでした。部に入ったら、みんなお任せします、という感じでした。ある意味で学校側を信頼していたのだと思います。ですからどれだけ厳しいことをやらされても、保護者からクレームがつくというようなことはありませんでした。もう全てを学校にお任せすると。だからこそ今では考えられないような良き厳しさがあったなと思います。

「打倒早稲田」に燃えた大学時代

明治大学時代は闘志溢れるプレーで活躍

明治大学時代は闘志溢れるプレーで活躍

―― 高校卒業後、明治大学に進学されましたが、ラグビー名門校の中でも明大を選ばれた理由は何だったのでしょうか。

当時の福岡高校の監督さんが明大の出身の方で、毎年のように2~3人が福岡高校から明大に行っていたんです。私自身は地元の福岡大学でアイスホッケーをやろうかなと思っていたのですが、監督さんが私に「明大に行かないか」と言ってくださいまして、せっかくなので「じゃあ、明大に行こうかなと」。でも、周囲からは「オマエは早稲田大学じゃないのか?」と言われていましたね。身長は低かったけれど、足だけは速かったので、早大向きだと思われていたんでしょうね。当時の早大には俊足の選手が多かったですから。

―― 逆に言えば、足の速い選手が多かった早大ではなく明大に入ったことで、「足があるバックスが入ってきたぞ」と森さんへの期待感も大きかったのではないでしょうか。だからこそ1年生の時から試合に出場されていたのではないかと思うのですが。

確かに運よく1年の時から試合には出場していましたが、期待されていたかどうかはちょっとわからないですね(笑)。ただ、実は「早大に行きたいな」と思ったことも何度かあったのですが、やっぱり明大に入って正解だったなとは思いました。

―― それは明大に入ってみて、明大の良さがわかったと。

下級生の頃は雑用ばかりさせられて、上下関係が厳しかったですから、明大の良さはわからなかったですねぇ(笑)。でも、「住めば都」ではありました。当時はどこも同じような厳しさはあったと思いますしね。

明治大学の激しい練習風景

明治大学の激しい練習風景

―― 明大の北島忠治監督(当時)は、どのような指導だったのでしょうか。

ラグビーに関しては、細かいことを指導するというような監督ではありませんでした。ただ、ストッキングをくるぶしまで垂らしてたりすると、「服装は我の為にあらず。人様への礼儀である」と。そしてなにより卑怯なことをするのは絶対に許しませんでしたし、相手への礼儀に対しては厳しく言われました。北島先生は「勝負に勝て」とは絶対に言わないんです。「学生らしい、いいラグビーをしなさい」と。でも、細かくは言ってくれませんから、僕ら選手はどういうものが「学生らしいラグビー」なのかがわかりませんでした。後にOBに聞いてみると、「卑怯なことをせずにルールを守ってプレーする」と。つまり大学を卒業して社会に出た時に必要なことをラグビーを通じて身に付けてほしいということだったと思います。当時、最大のライバルだった早大ラグビー部の選手とは、よくお酒を飲みかわす機会もあったのですが、いつも話にのぼるのは勝負に対する考え方の違いでした。「早大は、『ここまでだったら違反にならない』というようなルールぎりぎりのところをついてくる。でも、オレたちにしてみたら、やっちゃいけないことはやっちゃいけないんだ」と、よく議論を交わしていました。当時の早大は、例えばセットプレーであるラインアウトの際に、ボールを投入するのにフェイントをかけ時間差を使ったりして相手を惑わそうとしてきたんです。早大にしてみたら「これはテクニックだ」と言うけれど、私たちにすれば「それは違うだろう」と。でも、そういう両校の違いが、ラグビーファンにしてみたら面白くて、早明戦の人気が高かったのだと思います。

―― 森さんが大学時代は、国立競技場で試合が行われていましたが、早明戦はいつも満員で盛り上がっていましたよね。

私が大学3年の時までは秩父宮ラグビー場で試合が行われていましたが、たしか改装するために使用できなくなり、4年の時には国立競技場でした。満員の国立競技場で試合をするのは選手冥利に尽きました。学生ラグビーにそれほど大勢の観客が集まるなんて、今考えると、すごいことでしたよね。

早明戦のスコアボード

早明戦のスコアボード

―― 当時の学生ラグビーと言えば、明大と早大が抜きんでていて、そこに関西の同志社大学が絡んでくるというような図式でした。やはり森さんたち明大の選手にとって一番は「打倒!早稲田」だったのでしょうか。

そうですね。北島先生には「東大に負けてもいいから、早大にだけは絶対に負けるな」と言われていました。というのも「社会に出たら東大の選手が上司になるんだから、今からゴマをすっていた方がいいんだと。でも、対等な立場の早大には絶対に負けるなよ」と(笑)。もちろん先生も冗談で言っていただけで、自分でそう言いながら笑っていましたが、それほど早大へのライバル心は並々ならぬものがありました。

―― 当時のラグビー人気の高さは何が要因だったのでしょうか。

今との一番の違いは、一般の学生が観戦に来てくれていたというところだと思います。ラグビー部のOBはもちろんですが、たとえラグビー部でなかったとしても「僕はあの選手と同じ学部です」なんていう一般の学生がみんな観に来てくれていました。それだけ一般の学生たちが母校のラグビー部を誇りに思ってくれていたと思いますし、それが人気の高さにつながっていたのだと思います。

2015年、ワールドカップイングランド大会南アフリカ戦で日本が歴史的勝利をあげる

2015年、ワールドカップイングランド大会南アフリカ戦で日本が歴史的勝利をあげる

―― 現在はラグビー人気が低迷して久しいですが、2015年ラグビーW杯で日本代表が優勝候補の南アフリカを破り、そして来年には日本でアジア初のラグビーW杯が開催されるということで、今再びラグビーが注目されています。今後、ラグビー人気をさらに広げていくには、何が必要でしょうか。

やはり学生ラグビーの人気復活が欠かせないのではないでしょうか。すべてアメリカの学生スポーツの真似をすることがいいとは思いませんが、例えば明大や早大が自分たちの競技場を持ち、そこをホームグラウンドとして一般学生も足を運ぶような仕組みが必要でしょう。これはラグビー以外の学生スポーツにも言えることだと思います。

―― 日本版NCAA(UNIVAS)が来年、設立される予定です。

私は大賛成です。ただこんなことを言うと時代錯誤と言われるかもしれませんが、日本の学生スポーツはビジネスとは切り離して考えていくべきだとは思います。もちろん収益を得ることは必要ですが、それをビジネスにするのではなく、入場料などで得た収益は大学に還元するような仕組みであってほしいと思います。

*NCAA(全米大学体育協会)とは、アメリカの大学スポーツを統治する組織で、学生がスポーツを通じて充実した学生生活を送れるように、人格形成、学業、キャリア、資金の支援を行い、安全確保や文武両道を達成できる仕組み作りを行っている。

代表辞退を考えた初試合

日本代表ではCTB(センター)として活躍

日本代表ではCTB(センター)として活躍

―― 森さんは大学時代に日本代表候補にも選ばれるほどの注目選手でした。

大学では1年の時には試合に出場しましたが、2、3年の時にはケガでシーズンを棒に振ってしまいました。4年になって、ようやくまた試合に出られるようになったのですが、そしたらその年に初めて日本代表候補の合宿に呼ばれたんです。合宿は菅平高原(長野県)で行われたのですが、予想以上の厳しさに驚きました。「ここまでいじめなくてもいいんじゃないの?」と思うくらいに厳しかったですね。でも、それになんとか耐えまして、そしたら翌年春のニュージーランド遠征のメンバーに選ばれました。

―― それ以降、日本代表ではキャップ(出場回数)27と活躍されました。

ニュージーランド遠征の前に、外国人クラブ「横浜YCAC(Yokohama Country&Athletic Club)」との壮行試合がありまして、私たち若手メンバーが出て大差で勝ったんです。ところが試合後、キャプテンに呼ばれまして、「今日の試合は何だ?大事なニュージーランド遠征を控えているというのに。嫌ならやめろ!」と叱られたんです。おそらくチームを引き締めようと考えてのことだったと思うのですが、若かった私は「そんなこと言われるなら、やめよう」と。というのも、私がイメージしていた日本代表とは違うなと思ったんです。「チーム一丸となって戦う」というのが私が抱いていた日本代表の姿でした。ところがキャプテンからそんなことを言われて「こんな高圧的なのが日本代表というのならやめよう」と。それでその試合後に少しオフがあって福岡の実家に帰省した際、両親に「オレ、代表を辞退しようと思う」と打ち明けました。そしたら母親からは「まだ一度も遠征に行ってもいないのに、もったいない!」と。実家には日本ラグビーフットボール協会から桜のジャージと「代表に選出されました」という手紙が届いていましたから、大喜びしていたところに、いきなり私が「やめる」なんて言い出すものですから、驚いたんでしょうね。必死で止められまして、「あぁ、やっぱり親としては嬉しいんだなぁ」と。それで続けることにしたんです。

日本代表キャップは27を数える

日本代表キャップは27を数える

―― 「いつか自分たちが中心選手になったら」という思いはありましたか。

そうですね。同世代に同郷の植山信幸がいまして、彼は私よりも1年早く日本代表に入ってイングランド遠征も経験していました。そんな彼にいろいろと聞いたり、2人で「オレたちの時代になったら改革していこう」というようなことはよく話していましたね。

コミュニケーションと練習で築いた釜石の黄金時代

―― 一方、大学卒業後は新日鐵釜石に入られましたが、九州出身の森さんが東北の企業を選ばれたのは意外でした。どのような経緯があったのでしょうか。

選手・監督として新日鐵釜石の7連覇に貢献

選手・監督として新日鐵釜石の7連覇に貢献

私が大学3年の時に声をかけてもらったのが、博報堂と新日鐵釜石だったんです。ところが、私はなぜか「博報堂」を「任天堂」と間違えていまして(笑)、「なんで自分が呼ばれたんだろうなぁ」と不思議に思っていたんです。ただ、せっかく声をかけていただいたので、そこに行こうと思っていたんですね。そうしたところ、新日鐵釜石からも話があったんです。学生時代に釜石には合宿で行っていまして、新日鐵釜石のチームとも交流があったんです。試合が終われば、選手同士で楽しそうに和気あいあいとしているチームの雰囲気がすごく良くて、自分が理想とするものと合致しているイメージがありました。それで「新日鐵釜石に行ってラグビーをしたい」と。それで博報堂さんには丁寧にお断りをして、釜石に行くことに決めました。もし釜石に行っていなかったら、おそらく私がこうやってラグビーに長らく携わることもなかったと思いますので、今思えば人生の転機だったと思います。

―― 新日鐵釜石時代に、勝って一番嬉しかった試合はどの試合でしょうか。

入社3年目の1976年、日本選手権で早大を破って初めて日本一になった試合ですね。というのも、大学4年の最後の早明戦で、早大に負けていたんです。そしたらその早大を倒す機会に恵まれたので、「絶対に勝ちたい」という思いで臨んだ試合でした。その年、同じ明大からは日本を代表するスタンドオフ(パス、キック、ランでゲームをコントロールしゲームで司令塔の役割を担うポジション)として活躍した松尾雄治が新日鐵釜石に入社してきたんです。キック力のある松尾が加わったことで、フォワードを前に行かせるという戦術ができたことが大きかったと思います。それでチャンスが生まれて、私が"いいとこ取り"をすると(笑)。翌1977年の日本選手権では決勝の前に敗れてしまいましたが、1978年から新日鐵釜石は7連覇しました。よく「1977年も勝っていれば8連覇だったのに惜しい」と言われますが、私はあの負けがあったからこその7連覇だったと思います。

新日鐵釜石時代のプレー

新日鐵釜石時代のプレー

―― まさに新日鐵釜石の黄金時代でしたね。

チームを統率する力のある松尾が入ったことによって、試合でイメージ通りのラグビーができていました。それともう一つは、それだけの練習をしていました。勤務を終えてからですから、それほど長時間ではありませんでしたが、集中して練習に取り組んでいました。これは松尾からの提案だったのですが、ボールを持たずに走ることに重点を置くメニューをこなしたりして、チーム全員で必死に練習したことが強さを引き出していたのだと思います。当時の釜石は、よく秋の国民体育大会で負けていたのですが、かえってそれで日本選手権に向けてチームが引き締まったというところもあったかなと思います。

―― チーム内は仲が良かったんでしょうね。

コミュニケーションがとれるチームでしたね。チームには東北出身者も多くて、ふだんは言葉数が少ない選手もいました。そういう選手とコミュニケーションをとるのに一番効果的だったのは、やっぱりお酒の席。「一緒にお酒を酌み交わさないと、本音がわからない」なんて言いますが、本当にその通りだと思いますね。ふだんはこちらが「何か言いたいことないか?」と聞いても「別に……」なんて言っていても、お酒の席では言いたいことだらけ、なんてことはよくありました(笑)。

新日鐵釜石監督としてスタンドで戦況を見つめる(左)

新日鐵釜石監督としてスタンドで戦況を見つめる(左)

―― 入社7年目には、新日鐵釜石の監督に就任しました。

前年に当時の部長から「来年監督をやってくれないか」と言われたのですが、「釜石のラグビーに監督は特に必要ないですよ」と断ったんです。でも、部長が「いやぁ、監督不在というのはやっぱりまずい。形式的に監督は必要だから」と。それで「形だけということならいいですよ」とお引き受けしました。ただ30歳でしたから、選手としては「今年で最後だな」と思っていましたので、「もしかしたら1年しかできないかもしれないです」とは言いました。

新日鐵釜石監督時代、試合後インタビューに応える

新日鐵釜石監督時代、試合後インタビューに応える

―― 30歳で現役引退というのは早い気がしますが。

今なら専門のトレーナーについてトレーニングをしながら選手寿命は延ばせるかもしれませんが、当時は30歳で引退というのはごく普通でした。プレーもそうですが、何より気力が失われていくんですね。それこそ相手をやっつけて勝ちたいという気持ちにならなくなっていました。特にラグビーというのは格闘技的要素が強いスポーツですから、そういう気持ちがないとやれないんです。

―― いざユニフォームを脱ぐとなると、寂しくはなかったですか。

寂しいとか、残念とかという気持ちよりも、ほっとしたという方が大きかったですね。「もうあんなきついことをしなくていいんだ」と解き放たれるような感じがしました。もうやり残したことはないと。

ラグビー文化の本場NZ遠征の意義

森重隆氏(インタビュー風景)

森重隆氏(インタビュー風景)

―― 現役引退後は、福岡に戻って家業を継がれました。

実家は大正15年からのガラス屋だったのですが、私は一人っ子でしたので、引退する前から「帰ってこい」と言われていたんです。

―― 1993年には、母校の福岡高校の監督に就任されて、2010年には全国大会に導きました。

私は現役を引退して、実家に戻ってきてからというもの、ゴルフにすっかりはまってしまいまして(笑)、仕事をしながらもゴルフを楽しむというような生活を謳歌していました。そしたら突然、福岡高校のOBから連絡があって「オマエの原点は福高にあるんだから、監督をしろ」と。実はその少し前に、知人の方から「自分の息子は福高のラグビー部に憧れて入ったけれど、今の監督の指導はおかしい。森さん、監督をやってくれませんか」というようなお話があったんです。気になっていろいろと調べたところ、確かにあまりいい指導とは言えなかったんです。
それで最初はコーチとして入ったのですが、指導していくうちに「この選手たちをなんとかして勝たせてあげたい」という熱い気持ちがこみ上げてきて、すっかりはまってしまい、気づけば22年間指導に明け暮れました。自分でもこんなに長く指導者を続けるとは思っていませんでしたが、周りに支えていただいたからだったと感謝しています。

―― 何がそれほどの熱を生み出したのでしょうか。

高校生が練習するのを見て、自分が高校生だった頃を思い出したんです。私があれほど感動した全国大会の舞台、花園ラグビー場に選手たちを連れて行きたいと思いました。

福岡高校ニュージーランド遠征

福岡高校ニュージーランド遠征

―― ニュージーランド遠征にも連れて行かれましたよね。当時、高校生が海外に遠征に行くというのは珍しかったと思います。

どうしても全国大会に連れて行きたいと思い、意識や経験値を高めるためにも「よし、ニュージーランドに行こう」と思い立ったんです。もちろん経費がかかりますから、すぐに行けるわけではありませんでした。それで学校側に「ニュージーランドに連れて行きたいと思っているので、次に入ってくる1年生の保護者会で『2年後の3年生の時にはニュージーランドに行きます』ということをお話してください」とお願いをしました。実際、2年後に実現しまして、それ以降は3年に1回ニュージーランドに行くようになりました。

―― なぜ、ニュージーランドを選ばれたのでしょうか。

初めて日本代表の遠征でニュージーランドに行った時に、「あぁ、この国には勝てないな」と思いました。というのは、町の至るところに競技場があって、どれも日本のように土ではなく芝生が敷き詰められていたんです。そこに休日になると、大勢の子どもたちがラグビーをしにやってきていました。さらに普通の靴屋にはスパイクが売られていて、洋品店にはジャージが売られている。私は大きなショックを受けて「こんなにラグビーが生活に根付いた国に勝つなんてことは無理だ」と思いました。ただ、それを日本の若い選手たちに早くに見せなければ日本のラグビーは変わっていかないとも思ったんです。

福岡高校ニュージーランド遠征、現地での試合風景

福岡高校ニュージーランド遠征、現地での試合風景

―― 福岡高校ラグビー部では何回ニュージーランド遠征に行かれたのでしょうか。

3回行きました。でも、2011年にクライストチャーチで大地震が起きて、それで中止となったんです。最初は代替案としてクライストチャーチから大きく北に離れたオークランドではどうか、という話もあったのですが、学校側からの許可が下りませんでした。それを節目に、ニュージーランド遠征はなくなってしまいました。私としては、高校時代にニュージーランドのラグビー文化を経験した選手が、一人でも学校の先生や指導者になった時に彼らが経験したことを子どもたちに話したりしていけば、きっと引き継がれていくものもあり、日本のラグビー界が変わっていくことにもなるのではないかという狙いもあったので、今でももったいなかったなと思っています。

指導の根底にあるべきは選手への愛情や優しさ

―― さて、現在は選手への暴力や暴言、あるいはトレーニングの過酷さなど、高校や大学の指導者に対する問題が世間に取り沙汰されることも少なくありません。高校生の指導を経験された森さんとしては、どのように感じられていますか。

指導者を経験した者としては、今は、「指導しにくい」時代になってきたというのが正直な感想です。もちろん昔のやり方に問題がなかったということではないですが、なんでもかんでも「指導者が悪い」となると、どうしても指導者が萎縮してしまいますよね。例えば、ある高校のラグビー部では練習前にタックルバックを用意するのも指導者がやっていたりするんです。それはちょっと違うなと思いましたね。選手たちが練習するための用具なわけですから、それは選手自身が用意すべきです。それこそ大事な教育です。ところが、世間や保護者の目を気にして、指導者が選手に遠慮してしまっていて、「やってあげる」ことの方が多い気がします。ものわかりのよすぎる指導者ばかりというのも、私は違うなと思います。その原因をつくっているのは、ひとつはメディア。報道が偏り過ぎていると感じることが多いですね。

福岡高校監督として指導に当たる

福岡高校監督として指導に当たる

―― 森さんの指導は熱血で知られていますが、そこには選手への愛情がありましたよね。もちろん愛情さえあれば何をしてもいいというわけではありませんが、森さんの「選手たちのために」という気持ちは選手たちにもしっかりと伝わっていたと思います。

そう言っていただけるとありがたいですね。おそらく今ならパワハラで訴えられるようなこともたくさんしてきましたが、とにかく私が全力でぶつかっていったからこそ、選手たちも全力で応えようとしてくれたのだと思います。私が選手時代もそうでした。大学の練習では走って走ってへとへとになりましたが、北島先生の「走れー!」という声には私たち選手への愛情が感じられていました。決していじめで走らされているわけではないと。ところが、指導者の中にはただ自己満足で走らせたり、あるいは罰則で走らせるというようなことをする人もいますが、それは違います。いかに選手のことを思っているかどうかが重要です。また、悪いことは悪いと教えることも大事なことだと思うんですね。例えば、緩慢なプレーに対して「こらー、何だ今のプレーは!」と怒鳴ると、それに対して選手が「チッ」と舌打ちをすることもあったんです。それに対して「なんだ、年上に向かってチッとは!」と真剣に叱っていました。きちんと礼儀を教えることは、その選手の将来を考えればとても大事なことだと私は思います。根底に選手への愛情や優しさが、指導者には必要です。

―― 保護者から学校側にクレームがついて、問題化するということも、今の時代の特徴かなと思いますが、森さんは保護者との関係はどうされていたのでしょうか。

私が高校生の頃は、「うちの子どもを学校に預ける」という考えでしたので、保護者から何か言われるということは皆無に等しかったのですが、今は保護者の存在を無視することはできないところがありますよね。でも、だからこそ選手とはもちろん保護者とのコミュニケーションを大切にすべきだと思います。「辛い先にこそ、楽しさや充実感がある」というスポーツの根本的な意義を保護者にも理解していただくと、また違うのではないでしょうか。

森重隆氏(インタビュー風景)

森重隆氏(インタビュー風景)

―― 森さんは「規律のないタレント集団は、規律のあるただの人間集団に負ける」と。この言葉の意味を教えてください。

私が福岡高校の監督時代に、全国有数の名門校である東福岡高校ラグビー部に出稽古に行っていたんです。たいていのラグビー部は、タックルバックなどの用具がそこら中に無造作に置いてあったりするものなのですが、東福岡高校はきれいに整理整頓されていました。それを見て「あぁ、負けたな」と思いました。ラグビーの実力があるうえに、用具にまで気持ちが行き届くなんて、本当に驚きましたし、つけ入る隙がないなと。東福岡高の強さは本物だなと思いましたね。

2019年以降の発展こそラグビーW杯の真の成功

―― さて、いよいよ来年にはアジア初の開催となるラグビーW杯が日本で行われますが、どのようなことを期待されていますか。

2015年のラグビーW杯で南アフリカを破った時も日本中が大騒ぎとなりましたが、それこそ来年のW杯で日本が初の決勝進出を果たしてベスト8入りしたら、日本中でラグビー熱が高まるでしょうね。今はチケットの売れ行きが芳しくないというようなことも言われていますが、大会自体は盛り上がると思うんです。ただ、それをどうその後につなげていくか。そのことを今から本気で考えなければいけません。2019年のラグビーW杯開催をきっかけに、その後の日本ラグビー界の発展こそが、本当の意味での大会の成功だと思います。

2015年、ワールドカップイングランド大会南アフリカ戦

2015年、ワールドカップイングランド大会南アフリカ戦

―― 2019年以降、日本のラグビー界はどのように変わっていくことが必要でしょうか。

サッカーのように、高校の時からプロ入りするような仕組みを作らなければ、世界には追いつかないと思いますね。すぐには実現しないと思いますが、ゆくゆくはそうなっていかないといけません。他競技を見てもそうだと思います。その点、日本スポーツ界で最も遅れているのはラグビーじゃないかなと。

―― また翌2020年には東京オリンピック・パラリンピック、そして2021年には関西ワールドマスターズゲームズもあります。こうしたスポーツの国際大会が立て続けに日本で開催されることで、日本のスポーツ界を取り巻く環境はどのように変化していくでしょうか。

元来スポーツというのは、楽しいものだと思うんですね。もちろん、楽しさだけを追求すればいいというものではありませんが、やはり根底には楽しさがなくてはならないものだと思います。特に今年は1年間、スポーツ界の問題が大きく取り沙汰され、スポーツへのイメージが低下しています。そうした中で、スポーツの国際大会が3年連続で日本で開催されるというのは、本来のスポーツの楽しさに触れる大きなチャンスとなるのではないかと期待しています。

ラグビー・森 重隆氏の歴史

  • 森 重隆氏略歴
  • 世相

1871
明治4
イングランドでラグビーフットボール協会(ラグビー・フットボール・ユニオン)が創設
初の国際試合がイングランドとスコットランドの間で行われる
1883
明治16
初の国際大会であるホーム・ネイションズ・チャンピオンシップ(現・シックス・ネイションズ)が開催
1886
明治19
国際統括団体である国際ラグビーフットボール評議会(現・ワールドラグビー)創設
1899
明治32
慶應義塾大学の教授でケンブリッジ大学のラグビー選手でもあったクラーク氏と、
同大学の選手でもあった田中銀之助が日本で初めてラグビーの指導を開始
1900
明治33
ラグビーが夏季オリンピック・パラリンピックに採用される (1924年のパラリンピック・オリンピックで終了)
1911
明治44
同志社大学でラグビー部が創部される
1918
大正7
早稲田大学でラグビー部が創部される
1919
大正8
第1回日本フットボール大会(現・全国高等学校大会)開催
1921
大正10
京都帝国大学、東京帝国大学(現・京都大学、東京大学)でラグビー部が創部される
1924
大正13
関東ラグビー蹴球協会(現・関東ラグビーフットボール協会)創設
1926
昭和元
西部ラグビー蹴球協会(現・関西ラグビーフットボール協会)創設
日本ラグビーフットボール協会が、関東ラグビーフットボール協会と、関西ラグビーフットボール協会の統一機関として創設
1928
昭和3
高木喜寛氏、日本ラグビーフットボール協会の初代会長に就任
第1回東西対抗ラグビー、甲子園球場にて開催
1929
昭和4
近鉄花園ラグビー場が完成
全日本学生対全日本OBの試合を、秩父宮両殿下が台覧
1930
昭和5
日本代表、カナダで初の海外遠征を行う(6勝1分)
1942
昭和17
日本ラグビーフットボール協会、大日本体育大会蹴球部会に位置づけられる

  • 1945第二次世界大戦が終戦
1947
昭和22
秩父宮殿下、日本ラグビーフットボール協会総裁に就任
九州ラグビー協会(現・九州ラグビーフットボール協会)創設
東京ラグビー場(現・秩父宮ラグビー場)が竣成

  • 1947日本国憲法が施行
1949
昭和24
第1回全国実業団ラグビー大会開催
1950
昭和25
第1回新生大学大会開催
「全国大学大会」の名称となる

  • 1950朝鮮戦争が勃発
  • 1951安全保障条約を締結
  • 1951森 重隆氏、福岡県に生まれる
1952
昭和27
全国実業団ラグビー大会、第5回から全国社会人ラグビー大会に改称
1953
昭和28
田辺九萬三氏、日本ラグビーフットボール協会の2代目会長に就任
東京ラグビー場を秩父宮ラグビー場に改称

  • 1955日本の高度経済成長の開始
1956
昭和31
香山蕃氏、日本ラグビーフットボール協会の3代目会長に就任
1961
昭和36
第1回NHK杯ラグビー試合(現・日本選手権)開始
1962
昭和37
秩父宮ラグビー場、国立競技場に移譲
1963
昭和38
日本代表、戦後初の海外遠征(カナダ)

1964
昭和39
第1回日本選手権試合開催

  • 1964東海道新幹線が開業
1965
昭和40
第1回全国大学選手権大会開催

1968
昭和43
湯川正夫氏、日本ラグビーフットボール協会の4代目会長に就任

1969
昭和44
第1回アジアラグビー大会開催
日本は全勝で優勝

  • 1969森 重隆氏、明治大学に入学。
     福岡高校在学時よりラグビーをはじめ、明治大学でもラグビー部に所属
  • 1969アポロ11号が人類初の月面有人着陸
1970
昭和45
横山通夫氏、日本ラグビーフットボール協会の5代目会長に就任

1971
昭和46
第1次・高校日本代表のカナダ遠征

1972
昭和47
椎名時四郎氏、日本ラグビーフットボール協会の6代目会長に就任

1973
昭和48
全国高校選抜東西対抗試合開始

  • 1973オイルショックが始まる
  • 1974森 重隆氏、新日鐵釜石に入社。
     新日鐵釜石ラグビー部(現・釜石シーウェイブス)に所属。1978年~1984年までの日本選手権連覇に貢献する
     森 重隆氏、日本代表に選抜される。日本代表キャップは27
  • 1976ロッキード事件が表面化
  • 1978日中平和友好条約を調印
1979
昭和54
阿部譲氏、日本ラグビーフットボール協会の7代目会長に就任

1982
昭和57
代表キャップ制度を発足

  • 1982東北、上越新幹線が開業
1987
昭和63
第1回ワールドカップが開催(オーストラリア・ニュージーランドの共同開催) 以後、第7回大会まで日本代表チームは連続出場を果たす

1990
平成2
磯田一郎氏、日本ラグビーフットボール協会の8代目会長に就任

  • 1991森 重隆氏、実家である森硝子店の代表取締役社長に就任
1992
平成4
川越藤一郎氏、日本ラグビーフットボール協会の9代目会長に就任
1993
平成5
第1回ジャパンセブンズ開催
1995
平成7
金野滋氏、日本ラグビーフットボール協会の10代目会長に就任

  • 1995森 重隆氏、福岡高校ラグビー部監督に就任
  • 1995阪神・淡路大震災が発生
  • 1997香港が中国に返還される
2000
平成12
IRBワールドセブンズシリーズ日本大会開催

2001
平成13
町井徹郎氏、日本ラグビーフットボール協会の11代目会長に就任

2002
平成14
女子ラグビーが日本ラグビーフットボール協会に加入
女子ラグビーは、第4回女子ワールドカップに初参加
2003
平成15
ジャパンラグビー トップリーグが社会人12チームで開幕

2005
平成17
森喜朗氏、日本ラグビーフットボール協会の12代目会長に就任
2006
平成18
ジャパンラグビートップリーグチーム数は12チームから14チームへ増加

  • 2008リーマンショックが起こる
2009
平成21
U20世界ラグビー選手権(IRBジュニアワールドチャンピオンシップ2009)開催
2019年ラグビーワールドカップが日本で開催決定
2010
平成22
2019年ラグビーワールドカップ日本開催組織委員会の設立準備を開始

  • 2010森 重隆氏、福岡高校ラグビー部監督として全国大会出場を果たす
  • 2011東日本大震災が発生
2013
平成25
日本ラグビーフットボール協会が公益財団法人へ移行

2015
平成27
岡村正氏、日本ラグビーフットボール協会の13代目会長に就任

  • 2015森 重隆氏、九州ラグビーフットボール協会会長に就任
  • 2015森 重隆氏、日本ラグビーフットボール協会副会長に就任
2016
平成28
リオデジャネイロオリンピック・パラリンピック開催
7人制ラグビーが正式種目として実施